互いの気持ち その一
侯爵様との生活も日々順調に進んでいる今日この頃。悩みがあるとすれば、侯爵様に没収された筋力トレーニング道具をこっそり使って日々筋肉増強に努めているというのに、一向に体が逞しくなったような気がしないという事でしょうか。
私の体はなかなか筋肉がつきにくい体なのでしょうか。もしそうであるのなら、今後どうやって屈強な女戦士のような逞しい体になればいいのでしょう……。体質の関係で筋肉つかないというのであれば、一度お医者様に相談してみた方がいいでしょうか? とにかく悩ましいです。
筋肉に関して頭を悩ませている最中ではありますが、実はもう一つ、悩んでいる事があるのです。
侯爵様にご相談してみようとも思ったのですが、侯爵様好みの逞しい体になれない今の状況ではお話しづらいというのが正直なところなのです。
日課の侯爵邸お庭巡回トレーニングを終えて部屋に戻る最中、廊下を歩く侯爵様を見つけました。
今の時間であれば職場にいるはずの侯爵様が何故お邸にいらっしゃるのか不思議でしたが、もしかしたら仕事が早く終わって帰宅なされたのかもしれないと思い至りました。もしそうであるのなら、今日はたくさんお話ができるかもしれないので嬉しさが沸き上がってきます。
侯爵様は私に背を向けたまま廊下を進んでいますから、侯爵様はまだ私の存在に気づいていません。
「ふふ。少し驚かせてみましょう」
悪戯心とは正に今私が抱いている気持ちの事を言うのでしょうね。子供の頃は多少悪戯をした事もありましたが、私には弟がおりますので悪戯をする弟を諌める事の方が多かったように思います。姉として悪い見本になってはいけませんからね。
そんな私の思い出話はさておき。
速やかに、且つ気づかれないよう侯爵様の背後に近づくと、侯爵様の顔をめがけて手を伸ばしました。
「私は誰でしょう!」
「むぐッ!?」
「あら?」
ああ、いけません。私の背が足りないばかりに、侯爵様の目を隠すつもりが目測を誤って口を塞いでしまいました。
これではただの不審者ではありませんか……。
「も、申し訳ありません!」
侯爵様に不審者認定されたくないので、速やかに侯爵様から手を離し、正面へと回り込みます。
「すみません。目元まで手が届きませんでした。正解はリリです……」
本当は侯爵様に答えてもらいたかったので、自己申告しなければならないのがとても残念でなりません。そもそも目隠しができなかったというところからして失敗しているので、今回の作戦は突発的思考による無計画が敗因だったと言えるでしょう。次は侯爵様が座っているときに再挑戦させていただく事にします。
「可愛い手に口を塞がれたと思ったら、君だったか」
侯爵様を見上げれば、口元を押さえつつ肩を震わせております。
……笑われてしまいました。
「ほ、本当は目隠しがしたかったのです。この時間に侯爵様のお姿を見つけましたので、つい嬉しくて……」
嬉しくてはしゃいでしまった自分が途端に恥ずかしくなり、思わず俯いてしまいました。
自分の所業に顔から火が出そうです。
「お仕事が終わってご帰宅なさったのですか? もしそうなのでしたら、これから一緒にお茶でもどうですか?」
恥ずかしさが消えたわけではないのですが、侯爵様と一緒にいられる嬉しさの方が若干勝っているので、恥ずかしさに俯きながらも午後のお茶にお誘いしてみました。
しかし侯爵様からは謝罪の言葉が返ってきました。
「申し訳ないが、邸に置いてある資料を取りに来ただけなんだ。茶はまた今度共にしよう」
侯爵様を見上げれば、申し訳なさそうなお顔で私を見おろしておられました。そんな顔を見てしまっては落ち込んだ顔など見せられません。
「ではまた別の機会に。楽しみにしておりますね」
「ああ」
淡く微笑んでくれる侯爵様に笑みを返し、『別の機会』がいつか本当に訪れる事を切に願いました。
侯爵様は大変お忙しいか方なので、朝も早くに出掛けられ、夜も遅くまで戻られない日が多いのです。ですから私は一人の時間を過ごす事の方が多いのですが、それを寂しいと思ってしまうのは私の身勝手というものでしょう。確かにずっと侯爵様のお側にいる事が出来ないのは寂しいですが、侯爵様が私に笑いかけてくれるだけでその寂しさは癒される気がするのです。ですから侯爵様が笑顔になるように私も笑顔でいようと思うのです。
「そろそろ戻らないといけない。すまないがもう行く。見送りはここでいい」
「はい。行ってらっしゃいませ」
そう告げると、侯爵様の顔が近付いてきます。それはお見送りの挨拶をさせていただく合図です。
私は差し出される侯爵様の頬に口づけをし、侯爵様も私の頬に口づけてくださいました。最近ではこの一連の行為がお見送りの挨拶となっているのです。
驚くべき事に、侯爵様も私の頬に口づけてくださるようになったのです。嬉しいです。少々気恥かしい気もしますが、侯爵様と少しでも仲良くなれた気がして私はとても幸せです。
「今日も遅くなってしまうだろうから、リリ嬢は先に休んでくれて構わない」
「あ……」
先ほどまでの幸せな気持ちが一気に消えてなくなってしまうような感覚に思わず視線が落ちてしまいました。
たった一言。その一言が、私と侯爵様の距離を遠ざけるのです。もっと侯爵様と仲良くなりたいのに、未だ侯爵様が一定の距離を保つかのように線を引いているので、私の方もその一歩が踏み出せないのです。
「どうした?」
「いえ、何でもありません」
気落ちしていると悟られないように顔を上げて笑顔を作ります。ですが侯爵様の心配そうなお顔を見れば、私の笑顔は無様な笑みになっていたのだと思います。
「お仕事頑張ってくださいね」
「ああ……」
侯爵様は何か言いたげな感じでしたが、何も言わずに職場へと戻って行かれました。
それを見送った後部屋へと戻ると、思わず涙が滲みました。
「どうして私の名前をちゃんと呼んでくださらないのですか?」
胸の内に押し込んだその疑問が思わず口から零れました。
侯爵様に聞けないそれに、私は最近頭を悩ませているのです。
侯爵様は私の事を『リリ嬢』と呼んで私との距離に一線を引いておられます。侯爵様がそうであるのに私が侯爵様を名前でお呼びする訳にはいかず、私は未だに彼を『侯爵様』という他人行儀な呼び方でしか呼べないのです。
私が彼の好みの逞しい体つきではないから一線を引いているのでしょうか?
では私が逞しい体つきになれば名前をちゃんと呼んで貰えるのでしょうか?
どうしたら彼に名前を呼んでもらえるのか。
最近では彼に呼ばれる度にそればかり考えてしまうのです。
◆◆◆◆◆
「気付かないうちに何かしてしまったのだろうか……?」
「みんながお前を避けて通るのはいつもの事だろう? 今更そんな事気にしてどうすんの」
鍛錬のためではなく仕事上の用事で騎士団を訪れたその帰りの道中、いつものように俺の独り言にライルが参加してきた。本当に鬱陶しい。しかも全く関係ない答えを返してくるものだから余計にイラつく。
「……いっそお前を消してしまえばこの苛々は解消されるのだろうか」
「何か怖い事言ってる!? 何で俺消されちゃうの!? 俺が何したって言うんだよ!?」
「俺の独り言に参加してくるお前が鬱陶しいからいっそ消してしまおうと」
「お前が独り言やめれば解決すると思うんだけどな! もしくはもっと小声とか胸の内で呟くとかすればいいと思うよ! とにかくまずはお前の方で解決策を見出せよ!」
周りに迷惑をかけるなとか何とか喚くライルをしっかりと無視し、俺は最近気付いたそれに再び頭を悩ませた。
最近、ふとした瞬間にリリ嬢が寂しそうな顔をする事に気が付いてしまった。それはほんの一瞬の事なのだが、それでもそれに気付いてしまったらその理由が気になって仕方がなかった。
やはり俺に嫁いだ事を後悔しているのだろうか。
それとも未だに筋骨隆々の逞しい体にならない俺に落胆しているのだろうか。
そんな事ばかり考えてしまい、リリ嬢に直接聞く勇気を持てずにいる。相手がライルだったなら理由を吐くまで問い詰めたとしても何の罪悪感も抱かないだろうに、リリ嬢が相手となると途端に尻込みしてしまうのは嫌われてしまう事を恐れているからだ。
「はあ……」
「ため息なんか吐いてどうしたの? 何か悩み事でもあるの?」
「悩み事があろうとお前にそれを告げる義務はない」
「何言ってんのさ。お前が相談できる相手なんか俺くらいだろうに」
「失礼な事を言うな。俺にだって相談できる相手の一人や二人…………とにかく余計なお世話だ」
「うん、何かごめん。ホントごめん。でも大丈夫。俺はずっとお前の友達だから」
俺はリリ嬢がいれば生きていけるからコイツがいなくても問題はない。
「もしかしてまた家の事で悩んでんの?」
ライルの言う家の事というのは、すなわちリリ嬢の事だ。現状、リリ嬢が俺の妻になった事を知っているのはライルだけなので、リリ嬢の事に関しての相談はコイツにしかできないというところが激しく不愉快だ。しかしそれでも道端の石ころに相談するよりは多少マシだろう。
「場所を変えていいか?」
「いいよ~」
そんな訳で、いつものように資料室へと向かう。
以前は俺が頻繁に出入りしていようともたまに誰かが資料を取りに来りもしていたというのに、最近では全く誰も来ない状態となっている。そこまで俺がこの資料室を利用しているという事実は他者の足を遠ざける原因となっているのだろうか。そう思うとため息が出そうになるが、この資料室は聞かれたくない話をする場所として重宝しているため人が来ない方が都合がいいと最近では考えるようになった。
「実は先ほど資料を取りに邸に戻った時」
「うんうん」
「背後から『私は誰でしょう』という言葉と共に口を塞がれた」
「いつものほのぼの話かと思ったらいきなり物騒な展開に……ッ」
実際のところ、リリ嬢が背後から近付いてきている事には気付いていた。しかしそっと近づいてくるのできっと驚かそうとしているに違いないと思い、驚く準備を万全に整えて俺は待っていた。
そうやって何をしてくれるのか楽しみに待っていた訳だが、いきなり口を塞がれた事には予想外過ぎて本気で驚いてしまった。
「俺が立っていたばかりにリリ嬢の手が俺の目に届かなかったんだ……」
「ああ、そういう事だったのか。てっきり刺客の女に背後を取られたのかと思って心配しちゃったよ」
「俺がリリ嬢以外に背後を取られる訳がないだろう」
「ウン、ソウダネ」
棒読みで返してくるライルに文句があるかというような視線を送ると、目の前の男は面倒そうなため息をこれ見よがしに吐きやがった。
「で、何? リリちゃんが可愛過ぎて困ってるとかそんな話?」
「確かにリリ嬢が愛らしいというのは日々悩ましいところではあるが」
「そこ否定しないんだ……。人ってこれだけ短期間で変われるんだね……ビックリだよ……」
未確認生命体でも見つけてしまったかのような視線を寄こすライルには、人をも殺すと言われている俺の睨みを送っておいた。
「まあ、そういった一連の行動があった訳だが、その時に一瞬だけ寂しそうな顔をされたんだ。最近そういう事が多々あってな。何か悩み事でもあるのかと思って心配している」
「そうなんだ。寂しそう、ね……」
うーんと唸り声をあげながら考える素振りを見せるライルは、考えながらも口を開く。
「お前も忙しいからリリちゃんに構ってあげる時間って少ないだろう? だから寂しいんじゃない? 使用人がいると言っても、対等なのはお前だけだろうし……。あっ! もしかしたら一人の時間が多くなって故郷が恋しくなっちゃったのかもしれないよ」
ハッとしてライルの方を見る。相変わらずの阿呆面なのに、ホントにコイツは鋭い着眼点を持っている。そこだけは評価する。
「それだ」
「いや、むしろそれに思い当たらないお前にビックリなんだけど。仕事の事なら俺なんかよりずっといろんな可能性を想定できるくせに」
リリ嬢の事だっていろいろと想定しているが、彼女の事になると感情の方がより前面に出てしまって上手くいかなくなるだけだ。
「そうか。故郷が恋しくなってしまったのか」
「まだそうと決まった訳じゃないからちゃんと確認した方がいいと思うけどね」
「いや、おそらくお前の言う通りなのだと思う。きっと帰郷したいという願いを言いだせずに悩んでいたのだろう」
思えば、リリ嬢の実家があるリリアリム地方は王都からどう頑張っても五日はかかる距離にある。すぐに行って帰って来れる距離ではないため、里帰りしたいと言いだせなかったのかもしれない。
俺はなんて気が利かない夫なのだろうか。妻が言い難い事は夫である俺が察してやらねばならなかったというのに。リリ嬢にはずっと寂し思いをさせてしまって申し訳なかったと思う。
「帰ったらリリ嬢に帰郷を提案してみよう」
「あのさ」
不意にライルが神妙な顔つきになる。
「何だ?」
「ずっと気になってたんだけど、お前って――」
ライルが何かを言いかけた時、資料室の扉が控えめに叩かれる音がした。
『申し訳ありません。こちらにディートルト様はおられますか?』
思わずライルと顔を見合わせてしまったが、ライルの方がすぐに行動を起こして扉へと向かった。
「どうしたの? この資料室は俺たちの管轄なんだから遠慮せず入ってこればいいのに」
「お二人が中にいるのにそんな恐ろしい事は出来ません!」
どうやらやって来たのは部下のようだ。先の言葉から俺に用があるらしいので俺も扉へと向かう。
「急用か?」
「は、はい! 申し訳ありません! 本当にすみません! 決して邪魔をしようとかそんな事は考えておりませんのでお許しくださひぃぃ」
最後の方は若干悲鳴のようだったが、部下の男は何故かしきりに邪魔をして申し訳ないと謝ってきた。別にそこまで詫びなくても、こっちも仕事をしていた訳ではないので訪問を咎める気はない。
「いいからさっさと用件を言え」
一向に用件を言わない部下に若干イラつきながら声をかけると、部下は涙目になりながら早口で用件を言い始めた。
「い、急ぎの書類が回って来ましたのでご確認お願いいたしますッ。今日中に所定の部署に回さないといけないようなので戻って来てください……うう……ッ」
最後の方は最早泣いていた。ため息が出た。
「分かったすぐに戻る。わざわざすまなかった」
「い、いえ、とんでもございません! お二人とも、お邪魔をしてしまい申し訳ありませんでしたッ!」
部下は俺たちに勢いよく頭を下げた後、逃げるように走り去ってしまった。それを唖然として見送ると、ライルから声が聞こえた。
「何か様子がおかしかったような気がするんだけど……気のせいかな?」
「俺に対してはいつも通りの反応だったと思うが?」
「俺に対しても態度がおかしかったような気がするんだけど……」
「そうか?」
俺はディートみたいに怖い人間じゃないのに、という失礼極まりない事を宣うライルにはその横腹に拳を叩き込んでやった。そうして苦悶の表情を浮かべながらその場に崩折れるヤツを一瞥してから俺は部署へと戻った。




