1話
その日の俺――藤堂社は、ごくありふれた日常を過ごしていた。
「……ふわぁぁ」
午前5時起床。顔を洗いバナナを牛乳で胃に押しこみ、ジャージに着替えて外へ出る。日課のランニングを10キロほど走り、家の裏の洞窟にある祠の掃除をする。そして午前6時ごろ、家に併設している道場へと向かい一人稽古に励む。
午前7時。朝食にありつく。朝からご飯を2膳食べた記憶がある。一膳目は納豆で。二膳目は王道の卵かけご飯で。おかずは鮭、漬物、肉じゃが。加えて味噌汁。がっちりと朝食を食べるのが藤堂流なのだ。
ご飯を食べた後はシャワーを浴びて、学校に向かう。そして、男友達とくだらない話なんかして、数学の宿題を忘れたことにも気づいて慌てて。ジュースじゃんけんに負けて悔しがったり。
ありふれた高校2年生の日常を俺は……なのに。
「あのー、ここは一体どこなのでしょう……?」
ふとしたことがきっかけで、こんなわけのわからない世界に押しこまれてしまった。あの時、祠に向かわなければこんなことにはならなかっただろう。でももはや、そんな後悔をしても遅いんだろうな。時すでに遅し。今の俺の状況にぴったりな言葉だ。
「ここは、ミーナたちのアジトにゃ」
「いや、その。そういうわけじゃないんすよね……えぇと」
「ちょっと黙ってろにゃ! 親分が調べごとしてるのにゃ!」
「いっ!?」
にゃーにゃー喋る、猫の耳と尻尾を持った獣女。同族なのか、同じような容姿をした獣の男。全く関係ないであろう、緑色の体色でごつすぎる体格の男性。明らかに顔が虎みたいなやつ。
薄暗い洞窟なのだろう。明りが小さくてここに存在する人の顔を識別することはできないが、どれも自分のようなノーマルの人間がいない。明らかにアブノーマルなボディビルダーびっくりの人外な方ばかり。
いやそうではないのかもしれない。考え方を変えれば、ここでは俺が異端なのかもしれない。
その証拠に俺は、後ろ手を何か鍵のようなもので止められていて、獣女が体の上に座っている状態というわけだ。目が覚めたらこうなっていたわけで、抵抗する暇も無かった。
「……」
よく考えてみれば今の状況、ある業界の方にとってはとてもうれしい状況なのかもしれない。手を拘束され、椅子にされる。性癖さえあえばバッチリ。なんてくだらないことを考えながら、親分と呼ばれていた人物を見る。
これまたごつくて、肌が岩のようにボコボコと角ばっている。固そうだ。なんて捻りの無い感想を思い描いていると、その親分がしゃべり始めた。
「ミーナ。お手柄じゃねぇか。こいつはひょっとしたら、ひょっとするぜ」
「にゃんと!? ほんとにこいつがにゃ!?」
「あぁ。まぁ、候補かもしれねぇが」
ミーナと呼ばれる人は立ち上がり、親分と言われる男へと向かっていった。これで体に自由がきく。俺は横向きにされていた体を仰向けにして、苦しい表情をしてみせた。
若干、ドキドキしながら辺りを見渡す。特に俺の動きを怪しいと思う奴はいないらしい。それならば、ここはあれを使うべきだろう。ちょうど制服のズボンの後ろのポケットに――おっ、あったあった! スマホすらポケットに入れて無かった唯一の俺の武器!
まさか、このスキルを使うことになるなんて。決して犯罪に加担していたわけではないが、じぃちゃから譲りうけた針金のようなやつと精密ドライバー。実物を見たわけじゃないけど、指で鍵を触った感じすごく簡単な構造になっているのがわかる。まずは針金を鍵の穴に沿うよう刺して、と。
「見ろよ、このスキルボードを。ほぼすっからかんだぜ? あの人間族がノースキルだ。んなこと、ありえねぇぜ」
「ふむふむ。確かに、ちょこっと頭脳に星があるだけにゃ。魔力に関しても適正なし……? これはなんだにゃ。魔力にスキルが振れないにゃ!」
「あぁ、色々とおかしな話だぜ、こいつはぁ。おい坊主!」
こっちに視線が向いた。今がチャンス!
「は、はぃぃッ!! なんでしょうぉ!!!」
馬鹿でかい声を出すと同時に、鍵を回す。案の上鍵の金属音が鳴った。
へへっ、大したことないぜ。と、内心ほくそ笑みつつ、俺は両腕を自由にさせる。隙さえあれば、いつでも逃げだせるように。
何度も言うが、決してこの技術を悪用したことなどない。これはじいちゃから植え付けられた伝統技術。俺は悪用などしたことがない。この真実だけははっきりと伝えておきたかった。
「てめぇ、どっから来た? アーグレストからか?」
あーぐれすと? 何だそれ。何かお洒落な感じの名前だけど。分からないので、とりあえず聞き直してみる。
「……はぃ?」
「やっぱりしらねぇわけか」
「は、はい。オーストラリアなら知ってますが」
「それにわけのわからねぇ言語も喋るってわけか。おい、ミーナ! こいつが現れた時の詳細を教えてくれ」
「了解にゃ!」
猫女が親分なる人物に説明を始めた。どうやら俺は、空間が歪んだ場所から現れたらしい。そこの記憶は無かった。現れた先は、ほぼ記憶通り。意識が目覚め驚愕しながら足を一歩前に踏み出すと、茂みの中に放置されたうんこみたいな物体を踏んでしまって、汚ねぇ! と、叫んだらあのゴブリンらしき奴が現れたバトルになったわけだ。そして、ウーウー喋っていたと思ったら、急に怒りマックスで暴言を言ってきたのは正直驚き、あれがうんこじゃなくて食べ物だということにも驚いた。
おっと、うんこの話は置いておこう。それよりも猫女との証言との違いだ。俺はゴブリンが最初ウーウーうるさい奴だな、と思っていたが、猫女が言うには俺がウーウーとうるさかったらしい。そうなると、どちらが言語を理解したのかという疑問が生まれるがこれは俺が理解をした、と思って間違いないだろう。猫女の発言にしろ、親分のわからねぇ言語、という発言も。どれも俺が原因であることには変わりないから。信じられないが、英語も大して得意じゃない俺は、一瞬で言語を理解してしまったらしい。この能力、高校受験前に欲しかったなと素直に思う。
「それでにゃ、こいつがなんでもするって言うから助けてやった、というわけにゃ。おまけにこうして安全な場所までつれてきてやったのにゃ。もうこいつは、ミーナの下僕に違いないにゃ!」
再び俺は内心で嘲笑う。なんでもする、って俺は言ったかもしれない。だが、あれは当然嘘だ。だって冷静に考えてみろ。あれはどう考えてみ脅しの一種。つまり脅迫罪に値する行為だ。あんな生と死を天秤にかけたやり口。詐欺にも近いといってもいいだろう。
俺が何を言いたいかそろそろわかってるかもしれないが、つまり俺は無効であると証言したい。だけど、そんなこと言ったってこいつらは……通用しない、だろうなぁ。それなら、情に訴える作戦、これしかない。
チラッと覗き見る。猫女は何か石板みたいなものを鼻歌を歌いながらいじっている。大して親分は、上に顔を向けて考え事をしているようだった。
「あ、あの!」
「あぁ?」
「――!?」
親分と言われる固そうな男が睨みを効かせてくる。正直言って、胃が持ち上げられたんじゃないかってくらいにびびる。絶対にこいつ人を殺したことある。と俺は確信していた。
「多分、なんすけど俺、ここじゃない世界から来ました」
それは衝撃的な告白。ここからどう物語が動くのか、いや、物語の始まりなのだろう。何かが始まりそうなプロローグ。
「知ってる」
「知ってるにゃ」
お決まりの展開にはならず。
「……え?」
続々と知ってる、の声が聞こえてくる。特に驚いている様子も無く、それは当然だという佇まいで。逆にこっちが驚愕してしまう。
そして、とどめと言わんばかりに親分が言う。
「歓迎するぜ。33人目の勇者殿」
それが一体何を意味するのか、今の俺にはわからず、口の中にため込んだ唾を飲み込んだのだった。
――お願いします。どうか、私達を救ってください。
少なくとも、あの祠の奥で聞こえたこの言葉が、ただの幻想では無いのだと俺は知った。
「やっと見つけましたよ。33人目の勇者様」
そして、この世界の運命の渦に巻き込まれていくことを知らなかったのだった。