互いの気持ち その二
怖れていた事が現実になってしまいました。
「そろそろ実家に帰ってみてはどうだろう」
侯爵様がお邸に帰宅した後、私の部屋で共に寛いでいる最中、侯爵様から突然それを言われました。あまりの衝撃に侯爵様のグラスに注いでいた葡萄酒を思わず零しそうになってしまいました。
「どうして、突然そんな事を……?」
「いや、そろそろ故郷へ帰りたくなったのではないかと思ってな」
私は故郷に帰りたいなどと思った事は一度もありません。確かに故郷を思い出せば懐かしいと感じますが、是が非でも帰りたいとは思いませんし、今の私がいる場所は侯爵様のお側だと思っております。ですから正直に言いますと、帰りたくありません。
「冬になれば移動も面倒になるだろうから、今のうちに向かった方が良いだろう」
確かに冬になれば地面の凍結や雪の影響で移動が困難になるでしょう。リリアリム地方は積雪量も少々多めの地域ですからね。侯爵様はそういった事を考慮して早めに私を帰そうと思われているのでしょう。
侯爵様なりの気遣いだという事は十分に理解できるのですが、その優しさが私の心を深く抉っていくのです。
「リリ嬢?」
「……」
侯爵様が私の事をいつまでも『リリ嬢』と呼んでいたのは、おそらく侯爵様にとって私は『妻(仮)』の状態だったという事でしょう。いつの日か実家に返品する事を考慮していたからこそ、『リリ』と呼んでくれなかったのですね。
きっと私が侯爵様好みの逞しい体であったなら、侯爵様だって私の事を正式な妻として迎えてくれたと思います。ですが私は侯爵様好みの体型には程遠い体です。侯爵様はおそらく跡継ぎの事に関して不安を募らせておられたのだと思います。最近の侯爵様はお忙しいようで邸に戻って来られない日もありましたから。
こんなことなら早々にお医者様に相談していればよかったです。そうすれば画期的な肉体改造の方法を得る事が出来たのかもしれません。屈強な女戦士のような逞しい体を手に入れる事が出来ていれば、こんな事態にはならなかったでしょうに……。
ぐるぐるといろいろな事を考えてしまいましたが、事態は既に後の祭りです。侯爵様からは先ほど返品命令が告げられてしまいました。どんなに帰りたくなくても、どんなにここにいたくても、もう私は侯爵家を出ていかなければなりません。
この状態で私が出来る事と言えば、侯爵様にご迷惑をかけないよう速やかに侯爵家を出る事くらいです。
「侯爵様がそう仰るのなら、実家に帰らせていただきます。早い方が良いでしょうから明日にでも」
「明日!? それはちょっと早すぎないか? もう少しのんびり帰郷の準備をすればいいのでは……?」
侯爵様がお優しいのは十分に存じておりますが、今はその優しさがとても辛いです。
「そうですね。明日というのは急な話ですよね。では明後日に侯爵家を出る事にします」
「明後日……」
侯爵様は何かを考えるように黙り込んでしまいましたが、すぐに「分かった」と承諾してくださいました。
「では何か必要なものがあればダグラスに言うといい」
「はい。お心遣いに感謝いたします……」
侯爵様とは少しずつではありましたが仲良くなれている気がしていたのですが、そう思っていたのは私だけだったのですね。侯爵様はお優しいから、きっと私の事を傷つけないように、私のする事に付き合ってくださっていたのでしょう。
こうなってしまったから考えてしまうのですが、無理に付き合わせてしまっていたとしても、それに便乗して名前も呼んで貰えばよかったと思うのです。名前を呼びたいとお願いすればよかったのです。
そうすれば少しでも何かが変わっていたのかもしれないと、今更ながらに思うのです。
◆◆◆◆◆
「何故かスッキリしない」
「あの国の内乱? そうだよね。あっさり終わるかと思いきや結構長引いてるからね」
本日も俺の独り言に参加してくるライル。いつものように全く見当違いな返事をしてくる。
頼むから俺の独り言は無視してくれ。
「手を貸している国があるのかもしれん。その辺りを探らせろ」
「りょうかーい」
とりあえずライルの言葉に合わせた指示を告げ、俺は席を立つ。
「どっか行くの?」
「資料室」
「じゃあ俺も行く」
と、ライルが言った瞬間、部署内にどよめきが起こった。
……何だ?
「何? 何か持ってきて欲しい資料とかあるの? 言ってくれれば持ってくるよ~」
妙な雰囲気に包まれている部下たちにライルがそう声をかけるが、皆一様に「滅相もありませんッ」といって断っていた。
「何なんだ?」
「さあ?」
そんな言葉を交わしつつ、俺とライルは部署を出て資料室へと向かった。
「さてさて。今日は昨日の報告かな?」
資料室に入るなりライルにそう問われる。普段なら一言言ってやるのだが、今はそんな気も起きないほど気分がすっきりしないのだ。
「リリ嬢の帰郷が決まったんだが……」
「そうなんだ。俺も見送りたいからいつ帰るのか教えて」
「明日だ」
「明日!? 早っ」
ライルが言うように、俺も早急過ぎると思う。
それほど故郷が恋しかったのだと思えば納得できない事はないのだが、どうにも釈然としないのだ。
「……何か、逃げ帰るような早さだね」
「お前もそう思うか……」
そうなのだ。この早急過ぎる帰郷には、故郷が恋しいというよりも侯爵家を早く出たいという意思があるように思えてならないのだ。
そう考えてはいるものの、もっと別の事で俺は胸の内はモヤモヤしている。
「本当は今日帰りたいと言われたんだ……」
「き、きっと故郷がとんでもなく恋しかったんだよ! ほら! リリアリム地方でしか食べられないものがあるとか、近々リリアリム地方でお祭りがあるとかさ! きっとそうに決まってるって! 大丈夫だから! 友達の俺が言うんだから間違いないから!」
「同僚のお前に言われてもな……」
「どうしていつもいつも友達って言ってくれないのかな!? いくら鋼の心臓を持つ俺でも心折れるよッ」
コイツの心が折れようがどうしようが知った事ではない。
「実は、リリ嬢は帰郷を喜んでいない節がある」
「これだけ早く帰りたがってるのに?」
「ああ。だから俺もよく分からないんだ」
リリ嬢が本当に故郷を恋しがっていたとするならば今回の帰郷を喜ぶはずだ。もし仮に、万が一、そうであって欲しくないが、俺との婚姻を後悔して故郷へ帰りたいと思っていたのなら、大っぴらに喜ばないまでもそれなりに帰れる安心感を持つはずなのだ。
しかし昨夜のリリ嬢はどういう訳か帰りたい素振りを少しも見せなかった。明日の帰郷を申し出て来たのはリリ嬢の方ではあるが、それでも彼女は全く嬉しそうではなかったのだ。それがどうしても気になり、俺は何か間違えてしまったのだろうかという考えに至ってしまう。
ふとした瞬間に寂しそうな顔をするのは故郷を恋しがっていたからではないのかもしれない、と。
「何か別の理由があったのかな? ねえ、本当に帰郷したいってリリちゃん言ってた?」
「ああ。俺から帰郷を申し出てたら、そういう事なら実家に帰ると言っていた。早い方が良いとも言っていたし、帰郷したいというのは間違いないと思うのだが……」
「何だろう。何か引っかかるような感じがする……」
「何が引っかかるんだ?」
「いや、その……」
何処か言いにくそうにしながらもライルがそれを告げる。
「何て言うか、離縁されたと思われてない? それ」
「は?」
「だってリリちゃんは里帰りを喜んでないんでしょう? でも早急に帰ろうとしてるんだよね? リリちゃんってその、ちょっと思い込みが激しいところがあるって言うか、そうなんだって思ったらそれしか見えなくなるって言うか……。もしリリちゃんがお前から離縁されたと勘違いしてるんだったら、たぶん今日家に帰ったらリリちゃんいないと思うよ……」
コイツは一体何を言っているんだ?
「おかしなことを言うな。リリ嬢がそんな勘違いなど……」
と言いながら、内心ではとても焦っている自分がいる。
まさかそんな風に取られていたのだろうかと思うと途端に不安になる。
「あのさ」
深刻に悩んでいる俺にライルが声をかけてくる。
「ずっと聞きたかったんだけど、いつまでそれそのままなの?」
「何がだ?」
「リリちゃんの名前。いつまで『リリ嬢』なんて他人行儀な呼び方してるの? 俺の前だけだって言うならそれで構わないけど、まさかリリちゃん本人に対してまでそう呼んでる訳じゃないよね?」
見透かされたようなその言葉に一瞬だけ言葉に詰まる。それを目敏く察したライルが思い切りため息を吐いた。
「やっぱりね。最初は照れてるのかなとも思ったけど、いつまでも呼び方が変わらないからおかしいと思ってたんだよね。そういう事ならさ、本当の原因はそれかもしれないよ」
「本当の原因?」
「リリちゃんが寂しい顔をする原因」
そう言われてようやく気づいた。リリ嬢が寂しそうな顔をする時は、決まって俺が彼女の名前を呼んだ後だったという事に。
俺としても彼女が俺の事をずっと『侯爵様』と呼ぶ事に寂しさを感じていた。しかしそれはまだ俺の事を夫として認められないからだと思っていたため、仕方ないと思っていた部分も確かにあった。だからこそ、彼女に夫としてちゃんと認められていない状態では、俺も彼女の事を『リリ』と呼ぶ事ができなかった。
夫として認められ彼女を堂々と妻だと言えるようになるまでは、きっとこのままなのだろうと思っていた。しかしそれは俺の勝手な考えであって、彼女もそうやって諦めていたとは限らない。
彼女も俺と同じような気持ちを持っていて、俺が名前をちゃんと呼ばない事に寂しさを感じていたとしたら、俺はとんでもない勘違いをしていた事になる。
自分がしたい事は果敢に挑戦してくれるが、彼女は俺にこうして欲しいああして欲しいとは滅多に言わない。俺としてはもっと願いを言って欲しいのだが、彼女は自分自身が頑張る方向で行動するため、誰かに何かをしてもらうという考えがそもそも薄いようなのだ。
そんな彼女がいざ俺に何かをしてもらいたいと願ったとしても、それを正直に俺に話すとは考えにくい。むしろ彼女なら自分で何とかできないだろうかと考えると思う。そんな彼女だからこそ、俺が『リリ嬢』と呼んでいる事で一線を引かれていると感じて、その事を悩んでいたのかもしれない。
俺にも言いだせず、自分でもどうにもできないとすれば、ただ寂しさを感じる事しか出来なかったのではないか?
俺が感じていたこの気持ちのように。
「悪い。今日はもう帰る。急ぎの仕事は邸でやる」
「あいよ。後の事はこの大親友様に任せとけ!」
いつものように笑いながら手を振るライルに一度だけ視線を向けた後、俺は資料室から飛び出し、邸へと急いだ。




