SED2:空倉陸の章 インペリアル・クリーム
はい、そういうわけで長らくお待たせしてしまいました。SED2、陸君エンドスタートです♪
なお、お待たせしてしまったのは決して作者が怠惰なせいではなく、文章量がえらいことになってしまったせいだと解釈してもらいたいです。
四万字あります。反吐が出るほど長いです。
書きたいことを全部詰め込んだら、こんなことになるんだなぁと我ながら思って反省中であります♪
これは、甘い甘い男たちの物語。
空倉陸は、色々なものを背負って戦う受験生である。
高校三年生ではあるがバイトもするし、勉強もするし、仕事もしている。別に金が目的というわけでもなく、ただ一心不乱に働くのがそれほど嫌いじゃないのであった。
実際には……その根底には一つの無念が渦巻いているが、今は務めて気にしないようにしている。
今日も今日とで仕事場で書類整理などをやっていると、彼の雇い主がデザートなどを持ってきたりする。
「陸。仕事はどんな具合?」
「もーちょいで終わるよ、兄貴。……しかし、なんつーかもうちょい従業員増やそうぜ? この前雇った……えっと、メイシュだかなんだかって子は使えないことこの上ねぇしさ。彼女の付き添いのサラリーマンはやたら使えるんだけど」
「ぼやかないぼやかない。鍛えるのも仕事のうち。新人を鍛える度量がないんじゃ、仕事なんて成り立たたないもんだよ」
雇い主兼兄貴のような彼……なぜか眼帯を身につけている青年は、陸が座っているテーブルに手製のマンゴープリンを置きながら欠伸をする。
陸が仕事をしている場所は執務室というわけではなく、事務室のように見えるただの物置である。唯一の利点はなぜか茶器一式が完璧に揃っていることと、奥まった場所にあるおかげで店の雑音やらなにやらを全部シャットアウトしてくれることだろう。
陸としては騒がしい方が好みなのだが、書類仕事の時は静かな方がやりやすい。
「で……志望校とかどこにするか決めた?」
「さらっと嫌なコト聞くよな、兄貴は」
青年が煎れた茶を飲みながら、陸は顔をしかめる。
「……そもそも、なにしたいのかとかよく分かんねぇし。冥姉さんみたいに『これ』っつうのがあればいいんだけど」
「別に、やりたいことなんかなくても、志望校なんて簡単に決められるよ」
「……どーすんだよ?」
「勉強やらバイト漬けで無理することはないんだ。行ける所に行けばいい」
「………………」
あんまりといえばあんまりな言葉に、陸は少しばかり絶句する。
眼帯の雇い主は、にやりと笑って続ける。
「ただ、勉強ってのは極めれば『研究』って分野にまで手を伸ばせるからね。こっちは金になるから、やりたければ大学院まで行けばいい。金は出してやるよ」
「……結局、好きなようにしろってコトかよ」
「僕は陸のことがそれなりに好きなんでね。陸が望む限りはどんな援助でもしてやるよ。それが幸運か不幸かは、陸の判断に任せるけど」
「………………」
陸はほんの少しだけ悩む。
やりたいこと。自分が望むこと。一番にやってみたいこと。
ここまで来て遠慮するつもりなど毛頭なく……だったら、迷うことはないと思った。
「……兄貴」
「ん?」
「俺が今辞めても、大丈夫か?」
「全然全くさっぱり大丈夫じゃないが……ま、一人ならなんとかなるさ」
眼帯の彼はきっぱりと断言しながらも、嬉しそうに口元を緩めた。
「……行くの?」
「ああ」
「相手は超手強い。ついでに言えば、全員虎子ちゃん大好きっ子ばっかりだ」
「ハ、甘いな。そんなもん俺の方が大好きに決まってるだろうが」
きっぱりと断言して、陸は立ち上がる。
「じゃ、世話になった」
「世話を焼いたつもりはないけどね。……っと、そうだ」
眼帯の主は、棚から取り出した箱を全力で陸に向かって投げつける。
陸は慌てて振り返って。その小箱をキャッチした。
「……いや、兄貴。餞別ってのは全力で投げるもんじゃねーぞ?」
「五月蝿い黙れ小童が」
「………………」
うるさいだまれこわっぱがと言われて、陸は思わず絶句した。
そんな中で……眼帯の彼は世にも恐ろしい魔王のような笑みを浮かべていた。
「くっくっく、ようやく決意したな、陸。お前が決意するのを今か今かと待ち受けて、準備も三年前に済ませてたのに、迎えに行くのが三年後ってどういうことだこのヤロウという悪意も全部込めて、テメェに世にも恐ろしい試練をぶちかましてやるZE!」
「……あの、兄貴。素直に怖いんだけど。あと、中学生の小僧が女迎えに行くって、無謀極まりないからな? 金も実力もなんにもない小僧じゃ破綻すんの目に見えてるし」
「むぅ、なんたる正論。それでも、四年間放ったらかしってどーゆーコトかな?」
「文通してんもん。暇な時にわりと会ってるし」
「……な、なんたる甘酸っぱい青春時代っ! 恥ずかしくて僕には絶対に真似できねぇぜっ!!」
「うるせぇよっ!!」
さらりと言ったつもりだったが、さすがに恥ずかしくなって顔を赤く染めるあたり、まだまだ甘くて青いなぁと、眼帯の青年は思う。
(……それでも、目の付け所は悪くないか)
青年の知り合いである、悪夢のような女が支配できるのはデジタルの世界だけ。
デジタルが駄目ならアナログで。目立たないようにさりげなく。返事が来なかったらもう二度と送らない。
そんな覚悟を決めて……四年間、続けてきたのだろう。
「……さて、陸。それじゃあ始めようか」
「オッケーだ、兄貴。……まずはアンタからってことでいいんだな?」
「当たり前だ」
男たちは拳を握る。
一人は障害として、一人は突破する者として、共に拳を握り締める。
そして……最初で最後の、なんの手加減もない大喧嘩が始まった。
まぁ、結果からすれば……僕の敗北は言うまでもないことだった。
当たり前のことだけど、今の僕と陸くんじゃ戦力が違い過ぎる。勝とうと思って準備もしっかり整えておけば間違いなく勝てる喧嘩だっただろうけど、それじゃあ意味がないことを、僕も陸も知っている。
勝利も敗北も意味はないけれど……ただ戦うことに意味を持つ戦いも、ある。
「……なにやってんの、テン。邪魔なんだけど」
「や、青あざだらけで寝転がってる男に向かってその言葉はひどいと思うけど」
聞き覚えのある声に口元を緩めながら、僕はゆっくりと起き上がる。
「舞は休憩?」
「まぁね。ちょっとお茶飲みに来ただけだけど。……あ、マンゴープリンとかあるじゃん。もらっていい?」
「どうぞ。もう食べる人もいないしね」
僕が了解を出すと、舞さんは上機嫌にマンゴープリンを口に運ぶ。
「うん、なかなか美味しいじゃない」
「……まぁ、手作りだから」
「で、誰が辞めたの? 陸?」
心臓が跳ね上がる。
うわぁ、舞の視線が異様に痛い。声色もなんか酷薄だ。
僕が恐る恐る顔を上げると、舞はにっこりと……身の毛もよだつ恐ろしい笑顔を浮かべていた。
なんで女の子って……怒ってる時に笑うことができるんだろーか?
「……ったく、アンタの無計画さには呆れ果ててものが言えないわ」
「いや、まぁ……章吾さんの時と違って、ちゃんと新しく雇う人の当てはあるから」
「そういうことが言いたいんじゃないってのよ」
舞は、容赦なく僕の頬をつねり上げる。
相変わらず、ものすごく痛かった。
「アンタのテンションが落ちると、冥ちゃんを始め京子さんやチーフが心配するでしょうが。……それがどんだけ影響を与えるのか、知らないわけじゃないでしょ?」
「や、すんません。反省してます」
「ったく……へこむんだったら、最初から辞めさせなきゃいいでしょうが」
そう言われても、従業員が辞めたら、そのツケは責任者に回ってくるわけで。
屋敷にいた頃と比べるとだいぶ楽だから陸が抜けても問題はないんだけど……なんつーか、ここって女性率が妙に高いからね、男の話し相手は結構貴重なわけで。
まぁ、なんと言われようとも、陸が辞めると言えば僕には止めることなどできない。
「でも、虎子が陸を待ってるとは限らないけどね」
「……相変わらず、舞は現実的だなぁ。嫁の貰い手とかなさそう」
「殺すわよ? テン」
「殺害はちょっと勘弁して欲しいなぁ……」
僕がパタパタと手を振ると、舞さんはやっぱり不機嫌そうにしていた。
ん〜……もしかして、万が一にもないかもしれないけれど……。
「……ねぇ、舞」
「あによ」
「もしかして、ちょっと寂しかったりする?」
「なっ!?」
真っ赤になって思い切り立ち上がる舞。相変わらず分かりやすい反応だった。
「さ、寂しいわけないでしょっ!? ただ……その、明日から仕事が面倒になるって思っただけだしっ!」
「はいはい。……ホント、可愛いよな舞は」
「ちょ、違うってばっ!!」
顔を真っ赤にしながら必死で否定する舞を見つめながら、僕は少しだけ頬を緩める。
いっそのことちゅーでもしてしまおうかと思ったケド、仕事中なのでやめておいた。
(……さてと、問題は陸の方なんだケド)
障害は腐るほど。家族全員が虎子ちゃん大好きなあの一家を出し抜くのは相当な覚悟がないと不可能だろう。
その程度の覚悟くらいは決めてるだろうけど……まぁ、障害は多ければ多いほど愛は燃え上がるということで。
僕の全力とあらゆる人脈を使い、陸の邪魔をしまくってくれるぜ。
と、不意になんだか頬に冷たい視線を感じる。
振り向くと、舞さんが呆れ果てた目で僕を見つめていた。
「……テン、なんかものすごく大人気ないこと考えてない?」
「あっはっは」
考えてますとも。
あからさまなごまかし笑いを浮かべながら、僕は電話に手をかけた。
高校二年生、竜胆心得はお姉ちゃん大好きっ子である。
もっと正確に言えば、中学校卒業くらいまで意地を張りまくって迷惑をかけていたが、ここ最近は改心したというのが本当のところである。
ただ、中学校の頃も意地を張っていただけで結局はお姉ちゃん大好きっ子なのは変わっていない。
ボサボサの髪をショートカットに切りそろえた彼女は、男子の間では『狂犬』で通っている女子である。背は167センチ。女子ではかなり高い部類に入るが、自分よりもさらにすごい悲劇を知っている心得にとってはさほど問題にするようなことでもない。
問題なのは、四年前くらいから聞こえる幻聴の方だが、まぁこれに関しては人に言うことでもなく完全無視を決め込めばどうってことはない。
人間関係を円滑にするコツは、自分がいかに特別で特殊だろうがそれを人には見せないことだと、心得はなんとなく思っている。
まぁ、今の彼女にとってそんなことはどうでもいいことではあるが。
「…………よし」
チャイムが鳴る。それは授業終了の合図。
その合図と共に、今まで眠って体力を温存していた心得は活動を再開する。
目にも留まらぬ速さで鞄の中に勉強道具を突っ込んで、教師が教室を出たと同時に走り出す。今日は掃除当番とか訳の分からないことを言われたような気がするが、そんなものはどーだっていい。
「よくねぇに決まってんだろうが、馬鹿」
「ぐぇっ!」
後ろから襟首を掴まれて急停止。蛙が潰れたような呻き声を上げた心得の視界が、一瞬だけ真っ赤に染まる。
ごほげはと咳き込んで、襟首を掴んだ人物に食ってかかった。
「ちょ……先生っ! なにすんのさっ!?」
「別に。襟首掴んで止めただけだ。大したことはしてねぇよ」
とんでもないことを当たり前のように言う教師。名前を草薙神威という。死んだ魚のような目と不精髭。着崩したYシャツに咥え煙草(時折棒状のお菓子)という教師失格な特徴を持つ、心得のクラスの担任だったりする男である。
ちなみに、名前負けしていることを突っ込むと本気で怒り出すあたり、本当に大人気ない大人でもある。
本人はやる気0でなんかもうどうしようもないことこの上ないのだが、やることはやっている上に、『あのだらしなさがたまらない』と言う一部のマニアックな女生徒に好かれている。しかもそういう女生徒の親に限って色々な方向に権力を持っているので始末に負えない。
心得の、現在始末したい男ダントツ1位に輝く教師である。
そんな教師は、煙草を携帯灰皿に押し込みながら、思い切り溜息を吐いた。
「つか、『なにすんのさ』じゃねぇよ。テメェ昨日の生徒指導もサボったろ?」
「そんなの、髪染めたくらいで説教するこの学校の規則がおかしいんだよ〜だ」
「そーかもしれんが、規則は規則だ。そして、俺の仕事は規則を守るように生徒に強制することだからな、悪く思うな」
「……むぅ、さすが不良教師。言うコトが一味違う。……でも、規則とかってあんまり先生らしくないよーな気もするんですが、いきなり更正したんですか?」
「馬鹿かテメェ」
死んだ魚のような目で心得を睨みつけて、神威はきっぱりと言い放った。
「規則以前に、茶髪は萌えないだろうが」
教師として言っちゃいけないことを、きっぱりと言ってしまった。
クラスが戦慄に凍りつく中、心得だけが一人余裕たっぷりに笑った。
「……ふ、甘いわね先生。黒髪じゃなくても、大人ぶってほんの少し茶髪に染めようと思ったけど思いっきり失敗して涙目で学校に来る女の子とか、そういうのだって十分に萌えるに決まってるじゃないっ!」
「説明書も読めないような脳味噌プリン女はちょっとなぁ……」
「……そ、そーかなぁ? 説明書を読んでないんじゃなくて、ちょっと調整を失敗しただけかもしれないじゃん?」
「……ハ、髪の染色すら満足にできねぇって。それって人間失格ですぅ♪」
「くあああああああああああ! むっかつくううううううううううううううう!!」
「まぁ、生活指導なんざどーでもいいけど、今日の補習は俺の担当だから。出席させないと色々とまずいことになるんだよ。主に俺の給料とか」
「わぁ、先生って本当に教師失格♪ 隕石とか頭に落ちて死ねばいいのに♪」
「そういうお前は足元すら見えてないけどなー♪」
神威が言った瞬間に、心得の目の前の景色が反転する。ものすごい速度で足払いをかけられたと頭が認識する前に、神威の手が心得の腕を掴んでいた。
そのまま米俵をかつぐように心得を持ち上げて、神威は歩き出す。
「つまんねーコト言ってねぇで、さっさと行くぞ馬鹿野郎。ただでさえテメェの成績は火の車なんだから、学校辞めたくなかったら補習くらい真面目に受けろ」
「ちょ、クソ教師っ! これは限りなくセクハラに近いんだけどっ!?」
「安心しろ。カブトムシと同じ匂いがする女には欲情しないから」
「…………え?」
心得の顔が一瞬で絶望に彩られる。
「あ、あの……先生? カブトムシって……嘘だよね?」
「素直に補習室まで来たら教えてやらぁ」
「………………」
一瞬で大人しくなった心得を横目に見ながら、神威はこっそりと舌を出した。
(うわ、馬鹿だこいつ。扱いやすいのはいいんだが……なんだかなぁ)
心得の将来を心配しているほぼ唯一の教師は、そんなことを思いながら内心で溜息を吐いたのだった。
考え得る限りの最悪教師、草薙神威は女性への優しさが欠如した男である。
好きな女性のタイプと言われれば『チチがでかい女』と即答し、嫌いな女性のタイプと言われれば『テメェらみてえな中高校生のおガキ様』と即答する、なんというか教師としても人間としても駄目駄目な男である。
「…………ぐー」
その駄目教師は、机に突っ伏して安らかに眠っていた。
氷がたっぷり入ったアイスコーヒーが、飲まれることなく放置されていたりする。
(殺したい。すぐ殺したい。すごく殺したい)
購買で買ったパックのウーロン茶(冷えてない超安物)などを飲みながら、心得は湧き上がる殺意を抑えるのに必死になっていた。
いっそのことその安らかな寝顔のまま殺してやろうかなどと思ったが、こんな駄目大人のために自分の人生を台無しにする必要はないなと思い直して、ゆっくりと深呼吸。
「……つか、細いわりに胸ねぇな。竜胆」
「ごふっ!?」
あんまりと言えばあんまりな寝言に、心得は思い切り吹き出した。
(こここここここここ殺してやるこの不良教師っ! 今ここで、問題なく、スムーズにSATUGAIしてやるうううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!)
胸がないというわけではないが、若干控え目な心得は血の涙を流しながら現代日本が作り出した最も安易な凶器、制汗スプレーとライターを構える。
ちょっと洒落になってないかもしれないがかまいやしない。いっそのこと『先生に乱暴されかけて、仕方なかったんですっ!』とかなんとか言いながら泣きつけばいいだけのことである。
(くっくっく、自分の迂闊さと、女性優位な現代日本を恨むんだネっ!)
ニヤニヤと笑いながらスプレーを神威に向けて、噴霧しようと指に力を入れる。
と、その時。不意に神威は目を開けた。
「……なにやってんの? お前」
「………………えへ♪」
心得は綺麗な笑顔を浮かべた。
男ならそれだけでどんな悪行もうっかり許したくなってしまいそうな、それはそれは綺麗な笑顔だった。
神威は半眼のまま、心得からライターを奪い取って、煙草に火をつける。
それから制汗スプレーも奪い取って、神威はゆっくりと紫煙を吐き出した。
「竜胆」
「は、はい。……な、なんでしょう?」
「あれはなんだ?」
「…………ほえ?」
神威の指差した方向を思わず見てしまう心得。
その隙を狙って、神威は心得の制服の襟を掴んで隙間を作り、その隙間に石のようなものを放り込む。
「ひああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
神威が投げ込んだのはアイスコーヒーの中に入っていた氷である。
あまりの冷たさに、心得は涙目になりながら思い切り叫んだ。
「セクハラーーーーーーーーーーーっ!!」
「だから、カブトムシの幼虫みたいな女に興味はねぇってば」
「さりげなくランクダウンすんなっ! つーか、よく考えたら年頃の娘がカブトムシみたいな匂いするわけないでしょっ!」
「はいはい、悪かったよ。これで好きな飲み物でも買って来い」
「え? まぢ? らっきー! ……って違うっ! こんなんで誤魔化されるかっ!!」
150円で誤魔化されかけるお前の将来が本気で心配だよ、と神威は本気で思ったが彼女の名誉と誇りを重んじて、あえて口に出すことは避けた。
竜胆心得。必死にバイトをしてなんとか体面を保ってはいるが、家が貧乏な女子高生である。彼女の姉はそのへんの高校生程度じゃ通うことが不可能とされている学園を卒業していたりするが、その金がどこから来ているかは一切不明だったりする。
(ま、なんにせよ不憫な奴だよな……)
神威はゆっくりと溜息を吐きながら、心得がやった補習の問題を採点していく。
「しっかしお前、今日はなんであんなに急いでたんだ? いつもだったら掃除くれーはやっていくじゃねぇか」
「……ちょっと、色々あって」
「ふむ」
神威は顎に手を当てて少しだけ考える素振りを見せてから、口元を緩める。
それから、携帯電話を取り出してどこかに電話をかけた。
「あ、もしもし? 草薙だけど……あ、うん。そうそう。いや、なんか補習受けるのちょっとしぶってやがるんだよ。テメェの方でなんか心当たりがないかと……あ? ああ、はいはい。なるほどそういうことか」
「?」
「ああ、了解。ちゃんと捕縛しとくよ。……まぁそれはそうとテメェもさっさと結婚しろ。ほらあの山田ちゃんとかなんとか……は? 色々とやばい? あの子女子大生だろ。どこかやばいんだよ? むしろ押し倒して朝も昼も夜もただれた生活を送ってもいい頃合……はいはい、怒るなよ。冗談だ冗談。じゃあ、こっちはこっちでやっとくから。あーはいはい、安心しろ。スズメバチみてーな女に手を出す気はございません。後々面倒だし、なにより生徒だしな」
なにやら、激烈に嫌な予感がしつつも心得は几帳面に電話が終わるのを待った。
やがて雑談も終わったらしく、神威は携帯電話を切ってニヤリと笑う。
「よし、補習終わったら肉でも食いに行くか?」
「あたしは帰ります。……つか、誰がスズメバチだ。明日殺すからね」
「まぁ、そんなクサクサすんなって。お前のねーちゃんは今日は夜にならないと戻って来ないらしいぞ。なんでも、男と会ってるんだとか」
「男ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」
顎が外れんばかりに驚いた心得の顔は、真っ青になっていた。
「ば、馬鹿な……ありえないっ! 虎子姉ちゃんに限って……男なんてっ!!」
「なんか、結構長いこと付き合ってるみてーだぞ。バイト先で知り合ったらしい」
「……ねぇ、先生。なんで私も知らないようなことを、先生が知ってるの?」
「礼司に聞いた」
「………………は?」
「言ってなかったか? 俺と礼司は中学の頃からの友達なんだけど」
「………………」
沈黙が落ちる。それはそれは痛々しい沈黙が、補習室の中に落ちた。
「……あの、センセ」
「なんだよ?」
「その、なんでもするんでなるべく兄貴に……その、補習とかそういうのは口外しないでもらえるとありがたいかなーなんて、心得ちゃんは思ちゃったりするわけです♪」
「心配すんな。別に補習の日程なんぞ保護者にはばらさねぇよ。めんどいし」
「……ならいいんですけど」
「まぁ、ばらすのは竜胆のテストの成績くらいなもんだな。それはちゃんと逐一報告してるから、安心しろよ?」
「一番重要なところばらしてんじゃねぇかああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
補習室に、いつも通りとも言える絶叫が響き渡たる。
草薙神威の放課後は、今日も平和だった。
仕事はサクッとやめて、バイトは続けることにして、仕事をやめた記念にちょっと高いペアウォッチなどを買ってみたりしながら、陸はわりと上機嫌に歩いていた。
ちなみに、彼からの餞別はあからさまなエンゲージリングだったので、持ち歩いたりはせずに家に置いてきた。気が早すぎるんだよなぁと思う反面、なんとなく嬉しくなってしまうのは……まぁ、仕方のないことだろう。
(なんつーか、会うのもけっこー久しぶりだな)
付き合っているわけでもなく、恐らくは完全に陸の片思いだったりするのかもしれないが、好きな女性に会うというのは楽しいことなんだと陸は思う。
あの出来事が終わった後には色々あったらしいが……今はもう、そんなに心配することでもないと、陸の元雇い主は言っていた。
あれから四年。文字にしてしまえば二文字だが、陸は身長が伸びたし、色々と変わったことも多い。変わらないと言えば元雇い主くらいなものだが……まぁ、あれは例外として、虎子もきっと変わっているのだろう。
少しだけ変わった彼女を思い描き、高校時代よりも綺麗になっている彼女しか想像できず、陸は口元を緩めた。
「………………ん?」
と、一瞬なにか悪寒のようなものを感じて、陸は足を止める。
周囲には誰もいない。近道しようといつもの裏道を通っていた陸は、己の迂闊さをほんの少しだけ呪いながら、いつものようにジャケットに仕込んであるポーチから刃渡り10センチほどの白木拵えのナイフを取り出す。
香純からもらった文化包丁以下の刃物ではあるが、護身用には丁度いい。
「どこのどいつだよ。人の幸せ気分に水を差す野郎は」
「クックック、どこのどいつとは失礼じゃないか、陸?」
まるで悪の総統のような口調で、彼は物陰から姿を現した。
死神の面と大鎌を失った『元死神』。陸のバイト先の『現喫茶店店長』でもある28歳の青年こと竜胆虎子の兄、竜胆礼司が陸を睨みつけていた。
「ああ……なんだ、店長じゃん」
「貴様にお義兄さんなどと言われる筋合いはないっ!」
「いや、言ってないぞっ!?」
「黙れ小童がっ! 貴様、虎子と今日デートをするそうじゃねぇかっ!」
またもやこわっぱと言われた陸は、ほんの少し顔を赤らめて頬を掻いた。
「……情報が速いッスね。兄貴の差し金か?」
「その通りだ小僧! 今日は家族の時間だから、残念だがデートは諦めてもらおうっ! もしもデートしたいと言うんだったら、この俺の屍を越えていくがいいっ!」
「店長、28にもなってその過保護っぷりはどうかと思うんスけど」
「俺もそう思う! でも、陸の邪魔したら借金ちょっと減らしてくれるってあの狐が言いやがるからっ! あの狐が借金を代行するようになってから、取立てが緩くなったのはいいが、なんか『さっさと結婚しろ』とか『もーちょっとしっかりしたら?』とかさりげない嫌がらせがひどいんだぞこの野郎っ!!」
「…………すんません」
路地裏で向かい合った男たちは、真剣にへこんでいた。
かなり情けない姿ではあるが、それは言わないお約束である。
年月は人を変える。それがいいか悪いかは本人と他人にしか分からなかったりするのだが、まぁそれはそれとして。
「つまり、店長も敵っつう認識でいいんだな?」
「ま、そういうコトになるな」
「……じゃあ」
陸はにやりと笑う。
「ぶちのめしても、一向に構わないってことだな」
間合いは三歩。その三歩を一瞬で詰め、陸は拳を打ち込む。
礼司はそれをあっさりと見切ってぎりぎりで回避する。『死神』の資格を持たない彼を死神たらしめていた『経験』をもって、その拳をかわした。
陸は攻撃を行った後であり、完全に無防備。対する礼司は攻撃を回避すると同時に必殺の拳を固めている。
その瞬間に勝負は決した。
「ちなみに、俺を殴ったら山田のねーちゃんにちくる」
「っ!?」
あっさりと礼司の動きが止まった。
その隙を狙い、陸は殴って蹴ってついでにぶん投げて地面に叩きつけた後、内ポケットを探ってサイフを抜き取り、ふところに収める。
「甘いな、店長。……今の俺は誰にも止められない」
「いや、ちょっと待て! 卑怯な手段云々以前に財布は返せよっ!?」
「いやだなぁ、お義兄さん。兄のものは妹のものだろ? 持ち主に還元するだけだから、気にするなってっ!」
「……陸くん、正直に話せ。おにーさんは怒らないから」
いつもとは芸風の違う陸を礼司は思い切り睨みつける。
額に一筋の汗を流しながら、陸は思ったよりも簡単に白状した。
「いやぁ、実はさっき調子ぶっこいてペアウォッチとか買っちゃったせいで、手持ちがちょっと心許なくて……これから神代の所に借りに行こうかと」
「張り切るのはいいが、金は計画的に使え。……貸してやる。後で返せよ」
「恩に着るぜ。店長」
礼司の財布から取り出された、頼もしき諭吉連隊を自分の財布に収めて、陸は笑う。
「じゃ、勝ったしふところも温まったので、ちょっくら行ってきます」
「おう、さっさと行け。……ま、複雑だが、上手くいくように祈ってやるよ」
「了解」
陸は笑いながら手を振って、さっさと早歩きで去って行った。
後姿を見送ってから、礼司はゆっくりと溜息を吐いた。
「やれやれだ……」
道化もいいところだと思う。
それでも、まぁ生活があるのだから仕方がない。
「……つーかアイツ、芸風があの狐に似てきてるけど、大丈夫かなぁ」
そんなコトをぼやきながら、礼司は空を見上げた。
空は雲ひとつない青空が広がっていた。
それを、遠くの喫茶店から双眼鏡で眺める二人の人物がいた。
一つは街中には不自然すぎる服装の眼鏡をかけた女で、もう一人は目つきの鋭い眼帯の青年。
ちなみに二人の姿は人目を引きまくっているのだが、もちろんそんなことは二人にとっては知ったこっちゃなかったりする。
「……竜胆礼司。どうやら突破されたようです」
「くっくっく、なかなかやるじゃないか、陸。しかし、礼司さんは48傑集の中でも一番の小物。あの程度が僕の全力だと思ってもらっては困るな」
「別に48傑集とかいませんけどね」
さらりとしたツッコミを入れながら、メイド服に眼鏡という扮装の女は、優雅にアイスコーヒーなどを飲みながら口を開く。
「しかしなんというか……正直、悪趣味だという気もしますが」
「ま、そりゃ重々承知してる。正直言えば老婆心ってやつだよ。ちょっと様子見て、上手くいきそうだったら適当なところで引き上げるつもりだったし」
柄にもなく財布の紐が緩くなっているしね、とは青年は言わなかった。
空倉陸はああ見えてお堅い青年である。
飲み会などには普通に参加するが、二次会などには決して顔を出さず、無駄な浪費は一切せず、ギャンブルもせず、とりあえず必死になれる仕事がありゃしばらく退屈はしないんじゃねぇのとか言っちゃうような男である。
今日はおそらく……柄になくはしゃいでいるから、財布の紐が緩いのだろう。
「色々と言いたいこともあるけど……まぁ、後のことは陸に任せるさ」
「ご主人様らしくありませんね。いつもだったらえらくえげつない手段で相手をネチネチと追い詰めた挙句、弱みを握って一生脅すくらいはするじゃありませんか」
「そこまではやってないぞっ!?」
「……まぁ、もう嫉妬なんてしてる暇はありませんか。私を含めて四人ですもんね」
「そういうコトだよ。暫定で五人ではあるケド」
言いながら、眼帯の青年はメイドの彼女の頭を撫でる。
くすぐったそうに微笑みながら、メイドはにっこりと笑った。
そして、二人揃って席を立つ。
「では我が主。弟の晴れ姿、とくと拝んでから甘いものでも食べて、ついでにあっちで粘つく視線を送ってくる人にラブラブっぷりでも見せつけて帰りましょうか」
「了解だ、侍従。……なんか、段々姉いじめに磨きがかかってないか?」
「姉さんが微妙な気分でやきもきする姿を見るためなら、私はどのようなことでもいたしましょう。……たとえば、昨日のように『パジャマ姿で耳かき』とか」
「耳かきするのは僕だったけどね」
「嫌ではないでしょう? ご主人様」
「嫌ではございませんとも。言われるまでもなく」
「では、お手をどうぞご主人様」
「はいはい」
二人はまるで、デートのように手を繋いで歩き出した。
その直後にメイドによく似た女がものすごい形相で眼帯の男に向かってイナズマキックをかましたりするのだが……まぁ、それはお約束ということで。
香ばしい匂いが鼻をつく。思わず涎を垂らしそうになって、心得は口元を拭う。
補習が終わって不良教師に連れて行かれたのは、それなりに人が入る焼肉食べ放題の店だった。値段がお安く、しかも味もそこそこということで高校生から家族連れまで幅広く親しまれている店ではあるのだが、心得はもちろん入ったことがない。
家族というか兄妹で焼肉など、食べるだけの余裕はなかったりする。
「……ちょっと、先生。どういうつもり?」
「食わないんだったら、別に無理して食わなくてもいいぞ、俺がお前のぶんまできっちりかっきり食ってやるから。どうせ食い放題だし」
「はへはばべひゃいっへひっはほほっ!!」
「ちゃんと野菜とかもバランス良く食えよ?」
苦笑しながら、神威は手際良く肉を焼いていく。
もっきゅもっきゅと肉を頬張りながら、心得はしっかりとそれを咀嚼して飲み込んでから、改めて神威を睨みつけた。
「……で、どういうつもりなのよ、先生」
「どういうつもりって?」
「いきなり肉を奢ってくれるなんて、なんか企んでるんじゃないの?」
「ま、企むっていうよりは、礼司に頼まれたって方が正しい。……デートの邪魔をしないように拘束してくれとさ。あと、妹に手ェ出すなとも言われたが、そっちの方はなんの心配もないし」
「………………」
ものすごい目つきで睨まれたが、神威はそれをあっさりと受け流す。
それから、口元を緩めて笑った。
「流石に教師が教え子に手ェ出すってのは最悪だしなぁ」
「教え子じゃなかったら手ェ出してたってこと?」
「……いや、教え子とか教え子じゃないとか関係なく、竜胆は無理」
「うわ、殺したい」
真顔で言われた一言に、心得は思い切り口元を引きつらせた。
神威はそんな心得を見ながらこっそりと口元を緩めた。
(……相変わらず面白れぇなァ、こいつ)
元気ハツラツで、スポーツ万能ではあるが勉強はできない。特定の親友は持たず、彼氏も作らず、教師は例外なく嫌いだが、それ以外とは誰とでも上手く付き合える女の子。
誰とでも、上手く付き合いすぎる生徒。
それが悪いわけではない。むしろいいことだろう。ただ、竜胆心得は確実に他人と距離を取っている。ある場所までは容易に近づかせるが、それ以上は絶対に近寄らせない。その場所に踏み込めるのは……恐らく、彼女の言う『家族』だけなのだろう。
(ま、別に踏み込む気なんざ欠片もないが)
生徒がどうなろうが知ったことではない。むしろ心得は成績以外は問題のない生徒の部類に入る。他人と話をしない生徒などクラスに確実に一人はいるし、そんな生徒にいちいち心を砕いているわけにもいかない。
教師とて人間なのだ。明日の生活もあるし、遊びたい気持ちもある。
「先生、なに神妙な顔してんの? 似合わないんだけど」
「お前ね。……俺にだって悩み事や挫折の一つや二つくらいはあるんだぞ? 今日だって本当はさっさと家に帰って明日の準備しなきゃなんねーしな」
「明日の準備? 教師って授業だけやってりゃいいんじゃないの?」
「教師の仕事は、テメェらおガキ様の面倒見ながら休憩時間の合間に書類仕事やって、飯食いながらも色々と雑務をこなして、次の日の準備も綿密にやらねぇと勤まらねぇんだよ。俺なんか高校教諭だからまだましだがな、これが小学校中学校になってみろ。子供が好きな人間じゃないとにやっていけない世界になる」
「へぇ、まぁ興味ないからどーでもいいけど。あ、タン塩もらっていい?」
「………………おう」
「じゃ、いただき♪」
目を細め、不貞腐れたように口元を引きつらせた神威は完全に無視して、心得は美味しく焼きあがったタン塩を口の中に放り込む。
その瞬間に、意識が飛びそうになった。
「からづああああああああああああああああああああああああっ!?」
「くっくっく、甘すぎるなぁ竜胆。話をスルーすることに気を取られすぎて、俺が話している間にタン塩の裏面に柚子胡椒とマスタードとわさびをたっぷり仕込んでおいたことに気づかないとは」
「馬鹿でしょアンタ! ホントに馬鹿じゃないのっ!!」
慌てて水を口に含んだ心得だったが、次の瞬間にはその水を思い切り吹いていた。
「ちょっ……うえっ甘ぁっ!?」
「ああ、さっき竜胆が席を立った時にコップの中身はガムシロップに変えておいた。ほら、竜胆って甘いのとか好きだろ?」
「人をカブトムシ呼ばわりするなっ! いくら甘いものが好きでもガムシロなんて直で飲めるわけないでしょっ! 先生、私になんか恨みでもあるのっ!?」
「………………」
不意に、神威は真顔になった。
そして、煙草を灰皿に押し付けてから、空虚な声でポツリと呟いた。
「……なぁ、竜胆」
「な、なぁに?」
「さっき言った通り、高校教師ってのは案外忙しい。テスト作成とかに回されるとホント悲惨だし、三学期とかあと一ヶ月あればいいのにって毎年思ってる。……そんな忙しい中でさ、テストの点が真紅に近い生徒の補習とかもせにゃいかんのだよ」
「……えっと、先生。目がまぢなんですけど」
「いやいや、目がまぢだろうが先生は仕返しとかそういうのは多少なりとも自重してますよ? 大人だもん」
大人なのに『だもん』とか言っちゃった神威は、いつにも増して腐敗しきった目で心得を見つめる。
まるでゴキブリを見る時と同じような目で、神威は心得を見つめていた。
「あ、あの、センセ? その視線は非常に心に突き刺さるからなるべくやめて欲しいなーなんて思うんだけど……」
「……うん、そーだね。でもね、さすがのセンセーも一ヶ月ほど休みなしで働くのはちょっと精神がやられちゃうからね? 心に余裕がなくなると食欲とか性欲とか、そういう大事なものが心底どーでも良くなっちゃうからね? 睡眠欲オンリーみたいな」
「……ごめんなさい」
心得は素直に謝った。ここまで素直に謝ったのは、五年前に弟とプリンの取り合いをして勝利し、その後兄と姉にこっぴどく怒られた時以来かもしれない。
と、その時。
「で、その時に妹がお兄ちゃんと喧嘩しちゃいましてねぇ。お兄ちゃんってば本気で妹のことを叩きのめしまして。あの時は大変でしたよ」
「……店長もさりげなく大人げねぇよな」
「ん?」
なにやら聞き覚えのある声の方向に振り向くと、そこには見知った女性といい男のカップルがちょうど店に入ってくるところだった。
いや、見知った顔というよりも。
「……姉ちゃんじゃん」
思わず顔を合わせる前に体を伏せながら、心得はじっと二人を見つめる。
笑っている青年。顔は○。性格はどうだか分からないが、とても楽しそう。
笑っている姉。とっても楽しそう。すっごく楽しそう。ものすごく楽しそう。
「……ねぇ、先生」
「んー?」
「なんていうかさ……『お付き合い』って楽しいものなの?」
「つまんねぇよ。こうやって飯食うぶんには竜胆の方が百倍楽しい」
なんだか遠くを見るように目を細めて、神威はきっぱりと言い放つ。
心得は少しだけ驚きながら、神威の目を覗き込む。
神威は心得の目を見返すことはせず、ただ少しだけ目を逸らした。
「……まぁ、そういうことになっちまうから、お前はいい男をちゃんと捕まえておけ。女の幸せが結婚だけとは思わないがな、それでも……隣に誰かがいるってのは、そんなに悪くはないもんだ」
「………………」
この時、竜胆心得はなんとなく彼の闇を知った。
ちゃらんぽらんで、テキトーで、どうしようもないくらいに不良教師である彼だが、どういうわけが浮いた話一つない。誰かと付き合っていたという話も聞かない。
教師なのだから当たり前かもしれないが、もしもその『当たり前』を神威が巧妙に利用しているのだとしたら?
「……そっか。先生はBLの人なのね。だとすると……攻めで確定ね」
「竜胆。先生、行き過ぎた体罰は否定派なんだけどさ、尊厳とかそのあたりを陵辱された気がするからちょっとぐーで殴っていいかな?」
「……だって、男の人で女子高生が嫌いってありえないっしょ? 先生ってそんなに恋愛の経験とかあるようには見えないしさ」
「まぁ、な」
ガシガシと頭を掻いて、神威はゆっくりと溜息を吐いた。
それからちらりと心得の姉の方向を見て、もう一度溜息を吐いて、苦笑した。
「いい女だな、お前のねーちゃん」
「…………もし手ェ出したら、SATUGAIするけど」
「手なんか出すかよ。……俺が言いたいのは、あんなに綺麗に笑える女は不幸になっちゃいかんだろうなってコトだよ」
「ま、ねーちゃんはそれだけが取り得だからねぇ」
「お前もだよ」
「へ?」
小皿を手に立ち上がった神威は、空いてる方の手でポン、と心得の頭を軽く叩く。
「だから、大火傷にならない程度に適当に恋愛とかしとけ」
それは多分、何気ない一言だった。
先生は大火傷したのとか、恋愛とか自分っぽくないとか、悪いものでも食べたのとか、色々と言いたいことはあったが、心得はなんとなく口をつぐんだ。
(……なんか、先生らしくない)
なんとなく、嫌な気分。
なんとなく、腹が立つ。
なんとなく、胸が痛い。
『うっふっふっふ、それは愛ですよ、愛。狂おしきL・O・V・Eっ!!』
頭の中で声が響く。なんだかものすごく嬉しそうな声。
「……ま、いっか。肉食べよ」
いつものように聞こえる幻聴を無視しながら、心得は小皿を手に立ち上がった。
磨耗した憎悪。
劣化した絶望。
今があって明日があって。
続いていく日々に追われていく。
そんなものでいいんだろう。
そんなものでいいはずだ。
憎悪と絶望が消えなくても。
毎日がそれなりに楽しければいいじゃないか。
昔のことなんて関係なく、楽しく生きていけばいいじゃないか。
そう、思っていたのに。
「……久しぶりだね、カムイ」
過去は、牙を剥いてやってきた。
悪いのは自分ばかりではないはずなのに、今更になってやってきた。
焼肉バイキングなのにパイナップルばかり小皿に放り込んでいる男が、神威に向かって笑いかける。
一見して女と間違えそうな男。腰まで伸びた髪に切れ長の瞳。神威とは正反対でなにもかもが違う男。頭の先からつま先まで、着ている服から気品まで、なにもかもが神威と正反対な男だった。
「いや、なんというかこんな所で再会するとは思わなかった。運命かな?」
「……俺は会いたくもなかったよ」
「だろうね。なんせ、君が好きだった誰かを奪ったのは、私なんだからね」
「ま、それに関しちゃ恨んじゃいるが根に持っちゃいねぇ。……悪かったのは空気が読めなかった俺だろうし、お前らにだって事情があったんだろうさ」
「……大人になったね、カムイ」
男はにっこりと笑う。
まるで笑っていない目を神威に向けながら、口元だけで笑った。
「……でも、そういう大人は私は好きではないな」
「残念ながら、道楽で生きていけるテメェらと違って、俺には明日の生活ってもんがあるんだよ。今日だって帰ったら色々とやらなきゃならんことがある」
「随分とつまらない人間成り下がったね、カムイ。……君がそのつもりなら、今度こそ一緒に世界を変えることができると思ったのに」
「ああ、そりゃもう無理だ。……世界は、どう足掻いても変わらないからな」
皮肉を不敵な笑みで返す。
裏切られて10年。磨耗した生活の中で、それでも悟ったことがある。
「人が変革できるのは、ちっぽけな自分一人だけだ。他の世界を変えたかったら、それ相応の覚悟を決めなきゃならん。……それが、責任っつうもんだろうさ」
「………………」
「なぁ、お前はその責任を果たしているか? 《姫》を背負う覚悟を決めて、俺に打ち勝って、それでちゃんとやれてるのか?」
「君が心配する必要なんてない。私は君と違う」
その声は平静そのものだった。
だが、神威にはなんとなく分かった。平静だからこそ裏に秘められた本当の意味を直感が告げてくれる。
しかし、神威は口出しはしなかった。
(まぁ、もう俺には関係ない)
そう割り切っていたから、話題を変えることにした。
「で、お前はこんな所でなにしてんだよ? 肉食いに来たのか?」
「まさか。私がここに来たのには他の用事が……って、ちょっと。なんで胸倉を掴み上げるんだ? 顔が怖いぞ?」
「いや、悪い。焼肉食い放題の店に来ておいて他の用事があるってところにちょっと殺意が湧いただけだから」
神威があっさりと手を離すと、男はゆっくりと溜息を吐いた。
「苦労してるんだな、カムイ」
「ま、人並み程度にはな。……で、話が逸れたが用事ってのはなんだ?」
「それは秘密と言いたい所だけど、君にも関係なくはない話になるだろうね」
「は?」
「私はちょっとスカウトしに来たのさ。なぜか放置されている殺戮一族、《死神》の名を冠する女の子達をね」
「………………」
神威は口を閉ざして、男を睨みつける。
男は、にやりといやらしい笑みを浮かべた。
「私は、この世界では制圧同盟って組織に所属してる。席次はNo12、『を』番。まぁ、席次なんかどうでも良いんだが、最近《姫》がちょっと面白い女の子たちに目をつけた。それが《死神》ってわけだ。殺戮一族、絶望すらも殺し切る彼女たちは、こっちの世界では一種の伝説として語られている。……ま、最近はちょっと活動が控え目で、もしかしたら血脈が途絶えてしまったのかもしれないと思ったケド、調査の結果ちゃんと生き残っていることが判明したってわけだ。真正の死神と化した少女には様々な能力が与えられる。死神に覚醒していない子や覚醒できない男でも、その身体能力と殺害能力は折り紙つきだ。惜しいだろ? そんな『道具』を放り捨てておくのは。ちょっとばかり脳をいじくってやればすぐに使い物になると思うんだよ」
胸糞悪くなるような話を聞きながら、神威の表情は変わらない。
口を開いた時も、声は平静そのものだった。
「……へぇ。で、それがなんで俺に関係あるんだ?」
「そりゃ、君と一緒に食事してる子と、あっちで楽しそうに笑ってる女の子が《死神一族》だからね。……君に関係ないってコトはないだろう、カムイ?」
長くて下らない話だと、神威は思った。
好きにすればいいと思う。いちいちそんなコトを自分に話すことはない。
どうしてこう頭の良い奴に限って下らないことが好きなのか。自分は日々の生活でいっぱいいっぱいなのに、どうしてこんなに下らないのか。
どうして下らない人間が、あんなに楽しい女たちを壊そうとするのか。
「……レイ」
「おや、怖い顔だね。ああそっか、カムイは教師なんだっけ。でも、今の君になにができる? 彼女たちを守れるとでも言うのかい? デストレイルを使えばこの場で彼女たちを守ることは可能だろうけど、それでなんの解決になる? 私を殺しても……彼女たちが有用である事実は消えないんだよ」
「……そうかもな」
「まぁ、どっちにしろ君には無理だよ、カムイ。大人しく見て見ぬ振りをすれば、女の子が二人ほど失踪するだけなんだから。……今の平和な日常を、壊したくはないだろ? なんなら、君の心が満足するだけの対価も支払おう」
「………………」
神威はゆっくりと溜息を吐いてレイと呼んだかつての親友を、睨みつけた。
それから拳を握り締める。教師が生徒に拳を向けるのは完全完璧なルール違反だが、生徒を害する存在に拳を向けるのは、なんにも間違っちゃいないだろう。
「私を殴るのかな、カムイ? そんなことをしたら、私は君を敵と認識するけど」
「ああ、勝手にしろ。だがな……今の俺は、教師なんだよ。残念ながら」
拳を振り上げたりはしない。
そんなことをしなくても、相手の肋骨を拳一つでへし折る術は知っている。
問題はその後……自分がどうなるかだが、かまいやしない。
今ここで、この男を叩き潰さなければ、気が済まない。
パァンッという、なにかが破裂するような音が響いた。
景色が真っ白になる。神威は横からの衝撃に顔をしかめて、負傷箇所を探す。
どこも痛くない。意識ははっきりしているし、血が流れている痕跡もない。よく見ると顔中にべったりとなにかが付着しており、それが景色を真っ白に染めていた。
(……な、生クリーム?)
バラエティで使われるような、生クリームたっぷりのパイが顔にぶつけられたのだ。
見ると、レイの顔も生クリームまみれで、さっきまでの余裕が一瞬にして消えうせている。
そして……二人に生クリームのパイをぶつけたのは、白と黒のコントラストが美しいエプロンドレス、通称メイド服をまとった眼鏡の少女だった。
メイドの少女ははにかんだように笑い、それからゆっくりと口を開いた。
「お客様、喧嘩は店の外でお願いできますでしょうか?」
神威はその時、どす黒いオーラが彼女の体を包んでいるのを見た。
そのメイドが本気になれば、自分の首などあっという間に胴体と泣き別れになるだろうことは明白で、あまりの恐怖に身動き一つ取れない。
が、それはあくまで武術やら格闘術やらを修めた人間や敏感に周囲の空気を感じ取ることができる人間が察知できるもので、インテリで頭でっかちな神威の元親友は、思い切りパイを叩きつけられたことに青筋を立てていた。
「な……なんなんだ君は、いきなりこんなことをしてただで済むとでぶっ!?」
パーンッ! という嫌な音が響く。
メイドは無表情のまま、さらに用意したパイを顔面に叩きつけたのだった。
「黙りなさい下郎。そんなことだから貴方は小物感丸出しの、つまらな〜い悪党にしかなれないのです。というか、そんな小物が私&姉さん&ご主人様のトリプルデートの邪魔をするだなんて言語道断。この場で引っこ抜かれてもおかしくない所業ですよ?」
「…………な、なんだ」
「黙りなさいと言ったでしょうが」
さらにパイを追加するメイド。かなりの勢いで放たれたパイは、彼の顔面で炸裂しさらに顔を真っ白に染め上げる。ついでにちょっとだけ赤色が混ざっていたのは、たぶん鼻血だろうと神威は口元を引きつらせながら推測した。
「まったく、最近の悪役は人の話を聞くことも知らないのですか? 古来より、主人公あるいはその仲間たちの口上の時には口を出さない。そんなことも知らないでよく悪役が務まりますね? 恥を知りなさい、恥を」
「……ご、ごめんなさ」
「黙りなさいと言ったでしょうが」
メイドは容赦なく彼にパイを叩きつける。もう口が聞けなくなるくらいに顔中を真っ白にする元親友に、神威は思わず同情を禁じ得なかった。
「というかですね、もう少しであの人を略奪……もといあの人も帰って来るっていうのに、これ以上我が主の心に無駄な影を差すような真似は、この世界に存在するメイドと猫の全てを敵に回すと思いなさい」
「は、はひ、すみませ……」
「黙りなさいと言ったでしょうが♪」
さらに容赦なくパイを叩きつけるやたら楽しそうなメイドと、もう人間なんだかパイなんだかよく分からない状態になっていく神威の元親友。
(……そろそろ気づけ、レイ。そのメイドは単にお前にパイを投げつけたいだけだと)
彼が口から言葉を発するたびに、どこからともなく出現したパイをぶつけまくるメイド。そんなシュールな光景が焼肉店に展開されている。
いや、展開されてなど、いない。
誰もこちらを見ていない。クリームでべったりな男二人と、パイを投げつけまくるメイドなど見てもいない。
ぞくり、と背筋に汗が流れる。
顔を上げると、メイドは悪戯っぽく笑っていた。
「ふっふっふ、これぞメイド式固有結界『メイド・イン・ザ・ワールド』。めくるめくご奉仕推奨空間を形成し、主とメイド以外には動くことも、ましてや認識することすらできない至上世界を形成するのです。この世界を打破するためには、メイドレベル1以上のスキルを有したメイドが私を打倒しなくてはいけないのです」
「……いや、意味が分からないし」
「あら、神威先生は漫画は読まないしゲームもやらない人なのですか。それは残念。これではこの後の『まぁ、嘘なんですが』という決め台詞が台無しになってしまいます」
「いや、それなりに読むけど、意味が分からないだけだから」
嘘なのかよ、と神威は内心では思ったがツッコミは入れないことにした。ツッコミを入れたとしても、後に残るのは徒労感だけみたいな気がしたからである。
神威がある意味戦慄していると、にっこりとメイドの少女は笑った。
「ねぇ、神威先生」
「……な、なんでしょう?」
「神威先生は『最●兵●彼●』とか『●リヤ●空U●Oの●』とか『●イ●ーマ●ク
』とか『●ンター●ハ●ター』とか『K●N●N』はお好きですか?」
「………………」
神威はがっくりと膝をつく。
狙っている。この少女は明らかに狙いまくっている。なぜか作品名を出す度にどこからともなくピーッやらバキューンッという音が出たりするあたりも狙っている。
それでも、神威は立ち上がった。徒労だと分かってはいたが言わなければならないことがあるのだから。
「えっとな、まず『最●兵●●女』に関してだがあれはあれでまぁ一つのエンターテイメントとして受け取れないこともないからいいだろうっ! そりゃ好き嫌いは分かれる、分かれるんだがとりあえず俺は嫌いだねっ! 翌日の職員会議で思い出してちょっと泣きそうになっちゃったからなっ! 教師としてそれはいかんだろうっ! あと、『●リヤ●空U●Oの●』は●羽ヘタレとか呼ばれるがそんなことはないっ! 中学生ならアレが限度。むしろよくやった! 感動したっ! 結局なにがあったかなんざ分かるわけはないし、所詮子供なんだからと諦めることもできるし、最後は無理矢理締めた感も否めないが、あれは作品としてきっちり確立しているっ! でもまぁ俺は嫌いだねっ! 翌日の授業中で思い出して泣きそうになったからねっ! 教師として授業中に泣き出すって何事とか言われちゃうだろっ! 『●イ●ーマ●ク』に関してはこっちの世界来てから読んだが……まぁ、今の若い子は絶対に知らないだろうが最後のアレは酷すぎるっ! 脈絡もなくいきなり殺すなっ! 死亡フラグを張れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ! 『●ンター●ハ●ター』に関してはもう突っ込んでやるなよっ! 長期休暇、長期休暇なのっ! 長い夏休みなのっ! カネがあったら俺もやってるちゅうんじゃっ! 作者の気持ちはよーく分かるが俺は嫌いだねっ! 金持ちは全員嫌いだ、死ねばいいと思ってるっ! あと、『K●N●N』はやったことないからよく分からないが俺は嫌いだねっ! つーか、やたら美少女を殺したり、理不尽な苦境に立たせようとするなっ! そういうのは泣けるに決まってるだろうがっ! 翌日の仕事に響いちゃうから、そういうのは禁止、禁止ぃ、禁止ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
叫び尽くして、本当はもっと色々と叫びたかったが自重して、神威は呼吸を整える。
「……で、この質問の意味はなんなんだ?」
「ええ、とりあえず先生が女の子に対してそれなりに優しいことが分かれば十分です」
メイドは楽しそうににっこりと、にんまりと笑った。
やっぱりというかなんというか、最初の直感通り徒労だけが残る結果となった。
「……あのさ、助けてもらっておいてなんだが、そろそろ戻っていいか? 正直、君の相手をするのは非常に疲れる」
「女の子に向かってさりげなく失礼ですね。私のご主人様なんて、私が下着姿で添い寝しても私に手を出さないくらいに紳士だというのに」
「…………悪魔か、君は」
「まぁ、嘘ですけど。そんなはしたないことはしません」
どこまで嘘だか分からない。全部本当かもしれないし、全部嘘かもしれない。こういう手合いは一番危険だと経験が告げる。数多の戦場を潜り抜けてきて、今はとっくに錆付いたと思っていた経験則が、この場の危険を告げている。
「抜きますか?」
「………………」
「私としては真剣勝負などというつまらないことはしたくないのですけど、神威先生が私の弟や、私の同僚や、同僚の妹さんや、目に見える人たちに危害を加えようというのなら手加減はいたしません。……派手に八つ裂きにして差し上げましょう」
「……誰がンなことするか、馬鹿らしい。大体、教え子やら教え子の姉に手を出す教師がどこの世界にいるんだよ、ばか」
「なら、別に抜く必要はないでしょう。剣とは、抜くべき時に抜けばよいのですから」
メイドがにっこりと笑う。
なんとなく毒気を抜かれて、神威は口元を緩めた。
「……ったく、どっかの誰かみたいなことを言いやがる」
「では、ついでに言っておきましょう。先生のお連れ様が、さっき店を出て行きました。どうやら私の弟と、私の元同僚を追ったようです」
「……そういうことは早く言ってくれ」
きびすを返して歩き出す。服も顔もクリームまみれだが、自分が教師とばれなければ構いやしない。
どうせなにもかも捨てた身だ。別に自分なんてどうでもいい。
今だって、メイドが助けに来たのもただの運だ。もしも彼女が来なかったら、親友だったあの男を殺していたに違いない。
殺して……それで、心得が守れるとも限らないのに。
そんな責任は、負えないはずだろうに。
(……知るかよ、そんなコト)
理屈を心で捻じ伏せる。
教師は生徒に教える。教師は生徒を守る。ついでに、ちょっと馬鹿話もする。
そんなもんだ。
その程度でいいじゃないか。
あっちにしてみればこっちはただの通過点。なら、通過点なら通過点らしく振舞ってやればいい。守られてることにすら気づかない程度に、助けてやればいいだけだ。
駆け出そうとして一歩を踏み出して、神威はそこで盛大にすっ転んだ。
「少々、お待ちを」
「お待ちをじゃねぇっ! いきなりスライディングをかけるなっ!!」
「はい、以後気をつけます。……というわけで、汚れたお召し物を変えましょう」
「文脈が繋がってないッ! 頼むから人の話を聞いてくれえええええぇぇぇぇぇぇ!」
襟首を掴まれて、哀れな教師はどこかよく分からない異空間の奥深くへと引きずり込まれていくのだった。
空倉陸は、この日かなり上機嫌だった。
実はこの少年、中学高校とロクに女の子とお付き合いなどしたことがない。理由は極めて単純で、同じ高校に進学した香純が常に陸の側にいたため、『彼女持ち』だと思われているからだった。付け加えるなら、バイト先でも人との付き合いは浅く広く、あまり深く関わらないようにしている。
夕飯を済ませて店を出る。外はもうそれなりに暗い。
「そろそろ、帰ろうか?」
「そうですね」
虎子はちょっと残念そうに同意して、陸も少し残念そうに頷いた。
まぁ、こんなものだろうと思う。まだ告白すらしていないし、甘い展開など考えたこともない。一日一日を生きるのにはそれなりに全力で、正直、今こうやって彼女の隣にいるのが嘘みたいだった。
(……っていうかよく死ななかったよな、俺)
仕事先での色々な悪夢やらトラウマやら精神的虐待の数々を思い出しかけて、陸は頭を振ってそれらを追い出す。
ふと、虎子の顔を見ると、彼女はなんだか笑っているようだった。
「それにしても、陸くん。……背、伸びましたね」
「あれから四年も経ってるからな。背丈くらいは伸びるさ」
苦笑しながら、陸はちょっとだけ心の中で溜息を吐く。
実は……この時点でも、まだ虎子の方がほんのちょっと背が高い。
背高な女の子はものすごく好きな陸ではあったが、さすがに好きな相手より背が低いというのはちょっと悔しい。
「虎子だって、色々と変わってるじゃん。化粧とかしてるしさ」
「舞さんに色々習ったんですよ。『化粧くらいできないと、就職なんてできないんだから』ってことで。……ホント、舞さんにはお世話になりっぱなしです」
「……そういえば、舞ねーちゃんは兄貴や虎子と同じ高校に入ったんだっけ?」
「はい、舞さんが転入してからは……えっと、なんていうか……まぁ色々ありまして」
「………………」
色々という言葉のあたりに、なんだかものすごい葛藤を感じる。
ほんの少し悩んで、陸は恐る恐る口を開いた。
「……色々って、例えば?」
「聞きたいんですか?」
「いや、えっと……虎子が嫌なら聞かないけど」
「清水の舞台からバンジー事件とか、沖縄取り残され事件とか、体育祭大爆発事件とか、文化祭阿修羅の慟哭事件とか、テスト問題全消去事件とか、卒業式悪夢のカラオケ大会とか、そういう数々の事件を本当に聞きたいんですか?」
「えっと……虎子?」
よく見ると、虎子の目は本気で、なにやら思い出してはいけないことを思い出してしまったらしく、まるでガラス球のようにその瞳にはなにも映していなかった。
「あの、みんな。友樹くんがまだ……え? 尊い犠牲? あの、ちょっ……だってもう時間がなくて。え? 心配ない? あいつならどこででも生きていけるさ? だって、あの、なんかたくさんのお姉さんたちに迫られて……は? お姉さんたちじゃなくて、お兄さんたち? あの……ちょ、公衆の面前で脱がされてまスけどっ!? 助けなくていいんでスかっ!? ゆ、友樹くん、逃げてえええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「ちょ、虎子っ!? おい、大丈夫かっ!?」
「はっ!?」
我に返った虎子は、額の汗を拭いながらゆっくりと溜息を吐いた。
「……ま、まぁなんというか……人間、知らなくてもいいことってありまスよねっ!」
「…………あ、ああ。そうだな」
口元を引きつらせるのはなんとか堪えたが、冷や汗が止まらない陸だった。
「なんつーか、時々兄貴たちは日々を穏やかに過ごすってことを知らないんじゃないのかって思う瞬間がある」
「んー……まぁ、キツネを筆頭として騒がしいのが好きな面子ですからね」
「それは、虎子も含んで?」
「もちろん」
そう言って、虎子はにっこりと楽しそうに笑った。
四年前とは違って輝かしさに溢れたものではなかったが……だからこそ、暖かくて穏やかな、そんな笑顔だった。
その笑顔を見ればよく分かる。もう、なんにも心配はないんだと。
だからこそ、聞かなければならないことがあった。
「なぁ、虎子。……ちょっとだけ、不躾なことを聞いていいか?」
「なんです?」
「……死神は、結局どうなったんだ?」
「………………」
虎子は一瞬だけ陸から目を逸らした。
少しだけ迷うような素振りを見せて、それでも……きっぱりと言った。
「今は……妹が死神です。私は《どう足掻いても資格なし》と判断されました」
「資格?」
「はい。資格を失ったから……死神の存在意義から外れてしまったから、私は死神じゃなくなって、妹に受け継がれました。今の所は、日常生活に支障はないようです」
虎子は陸を真っ直ぐに見つめる。
目を見れば、陸には虎子がなにを言いたいかはすぐに分かった。
「……妹さんのこと、心配なんだな?」
「はい。……確かに死神は黙っていればなにもしません。語りかけてくるわけでもありません。衝動的なものでもありません。ただ……殺すべき存在を認識した時に、私たちにほんの少しだけ力を貸してくれる。それだけの存在です」
「どっちにしろ、危なっかしいことには変わりなさそうだけどな」
「はい。私の時にはキツネくんと由宇理ちゃんが止めてくれました。二人が止めてくれなかったら、私はきっと……あの人を殺していたと、思います」
「……かもな」
やっぱり地雷だったかなと、陸は後悔した。
後悔しながらも、陸はほんの少しだけ安心していた。
ほんの少しだけ綺麗になっても、笑顔が天真爛漫じゃなくなっても、やっぱり虎子は虎子のままだった。あの屋敷にいた時と、根本は変わっていない。
人よりも努力して、自分よりも自分の好きな人を優先できる。そんな女の子だった。
「なぁ、虎子」
「はい」
「虎子が心配なのは、妹さんが『もしかしたら、誰かを殺してしまうんじゃないか?』って、そういう風に心配してるんだろ?」
「…………はい」
「俺には大丈夫とは言えない。安心だとも言えない。俺はその妹さんがどういう子なのか知らないし、多分兄貴も知らないんだろう。名前と素性と性格と成績と経歴くらいは知っているかもしれないが、あの男は『それがなに? そんなものを知った程度でその人を知ったことになるの?』とかほざくだろうし、俺もそう思う」
足を止める。真っ直ぐに虎子を見つめる。
彼女は少しだけ悲しそうな顔をしていた。
だから、陸はにっこりと笑った。
「でも、虎子が心配してる限り、虎子の妹は絶対に大丈夫だ」
確信を持って、きっぱりと断言する。
あまりの堂々とした態度に、虎子は少しだけ呆気に取られた。
「……あの、今『大丈夫とは言えない』って言いましたよね?」
「言った。でも、虎子が心配してるんだから、大丈夫だ。虎子が心配すりゃ兄貴が心配する。舞姉ちゃんも冥姉さん心配するし、由宇理の姉貴も京子の姉御も美里チーフも、店長だってみんな心配する。それだけのメンバーが揃って解決できないことなんて何一つないぞ、きっと」
「……うわ、なんかものすごい説得力です」
「だろ? 虎子が思っている以上に、虎子のことを心配してくれる奴はたくさんいるんだよ。だから心配ない。……みんなが助けてくれるからな」
笑いながら、虎子の不安を払拭するように、陸はポンと彼女の頭を撫でる。
頭を撫でられて、虎子は嬉しそうに口元を緩める。そして、ちょっとだけ悪戯っぽく言った。
「陸くんは、心配してくれないんですか?」
「そりゃしてるよ。虎子って放っておくとなんだか奇妙な方向に暴走しちゃったりするからなぁ」
「む……これでも、ちょっとは成長したんですよ?」
「うん、そうだな。綺麗になってたから見違えた」
「ふぇっ!?」
一瞬で顔を真っ赤に染めて飛び上がる虎子。
そんな微笑ましい彼女を見つめながら、陸は口元を緩める。
(……さて、そろそろいいか)
覚悟は決まっている。四年前のあの日から。
四年間過ごしてきて……気持ちが折れていないのだから、きっと、この気持ちは本物なんだろうと陸は思う。
どんな結果になっても、たとえふられることになろうとも……竜胆虎子という一人の女の子を好きになったことは、誇るべきことだと陸は思う。
「…………あのさ、虎子」
「う、うん」
「もう薄々っていうか、半ばっていうか、分かってるかもしれないけどさ……」
息を吸う。
手が汗ばんでいる。
心臓が早鐘のように鳴っている。
それらを全てねじ伏せて、陸は言葉を紡ごうと口を開く。
と、その時だった。
「そこまでよっ!」
まるで空気を考えない誰かの、必死な声が響いた。
陸は頬を引きつらせる。虎子も同時に口元を引きつらせた。
振り向いた視線の先にいるのは、髑髏仮面に黒いマントといういでたちの……少女なんだか少年なんだかよく分からない人物だった。
「ふっふっふ、そのまま甘い展開になだれ込もうったってそうは問屋が降ろさないっ! お姉ちゃんをモノにしたければ、まずは私の屍を乗り越えていくことねっ!」
「………………ほぅ」
陸はスゥッと目を細めて、髑髏仮面を睨みつける。
「なるほどなるほど、最後の最後まで邪魔するのは兄貴の流儀じゃないと思っていたが、そこまでやってくれるならいいだろう。……アンタがどこの誰で男か女かも分からないが、全力全開で叩き潰してやんよ」
憤怒を胸に、柄がついたままのナイフを手に、陸はゆっくりと歩き出す。
あまりの憎悪と殺意に、髑髏仮面こと竜胆心得は素で引いた。
『いきなり殺す気満々みたいね〜♪ 心得ちゃん大ピンチ♪』
幻聴が言うように、大ピンチである。しかし……心得にはやらなくてはならないことがあるのだった。
「ふん、腕っ節ばっかり強くたって、女の子を幸せになんてできないんだからねっ! それに、女の子を叩き潰すなんて、男としてはどうなのかと思うっ!」
「俺は男女平等主義でな、悪いが女に対してひいきとか区別とか遠慮とかはしないことにしてるんだ。だからまぁ……手首を外すくらいで勘弁してやる」
「ますます最悪じゃないっ! そんな男にねーちゃんを任せられるかーっ!」
怒りと共に放たれた心得の拳を受け流し、陸は一歩を踏み込んだ。
トン、という音が響く。心得の世界は気がつくと反転していた。
あまりに鮮やかな手並みに、投げられたと気づくまでに3秒かかった。
「最悪だろうが、最低だろうが、そんなもん知ったことか」
心得は、その時初めて彼の顔を見た。
真っ直ぐな瞳に、不敵な笑み。まるで漫画のヒーローのように、彼は笑っていた。
「四年前のあの日から、かくあるべしと定めて生きてきた」
「………………え?」
「義理と恩義と人情を、ねじ伏せてまで守ると決めた。四年前のあの日から、守ると決めて生きてきた。……ま、言っちまえばそんだけのことだけどさ」
それは、彼が執事長たる彼に教わった全てである。
かくあるべしと定めて生きろと、彼が言った言葉を陸は実践した。
「本気だから、邪魔はさせない」
心得は、陸が拳を握るのを見た。頭の一部分を少し揺らして脳震盪を起こすくらいは彼にとっては簡単なことなんだろうと直感する。
反射的に目を閉じて、衝撃に備えた。
衝撃は、逆方向からやってきた。
誰かが吹き飛ばされるような音が響いて、心得は慌てて目を開ける。
そこにはもう陸はいない。拳を握り締めた少年は、3メートルほど向こうに吹き飛ばされて受身を取るところだった。
「……てなわけだ、竜胆」
だから、ここで拳を握り締めているのは、陸ではなく。
「歯ァ食いしばれ」
なぜかかっちりとしたテールスーツを着込んだ、やたら不機嫌そうな教師。
そして、彼はゆっくりと拳を振り上げた。
目の前に火花が散る。
それは恐らく、手加減一切なしの拳骨だっただろう。
声すら出せずに悶え苦しむ心得は完全に放置して、神威はゆっくりと溜息を吐きながら蹴り飛ばした少年に手を差し伸べた。
「いや、いきなり蹴ったりしてすまん。一瞬この馬鹿生徒が襲われかけてるように見えたから慌てて蹴り飛ばしたんだが……よく考えるとそんなことは絶対確実に在り得ないな。本当にすまない。怪我とかないか?」
「えっと……怪我はないんですけど」
陸は頭を押さえながら涙声で悶えている心得の方を心配そうに見ていたが、神威はそんなものは一切お構いなしだった。
「いやいや、本当にすまない。楽しいデートを邪魔してしまったようだな。このことは犬にでも……じゃなかった。クワガタムシにでも挟まれたと思って」
「虫扱いすんなっつってるでしょっ!!」
痛みを堪えながら怒りと共に復活した心得は、自分に拳骨を叩きつけた神威に食ってかかった。
「いきなりなにすんのよ、先生っ!」
「うるせえ馬鹿っ! 教師の前でいきなり傷害事件起こすなっ!」
「殴られそうになったのは私だもんっ!」
「さらっと嘘を吐くな阿呆がっ! 先生は全部見てましたっ! そもそもの問題としてだな……空気を読めって言ってんだっ!!」
「…………く、空気を読めっ!?」
一番言われたくない相手に、一番言われたくないことを言われて、心得はショックを受けて硬直した。
その硬直を狙いすましたかのように、神威は口元を緩めて力説する。
「いいか竜胆っ! ねーちゃんが大事かどうかは知らないが、この二人の雰囲気、明らかに余人の介入を許さぬほどのラブラブっぷりであろうっ!」
「くっ……確かにそれはそうだけどっ!」
「人の迷惑とか嫉妬とかを顧みないこの世界のことを俺は心の中で『絶対空間掌握バ・カップル』と勝手に呼んでいるが、あの二人はもうその世界を作っちゃう寸前の状態というわけだ。ロミオとジュリエットやら織姫と彦星やら、古今東西色々な例があるように、そんな男女に今更なにを言っても無駄無駄なんだぞ? 竜胆だって薄々と内心では『あー……あたしのやってることって絶対に無駄なんだろうなぁ』とか思ってるだろ?」
「…………まぁ、ちょっとはね。ねーちゃんには幸せになって欲しいケド、なんていうか悪役っていうか、かませ犬っていうか、そういうのもアレだなぁって」
「それにだな……礼司から聞いたんだが、あの少年お前のねーちゃんのためにペアウォッチとか買っちゃってるらしいぞ。機械仕掛けのすげぇ高いの」
「まぢですか師匠っ!?」
「おまけに、中学生の頃から既に惚れていたらしい。文通とかもしてたみたいだぞ」
「うっひゃあ、私には真似できねぇー! なんたる純愛っ! 一途っ! 一途にござりまするぞお館様ァッ!!」
「と、いうわけでだ。ここはすまなそうな顔をしてさくっと退散するぞ!」
「イエス・サー! 私が間違っておりましたっ! 深く反省いたしますっ!」
「と、いうわけでこの馬鹿生徒は俺がちゃーんと責任を持って家まで送り届けますんで、ささ、どうぞデェトの続きなんぞを♪」
「できるかああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
陸は叫んだ。
なんかもうちょっと泣きそうだったが、叫ばずにはいられなかった。
「馬鹿じゃねぇかアンタっ!? なんでばらしたっ!? どーしてばらしたっ!? なんかもう色々と台無しにしやがってっ!!」
「説明しよう、草薙神威先生はバカップルが嫌いなのだ」
「殺していいか? なぁ、殺していいんだな? こんなにむかついたのは兄貴に出会った時以来だぞこのくされ教師っ!! 大体なんだそのイカれた服装はっ! なんで街中でテールスーツなんて着てるんだよっ!?」
「……大人になるとな、色々と、聞いちゃいけねぇことがあるのさぁ」
「うっわ、超むかつく。ホント殺してぇ」
青筋立てながらポーチにしまったナイフを瞬時に取り出す陸。ニマニマと笑いながらそれを見つめる神威、やっちまえ先生と煽りつついっそ二人とも死んでくれないかなぁなどと一番腹黒いことを思っている心得。
とまぁ……いい具合に状況が混沌としてきたところで、三人はなにやら重々しくもブチッという音を聞いた。
振り向くと、そこにはにっこりと笑った彼女が立っている。
「心得ちゃん?」
「……な、なんでしょうお姉さはひゅんっ!?」
一瞬気圧されて無防備だった心得の顎を掠めるように放たれた右ストレートは、あっさりと心得の意識を途切れさせた。
崩れ落ちる心得の体を抱きかかえ、彼女……竜胆虎子は神威に視線を向ける。
「神威先生?」
「……な、なんでしょうか?」
「すみませんが、心得をお願いします。……こっちは今非常に大事な話をしている最中なので、手が離せないんですよ」
「あっはっは、お安い御用っすよ! っていうか……えっと、ホントすんません」
「それと……心得を心配してくれたことに関しては、ありがとうございます」
「まぁ……一応、教師ですからね」
神威は少しだけ頬を赤く染めて、気絶してぐったりとした心得を背負った。
「じゃあな、小僧。しっかりやれ」
「消えろ、おっさん。もう二度と俺に近づくな」
そんな言葉の応酬をしてから、神威はあっという間に走り去った。
後に残される修羅場を予想してか、あるいは気を使ったのかは、陸には分からない。
ただ……まぁ、ようやく二人きりになれたのは、間違いがないようだった。
虎子は、真っ直ぐに陸を見つめていた。
「……陸くん」
「ん?」
だから、陸も真っ直ぐに見つめ返す。
彼女の前では臆するわけにはいかないから、真っ直ぐに見つめた。
虎子は顔を真っ赤に染めて、それでも、ポツリと言った。
「色々と邪魔が入りましたけど……さっきの言葉の続きを、お願いします」
「ああ」
にっこりと笑う。
きっとこの四年間、言いたかった言葉を口にする。
「俺、虎子のことが世界で一番好きだ」
虎子の顔が、一瞬でさらに真っ赤に染まる。
陸はそんな彼女を微笑ましそうに見つめて、彼女の言葉を待つ。
目をぐるぐるさせながら、なんだか色々とパニックに陥りながら、ついでに三回ほど過呼吸になりかけたりしながら、ようやく落ち着いた虎子は口を開く。
「…………えっと、じゃあ、その」
「うん」
「陸くんが、大学に受かったら……お付き合いしましょう」
「分かった、絶対に受かる」
軽々と安請け合いして、それでも絶対に折れぬ不屈の心で、陸は答える。
それから、にやりとちょっと不敵に笑って歩き出す。
「じゃ、時計の方は俺が大学に受かってからってコトでいいな? 虎子が心底欲しがってたあの時計なんだけど。……まぁ、正直ペアウォッチっていうのも気が早いと思ってたし、区切りって意味ではちょうどいいかな」
「やです。今ください」
「………………虎子さん?」
「……あ、えっと……そうじゃなくて、えっと……わ、私が預かっておきますっ! 陸くんが大学に受かって、私と……その、だ、男女交際を始める時に、陸くんの時計も返しますから……あ、でも別に喉から手が出るほど欲しいってわけじゃなくて、ちゃんとした繋がりを作っておいた方が後々有利っていう助言をま……じゃなくてでスねっ!!」
しどろもどろになる虎子を見つめて、陸は口元を緩める。
そして、時計の入った小箱を虎子の手に乗せた。
「じゃ、預けとく。預かるのが嫌になったら返してくれ」
「……なりませんもん」
「あと、これって舞ねーちゃんの入れ知恵だろ?」
「………………うー」
ちょっと拗ねる虎子の頭をポンポンと叩きながら、陸は笑う。
(さて……と。やっぱり兄貴の言う通りだったかな)
それじゃあ、平気の平左に見せかけながら。
死に物狂いで勉強に勤しむとしましょうか。
陸はあっさりとそんな決意を固めて、虎子の手を取った。
爆発するような勢いで顔を真っ赤に染めた虎子だったが、手を振り払ったりはしなかった。
「じゃ、虎子。今後ともよろしく」
「………………はい」
そんなやり取りを交わしつつ、二人は笑い合っていた。
一方、その頃。
甘々なカップル誕生と同時刻、日も落ちて暗くなった道を歩きながら、重い荷物を背負った教師と、重いかもしれない荷物である生徒はギスギスした会話を繰り広げていた。
「先生、男臭い。つか降ろしてよ。セクハラで訴えるぞ」
「ははは、カブトムシがなにを言う。あと男臭いとか言うな。男が男臭いのは当たり前だろうがよ」
「…………いいから、降ろしてよ」
「はいはい。そろそろ俺の腕も限界だしなぁ」
「そこまで重くないっ!」
「はいはい」
おざなりに返事を返しながら、神威は心得を降ろした。
スカートの裾を気にしながら着地した心得は、街灯の明かりの下でもなんとなく気落ちしているように見えた。
「なんだ? おねーちゃに彼氏ができて寂しいか、竜胆」
「………………」
「竜胆?」
「……にーちゃんの時も、似たような感じだったの」
彼女ができて、仕事が忙しくなって、あんまり家に帰らなくなって。
色々と苦労してるみたいだったからなにも言わなかったし、その頃は虎子も高校に復帰していたから、自分が苦労することなんてなんにもなかった。
だから……虎子も家に戻らなくなるんじゃないかと、心得は言った。
神威は黙ってその話を聞いた。
聞き流すようなことはせずに、ちゃんと一言一句を心に刻み付ける。
そして、いつになく優しい口調で諭すように言った。
「今じゃないかもしれんが、いつかは戻らなくなるさ。いつもいつでも一緒にいるつもりでもいつ離れ離れになるのか分からないのが、人の縁ってヤツさ」
「……分かってるよ、そんなコト」
「………………」
心では分かってるが、納得できることはそう多くない。
寂しい気持ちを否定することだって、きっとたくさんあるんだろう。
神威はなんとなく口元を緩めて、心得の頭を撫でた。
「昔、彼女と親友に裏切られたことがある」
「え?」
「彼女とは一応将来を誓い合った仲で、結婚の約束もしてた。親友とは生まれてからの付き合いで、命を預けてもいいと思えるくらいには……親友だったと思う」
でも、騙された。
でも、裏切られた。
親友は彼女を好いていて、彼女も親友を好いていた。
だから、俺が邪魔になった。邪魔になったから騙して裏切った。
「そんなコトしなくても、ちゃんと言ってくれれば……全部なにもかも吹っ切って、諦めて、祝福することくらいはできたと思うんだけどな」
もしかしたらできなかったかもしれないけど、過ぎたことに意味はない。
事実は事実。過ぎたことは変わらない。
それでも……辛くても、生きていかなきゃならないんだから。
「まぁ、そーゆーのに比べればお前はまだいい方だろ? 心配してくれる家族がいるんだからよ。兄貴や姉貴が婿やら嫁に行くくらい、笑って祝福してやれって」
「……よかった探しなんて、別にしたくないもん」
笑って誤魔化そうとする神威が無性に腹立たしくて、心得は思わず顔を逸らした。
理解できなかった。
なんでそんな話をするのか。
なんでいちいち自分を卑下するようなことを話したのか。
理解を超える。むかつく。見透かされたみたいでさらにむかつく。顔が見れない。
「ん〜……やっぱ面倒くせぇな。こういうのは体験から学ぶのが一番なんだが」
「…………あによ」
「いや、なんとなくお前は独り暮らしってのを体験した方がいいかもしれないと思っただけのこった。兄貴や姉貴に精神的に甘えるんじゃなくてな」
「……甘えてなんかない」
「甘えてるだろ。礼司も、お前の姉貴も、多分お前のことを大事にしてくれた。だからお前は特定の親友とか恋人とかを作らない。心の支えがちゃんとあるから、寄る辺が存在してるから……人間関係の幅を広げようとしない」
「………………」
「それが良くないってのは、お前も薄々感づいてるんじゃねぇか?」
うるさい、黙れ。おっさんのくせに。
なにが分かる。あんたなんかになにが分かる。
私のなにが分かる。あんたなんかに。
そんな心得の思いを砕くように、呆れたような声が響いた。
「甘えるなっつってんだよ、心得」
「っ!?」
「いいか? お前が本当に家族のことを思い遣るなら、ずっと側にいない方がいいことだってあることをちゃんと自覚しろ。礼司には礼司の道がある。俺には俺の道がある。……そして、お前にはお前の道があるんだ。お前が続けようとする限りは、お前の前にはちゃんと道がある。それを、忘れるな」
きっぱりと言い放ちながら、神威は心得になにかメモのようなものを渡した。
そこには、奇妙な名前の民宿と、住所と電話番号が二つ、書かれていた。
「やる気があるなら、そこに連絡を取ってみろ。住人はわりと変人が多いかもしれんが、大家さんは格安で部屋を貸してくれるいい人だ」
「…………先生」
「あと、なんか困ったら連絡入れろ。出来る範囲でなんとかしてやる」
どうやら、連絡先の一つは神威の携帯電話の番号らしい。
じっとメモ用紙を見つめて、それから心得は口元を緩めた。
「もしかしてさ……先生って、かなり生徒想い?」
「ばっ……ち、違うに決まってるだろがっ! 仕事だ仕事っ!」
いきなりの不意打ちに顔を赤めて慌てまくる神威に対し、心得は口元を緩めた。
なるほど、コツが分かった。こういう攻め方をすればいいのか。
ゆっくりと溜息を吐きながら、心得はにやりと笑う。
「いやぁ、さすが先生。生徒想いですなぁ♪」
「……だから、仕事だっつうの」
「おっほっほ、ご謙遜なさらずともよろしいですわ。この竜胆心得、人の義理に反するようなことはいたしませんから♪ ぶっちゃけ、独り暮らしできそうな場所を紹介してもらってラッキーですし♪ ホント、先生はなんて生徒想いなんでしょう♪」
「…………あーそうかい。そりゃ良かったなぁ、あっはっは!」
やけくそ気味に笑う神威と、ニマニマと楽しそうに笑う心得。
なんとなく仲が良さそうに見える二人は、夜道をテクテクと歩いて行った。
まるで、仲のいい生徒と教師のようにごく自然に、笑い合っていた。
小さくて他愛ない時間。
ただ下らない話題と朗らかな笑顔だけがあった時間。
そんな、瞬間が。
そんな、時間が。
そんな誰かと一緒にいた他愛もない時間こそが、
かけがえのない本当に幸せだったなんて。
心得は、想像すらしていなかった。
エピソード2《空倉陸の章》:『インペリアル・クリーム』END
Sランクエンド前説:『そらとぶきつねのはなし』に続く
ちょいとおまけの人物紹介。
・空倉陸
出番は少ないが本編の主人公。後に橘美咲が設立することになるインペリアルクリームナイツの隊長に無理矢理任命されることになる青年。騎士たちの中で唯一の彼女持ちであり、基本的にも応用的にも一切関係のないことに無理矢理巻き込まれることになる。
物語中でも語られている通り、彼は物語の本筋には一切関われないという宿命を背負っているが、それ故に最もきつい戦場で鬼神のごとき働き(ここは俺に任せて先に行け、殿は任せろ等々)をすることになる。
現在高校三年生。クリームナイツ設立時には大学一年生。一応告白は成功し大学にも合格することはできたのだが、一単位でも落としちゃったら別れますからという、彼女の厳しい言葉に従って目下勉強中ではあるが、陸くんは女がらみになると異様に強くなるので平気の平左のように見せかけながら勉強をこなしていくのだった。
ちなみに、芸風が狐の彼に似てきたと言われているが根本的な部分ではいぢめられキャラのままであり、屋敷の面子にはまるで頭が上がらない。……というか、屋敷の面子が精神的に強過ぎるため、比較的常識人である彼では対抗できないのだった。合掌。
彼が持っている剣の名は、桂木香純作『地喰剣アークアース』。柄が大地を喰らい刀身と成す武器であり、本体である柄が残っている限りどんな刀身でも再現可能であるがそれ自体は副次的な能力である。この剣の本当の能力は、いくら大地を喰らわせてようが使用者は重さを感じなくなるというトンデモ仕様であり、100メートルの剣を作り出そうとも使用者はまるで重みを感じることなく剣を振り回すことが可能。重さを感じなくなるのはあくまで使用者のみのため、攻撃された方は振り回された衝撃をもろに受けることになる。
攻防共に使いやすく優秀な武器。質量=強さというのはある意味分かりやすい公式であるが、この分かりやすさと使いやすさは創作者の趣味。長女は趣味でモノを作るが、三女は使い手のことを考えてモノを作る。
この辺が芸術家と作り手の違いである。
・竜胆虎子
出番は少ないが本編のヒロイン。守られる女にして男の尻を叩く女。
高校時代に舞が転入した後に色々あったりして精神的にも成長。陸の告白にも『そりゃもう喜んでっ!』と言いたくなるところをぐっと抑えて『ちゃんと大学に合格したら』みたいな焦らし戦法を使うあたり、かなり女としてのレベルは上がっているらしい。……あ、女性の方々、野郎は甘やかしちゃいけませんがムチばかりでも心は離れていきます。適度にアメを与えましょう。ここはテストに出るんで要注意。
狐の彼が片目を失明したと聞いてものすごく落ち込み、一時は引きこもり寸前にまでなるが、舞ちゃんキックで復帰。その時に『この子は死神になったらいかんね』と初代死神さん(通称中の人)に判断されたため死神を降ろされた。
大学には行かずにとある印刷会社に就職。ちょっと髪を伸ばして、ちょっと化粧をするようになって、ちょっと笑顔が自然になって、彼氏ができて幸せになった。
ちなみに、彼女の就職にはカネとコネが多大に働いているため、普通の人は簡単に高卒で就職できるとか思っちゃいけないので注意。
年下の彼氏萌え。
コンプレックスはその彼氏よりも少しだけ背が高いこと。
彼女を不幸にしようとすると、どこからともなく億の軍勢がやってくるらしい。
・草薙神威
名前負け教師。神威なんて武器の名前か奥義の名前くらいでちょうどいい。
物語中にもあるように、基本的にはグータラ教師。暇さえあればさぼるか煙草吹かしてるか仕事してるかのどれかであるが、手首から肘にかけてのラインが素晴らしい上に煙草を吸うときの手が色っぽいのでマニアックな女子に人気がある。
成績のいい生徒にはそれなりに甘く、悪い生徒にはそれなりに厳しい。言ってることは正しいが生活態度がグータラなので説得力はないという反面教師。
現在28歳。10代の頃ははそれなりに真面目で優秀な人間だったのだが、恋人と親友に手酷く裏切られて以来、真面目で優秀という肩書きを捨てグータラになる。恋人と親友に関してはきっちりと恨んでいるが二人の居場所が分からないので気持ちは宙ぶらりんなままである。
真正のドSに見えるがそうでもなく、かといっていじけキャラと言えるわけでもなく、虚脱なままかと思えばそうではなく、キャラの属性としてはいわゆる■■■■である。■の中にどんな文字が入るかは読者の想像に委ねるが、恐らくは大半の人が想像し得る範囲の言葉であることはここに明言しておく。
趣味はマンガと小説とゲーム。ジャンルは問わずの無節操。のだ●カンタービレを読んだ翌日にHEL●SINGを読んじゃうくらいに無節操。牧●物語とドラッグオン●ラグーンを平行してやっちゃう、ある意味つわもの。
暗黒騎士。
剣の名はデストレイル。この名前に心当たりがある御仁は既に若くなかろう。
テーマは裏切りと代償。絶望と廃滅。挫折と諦観。
陸とは対極に位置する大人。挫折して諦めて煙草を押し潰す大人。
そんな大人にも意地があり、彼はその意地のために命すら捨てることになる。
……予定。未定。決定されていない未来の一つの可能性では、あるが。
・竜胆心得
竜胆家次女。死神最終(予定)。この物語中最も女の子らしい女の子。
姦しく勉強が苦手で運動は得意で、よく補習を受ける。礼司も虎子も勉強はそれなりに苦手だったが努力で改善しているが、彼女の場合は勉強に努力する手間を惜しんでいるためにちょっと成績がアレなことになっている。
虎子ほどではないが竜胆家の血筋をしっかり受け継いでおり、背はそこそこ高く手足は長くて細い。顔もそれなりに可愛いのだが、彼女のクラスには他に性格が良く可愛い子がたくさんいる(通称ギャルゲークラス)ため男子からの人気はいまいち。狂犬とすら呼ばれているあたり、普段の素行が知れる。
たぶん、虎子に恋人ができたことに一番驚いてる女の子。
姉ラブな妹ではあるが、素直に甘えられない年頃でもある。
このエピソード終了後、神威の言葉に従って紹介された民宿に独り暮らしをすることになるが、その民宿にはこの世で最も立派な名前を持つ少年、性格最悪の探偵、女性恐怖症の医者、三十分だけの史上最強、ものすごくえろ可愛いのだが名前だけが破滅的な管理人といった極めてアクの強い面々が暮らしており、心得はなんだかんだ言いながらも彼等と上手く折り合いをつけながら生活をする羽目になる。
神威先生に惚れちゃうかどうかは現状じゃ不明。告白してあっさりふられる可能性もあるし、告白されてあっさりふっちゃう可能性もあるし、最初から最後まで友達である可能性も捨てきれないが、どのルートにしろいい関係であるのは間違いない。
どんな場合でもいい関係だからこそ、草薙神威が死亡すると初代と同じく完全なる死神と化す。
潜在能力では竜胆虎子が一番だったけれど、そもそも捕食以外の殺人、殺害というものは潜在能力などといったものの上には成り立っていない。
人を殺すのは人ではない。人の心が人を殺す。
故に……心を失ったモノはヒトではない。
心を失った彼女は、それだけを成す概念に成り下がる。
・竜胆礼司
竜胆家長男。彼女が出来て以来、忙しくてあまり家には戻っていない。
借金の取立ては厳しくなくなったが喫茶店の店長を無理矢理任される羽目になり、長女は就職以来独り暮らしを始め、次女はなんだか独り暮らしを始め、次男はそもそも中学校入学から家に戻っていない(放浪生活)ので、なんだか急に楽になってちょっと唖然としてる青年。現在28歳。
アンナさんとも狐くんとも切っても切れない関係にあるので、なんとなく不幸だか幸福だかよく分からないことになっている。
ゲスト出演。実際の彼の出番は最終回までおあずけとなる。
今回もラスボス前の中ボス的、通称コクッパな役割は変わっていないが……まぁ、なんというかそれが彼の宿命であることは言うまでもない。
・狐の彼
同じくゲスト出演。眼帯の狐。色々と不便そうに生きている。
宿屋の店主。今回はメイドやらメイドの姉やらといちゃいちゃしてる。
現在経営している宿屋に戻ると、コックな彼女やらドS星の淑女ともいちゃいちゃしているとかなんとか。
現在20歳。みんな大好きという子供みたいなスタンスは相変わらず。実は眼帯を外しても片目は見えていませんが、見えてない理由は次回以降に持ち越し。実にさりげなく下らない理由なので、やきもきしなくてもOKです。
こいつの出番も次回以降に持ち越し。
全能力オールB。場合によっては+がついたり++がつかなかったり。
真っ赤な魔法使い。
・メイド
同じくゲスト出演。アルティメットメイド。色々と楽しそうに生きている。
彼のメイド。属性は犬及びデレデレ。純情一直線。
現在19歳。趣味は園芸と姉いぢめと主いぢめ。
言うまでもなく出番は次回に持ち越し。
全能力オールS。場合によっては+がついたりつかなかったり。
彼女が言う『嘘』が嘘なのか本当なのかは読者様の想像に任せます。
究極侍従その3。その1は行方不明で、その2は白魔法使いの傍らにいるあの女。
・メイドの姉
同じくゲスト出演。ある意味主人公。宿屋になくてはならない存在。狐の彼曰く『彼女を口説き落としたのが僕の人生で一番のファインプレイだねぇ』とのことだが、実際は脅迫である。
事務全般を取り仕切っている。属性は猫及び■■■■及び漢。■の中はご想像にお任せする。
現在20歳。趣味はショッピングとお洒落。さりげなく仕事もわりと好きで、お客と触れ合える今の仕事も嫌いじゃないらしい。あと、狐のことも嫌いではないが、よく頬をつねったりもする。
……今思ったが、この女と陸青年はそっくりである。さすが姉弟。
必殺技はほっぺつねりとイナズマキック。これで大抵狐とメイドは黙る。
ちなみに、狐とメイドを黙らせることができるのは彼女と後二人くらいだけ。
その二人の名前は、なんかもうここまで読んだ人なら察しがつくだろう(笑)
電源を切ろう。電源を切ろう。電源を切ろう。
ここからは、完全無欠の悲劇のカケラ。
神と心が織り成した、無残で愉快なおとぎばなし。
死神消心の人殺決済。
蛇足。蛇足。蛇足。
私は、今も語っている。
ねぇ先生。今日もいい天気ですよ。ほら、空があんなに高い。日本晴れってのはこのことなんですねぇってそろそろ『天気の話題ばっかりじゃねぇか』ってツッコミが欲しいところですけど、まぁ今の先生はちょっと喋れる状態じゃありませんからね。見逃してあげます。さてさて、久しぶりの帰郷なんですけど色々と変わってますよ、駅前とか。特に学生の頃によく使ってた●●●バーガーが消えてたのには驚きですよね。……っていうか、まさかミミズの肉を使ってたとはびっくり仰天っていうか、正直引きました。先生もクソまずそうに食べてましたけど、私はうっかり『えー? それなりの美味しいじゃん?』とか言っちゃってかなり致命的ですよ。……っと、ほら。またツッコミどころを逃しましたね? ここは『大丈夫だよ、心得。俺は君が土竜だろうと気にしない』とかほざくところですよ? まぁ、今の先生は本当にしゃべれないから別に気にも留めませんけど。
心電図の音が鳴る。
人の形をしたモノが、呼吸に夢中になっている。
私は今日も語りかける。
ああ、それと今度正義くんが結婚するそうで。私としては羨ましいやら殺したいやらで色々と複雑なんですけど、結局あの男どっちに決めたのか未だに聞いてないんですよね。まぁ、行ってから驚くことにしますけど。つか、正直この時期の結婚とかは勘弁して欲しいんですよねー。なんつーかこう、財布に響くっていうか。姉さんの時も、兄ちゃんの時もけっこーな出費でびっくりしましたからねぇ。先生がもらってくれればこんな杞憂も意味がないことなんですけど、まぁ今の先生はちょっと話したりできる状態じゃないので勘弁してあげます。んー……でも、だいぶ人間としての体裁は整ってきましたね。結構結構。とりあえずまだ途中ですが、一応期待しておいてくださいよ? 私だって結構頑張ってるんですから、先生も生きることを投げ出さないように。ちゃーんと責任は取ってもらいますからね? ほらまたツッコミどころを逃す。……ホント、仕方のない人ですね。
私は笑う。服装は完全防菌服。
お洒落したところを見せることも許されない。
ちょっと死にそうになったけど、それは許されない。
そう、私は殺さなきゃならない。
先生がいなくなっても、大丈夫ですよ。ほら、私って結構頑丈ですし、みんなだって先生がいなくなっても大丈夫。昔言ってたじゃないですか、『自分は通過点だとかなんとか』……あれ、正直腹が立ったんですよ? あの時は分からなかったけど、本当に先生は生徒のことしか考えてなかったんですから。あの時の拳骨は本当に痛かったですけど、私に拳骨したのってよく考えると先生だけなんですよね。ほら、兄さんも姉さんも過保護ですから、ビンタとか拳骨っていうより……背負い投げが大半でしたし。だからまぁ、頭を撫でてくれたり、ほっぺたむにーってしてくれたり……それ以上のことは、先生が初めてというかなに言わせるんですか、もうっ!
笑い声は響かない。
48の絶望と、48の契約と、48の欠損と。
彼は私のために承諾して、私は助かった。
彼は死んだ。
48箇所の体と心を奪われて、死んでしまった。
表面上は。
でも大丈夫だって今はもう34の絶望を殺してきたけど彼はそっくりそのまま元通りになるに違いない私は殺したちゃんと元通りになるように絶望を殺した老若男女間違いなく老人から赤ちゃんまでちゃんと全員無残に殺し尽くした先生から先生の部分を奪った絶望を宿主もろとも皆殺しだから大丈夫彼は生き返る体はホラ元通り心もちゃんと元通り陸がバラバラになってぐちゃぐちゃに混ざったココロは繋ぎ合わせることは不可能とか言ってたケドそんなのは嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘だってホラ元に戻ればちゃんとツッコミを入れてくれる優しく笑ってくれるきっとすぐによくなってまたいつものようにぎゅってしてくれるだから殺すだから殺すだから殺すだから潰すだから始末するだから抹消するだから殺害するだから。
だから、私は今日も語る。
本当に今日はいい天気だ。
これで彼がちゃんとしゃべれれば十全なのに。
ま、いっか。今は側にいてくれるだけで満足しておこう。
今日はいい日だ。天気が良くて、私がいて、彼がいる。
明日もいい日でありますように。
・・・・壊滅予測終了。以下に予測結果を示す。
壊滅発生率99.9%。現段階では突破不可。打つ手なし。
イレギュラーである0.1%は私も知っているあいつらしい。彼を基準として解析、分析を行い壊滅を回避する策を模索する。
よろしいか、我が主よ?
よろしいわ。ただし、模索する上でいくつか条件を付加する。
絶対条件に加えて前提条件。いい男は必ず幸せになる義務がある。
私はそれに賭けよう。愛と正義と友情の物語で、不幸を全部ぶち壊す。
突破してやるわ。私と私を取り巻くみんなの力で、なにもかも、全部を。
運命に風穴を開けなさい。
敗北条件1:神城夜宵の覚醒。
敗北条件2:魔王及び勇者の暴走。
敗北条件3:神代斗馬の完全修羅化。
敗北条件4:草薙神威の自己犠牲。
敗北条件5:火焔正義の挫折及び戦死。
敗北条件6:犬塚士郎の敗北及び戦死。
敗北条件7:仙道火凪の断絶。
敗北条件8:彼の介入。最悪のケース。壊滅確実。
勝利条件:現状では存在しない。敗北確立100%。
それでは始めましょう。
最悪から始まる、無残で愉快な戦いを。
・・・・・・to be continued?
と、いうわけでなにかが始まるようで始まらない、空倉陸の物語でした♪
……さてと、それではようやくここからが本番。
作者がこの物語を書き始めた当初から決まっていたエンディング。人物の心理を考えた末に唾棄せざるを得ないかなぁと思い込んで、その思い込みのなにもかもを読者様が叩き潰してくれた物語の終わりが始まります。
そう……これは、貴方が選んだ終わりの話。
活目しながら、少々お待ちを♪