僕が死んだ日
僕は人を観察するのが好きだ。
昔から表情が少ないとか感情が薄いとか何を考えてるか分からないとか、色々と好き勝手に言われてきた僕は何時からか僕自信を見るようになった。
僕と他人を見比べて、人が持つ魅力を自信に投影し模写する。
そうして人間らしい僕は形作られる。
その僕は人気者だ、僕だと言うのが嘘のように誰からも愛され慕われて敬愛される。
少しの違和感もない僕の片割れを、何時からか本当の僕と感じるようになっていった。
でも、そんな僕の幻想は今崩れ去ってしまった。
今の状況に合致する適切な表情を、言動を俺は持たない。
「うわぁぁぁ! 轢き逃げ!? おい、誰か救急車だ早くしろ!」
「は、はい! え~っと、救急車って119ですか!?」
「そうだ! 早くしねぇと手遅れになるぞ!?」
「は、はい直ぐに!」
「くそう、社長のご子息が死んじまったらとか俺らは終わりだ!」
モクモクと靄のかかったようなボヤけた視界と数十メートルも離れた場所の会話を聞いているような遠退く耳、僕は死ぬのだとゆうことを感覚的に感じられる。
こう言うときに正常な人ならどんな感情を抱くのだろう?
不特定多数と過ごした思い出でも振り替えるんだろうか?
「おい! 救急車まだか!!」
「あと15分で着くそうです!」
「間に合うわけねぇだろ! ふざけやがってよぉ!!」
怒りを孕む、この荒々しい声には聞き覚えがあった。
小さい時から僕の面倒を見てくれてた笹岡さんだ。
と言っても特に思い出らしい物は無いけどさ。
特に思うことは無い、家族との華々しい記憶も交遊関係も何もかも僕の思い出ではないのだから。
痛みは感じる、そりゃもう死ぬほど痛いさ。
だが痛いから、逃げたからとトラック運転手を怨み辛みする気はない。
これが感情豊かな人間だったらえ思うところも有るんだろうが、僕にはソレが無いから。
だから死んだ瞬間にも、何一つ感情を持てないんだろう。
次の瞬間より先の記憶を、俺は知らない。