夫婦らしい事 その一
妻→夫の順番で視点が変わります。
肉体改造のために購入した道具を侯爵様に没収されてしまいました。その道具は侯爵様自らが使用するという事でしたので無駄にはなりませんでしたが、何故か私に対しては過度な運動は禁止されてしまいました。
最近お仕事が忙しいのか夜もただ共に寝るだけの日々が続いておりましたが、まさか侯爵様は私が懐妊したという誤解をしているのでしょうか? 申し訳ないのですが、先日月のものが来ましたので残念ながらまだ懐妊はしていません。侯爵様がそういった誤解をしているというのならちゃんと解いておかなければなりませんが、跡継ぎを待ち望んでいる侯爵様にそれをお伝えするのは大変心苦しいです。ですが侯爵様が理想とするたくさん子供が産める逞しい体を手に入れるために、私は一日でも早く肉体改造をせねばならないのです。このまま過度な運動を禁止されたままでは逞しい体を手に入れる事ができませんから、ちゃんと誤解は解いておきましょう。
「侯爵家のお庭はとても綺麗」
トレーニング道具は没収されてしまいましたが、体づくりのためにこうして侯爵家のお庭を何周も巡るという運動を最近では欠かさず行うようにしています。侯爵家の敷地はかなり広いのでとてもいい運動になるのです。
しかしながら、実家にいた頃は毎日の山を駆け巡るような毎日を送っていたのでこうした散歩程度の運動ではこれ以上の筋肉増強は望めないのが悲しいところです。実家にいた頃からやっている運動も侯爵家に来てからも欠かさず行っておりますが、筋肉増強のためにもう少し運動がしたいです。私は侯爵様のために一刻も早く屈強な女戦士の如き逞しい体つきになりたいのです。
「あら、この花は」
リリアリムでも見た事があるその花に近づいてみれば、爽やかな香りが鼻腔をくすぐります。この花の香りには疲れを癒す効果があると聞いた事がありますから、毎日お仕事を頑張っていらっしゃる侯爵様の寝室に飾っておけば、きっと侯爵様の疲れも癒される事でしょう。それとも私の部屋の方がいいでしょうか? 侯爵様は毎晩私の部屋にいらっしゃいますし。
「そう言えば、どうして夫婦の寝室がないのでしょうね?」
個人の部屋があるのは別におかしな事ではありません。私の両親も個人の部屋はそれぞれ持っておりましたからね。しかしながら両親の個人部屋と寝室は扉で繋がっており、それぞれの部屋から夫婦の寝室に行けるようになっていました。私はそれが普通だと思っていたので、侯爵家に嫁いで来て、部屋に寝台があった事に少々驚いてしまいました。邸の生活に慣れてきたら部屋を移動するのかとも思いましたが、未だ侯爵様が私の部屋に来て下さるという生活を送っています。両親のように寝室を一緒にした方が夫婦仲も深める事が出来るような気がするのですが、世間一般の貴族の皆さんにとって別々の寝室が一般常識というのであれば、私はそれに慣れるべきですよね。
「でもちょっと寂しいですね」
私の両親はそれはもう仲が良くて、未だに蜜月真っ只中のような二人なのです。私はそんな両親の仲睦まじい姿を見ながら育ちましたので、誰かの妻となった時には私も旦那様と仲良く暮らしたいと思っておりました。
「寝室が別だからと言って夫婦らしい事が出来ない訳ではないですよね」
参考にできる身近な夫婦は両親や領民の皆さんくらいですが、両親も領民のご夫婦の方々も皆仲の良い夫婦ばかりでしたから、参考にするにはもってこいだと思うのです。
侯爵家に嫁いでもうすぐひと月が経ちますし、もっと侯爵様と夫婦らしい事がしてみたいです。
「そうだわ、お母様がお父様にしていたアレを私もやってみましょう!」
侯爵様の妻となった今、憧れていたアレを実戦する日が来たのだと思うと、思わず胸が高鳴ってしまいました。
翌朝。いつものように仕事に向かう侯爵様を見送っている時、勇気を出して侯爵様に声をかけてみました。
「少しだけお待ちください」
そう言って侯爵様の目の前に立つと、身長差故に侯爵様の顔を見上げる姿勢になりました。
「どうした?」
「えっと……」
身長差があった事を失念しておりました。少し背伸びをしてみましたが、目的を達成することは出来そうにありません。
何か打開策はないでしょうか。両親も身長差があったはずですから、それを補う解決策があったはず。
えっと、確かお父様の方がお母様の身長に合わせるように屈んでいたと思います。
「あの、申し訳ないのですが、少しだけ屈んでもらえませんか?」
「何故だ?」
間髪入れずに聞き返されてしまいました。困りました。一から説明するのは少々恥ずかしいです。確かに行動を起こすのも恥ずかしくはあるのですが、説明してから行動に移す方がとんでもなく恥ずかしいのです。
「えっと、屈んでもらえれば分かります」
「理由は言えないのか?」
「いえ、あの、そうではなくて……」
侯爵様は理由を言わない限り屈んでくれそうにありません。そうですよね。理由を言わずいきなり屈んでほしいとお願いされても困りますよね。迂闊でした。身長差を考慮して侯爵様のお手を煩わせる事なく目的を達成できるよう対策を練っておかなければならなかったというのに、とんだ失敗をしてしまいました。
「すみません。先程のお願いは忘れてください」
「……分かった」
目的を達成できぬまま侯爵様を見送ると、今日の失敗を教訓に、新たな作戦を練ることにしました。
◆◆◆◆◆
「おい、ライル。ちょっと屈め」
「え? いいけど」
今朝リリ嬢が俺に言った事をちょうど立ち上がったライルに言ってみると、この男は何の疑いもなく屈みやがった。
「これでいい?」
「お前は何故屈むんだ?」
「理不尽ッ」
ギリギリと歯ぎしりしながら睨んでくるライルの視線を軽く受け流し、屈むのをやめた同僚を座ったまま見上げた。
「何も考えずに屈んだ瞬間、顔面に蹴りを入れられたらどうするんだ」
「そんな事しようとしてたの!?」
「仮の話だ。お前も常に最悪の状況を想定して行動しなければいつか痛い目に遭うぞ」
「お前は日々何と戦ってるんだよ!?」
リリ嬢が理想とする筋骨隆々の体を手に入れるために日々騎士たちと模擬戦をしているが、それ以外では戦っていない。
「普通は屈む前に理由を聞かないか?」
「ああ、そういう事ね。まあ知らない奴とか知り合い程度の奴とかなら先に理由聞くけど、今回はディートだったし」
「何故俺だったら理由を聞かずに屈むんだ?」
「だって友達だし」
「答えになっていない。もっと明確な理由を言え」
「明確な理由って言われても……」
少し考える素振りを見せたライルは、すぐに何かを思いついたようにあっと声を上げた。
「お前だってリリちゃんが屈んでくれって言ったら屈むだろう? それと同じだよ」
その発言がなされた瞬間、俺はライルの首根っこを掴んで部署を出ると、そのまま資料室まで奴を引きずった。そうして誰もいない資料室にライルを放り込み、すかさず自分も中に入って扉をきっちりと閉める。
この資料室は俺たちの部署の管轄だが、俺がよく利用しているからか、普段からほとんど人気がない。それ故に聞かれたくない話をするのにはうってつけの場所なのだ。
「部署内でリリ嬢の名を口にするな」
「結婚した事いつまで隠してるつもり? リリちゃんと夫婦でいるために頑張るんでしょう? 頑張る方向おかしいけどさ……。とにかく、もう隠す必要ないでしょう? それとも何? 可愛いリリちゃんは誰にも見せたくないとかそういう事? そういうのダメだよ。束縛男は嫌われるんだからね」
「針仕事をした事はないが、お前の口を縫い付けるくらいは俺にもできると思う」
「真剣な顔で恐ろしいことさらりと言うのやめて!」
ガチガチと歯を鳴らしながら涙目になる目の前の男を腕を組んで睨みつける。
「中途半端に情報が漏れてしまえば確実によからぬ噂に発展してしまう。俺の妻だぞ? どうせ、良くて生贄か人質、悪くて人外といった感じに噂されるに決まっている。そんな風に噂されてみろ。傷つくのはリリ嬢だ」
「お前自分で言ってて悲しくならない?」
余計なお世話だ。
「とにかく、今はまだダメだ」
「ディートの言い分も理解できるし、そういう事ならディートが公表するまで誰にも言わないよ。でも良かった。ちゃんと公表する気があって。もし子供が生まれた瞬間離縁するなんて言い出したらどうしようかと思ってたから、ちょっとホッとした」
二ヘラと笑うライルに一瞬目を見張ってしまったが、直ぐに眉間に皺が寄る。
普段は何も考えていないような阿呆面をしているくせに、たまに確信をつくような言葉を言うから腹が立つ。
「……それはもう、考えてはいない」
「そっか。良かった」
俺はもう離縁する未来を想定して行動するのはやめた。確かにリリ嬢がこの先離縁を申し出たとしたら聞かないわけにはいかないだろうが、俺からそれを提案する事は決してない。リリ嬢と夫婦であるために努力すると誓ったのだ。だからこそ俺はもう俺自身の噂に拘らない。しかし俺に纏わりついている噂は確実に妻となったリリ嬢にも影響する。それが分かっているからこそ、リリ嬢を妻として周りに紹介する場は慎重に吟味しないといけないと考えている。
「そういえば何の話してたんだっけ?」
「お前が理由も聞かずに屈んだ事についてだ」
「そうそう、そうだった。リリちゃんに屈んでくれとか背伸びしてくれとか言われたらお前だって理由聞かずに聞いてあげるでしょうって話。これならお前も俺が屈んだ理由分かるだろ?」
「……屈まなかった」
「え?」
「今朝リリ嬢に屈んでくれと言われたが、俺は屈まなかった」
「そうだったの? まさかとは思うけど、リリちゃんが顔面に蹴りを入れてくるかもしれないとか考えたからじゃないよね?」
「リリ嬢がそんな事するはずがないだろう」
「じゃあ何で屈まなかったんだよ」
「それは……」
リリ嬢が俺に何かしてくれと頼んできたのは初めての事だった。だから俺はリリ嬢がそう願った理由を純粋に知りたかっただけなのだ。しかしリリ嬢は理由を教えてはくれなかった。それを少しだけ寂しく思ったが、やはりまだ夫として認めてもらえていないのだろうと思い、聞き返すことはせず邸を出てきた。
「まあいいや。あのさ一つ聞きたいんだけど、どういう状況で屈んでほしいって言われたの?」
「今朝邸を出る時に目の前に立たれて、少し背伸びをしながら屈んでくれと言われた」
相談相手がライルというのが気に食わないが、こんな奴でも何かに気づくだろうかという極僅かな期待を込めて今朝の状況を説明する。するとライルは何故か呆れたようなため息を吐きやがった。
「何だ。言いたいことがあるならハッキリ言え」
「お前さぁ、絶対に屈まなかったこと後悔するよ」
「どういう事だ? お前はリリ嬢の言葉の真意が分かったとでも言うのか?」
「いや、お前以外なら誰でもわかると思う」
「なぜ俺だけ除外されるんだ」
確かに俺はリリ嬢の言葉の真意に未だ気づけていないが、俺以外は誰でも分かるというのは聞き捨てならない。
「気づいたなら教えろ」
「やだね。自分で気づきなよ。そして大いに後悔すればいい!」
「何だ? 何故いきなり気持ち悪い顔で笑うんだ、鬱陶しい」
「鬱陶しくて結構! あーあ、心配して損した! お幸せにね! 鈍感ディート!」
笑いながらそんな捨て台詞を吐き、ライルはさっさと資料室から出ていった。
「何なんだ一体……」
確かにライルはリリ嬢の言葉の真意に気づいたようだが、アイツの変な態度を見るに、あまり良いことではないような気がしてならなかった。




