氷解
「永遠の色は?」と問われたら、人はなんと答えるだろう。
長く静かな夜めいた黒。
強く燃え続ける命の赤。
万色の可能性を宿す白。
きっと、様々だろうと思う。
だけどわたしにとって、それは青だ。
青と聞いて、人は何を連想するだろう。
海の色?
空の色?
それともこの星の色?
どれも違う。
わたしにとって永遠とは、ただ憂鬱なのだった。
*
塔子さんは、割合に遠慮のない人で。
それからは殆ど毎晩、私の部屋にやってきた。夜になると隣から小さく「鴇?」と声をかけてきて、「どうぞ」と返すとひょっこり顔を覗かせる。
いつの間にかそれが常のやりとりになって、往来はいつもベランダからで、だから結局あの仕切り板は壊したままにしておく事になった。
「だって秘密の通路みたいで、雰囲気があるでしょう?」
なんて言って塔子さんは、子供めいて笑う。やっぱり変わった人だと思う。
そうして月の満ちる部屋でふたり、他愛のない話を花を咲かせ続けた。
塔子さんはとても聞き上手で、彼女の前でなら、私はすらすらと言葉を紡ぐ事ができた。臆病で人見知りをする私なのに、彼女にならずっと前からの友人のように振舞えた。塔子さんの間にガラスは感じられなくて、ひどく心地がよかった。
眠くなるまで一緒に過ごして、私が船を漕ぎ始めると、塔子さんはまたベランダから隣の部屋に帰っていく。
特に口に出して取り決めたわけではないけれど、不思議とそういう事になっていた。
「鴇の絵って、風景が殆どよね。人物は描かないの?」
塔子さんが唐突に切り出したのは、そんなある夜の事だった。
その手で捲られているのは私のクロッキー帳だ。うっかり絵を描くのだと漏らしてしまい、「見たい見たい」とせがまれて、押し切られてしまったのだ。
「うん。得意じゃなくて」
私の答えは歯切れが悪い。
稀に動物を描く事はあっても、人物は徹底して描かなかった。風景ならば無心でいいけれど、人を描けば主観が入る。迂闊に誰かを切り取れば、私の心情がそこに暴露されるようで怖かった。
「そう」
塔子さんは深く問わない。
気にしていないのではない。私に屈託があるのを察して、踏み込まずにいてくれるのだ。
「わたしは鴇の絵、好きよ」
賞賛されるのは、素直に嬉しかった。殊更にそう感じるのは、褒めてくれたのが塔子さんだったから、というのも否定できない。
私は口の中でもごもごと「ありがとう」を返す。
まだ短い付き合いなのに、なんだか依存してしまっている気がした。私は一人っ子だけれど、もし姉がいたならこんな感じだったのだろうか。私の甘えを許容してくれるような、そんな感触が強い。
「ね、塔子さん」
「なあに?」
だから、というわけでもなかったけれど。
私は少しだけ勇を鼓して、彼女にお願いをしてみる事にした。
「塔子さん、私のモデルになってくれない?」
フローリングに直接座ってベッドを背もたれにしていた塔子さんは、眺めていたクロッキー帳を閉じて私をじっと見返した。
「ヌード?」
「そ、そんなわけないでしょ!」
「赤くなったわ。想像したの?」
「してないからっ!」
私の反応にいつものようにくすりと笑って、それから塔子さんは、そうね、と前置きした。
「うん。絵なら、いいわ」
「絵なら?」
「写真は嫌い。だってたましいが抜かれてしまうもの」
「塔子さん、いつの時代の人?」
口調は本当に嫌そうだった。写真に何か悪い思い出でもあるのかもしれない。
だから冗談口で紛らわせて、私もそれ以上は踏み込まない。
「それから、条件がふたつあるわ」
「はい」
「ひとつはモデル料。鴇の描いた絵、一枚わたしに譲ってもらえる?」
「承りました」
そこまでじっくり描くわけではないし、クロッキーなら複数仕上げてもコピーしてもいい。何の問題もない。
「ふたつめは?」
「ふたつめは、あのね」
そこで塔子さんは言いにくそうに言葉を切った。
しばらくの思案した後、何故かころんと床に転がって、そこから仰向けに私を見上げた。
「綺麗に描いてね?」
「見た通りにしか描かないよ」
「ひどい」
「ひどくないよ」
そうして、二人で笑った。
「塔子さんは元々美人だから問題ないし」とは、私が心の中だけで付け足した事だ。
「あ、もうひとつあったわ」
不意に真面目な声をしたので、私はベッドから身を乗り出してその顔を見る。
「これは約束。あまり入れ込みすぎて、また体を悪くしないように。ね?」
「……はい。気をつけます」
「でももし熱を出したら、またわたしが看病をしてあげる」
言いながら床から手を伸ばして、塔子さんはくしゃくしゃと私の髪をかき混ぜた。
「大丈夫だよ。気をつけるから」
じゃれるように応じながら、私の胸はずきりと痛んだ。
熱という言葉が、私にとって死を想起させるその言葉が、思ったよりもずっと深く刺さったのだった。
この頃、私は死ぬのが怖い。
覚悟はしたつもりだった。受け入れたつもりだった。
でもそれは所詮小娘の浅知恵で、結局ただの「つもり」でしかなかった。
死ぬのが怖くなかったのは、何も持っていなかったからだった。半ば自暴自棄に開き直っていたからだ。
その事を、今は思い知っている。
私は自分でも驚くくらい、塔子さんに油断している。心を許してしまっている。そんな友達を得てようやく私は、死ぬのが怖いと思うようになった。死にたくないと思えるようになった。
「そういえば、前から気になっていたのだけれど」
私の昏い目を察したのか。
ふっと視線を転じて、塔子さんが呟く。
「鴇は、鏡が嫌いなの?」
目敏いなあと苦笑した。
誰かの記憶の再生は、その頻度を減じている。けれど代わりに悪夢が増えた。
入院中に病室で見た、鏡の中の自分の体が腐れて落ちて、部品ごとに解体されゆく夢だ。やがて私は骨だけになり、空っぽの虚ろを晒して自嘲する。
それは恐怖のひとつのパターンとして私の深層に染み付いてしまったのか、それは手を変え品を変え、繰り返し幾度も夢枕に現れた。
お陰で、どうしても鏡を意識してしまうようになった。
無意味にびくつく自分が嫌で、浴室の備え付けや鏡台に布を被せてしまっていた。
塔子さんが入るのはベランダ繋がりのこの寝室だけだからそうそう気づかれないだろうと考えていたのだけれど、どうやらしっかりチェックされていたものらしい。
「ええと」
説明しようとして、言葉に詰まった。
一人暮らしを始めたら怖い夢を見るようになって、それで鏡まで怖くなって隠してしまいました。
それはまるで子供みたいだ。言いたくない。
「……ちょっと、夢見が悪くて」
できるだけ押し隠して簡潔に答えたら、塔子さんは吹き出した。
「鴇って、本当に面白い子」
「怒るよ」
「怒らないの。でもそれでは、身だしなみが悪くなるわよ?」
「慣れれば平気」
すると塔子さんはすっと手を伸ばして、指先にくるくると私の髪を絡めた。
「じゃあまだ慣れていないのね。くしゃくしゃよ」
「これはついさっき塔子さんが、ぐしゃぐしゃにしたんです」
「そう。なら責任を取らないと」
塔子さんは体を起こすと、ベッドの上に座り直した。
そうしてにっこり微笑んで、隣の私においでおいでと手招きをする。嫌です結構ですと抵抗したのだけれど、またしても押し切られる格好で、私は塔子さんに抱き寄せられてしまった。
そのまま、手櫛で髪を梳かされる。
もう夜だし、今更髪を整えても外には出やしないのだけれど、塔子さんの手つきは慣れていて、なんだか心地がいい。こんなふうに構われるのも悪くないなと思ってしまう。
でも、いいようにされっぱなしなのも癪だった。
「塔子さんは、怖いものってないの?」
「どうしたの、いきなり?」
「白状するとね。私は鏡が関わる怖い夢をばかりを見て、それで嫌になって鏡を隠したんだけど。でもこれを言っちゃうと、私の苦手なものだけバレちゃうから。だから塔子さんの怖いものも訊いて、それでおあいこにしておこうかなって」
「負けず嫌いね」
私を後ろから抱き抱えたまま、塔子さんは苦笑したようだった。
それから少し手を止めて考えて、
「そうね。怖いだけなら色々あるけれど、でも一番は」
ゆっくり、静かに囁いた。
「わたしが一番怖いのは、誰にも何もしてあげられない事。誰も幸せにしてあげられない事。それが一番怖いわ。幾度繰り返しても不幸を撒くばかりなら、わたしは誰とも関わらない方がいい。何もしない方がいい。だけどそれじゃあわたしが何の為に生きているのか、すっかりわからなくなってしまうもの」
塔子さんは、ここでないとてもとても遠くを見ているようだった。
私は今きっと、この人の深いところに触れている。不意に、そう感じた。
「大丈夫だよ」
だから今度は誤魔化さずに、私の精一杯を告げる。
上手くは伝わらないかもしれない。けれど言葉にしなければ、絶対に届く事はないのだ。
「だって塔子さんは私を助けてくれたよ。私を、幸せにしてくれてるよ」
だけど言葉にしてみたら、やっぱり気恥ずかしい。
塔子さんが後ろ側に居て、顔を見られないのが幸いだと思った。
「──そう」
だというのに、次の瞬間。
ぎゅっと、私は塔子さんに抱き竦められていた。背中がぴったりと、塔子さんの感触に覆われる。頬が触れあわんばかりの距離に来た彼女の横顔は、目を閉じてひどく儚げだった。
「ありがとうね、鴇。わたしに助けられてくれて」
「あ、あべこべだよ、塔子さん。普通は助けられた方がお礼を言うんだよ」
「ええ、そうね。その通りだわ。だからわたしは、お礼を言っているの」
自分の頬がかーっと熱くなるのがわかって、それで私はますますに動揺してしまう。
けれどもがいてももがいても、ちっとも塔子さんは離れてくれない。やがて私も諦めて、力を抜いてされるがままの体になる。
そうしてしばらく、部屋には壁時計の秒針の音だけが響き。
「もう!」
不意に体を離すと、塔子さんがばしんと私の背中を平手で打った。
「ああもう。すっかり鴇にしてやられてしまったわ。恥ずかしい」
「痛いよ塔子さん」
「聞こえないわ」
更に続けてばしばしと叩かれて、最後にどしんと頭突きが入って、それでやっと暴力は止む。
「ねえ」
「何?」
「悔しいからわたしも訊くわ。鴇の一等怖いものって、何?」
背中に額を押し当てたその格好のまま、塔子さんが問う。
「だから、私は鏡が」
「いいえ、それは違うわ。それは嫌なだけ。本当に怖いものではないでしょう?」
「……」
言われてみれば、そうかもしれなかった。
嫌なものが映るから連想的に嫌になったのであって、私は鏡自体を恐ろしく感じるわけではない。
なら私の怖いものとは何だろう。おとがいに指を当てて熟考をする。
死は、怖いというのならそうなのだろうけれど、それは一番ではないし、少し違うような気がする。でもじゃあどうして、私は死ぬのを恐れるのだろう。
ずっと突き詰めていって、思い至った。
「──いなくなってしまう事、かな」
それは私にとって、別れの同義だからだ。人と人とを引き裂くものの代名詞であるからだ。
父母との不慮の死別。
強く結ばれいたはずのものを突然に喪失するその体験が、私の中に根を下ろしたままになっている。ただでさえ他との繋がりの薄い私にとって、数少ないそれが断ち切られる痛みは耐え難かった。
「大切な人がどこにもいなくなって、もう二度と、手も言葉も届かなくなってしまう事。私はきっと、それが一番怖くて、悲しいよ」
だから私はそれに怯える。
塔子さんを知ってしまった私は、だから彼女がいなくなってしまうのが怖いのだ。
「そう」
整えたばかりの髪に、塔子さんの指が絡む。絡んでまた、くしゃくしゃにかき乱す。
「いなくなったのは、お父さんとお母さん?」
「……どうしてわかるの?」
いきなり核心を射抜く塔子さんの言葉に、思わず問い返す。
確かに心に両親を浮かべてはいたけれど、でも塔子さんに二人の話をした伝えた記憶はない。
「お位牌。まだ新しいものがふたつ並んでいて、仏壇もなくて、こんなに体の弱い子が一人暮らしで。そうしたら、ね」
ああ、冷蔵庫の上のを見られた時に、もう見抜かれていたのか。
塔子さんはやっぱり目敏くて頭がいいのだなと嘆息した。
「大好きだったのね」
「……それは、どこから推理したの?」
「推理じゃないわ。だってあの時、鴇は呼んでいたもの。お父さんとお母さんを、ずっと呼び続けていたもの」
「そっか」
あの時というのは、熱を出して解放された折の事だろう。
普段なら赤面してしまいそうな話だったけれど、この夜の雰囲気の所為だろうか。今は不思議と平静でいられた。
「私たちが乗っていた飛行機がね、落ちたんだ。それで私だけ助かって、お父さんとお母さんは」
「無理に言わなくてもいいのよ?」
「ううん、聞いて」
私は向き直って、塔子さんと相対する。そうして訥々と、できるだけ事務的に、あの日の出来事を話した。
語れば語るだけ、それが自分の中のどれほど大きな痕であるのかを思い知った。悲しくて、寂しくて、辛かくて、苦しかった。私は泣かなかったのではなく、泣けなかったのだ。
独りではとても抱えきれない感情だから、泣き出したらそこでもう駄目になってしまうに違いないから。だから今の今までこの傷から目を逸らし続けてきたのだ。
その事に、やっと気づいた。
「鴇は本当に、お父さんとお母さんが大好きだったのね」
弱みを晒しきって、すっかり脱力してしまった私の頭を撫でながら、塔子さんはそう言って淡く笑む。
多分、その何気なく穏やかな労りが、私の心の堤防に亀裂を生じさせたのだと思う。
もう大丈夫なつもりでいたのに、その瞬間、自分でも驚くほどの激情が胸の奥からわっとこみ上げてきた。ずっと心の底で凍りついていたそれは両目で大粒の雫に変わって、後か後から止まらない。
「ああ、鴇、鴇、ごめんなさい。辛い事を思い出させてしまったかしら」
突然の私の涙に、塔子さんはおろおろと狼狽えた。
その様はまるで予想外に直面した童女のようで、いつもの大人びて落ち着いた雰囲気との落差が可笑しくて、私は、泣きながら少し笑う。不思議そうな面持ちの彼女に、「そうじゃない、そういうのじゃないよ」と首を振った。
「塔子さん」
「なあに?」
「私、伝えられたかな。私がふたりの事大好きだって、お父さんとお母さんの事、すごく好きだって。生きてるうちに、一緒にいるうちに、ちゃんと伝えられてたかな?」
「大丈夫よ。きっとお父さんもお母さんも、鴇の気持ちならちゃんとわかっていたわ。だって」
塔子さんの声音は、穏やかな子守唄みたいだった。
「だって鴇は、こんなに素直でいい子なんですもの」
そして私の前髪をかき上げ、不意打ちめいて額に軽くくちづける。
「な、や、ちょ、ちょっと、塔子さん!?」
「真っ赤になったわ。可愛い」
今度は私が慌てふためく番だったけれど、彼女はそんな動揺を歯牙にもかけない。びっくりで反射的に逃げかけた上体を軽々と引き戻し、塔子さんは今度は頬に唇を寄せた。
完全に思考が止まって硬直する私をあやすように揺すりながら、「ね」と何もなかったみたいに彼女は囁く。
「よかったら、もう少し聞かせてもらいたいわ。鴇の、お父さんとお母さんのお話」
「え、でも」
事故の話ならさっきので全部だ。それ以上に語れる事なんてない。
私が当惑していると、彼女はゆっくり首を振った。
「違うの。おふたりのいつもの思い出が知りたいのよ。鴇のお父さんとお母さんは、どんな方だったの?」
人によっては、残酷な要求と感じたかもしれない。けれどこれは心を整理させる手順なのだと、不思議と理解できた。
辛くて苦しくて一人で抱えきれないような事なら、自分がいるうちに吐き出してしまえと、そう言われているのだとわかった。
でも、一体何から話したらいいのだろう。
生まれた時から一緒だった両親の事だ。何気ない日々の会話、喧嘩とその仲直り、家族旅行や年行事。思い出なら、尽きないくらいにいくらでもある。
私はまた少しだけ考えて、それから決断をする。
そうだ。この人に聞いてもらうなら、まず私の名前の話からがいい。
「お父さんは利之、お母さんは茜っていってね」
ふんわりと塔子さんの腕に包まれたまま、私は静かに切り出した。目だけで頷いて、塔子さんが先を促す。
「結婚した時に決めたんだって。子供の名前は、男の子だったらお父さんが、女の子だったらお母さんがつけようって。だから私が生まれた時、お父さんはしょげちゃって。だからお母さんはつけようと思ってたのを変えて、私の名前を鴇にしたんだって」
──だから鴇の「と」は、お父さんの「と」なのよ。
そう言って笑った母の顔と、新聞で顔を隠した父の姿を思い出す。
「茜色と鴇色。同じ赤色の系統なのね」
「うん、ご明察」
得意げに返したのがおかしかったのだろう。塔子さんは口元に手を当てて、くすくすと笑う。
「それで、それでね」
そんな好意的な反応に勇気づけられ、私は次々と懐かしい記憶を披露する。時折しゃくりあげながら、思い出話は止まらなかった。
その夜、塔子さんのおかげで。
私はやっと、両親の為に泣けたのだった。