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僕の背丈より高い作物を揺らして、風が通っていく。
僕は自分が今どこにいるのかも分からない。
どっちに行ったら畑を抜けられるのかも、分からない。
ただ、どっちをむいても、ひたすらに、作物の波が続いていて。
そうして、辺りはもうすぐ、夕闇に沈もうとしていた。
お日様が沈むと、すぐに方角が分からなくなった。
月、は見えない。
星、はあるけど、どれがどれか、分からない。
荒れ野なら、方角が分からなくなって、きっと道に迷うだろうって、自信あったけど。
まさか、畑でもとは、思ってなかった。
木や草の声を聞けたころには、こんな場所で迷うなんて、あり得なかった。
周りに聞けばなんでも教えてもらえたから。
だけど、今は、彼らの声はまったく聞こえないし、話しかけることすらできない。
大声で呼んでみようか?
いや、けどまだ、畑で働いている人たちがいるかも。
日没からまだそれほど時間も経っていない、気もする。
辺りはもう暗いけど、今日の残りの仕事をやっつけてしまおう、と残ってる人もいるかもしれない。
見つかったら、ヤバい…のか?
いや、僕、何も悪いことはしてないんだけど。
でも、おっちゃんだって、悪いことは、してなかったよね?
いや、してなかった、のか?
よく、分からない。
でも、今は、町の人には見つからないほうがいい、ような気がする。
困った。
畑の中でしゃがみこむ。
ますます、辺りの作物に埋まってしまう。
風は、僕の頭のはるかに上を、すいすいと渡っていった。
…風に、乗れたら。
ふと思った。
そういう秘術を使える森の民もいる、って、聞いたことはあるけど。
森の民の秘術と言うけど、そういうの使う人って、族長か、あとはすっごくそういうのが得意な人だけ。
みんながみんな使うわけじゃない。
というか、使う人のほうが滅多にいない。
うちの郷の族長は、お祭りのときの祝福くらいしかやらなかったし、他に秘術を使う人もいなかった。
だから、僕らはあんまり秘術には詳しくない。
ルクスやアルテミシアが紋章を使って秘術を使ってるとか、もしも郷のみんなに知られたら、ものすんごく驚かれるだろう。
秘術って、なんだかいろいろと手順も面倒そうだ。
精進とか、潔斎とか、族長も言ってたし。
ルクスたちだって、紋章を描くとか、エエルの石が要るとか、やっぱり、秘術ってかなり厄介な感じ。
そんなの使わなくったって、普段の暮らしにはそんなに困らないから。
やっぱり僕は秘術とかいいや、って思っちゃう。
だけど、今は、今だけは、秘術が使えたらよかったのになあ、って思った。
いやでも僕、動く物に乗る、とか苦手だし。
じっとしてる木にだって、高いところに上るのは怖くて。
いっつも、ルクスとかアルテミシアとかに、背中、支えてもらってた。
そんな僕に、風に乗る、とか、所詮、無理むりムリ…
あ。でも、滝の水には、乗ったっけ。
あのときは、半分以上、無理やり、滝に乗せられたんだけど。
……怖くは、なかった、なあ……
けど、ここには、あの滝はいないし。
僕はぼんやりと上を見上げた。
いや、これ、本気でヤバいんじゃないの?
…どうしよう。
焦って、いきなり、闇雲に歩いてみた。
いや、これ、実は一番まずい対処法だ、って自分でも思いつつ。
そして、それは、やっぱり一番まずい対処法だった。
もう一歩。あと一歩。あそこの茂みを抜けたら、道に出るんじゃないか?
そんなことを思いつつ、ただひたすらに歩き回る。
けれど、行けども行けども、僕は作物の迷路に、はまったっきり。
ここから脱け出す方法も分からない。
自分が真っ直ぐ進んでいるのかすら、分からない。
畑と畑の間には、細い通路もあるはずなんだけど。
前にピサンリの忘れ物を届けに、昼間に来たときには、こんなに迷わなかったって思うのに。
今はその通路にさえ行きつけなかった。
まるで、まったく、別の世界に、来てしまったみたいだ。
そんなことをしているうちに、辺りはすっかり暗くなってしまった。
灯りなんて持ってない。
夜目は効く方だから、転んだりはしないけど。
どっちを見ても、いくら見渡しても、作物の波しか見えない。
ここから脱け出すなんて、ムリだ。
せめて体力を温存するために、もうこれは動かないほうがいいんじゃないか?
だけど、もし、町の人に見つかったら…
牢屋に入れられて、処刑、される?
僕は悪い事はしてないけど。
平原の民の言葉も話せないのに、それを説明することもできない。
まさか、こんなことになるとは、思ってなかった。
おっちゃんと一緒にいれば大丈夫だ、って思ってたし。
はぐれるなんて、思ってなかったんだ。
ブブもどこかへ行ってしまった。
僕はぽつんとひとりぼっちだった。
疲れて、畑のなかに座り込んだ。
笛、吹いてもいいかな?
もう夜だし、誰もいないんじゃないかな。
だけど、自信がない。
見つかったら怖い、という気持ちが重すぎて、身動きできない。
ずっとブブが一緒にいてくれて、すごく心強かったんだって思った。
もしここにブブがいてくれたら、きっとここまで心細くはなかっただろうに。
そのまましばらく、ひとりに耐えていた。
月は見えないけど、星は少し動いたみたいだ。
もう笛を吹いても大丈夫かな。
とてつもなく、笛を吹きたい。
その欲求が、少しずつ少しずつ、恐怖を上回っていく。
あんまり待ち過ぎて、いっそ夜明け前になったら、むしろ早起きの人たちがやってくるんじゃ…?
そんなことも考えたりして。
とうとう、僕は、静かに笛を吹き始めた。
ブブの好きなヌシ様の笛。
だけど、歌は静かな歌にしておく。
流石に、陽気に吹き鳴らせるような気分じゃなかったし。
笛の音を聞いていると、不思議に気持ちも落ち着いてくる気がした。
風の音が聞こえる。
風にそよぐ作物の音が聞こえる。
周りの音に耳をすませて、笛を吹いていると、少しずつ少しずつ、自分と世界との境界線が薄れていく。
やがて、自分は世界に同化する。
前にも、こんなことあったっけ。
ああ、そうだ。白枯虫の大群を見たときだ。
あの景色はとても綺麗だった。
とても綺麗だけど、なんだかむしょうに悲しくもあった。
そんなことを考えていたからだろうか。
ふいに、目の前に、ぽつん、とひとつ、白い光が灯っているのに気づいた。
それは唐突に現れた小さな光だった。