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ヒューマンドラマ

酒場にて、作家二人

作者: 剣月しが

 

 僕は困惑していた。


 目の前で大の大人が泣いているのだ。


 しかも、その理由がよく分からない。


「俺は怖い。とても怖いんだ……」


 僕の友人であるタロウが、テーブルの向かい側で両肘をつき、頭を抱えている。


「いや、だから。あれはキーワードの付け間違いか、『私小説』という言葉の捉え方が君と違っているだけだって」


「そんなことはない! あの作者の表現はとても素晴らしい! あの身の毛がよだつような情景描写! それに、自らの手を血で染めるまでの心の動きを精密に記した、あの心理描写!」


「まぁ、確かにリアルと言えばリアルだったけど……」


「そうだろうとも! 実際の人殺しが『私小説』を書いているに決まっている! それも殺された被害者は一人や二人ではない! 複数人だ! 俺はもう、あのWEB小説界隈でやっていく自信が無くなってしまった……」


「メソメソするなよ、全く。ほら、少し水を飲め」


 僕は一体、何をしているんだろう……。


 タロウにお冷やを押しつけながら、僕はそう思った。


 WEB小説を書くことを趣味としている彼に深酒をさせたのが悪かった。


 血みどろのスプラッター小説に「私小説」のキーワードがついていたからといって、ここまで取り乱す大人は見たことがなかった。


 ややこしい話だが、ドイツ文学において、一人称小説のことを「イッヒ・ロマン(Ich-Roman)」といい、どうやらその訳語も「私小説」と呼ぶらしかった。


 しかし――


 この様子だと、タロウには、決して()()()()は言えまい。


 今彼が「私小説」のキーワードのついた異世界転生物語が存在することを知ったら、今日の帰り道にでも、そのまま異世界へ旅立ってしまいそうである。


「なぁ、聞いてくれよ、ハルト。なぁなぁ、ちょっと聞いてくれよ、ハルト」


「聞いているから。さっきから、ちゃんと聞いているから」


「あのな。俺はな。実は、『私小説』好き好きおじさんなんだ」


 グラスに入った水を一口だけ舐めると、タロウは謎の宣言をしてきた。


「俺は『私小説』こそ純文学の極致だと思っている。圧倒的なまでのリアルの中にこそ芸術としての光が隠されているのだ」


「そうかなぁ? 僕は泉鏡花みたいな幻想的な小説もいいと思うけど……」


「ジャッ!!」


「頼むから日本語を喋ってくれ」


 物凄い勢いで飛んできたタロウの唾を、僕は丁寧におしぼりで拭った。


 かつては「私小説」一本で公募に挑戦しまくっていた彼である。


 それは邪道、とでも言いたかったのだろう。


 そんな彼は今、眉間に皺を寄せに寄せて、激しく僕を威嚇している。


 とても怖い。


 妖怪「唾液飛ばし」である。


「フィクションはダメかい?」


 妖怪変化(ようかいへんげ)を落ち着かせるように、僕が優しくそう問い掛けると――


「認めたくない、というのが正しい」


 酩酊(めいてい)しているはずのタロウが、まるで素面のときのように真剣な表情になった。


「ハルトは凄いよ」


「おい。どうした、急に」


「俺は、ハルト程インスピレーションに富んでいて文藻(ぶんそう)豊かな人物を他に見た事がない」


「待て待て。どうして僕の話になる」


「ハルトの書く文章、詩的な表現の一つ一つは本当に素晴らしいし、それこそ他の追随を決して許さないという気魄(きはく)のようなものさえ感じ取れる」


「それは買いかぶりすぎだよ」


 僕は長きに渡って多くのフィクションを世に送り続けてきたが、幾ら読者の為に作品を産み出そうとも、自らが納得できる完璧な文章など一度も書けたことが無かった。


「この前の小説だって、ベストセラーになったのも頷ける。流石は書店ランキング一位の作品だと思った」


「それは皮肉かい?」


「いいや、本音だよ」


「じゃあ、やっぱり買いかぶりすぎだよ」


 僕の名声など、趣味で書いてみた小説(まが)いの文章が良い方向に取り沙汰されただけの虚像に過ぎない。


 偶然の産物であると言ってもいい。


 何故なら、僕は、文章を書こうと思った切っ掛けすら思い出すことができないからだ。


 あの頃の僕は、活字に(まみ)れた生活をしていた。


 僕の指から生み出された活字が、再び僕の目を通して脳へと帰っていく感覚は何物にも代え難いとさえ思っていた。


 しかし、今はもう、その情熱は失われてしまった。


 情熱の無い者には「気魄(きはく)」の込められた完璧な文章なんて書けやしない。


 つまり、僕の作品は、ただ漫然と(ちりば)められたイミテーションが、(てい)よく列を成しているだけの無用の長物なのだ。


 ただ見映えが良いだけで、僕の思う「理想の作品」とは余りにも距離の懸隔があり過ぎる。


 確かに文章を書くのは、今でも楽しい。


 それでも動かす手が惰性に近い感覚なのは、日がな一日締め切りに追われる生活がそうさせたのか、あるいは読者やファンの期待に応えようとする重圧が熱を冷めさせたのか……。


 そこまで考えたところで、タロウが――


「俺はハルトと違って、ストーリーを創作するのが苦手だ」


 切なそうに枝豆の抜け殻を眺めながら、そう言った。


 そして、その後、再び泣き出しそうな顔をして僕の目を見た。


「『もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対にありえない』という言葉が、頭から離れない」


「横光利一の『純粋小説論』だね」


「ほとんどの読者は、文章の精緻や卓越した技巧など求めていない。面白いか、面白くないか、それが判断基準だ」


 僕は何も返さなかった。


 売れるか、売れないか、それが判断基準だ。


 昔、編集者に言われたことを思い出した。


「それじゃあ、文学とはなんだ!? 芸術とはなんなんだ!?」


 ついにタロウの目から涙が溢れ出した。


「共感が文学なのか!? 読者に感動して頂けたら、それは芸術なのか!?」


 僕やタロウの悩みは、恐らくすでに先人たちの通った道の、しかもその初歩の段階にすぎないのだろう。


「僕はそれには答えられないよ」


 情熱や信念を失ってしまった僕には答えられない。答える権利がない。


「それでも、僕は君の小説が好きだ」


 タロウは少し(うつむ)いた後――


「ありがとう。その言葉に幾らか救われたよ……」


 神経質なまでにきちんと折り畳まれたおしぼりで両目を押さえた。


「あぁ、まだ飲み足りないな」


「おい、泣き上戸。もうその辺にしておけ」


「今日のことを『私小説』にしたらいい作品ができそうだ」


「おい! それだけはマジで止めておけ!!」


 こんなこっぱずかしい話を作品にされてなるものかと、僕はタロウに念押しをした。


 ただ、いつものことだ。


 明日になれば、彼は今日の記憶を綺麗さっぱり忘れているだろう。


「そうそう。そう言えば、君には言っていなかったけど、君が今連載しているWEB小説、更新を追わせてもらっているよ」


 タロウの興味を空いた酒杯から遠ざけるために、僕は話題を変えることにした。


「そっ、そうなのか!?」


 案の定、タロウは食いついてきた。


 彼は目からおしぼりを離し、テーブルに前のめりになった。


「あぁ、ちゃんと最新話まで読んでいる。熟読だ」


「ほぁ~。それは嬉しいなぁ」


「ブックマークはしていないけどね」


「セイッ!!」


 多量に飛来する分泌液。


 僕は仕方なく、またおしぼりに手を伸ばした。


「しかし、ハルトは『私小説』が嫌いじゃなかったのか?」


「いいや、好きだよ。純文学は全部好きだ」


「ほぉ、ほぉ、そうだったのかぁ!」


 鼻息の荒いタロウに対して、僕は唾を吐き掛けられた仕返しをしてやることにした。


「けど、今まで君の作品を読んでいて思ったんだけど……」


「何だ? 俺の『私小説』に何か所感を持ってくれたのか?」


「うん。一つだけ」


「わぁ、嬉しいなぁ! 是非、聞かせてくれないか!」


「あぁ、いいとも。なんだか君の小説、露骨なまでに性的描写を避けているような気がしたんだが、何か理由でもあるのかい?」


「えっ?」


「まさか、君って童……」


「ドドドドドド、ドチャッ!!」


 タロウは大いに慌てふためきながら、全くの創造的言語で、食い気味に()()を否定した。


 僕は当然のように、おしぼりを手に取った。

お読みいただき、誠にありがとうございました。


お楽しみいただけていたら、幸いに存じます。

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