階違いの住人
悲しくて苦しくて。
辛くて恨めしくて。
愛しくて愛しくて。
どれだけ望んでも二度とは戻らなくて。
どれだけ祈ってもどこへも届かなくて。
手放したくないのに手放してしまって。
なくしたくないのになくしてしまって。
受け入れなければならないのに、受け入れられなくて。
もう、どうしようもなくて。
絶望で魂はひび割れて、その隙間から心は零れて、何もかもが粉々になって。
そうして人は人でなくなる。
そうして人は──。
*
目を覚ますと、当然ながら部屋には私一人だった。
夜も塔子さんもとうに過ぎ去ってしまっていて、部屋には昼の光が満ちている。
呆けた頭で身を起こすと、枕元でかさりと紙が鳴った。
「泣き虫さんへ。
遅くなってしまったので今夜は帰ります。
側にいられなくてごめんなさいね」
なんだろうと手に取ればそんなメモ書きで、私は今更のように赤面をする。
状況から鑑みるに、結局昨日はあのまま泣き寝入りしてしまったのだ。私がしっかり布団に包まっているのは、塔子さんが寝かしつけてくれたからに違いない。
その場面が克明に想像できてしまって、私の顔はますます火照る。
駄目だ、駄目だ。
ぶんぶんと首を振った。どうしてだろう、塔子さんの事を思うと、発熱とは違う感じに胸が苦しい。
──塔子さんが悪いんだ。
額に。それから頬に。
ひっそりと指で触れる。
──あの人が、いきなりあんな事するから。
そこでまたはっと我に返って、私は自分の両頬を張った。
本当に、どうかしている。
縋って泣くなんて恥ずかしい真似をした上にこの有り様では、もう塔子さんの顔をまともに見れない。
寝室には塔子さんのまだ残り香がするようで、私は気分転換に外へ出ようと心を決める。少し頭を冷やさなければ、一日中こんなで過ごしてしまいそうだった。
リビングに出て、身支度の為に鏡の覆いを取り払う。
あの夢を見る気は、もうしなかった。
けれど意気込んでみたももの、散策はとても残念な結果に終わった。
私の体の状態は、思った以上に深刻らしい。数分歩いたそれだけで、くらくらと目眩がし始める。ほんの少しの登り坂でもう息が切れてしまう。それでいて汗は少しもかかないのだから奇妙なものだった。
休めばすぐに回復はするのだけれど、散歩と呼ぶにはあまりに非効率極まりない。
ものの四半時で私は部屋に戻るのを決め、そうしてドアを開けたところで立ち竦む。
そこには見知らぬ靴が、二足あった。
「お邪魔しているわよ、鴇ちゃん」
「……叔母さん」
開扉の音に気づいたのだろう。部屋の奥から出てきたのは叔母だった。下から睨め上げるような、嫌な目つきをしていた。
保証人として合鍵でもせしめていたのだろうか。
どうやってかはさておき、無断で部屋に入られた事に強い不愉快がこみ上げる。
「どうして、ここに居るんですか」
詰問の響きは、自分でも驚くくらいに硬い。だが鼻白んだ叔母が答える前に、
「俺が頼んだのさ」
知らない声が割り込んだ。
叔母に続いてぬっと姿を見せたのは、仕立てのいい、けれどどこか喪服めいたスーツの男性だった。てっきりもう一足は叔父のものだと思っていたのだが、どうやら早合点であったらしい。
彼は叔母を押しのけて、ゆったりと私に近づいてくる。
男性の齢は私には瞭然ではないけれど、おそらくは不惑過ぎといったところだろうか。痩せぎすだがひ弱な空気は少しもなかった。
第一印象は蟷螂だ。冷酷な捕食者。きびきびと可動する冷徹な精密機械。そんなイメージを抱いた。フレームレスの眼鏡越しの瞳が、強く私を射竦める。
「黒部さんよ。ここを紹介してくださった方なの。鴇ちゃん、お礼を言いなさい」
何を恩着せがましい事を、と思った。自分の都合で、私を私の家から追い出したくせに。
けれど内心とは裏腹に、私の表情は少しも動かない。「わからない」とも「可愛げがない」とも言われる所以だと理解はしている。
「それで? その黒部さんが何の御用ですか?」
このマンションについて便宜を図ったのがこの男性であるのなら、つまりは叔母の味方なのだろう。
警戒を緩めず、私はじっと男性を見据える。
「少々事情が込み入っていてな。お前の体の事について、二人だけで話がしたい」
言い放ってから男性は叔母に向き直り、「タクシー代だ」と財布から数枚の万券を無造作に抜き出して押し付けた。そうして、失せろとばかりに手を払う。
知らない男性と二人きりにされるくらいなら、叔母が居る方がまだしもだ。
思って引きとめようとしたけれど、叔母は諂う薄ら笑いで私と黒部さんを見比べ、ひとつ頷くと出て行ってしまった。
叔母が、すれ違い際に見せた目。あれは私が好色の対象になったのだと勘ぐる類ものだった。
でも、それくらいならまだいい。
私はこくんと緊張に喉を鳴らす。
この人は多分、もっと怖い。
「あの女は駄目だな。とっとと縁を切れ」
ドアが締まる音と同時に、彼は吐き捨てる。
共通の敵を作って共感を得ようとするやり口だろうか。私が押し黙っていると、やれやれと彼は口元を歪めた。
「あまり身構えないでもらいたいね。お前の体の事で話があると言ったろう? 俺はそれを解決できるかもしれないと言ったら、少しは興味を持ってもらえるか?」
「……どうにか、なるんですか?」
「なるかもしれん。ならないかもしれん。全ては推測に過ぎない。だが何もしないよりはいい。少なくとも、可能性はあるからな」
私の気が動いたのを見透かして、彼は顎をしゃくって部屋の奥へと私を誘う。
ここは私の部屋なのだけれど、場を支配しているのは明らかに黒部さんの方だった。
あれだけの検査を受けて、それでも原因不明と告げられた難問が、そう容易く解決できるとは思えない。
だけど、私は食いついてしまった。
以前熱を出した時の、塔子さんの気遣わしげな顔が過ぎる。もう、あんなふうに心配をかけないようにできたなら。この先も生きていけるようになれたなら、どんなにいいだろう。
そう考えてしまったからだ。
だからつい、耳を貸してしまったのだけれど。
「一番突拍子もないところから始めるか。戸森鴇、お前は、人でないものの存在を信じるか?」
居間に入り、お互い距離を置いて腰を落ち着け、そして第一声がそれだった。
内心でため息をつく。幽霊だの妖怪だのといった、オカルトや宗教の類だろうか。私は、余程に胡乱を見る目をしていたのだろう。黒部さんは実に愉快そうに口の端を歪める。
「『そんなものがいるわけがない』と言いたげな顔だな。では訊こう。お前はなんでも知っているのか? 何もかもをお見通しで言い切れるのか? お前のその体は、その容態は、お前の持ってるちっぽけな常識で計り知れるものなのか?」
屁理屈じみた言いだったが、私はぐっと詰まってしまう。
この症状は医者にも匙を投げられて、普遍性のない奇妙な心の働きとして、私に全ての責任を押し付ける診断で終わった。つまるところ私は、常識の埒外、世間の異物として処理されたというのが現状だ。
「でも、それとこれとは話が違います」
「違わないさ」
遮って、黒部さんは意地の悪い目つきをした。
「お前は知らない。何も知らない。例えば自分の部屋の両隣に、どんな人間が住んでいるかを知っているか? 挨拶くらいはした事があるかもしれんが、怪しいものだろう。それが階下の住人ともなれば況してやだ」
「……」
確かにその通りだった。
知っているのは塔子さんの事だけで、逆隣や一階違いの住民となればまるで知らない。興味すら持った事すらない。
そして階違いの住人という表現は、奇妙に強い説得力を持って私に響く。
おそらく私にとって、自分と近似値であったからだろう。重なっているようで重なっていない。一緒にいるようで一緒にいない。けれど確かに、同じ世界で息をしている。
それは私の有り様に他ならない。
「だがな、そいつらは居る。お前が知らなくとも、見た事がなくとも、そいつらは実在しているんだ。普段は気配も感じないが、ある日ふと同じエレベーターに乗り合わせるのさ」
皮肉のような調子で語りながら、彼は忙しく手の指を組み換え、組み直す。
「おっと、『そんな事ありっこない』なんて台詞は投げ捨てておけよ。何故ならお前は、もう乗り合わせた人間だ。出遭ってしまった人間だ。そう──諏訪塔子に」
なんでそこで、なんでここに、塔子さんの名前が出る?
私はただ、押し黙るのに精一杯だった。
「お前は見ているはずだ。姉妹の夢を。妹を自死に追いやり、深く悔いる姉の夢を。その姉こそが諏訪塔子だ。あれは妹の死肉を食らい尽くした後、その件に関わった6名を殺して姿を消した。これは、まあいい。肝心なのはお前がそれに見込まれているという事だ。魅入られているという事だ」
「……全然、知らない名前ですけど」
勿論嘘だった。
無表情は手馴れたものだし、平静は装えていたはずだ。けれど、黒部さんには通用していないようだった。
「そういう事にしておくさ。だが少しは俺の話に耳を傾けるつもりになったろう? じゃあ聞け。聞いてから決めろ。あの化物を、どうするかをな」
そうして黒部さんが語ったのは、もうひとりの私と、別の塔子さんの物語だった。