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相反するという話

作者:

 暑い日中の部活を終えて、ミツルは寄り道をしていた。


 琥珀色の空をした夕暮れは、もう数時間のうちに闇を連れてくるだろう。

 琥珀の空を写す河は空と同じ色に染まり、時間の流れを感じさせない緩やかな水流は、静かに、眠るようにその身をくねらせてながれていた。


 夕暮れといってもまだ暑く、日が直接当たる場所ではおちおち休んででもいられない。


 河川敷を滑り降りた橋の下には柳が一本生えている。


 風にそよぐこの柳は寂しそうに体を揺らし、誰か話し相手になってくれと言わんばかりに置かれた岩は、人一人が腰かけるのにちょうどよかった。


 昼と夜の境目が不安定なこの時間。俗に『黄昏』と言われるように、一人じっとしていると自分が誰だか分からなくなる錯覚に陥ってしまう。

 これぞまさに『黄昏』ならぬ誰そ彼──『誰ぞ彼』

 何が正しくて何が悪いのか、もう分からない。全てが曖昧になる夕暮れを、空っぽの頭で虚ろに眺めていた。


「もし…? 」


 急な呼び掛けにハッとする。

 座っていた岩からずり落ちそうになったミツルはどうにか立て直すと、声のした方を振り替える。


 さらりと肩へ流れる黒髪は美しく、薄紫の瞳はずっと見ていると飲み込まれそうな怪しさを見せていた。

 整った顔立ちとスラリとした体はどこかのモデルのようで、病気のように肌は白い。

 うっすらと差された紅の化粧は、黒い髪と白い肌に見事に合わさりいっそうの美しさを魅せる。


 ボウとした佇まいと、ガラスのような儚さを伴う美しさは生き物とは思えなかった。


「あの…大丈夫、ですか?」


 それが自分に言われている言葉と認識するのに時間がかかり、慌てて首をたてに振る。


「ここに人がいるのが珍しいので、つい声をかけてしまいました。急にごめんなさい」


 ペコリと彼女は頭を下げる。


 橋の下に柳は不気味だし、ましてや何も話さない男一人だけいるなんて怪しさの極みだ。

 そんなそんなところにいる相手によく話しかけられたなと思う。


「それは…あなたが思い詰めた顔をしていましてから」


 改めて自分の顔を手で触る。俺はそんな顔をしてたんだろうか?


「…ここにはよく来るんです。良くないことがあると必ず」


 へぇ、こんなに綺麗なお姉さんでも困り事とかあるんだなぁ。なんて他人事のように考える。


「そりゃありますよ! このご時世、良くないことなんて日常茶飯事です。それこそ呼吸一つする間に溢れるぐらいに起きてますよ!」


 優しい微笑みは冷たい心に温かく染み渡り、ドクン、と心臓が脈を打った気がした。


「私の事は良いんです! そんな事より私はあなたの事が知りたいですね」


 カランコロンと下駄を鳴らして歩く彼女は、草色の帯と紅の帯紐。麻着物の和服を身に纏っている。

 周囲の景色と浮いている彼女を、僕は夢でも見ているんじゃないだろうかと思ってしまった。


「こんな時間にこんな場所にいるのにはなにか訳があるんじゃないですか?その服装からみて、部活帰りだと予想しますが…?」


 部活帰りであるミツルは青のジャージを着ており、女性の言葉に我に返って思わず袖で手を隠した。

 暑い日の部活帰りという事もあってか汗に湿っており、ぺったりと肌に張り付いてくるのが気持ち悪い。


「こんなところで大人しくしていると風邪をひいてしまいますよ。寒くなる前に早く帰ることをお勧めしますね?」


 屈託のない笑顔を浮かべる女性は、名も告げぬままにそう語りかけてくる。


 まだ学生の身の内であれば物心というモノが存在しているわけで、大人になり切れていない子供にとっての意思決定は、殆ど全てが物心によって決められる。

 損益で物事を決められる大人と違って、そこに善悪はありはしない。


 相手を思っての言葉だろうが、ミツルにとって、少なくとも今のミツルにとっては煩わしさの何ものでもなかった。

 プイと顔を背けたミツルの行動も、当然ながら物心によって決められた。


「あっちゃ~。初対面は笑顔で向かえば大丈夫だと思ったんですが…」


 そんなミツルの反応に困った顔を浮かべた女性は、ポリポリと頭を掻きながら岩の傍へと腰を下ろした。


 何だこいつは。ここまで無視してるんだから居なくなるのが普通だろ?


「時は夕暮れ──」


 橋の下、濃い影の向こうに見える山間に沈む夕日を眺める女性は、誰に話しかけるつもりなのかそんな事を呟きだした。


「人が生きる陽の下と、成らざる者の陰の上。世界を分かつ黒と白、右と左の概念と隣り合う上と下。他者を許さぬ強と弱──」


 いきなり何の話だ? 勧誘なら他所でやってくれないだろうか。


 そんな事を思いつつも、目の前を流れる川を眺めるミツルはその場を動こうとはしなかった。ラジオみたいに聞き流すにはちょうど良かったから。


「『相反する』という話です。本来ならば交わることの無いモノが重なり合って、本質を隠してしまう。本当に知りたいこと、聞きたいこと、言いたいことが隠れて消えてしまう。これはそんな例え話です。あなたにも心当たりがあるのではないでしょうか?」


 不意にこちらを向く女性の顔を見て凍り付く。

 最初に見せた優し気な笑顔の面影は感じられず、そこには寒気を伴う能面のような無表情に口元だけが笑っていた。


 およそ人ならざるその顔に、体が固まってしまって動かない。


「私は誰の味方でもありません。あなたに何があったか、何故こんな事をしてしまったのかも知りません。ですので、私はあなたを怒る資格も、責めるつもりもこれっぽちもありません。先に言っておきます」


 立ちあがった女性は腰についた汚れを払うと、くるりと振り返ってミツルの方へと向き直る。


「こんなところで一人は辛いでしょう、寂しいでしょう。それはあなたが一番よく知っていると思います。暗い影に落ちてはもう戻れません。そうなる前に早く家に帰ることをお勧めします」


 夕日を背中に向かい合う女性の顔は影に隠れてしまってその様子がうかがえない。

 最初は美しいと思った表情の奥、薄紫の瞳だけが怪しく覗いている。


 もう心臓は動かなかった。


「───家族が心配していますよ?」


 夕日は沈んで闇の帳が下り始める。

 橋の影と世界の境界が薄くなり、時間の経過と共に世界の陽が陰に覆われた。


 ──世界が黒く塗りつぶされて、人の住まう陽の世界から成らざる者の陰の世界へと姿を変える。


 そこにはもう、何もない。

 何も残っていなかった。


 岩のあった場所に手を置いて、祈るようにそっと目を瞑る。


「…川の水は冷たかったでしょう。暖かい家族の元へとお帰りよ」


 女性はゆるりと立ち上がり、歩き出す。

 影が闇へと溶けるように消えていき、一陣の風が吹く───


 そこにはもう、何も残っていなかった。



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