失敗譚
あなたのコップには、どのくらいのミルクが残っていますか?
まだ、半分もある?
それとも。
もう、半分しかない?
*
黒部さんには娘がいた。
過去形だ。享年は、私とそう変わらないという。
「娘は、香奈は、同じ大学に進む予定の友人達と卒業旅行に出た。そしてそのバスが、谷に落ちた」
事実だけを辿る淡々とした口調には、嘘ではない悲哀があった。
けれど事故と言うのなら、ならばますますにわからない。
一体何なのだろう。彼に垣間見える、滾る憎悪めいたものは。
「谷底に転落したバスは炎上し、状況は絶望的と思われた。だが香菜だけが奇跡的に、怪我一つなく助かった。他の犠牲者には悪いが、俺は快哉を叫んで喜んだよ。その時は、な」
だけど帰ってきた香菜さんは、おかしな症状に見舞われた。
それは異常恒常性と周期的な発熱。そして、誰かの記憶の混入。まるで鏡に映したように、私と同じ症状だった。
「娘は言ったよ。誰かが頭の中に居る、知らない光景がずっと見えると。俺はそれを、同行の友人を亡くした心の傷であると決め付けた。医者もそう言った事だしな。だから生きていればいずれは癒えるものだと考えた。だが、それは間違っていた」
黒部さんの指が、また忙しなく組み替えられる。
「自分の記憶と他人の記憶が混じり合って、あれは、次第に自分が誰だかわからなくなっていくようだった。俺も怯えたよ。なにせ娘が目の前で、見た目だけが同じ違う人間になっていくんだからな。せっかく帰って来れたというのに、中身が入れ替わっていく。思い出が塗り替えられていくんだ」
私を見据える黒部さんの目の奥に、煮えたぎる氷のような激情が見えた。
ぐらぐらと音を立てて沸騰しながら、それでも決して蒸発せずに形を保つ。そんな強い想念が。
「あれは孝行な娘だった。早くに母親を亡くした所為で、苦労ばかりをかけた。遊びたい年頃だろうに、家の事ばかりに時間を費やさせてしまった。だからたまの羽を伸ばし程度はとよかろうと許してしまった。まったく、あの判断を悔いない日はない」
そこで言葉を切って、黒部さんは眼鏡を外した。たっぷりと時間をかけてレンズを拭う。
脈絡のない動作だったが、それは自分の中の煮えたぎる氷を鎮める行為なのだろうと見当がついた。
「香奈のバスが落ちた場所はな、お前が生き残った現場と、地図の上ではそう離れていない。あの辺りは昔から霧がひどい。前触れもなく突然に、突き出した腕の先が見えないくらいに濃く湧くそうだ。だから事故もよく起きる。ただな、凄惨な事件には必ずいるんだよ。どうしてか、殆ど傷もなく助かる人間がな」
私の反応を透かすように、黒部さんは視線を送ってくる。
その強さに、思わずで目を逸した。
「何分隠された記録も多い。全てのケースは網羅できていないだろう。だがそいつらは後日、必ずある症状を起こす。少しは知恵の回りそうなお前だ。それが何か、見当はつくだろう?」
「私や香奈さんと、同じ……?」
「そうだ。そして更にその全員が、発症から数ヶ月以内に死亡している。死因は自殺か、病熱に端を発する心機能不全だ」
嘆息のように吐き出して、黒部さんは天井を仰いだ。
「よく思い出してみろ。ようく思い出してみろ。お前は事故の時、その現場で、何かに出会わなかったか? 何かを飲まされなかったか?」
言われるまでもなかった。繰り返し見る、事故の夢が即座に閃く。
──助けて欲しい?
そして、飲んだ。飲まされた。
あの液体の熱を思い出して、思わず口元に手を当てる。
私のその反応が、黒部さんへの十分な返答になったようだった。彼は確信の表情で頷いて、
「それだ。その女が諏訪塔子だ」
黒部さんの言う「諏訪塔子」という化物は。
人に自分の血を飲ませる事で、自我を感染させられるのだそうだ。記憶を伝染させて上書きをして、血を分けた相手を自分の複製に変えてしまう。そうして意のままに操る。
妹さんの復讐対象であった6名も、その特性を利した手口で害されたのだという。
「あれが、どういう目的で重傷者を助けるのかは正確にはわからない。そればかりは訊き出せなかった」
「訊き出すって……?」
「お前、俺がなんでこんな事に詳しいと思ってるんだ? 本人から聞いたに決まってる。諏訪塔子になりかけた、香奈に全部教えてもらったからに決まっているだろう!」
「……」
「結局、娘は自殺したよ。『私の記憶があるうちに。私が私でいられるうちに』。そう書き残されていたが、本当は違う。娘は俺を守ろうとしたんだ。何故ならあれは、血を分けた相手の居所と、おおまかな感情を感知できる。だからあれに知られないように、知り過ぎた俺を守る為に、香奈は自ら命を断った」
黒部さんの顔は笑っているようだった。同時に、泣いているようでもあった。
燃え滾る氷はその顔に、暗い喜びと怒りとを両立させる。
「だから俺は待った。そう、長い事待っていた。あの付近で事故が起きるのを。奇跡的に助かる誰かが出るのを。娘と同じ症状の誰かが出るのを。それこそがあいつの仕業で、そして唯一の手がかりだからな」
黒部さんはやおら立ち上がると、逃げる間もなく目の前にまででやって来て、私を怖い瞳で見下ろした。
「あれにも血は流れている。つまりは生命活動を行っているという事だ。性質としては植物に近いのだろう。つまり不老であっても不死ではない。なら殺せる。殺せるはずだ。あれには、然るべき報いを与えてやらねばならない。そして本体が死ねば、お前の中に巣食う分体も死ぬ。お前はその症状から解放されて、命拾いをするというわけだ」
でも、彼の言葉は私を通り過ぎていくばかりだった。
そこに籠もる圧倒的な熱が、私へ向けられているのは理解している。だけど頭が回らない。私の心が、その意味を頑なに理解したがらない。
黒部さんの話を疑うではなかった。
口移しに飲まされたあの液体の話が出た時。その時に気がついてしまった。どうしてか直感してしまっていたのだ。
夢で幾度も味わったあの唇の感触と、昨夜額と頬とに触れた塔子さんのそれとが、そっくり同じである事を。
でも私を貫いた衝撃は、塔子さんが人じゃないという事実ではなかった。
それは背筋を凍らせる寂しさだ。
もし塔子さんが、何か別の目的があって私に近付いたとのだとするなら。
これまでふたりの間にあったやわらかなものが、全部嘘になってしまう気がした。それは、とても悲しい事だと思った。
「聞いてから決めろ、と言ったぞ。そろそろ決断の時間だ。選べ。このまま座して死ぬか。それとも俺に協力してあの化物を殺すか」
「私、は……」
もし黒部さんの娘さんや私を蝕む相手の名前が、諏訪塔子でさえなかったら。
私は彼に協力を申し出ていただろう。自分が助かる為に。彼の復讐を遂げさせる為に。それが正義だと信じただろう。
けれど。
ひょっとしたら騙されていたかもかもなんて、そんな心のさざなみは、もう静まっていた。
別に目論見があったとしても、仮に人でなかったとしても、塔子さんがは私の大事な友達であるのに変わりはない。
──ありがとうね、鴇。わたしに助けられてくれて。
あの儚げな笑顔を打ち壊してまで、私は生に縋りつきたいと思えない。
「私は、諏訪塔子なんて人を知りません。会った事もないし、その人の記憶も持ってません。あなたの話を疑うわけじゃないですけど──」
「そうか。それが回答でいいんだな」
黒部さんから漏れ出たひどく怖いものが、一瞬だけ空気を凝固させた。
だが彼はすぐに首を振り、
「では仕方ない。それならば仕方ないな」
何かを諦めたような、乾いた目の色をしていた。
「勝手に諏訪塔子の仕業と決め込んだ、これは俺のしくじりだろう。だがお前の症状は、あれに関わった者のそれだ。もし何か異常が起きたなら、叔母を通してでいい、俺へ連絡しろ。必ずだ」
言い置いて、黒部さんは大股に部屋を出て行く。
その背中を、半ば虚脱して私は見送った。
あれほどに灼熱した憎悪を抱きながら、あれほどの激情を宿しながら、それを制した振る舞いができる。その彼にこそ、肌が粟立つ思いがした。