19話
水上都市アスバラムで一夜を過ごした俺は、朝早く温泉へと向かい体を清めた。その後、着の身着のままで外へと繰り出したのだった。
「……はぁ」
正直な話、昨日はほとんど眠れなかった。セリンさんとラティさん。二人を疑っているわけではないけど、同じ部屋で眠るとなると警戒心を解くことはできず、わずかな音にも反応してビクビクとしていた。
久しぶりの、最初で最後かもしれない布団だったのに。眠りを堪能できなかったのはかなりの精神的ダメージだ。
いいや、それよりもダメージを受けたのは昨夜の出来事。セリンさんに殺されそうになったこと、俺という存在の不確定さ。この二つはダイレクトに心に突き刺さった。
――姉様には恩がある。
と語るセリンさんの表情は、彼女が語るように命令されれば何でもするという意思を確かに感じた。そう、身の危険を感じてしまうほどに。
いくら俺が、前向きな性格だって言っても、昨日の出来事は本当に痛い。それこそ、彼女たちを救うことすらも――
「いいや、それは無い」
強い意思によってそんな考えは消し去られる。そうだ、彼女たちを救う。それは絶対にしなければならない。ただ、彼女たちとの関係性は少し考えなければいけない。だって、殺されてしまえば救うことができなくなってしまうから。
「何が?」
「何がって。そりゃあ決まってるよ、それは……ん?」
「ん?」
「ん?」
つい口に出てしまいそうな言葉を押しこむと、下にいた誰かと目が合う。一瞬、誰かと思ったがそのあどけない目をした少女が誰かを理解したのだった。子供をあやすような言葉では無く、あくまでもちゃんとした言葉で。
「何か用、ですか?」
「出ていったのが見えたから」
「だからついてきた?」
「ん」
気づいたことがある。彼女、ラティさんはとても綺麗な目をしている。赤い赤い、深い赤い色だ。そしてもう一つ。彼女は人と話をしている時に目をそらさない。
「ん?」
さらにもう一つ、可愛い。首を傾げるその様子を見ると、つい心を許してしまいそうな猛烈な可憐さがにじみ出てる。
「――はッ!?」
いけないいけない、騙されるところだった。警戒するべきだ、少なくとも。彼女のことを何一つわかっていないし、何よりも彼女がセリンさんに命令したんだ。
俺を屋上から突き落とせって。結果として生きている。だけど、彼女はそんな冷酷な判断ができるってことを忘れてはいけない。
「どうしたの、ヤシロン?」
可愛い。この上目遣い、破壊力有り過ぎだろ。何でも許してしまいそうなくらい可愛い。別にそういう性癖無いけど、目覚めそうに無いけど、可愛い。可愛いは正義だなんて言うつもりは無いが、これだけは確かだ。可愛い。
このまま見つめていると何かいけない感情を覚えそうで、俺は視線を逸らした。負けたわけじゃないぞ。
「別に逃げたりしないですよ。ただ、ちょっと散歩をしようとしただけです」
「そう、それじゃ私も行く」
「どうして?」
「ヤシロンと話がしたい」
そう言われると断るわけにもいかず、むしろこれは避けるべきではないだろうと判断した。俺は頷き、歩き出した。遅れて後ろから足音が聞こえ、横へと並ぶ。
「そいえば、まだ自己紹介をしてなかった」
「……あぁ、そういえば」
「私はラティーシュ。ヤシロンは特別にラティ様って呼んでいいよ」
「えぇと。ラティさんでいいですか?」
「うん、特別」
特別からの特別。これは一体どういう意味なんだろうか。それよりも、何かこんな小さい子に敬語を使ってさんづけなんて、ちょっと恥ずかしく思ってしまうのは俺がおかしいからだろうか。
ラティちゃん。うん、かわいらしくてこっちの方がいい気がする。ちらっとラティちゃんの方を見る。
「ひっ!?」
先ほどまでの可憐さは消え失せ、無表情の仮面が顔を覆っている。よし、止めよう。小さな子供かと思ったけど、この眼光は間違いなく年上のものだ。ちょっと怖い。ちゃん付けは隙を見ていつかやってやろう。
「話っていうのは、昨日の話ですか?」
そう言うと、ラティさんは小さく頷いた。目が合うことは無い。
「命令したのは私。セリンは悪くなくて、私が悪者。セリン、ずっと昨日のこと気に病んでた」
「……え?」
「あと、私は謝らない。昨夜のことは絶対に必要不可欠なことだったから」
「は……?」
口を開けたまま、俺は言葉を発することができない。様々な感情が駆け巡っているからだ。どこから理解すればいいのか、どこから突っ込めばいいのか、どこに対して説明を求めればいいのか。
一つ呼吸をして、俺は一つ言葉を出す。
「必要不可欠っていうのは?」
「ヤシロンはそこから聞くんだ。ちょっと、意外。セリンのことから聞くと思ったのに。薄情? 非情? 冷酷? 馬鹿? 阿呆?」
「えぇと、最後のは完全に悪口ですよね?」
「他意は無い」
絶対あるだろ。秘かに突っ込みを入れる。
「まぁ、薄情も何も。セリンさんがやりたくないことをやったってのは重々わかってますから」
「へぇ」
疑っているような、挑発するような感じ。あまり好きではない表情だ。
「それはラティさんが一番わかってるんじゃないですか? セリンさんは表情に出やすい。根っからの善人ですよ、あの人は」
「それは同意する。私達と違って」
「俺を一緒にしないでください。俺も根っからの善人ですよ。こうしてまた、殺されそうになった人と話をしている。しかも昨晩の出来事で、謝らないなんて横柄な態度されているのに」
「普通の人は、自分で善人なんて言わない。それに、善人であったとしても昨日殺すことに近いことを命令した相手に普通の態度はできない。できる人とすれば、どこか頭がおかしい人か。何かしらの事情を抱えている人。もしくは根っからの悪人で何かを企んでいるか」
それもそうか。もっともらしいことを言われて何も言わずにいると、ラティさんは鼻で笑っていた。ちょっと悔しい。
「意外と喋るんですね。あまり無駄口は叩かない方かと思ってました」
「伊達に200年は生きていない。対話で引き出せるものがあることくらい理解しているつもり」
「確かに」
対話で引き出せるものは多い。特に、相手が対話を好んでいる場合は。言葉だけではなく表情や仕草でも。様々なことを対象からごく自然に引き出せる手法だ。
「ん?」
ちょっと落ち着け。何かこの人、おかしいこと話して無かったか。200年だかどうかって。中国4000年に比べたら遥かに短い話だけど。200年って……? しかもこの容姿で?
嘘だろ。俺の反応を楽しんでいるに違いない。セリンさんだって20数歳だろ。そう考えたら、セリンさんは姉様なんて言ってるけど、大きく見積もって30ジャスト。20代だろ。つーか、こんな姿で200歳って、ロリババアじゃないんだから。
そんなどこぞの魔法の世界みたいなフィクション話。誰が信じるか。頭を切り替えていく。
「俺は分かってますよ、ラティさんが聞きたいことが何か」
「……へぇ?」
「あなたたちに本当に協力するか、どうか。要は敵か味方か。ラティさんはそれを確認するための人員なんだよね?」
右の眉がかすかに動く。ほぼ同時に、こちらに向かれていた顔が正面へと向いた。
図星。そう見ていいのだろうか。ラティさんが答えるまえに俺は先手を打つ。
「安心してください。間違いなく味方ですよ。ただ、俺が問答無用で味方をして、助けたいと強く思うのは――」
一度目を閉じる。瞼の裏に覗くその姿はただ一人。
「セリンさん、だけ。それ以外は、救える分だけ全部救いたい。そう思ってるはず」
断定できないのは、どこかでそれが無理だって悟っているからだろうか。本気で全部救いたいとおもっているはずなのに、自分を信じられない感覚。多分これは、昨夜の出来事が緒を引いているってことだろう。
だけど、ここは断定するべきだった。この言葉尻をラティさんが見逃すわけ無い。
「はず?」
ほら、やっぱり。内心で毒づきながら俺はその質問に答えようとする。
「……?」
と、思ったけど一度振り向く。まだ日が出たばかりで人はほとんど見えなかったけど、振り向いた先にも誰もいなかった。
つまり、人がいないということだ。でも、おかしい。人の気配を――
「ヤシロン?」
「えっと。いや」
「気づいたの?」
「――え?」
振り向くと、ラティさんは既に先に向かって歩いていた。わずかに遅れながらも俺は早足でその背中に追いつく。
「つけられてる」
「えっ、なんで? どうして?」
「わからない。ただ、つけられてることはわかる。多分、5人ぐらい」
そんなまさか。そう思いながらも、俺は意識を飛ばして後方へともう一つの視線を飛ばす。たった今歩いて来た道を辿るように。
すると、ラティさんの言うように確かに幾人もが俺達のあとを追うようにひっそりと追いかけている。数でいうと8名ほど。先程振り向いたときに見えなかったのはおそらく隠れたからだろう。
ん……? ならちょっと、その隠れる様子を見てみようか。俺は少しだけワクワクしながら予備動作を入れて振り返る。
「ん?」
全員が全員、慌てて隠れている。正直言ってかなり面白い。無理な体勢で息を吐きながら、そんなところに隠れるか! なんていう場所にだって隠れている。素直にすごいと思う。
このまま見ていて、我慢できなくなる姿もみたいけど、ここでそれをするのはおそらく良くはないだろう。俺は前を向く。
「ヤシロン、意地悪?」
「えっ! あっ、いやそんなんじゃないって。ただちょっとした出来心といいますか、はい。いや、そのすいません……あれ? というか、何をしたかわかったの?」
「ん、大体は。今のヤシロンの様子と、見破るのオートスキルを使えるなら、イーグル・アイを身につけていても不思議じゃない」
イーグル・アイ? ちょっとかっこいいね。これからは敬意を持って、技を使う時には名乗らせてもらおう。
「でも、不思議なこともある」
「不思議なこと?」
じっと見つめられる。うん、可愛い。
「……それは後でにした方が良さそう」
「そうですね。とりあえず、追われている以上このままってわけにはいきませんしね」
「ん」
意見が合う。おそらくばっちりと意思の疎通は取れているだろう。
「ちょどいい。ヤシロンは左に」
いつのまにか街の端まで来ていたらしい。目の前は川のような湖が見え、その遥か先に森が見えてくる。水上都市と言われる由縁は確かで、ここは湖の上にあることを再認識した。
そうなると、ここから先は右と左。行き先は二つ。どちらが追われているかわからない以上、二手に分かれて追手を減らす、もしくはどちらが目的の人物なのかを判断するのには的確なんだろう。当然、異論なんて無い。
「じゃあ、ラティさんは右――に?」
「精霊よ」
心底嫌な予感がしたのは言うまでも無い。
「我に風の足を、天成る翼を。宙を羽ばたく風を与えたまえ――シルフィードドライブ」
その瞬間、彼女の体から透明な翼が生えて、あろうことかラティさんは湖の上を羽ばたき出した。
「……ずっりぃなぁ」
なんて呑気に身構えてる余裕があるはずも無く。
「標的が逃げるぞ!!」
と後ろから怒号が響き渡り、俺は恨みを込めるように強く地面を蹴ったのだった。




