表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

テセウスの船

 継いで()ってパッチワーク。

 切って縫ってパッチワーク。

 混ぜて混じって織り交ぜて。

 さて、私は誰でしょう。




 *




 繰り返し見る、誰かの記憶。

 それには茫漠とした不気味さがまとわりついていた。自分の中に見知らぬ他人が入り込んでいる。住み着いている。そんな、ざらついて嫌な感触だ。

 だから私はひとつめの夢について、相談をしてみる事にした。

 体の事が心の問題ではないかとされてから、私は簡易なカウンセリングを受けている。その担当医に話を持っていったのだ。

 自分の中に知らない記憶があるのだと、どこからか混入したそれが不安でならないのだと、そう吐露をしてから尋ねた。


「例えば飲食や輸血などで、自分の中に他人の記憶が入り混じるという事はありえるのでしょうか?」


 すると医者はものやわらかく微笑んで答えた。


「いいですか。戸森さんが鶏肉を食べたからといって、戸森さんに羽は生えてきません。空が飛べるようになったりもしません」

「はい先生、わかります」

「では応用です。魚を食べたら、あなたは泳げるようになるでしょうか」

「そうはなりません。私は元々泳げますけど、でもそれは魚を食べたからではありません。勿論、食べて鱗が生えてくる事もありません」

「飼育されていた頃や海を泳いでいた頃の夢も見ませんね?」

「はい、先生」


 返答に彼は満足げに頷き、その裏で私は自嘲する。輪に入るのは苦手な自分も、こうして最初から関係性の固定された問答ならば滞りなくできるのだ。


「だからそれは錯覚です。あなたの体はあなたのものです」

「でも」

「いいですか。人間の胃液というものは、思う以上に強力なんです。量次第では鉄さえ溶かしてしまう。もし仮に戸森さんが何かの記憶をたっぷり含有した食品を経口摂取したとしても、それはたちまち溶かされてしまいます。情報を留めたまま夢を見続けさせるなんて、到底考えられません」


 だから不安になる事はありませんよ。

 告げる彼の声音は優しい。できる限り私の不安を取り除こうと考えてくれているのがわかる。


「輸血にしても大丈夫です。同じく仮に記憶を持った血液というものがあったとしても、人の血液はおよそ百日程度で入れ替わるものだとされています。入り込んだ血はどんどん廃棄されて、後はあなたの体が造ったあなた自身の血液ばかりが増えていくわけです。もし血液の記憶が夢を見せていたとしても、その記憶は時間の経過で薄れていくしかないでしょう。それにそもそも、あなたに輸血を行った記録はないんですよ」


 言葉を切って、また彼は人当たりよく口元で笑んだ。。

 彼は医者で、人に関する知識も私よりずっと豊富で、その言葉は信じるに足るものなのだと思う。

 そう思うのに、私はまだ、どこか得心できないでいる。


「戸森さんには、自分の変化への不安感があるようです。でもね、人間なんて誰しも変わっていくものなんですよ。これは精神的な意味だけではなくて、肉体的にも。さっき僕は血液の話をしましたが、同じように体も入れ替わっているのを知っていますか?」

「いいえ」

「実は新陳代謝によって、私たちの体は少しずつ組み変わっているんです。およそ六年前後で、全身がそっくり新しいものに作り変わっているのだと言われています」


 急に自分の体が信用ならないもののように思えてきた。

 粘土を捏ねて塑像(そぞう)するように、自分が今も見えない手で作り変えられている。そんな想像をしたら、ぞくりと怖気が走った。ぎゅっときつく膝の上の拳を握る。


「だからね、日々変わっていく事こそが当然なんです。逆に考えても見てください。小学校の自分と高校生の自分。もしも両者にまるで違いがなかったのなら、その方がよっぽど怖いでしょう? 私たちは日々変わり続けているんです。けれど変化は本当に少しずつ起こるから、自分やいつも周りにいる人たちは気づかないし気づけない。あれです、久しぶりに会う親戚の子が、急に大きくなったように見えるのの逆ですね」


 私の怯えを汲み取ったように、彼は穏やかに平易な実例を挙げる。


「このように、変化は成長と言い換える事もできます。それは生きているからこその反応です。あなたが変わる事に対して怯えを抱くのは──」


 そうして結ぼうとして、咳払いして口を(つぐ)んだ。

 影に日向に幾度か聞いた言葉であるから、それでも言わんとした事は伝わってきた。


 ──自身が生きている事へ罪悪感を抱いているからではないか。

 ──自分がまだ生きていて、変わっていける事への罪の意識なのではないか。


 診断はそこに帰結する。

 その結論は、おそらく彼らの中で座りのいいものなのだろう。けれど私の中ではもぞもぞと、やはりに割り切れないものが蠢く。


「『テセウスの船』という話を知っていますか?」


 沈黙を落とすさせるまいと医者は話を転じた。そして机上に一冊の本を乗せる。

 首を振った私の視線を受けて、彼は説明を始めた。


「そうですね、ここに木造船があるとします」

「はい」

「航海すれば船体は傷みます。修理が必要になる箇所も出てきます。そうして航海と修理を繰り返した結果、船に使われた木材は、建造当初のものとはすっかり入れ替わってしまいました。この船は、最初の船と同じものといえるでしょうか。大雑把に言うなら、そんなお話です。あなたはどう思いますか?」

「……」

「ああ、今答えを出さなくても大丈夫ですよ。気晴らし程度で、次までに考えてみてください」


 カウンセリングの終了を告知して、彼は乗せた本を私に寄せた。


「色々な人の、この話に対する考えが書かれています。よろしければお貸ししますよ」


 少し悩んでから厚意を受ける事にして、私はその本を病室に連れて帰った。

 個室のベッドの上で考える。

 嵐に打ち砕かれたり、老朽化して解体されたりしない限り、船の形を保つ限り、それは同じ船であるといえる。

 けれど釘一本でも損なわれれば、毛一筋ほどの傷でも入れば、それでもう最初の船とは異なってしまうともいえる。

 ひとり、その先に連想を進める。

 では一度も船出せず、最初の形を保った船があったとしよう。

 それは船と呼べるのだろうか。水を渡る為に造られたのに、誰も乗せずどこへも行かず、ただ時間に蹂躙されて朽ちていくだけ。

 果たしてそんなものを、船と呼べるのだろうか。


 人も同じだ。

 何とも関わらず誰とも関わらず、そんな具合に生きていくなら、()のままの自分を、素の自分を守れはするだろう。でもそんな生き方は不可能だ。そんな事は私程度の小娘にだってわかる。

 世に出れば、有無を言わせず他者と関わる事になる。そこには喜びもあるし悲しみもある。そこから受ける傷もある。

 でもその傷も含めて自分ではないのだろうか。

 傷は、経験と呼び変える事もできる。

 それを得て、それを経て変わっていくのは、決して自己の喪失と同義ではない。

 変化も成長も生きているからこそと彼は言った。その彼が私に考えさせたかったのは、つまりはそういう事なのかもしれない。

 そこまで考えてから、私は(かぶり)を振った。

 だけど残念ながらこの停滞は、この熱は、そんな気づきで治る心のものではないようだった。


 気晴らしにと言われた事を、思いつめて考えた過ぎた所為だろうか。

 夜中に私は幾度も目を覚ました。ぐっすりと眠れなくて、それならばいっそ起き出してしまおうと、個室に備え付けられた洗面台で顔を洗った。

 ぼおっと体温の高い頬に冷たい水の感触が心地良い。

 存分に堪能してから、タオルで顔を拭う。そしてぎょっと身を引いた。

 私はとうに体を起こしているのに。

 洗面台に備え付けられた鏡、その中の私は、まだ顔を洗う姿勢で俯いたままだ。


 ──あなたは誰?


 俯いたまま、知らない声で私は私に問いかける。高くひび割れるその響きは、調律されていないピアノのようだった。

 ゆっくりと鏡の私が面を上げる。上げていく。

 額。両目。鼻。唇。顎。喉。

 順番にせり上がって、まるで私でないような顔をした私が、向こう側から私を見つめる。


 ──あなたは、誰?


 突如、ぞろりと。その頬肉がこそげて落ちた。ついで鼻が腐れてもげる。眼球がひとつずつ順番に外れて、粘性の高い糸を引きながら体を伝って転げていった。

 顔が終わると次は腕だった。それから肩、胸、腹。

 私の肉は次々と剥がれて、私は部品に解体されていく。

 やがてすっかり肉を失くした鏡の中の髑髏は、カタカタと優しく笑う。そして壊れたように繰り返す。


 ──生キテイテ、イインデスヨ。

 ──生キテイテ、イインデスヨ。

 ──生キテイテ、イインデスヨ。


 こんなものが生きているはずがない。こんなものが生きていっていいはずもない。

 ぞくりとして後退(あとずさ)る。

 すると足裏に、やわらかで濡れたものの感触がした。何を踏んだのかと視線を落せば、床の上には私から剥離(はくり)した頬が、鼻が、目玉が、肉が。



 そこで、飛び起きた。

 私がいるのは、もう見慣れた病院の天井の下、病室のベッドの上だった。

 混乱する意識と乱れた呼吸を整えて、起き上がって明かりをつける。

 見れば洗面台は乾いたままで、タオルは少しも湿っていない。

 いつもの夢とは違う、ただの悪夢のようだった。

 しかしそうとわかっても、心の芯をぐいと鷲掴みされたような感触があって。その不気味さは、なかなかに(ぬぐ)い去れるものではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ