ささやく闇のアパート
秋の夜、街外れの古びたアパートに一人の男が引っ越してきた。名前は山田翔、30代半ばの独身男性。仕事の都合で急遽この場所に移り住むことになったが、特に何の期待も不安も抱いていなかった。ただ、アパートの家賃が驚くほど安かったことだけが気になったが、それ以上深く考えることはなかった。
引っ越し当日、古びたアパートの外観に不安を覚えつつも、翔は荷物を運び入れ、生活を始めた。初日は特に何事もなく過ぎ、彼は新しい環境にすぐに慣れるだろうと思った。しかし、その平穏は長くは続かなかった。
深夜、ベッドに横たわり眠りにつこうとした時、微かに耳元で囁き声が聞こえてきた。それは言葉にはならない、不明瞭で不気味な音だった。翔はそれを気のせいだと片付けようとしたが、その夜から毎晩のように同じ囁き声が聞こえるようになった。
翌日、職場で同僚にその話をすると、冗談半分に「それ、幽霊の仕業かもな」と笑われた。しかし、彼の表情があまりにも真剣だったため、同僚たちも次第に不安そうな顔を見せ始めた。「お祓いでもしたほうがいいんじゃないか?」という提案もあったが、翔はただの疲れだと思い、取り合わなかった。
その夜もまた、囁き声が耳元で響く。しかも、以前よりも明瞭になっていた。声は単なる音ではなく、何かを伝えようとしているようだった。「帰れ…」「出て行け…」といった断片的な言葉が混じっている。翔は不気味さを感じつつも、アパートの古さによるものだと自分に言い聞かせた。
しかし、数日後から囁き声だけでは済まなくなった。夜中に部屋のどこかで物音がするようになり、明らかに何者かが歩き回っている気配がした。最初は風のせいだと思ったが、部屋のドアや窓はすべて閉まっており、風が入るはずがない。翔は恐怖を抑えきれず、懐中電灯を手に部屋の中を調べた。しかし、何も見つからない。
不安が募る中、翔はついに隣人に話をすることにした。隣の部屋に住む老人は、翔の話を聞いて静かに頷き、「あの部屋は…いわく付きだからな」と呟いた。その言葉に驚いた翔が詳しく尋ねると、老人は話し始めた。
「その部屋では昔、ある一家が住んでいた。だが、父親が突然錯乱し、家族全員を惨殺したんだ。その後、父親も自殺した。以来、あの部屋に住む者は皆、奇妙な現象に悩まされると言う。」
翔は全身が震え上がった。しかし、すぐに引っ越す金銭的余裕はなく、仕方なくそのまま住み続けることを選んだ。だが、現象は日に日にエスカレートしていった。
ある夜、翔がふと目を覚ますと、部屋の片隅に人影が見えた。それは黒い霧のようなものが人の形を取っているようで、翔の方をじっと見つめていた。動けない翔の耳元で、再び囁き声が響いた。「お前もここに…」
その瞬間、翔の体が急に冷たくなり、動かなくなった。まるでその影が彼を支配しているかのようだった。翔は必死に抵抗しようとしたが、全身が凍りついたように動かない。
翌朝、翔はベッドの上で目を覚ました。しかし、昨夜の出来事がただの悪夢ではないことを確信していた。彼の腕には爪で引っ掻かれたような痕が残っており、部屋の中には異様な冷気が漂っていた。
これ以上ここに住むのは危険だと悟った翔は、引っ越しを決意した。しかし、引っ越し準備を進める中で、奇妙な現象はさらに激化した。家具が勝手に動き、鏡に映る自分の姿がまったく別人に見える。夜中に窓の外を見ると、誰もいないはずの道路に立ち尽くす黒い影が、翔の部屋を見上げているのが見えた。
引っ越し当日、最後の荷物を運び出そうとした瞬間、玄関のドアが突然閉まり、開かなくなった。翔は必死にドアを叩き、叫び声を上げたが、誰も助けに来ることはなかった。その時、部屋の奥から再びあの黒い影が現れ、ゆっくりと翔に近づいてきた。
「ここから逃げられると思ったか…」
その声を最後に、翔は意識を失った。
数日後、アパートの管理人が翔の部屋を訪れると、そこには誰もいなかった。荷物もすべてなくなり、部屋はまるで最初から誰も住んでいなかったかのように綺麗なままだった。ただ一つ、壁に赤い文字で「次はお前だ」と書かれていた。
管理人はその場を後にし、二度とその部屋に足を踏み入れることはなかった。翔の行方は誰にも分からず、彼の存在も次第に忘れ去られていった。しかし、そのアパートでは今もなお、夜になると囁き声が聞こえるという噂が絶えない。
ある日、新しい住人がその部屋に引っ越してきた。そしてその夜、再び耳元で囁く声が響いた。
「ここはお前の家ではない…」