18話
ずぶずぶと暗い沼を潜っていく。黒い液体のようなものが、俺の体を包み込み。身動きをすることも、しようとすることも無く。ただ暗い沼を進んでいく。
囲まれている黒い液体はひたすらに暗く、先なんて見えない。試しに手を動かしてみても、泥のような液体を掴むような感覚しかない。
不思議なことがある。そんな液体に囲まれているのに俺は、苦しいなんてことは無く。沈んでいくことに、何ら不安を感じないのだ。疑問すら感じない。落ちていくことが自然なことで、当たり前。それを知っているから、慌てることも無く流れに身を任せてしまう。
ふと思う。何か大事なことがあったはずだと。為すべきことが、植え付けられた使命があるはずだと。
植え付けられた? 自分自身でその意味に戸惑う。何だ、植え付けられたって。まるで俺が、その使命を望んでいないみたいじゃないか。それならば、それは大事なことじゃないだろ。
と思うものの、それが大事なことであるはずだと繰り返し体の奥底から誰かが叫ぶ。わからない。
そんなわからないという意思に反応するように、黒い液体は流れを速めていった。濁流へと飲み込まれるが如く、今まで楽だったはずの呼吸が苦しくなったと錯覚する。本当に、こんな中で呼吸ができていたのかと思うほどに。
永遠に感じられる苦しい時間を超えて、やがて真っ黒い世界は終焉を迎えた。それは光。
俺は、颯爽と光に飛び込んだのだった。
「――はっ!?」
ふと、そんな声が飛び出してしまっていた。気がつくと、鞄に入っていた教科書や筆記用具も硬いアスファルトの上へと放りだされていた。
「ここは……」
そんな言葉が口から飛び出すけど、ほんの一瞬だけ疑問を感じただけだった。
「早く帰って稽古でもしようかな」
体が動く。向かう先にあるのは、間違いなく俺の家だ。何かおかしいはず。そう思っても、体は俺の意思を通り抜けるように無視をする。
と、思った瞬間。俺の体は俺の体から徐々に離れていく。半分ほど浮かび上がってしまったところで、俺は気づく。これが現実のことでは無いこと。おそらく、俺の記憶が再現されていること。
「♪♪♪」
なんて鼻歌混じりに気分良く帰路へと着く。そうだ、この日はいいことがあったんだ。いじめッ子からいじめられっ子を救った。小学生の頃にした、俺の何度目かの正義の行動。まだ、救った子から裏切られることなんて無く、目に写るもの全てがキラキラに輝いていたあの頃。勇者のことを心の底から信じていて、勇者に向かって毎日精進していたあの時代。
「ただいま!」
その日、家に戻るといつもと違うことがあった。
「おかえり、社」
父さんがいた。いつも帰りが遅く、残業ばかりで当時家にいなかった父さんが家にいた。
「あっ、父さんだ! どうしているの!?」
「いちゃ悪いのか?」
「ううん! 久しぶりに稽古して!」
「わかった、わかった。相変わらず、社は体を動かすことが好きだなぁ」
「へへ、これも強くなるためだからねっ」
なんて、いつもよりもテンションが上がってしまって――俺は、じいちゃとの約束を破ってしまった。
「今日ね、たまくんを救ったんだ!」
俺の家族に、じいちゃに関連する勇者の話をしないということ。簡単にいえば、じいちゃとの会話はほとんど全て秘密で、誰かを救ったなんて言葉を家族の前で発してはいけないことだ。別に、勇者になるという話をしてはいけないわけじゃない。
勇者=救い。そのじいちゃの教えを悟られるのが駄目だということだ。だから、この場合はアウト。救うという単語そのものがいけない。こう考えると、救うというワードそのものがいけないのかもしれない。それほどに、じいちゃ=救い。そんな認識を……?
なんて考えながら、ふと疑問に思う。どうしてそれが禁止になっているんだ。しかも、家族限定で。おかしいだろ。だって、そう考えたら、父さんや母さんは。
「あっ、やべ。先に道場に行ってるね!」
場面は動き出す。今度は、俺の体は動かず、小さな俺が離れていく。そんな背中を見守る様に、父さんは見つめ続け、そして一人気に呟いた。
「どうしてだよ、親父。それは、俺で終わりだって――約束しただろ」
その言葉を皮切りに、俺の体は意思に反して天へと舞い上がっていく。上へ、上へと。やがて、スピードは上がり、世界は薄くなっていったのだった。
「――あっ」
そんな間抜けな声を出しながら、意識が目覚める。体を起こす前に、一つ整理することがある。さっきのは、現実か幻想なのか。正直言って、現実の記憶かどうか言われれば、自信は無い。
なぜなら、さっきのが夢の中であると仮定するなら、夢の中ではあの記憶は確かに俺の記憶だった。しかし、俺の記憶では、たまくんを救った記憶はあっても。
あの日、父さんにあった記憶も無ければ。そもそも、じいちゃとの約束にさっきのような話があったことの記憶が無いからだ。
と、すればだ。あれは幻想であったと考えるのが妥当なんだろう。おかしい点だって数多くあるわけで、変に気を迷わせない方がいいだろう。
でも、一概にそうと断言できない。だって、さっきまでおれは確かに、あそこで父さんに会ったことも、約束も。その全てが存在していたと確信していたからだ。
「ヤシロ?」
「えっ?」
「ヤシロ!」
突如、豊満な胸が顔に押しつけられる。一体どういう状況かわからず、さっきまでの体は吹き飛び、体は硬直する。
俺はおそらく今、絶頂に上るような幸せなんだろう。でも苦しい。息ができない! くそっ!
悔みながらも、俺はセリンさんらしき人物の背中を叩く。うめき声も上げながら、全身を使ってアピールをした。
「す、すまない」
「げほ、げほ……」
思ったよりも限界が近かったようで、胸から離れた瞬間咳が出てきた。しばらくは止まらず、目の端でなんとかセリンさんを捉える。どうしてかわからないが、目に何かが溜まっているように見えた。気のせいかもしれなけど、目がウルウルしているような。
「ここは、一体――」
咳が収まり次に目を写すのは周りの光景。そこは、言うなれば地面。見晴らしの良くない、真っ暗な路地だった。見覚えの無い場所に、視線は行き場を求めて上を見る。そこは、決して記憶が無いなんて言えなかった。
「そうだったんだ、俺は」
どんどんと記憶が蘇っていく。俺がさっきまでいたはずの場所は、遥か頭上。5階建てなんて言ってたけど、確かに五階だけど。人が死ぬには十分すぎる高さ。
体が震える。涙は出ないけど、震える体は抑えられない。
あそこから落ちた? 落ちたのか、俺は……?
しかも生きている。ほぼ、五体満足で。
「本当にすまない」
「……何が?」
「ッ、すまない。私には謝ることしか、できない」
一瞬、口から飛び出そうになる言葉をなんとか抑える。
「すまない。ヤシロにはひどいことをしたと自覚している」
人のことを殺そうとして、何を言ってるんだ、って。
「本当に、すまない」
意味の無い恨みごとを言ってしまいそうになる。セリンさんが、きっと望んでやったことじゃないって信じているのに。俺と違って、意味のあることだって知ってるのに。
「……いいよ、もう」
だから、そんな心にも無いことを言う。約束したから。セリンさん達を救うって。だから、こんなつまらないことで言い合いはしたくない。
「そうは思ってないことはわかっている。だからせめて、言い訳をさせてくれ」
弁明でも説明でもなく、言い訳という正直なところは、セリンさんらしいと思った。そんなセリンさんを見れたからこそ、俺から話を進めることにした。
「今回のことは、俺が聖剣を持っていないことが関係してたんだよね」
「あぁ、そうだ。姉様は、ヤシロが人間であることを前提に、聖剣を持っていないことがどういうことであるかを考えた」
その結果があれか。なんてことは口に挟まなかった。黙って話を聞く。
「ヤシロはまだ、この世界に来たばかりだし、私からも説明して無かったらから知らないかもしれないが、この世界に存在する人間はその身に聖剣を宿している。例外なんて存在しない」
「だから、俺は人間じゃないって?」
「そうだ。あくまで可能性の話であれば」
確かに、それはそうだ。これまでいた数限りない人々と俺一人。歴史が語っている。どちらが真であるかは。
「姉様は、その可能性を一旦捨てて、もしヤシロが聖剣を持たない人間であるならば、どんな人間であるかを考えた。人間は、選択できるスキルポイントを多く保有する。魔獣は、選択できるスキルポイントが少ないが一つのスキルポイントの成長幅が多い」
後者は初耳だけど、前者は耳にしたことがある。
「そして、両者の大きな違いは聖剣を持つか持たないか。魔獣は聖剣を持たない」
「獣人は?」
「獣人はハーフだ。持つ者、持たざる者がいる。だが、スキルポイントに関していえば魔獣とほぼ同様。それゆえに獣人で聖剣を使えるものは少ない」
つい聞いてしまいたくなったのは、これまでの獣人の様子を見てきたから。どこか中途半端感を感じるていた。アンバーでは、人間のことを嫌っているのにも関わらず表だって反抗しようとはしなかった。
逆に、ワイルドウルフという魔獣たちは真っ向から人間へと牙をたてていた。あれは明らかに人間とは違う道を行くことを示していた。
「話を戻そう。それらの条件しかないと、判断が難しい。だが、私が姉様に言ったように、ヤシロは幻想術式を使える。しかも、本物に近い聖剣を生み出すことができる」
頭を切り替える。
「……それが?」
「ヤシロは知らないかもしれないが。幻想術式には大きな欠点がある」
「欠点? スキルポイントの振り方とか?」
「もちろんそれもある。しかし、それは些細な問題だろうな。幻想術式を扱えるイコールほぼ全ての物体を幻想として編み出すことができる。こう考えてみれば、得だと思わないか? 特に、スキルポイントを縛る必要が無いものにとっては」
「確かに」
同時に心の中でも納得する。セリンさんが言うことが本当であれば、聖剣を持たないものであれば皆、幻想術式を扱いたくなるほどに魅力的だ。
と、なればだ。そんな魅力すらを大きく凌駕する欠点がある。そういうことだろう。
「結論を言うぞ。大きな欠点とは、使用する魔力量にある」
「……未だにわかっていないんだけど、魔力量っていうのは。魔力を消費できる限られたもの。みたいな感じだよね」
「そうだ。それで間違っていない」
「じゃあ欠点、って?」
「仮にヤシロがこないだ見せた魔法、アイスニードル。この魔法の使用する魔力量が1だとすれば、幻想術式で使う魔力量はいくつだと思う?」
「えっと……2。いや、5倍かな」
魅力を大きく下回るデメリットだから、よほど突き抜けているんだろう。だって、幻想術式を使えるだけでほぼ全ての技を使える。そんな認識で間違いないんだろ?
そんな魅力に溢れていたら、どう考えたって魔力量は2倍には収まらないだろう。5倍。これなら使用対価を考えると正直魅力を感じない。まぁ、魔力量5倍ってどんなかはわからないけどね。
「10倍だ」
「なるほど。それはきついね」
「加えて、威力に関しては半分以下。これに関しては下限は無いが、最高で半分の力しか発揮できない」
「そうなると、実質的な消費量は最低でも20倍。こうなると、コストパフォーマンス云々の話じゃなくて、使ってる奴が馬鹿。みたいな感じかぁ」
「これは魔法に限っていえばの話で、使い道が全くないわけじゃない。例えば、武器などの物を生み出す場合。より近いものを生み出せると言われている」
「でも、相応のリスクがあるんでしょ?」
「そうだ。魔力の消費は、その物を幻想術式で生み出している時間分消費される。当然、その物が特殊なほど魔力量の消費量は大きい。例えば、普通の剣と私が持っているこの剣」
セリンさんは腰に携えていた剣を引き抜く。普通に見れば普通の剣だが、見破るを使えばただの剣でないことがある。以前、見破るを使ったときに見えたグリーンダイヤモンドという石が使われているのだ。
「魔力の消費量は大きく違う。生み出すだけで2倍差があったとすれば、さらに時間分も上乗せされる。が、その代償に見合ったリアルの武器に近い力を発揮できると言われている」
その口ぶりかり導きだされることはこういうことだろうか。
「じゃあ、聖剣を幻想術式で編み出すのは……? 魔力を大きく消費するけど、それなりに見合った力を手に入れられるってことかな?」
「それは、正直言ってどうだろうな。聖剣を幻想術式で生み出すなんてことできるなんて前例は無いし、条件もわからない。そもそも、聖剣がどういった存在なのかも明らかでもない。ヤシロが誓いの書を出した時に、力を全部使い切れなかったことを考えると、条件は魔法の類かもしれない。ただ、一つだけ言えることはある」
「膨大な魔力量を使う、ってことか」
「そうだ、聖剣はその者の頂点だ」
セリンさんの説明が正しければ、幻想術式は生み出す対価に見合った魔力量を消費する魔法のようなものと捉えて間違いないはず。そう考えると、聖剣はある意味そのものが持つ最強の技のようなもの。であるなら当然、求められる対価は多いわけで。
と、そこまで考えてようやくセリンさんの言いたいことに気付く。これは違和感だ。どうしようもないほどの違和感。
――魔力にスキルが振れないにゃ!
確実にミーナさんはあの時そう口にしていた。俺のスキルボードを手に持ち、俺のスキルポイントを割り振りしていた時に。
俺はいつ、そんな聖剣を生み出せるほどの魔力を手にしたんだろうか。
「ヤシロ、気づいたようだな」
「うん。セリンさんは、気づいていたんだよね」
答えは帰ってこない。それが答えということだ。
「これは姉様の予測だが、ヤシロが聖剣を持たないのは奇跡でも偶然でもない。おそらく、必然だ」
「……必然?」
一瞬、頭の中が白くなる。そのままの頭で俺は声を出す。
「まさか。俺に聖剣が無いのは、人為的なものだって、セリンさんたちは考えているの?」
「そうとしか考えられない。そうでなければ、ヤシロがこうして生きていることの説明にだってならない」
「あっ……」
「出会った時ならば確実に死んでいたはずだ。それをスキルポイントを大して振るわけでも無く、これまでの日数でそれも五体満足だなんて……これはもうただの人間じゃない」
もう恨み言は出てきやしない。
「聖剣を持たない代わりに、魔獣の力をも手にした人間。多大なスキルポイントと成長性を身に付けた究極の人種。唯一の欠点は、聖剣を持たないことだけ。そしてその欠点は、既に補われかけている」
「……そのための幻想術式、か」
「ここまで来るとやはり人為的なものを疑うしかない」
一瞬頭に浮かぶのは、俺が世界で一番尊敬する男。模倣してきたとまでは言えないけど、その生き方を真似しようとした。
「初めて会ったあの日、ヤシロは言った。本当の勇者になりたいって。異世界で生きてきた人間がそんなことを口走るなんて、普通では考えにくい。そう考えると――」
「それ以上はやめろ!」
俺の突然の激昂に、セリンさんは小さく、本当に申し訳なさそうに謝った。俺はそんなセリンさんの姿を横目に、再び見上げる。今度は空を。綺麗な星と暗い空を。そして、思い出す。これまでの生き方を。
冗談じゃない。この気持ちだって人為的なものだって? 冗談じゃない。嘘なんかじゃない。俺の気持ちは、人を誰かを救いたいって気持ちは。そんな陳腐なものなんかじゃない。何年も、何十年も積み重ねて挫折して、何度も立ち上がって。じいちゃの最後に立ち会って。決心したかけがえの無い想いだ。
チクリ、胸が痛む。声なき声が叫んでいるような気がした。気付け、と。ほぼ同時に声が出る。
「救う。それこそが俺のやるべきことなんだ」
もはや、セリンさん達のことは頭から消え去っていた。まだ見ぬたくさんの人々を救う。そのために俺は生きているんだ。
俺はこの時気づいていなかった。救えるのであれば、誰でもいいと思っていたことを。セリンさん達を救うこと、それ自体が他の人たちを救う意味とほぼ同じになっていたことを。




