船材(混入分)
血が流れていく。
血が溢れていく。
どんどん、どんどん、どんどん。
鼓動はとても小さくて、もう聞き取れないくらいだった。
体の下、嵩を増す血だまりを見ながら考える。自分がどうしたいかは知っている。わかっている。でも、本当にそうすべきなのか、それが正しいのかはわからない。
幾度も幾度も、失敗してきた事だから。
また間違えてしまうかもしれないから。
一面に漂うのは、鉄と火と血と死の匂い。
そっと手を伸ばす。
霧に濡れた触れた頬はとても冷たい。
やがてわずかに残る温度すらも去り果てて、そうして失われてしまうのだろうと思った。
*
また、熱が出ている。
そして私は入り混じる、誰かの記憶を夢に見る。
夢中の私には妹がいる。私は彼女の姉の目線で世界を見ている。
服装や言語、家財道具などから近代であり、土地は日本であるとは思うのだけれど、姉妹は新聞もテレビもインターネットもない暮らしを送っているようだった。
情報媒体が身近にないから、年月日はわからない。私の知識だけでは、何時、何処の出来事であるとも不明瞭なままだった。
彼女たちは、身の回りのごく小さな範囲だけを世界とした暮らしている。
私の目に映るのは、姉の自身の手と、妹の顔が殆どだった。
時折外の立ち話めいた声が耳に届く事もあったが、稀に一瞥する程度で、姉は殆どそちらを見なかった。視界を一瞬だけ過ぎるそれらの人々の顔は、皆、朧に霞んでいた。
夢から私に入力されるのは、視覚情報だけではない。
時折ふっと泡のように、姉の思い出が浮かび上がる事がある。彼女の抱いた感情が、塊のように飛び込んで来る事がある。それらは激しく私の心を貫いた。
けれどそうしてやって来るものを咀嚼し、反芻していったお陰で、私は二人の過去がおぼろげながらに理解できた。
姉妹は、失い続けきた人たちだった。
生きれば生きただけ、大切なものを零し続ける。そんな人生を送ってきたようだった。
母をなくし父をなくし、家をなくし寄る辺をなくし。
そうして残った姉一人妹一人、お互いを支えに寄り添ってどうにか日を送る二人だった。
姉は必死で働いて、辛うじて住処と日々の糧を得ていた。そんな中で、妹だけは幸せにしてやりたいと、強く強く願っていた。
だから本当に少しずつ、身を削って貯蓄した。その金で妹を学校へやるのが夢だった。教育と教養を身につければ幸福になれると、漠然とした知識から信じていた。
夢はいつも、ふたつの場面を繰り返す。
ひとつは門出だ。
姉の尽力がやっと実って、妹を念願の学校へ入れる事が叶った。通う先は遠いらしく、妹は寮暮らしになると決まっていた。ちゃんと綺麗なところに住んで、三食食べていけるのだと、それも姉の喜びのひとつだった。
できる限り洒落た服を用意して、好物を詰めた弁当を持たせて送り出した。
──ああこれで。
──これであの子は幸せになれる。きっと、幸せになれる。
姉はそう思っていた。そう信じていた。
姉はただ直向きに妹の幸福を望んでいた。それを知るからこそ、妹は姉の願いを拒絶できなかった。
姉の顔は明るい。妹の顔は浮かない。
姉はそんな妹に気づかない。
妹の行く先が、どこの何という学校であったのかは知らない。けれど繰り返しこれを見る私は、そこで何が起こるかを知っている。この齟齬が行き着く先を知っている。
でも、私は止める手立てを持たない。
だから、ふたつめの場面は葬儀になる。
姉は冷たくなった妹の亡骸に取りすがって泣いている。身も世もなく泣いている。
自殺だった。
学校で、随分と陰惨な仕打ちを受けたようだった。妹は姉にこれ以上迷惑をかけたくなくて我慢をして、耐えて堪えて忍び続けて、とうとう限界を越えて──折れた。
夢はゆらゆらと時間をたゆたうから、それが送り出してどれくらい経ってからであったのかはわからない。
──なんて迷惑な。
──やっぱり育ちがよくないから。
──身の丈に合わない事をするから。
いつまでも、そんな声が聞こえ続けた。
当然、姉は誰よりも強く自分を責めた。誰を恨むよりも強く自らを呪った。
どうして気づいてやれなかったのかと、深く深く悔いた。
幸せになるはずだったのに。幸せになれるはずだったのに。幸せにしてあげられるはずだったのに。どうして、こんなふうになってしまったのか。
精も根も尽き果てるほどに泣いて、それから姉は、妹の遺書の事を思い出した。部屋に遺されていたと学校側から渡されたそれは、封がされないままの状袋に収まっている。
きっと自分への恨み言が書き綴られているのだろう。でも妹を、彼女にとっての地獄へ送り込んだのは自分なのだ。受け止めなければならない。意を決して、姉は便箋を広げた。
──姉さんの側が一等幸せでした。ごめんなさい。
記されていたのはそれだけだった。勉学と努力の結果であろう、流麗な文字だった。
姉はもう、何も考えられなくなってしまった。
二人で暮らしていくのが一番の幸せであったなら、何もしなくたってもよかったのだ。そうして支えあっていけば、いずれいい縁があったかもしれない。別の幸福もあったかもしれない。
だというのに。
自分が余計をしたばかりに。
自分が幸せを押し付けたばかりに。
全ては裏目になってしまった。全てが失われてしまった。
そうして──姉は壊れた。
ずっと失い続ける人生だった。
母をなくし父をなくし、家をなくし寄る辺をなくした。
残された姉一人妹一人で、添うように生きてきた。
けれど生きれば生きただけ、大切なものは手のひらから零れ続けるようだった。
悲しくて、悲しくて、もうどうしようもなくて。
これ以上、何も失くしたくなくて。
それで彼女は妹を。
その、亡骸を。
夢はいつも、ふたつの場面だけを繰り返す。
まるで絶え間ない後悔に身を焦がし続けるように。
それを見るたび、熱を出すたび、姉妹の記憶は私を蝕む。彼女の悔恨が私を|苛_さいな》む。目覚めても胸に錯覚の痛みが残るほど、慟哭は強く激しかった。
けれど褪せない激情の鮮烈さと裏腹に、夢の頻度はやがて減じる。発熱の周期もそれに連れ、私は傍目には快方へと向かっていった。医者の言葉通りに私は退院の運びとなった。
「これなら、もうすぐ退院できますね」
担当医は満足そうに言う。
彼は快癒を確信するのだろうけれど、でも、違う。
病熱の時間は短くなったけれど、それは確実に私の芯を削る取るようになっていた。以前は熱さえ下がればすぐにも動けたのに、今では気力体力をごっそりと根こそぎされて、その後も床を離れられない。
夢は見なくなったのではなくて、見る必要もないくらい、私の記憶に溶け込んでしまったのだ。
病状は軽くなったのではなく、深く奥に潜んだのだ。
病という名の宿り木は、どうしようもなくしっかりと私を絡め取っている。
これは死病であるという直感があった。
ただ不思議にも、さして恐ろしくは感じなかった。既に一度死んだ身なのだと、そう考えている所為かもしれない。
相変わらず爪も髪も殆ど伸びない。食欲も薄い。でも発熱と夢の感覚はどんどんと広くなり、そのうち
久しぶりに病院の敷地を出たら、世間はもう、すっかり春の装いをしていた。