ユウアイ
彼の死に顔は綺麗だった。人間、綺麗に死ぬことは難しいものであり、当然彼の最期は綺麗ではなかった。
水が水色ではないと知った時の衝撃を、彼は今でも覚えている。違うんだ、違うんだ、と歓喜の声を上げて町内を駆け回った。当時にしてみれば大発見で、同い年の子供に聞き回ったところ、そんなことを知る者は少なかった。
逆に、その少数というのが彼と、アイ、ユウの三人だった。大学を卒業するまで、三人はいつでも一緒だった。同じ考えを持ち、同じ時間を過ごし、同じ体験をしてきた。しかし性格というものが一致していたわけではなく、あるいは一致しないからこそ一緒にいられたのかもしれない。
大学を卒業する際に、アイ、ユウは同時に彼に想いを告げた。彼ならそう言うかもしれないと思って、二人ともと付き合うなどとは言わないよう、釘を刺して。
「ねえ、どうして私なの」
アイはしばしば尋ねる。それは寝起きの悪い朝だったり、財布を忘れたお昼休みだったり、夕飯を焦がした夜だったり、しばしば。
「アイと出会ったのが、ユウより遅かったからだ」
彼は決まってそう返す。彼は選ぶにあたって、二人に優劣をつけることなどできなかった。そもそも二人に優劣などなく、他に選ぶ理由が用意できなかったのだ。一日遅かったから一生を掛けて愛するというのもおかしな話だが、彼にしては上出来な理由だった。
さて、三人が再び顔を合わせたのは、梅雨が明けたかという頃だった。
大学時代にお世話になった居酒屋は、変わらず人がいなかった。大学から距離があるということもあり、安さの割にほとんど知られていないのだ。
「アイはフレンチだっけ、上手くいってる?」
「うん、私にしては上々かな。ユウはレストランだっけ?」
「ふふふ、実はかなり良いとこでね、会員制のレストランなんだ」
運ばれてきたジョッキで乾杯すると、仕事の話が膨らむ。生憎三人とも愚痴の類はない。
「会員制?」
「そう! グラム5000円の肉とか出るんだ、恐ろしいよー」
ユウが指を五本立てると、彼とアイ二人して噎せる。
「5000!? せめて500の間違いじゃなくて?」
「500でも高いと思うんだが、客はどういう層なんだ?」
彼らが大学時代にお世話になった鶏肉からすると、100倍の値段だった。
「んー、会員制だからね、色んな人がいるよ。基本的には店員の推薦だし」
あ、と思いついたように、ユウは付け加える。
「私から二人のこと推薦するよ。初回は安いから、今度おいでよ」
「良いの? そういうのって上流階級の人向けじゃないの?」
「大丈夫大丈夫、その辺融通利くから」
ユウは二人に名刺を渡して、それが推薦状だと言い添えた。
彼は心底安心していた。ユウが自分を、アイを恨んでいるのではないかと思っていたから。何かを選ぶとき、何かを諦める必要があるというのは世の常だが、それを仕方のないことと処理するほど彼は賢い人間ではなかった。
そう、彼は賢い人間ではなかった。いくら賢くなろうとも、人間の心というものは分からないものだが。
件のレストランは、一般にも開かれている店だった。半信半疑ながらユウの名刺を見せると、二人は裏に案内された。
「こちらは会員制となっております。推薦状の方は受け取らせていただきましたため、審査の方に移らせていただきます。お一人様ずつの審査となりますので、こちらでお待ちください」
アイが連れて行かれ、彼は落ち着かない様子で部屋を見渡していた。ただの待合室ながら、明かりはキャンドルで、足元にはカーペットが敷かれている。座り込んでいるソファは、明らかに高価な革が使われていた。
ふと、控えめなノックが聞こえた。彼はきっとユウだろうと思った。
「どうぞ」
「失礼。ううん、いらっしゃい」
やっぱり、と彼は口をこぼす。仕事場でのユウは、普段のあどけない態度とは違い、どこか冷たい印象を受けた。
「審査、本当は要らないんだ。上の上が頭の固い人でね」
ちょいちょい、と手招きするユウに、彼は着いて行く。ドアの向こうは更に小さな部屋。ロッカーというよりはクローゼットのような、鍵付きの棚が並んでいる。
「上着……はないか。靴はここで脱いで」
次の部屋では、スーツの男性が二人。簡単な身体検査の後、何もないと分かると先に通される。
次の部屋はエアシャワーが並んでおり、いよいよ次がメインフロアだった。
「やけに手を掛けるんだな、こういう店は」
「言ったでしょ、頭が固いのよ。ほら、奥の席。すぐ水を持ってくるわ」
場違いなものを感じながら、彼は歩く。
「今日のも美味しいと良いな」
「ここの出すお肉よ。間違いないわ」
隣の、恐らく夫婦のような者たちの会話が、彼の耳にも入る。緊張のあまり、彼は唾を大きく飲み込んだ。
「ねえ、大丈夫?」
くすくすと笑いながら、ユウが水を置く。そして仕事に戻ることなく、体面に座った。
「すまない、どうにも落ち着かなくて」
「まあ仕方ないわ。そうそう慣れないものだから」
そう言うユウも、慣れ切ってはいないのだろう。
そんなとき、フロア照明が消えた。テーブルのキャンドルだけが、ゆらゆらと赤かった。
「ああ、そろそろ始まるわよ」
「始まるって、何が……」
飲みかけた水が、彼の手から離れた。コップが床に落ちるも、フロアの視線は動かなかった。
よく見慣れた体、四肢、髪、目。アイがそこにいた。スポットライトの真ん中で、首から真っ赤な血を流しながら。
「ゅ……あ、ああ……」
彼は声にならない叫びと共に、膝から崩れ落ちた。
「ごめんね、ちゃんと言ってあげなくて。ここ、そういうお店だから」
「なん、で……どうして、こんな……」
ユウはふふっ、と微笑む。
「だって私、貴方をアイしてるの」
キャンドルの火がひとつ、消えた。