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最終話中編 さよならコッコさん

ようやくここまで来ました。

次回で物語は終わり、エンディングに突入します。

それでは、どうぞ。


これは、彼と彼女の別離の物語。

 望まなければ、きっと幸せだった。



 僕はきっと、馬鹿だったんだろうと思う。

 友樹のことを散々最低と言ってしまったけれど、実のところは僕が一番最低の人間で、誰も選べないくせに、みんなを救おうとした僕は……結局身の程知らずだったってことだったんだろうと思う。

 なんにもしなければ、もしかしたら今よりはましだったのかもしれない。

 足掻いたりしなければ、もしかしたら今よりは良かったのかもしれない。

 そんな風に思うことだって……ある。

「……痛いな」

 風が傷に染みる。

 真っ赤な世界の中で、僕はそれでも笑っている。

 一発逆転なんかない。

 物事は覆らない。

 この世界は、積み重ねてきたものだけが全てだ。

 悪い人は最後まで悪い人だし。良い人は最後まで良い人だ。


 そして僕は、最初から最後まで普通なんだろう。


「………………ハ」

 鼻で笑う。その事実を笑い飛ばす。

 なにが事実だ。たかが『変えられない』だけのくせに、その事実とやらは本当に昔から今この瞬間まで、ずっと僕にへばりついてやがった。

 普通だったから諦めて、普通だったから妥協した?

 そんなものはただの言い訳だろうに。自分が苦しいから、逃げ出したいから作り出した幻想だろう。ホント……たかが『事実』に、僕は迷いすぎた。

 師匠、貴女の言う通りだった。

『いつかどこかで変えられないことにぶち当たる。……でも、それで終わりじゃない』

 そう、先はある。

 この先に、成長の限界の先にあるものを……僕は知っている。

 レベルはもう上がらない。僕は普通で終わる。鍛え上げても普通よりちょっと上で終わる。才能のある人間には絶対に勝てないし、一流になることも永遠にない。

 それでも、その先はある。

「……なんだ、簡単なことじゃねぇか」

 それが努力だ。

 それが工夫だ。

 それが最強だ。

 積み上げた努力、それを生かす工夫。

 全てが組み合わさった時、誰もが最強になれる。

 望む力、望む形、望んだ果ての先にあるもの。……手は届かないかもしれないけれど、誰だって努力を重ねれば指を引っ掛けるくらいはできるだろう。

 その先にしか……努力の果てにしか、見えないものだってきっとある。

 僕は、最後の幻想を打ち捨てる。


「さよなら、コッコさん」


 憧れにさようなら。あの時から今までずっと続いた恋も、ここでお仕舞い。

 一度口にした言葉をもう一度口に出して、僕は想いにさよならを告げる。

 ゆっくりと立ち上がり、いつも通りに歩き出そうと一歩を踏み出した。


「ふざけんなあああああああああああああああああああ!!」


 そして、横からのぐーぱんちを喰らって、吹き飛んだ。



 手のぬくもりを思い出す。

 彼が高校生になったばかりの頃、一度だけ風邪を引いたことがあった。正確にはインフルエンザと坊ちゃんが言っていたような気がするのだけれど、よく思い出せない。

 その時は、あまりの熱に意識がぼんやりしていたから。

「大丈夫ですか? コッコさん」

 優しい声。どこかで聞いたような声。

 自分が殺してしまった誰かを思い出す。死ぬ間際ににっこりと微笑んだ、そんな誰かを思い出す。

 うわ言を呟きながら、私は手を伸ばす。

「はいはい、僕はご主人様じゃありませんけどね」

 そう言いながら彼は手を握ってくれる。

「大丈夫ですよ、僕はここにいます。コッコさんが望んだ誰かじゃないかもしれないけれど、それでも……僕は、貴女の側にいます」

 彼はにっこりと笑った。誰かと同じように、誰かとは違う笑顔で。

 私は力なく微笑んだ。その笑顔が嬉しくて、その笑顔が悲しくて。

「坊ちゃん」

「はい?」

「……苦しいです」

「じきに薬が効いてきますから、大丈夫ですよ」

 彼はそう言って、精一杯の笑顔を浮かべながら彼女の手を握った。

 実際に苦しいのは病気のせいではなく、胸の奥が痛いのだとは言えなかった。

 彼の笑顔を見ながら、その笑顔に痛みを感じている自分に耐えられなかった。

 分かっているけれど……認めたくないものがある。

 だから、私は泣きそうになりながら、彼の手を握った。

 本当は――ずっと、そうしていたかった。


 寂しかった。

 苦しかった。

 辛かった。

 痛かった。

 妬んだ。

 嫉んだ。

 恨んだ。

 憎んだ。

 冥さんに嫉妬した。

 京子さんに嫉妬した。

 美里に嫉妬した。

 舞さんに嫉妬した。

 彼の友人全員を妬んだ。

 彼の母親も父親も憎んだ。

 嫌った。

 自分が一番嫌いだった。

 結局のところ、私はずっとずっとそう思っていた。


 わたしなんか、死んでしまえばいいのに。


 そう、思っていた。



 鋏というものは、二枚の刃をてこの原理でこすり合わせることにより、物を切る道具である。

 たとえばの話をしよう。

 もしも、二本の大刀で大鋏が作られるとしたら、どうだろう?

 もちろん意味などない。鋏というものはあくまで日用品であり、それ以上でもそれ以下でもない。どんな鋏にしろ、役に立たなければ意味がないのである。

 飛燕とは、そんな冗談を形にした武器だった。

 薄く鍛え上げた幅広の長刀を二枚組み合わせ、鋏とする。

 故に……留め金を外された姿が、飛燕たる本来の姿。

 鶴翼。

 敵を切り裂く無敵の翼を広げし鳥こそが、その刃の本来の姿であった。

「……相変わらず無茶苦茶ですね」

 大半の糸は回転しながら周囲を蹂躙する両翼の刃に斬られた。

 しかし、それでも舞は諦めない。物陰に隠れながら思考を紡ぎ上げる。

(ま……それでも打つ手がないこともない、かな)

 30パターンの戦術を提案、そのうちの最優良手5パターンまで選出し、あとは臨機応変に対応することにした。

 もっともその5パターンのうち4パターンには自分の生存は含まれていない。

「……ホント、お人好しもここまで来ると、あいつのことなんにも言えなくなっちゃうなぁ」

 溜息を吐きながら、舞は苦笑する。

 息を吸う。

 ゆっくりと吐き出す。

 たったそれだけの行動で覚悟を決めて、舞は物陰から飛び出した。

 敵を捕捉した瞬間に、二刀が舞に向かって刃を向ける。

 しかし、舞はまるでそんなものがないかのように走り抜ける。

「うらああああああああああああああああああああああああああああああああああァァァァァぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 叫びながら覚悟を決めた女は、向けられた刃に向かって、

 拳を振り下ろした。

 激痛が走り、左拳が砕ける。だがその一撃が、たった一撃が戦況を変える。

 殴られた刃が方向を逸らす。舞の頬を切り裂き、しかし致命傷を与えることなく、刃の一つはあらぬ方向に向かって飛んでいく。

 そして、もう一つの刃は舞の右手に握られていた。

 できるとは思っていた。一刀だけならば、回転していようが『軌道』を見切り、空中でキャッチすることくらいはやれると思っていた。

 一刀だけならばできるのだから、もう一刀は必要のない左手で防ぐだけ。

 舞は足を止めない。真っ直ぐに、光琥に向かって走り抜ける。

「……ええ、そうでしょうね。舞さん。貴女はそれくらいはやる」

 真っ直ぐに走る舞を見つめながら、光琥は呟く。

「来なさい、『斬鈴』」

 その一言と共に、破壊的な駆動音が響く。

 恐らく人が手に出来る『刃物』の中では最強の部類に入る一振り。

 回転鋸。またの名をチェーンソー。

「……さようなら、舞さんっ!」

 光琥は斬鈴を振りかぶり、負傷した舞に向かって振り下ろす。

 舞はその刃を手にした剣で受ける。

 持ちこたえられるのは一瞬で、次の瞬間にはあっさりと胴体を切断されていることは明白であろうことは、舞が一番良く知っていた。


 故に、ここに勝機がある。


 舞は口元を緩めた。それは、覚悟を決めた人間だけが浮かべる不敵な笑い。

 拳の砕けた左手を使って、舞は自分の服のほつれた糸を掴んで引っ張った。

 たったそれだけで、本来ならば精巧に編みこまれているはずの服が……一瞬で解け、編み込む前の無数の糸になる。


 空倉式操糸術奥義・崩解機織(ほうかいはたおり)


 それは、機織の逆の動作。……つまり、編み上げるのではなく、解く。

 衣服や織り上げられた物を、元の糸に戻すことを指す。

 織り上げられたものが存在する限り、舞はどんな場所でも戦える。

「っ!?」

 チェーンソーが糸を巻き込んで、動作を停止した。

 ブラを惜しげもなく晒し、舞は叫んだ。

「らああああああああああああああああああああああああっ!!」

「……ぐっ!?」

 必要のない左拳で光琥を殴りつけながら、舞はスカートの解れを引っ張る。

 スカートが一瞬にして解ける。完全な下着姿になった彼女は、しかしそれでも止まることはない。……その程度の羞恥など、とっくに捨てている。

 右腕一本で糸を編み上げる。

 右腕一本で、たった数コンマの時間の間に、舞は光琥を拘束した。

 細い糸が光琥のあちこちに絡みつき、光琥は動きを止められた。

 動くことはできない。……特に、首に絡みついているのは特殊な繊維だ。下手に動けば首が飛ぶところはいかないまでも、容易く動脈をかき切ることは間違いない。

 が、光琥はゆっくりと息を吐いて、舞を見つめる。

「……いつぞやと、同じ状態ですか」

「…………そうですね」

「まさか、これで私に勝ったと思っているのですか?」

「思いませんよ」

 舞はそう言って、笑った。

 不敵に、力強く、にやりと笑った。


「とりあえず……30分は稼げました、ね」


 舞は笑う。

 いつかの自分と同じように笑う。

 30分もあれば……彼は絶対にやって来ると信じて、笑っていた。

「山口さん。貴女が言ったんです。『あの人は来るんです。どんな時でも、いつも通りに』ってね。……私じゃ届かなかったかもしれませんけど、それでもあいつは来ます」

「…………貴女は」

「あいつは来ます。いつも通りに」

 笑いながら、舞は不意に目を閉じる。

 そして、光琥に背を向ける。

「ちょっと……遅かったかもしれませんけどね」

「……舞さん?」

「山口さん。辛いのは分かるけど、なるべく踏ん張ってた方がいいですよ」

 少しだけ振り向いて、舞は誰もが見惚れるような穏やかな微笑を浮かべた。


「じゃないと、あいつに世話を焼かれちゃいますから♪」


 穏やかに笑いながら、敵に背を向けて、舞は拳を握り締める。

 もう武器はない。光琥を拘束した時点で武器は全て使い切った。いざとなれば下着すらも糸として使うことはできるだろうが、舞はその事実を無視した。

 黒霧舞は真の(おんな)である。

 だからこそ、なんにも悪いことをしていない仲間に向ける武器は持っていなかった。


「……そこをどいてください。黒霧さん」


 声が響く。薄く、細く、ナイフのように鋭利な声。

 同時にそれは聞き覚えのある声だった。

 髑髏の面。長大なデスサイズ。そして、そのデスサイズに釣りあうだけの細くて長い手足と長身。仮面の奥に見える瞳は、どこまでもどこまでも寂しそうで、孤独だった。

 そんな目を、舞は見たことがある。

 いつかどこかで鏡を見た。冥のために逃げ出して、冥のために何人も殺した。

 そんな時の自分の目にそっくりだった。

「……竜胆さんね?」

「今は死神です。……死神零子」

 己の名を名乗り、真の死神は孤独な瞳を舞に向ける。

「どいてください。私が、山口さんを殺します」

「残念だけど、この人は生かして捕らえてあいつに引き渡すから、ダメ」

「もう一度同じことを繰り返しますよ、その人は」

 死神は断言する。きっぱりと、はっきりと、確信を持って。

 どんなリスクを背負おうとも拭い難い過去があるのなら、きっと同じことを繰り返し続けるのだと、言い放った。

「だから、今のうちに私が殺します」

「………………」

 舞は黙って拳を握る。

 それから、口元を緩めて零子を見つめた。

「そういう事情なら、私が虎子ちゃんを止める理由はない」

「…………なら」

「でもね、弟が世話になった人が殺人を犯すのを黙って見過ごすほど、私は人間ができてないの」

 たとえ戦う力が残っていなくても。

 不屈なる彼女は、まっすぐに死神を見据える。

 退くことも戻ることもせず、ただ家族のために戦える、真の(おんな)がそこにいた。

「来なさい、死神。私は私の理由で、私のために貴女を止める」

「………………」

 零子はゆっくりと溜息を吐く。

 そして、デスサイズをゆっくりと振りかぶった。


「無間蟷螂」


 振りかぶると同時に振り下ろす。

 柄が五つに分離し、その『鎖鎌』は舞に向かって振り下ろされる。

 逃げることは不可能。先ほどのように打ち落とすこともできない。武器もない。

(……あ、こりゃ死んだかな)

 いつかどこかで死ぬんだと思った。

 何人も何人も殺してきたんだから、自分も同じように死ぬんだと思った。

 誰かと同じように。

 自分も死ぬんだと思っていた。

 思っていたにも関わらず、舞の体は勝手に動く。

 唖然としている光琥に向かって、舞は笑いかけた。


「じゃ、ばいばいです。あいつによろしく」


 笑いながら、舞は糸を引っ張る。

 光琥の体が糸に引っ張られ、死の刃から逃れさせた。

「舞、さ」

 叫ぼうとするがそれすらも間に合わない。

 そして次の瞬間、光琥は巨大な刀身が舞の体を貫くのを見た。



 舞は目を閉じて、自分の死を受け入れた。

 別に受け入れたくもなかったし、本当は生きていたかったけれど、これはこれで仕方ないなと割り切った。

 自分は何人も殺してきたんだし。

 妹はあいつに任せればいいし。

 最後に仲間としての義理も果たしたし。

 ほら、それで笑って死ねれば、そんなに悪くはない終わりじゃないかと、


「やれやれだ、本当に君は最高だよ」


 そんな風に、思いたかった。

 一瞬、自分がおかしくなったのかと思って舞は目を開ける。

 そこにいるはずのない人物が、舞を抱きかかえて笑っていた。

 どこまでもふてぶてしく、笑っていた。

「ありがとう、舞さん。……この恩は、俺の一生をかけて返す」

「…………なんで」

「なんでと言われりゃ決まってる。君が戦っているのに、俺が戦わない道理はない」

 羽織っていた上着を舞に手渡して、彼はゆっくりと立ち上がる。

 心底嫌そうな顔で、それでも真っ直ぐに立ち上がる。

 そして、舞に突き刺さるはずだった刀身を『消去』した人物に向かって口を開く。

「ついでに礼は言っておくぞ、親友。……ありがとう」

「よせやい、気持ち悪いッスよ。あたしは単に、あたしの友達を助けただけだから」

 三つ編みに作業着という服装の彼女は、そう言いながら溜息を吐く。

 それから、顔を赤らめて呟くように言った。

「だからまぁ……アンタのことも助けてやるッスよ」

「感謝する」

 彼と彼女は並び立つ。

 まるで長年連れ添った相棒のように、並び立つ。

「行くぜ、親友。とりあえず、俺の最愛の女を止める」

「おうよ、親友。あとで肉でも奢れ」

 二人は同時に笑う。

 まるで世界最強のように、笑っていた。



 第六戦:月ノ葉光琥VS黒霧舞。

 戦力比:3対2。

 特記事項:介入あり。対戦図式変更。

 戦況:黒霧舞・離脱。月ノ葉光琥・拘束。



 第七戦:死神零子VS黒等友狸&■■■■(狐目の彼)

 戦力比:65553対12003(黒等友狸:12000、■■■■(狐目の彼):3)

 特記事項:なし。ガチバトル?

 戦況:黒霧舞・離脱。月ノ葉光琥・拘束。



 最終話中編:さよならコッコさん。

 サブタイトル:Good Bye My Master。



 元俺の屋敷の扉の前で待っていたのは、妹と美咲ちゃんと……一人の狸だった。

 絶対に来ないと思っていたから連絡すらしなかったのに、そいつは当たり前のようにそこにいて、俺の頭を叩きつけた。

 そして、にやりと笑って言った。

『行くぞ、ばか』

 うっかり惚れそうになったのは、言うまでもない。

 まぁ、それはともかくぎりぎり間に合った。あくむさんには感謝してもし足りないけど、『うん、予備知識さえあればマニュアルでもなんとかなるもんだ』というセリフを聞いた時点で、俺は彼女に感謝するのだけはやめておくことにした。

 ちなみに、オートマ車とマニュアル車は全く別物なので、その辺を勘違いしてはいけない。

 屋敷に着けばあとは簡単だ。あの屋敷は元俺の屋敷だ。あそこで育ってきたんだ。

 それなら、コッコさんが知らない抜け道の一つや二つは知っていて当然だろう。

 空間遮断だろうがなんだろうが、あくまで遮断できるのは『認識できる範囲内』に限定される。効果範囲に『壁』を作って侵入を防ぐだけの技術だ。

 地下の抜け道なんて、遮断できなくて当然。

 知っていることは努力次第でどうにかなるかもしれないが、知らないことまでは人間どうにもならないのだ。

 だからこそ……コッコさんが一人で戦っていたからこそ、俺はここまでやって来ることができたのだ。

 ゆっくりと深呼吸をして、心の準備を整える。

 そして、相棒に向かって口を開いた。

「由宇理、現状把握だ。お前はどんなことができる?」

「なんでも壊せる魔法が使えるッス。正確には月ノ葉っていう一族に伝わる基礎技術『結合の分解』の応用バージョンってとこかな」

「虎子ちゃん相手にはどれくらい持ち堪えられる?」

「五分。……言っておくけど、あたしは友達を殺す気はないから全力じゃ戦らない」

「当たり前だ」

 死神だろうがなんだろうが、あの子相手に本気を出して殺しにかかるやつがいたら、俺がぶん殴ってるところだ。

 俺は頬を引き締める。その好きな女の子を多少なりとも痛めつけなければならない現実にかなりうんざりしながらも、それでも前を見据えた。

「由宇理、作戦がある」

「なに?」

「お前が囮で、俺が決める。なんとか彼女に隙を作ってくれ」

「……いいとこ取り?」

「頼む」

「ま、別にいいッスけどね。……頼まれちゃ仕方がない」

 由宇理はなぜか嬉しそうににやにや笑いながら、ゆっくりと歩き出す。

 虎子ちゃんに向かって、無造作に歩みを進める。

「じゃ、そういうことで、あたしが、りんちゃんを止めることに決定したから」

「………………刻灯さん」

「あたしも、あの女には恨みがあるんだけどねー。……ま、そんなことはどうでもいいッスね。あたしは単に、友達が人殺すところなんて見たくないだけだし」

「………………」

 虎子ちゃんは、なんだか泣きそうな表情を浮かべていた。

 無理矢理取り繕っているような、そんな表情。

 俺はほんの少しだけ口元を緩める。虎子ちゃんにここまでの決意をさせる野郎なんざ、あいつしかいない。

 よくやった、陸。結果はどうあれお前は最善を尽くした。

 ならここからは俺の役目だ。俺が彼女を止める。後はお前の役目だ。

 お前に敬意を表して、今だけは俺が虎子ちゃんを止める。

「じゃ、行ってくるッスよ、キツネ。勝機を逃したらあたしが殺してやるッス」

「やってみろよ、由宇理。そんなことは万が一にも在り得ない」

「ハ、言うようになったッス……ねぇっ!!」

 弾かれたように由宇理は走り出す。

 虎子ちゃんに向かって、真っ直ぐに走り出す。

 虎子ちゃんはなんの躊躇もしない。真っ直ぐに向かってくる由宇理に向かってデスサイズを構える。

 ……って、ちょっと待て。

 あの鎌……確か由宇理に刀身をぶっ壊されてなかったか?

「無間蟷螂。五代前の月ノ葉当主が作った、死神のための大鎖鎌。付与された能力は合計で2つ。周囲の土を取り込んでの自己再生、そして……」

 虎子ちゃんが目前に迫ったところで、由宇理は急停止して後ろに跳ぶ。

 由宇理の鼻先を掠めるように虎子ちゃんの一撃が通り過ぎて、地面を抉る。

 金属がこすれる嫌な音がした。……時間差で、五回ほど。

「空間湾曲による時間差多段攻撃。ちなみに攻撃回数は速度に比例するッスね?」

「………………」

 虎子ちゃんは答えない。ただ目を細めるだけだった。

 俺もはっきり言えば笑えない。……つーか、無茶苦茶だろどう考えても。

 五回攻撃ってゲームでもそうはねぇぞ?

「この鎌に関しちゃ女性限定っていう制約はあるッスけどね、元々無茶苦茶なんスよ月ノ葉の技術っていうのは。……だから、あたしみたいなのが創られる」

「……それは最高なんじゃねぇかなぁ」

「戦闘中にそーゆー恥ずかしいことを言うなッス、ばか野郎っ!!」

 紙一重でかわしただけでは軽く致命傷になる一撃の数々を、由宇理は赤面しながらもかわし続ける。

 いや、ただかわし続けているのではなく、当たりそうな刃には拳を振るっている。

 当たった瞬間に、刃が溶けて消える。……まるで、最初からなかったかのように。

「あぁ……なんか、随分とありきたりな能力だな、それ」

「ふしゃーっ!!」

 戦闘中なのに、猫みたいに威嚇された。

 むぅ……ちょっと可愛いとか思っちゃった。

「アンタ邪魔しに来たんだったら帰れこらーっ!!」

「いや、俺もかなり驚いてる。はて、俺はなぜこんなに由宇理を褒めちぎっているんだろう? ……自分でも理由がさっぱり分からない」

「ふふん、惚れたな?」

「ああ、そうかもな」

 俺がそんなことを呟くと、由宇理はものすごい勢いでずっこけた。

 戦闘中にあるまじき見事な頭からのずっこけに、虎子ちゃんも唖然として追撃を忘れるくらいだった。

 すぐに体を起こした由宇理の顔は、茹タコみたいに真っ赤になっていた。

「ばっ……ばっかじゃねぇのアンタっ!」

「ハ、この程度で集中乱してんじゃねぇぞ魔法使い。お前はなんのためにここにいる」

「冗談にしちゃ性質が悪いって言ってるんスよっ!!」

 顔を真っ赤に染めながら、由宇理は他にも言いたいことがあるだろうにたったそれだけを叫んで、虎子ちゃんに向かっていく。

 由宇理には絶対的な攻撃力と防御力があり、虎子ちゃんには圧倒的な能力がある。

 それでも……二人を隔てるものがあるとすれば。

「…………っ!?」

 振り下ろされた鎌の柄を、由宇理は踏みつける。

「しゃあっ!!」

 それと同時に拳を放つが、虎子ちゃんはあっさりとそれをかわして距離を取った。

 その顔に余裕の色はない。

 当たり前だ。虎子ちゃんの能力値がいかに高かろうが、彼女にとってはこれが初の実戦。初めての死神である。

 対して由宇理は虎子ちゃん以上に、虎子ちゃんの武器の性質、そして間合いを知り尽くしている。虎子ちゃんの隙をいくらでも隙を突くことは可能だ。

 知っているか、知らないか。

 ただの経験値の差が、ここでもろに現れる。

 そういう意味では、もしもここに現れたのが礼二さんだったら俺たちに勝ち目などなかったに違いない。あの人は死神で一番弱いかもしれないが……故に、だからこそ、一番努力してきたであろう人だ。

 努力と工夫は才能を凌駕しない。

 それでも、努力と工夫から得た経験は才能に迫る。

 ただ、それだと才能溢れる人間が経験を重ねたら手も足も出なくなるということになっちゃうので……そういう人間を凌駕するためには、あと一歩が必要になる。

「…………くっ」

 由宇理の攻撃に耐え切れなくなり、虎子ちゃんは間合いを取った。

 それが正解だ。そもそも、槍や鎌のような長柄の武器は常に間合いを取って戦うのが基本。死神といえど、やっぱり実戦経験のなさは補えない。

 もっとも……虎子ちゃんの圧倒的な能力を持ってすれば、その経験のなさを埋めることくらい楽勝だろう。今だって、由宇理の攻撃は掠めもしていない。

 今の攻防は絶対攻撃と絶対防御を持つ由宇理だからこそ生き延びられた。

 相手が俺なら初見で死んでいる。

 そして……間合いを、距離を取ったということは、そろそろ来るってことだ。

「……刻灯さん」

「なんスか?」

「降参してもらえませんか? なるべくなら……貴女を傷つけたくない」

「嫌ッスね。ここで降参なんてしたら、あたしが来た意味がない」

「…………そうですか」

 虎子ちゃんは残念そうに呟いて、大鎌を片手で回し始める。


「なら……怪我くらいは覚悟してください」


 鎌の柄が5つに分離。それと同時に回転速度がどんどん上がっていく。

 なるほど……そういうことか。

 こればっかりは礼二さんには無理だ。あの鎌の能力が由宇理の言う通りなのだとしたら、男性である礼二さんにはこの使い方は思いつかない。

 鎖鎌であることは、隠しておくべき奥の手じゃないんだ。

 速度によって攻撃回数が増すという能力を知っていれば、あの武器の本当の使い方は自ずと見えてくる。


「……無尽刀牢(むじんとうろう)


 遠心力で速度が増した鎌の刀身が、無数の刃となって由宇理に降り注ぐ。

 そう、これこそがあの武器の本当の使い方。

 回転により速度を増し、威力と数を持って敵を惨殺する武器だった。

 由宇理は動かない。ただ迫り来る刃を見つめて、

 にやりと笑うだけだった。

「いやいや、まさかここまで最大運用してくるとは思わなかったッスよ。さすがは死神一族ってところッス。……でもね」

 由宇理は笑いながら、俺に目配せをする。

 これから隙ができるから一発かませという合図だった。

「分析が足りない。経験が足りない。りんちゃんは死神に成り立てで、それ故に自分と自分の武器のことをなんにも知らない。ついでに言えば、情報を収集する暇もなく戦いに挑むことになったことが既に敗因。……弱い相手ならまだしも、あたしとキツネのタッグ相手じゃ、それは爪楊枝でドラゴンに挑む無謀に等しいッス」

 由宇理は笑う。不敵に、ふてぶてしく、楽しそうに笑う。

 そして、不意に指をパチンと鳴らした。


「最後に教えておくッス。……あたしの魔法は、『設置』ができる」


 その言葉を聞いた瞬間に、俺は走り出す。

 好きな女をなるべく痛くないように殴る覚悟を決めて、走り出した。



 折れる音が響く。

 壊れる音が響く。

 私はその音を聞いて、カチリと撃鉄が落ちるのを感じる。

「…………やめて」

 壊したのは、私が創ったあの子。

 命令したのはあの人だったけれど、壊したのはあの子。

 心が軋む音がする。

「……もう、やめて」

 私はなにもかもに耐え切れなくなり、走り出した。



 鎌の柄がなんの前触れもなくあっさりと折れて、由宇理を殺すはずだった刀身はあらぬ方向に飛んで行き、突き刺さった壁に何百という穴を穿って崩壊させた。

 刀身は分裂するだろう。しかし、その刀身の先にある柄は分裂しない。

 そして、由宇理の魔法は設置ができる。

 崩壊の設置。壊れることの予約。虎子ちゃんが鎌を振り下ろす前の接近戦で、由宇理は鎌の柄に『崩壊』を仕込んでおいた。好きなタイミングで柄を壊せるように。

 いくら再生が可能であっても、壊れたものを瞬時に直すことはできない。

 虎子ちゃんにとっては相手が悪すぎたとしか言いようがない。

 虎子ちゃんは由宇理の能力をまるで知らないのに、由宇理は虎子ちゃんの能力を知り尽くしているのだから。

 そして……ここから先も、運が悪いとしか言いようがない。

 なんせ、相手はこの俺だ。

 拳を振るえる間合いに踏み込む。俺が虎子ちゃんを殴れる間合い。

 虎子ちゃんが俺を殴れる間合い。

 振るわれる拳の速度は尋常じゃなく、しかも迷いがなかった。

 それを紙一重でかわす。あらかじめ軌道予測ができれば、どんなに速かろうがかわすのは簡単だと師匠は言っていた。

 問題は、その速度に合わせて体を動かせるかどうか。

 修練とは、すなわちイメージを具現化させる手段に他ならない。

『つまり、イメージ通りに体を動かすことができれば誰でも最強になれる。問題は、相手がイメージ通りに動いてくれないことだけど、それも簡単な心構え一つで解決できる』

 かわした拳をかいくぐって、俺はさらに間合いの中に踏み込む。

『それは、相手が自分のイメージを実現し終えた時……つまり、攻撃の最中か攻撃の直後に攻撃するだけのこと』

 零距離。肌の温度が感じ取れるくらいの距離。

 虎子ちゃんの額に手を添える。

『弟子。貴方が身につけるのは劣化しない強さ。策略と謀略ではなく、力任せ技術任せの業でもない。……その強さは、知恵と勇気よ。考える力と実行力。ただそれだけ』

 両足を踏ん張り、呼吸を一つ。

 腕は弾丸。体が砲身。打ち出す力は腕ではなく、体全体から行われる。

 美里さんと章吾さんから教わった技術。

 ただの人間が作り上げ、織り上げた技術の集大成。


 パァンッ! と、なにかが破裂するような音が響く。


 それは、俺の脚が地面を叩く音。

 俺の一撃は、虎子ちゃんを吹き飛ばして転倒させた。

 立ち上がってはこれない。虎子ちゃんぐったりしたまま動かない。

 当たり前だ。脳を直接揺さぶって、脳震盪を引き起こしたのだから、しばらくは起き上がることもできないだろう。

 そう、どんな人間であろうとも、誰であろうとも、人間である限り弱点を持つ。

 人間であるという、弱点を持つ。

 能力に差があろうとも、弱点を突くことができれば……倒すのは簡単だ。

 まぁ、弱点だからこそ簡単に突かせてもらえないのは当然のことだけど、今回は由宇理がいたからなんとかなった。

 ただ……問題は、ここからなんだろうけど。

 俺は、糸を解いた彼女の方をちらりと見た。

 ゆっくりと溜息を吐く。それからどうするのか少しだけ考える。

 結局なにも思いつかなくて、俺は少しばかり途方に暮れた。


 この時、俺は気を抜くべきじゃなかった。


 前触れなく、拘束を解いたコッコさんが走り出す。

 コッコさんが向かう先は……由宇理の方だ。

 俺は彼女がなにをしようかを悟って舌打ちする。

 コッコさんの目は空ろ。どこを見ているのか焦点が定かじゃなくて、自分がなにをやっているのかすら分かっていないに違いない。

 月ノ葉の里を滅ぼしたのは、子供でなんにも知らなくて、『お母さんが喜ぶ』という理由で連れ出されて、結果的には兵器として運用された、一人の人形。

 その人形はなにもかも壊した後に、なにもかも全部に見放されて、売られて闇へと消えていったと……あくむさんから聞いたことがある。

 由宇理がそれを恨んでいないわけがない。コッコさんに気づかれないように髪も伸ばして、作業着なんて着て、昔の面影を全部潰して、そして与えられた機会を生かすために俺に近づいた。

 復讐するために、俺に近づいた。

 けれど……由宇理がここに来たのは復讐のためじゃなく、友達のためだ。

 俺のために、来てくれた。


 あんたみてぇに、一から十までテメェのことばっかりで、過去に誰を殺しただの恨みだの辛みだのそういったもんを、全部捨てて駆けつけてくれたんだ。


 拳を握る。

 いい加減に我慢の限界だった。

 コッコさんが由宇理を憎む気持ちだって分からないでもない。

 自分の大切にしたものをなにもかも根こそぎにされたのだから、気持ちは分からないでもない。

 でも、理解なんてしてやらない。

 身勝手がどんな結果をもたらすか考えていないガキなアンタに、同情なんてしない。

 テメェの感情ばっかり優先させて、由宇理の絶望とか失意とかそういうものも聞いてやらずに、いきなり切りかかるような奴に、容赦なんてしてやらない。

 勝手に後悔でもなんでもしてろ、ばか。


 走る。


 由宇理の前に立ちふさがる。


 コッコさんは目を見開く。


 止まらない。


 俺は平手を振り上げる。



 そして、僕の世界は真っ赤に染まった。



 殴られて、私は胸倉を掴み上げられた。

 目の前には彼がいた。怒り狂っている、彼がいた。

 私がつけたであろう傷を負っている、彼がいた。

 彼にぶたれた、私がいた。

「……坊ちゃん」

「ふざっけんなよ、この馬鹿女っ!」

 怒鳴って、彼は思い切り私の胸倉を掴み上げる。

「アンタの考えなんざ知ったこっちゃねぇけどな、ちったぁ周りを見てから行動しろ! アンタの身勝手な行動で何人傷ついたと思ってやがるっ! いい加減にしろっ!」

「……私は、私はただ」

「ただもへったくれもあるかっ! 時間転移? 過去の修正? そんなことしてどうにかなるとでも思っているのか? 『育て方間違えた』程度で、なにもかも全部ひっくり返して終わりにするような真似しでかしてんじゃねぇよっ!!」

 彼は容赦なく、私に言葉を振るった。

 痛かった。

「ああ、そうだよ。アンタから見れば俺も由宇理も失敗作で、壊したくて殺したくてたまらねぇだろうさ。……でもな、それでも俺も由宇理も生きてるんだよ」

 胸が痛む。

 私は……壊そうとなんて、していない。

 坊ちゃんも、失敗作だなんて、思ってない。

 ただ、あの子を……私が創ったあの子であると気がついた瞬間に。


『おかーさんがよろこぶって、おにーちゃんがいってたの』


 嬉しそうに言うあの子の笑顔が蘇って、

 あたまがまっしろになって、それで――――。

 ああ、やっぱりそうなんだ。


「私は……死んだ方がいいんですね」


 ようやく、私はその事実を認めた。

 もう駄目だと思った。私がいるとなにもかもが間違いになる。

 昔もそうだし、今だってそうだ。

「私が全部歪ませるんです。前の主も……坊ちゃんだって、私が歪ませた」

「……楽しいか?」

「え?」

「加害者気取りは楽しいかって言ったんだよ!」

 彼は真っ直ぐに私を見つめる。

 真っ直ぐに、私を睨みつけて、きっぱりと言い放った。

「歪みってなんだそりゃ? アンタが言う歪みってのは、人として普通じゃねぇ部分ってことかよ? 普通だろうが普通じゃなかろうが、みんなどっか心の深い部分に誰にも見せられない傷を抱えて生きていくんだろうが。……その傷を、誰もが抱えて生きていかなきゃならないものを、なんで歪みだと決め付ける!」

 その強さは、どこまでもどこまでも私を真っ直ぐに射抜く。

 私を苛んでいる。


「俺のことを――アンタが決めるんじゃねぇよ」


 結局、私は私のことが見えていなかった。

 歪んでいたのは私の方で、彼はずっと努力してきただけだったのに。

 私は……なんで、また、間違いを繰り返すんだろう。

 彼はそんな私の気持ちを見透かしたのか、不意に寂しそうな表情になった。

「……コッコさん」

「………………はい」

「僕は、貴女のことをなにも知りません。知ろうとはしましたけど、結局貴女自身のことを貴女の口から聞くことはありませんでした。……これは、僕が間違っていたんだろうと思います。なんでもかんでも聞くことはできないけれど、せめて少しくらいは聞いておいても良かったんだと……今なら思います」

 彼は手を離す。

 そんな彼の横顔はいたたまれなくて……泣いているように見えた。

「僕は子供で、貴女のことも見えていない子供で……貴女自身が子供だということにも、最後まで気づけなかった」

「………………」

「だから、そういうのはもうやめます。……僕はもう、坊ちゃんじゃない」

 彼は口元を緩めて、苦笑した。

 いつものように綺麗な笑顔ではなく、ただの自嘲気味な……そんな苦笑。


「さよならコッコさん。――貴女を、解雇します」


 ストンと、その言葉は私の胸に突き刺さった。

 今までで……今まで生きてきた中で、一番痛い言葉だった。

「……坊ちゃん」

「頑張ってください。コッコさんはとっくのとうに大人なんですから。……諦めた僕なんかよりもよっぽど出来た人間なんですから、頑張ってください」

「……私は」

「僕は、貴女のことが本当に好きでした」

 また会おうともなにも言わずに、彼は私に背を向ける。

 きっともう二度と会えない。もう二度と会うつもりはない。

 叫びたくて、叫べなくて……私は自分の気持ちを思い知る。

 屋敷を辞めたくなかった。

 あの日々を続けていたかった。

 それを認めたくなかった。全部他人や自分のいたらなさのせいにして、逃げ出した。

 過去の罪なんて、今は関係ないのに。

 舞さんも、みんなも傷つけて。

 私は現実から逃げ出そうとしていた。馬鹿なことに。

 彼も誰もいなくなっても、私はそこから離れることができなかった。私が創ったあの子が屋敷を消滅させても、彼が虎子ちゃんと舞さんを抱えて去って行く間も、なにもできなかった。

 もしかしたら……泣いていたのかもしれない。

「山口」

 不意に響いた聞き覚えのある声に、私は顔を上げる。

 いたたまれない顔をした奥様が、私の目の前に立っていた。

「……山口」

「はい」

「お前はどうしたい?」

「………………」

「絶対にやりたくはないけど、殺せと言われりゃ殺してやるよ」

 奥様は、辛そうな表情を浮かべてそんなコトを言った。

 一瞬だけ迷った。

 でも、そんなことはできなかった。

「奥様」

「ん?」

「あの子は、必死になって教えてくれました」

 しゃきっとしろと。もっとちゃんとした人間になれと。

 甘ったれるのもいい加減にしろと。全身全霊で、教えてくれた。

 ここで私が死んだら、その全部が無駄になる。

 鼻水を拭って、涙も拭う。きっとこれからも、私がやったことは私を苛むだろう。自分がやったことはあまりにも大きすぎるけど、私は私がやったことから逃げはしない。

 反省なんて足りない。

 死んで償うにも重過ぎる。

 それでも……あの人なら、きっとこう言うだろう。

 生きて償えと、当たり前のような顔で言うのだろう。

 弱い私だけど、自分勝手な私だけど。

 それでも……彼は教えてくれた。必死になって教えてくれた。


「それを無下にすることだけは……私には、できません」


 顔を上げる。

 立ち上がる。

 真っ直ぐに奥様を見つめて、きっぱりと言った。

「まずは、借金をお返しします。……なんなりと、ご命令を」

 やれることから始めよう。

 こんなに弱い私に説教をしてくれた、彼の心に応えるために。

 別れを告げて歩き出す。

 泣きそうになったけれど、それは堪えた。

 生きる資格のない私だけれど、とりあえずちゃんとした大人になれるように生きてみようと……そう思っていた。

 恨まれて憎まれて蔑まれても……それでも、ここにいたかった。

 大切な人を傷つけて、生きる資格も失って。

 それでも……生きてみようと、覚悟を決めた。


「……さようなら、坊ちゃん」


 胸は張り裂けそうに痛くて、別離はあまりにも辛かった。

 それでも――――。

 今までの思い出と、楽しかった日々と、そして彼に別れを告げて。

 私はようやく、大人になるために一歩を踏み出した。



 最終話中編『さよならコッコさん』END



 Last episode start.


 ……Call Rekisi.


 ……最後の最後に断っておこう。

 この物語は、コメディである。



 最終話後編『なんて言わせてやるもんかっ!!』に続く。

楽しい日々があった。

笑顔の日々があった。

みんなが笑顔でいられる毎日があった。

漫画やアニメのように、騒がしくて、楽しくて、厄介ごとが毎日のように振ってくる毎日があった。

そんな毎日を愛した狐がいた。

彼は卑怯で卑劣で、自分を諦めているくせに他の事に関しては諦めの悪い人間で、努力家で厳然で自分が認めた相手にしか優しくないエゴイストだった。


そんなきつねは空を見上げる。

とりあえず、空を見上げることから始めた。

だって、そうだろう。それは必要なことだ。


空を飛ぶためには、空を知らなきゃいけないから。


次回、最終話後編『なんて言わせてやるもんかっ!』

笑い話にしてやるよ。

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