妻の理想
「一体何があったというんだ……」
誰もいない資料室で重苦しいため息を吐きながら、読んでもいないのに手元の資料をめくる。確か調べ物があってここに来たはずだが、どうしても集中できない。
「何故筋トレ……」
昨日帰宅したらリリ嬢が激しく筋トレをしていた。何故筋トレなどしているのかと聞いてみたら、俺が喜ぶからだと言われた。訳がわからなかった。
確かにリリ嬢に会うまでは彼女の事を屈強な女戦士だと思っていたが、俺は別に筋肉質な女が好みというわけではない。正直に言って、リリ嬢のような可憐な女性の方が好みだ。だからこそ俺としてはそのままのリリ嬢でいてほしいのに、彼女は体を鍛えるのだと言って両手に持った鉄アレイを何度も振り上げていた。絶望しそうになった。
「何とかしてやめさせたい」
「何を?」
「とりあえずお前の心臓の動きを」
「それ遠回しに殺すって言ってるよ!?」
ライルが資料室に入ってきた事には気づいていたが、相手をするのは面倒だから無視していたというのに。
どうしてコイツはいつも俺の独り言に参加してくるんだ、鬱陶しい。
「何だ。情報の真偽が掴めたのか?」
「ああ、うん。今回のは本当だったよ」
用もないだろうにわざわざ資料室に来たという事は、俺への報告かサボりに来たかのどちらかだ。まあ今回は確実に報告だという事は分かっていたが、俺としてはリリ嬢の事で頭がいっぱいなのでコイツの相手はしたくなかった。
「昨日情報屋にも会って来たけど、あちらさんは本気でこっちに戦争仕掛けるつもりみたい。会談に応じるって話をそのまま信じてたら本当に大変な事になってたと思う」
「他に情報は?」
「今のところはこれだけ。引き続き内情を探ってくれるように頼んできたから、何か良い情報が入ったら連絡くれるってさ」
「そうか。分かった」
「きっとこっちは長年戦争とは無縁だったから軍部は貧弱だとか思ってるんだろうねぇ。大体あっちは近隣諸国に喧嘩売りまくってるから軍事的には疲弊しまくってるだろうに。本気でやりあったらこっちが勝つって分かりそうなものなんだけど。ルフレムの王様、ホントバカだよね」
「そんなバカな王が治める国の偽情報に踊らされたお前は真の馬鹿だな」
「余計な仕事増やしてすみませんでした……」
しゅんと項垂れる同僚を前に小さく息を吐く。普段は何でも卒なくこなす奴だから、今回の失態はコイツにしては珍しかった。
隣国であるルフレム国とは近年険悪な状態が続いており、あちらの現国王が即位してからというもの、その険悪な状態が更に悪化していた。こちらとしては当たり障りない関係のままを維持したいため話し合いで何とか穏便にすませたいというのが本音だったりするのだが、あちらの国王が一向に話し合いを受け入れないためこちらとしては頭を悩ませていたところだった。そして今回、あちらの国がこちらからの会談要請に応じるという返答し、それに伴ってその真偽を探っていたところ『会談に積極的な姿勢である』という情報を掴まされ、それをこちらは鵜呑みにしてしまっていたのだ。俺たちの上司がその情報は偽物で彼の国が会談に応じる気は更々ないのだと連絡を入れてくれなかったら、後日行われるはずだった会談の場が血の海になっていた事だろう。
とはいえ、騎士団の諜報部も偽情報を掴まされていたようだから、今回ばかりはあちらが一枚上手だったと言うことだろう。あの国の王はとんでもない愚王だが、ずる賢さは天下一品だからな。
「最悪の事態は回避できたのだから問題はない。それにあの国にはこちらが偽の情報に踊らされていると思わせておいた方が都合がいいしな。今のうちにこちらから密偵でも送り込んで内乱が起るように仕向ければ、すぐにでも政権交代は成されるだろう。あの国の王は阿呆だが王子はなかなか使えそうだしな。愚王を討てる機会を逃すことはないだろう。もしくは内乱に乗じて我が国があの国を吸収してしまうか……ああ、その方がいいかもな。あの国の製鉄技術は是非とも欲しい」
「お前ってホント考え方がエグいよね……」
こちらの国に戦争をしかけようとしている国がどうなろうと知ったことではない。むしろ滅びて我が国の属国になればいい。もともと我がアムリア国とルフレム国は大昔は一つの国だったという歴史があるのだから、元の通り一つの国に戻ればいいとさえ思う。もちろん我が国主導の元で。
「あの人ならもっとエグイ事を考えると思うがな」
「それもそうだね……」
あの人というのは俺たちの上司、エルハルド・ルーファンの事だ。
机仕事はむかん! とか何とか言って自ら近隣諸国に出向きまくる上司は王都にすら滅多に戻って来ないため、近年配属されて来た者たちは上司の顔を知らないというのが現状だ。むしろ俺を部の長と勘違いしている奴までいるくらいだ。確かに、実質的に部署を管理しているのは補佐官である俺とライルだが、部の責任者はちゃんと上司になっている……はずだ。
「あの国は最近国内事情も荒れていたからな。おそらく放っておいても内乱に発展するだろう。とりあえずはこちらが巻き込まれないように国境線の警備強化を騎士団の方でしているだろうから、俺たちの出番はまだまだ先だ。だが得られる情報は常に仕入れておけよ」
「りょうかーい」
これで話は終わりだと思ったのだが、予想に反してライルはまだそこにいた。
「何だ? まだ用があるのか?」
「結婚おめでとう」
「は?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「全く、何でそんな重大なこと教えてくれないのさ。友達でしょう? ちゃんと祝わせてよ。まあ、あんな可愛い子がお嫁さんだったら誰にも紹介したくない気持ちは分かるけどさ。他に心変わりされたくないだろうからね」
「妄想も大概にしろ。お前は友人ではなくただの同僚だ」
「今の会話で気になったのそこ!? 結婚の話よりも先に訂正しないといけないほどそれ重要なの!?」
「最重要事項だ」
「お前もお前ん家の使用人も俺の扱い酷すぎだッ!」
事実を言ったまでだというのに、何が気に食わないんだこの男は。
「しかし何故我が家の最重要機密情報をお前が知っている?」
「何その国家機密並みの扱い。リリちゃんは隠してるような感じじゃなかったよ?」
「……貴様、今何と言った」
「え、何!? 何で自然な流れで懐剣取り出すの!?」
コイツは今リリ嬢の事を気安くちゃん付けで呼びやがった。万死に値する。
「彼女を気安く呼ぶな」
「そこ気にしてたの? じゃあレヴェリー侯爵夫人って呼べばいい?」
思いもかけないライルの言葉に思考が一時停止した。
そうか。俺の妻になったのだからレヴェリー侯爵夫人と称されるのは当たり前の事か。だが、その呼び方で呼ぶ事だけはさせられない。
「悪いが、彼女をそう呼ぶな」
「何で? お前の奥さんだろ?」
「妻にしてしまったから呼ぶなと言っている」
「ごめん、意味が分からない」
彼女とは初夜も済ませ、正式に夫婦となった。しかしリリア男爵家の噂が事実無根である事を知った今、侯爵家からの縁談話を脅迫に取られた可能性が浮上した。
俺には『歩く凶器』という代名詞と共に妙な噂が多数存在している。そんな俺が侯爵家より下位の家柄であるリリア男爵家に縁談話を持ちかけたとあっては、断れば家を潰されかねないと思われても不思議ではない。そうであるのなら、リリ嬢は嫌々俺の元に嫁いだ可能性が濃厚になってくる。そんな状態でレヴェリー侯爵夫人などと呼ばれてしまっては、夫の俺が言うのも何だが、リリ嬢が不憫でならない。健気に俺の妻でいようとしてくれるリリ嬢を思えば、これ以上の無理を強いるのは酷というものだ。
しかしながら、相手探しに苦労していた俺としては嫌々でも侯爵家に来てくれたリリ嬢を今手放すことはできないのだ。リリ嬢が来てくれるまでどれだけ縁談の申し込みを断られたのかを思い出せば、別の縁談の見込みなど俺にある訳がない。
俺の代でレヴェリー侯爵家を終わらせる訳にはいかないのだ。跡継ぎなんてどこかから養子でも貰えばいいじゃないか、と自暴自棄になった時期もあったが、やはり自分の子に家を継いでもらいたい。こんな身勝手な考えを押し付けてしまってリリ嬢には本当に申し訳ないと思っているが、彼女以外に侯爵家の跡継ぎを産んでくれる人がいないのでどうしても手放せないのだ。跡継ぎ問題に関してはリリ嬢も了承してくれているが、申し訳ないという思いはやはり拭えない。
本音を言えば、俺はリリ嬢と真の夫婦になって一生を共にしたいと思っている。しかしそれはきっと俺だけの願いだろうから、リリ嬢にそれを押し付ける気は毛頭ない。だからこそ跡継ぎを産んでくれた後は彼女の願いを優先させようと考えている。たとえそれが離縁の申し出だとしても受け入れるつもりだ。
予想としては十中八九そうなるだろうと思われるため、彼女自身の外聞が悪くならないよう俺と婚姻している事実は広めないように注意している。まあ、相手が俺だから別れる際に妻でいる事に耐えられなかったという事にしてもらえればそれでいいのだが、念には念を入れておいた方がいい。俺に纏わりついている変な噂のせいで予期せぬ事態に陥る可能性もあるからな。
リリ嬢のために俺が出来る事と言ったら本当に些細なことくらいだが、何もしないよりは彼女のために何かしたいのだ。
たとえその先に別れる未来があるのだとしても。
「好き好んで俺の元に嫁いでくる令嬢がいると思うか? 彼女だって、きっとそうだ」
自分で言って落ち込むなど愚の骨頂だな。
そう思うのに、自嘲すら今の俺にはできない。
「お前ってバカなの?」
「ああ?」
いつもなら悲鳴を上げる程の睨みを送ってやったが、予想に反してライルは少々不機嫌そうな顔で俺を見ていた。
「嫌々お前に嫁いだってリリちゃんが言ったの?」
「言わずとも、そうに決まって」
「どうしてお前が決めつけるんだよ。俺が言えた義理じゃないけど、噂に一番囚われてるのって実はお前自身だよな」
「何だと?」
「だってそうだろ? 自分には変な噂があるからリリちゃんも自分の事を良く思ってないんだって考えてんだろ?」
「それは……」
やけに突っかかってくるライルに言い負かされそうになっている。ライルのくせに生意気な。
「お前の噂に惑わされるような女が良い女な訳がないだろう。お前の元婚約者がいい例だ。それに比べてリリちゃんはお前の噂を知っていてもお前の嫁になったんだぞ? それってちゃんとお前を見ようとしてくれてるって事だろう?」
「彼女が俺を……?」
そんな馬鹿なと思うが、心の奥底ではそうであって欲しいと願っている自分がいる。
分かっている。俺は既に手放したくないと思うくらいにはリリ嬢に想いを寄せている。だからこそ、リリ嬢には俺をちゃんと見てもらいたいと願ってしまうのだ。
「リリちゃん言ってたよ。最初はお前の事百戦錬磨の兵士の如き筋骨隆々で熊みたいな大きい男だと思ってたって。会った事もない不穏な噂ばっかりの筋骨隆々のデカイ男に嫁ごうと思う子ってなかなかいないと思うよ。いや、むしろいないよ。でもさ、リリちゃんはそれでもお前の元に嫁いできたんだよ? リリちゃんだってそれなりの覚悟をもって嫁いできたんじゃないの? それなのにお前がそれを否定してどうすんの」
確かにリリ嬢は初めて対面した時、少し驚いたような感じで俺を見てきた。しかしそれでも真っ直ぐに俺の事を見つめてくるその瞳に恐怖の色は全くなかった。それは噂の俺ではなく、俺という人間をちゃんと見ようとしてくれたからなのだろうか。
「……ん?」
いや待てよ。初めて対面したあの時、自己紹介もしたというのにリリ嬢は本当にレヴェリー侯爵なのかと確認して来た。それはつまり彼女の予想と俺自身に相違があったからに他ならない。ライルが言うようにリリ嬢が俺の事を百戦錬磨の兵士の如き筋骨隆々で熊のように大きな男だと予想してたというのなら、もしかしたら彼女は筋骨隆々のデカイ男が好みだったのではないだろうか? 好みの体型の男に嫁いだと思っていたらこんな背が高いだけの一般平均並みの男が現れれば、自己紹介の後でも本人かと確認したくもなるだろう。
そうか、そういう事だったのか。
だとすると、リリ嬢は俺を見てさぞ落胆した事だろう。
「今回ばかりはお前に気付かされてしまった」
「いいって事よ。友達だろ」
コイツが友人かどうかはさておき。どうしてリリ嬢のような可憐な少女が俺の元に嫁いで来てくれたのかずっと疑問だったが、俺が筋骨隆々のデカイ男だと思ったからこそ嫁いできたという事ならば納得がいく。そういう趣味の女は少なからずいる事は知っていたが、彼女もそうだったとは迂闊だった。
リリ嬢は嫌々嫁いできた訳ではないのかもしれないと分かったが、リリ嬢の好みとは違う俺ではこの先の結末はおそらく同じだろう。しかしただ手放すだけの未来しかなかった少し前とは違い、今はリリ嬢を手放さなくてもいい打開策がちゃんとある。彼女と生涯を共にする事が出来る未来を得るために、俺はその策に全身全霊で取り組む事にしよう。
「俺に足りないものは筋肉に覆われた屈強な身体だったんだな」
「お前は何に気付いちゃったの!?」
先ほどまでリリ嬢の筋トレをやめさせたかった俺としては、彼女の筋トレ道具を没収するいい口実も出来たし、その筋トレ道具も活用できるしで、今はとても清々しい気持ちだ。
よし。とりあえず今は騎士団の訓練場へ行こう。
「幸いな事に背はある。後は騎士団長殿のような分厚い胸板を手に入れれば彼女もきっと喜んでくれるはずだ!」
「喜ばないと思うから思い直そうねッ! お前が騎士団長さんみたいなゴリマッチョになったら部署に残ってくれた奇特な子たちに更なる恐怖を与えちゃうからホントやめて! これ以上人がいなくなったら仕事にならないから!」
「これからは朝の訓練に俺も参加させてもらおう」
「話聞けよ! 何この既視感ッ!」
早速騎士団長殿に参加の許可を貰いに行かなければと思い、ギャーギャー騒いでいる同僚を無視してさっさと扉へと向かったが、やり残したことを思い出して立ち止まる。
「良かった。話聞いてくれる気になっ、てない!? ちょ、何、近い近い怖い怖いッ」
ライルの元に数歩で戻ると、奴の襟首を掴んで引き寄せる。
ライルは涙目だったが気にしない。
「ずっと気になっていたんだが」
「な、何?」
「お前は一体どこで彼女に会って話をしたんだ? 殺さないから言ってみろ」
「怒らないからの間違いだよね!?」
その後、リリ嬢と出会ったところから話した会話の内容の一言一句までライルから聞きだした。
不当な尋問だと騒ぐライルには、俺とお前は友人だからただの世間話の範疇だと言い聞かせておいた。




