番外編終章 空倉陸の告白
ある一つの事情の話。
彼女は少しだけ生きることに関して絶望を抱いていて、彼はそんな彼女のことを好きになった。
彼女が希望を見出した時、その希望を壊れるのを恐れた時……彼女は死神になった。
これはただ、それだけの話。
番外編終章:空倉陸の告白。
サブタイトル:少年の終わり。
好きなのです。きっと、それ以外に理由なんて要らないと思います。
竜胆虎子には家族がいる。
兄が一人、妹が一人、弟が一人の四人兄弟で、わりと仲はいい方だろう。
両親や祖父母は既に他界しており、一家の生活は兄がどこからともなく稼いでくるお金と虎子のバイト代が頼りだった。もちろん家は貧乏で、生まれた時から屋敷のバイトに誘われる時まで、虎子は贅沢というものをしたことがない。
とはいえ、彼女の贅沢とは給料が出た日にこっそりラーメンをお腹一杯食べるとか、そういう慎ましいものだったりする。
もちろん進んで貧乏をしているわけではないのだが、いかんせんお金が無いのだから仕方がない。
ただ……お金がなくても構わないかな、とは思う。
確たる直感として、虎子の中には『生きる気力』を無くすような思考が根付いてしまっている。
もしかしたら、私もすぐに死んじゃうのかもしれない、と。
貧しくとも、飢えた記憶は無い。屋敷に勤めるようになってからは、親切で可愛いコックのお姉さんが余った料理やらなにやらを持たせてくれたりもする。
言うまでもなく、これまで生きてきた中で死に直面したことなどない。だが……本当になんとなくだが、『自分は死んでしまうのかもしれない』という予感がするのだ。
それを裏付けるわけではないが、祖父母も両親も早くに亡くなって、本当はもう一人いたはずの兄も早々と事故でこの世を去った。
短命な一族なのかもしれないなぁと、虎子は思っている。
まぁ、それも当然のことかもしれない。
だって、この瞳はいつだって身内以外の《敵》を直視している。
いつの頃から見えるようになったのかは、虎子には分からない。
いつの間にか、虎子には『鏡像』が見えるようになっていた。
簡単に言えばもう一人の誰か。こうなるかもしれないという可能性未来。目に映る人物が秘めている可能性を、虎子は視覚的に捉えることができた。
もっとも、それは現在のまま進行したらああいう未来になるだろうという、あくまでも小さな可能性の未来であり、どうやら虎子に見えるものは数多ある未来の中でも最悪中の最悪なものしか見えないらしい。
だが、言うまでもなく最悪中の最悪などそうは訪れない。
白い彼が大魔王になったり、執事長が大悪主になったり、バイト先の後輩であるなんだか純情そうな双子妹が虐殺妃になったりと……まぁ、普通なら在り得ないものが虎子には見えている。直視できてしまう。
それが事実なのかどうかは、虎子には分からない。
ただ確固たる直感として存在しているだけで……他にはなにもない。
だから、今までもこれからも最悪中の最悪なんて訪れないだろうと思ってきた。
いつだって、そうなんだろうと思いたかった。
そうではなかったのに……思い込もうとしていた。
受け継がれる血が、彼女に悪たる可能性を見せ続けていた。
それこそが……彼女がある存在であることの証明。
その存在は、ただ殺す者ではない。人の死に際にしての付き人。魂を送る者。言うなれば人の魂の導き手。
概念上にのみ存在するもの。魂の尾を刈り取り、死を届ける者。
いつの頃からか、『竜胆』の家系にのみ発症するようになったモノ。
それは親から子へ、兄から弟へ、竜胆家の直系に受け継がれ続けるモノ。
己に与えられた使命であるかのように、踏み違えた《悪》を抹殺する。
死神。
ありきたりで自意識過剰なネーミングセンスなわりに、たった一人で悪なる者を殲滅する存在。彼らに滅ぼされた悪やら絶望は、それこそ数多である。
彼らはそうやって生きてきた。血の命ずるままに、デスサイズを振るいながら。
己の幸福を見逃しながら。
一番最初の死神の名前を、死神壱子という。
彼女は誰よりも死神らしく生きた死神で、彼女が殺した悪や絶望は軽く10万を越える。誰よりも多く悪を倒し、誰よりも死神らしく生きた彼女は、それでも最初から最後まで幸福には生きられなかった。
一人の男がいた。彼は世界のどんな誰よりも優しい人間で、彼は当たり前のように絶望を狩り続ける彼女のために生きて……死んだ。
彼女のためになんでもした。頭を撫でろと言われれば優しく撫でたし、抱き締めろと言われれば彼女が飽きるまで抱き締めたし、卵焼きを作れと言われれば作った。
彼は壱子のことが好きだったので、それ自体は苦痛でもなんでもなかった。
だから、彼女をかばって死んだ時も、最後の最後意識が尽きるまで後悔なんてしなかった。
後悔したのは、壱子の方だった。
彼が死んで、壱子は終わった。
彼がいたから戦えたのに、彼が死んで戦う理由がなくなった。
だから壱子は死神をやめた。……それからの記録は、どこにも残っていない。
彼女を筆頭として、死神になった人物には幸福に生きられる未来がどこにもない。必ずどこかで終焉し、無残な最期に行き着くこととなる。
それが死神となった人間の、運命とでも言うかのように。
竜胆虎子も薄々と感づいていた。
自分がただの人間ではなく、きっと早死にするんだろうと思い込んでいた。
でも――結局のところ、それはただの思い込みでしかなかった。
そして彼女は己の想いを知り、死神になった。
物語にもならない、小さなエピソードがある。
社員旅行の数日前、屋敷が解体されると分かって普通の中学生に戻る前、狐目の彼の部屋に呼び出されて陸は携帯電話を渡された。
「……俺、携帯なら持ってるんだけど」
「知ってるよ」
彼はあっさりとそう言いながら、口元だけを緩めた。
「陸くん」
「あんだよ?」
「君は、虎子ちゃんのことを愛しているか?」
「ぶっ!?」
思い切り吹き出すと同時に、陸は背筋に寒いものを感じた。
彼は怒っているのかもしれない。そんな風に思った。
狐目の彼の虎子びいきはなんというか、かなり度が過ぎている。虎子ちゃんに害成す者は死あるのみとにこにこ笑顔で言い放った彼の顔を思い出して、陸は青ざめた。
「吹き出してないで答えろ、空倉陸。……お前は彼女を愛しているのか否か」
「や、だから……その」
「逃げるな」
彼の視線はどこまでも鋭く、陸は思わず言葉に詰まった。
「覚悟を決めろと言っているんだ、陸」
「……にーちゃん」
「屋敷が解体される前に、君に全部話しておく。それを聞いてなお虎子ちゃんを愛することができるのなら……あとは陸に全部任せる。お前に彼女を託す」
「………………」
「答えろ、陸」
視線は鋭い。今すぐにも逃げ出したくなる威圧感を彼は放っている。
それでも、陸は一歩も退かなかった。
「俺は、あの人のことが好きだ」
きっぱりと言い放った。
なに一つの負い目もなく、気恥ずかしさも全部捨てて、陸は断言した。
言わなくてはならない場面だと思った。理由なんてそれで全部だ。
陸の言葉を聞いて、狐の彼はほんの少しだけ口元を緩めた。
「よーし、殺そう」
「答えろっつったじゃんっ!?」
「うん、まぁ、人間だもの。……と、まぁ冗談はそれくらいにしておいて」
明らかに目は笑っていなかったが、狐目の彼は容易く殺意を自制した。
簡単に、自分の感情を押さえ込んで、にやりと笑った。
「君に渡した携帯電話には、ある機能が仕込んである」
「機能?」
「僕が睡眠以外で意識を失ったらアラームが鳴るって機能だ。面白いだろ?」
「……や、さりげなくものすごい機能じゃねぇか、それ」
「知り合いの情報屋さんのさらに知り合いに作ってもらったから詳しくは分からないんだけど、脳波を僕の携帯から受信しているとかなんとか言ってた」
「………………」
なんだその超技術とか陸は思ったのだが、そろそろこういう不条理にも慣れてきた頃合だったので、とりあえずスルーしておいた。
「……で、アラームが鳴ったらどーすんだよ? まさか助けに来いってのか?」
「アラームが鳴ったら、虎子ちゃんを連れて一目散に逃げろ」
「………………」
「万が一の備えだけど、まぁ一応ね。僕がフォローできなくても、陸がいればとりあえず虎子ちゃんだけは助けられそうだし」
彼はそう言ってにやりと笑う。
以前に見た彼の母親そっくりの笑顔だったのだが、本人に自覚はないらしい。
が、次の瞬間には真顔にもどっていた。
「さて……それじゃあ、僕の知っていることを全部話そうか」
そして、彼は彼女のことを語り始めた。
なにもかも全部を聞いて、陸はそれでも彼女のことが好きだった。
そもそも、たとえ魔王だろうが世界大帝王だろうが、惚れ込んだ女のことを『裏事情』程度で嫌いになれる男を陸は一切合財認めていない。
そういう意味では、彼は狐目の少年や世界最高峰の執事のことを評価している。もっとも、二人とも友情と恋の線引きがヘタすぎるために絶対女性関係で揉めるんだろうなぁと薄々思っていたが、まぁそれはそれで本人たちの問題だろうと割り切っていた。
陸は諦めたり妥協するのが上手い少年である。深追いはせず、余計なことは言わず、それでも世話を焼こうとする。そういう少年だった。
上手い位置取り、心地よい距離、そういった間合いを計るのが上手かったのだ。
だが、今の彼は必死だった。必死で探し続けていた。
(……落ち着け、考えろ。頭のギアを回せ。0.1秒で思考しろ)
携帯からアラームが鳴った。それは彼から発せられた緊急警報ではあったが、それでも陸は楽観していた。
狐目の彼は、メイドに殴られたりするとよく気絶しているからである。
それでも、念のために社員旅行から戻って来たと同時に虎子を喫茶店に誘い、彼からの連絡を待っていた。『ごめんごめん、また殴られた♪』みたいなメールが返ってくるのを期待していた。
……が、来たメールは『屋敷に近づくな』というものだった。
なにかが起ころうとしているのは分かる。それに、自分がまたもや置いていかれているであろうことも。
しかし、頼まれた……いや、託されたのだ。
好きな人を幸せにしたいと望むあの狐に、本当に好きな人を託された。
そして、自分だって虎子を守りたいと思っている。
ならば全身全霊、自分の全てをかけて守り抜くのみ。
「どうしたんですか、陸くん? なんか難しい顔してますけど」
「ん、いやいや……意外と高いなと思ってさ。この店」
伝票から目を上げて、陸はにっこりと笑った。
言うまでもなくその動作は全てフェイクだ。陸は今このときもどこが安全か頭を回転させて考えている。
金はあるので逃走するには困らない。あの屋敷でのバイトは辛い反面、『バイト』とひとくくりにするにはかなり多めの給金を出してくれた。
(税金とかどうしてんだろうとか、考えない方がいいんだろうなぁ……)
脱税程度は楽勝でやっているだろう、あの少年のことを思い出しながら、陸は何食わぬ顔でショートケーキを頬張る。
とりあえず、学校は却下。虎子の親類縁者の所も駄目。適当な場所に宿泊施設を借りようにも陸の中学生丸出しの容姿を見て貸してくれる場所があるか分からない。金さえ出せば泊めてくれる場所くらいはあるだろうが、そんな場所に虎子を泊めたくない。
最後の方はわりと男の意地だったりするが、陸は気にしなかった。
いずれにしろ、自分たちが直接敵に狙われているわけじゃないのだ。とりあえず、ほとぼりが冷めるまでは適当にうろつき回るのが一番だろう。
そう結論付けて、陸はさらに頭をフル回転させる。
さてさて、そういうことならば……適当にうろつくだけの、一緒にいるだけの理由をここで作らなければならないだろう。
陸は考えながら、にっこりと笑って虎子に聞いた。
「そういえば、ねーちゃんってこの後どうするのさ?」
「この後?」
「や、だからさバイト先がいきなりなくなっちまったけど、新しいバイトとかどうすんのかなって思ってさ」
「………………」
さりげない話題のつもりだったのに、いきなり虎子は泣きそうな顔になった。
一瞬、陸の思考が止まったのは言うまでもない。
「……陸くん」
「な、なに?」
「実は私、キツネくんのお屋敷に勤める前にもアルバイトをしていたんですけど……なぜかどこも三ヶ月も経たないうちに解雇されてしまうんです」
理由はなんとなくどころではなくよく分かる。虎子はよく失敗をする女の子だ。その失敗が解雇レベルになったとしてもおかしくはない。
心の中で納得しながら、陸は虎子を解雇した連中全員を心の中で血祭りに上げる。
虎子に悲しそうな顔をさせた奴は、自分の敵だと信じて疑っていなかった。
この時点で、惚れているを越えて狐目の彼のようにベタ惚れになってしまっているのだが、自覚がないのは本人だけだったりする。
「……お屋敷が解体されることになっちゃって、高校卒業まではキツネくんのお母さんに援助してもらえることにもなったから、お金に関してはしばらくは大丈夫なんですけど……私は、働いちゃいけないのかなって、思って」
「………………」
陸は言葉を選ぼうとして、やめた。
ありのままを伝えることにした。
「ねーちゃん」
「なに?」
「確かにねーちゃんは、ちょっとどんくさいし、空気を読まないところがあるし、一生懸命なわりに空回ってるし、時折致命的な失敗をやらかす」
「………………」
「でも、俺がここまであの屋敷で働けたのは、ねーちゃんがいたからだと思う」
きっぱりと断言する。
嘘も詐欺も一切抜きで、陸はただ感謝の言葉を口にした。
「頑張ってるねーちゃんがいたから、俺も頑張らなきゃって、思ったんだ」
失敗そのものに苛立つ気持ちはよく分かる。人はどう足掻いても『自分』を主観にしか考えられない生き物だ。
自分が当然のようにできることを『できない』という事実に苛立つ生き物だ。
それでも、失敗しても失敗しても、何十回何百回怒られようとも、にこにこ笑顔で頑張る女の子がいた。
失敗して悔しくないわけがない。怒られたら嫌に決まっている。
それでも彼女は笑うのだ。誰にとっても安心できる笑顔で笑うのだ。
その笑顔が偽物であっても本物であっても、陸にとっては些細な違いはない。
そんな綺麗な笑顔を、陸は今までに見たことがなかった。
理由なんてそれだけで十分だった。それだけあれば十分だった。
だからこそ、あの屋敷で陸を本当の意味で成長させたのは狐目の少年でも章吾でもない。
ただひたむきな女の子の努力が、陸を成長させた。
「うん、だから俺はねーちゃんがいてくれて本当に良かったと思ってる。実際、ねーちゃんがいたからあの屋敷で働き続けることができたわけだし」
「よく章吾さんに殴られてましたもんねー、陸くん」
「ちゃんと手加減はしてくれてたみたいだけどな」
よく殴られてはいたが、翌日には痛みも消えていた。
ちなみに後を引くのが美里に殴られた時で、あの時は三日ほど立ち上がることができなくなった。
なんであのにーちゃんはあの人と平気な顔で付き合えるんだろうと、それだけは今でも不思議に思っている。
(……今でも、か)
そんな風に思えてしまうことに、少しだけ寂しさを覚えた。
柄にもなく、寂しくなってしまった。
「陸くん」
「……ん?」
「ちょっと、そのへんまで歩きませんか?」
虎子は寂しそうな笑顔を浮かべていたけれど、陸は深くは突っ込まずに頷いた。
きっと虎子も、同じ思いだと信じて頷いた。
なんだかんだで、楽しかったような気がする。
色々あったけれど、最初は憎んだり恨んだりもしたけれど、結局あの狐は最初から最後まで自分の身内を助けたり楽しませたりすることに必死だった。
だから楽しかった。今ならそんな風に思える。
もうすぐ日が暮れる。河川敷を虎子と二人で歩きながら、陸は息を吐く。
(……まぁ、そういうもんなのかもな)
援助付きで中学校にも通えるようになり、努力次第では高校や大学まで支援してやろうと言い放った狐の母親は、にやにやと笑いながら陸の頭を撫でたりした。
つまり、頑張れということらしい。
楽しかった思い出があるんだから、そのぶん頑張ってみろと彼女は言った。
(頑張れ、か。……確かに、にーちゃんに比べると俺はサボりがちかもな)
あいつの真似ができるとは思わないが、それだけは痛感する。
考えてみれば、どうしてあの男はあそこまでの努力ができるのか理由が分からない。誰かを守るとか、誰かを助けるとか、自分をないがしろにしてまでの努力の……その意味だけがぽっかりと欠け落ちている。
(まぁ、どーせあの庭の大魔神か他の女がらみだろうけどな)
なんとなく口元を緩めて、陸はちらりと虎子を見る。
少しだけ憂いを帯びた横顔。旅行の時は天真爛漫でいつも通りに明るく振舞っていた彼女だが、陸と一緒に喫茶店に入った辺りから少し大人しくなった。
なにを考えているのかはよく分からない。
だから陸は、今まで聞きたかったことを、聞いてみた。
「なぁ、ねーちゃん」
「なんですか?」
「ねーちゃんって、好きな奴とかいるのか?」
「………………」
虎子は陸の言葉を聞いても、驚きもせずにほんの少しだけ口元を緩めた。
寂しそうな表情だった。
「そういう陸くんはどうなんですか? 彼女さんとか、いるんですよね?」
「……いないよ。今は他に好きな人がいるから」
「またまたぁ、冗談ばっかり。ほら、学園祭の時に可愛い女の子と仲よさそうに歩いてたじゃないですか?」
「あれは友達だよ。それ以上にも以下にもならねぇって」
「……じゃーひざまくらとかされてたのはなんでですか?」
「…………や、恥ずかしながら貧血でぶっ倒れて」
「健康管理はちゃんとした方がいいですよ?」
「以後気をつける」
「よろしい」
虎子はそう言いながら、にっこりと笑って陸の頭を撫でた。
頭を撫でられながら、陸は安堵の溜息を吐いた。
(……あぶねぇ。見られてたのか)
咄嗟の言い訳にしては、嘘と本当を織り交ぜたかなり上出来な言い訳だったと自分を褒めたくなる。
破裂しそうに動悸している心臓をなんとか押さえつけながら、陸は口元を緩める。
「で、まぁ俺のことはどうでもいいんだけどさ、ねーちゃんの方はどうなんだよ?」
「好きな男の子、ですか?」
「うん」
「…………まぁ、いると言えばいますね」
予想通りの回答だったので、陸は一切うろたえることはなかった。
むしろそれでいいんだと陸は思う。
中学生の陸にはあらゆる意味で説得力が足りない。身長は虎子の頭一つ下くらいだし、並んで歩いていても姉弟くらいにしか見られないだろう。
それは嫌だった。自分のことはどうでもいいが、虎子に恥ずかしい思いはさせられない。かと言って、自分が大人になるまで待ってくれとは言えない。
だから……これでいいんだと、陸は思っていた。
「そいつに、告白とかしないのか?」
「……しても、きっと迷惑になるだけですから」
「どういう意味だよ?」
「妹や弟の学費とか……私とお兄ちゃんで稼がなきゃいけませんから」
現実的で、重い問題だった。
恋愛なんかよりも、よっぽど重くて現実的で、それでいて人になにかを諦めさせたりするのには十分すぎる問題だった。
陸は頬を掻きながら、思いついたことを口にしてみる。
「にーちゃんに頼めば、なんとかしてくれるんじゃねぇかな?」
「かもしれませんけど、キツネくんにはこれまでもずっとよくしてもらいましたから。高校に通えているのもキツネくんのおかげです。……今まで、ずっと守ってくれたことにも感謝してるんです。だから……あんまり、甘えちゃダメなんです」
「………………」
「私は、キツネくんが認めてくれるような人間にならなきゃいけないから」
寂しそうだけれど、どこまでも気高い言葉。
ふと陸は思う。自分はあの少年にどれくらい認められているのか。
認められるくらいの努力をしてきたのか。
(……ああ、分かった)
単純過ぎて見逃してしまうようなことを、陸はようやく理解できた。
そもそもあの男の『努力』とは、自分のためのものではない。
誰かのための努力。……誰かを守るという、ただそれだけの努力だった。
誰かに見捨てられたらその時点で破滅する。それでその努力の意味は消失する。……そんなことに気づきながらも、誰かに笑っていて欲しかったから、彼は努力を重ねた。
馬鹿野郎だと思う。
それでも、今の陸にとっては、その馬鹿さ加減こそが必要だった。
「俺、ねーちゃんのことが好きだ」
だから、それだけを言った。
虎子は唖然として、陸を見つめた。
「………………え?」
「俺は竜胆虎子って女の子が好きだ。愛してる」
きっぱりと、はっきりと、何一つ後悔せず、臆することなく。
まるで決闘を申し込む時のように、真っ直ぐに彼女を見据えて、陸は言った。
「だから、学費に関してなら俺も手伝う。日雇いのバイトなら腐るほどあるし、職種を選べば体を鍛えるのにも役立つ」
「いや、えっと……ちょっと待って、陸くん」
「嫌だ」
断固とした拒絶を言い放ち、陸は言った。
「俺は、ねーちゃんが誰を好きになろうが別に構わないと思ってる。そりゃあ嫉妬とかそういうのもあるけど、そんな俺の感情なんかよりも……ねーちゃんが恋愛とか、そういう大切なコトをなにもかも一緒くたに諦めようとしているのが気に食わないだけだ」
「………………」
「だから俺も手伝う。力が足りないとか年齢がどうとか、そんなのは関係ない。俺はねーちゃんのことが好きだ。好きだし愛してるし、友達だと思ってるから幸せになって欲しいと心の底から思ってる」
「……でも、陸くんに迷惑が」
「これは俺の自分勝手だ。迷惑なんて一つもない」
言いたいことを言って、陸は口を閉ざした。
後悔が押し寄せるが知ったことではない。陸は真っ直ぐに虎子を見つめて、返事を待った。
もしかしたら返事はないのかもしれないと思ったが、虎子はゆっくりと口を開いた。
「……陸くん」
「なんだ……よ?」
ふわりと、柔らかい感触が陸を包む。
虎子の手が陸の背に回される。
きつく抱き締められていると陸が悟る前に、虎子は彼の耳元に囁いた。
「……ありがとう、陸くん」
そして次の瞬間、陸はあっさりと意識を失っていた。
虎子は苦笑を浮かべながら、陸の首筋をこつんと叩いた。
陸はあっさりと気絶して、虎子は苦しそうに微笑んで、彼の頬を突いた。
「うん、そうだね。……好きだから強くなれるんだね、きっと」
溜息を吐いて、虎子は目に浮かんだ涙を振り払う。
悔いをたくさん残していこう。
忘れるくらいだったら死んだ方がましだと……今なら、思えるから。
『いいのかな? 恋をしたままの死神は……冗談抜きで本当にきついよ?』
「かまいません」
どこかから幻聴が聞こえる。
死神となる人物が、『死神』を失効することになるまで付き合う声。
「貴女が聞こえるってことは、お兄ちゃんは死神をやめたんですね?」
『うん。……まぁ、元々才能がなかった子だったし』
「で、次は私というわけですか?」
『そういうことだね。やめたきゃやめてもいいけど』
「断ります。妹や弟に死神なんてものを見せたくないし……なにより、今はそんなことを議論している暇はありません」
虎子には未来が見えている。
正確には未来ではなく、確定していない可能性。
それが現実になろうとしていることを、虎子は知っていた。
直感が教えてくれる。世界の危機とか、崩壊の序曲とか、絶望による終末とか……そういった『邪悪感知能力』を、死神は生まれながらに有している。
いや、正確には。
『そうね、貴女には才能がある。……なんせ、死神とは元々《女性》なのだから』
男はどう足掻いても、厳密には死神にはなれない。
女の死神こそが……最初の彼女を、『死神壱子』の能力を継承できる。
女性でなくては継承はできないのだ。
『では、行きましょうか。……貴女の名前は死神零子。ただ愛のために生まれ出て、役目を果たして終わる零』
「理解しました。……では、惨殺に向かいます」
竜胆虎子は、この時点から死神零子になった。
死を告げる化け物に、なってしまった。
「……ばいばい、陸くん」
一瞬だけ後ろを振り向いて、零子になってしまった虎子は目を閉じる。
最後に陸の頬を優しく摘んで、
夢のような日々を終わりにした。
かくてここに、世界最強にも匹敵し、伝説すらも叩き伏せる死神が誕生した。
認めてたまるか、そんなもん。
血を吐いて立ち上がった少年がいた。
彼は根っからのお人好しで、状況に流される男の子で、彼が大切にしようと思っているものはみんな彼を置いて行ってしまうという奇妙な宿縁を持つ少年だった。
「………ぐっ……づ」
歯を食いしばる。なにもかも終わった後で、物事を適当に諦めてきた少年は、生まれて初めて死ぬほど後悔した。
己の無力がこれほど悔しかったのは、生まれて初めてだった。
「ああ……そうかよ」
拳を握り締める。
血が滲むほど握り締めて、彼は……空倉陸は体を起こす。
「執事長も兄ちゃんも、こんなものに耐えてきたってコトかよ」
諦めてきた。
笑って誤魔化してきた。
自分には力がないからといつだって諦めた。
諦め続けてきたはずなのに陸は怒っていた。歯を食いしばりながら、怒っていた。
彼の言葉を思い出しながら怒っていた。
『確かにね、虎子ちゃんの笑顔は偽物かもしれない。彼女の本質は死神で誰かを殺すのがお仕事で、本当の彼女は今の彼女じゃないのかもしれない。……それでもさ、僕は思うんだよ』
そう、彼は寂しそうな苦笑を浮かべながらそれでもきっぱりと言ったのだ。
『あの笑顔が本当になったら……どんなにいいだろうって思ったんだ』
馬鹿な考えかもしれないけどね、と彼は苦笑した。
陸は笑わなかった。笑わずに、なにも言わずにただ唇を噛み締めた。
言うまでもなく、陸もそう思っていたからだ。
空倉陸は恋する少年である。好きになった相手は色々な因果を抱えている少女であり、偽物の笑顔を浮かべて、胸に開いた穴と共に生きているような女の子である。
その偽物に惚れ込んだ。本当に綺麗だと思ったから好きになった。
「……ちくしょう」
好きな人を助けられないことが、これほど悔しいことだとは思わなかった。
想いに応えてもらおうとは思わない。自分はまだ中学生で、高校生の虎子にはもっといい相手がいると思っていた。自分よりも漢気溢れる男がいるのだと思っていた。
本当はずっと自分の側にいて欲しいと思ったけれど、口には出さなかった。
なのに――――彼女は寂しそうに笑って、ありがとうと言った。
ふられた方が百倍ましだった。
自分以外にあの綺麗な笑顔が向けられるのはしゃくだったけれど、ふられたのなら諦めがついた。
でも、そうじゃなかった。
彼女は単に……自分がどういう存在なのか薄々感づいていたから、人と距離を取ろうとしていただけだった。
空倉陸は怒っていた。
彼女を追い込んだ全てと、自分の無力。とにかく虎子を追い込んだ全てに対して怒りを向けていた。
少年の心にくすぶっていたものが燃え上がる。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
声の限り、叫ぶ。
そんなことをしたのは子供の頃以来だったけれど、陸は叫んだ。
他の事は諦める。自分も他人もどうでもいい。
あいつが笑ってくれるなら――なんだってやってやる。
叫び続けて、少年は当たり前のように覚悟を決め、決意を固めた。
そして彼は、この時から好きな女を幸せにするために努力と工夫を開始する。
少年は変わる。絶望と失意から生まれ出た真なる怒りと共に、彼は漢になっていく。
彼が掲げることになる御旗は、正義でも希望でもましてや悪を倒すことでもなく、
ただ一人の女を幸せにすることだった。
かくて、彼の物語は始まりを告げる。
高貴なる甘き騎士団。通称、インペリアルクリームナイツ。
今より五年後に結成されるその騎士団は、甘い甘い理想と建前を守るために作られし騎士たちの軍団であり、その中でも最強と謡われた上に団員から恐れられ、本人が嫌がるのにも関わらず無理矢理騎士団長を押し付けられた騎士にして紳士がいた。
彼の名前を空倉陸という。
この物語は、婚約者に害になるかもしれないという理由だけであらゆる悪や絶望を叩き潰すことを一瞬で決意することになる、一人の騎士の物語である。
番外編終章『空倉陸の告白』END
最終話中編『さよならコッコさん』に続く
あかい、あかい、世界。
それが少年の世界。少年が見る世界。
真っ赤な世界。
なにもかもが終わった時、少年はその世界を直視する。
次回、最終話中編『さよならコッコさん』。
貴女を、解雇します。