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窓の客人(まろうど)

 いつか地獄に下る時 そこに待つ父母や友人に、私は何を持って行かう。

 たぶん私は 懐から青白めた蝶の屍骸を取り出すだろう。

 さうして渡しながら言うだろう。


 一生を子供の様に、さみしくこれを追っていました、と。


                            ──西條八十「蝶」




 久しぶりに熱が出たのは、越してから一週間ほどしてからの事だった。

 窓を開けたままで描くのに夢中になっていたのが原因だろう。

 春といっても花冷えの夜もある。そんな外気に触れすぎたのだ。かすかな悪寒を覚えて手を休めて、少しだけのつもりで横になったら、それきりもう起き上がれなくなってしまった。

 このところ調子がよくて、それですっかり油断をしていたから、これは完全な不意打ちだった。

 とんだ不覚だ。

 ナースコールにさえ手が届けば、すぐ人が駆けつけてくれる病院とは違うのに。まだ私はいざという時の対応を考えていなくて、何の準備も心構えもなかった。

 そんな私の頭蓋を、高熱がきりきりと責め立てる。全身が万力で締めつけられるように痛んで、指ひとつも動かせない。

 誰かの声がしたと思って耳を澄ますと、それは自分のうわ言だった。

 何とかしなければと意識の連続を保つ努力をしたけれど、数秒ずつか、数分ずつか、或いは数十分ずつか、繰り返し気を失うような眠りに落ちて、私は少しも動けない。

 このままではいけない、駄目だと思う。思いはするけれど、泥のような体はどうなりもしなかった。

 覚悟していた事ではあるけれど、こんなに早く終わってしまうんだ。

 半ば自棄のように思って、私は目を閉じる。

 そうして、幾度目の覚醒だったろうか。

 うっすらと目を開けると、傍らに見知らぬ女性の姿があった。


「目が覚めた?」


 私の覚醒を察して、そのひとは案ずるように小首を傾げた。月に満たされた部屋の中で、長い黒髪がさらさらと揺れる。

 私がぼおっと呆けていると、彼女の指を伸ばして額に触れた。ひんやりと冷たい指先だった。

 そこで私はようやく、自室に赤の他人が居るという異常な状況を知覚する。驚いて起き上がろうとしたけれど、その前に肩を制された。


「熱が高いから、まだ、駄目よ。眠っていなさい」


 再び、てのひらが額に添えられる。

 その心地よい冷たさは、病熱とは違う、痺れるように甘い種類の温度のような気がした。


「……」


 私は、微笑む彼女に何か言おうとしたのだけれど。

 果たせず、また意識を手放した。



 それから私はとろとろと眠り続けた。

 不思議と今度は熱に浮かされる疼痛はなく、どれくらい経ったのだろうか。次に目を開いたら、もうすっかり苦しさは消え失せていた。気だるさはいくらか残留していたが、どうやら動くのに支障はない様子だった。

 腫れぼったい目を擦り、それから私は部屋を見渡す。

 当然のように誰もいない。

 昨夜のあれは、高熱の見せた幻だったのだろうか。

 時計を見れば午前9時。カーテンが開いたままの窓からは朝日が眩しく差し込んでくる。春の夜の夢は、朝日の訪れ共に霧消したかのようだった。

 でも。

 自分の額をそっと撫でた。どうしてかあの声と感触は、現実のものであったような気がしてならない。

 ベッドで半身を起こしたまま思い悩んでいると、ベランダ窓がからからと軽い音を立てた。


「あら。おはよう」 

「え、あ、おはようございます」


 靴を脱いで窓から入ってきたのは、昨夜の女性だった。

 私が起きているのを認めると、ぺこりと頭を下げてくる。その当たり前の態度につられて、誰何(すいか)よりも先に、つい挨拶を返してしまった。


「起きていたのね。熱はどう? お腹は空いていない?」


 彼女は躊躇も遠慮もなしに私の側までやってきて、手にしたコンビニエンスストアの袋をゆるく揺らした。ヨーグルトやゼリーの容器が詰まっているのが透けて見える。


「食べれそうなものを見繕ってきたけれど、口に合わなかったらごめんなさい」

「そうじゃなくて!」


 延々とペースを握られそうだったから、大声で遮った。きょとんと瞬きをする彼女を、改めて私は観察する。。

 年の頃は、私よりもふたつかみっつくらい上くらいだろうか。どこか大人びた雰囲気がある女性だった。さらりと背中まで流した黒髪に、白い薄手のセーターと黒のスカート。全体的な印象は淡い水墨画のようだ。

 害意や悪意はなさそうだけれど、やはり不審人物であるのに変わりはない。


「あなた、誰ですか。どうして私の部屋に居るんですか」


 威嚇と恫喝を籠めた発言したつもりだったが、熱が去ったばかりの喉から出たのは随分と弱弱しい声だった。しかも今更に気づけば、私は寝巻き姿のままだ。威厳という言葉からは程遠い。

 そして遅れてこの状況の危うさを、ようやくに認識する。

 弱りきった体で、密室に見知らぬ他人と二人きり。生殺与奪はあちらが握っていると言っても過言ではない。なのに相手を刺激する言動をしてどうするのだ。

 けれど幸いにも、私の懸念は全て杞憂に終わった。

 女性は「いけない」と手を口にやってから、すっとベッドの前に正座をした。床に指をついて、私にきちんと頭を下げる。どこにも無駄のない、やわらかさで綺麗な動作だった。


「挨拶が遅れました。隣の、諏訪(すわ)塔子(とうこ)です」

「……えっと」

「……?」


 何を言うべきなのか、何から問うべきなのか、上手く言葉が出てこない。上手く言葉を選べない。

 諏訪さんは小首を傾げるようにして、私の次の発言を待っている。ますますプレッシャーだった。


「戸森です。戸森鴇」


 困り果てた末に、私は自己紹介に逃げた。


「鴇、ね」


 とき、トキ、鴇、とリズムをつけて繰り返す。

 そうやってしばらく口の中で私の名前を転がしてから、諏訪さんはにぱっと無防備に笑った。真顔でいると近付き難いような雰囲気があるのに、笑顔はとても人懐っこい。


「なんだか絶滅してしまいそうな名前ね」


 ちょっと洒落になっていなかった。


「私の名前の事は一先ずいいです。まずお隣の諏訪さんが、どうして私の部屋にいるのかから聞かせてもらえますか」

「昨日、ベランダ越しに苦しそうな声が聞こえたから。もしかしたら急病人か事件かと思って、その……怒らないでくれると嬉しいのだけれど」


 諏訪さんの言葉は、後につれて尻すぼみに小さくなる。

 そしてベランダの方を指差した。何事だろうと首を伸ばしてそちらを見ると、隣との間仕切りが見事に破壊されていた。火事などの折に避難通路にできるように、元々壊れやすく作られているものではあるのだけれど、それにしても完璧な壊しっぷりだった。

 でも、、それでおおよその事情は把握できた。

 つまり諏訪さんは昨夜、私のうわ言を聞きつけて、一大事と判断してこちらに飛び込んできてくれたとわけだ。

 不審者扱いした自分を恥じるばかりだった。寝起きで頭が回っていなかったにしても、発想の偏りが著しいにも程がある。


「それでこちらを覗いて見たら、ベッドであなたが唸っていて。悪いとは思ったけれど、窓から不法侵入させてもらったの」

「……ありがとうございます。助かりました」

「ううん、気にしないで。わたしがしたくてやったのだから。それにわたしも越してきたばかりで、夜中の病院もわからなくて。殆ど何の役にも立たなかったもの」


 あなたの熱も自然に引いてたのだしね、と付け加えてから、諏訪さんはもう一度ビニール袋を掲げて見せた。


「それで、どう? 食べられそう?」

「あ、いいえ、今は……」


 私が断ると、彼女は正座からふわりと立って、


「それじゃあ失礼して、冷蔵庫を開けさせてもらうわね。入れて置くから、食欲が出たら食べて」


 勝手知ったる間取りとばかりにキッチンへ行くその背を見送って、ようやく私は彼女にとんでもなく世話になっているのだと実感した。

 熱を出して隣の住人を起こして、その上朝まで床に侍らせて、更には買出しまで。


「諏訪さん」


 追いかけようと立ち上がった途端、ぐるぐると世界が回った。やはり昨日の熱で、随分と私の体は削られている。それでも、どうにか動けない事はなかった。

 壁を支えに寝室を出て、冷蔵庫の前で神妙な顔をしている彼女に声をかける。


「あら、どうしたの? もう動いても大丈夫?」

「違うんです。あの、お金。お返ししないと。それにご迷惑ばかりおかけして、だから、私」


 やはり私は愚鈍なのだ、と思った。

 言いたい事、言わなければならない事は頭の中でもどかしく駆け巡っているのに、それをきちんと口にできない。伝えられない。意味を成さない断片の言葉を積み上げながら、ああこれできっと嫌われたなと、そこだけ冷静な頭の隅で思う。

 けれど、


「塔子」


 諏訪さんは私の言葉が止まるまで耳を傾けてくれてから、短くそう言った。


「塔子がいいわ。わたしも、鴇って呼ばせてもらうから」

「え、あの」

「塔子」

「……塔子、さん」


 流石に年上を呼び捨てはよくない。ぼそりと付け加えると、彼女はくすくすと口元に手を当てて笑った。何とも感じがよくて、こういう人が皆に好かれるのだろうなと羨望してしまう。


「鴇は生真面目ね。それに変わってるわ」

「……そうでしょうか」

「ええ。だって、お位牌」

「あ」


 諏訪さんの目線を辿って、私は自分が冷蔵庫の上に何を置いていたかを思い出した。

 先ほどの彼女の、神妙な横顔を思い出す。あれは父母の位牌を見ていたのだ。


「どうして冷蔵庫?」

「……諸事情です」


 俯いて答えたら、彼女はまたあの無防備な笑顔を見せた。


「やっぱり面白いわ、鴇って」


 自分が赤面しているのが判った。どうもこの人は、距離が近くて苦手だ。


「ね」


 囁き声で、諏訪さんは私の肩に触れた。

 どこか縋るような声だった。野良猫が、いつでも逃げ出せるように警戒しながら甘えてきている。そんな印象があった。


「わたし、鴇とお友達になりたいわ。また遊びに来てもいい?」

「え……?」


 完全に思考の虚を突かれた。ここでどうしてそんな話の運びになるのか、まるで見当がつかない。


「──駄目?」


 私より背の高い塔子さんがちょこんと体を折って、私の顔を見上げるように覗き込む。


「だめじゃ、ないです、けど」


 多分。

 多分、気が弱っていたのだ。熱の所為で。体ばかりでなく、心までも弱っていたのだ。押し切られるように頷いてしまったのは、きっとそれが理由に違いない。

 そんなふうに、私は自分へ言い訳をした。

 でも本当はわかっている。

 私は、人恋しかったのだ。

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