嫁ぎました
『何故出来ないと決めつける? やってみれば案外できるかもしれないだろう? それじゃあ頑張るんだぞ』
そんな事を言って去って行こうとするその人に、私は逃がしてなるものかと全身全霊で縋りつきました。その時の私は人生最大の危機に直面していたので、助かる可能性をみすみす逃す事はできなかったのです。
そうやって泣きながらその人の腕にしがみついていると、その人は面倒そうなため息を吐きながらも私の手を引いてくださいました。
『そうやって泣いているだけでは何の解決にもならない。それは君だって分かっているはずだ。では今後はどうすればいいのか、という事をこれから少しずつでも考えてみるといい。それを成すためには何をすればいいのかが分かったら、それをしてみるといい。できないと決めつける前にやれる事は何でもやってみるべきだ。やる前からできないと諦める事は自分の可能性を自分で潰しているのと同じなんだ。だからこそ、可能性を見出すための努力は惜しんではいけない』
その人との出会いとその言葉は、今でも私を支えてくれる大切な思い出なのです。
◆◆◆◆◆
「リリ。お前の縁談が決まってしまった……」
目の前には、何かに絶望しているお父様と今にも倒れそうなほどに顔色の悪いお母様がおります。
二人の様子を見るに、ちょっと……いえ、かなり覚悟のいる縁談という事なのでしょうか?
「その縁談は伯父様たち経由のお話でしょうか?」
「いや、違う。この縁談話は彼らからではない」
「あら、それは驚きです」
実のところ、私自身は領地であるリリアリム地方から出る事がないばかりか社交界にすら顔を出していないのです。ですからリリア男爵家に娘がいるという事を知っている方は本当に僅かしか居ないと思うのです。何より、我が家は男爵という爵位はあってもそんなものは名ばかりで、深い森と標高の高い山々に囲まれたド田舎領地を細々と治めているような貧乏田舎貴族ですからね。普通に縁談話が来ること自体が奇跡と言えるでしょう。
そんな事情があるにもかかわらず、伯父様をはじめとした『私』を知る方たち以外からの縁談話という点に驚きを隠せません。私自身、まさか全くの別方面から縁談が舞い込むとは思ってもみませんでしたから。
しかしながら、過保護の度合いが振り切れているようなお父様がその縁談を受け入れた事こそ、最も驚くべき点なのではないかと密かに思っております。
私ももう十八になったというのに両親は全く以てこれっぽっちも私に縁談の話をしなかったばかりか『一生この家にいたらいいじゃない』と言わんばかりの圧力を最近では感じておりましたから、まず両親を攻略しなければ私は誰にも嫁げないのだろうと若干絶望していたくらいです。
ですから今回の縁談話は私にとってはある意味好機と言えましょう。お父様とお母様の様子が若干気になりますが、何事も挑戦する事が大事なのだと思うのです。たとえ覚悟のいる縁談であったとしても私は必ず乗り越えて見せます!
「えっと、それで相手の方はどなたのですか?」
いろいろと思うところはありますが、とりあえず誰に嫁ぐのかをお父様に問いかけてみれば、お母様が倒れてしまいました。隣にいたお父様がすぐに抱きとめたので転倒はしませんでしたが、もう自力では立てないようです。
私はただ嫁ぐだけのはず……ですよね?
「お母様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。大丈夫……うう」
今度は泣き出してしまいました。お父様も懸命に宥めておりますが、お父様ももう泣きそうです。
困りました。話が全く進みません。
「お父様、お母様。私も貴族の娘に生まれた以上、どんなところにも嫁ぐ覚悟はできております。お父様が受け入れた縁談です。私はお父様の判断を信じます。それに私ももう十八ですし、そろそろ誰かに嫁がねば我が家の外聞も悪くなりましょう。うちの事情もありますからなかなか難しいとは思っておりましたが、こうやって私にも縁談のお話が頂けたのです。どうか私の事はご心配なさらず。とりあえずどなたに嫁ぐのかを教えてください」
至って冷静に、そして二人を安心させるように微笑めば、お父様がようやくその重たい口を開きました。
「相手の名は……、ディートルト・レヴェリー侯爵殿だ」
◆◆◆◆◆
ディートルト・レヴェリー。
年齢は二十五歳。
大貴族の一つであるレヴェリー侯爵家の嫡男であり、既に家督を継いでいる。
凄腕外交官。
女性関係の浮いた話は一切なし。
お父様曰く、この辺りが差し障りのない彼の情報のようです。
そして次に、嫁げばおのずと分かってしまうだろうからという事で、お父様は差し障りのある彼の情報も言い難そうに教えてくださいました。
その鋭い眼光は人をも殺せる。
どんな猛獣でも素手で仕留める事が出来る。
彼の逆鱗に触れた者は消される。
怒りにまかせて壁などを破壊する。
外交時、彼が出す条件を呑まなかった国は翌年には地図上から消える。
その他諸々。
噂では『歩く凶器』とまで言われているような方だそうです。私は初めてレヴェリー侯爵様のお話を聞いた訳ですが、お父様が縁談の申し込みを受け入れたというのならそれほど警戒しなくてもいいのではないかとも思っております。たとえ不穏な噂をお持ちの方であってもきっと大丈夫……ですよね?
おっと、ここで弱気になってはいけませんね。いろいろと思うところはありますが、私が侯爵様に嫁ぐ事はもう決まったのです。ですから私が早急にするべき事は、侯爵様の妻として様々な事を想定し、それに対応できる適応能力を磨く事だと思うのです。
今こそ子供の頃に頂いたあのお言葉を実行する最たる機会だと思うのです。現実は物語のような奇跡は起きないのですから、自らの知恵と努力で困難には立ち向かわねばなりません。ですからあの人が教えてくれたように、理想を叶えるためにまずはできる事から頑張ってみようと思うのです。
本音を言えば、私などが相手で本当にいいのかしらという思いが胸の内にあるのは確かです。誰に嫁ぐ事になったとしても、その思いだけはきっと変わらず抱いてしまうのだと思います。この縁談は侯爵様自らが申し込んで来られた縁談です。そのため、そういった気持をより強く感じてしまうのでしょう。
それを両親は理解してくれているのだと思います。お父様もお母様も最後の最後まで「イヤになったらすぐにでも帰ってきていんだよ!」と言いながらがっちりと私の手を掴んでなかなか離してくれませんでしたから。
過保護な両親からお嫁には出したくないという意思がチラホラ見え隠れしていたのは気のせいだと思います。弟が私を見送ってくれる両親を生温かい目で見ていたような気もしますが、全て気のせいだという事にしておきます。
お父様やお母様の心配も理解できなくはないのです。私が『リリ・リリア』である限り切り離せないモノは確かにあるのです。ですがそれが分かっていても、レヴェリー侯爵様は自ら私に縁談を申し込んでくれた人だから、私は彼の妻としてこれから精一杯頑張ってみたいと思うのです。
◆◆◆◆◆
「これが侯爵家のお邸……」
王都にある侯爵家のお邸にまるっと五日かけてようやく到着すると、目の前にドーンと現れた侯爵家のお邸にしばらく言葉を失ってしまいました。侯爵家のお邸は、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら見送ってくれた両親とそれを引き攣った顔で眺めながら見送ってくれた弟の記憶が一瞬にして吹き飛んでしまうくらいの豪邸でした。
目の前のお邸に比べれば我が男爵家のお邸など納屋と称されてしまう事でしょう。最早比べるのもおこがましい程です。
「ようこそ、リリ・リリア様。長旅でお疲れでございましょう。さあ、中へどうぞ」
言い難い名前ですみません、と心の中で詫びながら、出迎えてくれた家令のダグラスさんに促されるままに侯爵邸へと足を踏み入れました。そしてその煌びやかな内装に目眩がしました。これだけたけ高そうな物ばかりだと、誤って壊してしまわないかが物凄く心配になってしまいます。弁償なんてとてもじゃないですができそうにありません。これは慎重に行動しなければなりませんね。
そうやって触れているのは床だけを心掛けながら田舎者丸出しでダグラスさんについて行くと、あきらかに女性が使うと思われる部屋へと案内されました。この部屋は侯爵様が私のために用意して下さったという部屋だそうです。
統一性のある品の良い調度品は全て侯爵様が自ら選んで用意して下さったとか。噂ばかりに囚われて物凄く誇張した人物像を想像しておりましたが、こうして私のために何かをしてくれたという事に感動してしまいました。もしかしたら噂より良い人かもしれません。ちょっと安心しました。
しかしながら、貧乏生活に慣れ過ぎた私ではどう頑張ってもこの高価な調度品の数々を使用する勇気が持てないというところに申し訳なさを感じます。
「本来であれば旦那様自らがお迎えしなければならないところを私のような者が代理を務めさせていただきました事を、どうかお許しください」
屋根裏部屋があればそちらに移れないかと半ば本気で考えていると、突然ダグラスさんが深々と頭を下げながら謝罪の言葉を口にしたので慌ててしまいました。
「どうかお気になさらず。私のような田舎娘を出迎えて下さっただけでも感謝しております。それにこのような素敵なお部屋まで用意して下さって。何とお礼を言ったらいいのか。本当にありがとうございます」
こちらも感謝の意味を込めて頭を下げると、今度はダグラスさんが慌てはじめました。
「私のような使用人に頭を下げるなど不要でございます。何より、貴方様を田舎娘などと思う者はこの侯爵家にはおりません。貴方様は旦那様に嫁いで来て下さった大切なお方です。使用人の皆が貴方様を歓迎しております」
たとえ社交辞令であってもそう言ってもらえるのは嬉しいです。実家には使用人など一人もいなかったので少し不安だったのですが、周りに居る侍女の皆さんもダグラスさんも優しそうな人たちですから一安心です。
「旦那様は夕刻にはお帰りになられると思いますので、それまではゆっくりとお過ごしください」
何かあれば遠慮なくお呼び下さい、と言ってダグラスさんと侍女の皆さんが退出していきました。
さて。旅の疲れもありますし私としてもゆっくりしたいのですが、高そうな物ばかりのこの部屋ではふっかふかの長椅子に座る事も憚られます。
果たして、私はこの部屋で寛ぐ事がで来るのでしょうか?
◆◆◆◆◆
我が男爵家の領地であるリリアリム地方はアムリア国とルフレム国の境目に位置する地域で、良く言えば山々に囲まれた自然豊かな場所、悪く言えば辛うじて未開の地ではないと言うようなド田舎です。訪問者は年間十数人程度で、そのほとんどがたまに来てくれる行商人の方々なのです。別に隔離された地域ではないのですが、わざわざ行こうとは思わないような場所なのだと思います。私としては、自然に囲まれた素敵なところだと思うのですけれどね。
そんな場所で育った私は、恥ずかしながら王都へ来るのは初めてなのです。貴族であれば一度は社交界に顔を出すのが一般的のようですが、私は一度も社交の場に出た事はありません。両親の友人が開く夜会には何度か参加させていただいた事はありますが、王城で行われるという大規模な舞踏会や宴などには参加した事はないのです。招待状が来ない訳ではないのですよ。ですが、招待状が届いたその日に開催される催しに参加できるほど高速な移動手段は持っておりませんので(領地から王都までどんなに頑張っても五日はかかります)、参加できなかった詫状を両親はいつも送り返しておりました。
中央貴族の方々からしてみれば、我がリリア男爵家は謎に包まれた一族なのではないかと思われます。それ以前に地方の田舎貴族の事など興味の欠片もないと思いますけれど。そうであるにもかかわらず、何故侯爵様は私のような田舎娘に縁談を申し込まれたのか不思議でならないのです。
私は父から聞いた侯爵様の事しか知りませんが、どんな猛獣でも素手で倒せるとなればきっと体の大きな方なのだと思います。壁なども破壊する事が出来るようですから、筋骨隆々な方だと予想されます。容姿の方も体に見合った野生み溢れる男らしい感じの方なのではないかと思います。
いろいろと想像はつきませんが、私自身、野山を駆け回る野猿のような娘ですし、容姿に至っても残念ながら美人でも可愛くもありませんから、侯爵様に嫌われてしまったらどうしようという心配の方が今は大きいです。
容姿が気に入らず実家に返品すると言われてしまうのは避けたいところではありますが、容姿の良し悪しが逆鱗に触れる事になってしまったら、私は一体どうなってしまうのでしょう……。
ああ、いけませんね、噂ばかりに囚われていては本当の侯爵様を見極めることなど出来ませんよね。私はもう侯爵様に嫁いだ身。侯爵様がどんな人であろうとも、夫婦として仲良くやっていけるよう努力するべきだと思うのです。
簡単に手に入る幸せなど何処にもないのですから、幸せというものは向こうから来るのを待つのではなく自ら掴み取りに行くべきなのです!
政略結婚だろうが相手が『歩く凶器』だろうが、きっと幸せになる道はあるはずです。
ですから、私はその幸せを探そうと思うのです。
◆◆◆◆◆
「ディートルト・レヴェリーだ。はじめまして」
扉を開けたその先には一人の男性が立っております。
背は私より頭一つ分以上高く、すらりと長い手足に均整のとれた体つき。容姿に至っては、その精悍な顔立ちはとても整っていて綺麗だと思います。眼つきが少々鋭く感じますが、私としましては子供の頃に助けていただいたあの人に少しばかり似ている気がするので大変魅力的に感じます。
「貴方が侯爵様なのですか?」
「そうだ」
想像していた方とは随分と相違がありましたので思わず確認してしまいましたが、どうやら目の前にいる男性が侯爵様で間違いないようです。
夕刻なっても帰って来なかった侯爵様を私は夕食も入浴も済ませて待っていた訳ですが、日付が変わってから部屋を訪ねて来られるとは思っていませんでしたから少々焦ってしまいました。持って来た荷物の荷解きもそこそこにもう寝ようかと思っていたのですが、起きていてよかったです。本当に。
侯爵様の事は噂に基づいていろいろと想像しておりましたが、噂されているような恐ろしい方には見えませんでした。やはり噂は所詮噂に過ぎなかったという事なのでしょうね。
噂の真偽はさておき。こうして噂の侯爵様との対面を果たしたのですから、これからは私自身が侯爵様の人となりを知っていけばいいですよね。
「夜分遅くに申し訳ないが、少しよろしいか?」
「はい。どうぞ」
侯爵様を部屋の中へと招き入れると、侯爵様は一直線にふっかふかの長椅子へと向かい、そのまま腰を下ろされました。私も侯爵様に付いて行ったのですが一体どこに座ればいいのか分からずわたわたしていると、侯爵様が隣を示されたのでそこに座らせてもらいました。少し距離があるのは新妻の恥じらいという事にしておいてください。
「申し訳ないが、君に話しておかなければならない事がある」
疲れたような息を吐きながら膝に肘をつく侯爵様。何処となく諦めたような感じがするのは気のせいでしょうか? ハッ! もしや妥協も出来ないほどに私の容姿がお気に召さなかったというお話でしょうか!? 諦めたような感じがするのは私の容姿にご不満がおありだからですか!?
そうですよね。侯爵様はとても綺麗な方ですし、こんな野猿のような田舎娘では隣に並び立つなどおこがましいにも程がありますよね。このままでは私は実家に返品されかねません。それは全力で回避したいです。
どういった理由があったのかは分かりませんが、侯爵様は誰からも縁談話を貰えなかった私を極僅かでも妻にと考えてくださった奇特な方です。ですから私は実家を出るとき、どんな方であったとしても侯爵様の妻として頑張ろうと決めたのです。私の容姿がお気に召さないと仰るのなら、侯爵様のお気に召すよう何とかいたします!
とはいえ元の造作を作り変える事はできませんから、化粧で何とかするしか道はありません。という事は、妻となる第一歩は全身全霊で化粧技術の向上に努めるという事で決まりですね。
「ご安心ください。ご満足いただけるよう精一杯頑張らせていただきますから」
決意を込めてそう告げてみると、侯爵様が何故か呆気にとられたような顔でこちらを見つめてきました。
やはり化粧で誤魔化してもダメなのかと少々不安に思っていると、侯爵様は納得するように、ああそうか、と小さく呟かれました。
「既にダグラスから話を聞いているという事か。ならば話は早い」
侯爵様が立ち上がってこちらに手を差し出してきたので思わずその手に手を重ねると、取られた手を引かれて立たされました。立ち上がった事でもう話は終わりなのかと首を傾げてみれば、侯爵様にそのまま手を引かれて寝台まで誘導されてしまいました。
そうですよね。夫婦になったのですからそういう事もしますよね。
大丈夫です。そういった知識はちゃんと備えてありますから。
ですがその、大変申し訳ないのですが、初心者なのでそちらの頑張り方はまだ分かりません。




