promise you the moon
もしもあなたが望むなら。
あの月だって、取ってきてあげる。
*
その夜も、塔子さんはいつも通りに現れた。
「昨日は、迷惑かけてごめんなさい」
開口一番、長話をした事と取り乱してしまった事を詫びると、塔子さんはゆったりと首を振って、
「いいのよ。むしろ鴇が、弱いところを見せてくれて嬉しかったわ」
「……趣味、悪くない?」
「だって鴇はいつも、強がっている子でしょう? どんな風が来ても逃げたりしないで、それに立ち向かおうとしてしまう子でしょう? 見ていると危なっかしくて放っておけない気持ちになるのだけれど、でも余計な手出しをすると叱られてしまいそうで。だから、ね。わたしにもたれてくれて嬉しかったわ」
言いながらすとんと隣に腰を下ろすから、私は自分から寄り添って、塔子さんの肩に頭を預けた。
「誰にも懐かない猫が、わたしにだけ甘えてくれるのね」
楽しげに囁く彼女の指が、さらさらと髪をくすぐる。
私はただされるがままに目を閉じて、塔子さんには何も言わなかった。
言えなかったのではなく、言わなかった。
私たちが階違いの住人で、塔子さんが本当は私をどう思っているかも知れなくて。でも、それでも友達ごっこは続けられるだろう。
それでよかった。それでいいと思えた。
心の中を顧みれば自分でも驚くくらい、私は塔子さんに依存している。
香奈さんの、他の生還者たちの話を聞いた時。まず私の胸を過ぎったのは、「私だけじゃないんだ」という奇妙な嫉妬だった。
これはきっと私が抱く、初めての執着だ。
曖昧で茫漠として、いつも「それなり」でしかない私が手に入れた、数少ない本物なのだ。
「塔子さん」
「なあに?」
人間は、幸福に貪欲だ。
ひとつが叶えば、もっともっとを欲しててしまう。もっともっとと願ってしまう。
だから、私は受け入れようと思った。
塔子さんに出会った他の人々と同じように、熱で壊れていこうと思った。
この人は優しいから、多分最後まで側にいてくれるだろう。
それは諦めとは似て非なるものであると、そう、信じた。
「塔子さんは、私が死んでしまったら、悲しい?」
すると塔子さんは私の肩を掴んで真正面から向き合わせて、こつんとおでことおでこを触れ合わせた。
「訊かなければわからない?」
「ううん」
目を閉じて否定すると、「悪い子ね」とやさしく叱る声がした。
それから私たちは体を離して、以前お願いした通り、塔子さんにモデルを務めてもらった。
私の指示通りに椅子に腰掛ると、彼女はきちんと両手を膝の上に乗せ、ぴんと背筋を伸ばしたその格好のまま固まって動かなくなる。
「あの、塔子さん」
あまりに気張った不動っぷりに思わず呼ぶが、返事がない。
「……塔子さん?」
「……喋ってもいいの?」
「最初にも言ったけど、いつも通りにしてくれればいいよ」
「ええ、大丈夫よ。わかってる。わかっているわ」
頷きはするものの、絶対にわかっていない。
いつも通りいつも通り、と口の中で呟く塔子さんは明らかにがちがちだ。クロッキーのモデルくらいでこんなに緊張する人がいるとは思わなかった。
「もっと肩の力を抜いていいから。いつもみたくだらだらごろごろしていてくれればいいから」
「わたし、そんな自堕落は見せていないと思うのだけれど」
唇を尖らせて、ようやく彼女の緊張が少しだけ解れる。
「それはそれおいておくとして、もうひとつお願いしてもいい?」
「何かしら?」
塔子さんは小首を傾げた。動きにつれて細い肩の上を、長く艶やかな髪が撫でた。
「あ、うん。明日なんだけど」
鉛筆を動かして、私は紙に、ちょっぴりだけ彼女を写し取る。
「明日の夜も、また来てくれる?」
「いいけれど、どうして?」
「実は明日って、私の誕生日なんだ」
誕生日なんて嘘だった。
だだもうじき、また熱が出る。そんな前兆を私は感じとっていた。今度伏してしまえば、もうそれが最後のような気がしていた。
だから塔子さんに、甘えておこうと思った。彼女の記憶に残るような何かを、やっておきたいと思ったのだ。
「私、あんまり友達はいないし、叔母さんたちには声をかけたくないし。でもそういう日を独りで過ごすのはやっぱり寂しいから、だから塔子さんが招待されてくれたら、嬉しいなって」
「……鴇のおねだりなら、仕方ないわね」
「仕方なくなんだ?」
「いいえ、ごめんなさい。ありがとう、鴇。嬉しいわ。誘ってくれて。それから、わたしを友達って言ってくれて」
頭を振って、塔子さんは無防備に笑う。
それはあまりに透き通っていて、こっちの方が恥ずかしくなってしまうくらいだ。
「代わりにプレゼント、楽しみにしてるよ?」
「もう。それならどうしてもっと早くに言ってくれないの? 贈り物を選ぶにしても、時間が足りないわ」
「あ、冗談、冗談だから。嘘だからね? 何も用意しなくていいから。ケーキ食べるくらいのつもりだから」
「そうなの?」
「そうなの」
相変わらず真顔で反応するので、慌てて私はプレゼントの要求は軽口なのだと言明する。するとどうしてか、塔子さんはひどく残念そうな顔をして。
その表情を見たら、もう少しだけ、わがままを言っても許されるような気持ちになった。
「もし何かくれるつもりがあるなら、私は約束が欲しいな。ずっと私とこんなふうに過ごしてくれるって、そんな約束」
卑怯な言葉だと知りながら、私はそう口にする。
もし塔子さんが困ったら、すぐに冗談にしてしまうつもりだったのだけれど。
「ええ、約束をしましょう。わたしはあなたの側にいるわ。二度と鴇が寂しくならないように、ずっと」
彼女はすぐさま真顔で頷いて、滑らかに椅子を立つ。
そうして私の鼻先に、そっと小指を差し出した。
「指きり?」
「そう。指きり」
促されて、そっと指先を絡める。
指きりげんまんの歌はなしで、ゆっくりと上下に振る。その間ずっと、塔子さんは私の目を覗き込んだままだった。
「もしこの約束を破ったら、わたしは地獄に落ちるわね」
静かに囁いて、塔子さんは指を解く。
くるりと向けた背中が今にも泣き出そうで、私はかける言葉を見失う。
「まあそれはそれとして」
けれど椅子まで戻ってまた振り向いた塔子さんは、もういつもの塔子さんだった。
ゆったりと笑んで、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「プレゼントは別に、精一杯で考えておくわ。覚悟していなさい」
「うん。楽しみにしてるよ」
私の言葉を最後に、しばらく沈黙の帳が下りた。
紙を鉛筆が滑走する音だけが響く。クロッキー帳から視線を上げるたび、塔子さんと目が合った。書く側よりも書かれる側の方が、余程真剣に相手を見ているようだった。
言葉はないまま、けれど通い合って満たされた空気がそこには在った。
そのまま、幾枚か描いて。
横目で時計を確認してから、「はい、おしまい」と声をかける。塔子さんが普段何をしているのかは知らないけれど、あまり長く拘束するのもよくないだろう。
まだ緊張したままだったのか、塔子さんは胸に手を当ててほうと息を吐いた。
そんな彼女に歩み寄り、私はそっとクロッキー帳を差し出す。
「約束のモデル料は、塔子さんが気に入ったのを選んでね」
自分の中で上手く描けたと思うのはある。だけどそれは自己評価に過ぎない。だから気に入りは本人に選んでもらうのがいいだろう。
塔子さんは受け取って、それからゆっくり味わうように帳面を捲っていった。最後まで見終えて、また始めに戻る。それを数度繰り返しから、や彼女はやっと面を上げた。ひどく嬉しそうに目を輝かせていた。
「ありがとう、鴇。本当に、綺麗に描いてくれたのね」
「私は、私が見た通りにしか描かないよ」
以前とは少しだけ変えた台詞を返したら、塔子さんぱっと赤くなってクロッキー帳で顔を隠した。貴重なものを見れた気がする。
「……鴇は、ドン・ファンでも目指しているの?」
恨み言めいた物言いは聞こえない振りだ。素知らぬ顔でで私は鉛筆を片付けてから、
「あ、そうだ。明日は玄関からおいでよ、塔子さん」
ふと告げると、塔子さんは豆鉄砲で撃たれたように、きょとんと瞬きをした。
「……確かに窓からばかりというのもおかしいわよね」
「うん。秘密の通路もいいけど、たまにはちゃんとお迎えしないと」
すると塔子さんははにかみ顔をして、
「鴇の窓って、なんだか出入りしやすいのよ。誰かを待っているみたいな雰囲気で、だから受け入れてもらえそうに思えるのよ。でも、そうね。そうしたら明日は、ちゃんと正面からお邪魔するわ」
結局。
その後塔子さんは、大切そうに私のクロッキー帳を抱えて帰っていった。どの一枚を貰うか決められないから、今夜一晩悩ませて欲しいと言われて、それで貸し出す事になったのだ。
「それじゃあね、鴇。また明日」
「うん、また明日」
そんなふうに未来の約束を言い交わして別れて、でも床に就くと、それを嘲るように悪寒がした。やはり、熱が出るようだった。
──もうちょっとだけ待ってよ、私の体。
もう少し。あと少しだけ。塔子さんとちゃんとお別れをするまでいいから、お願い。
祈りながら、目を閉じた。