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互いの気持ち その三

 荷作りなど僅かな時間で纏め終わりましたので、本日中に侯爵家を出ようと思います。侯爵様は馬車を用意すると言ってくださいましたが、辻馬車を乗り継いで行けばリリアリム地方に帰れますので、侯爵様がお仕事でいないうちに帰る事にします。


 さようなら、侯爵様。

 短い間でしたが、私は貴方の妻になれて幸せでした。


「お待ちください奥様!」


 あら、大変。こっそり玄関ホールに来たというのにダグラスさんに見つかってしまいました。


「奥様。そのようなお荷物を持ってどちらに行かれるのですか?」

「本日中に侯爵家を出ようと思いまして。短い間でしたがお世話になりました」


 そう言って頭を下げれば、ダグラスさんが慌てはじめました。


「何を仰っておられるのですか? 貴方様はこれから先もずっと旦那様の奥様なのですよ? それなのに何故そのような……」

「まだお聞きになっていないのですね。こうして実家に帰されてしまうのです。私はもう侯爵様の妻ではありません」

「そのような事は決してありません。奥様は何か思い違いをしておられるだけです。少し落ち着きましょう。お茶を入れて参りますから一旦お部屋にお戻りください」

「いいのです。もう、いいのです……。これ以上侯爵家の皆様にご迷惑をかけたくありませんから、帰りは自力で帰ります」

「お待ちください! せめて旦那様が戻って来られるまでお待ちを!」


 必死の形相で引きとめてくれるダグラスさんを、こちらも必死に振り切ろうと頑張ります。


 本当にもういいのです。侯爵家を出ていく覚悟は既にできております。侯爵様に未練がましい女だと思われたくはありませんから、ここは潔く出ていかせていただきます。


「お願いです、行かせてください。侯爵様のお顔を見てしまったらきっと――」

「きっと、何だ?」


 その声にビクッと肩が震えました。


 私の背後には玄関扉があります。そこから入ってくる風に髪を揺られながら、私はまるで石になってしまったかのように動けなくなってしまいました。


 背後に感じるその気配に、思わず目に涙が浮かんでしまいます。


「出発は明日だったはずだが?」


 背後から質問が聞こえてきますが、貴方に離縁を申し出られたので速やかに侯爵家を出ていこうとしているのです、という言葉はどうしても言えませんでした。


「頼む。こちらを向いてくれないか?」


 一向に振り向かない私に痺れを切らしたのか、そんな事を言われてしまいました。


 ですが、申し訳ありません。私は貴方に会わずに侯爵家を出たかったのです。そうしないと私はきっと侯爵様のお側を離れたくないと我儘を言ってしまいそうですから。


「リリ」


 ハッとして思わず振り返ってしまうと、侯爵様は申し訳なさそうな表情で私を見つめていました。


「やはり俺は間違えていたのか……」


 侯爵様が何かを呟いておりましたが、私はもうそれを聞きとることなど出来ませんでした。


「もうお別れしなければならないのに、これはあんまりです!」


 私が大きな声を出したからか、侯爵様が驚いたような顔で私を見つめてきます。

 きっと呆れてしまわれた事でしょう。往生際の悪い女だと思われたに違いありません。それなのに、溢れる言葉を止められない私はなんと愚かな女なのでしょう。


「どうして最後のこの時に名前を呼ぶんですか……っ。私……っ、私は呼べなかったのに……っ」


 ずっと『リリ』と呼んでもらいたかったのです。

 私も貴方の名前を呼びたかったのです。

 本当はこれから先もずっと、貴方と夫婦でありたかったのです。


 たとえそれらが叶わないとしても、私はこの先もずっと貴方の側にいたいと願ってしまうのです。


「ここにいたいです……帰りたく、ないですっ。私、何でもします……っ。こう見えて、お料理もお洗濯もお裁縫も、何でも出来るのです……っ。ですから使用人としてでも構いません。侯爵家にいさせてください……っ。私を貴方の側に、いさせてくださいっ。ご迷惑は、おかけしませんから……っ……お願いします、お願い、します……っ」


 溢れる涙を懸命に拭いつつ鼻を啜りながらそんな事を訴える私はさぞみっともなく見える事でしょう。ですがそれでもいいのです。侯爵様のお側にいられるのならみっともなくても構いません。


 この侯爵家で貴方と過ごす何気ない日々が、私の幸せになったから。


「貴方と一緒にいたいんです、離れたくないんです……ッ。ですからどうかお側に――」


 気付いた時には私は侯爵様の腕の中におりました。その状況に訳が分からず固まっていると、侯爵様の腕が更に私を強く抱きしめてきました。


「俺も君と離れたくない」


 耳を疑ってしまいましたが、聞き間違いにだけはしたくない言葉でした。

 本当にそう思ってくれているのなら、これほど幸せな事はありません。


「俺はずっと君がいなくなってしまう事を恐れていた。踏み込んで君に嫌われてしまうのが怖かった。情けない男だと呆れてくれて構わない。だが俺は、これからも君と共に生きていきたいと思っている」


 侯爵様も私と同じように、思い悩みつつも踏み出す一歩を躊躇っておられたのでしょうか。私と同じように、歩み寄れない寂しさを感じておられたのでしょうか。


「これからもずっと俺の側にいてほしい。何処にもいかないでほしい。どうかこのまま俺の妻でいて欲しい」

「侯爵様……」


 侯爵様の言葉に思わず嬉しくてポロポロと涙が零れてしまいました。


 こんな田舎娘でも、逞しい体つきではなくても、貴方が私を妻として望んでくれるのなら、私は貴方のためにこれからも精一杯尽くさせていただきます。


 貴方の側にいる事が私の幸せになったのです。ですからこれから先も貴方と二人で日々を過ごしていきたいのです。


「侯爵様が許してくださるのなら、私はずっとお側におります。実家に帰れと言われてもくっついて離れない事にします!」


 そう言って侯爵様の背に腕を回してムギュッと抱きつくと、耳元で「ありがとう」というお礼を言われました。


 お礼を言うのは私の方です。こんなに素敵な人の妻になれたのですから、私は世界の全てに感謝したいくらいです。

 侯爵様好みの逞しい体ではないというのに妻でいて欲しいと言ってくださったのですから、私はその優しさに答えるべく、是が非でも逞しい体を手に入れなければなりませんね!


「あの、侯爵様」

「それなんだが」

「はい?」


 体を離し、互いに見つめ合うと、侯爵様が若干照れながらも口を開きました。


「俺だけ名を呼んでもらえないのは不公平だと思うんだ」


 少々頬を赤くしながらそんな事を言う侯爵様が何だか可愛く見えてしまいました。

 ああ、私も貴方を名前で呼んでいいのですね。とても嬉しいです。


 つい先ほどまで世界がどんより暗かったような気がしますが、今は一気に花が咲いたようなとても素晴らしい世界に見えます。人は気分一つでここまで見える世界が変わるものなのですね。


「ではこれからはディー様と呼ばせて頂きます!」

「……いきなりそこに着地するのか。さすが我が妻」


 若干困った様な表情をなさるディー様を見るに、いきなりこれはダメだったのかと落ち込んでしまいます。


 ずっと考えていた彼の愛称だったのですけれど。

 響きが可愛いので私は気に入っていたのですけれど。


「やはりダメですか……?」

「いいや。リリがそう呼びたいというのならそれでいいよ」

「ありがとうございます!」


 嬉しくて自然と頬が緩みます。気持ちの悪い顔になっていないか心配ですが、あまりの嬉しさに顔を引き締める事ができません。


 あら、いけません。肝心な事を忘れてしまうところでした。


「ところでディー様?」

「どうした?」

「今回のお話はどういう事だったのですか? 私は実家に返品されるのではなかったのですか?」

「それは断じてあり得ない」


 どういう事ですかというように首を傾げてみると、ディー様は今回の経緯を手短に話して下さいました。


 ディー様は私が時々寂しそうな顔をしている事に気付いていたようです。ですがそれが名前を呼んでもらえないからだとは気付かなかったようで、故郷を恋しがっているのだと勘違いなさっていたみたいです。ですから一度故郷に里帰りしてはどうかという意味で帰郷を申し出てくださったという事でした。


 私は盛大な勘違いをしていたのですね。ディー様は私の事を思って申し出てくれたというのに、それを遠回しの離縁勧告だと勘違いしてしまうとは。恥かしいというより申し訳なさ過ぎて消えてなくなりたい心境です。


「俺の言葉が足りなかったばかりに、誤解させるような事になってしまって申し訳なかった」

「いいえ、そんな。私の方こそ誤解をしてしまって……子供のように泣いて、我儘な事を言ってしまって……」


 思い出すだけでも恥かしいです。駄々をこねる子供のような私を見て、きっとディー様は呆れてしまったと思います。ですから今回の事はこれから頑張って挽回しなければなりません。


「言いたい事は我慢せずに言って欲しい。俺たちは夫婦なのだから」


 これからも夫婦であれる事が嬉しいです。

 これからも貴方と共にいられる事が嬉しいです。


「はい。ディー様」


 今ようやく夫婦としての一歩を踏み出せたような気がします。


 これからもきっといろいろな事があるのでしょう。ですが今後何があろうとも私はディー様のお側を離れるつもりはありません。


 私はディー様のお側にいたいから。

 ディー様もそれを願ってくれたから。


 これからもディー様との仲を深めるために私は頑張ろうと思うのです。






 ですが夫婦として一歩踏み出せたからこそ、胸の内に抱えている未だ告げられない私の『事情』に不安を覚えてしまうのです。


 私が抱える『事情』をディー様が知った時、ディー様は本当に私を妻として受け入れてくださるのだろうか、と。


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