最終話前編 足掻きと叫び
終わりの前。終わりの始まり。物語の終わり。
そして、彼女の決意が全てを殺す。
リミッター解除。少しだけ長めなのでご注意を。
格好良くなんてない。
無様でみっともないことしかない。
それでも、いつだって血路を開くのは。
格好悪い普通の誰かだった。
「……それで、キミは結局誰のことが好きなのかな? キツネくん」
教習所に通っていないくせに、恐るべきハンドル捌きを見せるあくむさんは、華麗なるステアリング操作と共に前の車を追い抜きながらそんなことを聞いてきた。
俺は助手席のシートに体を沈めながら、きっぱりと答える。
「みんなが好きです」
「ボクが聞いてるのは、『好きな女の子』って意味だけど」
「俺が答えてるのは、『好きな女の子』って意味だ」
「………………サイテーじゃね?」
「自覚はあるつもりだけどな」
深々と溜息を吐きながら、俺はちらりと窓の外を見る。
雲一つない夜空は、なんだか不気味に静まり返っていた。
「知ってるさ。男が幸せにできる女の子はたった一人だけで、それに逆らうと酷い目にあうってことくらい、友人とあくむさんの所有者を見てるから、よく知ってる」
「ふむ、透君が所有者とは言いえて妙だね。……まぁ、それはともかく、誰か1人を好きになることの大切さを知ってるなら『みんなが好き』というのはやめておいた方がいいんじゃないかと忠告するよ。なんせ、白の彼も透くんも女性関係でいっぱいいっぱいだからね。あれは正直、見てて肝が冷える」
「………………」
正論になにも言い返せず、俺は口を閉ざす。
それは、嫌ってほど分かっている。分かっているけれど、どうしようもなかった。
この心が叫んでいるのだから、どうしようもない。
「……嫌だったんだ」
「ん?」
「頑張ってる誰かがないがしろにされることに、耐えられなかったんだよ」
当たり前のものを欲しがっている人に、当たり前が与えられてもいいじゃないか。
頑張ってる人が、頑張ったぶんだけ報われてもいいじゃないか。
俺のやってきたことは結局、みんなにとってどうでもいいことかもしれなかったけれど、それでも――――なにもせずにはいられなかった。
「頑張ったのに報われないなんて――――そんなの、寂しいじゃないか」
才能がないと諦めてきた。
でも、俺の側にはいつも誰かがいた。
誰かがいたから、諦めても諦めても諦め切れなかった。努力を続けてこれた。
じゃあ――もしも側に誰もいなかったら?
もしも、俺は独りで、誰もいてくれなかったら?
独りでも生きていく自信はあるけれど……寂しさに耐えるよりは、誰かと傷つけ合いながら生きて行く方が100倍ましだ。
きっとそれだけは……正しいことだと信じている。
「……まぁ、そうこうしてるうちに情が移っちゃって、『みんな好きだ』とか断言できるようになっちゃったのはかなりアレだけどな」
「………………」
あくむさんは、黙って俺の言葉を聞いていた。
なんだか上機嫌そうに口元を緩めているだけだった。
「……キツネくん」
「なんですか?」
「これが全部終わったら、キミは女の子と付き合ったほうがいい」
「………………え?」
意外な言葉だった。意外すぎて、ちょっと唖然とするほどに。
あくむさんは上機嫌そうに笑いながら、口を開いた。
「キミは自分がだらしないヤツだから、何人かの女の子を好きになれてしまうようなヤツだから『誰とも付き合う資格がない』と思い込んでいるようだけどそれは違う。キミは『頑張ってる誰かを好きになれる』ってだけで、少なくとも、ボクや透君なんかよりは余程上等な人間なんだよ。……キミ自身に自覚はないみたいだけど」
「……そんなことは」
「ない、とは言わせないよ」
あくむさんは、なんだかぼんやりとした表情のまま、当たり前のように言った。
「なぜならば、キミは誰かが好きだと言えるから」
俺は黙った。なにも言えなかった。
あくむさんはハンドルを切りながら、茫洋と話し続ける。
「ボクは最後の最後まで彼に好きだと言えなかった。透くんは最初から最後までボクのことが嫌いなつもりで、本当は好きだったくせに最後まで拒絶してくれた。ボクは臆病だから透くんを壊して、透くんは臆病になったからボクを拒絶した」
「………………」
「今は、そんなでもないけれど……昔はそうだった」
思い出したくないことでもない、ただの事実の確認のようだった。
あくむさんは少しだけ溜息を吐いて、僕のことをじっと見つめる。
「キミは……みんな好きだから迷ってるんだろ?」
「…………ああ」
「迷うんだったら、わがままを通してしまえばいい。誰か一人に限定しろだなんてね、結局は女の嫉妬と男の独占欲が勝手に決めた『暗黙の了解』なのさ。……だからね、我がままを通したければ、全員を納得させればいい」
あくむさんはその名の通りにニヤリと笑い、きっぱりと言い放った。
「人として最悪でも、生き様として最低でも、全員幸せにしてみせろ」
それはまさに、悪魔の囁きだった。……まぁ、悪夢の囁きなんだから似たようなものかもしれないけれど。
ほんの少し呆れて、ほんの少し感心して、俺は口元を緩めた。
「……考えときます」
「うん、そうしておいてくれ」
「考えるだけで結局やめる可能性もありますけどね」
「ああ。決めるのは結局君だからね」
「……あくむさんって、わりといい女だったんだな。正直見直した」
「ふふふ、ボクの美貌は、また男を1人狂わせてしまったようだ」
「………………や、どう足掻いても絶対に惚れないぞ? この際はっきりと言っておくが、俺が好きなのは働く女性であって、アンタみたいなニートじゃねぇ」
「真顔できっぱりと断言されると、かなりへこむねぇ」
ニヤニヤと楽しそうに笑いながら、あくむさんはさらにアクセルを踏み込む。
後ろからファンファンという嫌な音が聞こえてきたけれど、気にしないことにした。
空間遮断が行われることは、折り込み済みだった。
だからこそ、死神を始めとした『精鋭』たちは地上から空間遮断を破って直接強襲し、この事態を引き起こした女を射殺する予定だったのである。
万が一失敗しても、後から来る空挺部隊が、数という名の最強戦力を持って屋敷を制圧するはずだった。
どんな人間であろうとも、数を頼りに攻め込まれたらどうしようもない。
しかし――――今、精鋭たる彼らに出来ることはなにもなかった。
正確には、なにもさせてもらえなかった。
スウェーバックからの踵落とし。少女が放った一撃は敵の顔の急所を打ち砕き、あっさりと戦闘不能に陥れる。
「これで10人、と。……やれやれ、パパも無茶な敵に目をつけられたもんね」
後に無双乙姫と呼ばれることになる少女、橘美咲は後ろで温めた紅茶を飲んでまったりしている相方を見て、こっそりと溜息を吐いた。
「……つーかさ、のぞちゃん。アンタも働こうよ」
「いやー、最近喘息がきつくて」
「はいはい」
頼りになるようでならない相方を横目に、美咲は奮戦を続ける。
この少女、勉強はともかく体を動かす方はとにかく物覚えが早い。もっとも、美咲本人の飲み込みが早いというわけではなく、単純に美里のスパルタ教育の賜物である。
普通のトレーニングと、命を賭けた地獄の修練。どちらが必死になるかなど言うまでもない。
もっとも、彼女はまだまだ成長段階であり、自分のペースで戦うのならまだしも相手のペースに引き込まれると案外もろい一面を見せる。
(大人にも勝てるのに、パパに勝てない理由がそのあたりなのよね……)
つまりはちょっと賢い大人には勝てないということなのだが、その辺りは美咲も自覚している。
自覚をしていたから、ほんの少し戦って『強い』と感じたら後ろに下がるようにしていた。
その瞬間に、嵐が吹き荒れる。
ただ格闘がほんの少しだけ大人に匹敵するくらいの美咲が、なぜここまで銃を持った敵と渡り合えるかというと、それは相方がいるからに他ならない。
真紅の髪に、同色の瞳、病弱そうな白い肌。まるで漫画か小説から出てきたような、可愛らしい顔立ちがかなり羨ましい相方。
彼女が銃と美咲より強い相手を倒してくれるから、美咲はなんとか戦える。
相方の名前は、高倉望。後の『史上最強』である。
その最強は銃を持った相手を全て吹き飛ばし、ついでに銃を拳の一撃で全てへし折ると、不意に顔を青ざめてその場にうずくまった。
「………けほっけほっ……う〜しんどい」
「サンキュ、のぞちゃん。後は私に任せてまた休んでて」
「うん。……任せる」
席をしながら再び座り込み、紅茶を飲んで一息吐く望。
こうやって一緒に並んで戦ってみるとよく分かる。望は確かに規格外に強すぎるが、その性能を病弱さが邪魔をしている。
(……やれやれ、なんつーか……パパがのぞちゃんに甘い理由も分かる気がするわ)
誰かに大事にされないと生存すら難しい子もいる。
独りで生きていくことすら許されない子もいる。
でも……誰かと一緒に生きていくことは、意外と楽しいことだって教えてやれば、ほんの少しでも痛みを和らげることができるんじゃないかって、そう思う。
彼はそう言ってから、望と友達になってくれないかと美咲に言った。
言われるまでもない。
病弱だとか最強だとか、そんなものは関係ないのである。
あの執事の主になる自分が、年下の女の子を大事にできないなんて、そんなふざけたことを許すわけには行かない。
どんな苦境であろうとも、この心が叫んでいる。
守れと。
自分の大切なもの全てを守るんだと。
「なんだ……なんなんだ、お前らはっ!?」
訓練を積んできた兵士の一人が叫ぶ。
たった二人の少女に圧倒される。そんなふざけた事実を彼は信じられなかった。
キック一発で彼を吹き飛ばし、美咲は口元を緩めた。
「覚えておけ、下郎ども。……私の名前は橘美咲。魂の覇者たる主になる者」
「跪きなさい、愚民ども。……私の名前は高倉望。ただの兄ラブで真っ赤な妹」
「……のぞちゃん。その名乗り、メチャメチャ恥ずかしいわ」
「目標は、お兄ちゃんよりいい男を見つけることよ」
顔を真っ赤にしている美咲とは対照的に、望は至極真面目だった。
が、今は戦闘中である。二人はすぐに真顔に戻ると、波状挟撃を仕掛けてきた敵と相対する。
「……ところでのぞちゃん。私、そろそろ拳が限界っぽい。痛い」
「うん、私もそろそろ喘息がしんどい」
「やっぱアレかな」
「アレだね」
二人はにやりと笑うと、足元に転がった銃を手に取る。
相手は1人という想定のため、戦争で使用されるようなサブマシンガンではなくごくごく一般的な自動式の拳銃ではあったが、二人にとってはそれで十分だった。
「とりあえず、貧弱な私たちは近代兵器に頼りましょうか」
「異議なし、賛成」
二人は悪魔的ににやりと笑うと、敵に銃を向けた。
戦闘が終結したのは、その十分後のことである。
第五戦:精鋭兵団VS橘美咲&高倉望
戦力比:1対32(美咲:2、望:30)。
特記事項:武器『拳銃』の使用により、美咲&望の戦力比に+6
修正後戦力比:1:38(美咲:5、望:33)
戦闘結果:死傷者0。圧倒的勝利。
物語にもならない、小さなエピソードがある。
女の子は猫が大好きだった。大好きだったからこっそり飼っていた。悪いとは分かっていたけれど、どうしても放っておくことができなかった。
が、不意にその猫たちは姿を消した。箱ごと消えたので飼い主が見つかったと思いたかったが、かくまったのは屋敷の敷地内である。
庭を荒らすと十字架に吊るされるような屋敷である。近隣の住人は屋敷には近寄ることもしないが……かといって、庭には鳥一匹近寄らない。
もしかしたら、三匹でどこかに行ってしまったのかもしれないと少しだけしょんぼりしながら彼の部屋を訪れると、猫たちはそこにいた。
彼はなにも言わずに、猫たちにミルクをやっていた。
口元を引き締めて、目を細めて、なんだか複雑そうな表情で猫たちを見つめていた。
冥に気づくと顔を上げて、苦笑を浮かべた。
「…………冥さん」
「はい」
返事をすると、彼は冥のおでこをぺちりと叩いた。
彼に叩かれたのはそれが初めての経験で、全然痛くはなかったけれど、なんだかものすごく申し訳ない気分になった。
「……坊ちゃん?」
「うん、ごめん。……なんとなく、ね」
寂しそうな表情を浮かべて、彼は冥の頭を撫でた。
怒ってはいない。……怒ってはいないのだが、彼はいつも通りには笑えなかった。
なんだか辛いことがあって、苦しいことがあって、笑えていなかった。
その時、冥はなんとなく思った。
彼は強くもなんともない。
ただ……やせ我慢が得意なだけの、普通の男の子じゃないかと。
努力が行き過ぎて、色々なことを知ってしまっただけの、本当は誰よりも寂しがり屋な男の子なんじゃないかと。
飼いたいけど、飼えない。
助けてあげたいけど、助けられない。
言葉にならない苦痛を我慢するように、少年は苦笑を浮かべる。
冥は彼がそんな表情を浮かべることに耐え切れなくなって、彼の手を掴んだ。
「……あの、坊ちゃん」
「ん?」
「…………ごめんなさい」
怒られると思いながら、冥は頭を下げた。
しかし……彼はきょとんとしてから、苦笑を浮かべて言った。
「なんで謝るのさ?」
「………………え?」
「冥さんは正しいことをしたんだから、謝ることなんてないよ」
そんなことをいいながら、彼はいつも通りの笑顔を浮かべて、髪を梳くように冥の頭を優しく撫でた。
「大丈夫、ネットを使えば飼い主くらいすぐに見つけられる。なんにも心配することなんてない。……まぁ、ちょっと寂しいのは我慢してもらわなきゃいけないけど」
「…………はい」
頷きながら、冥はミルクを飲む子猫たちを見つめる。
確かに寂しい。なぜ自分にもっと力が無かったのかと悔やまれて仕方がない。
……それこそが、彼がいつも感じている無力感や諦観や後悔なのだと、冥はその時初めて知った。暖かな掌で自分を撫でてくれる男の子の……痛みを、知った。
知ってしまったから、覚悟を決めた。
覚悟が決まった。
かくて、少女は右手に剣を左手に刀を携え、執事と対峙することになる。
少女こと黒霧冥は、変わろうとする女である。
基本的には怠け者で甘えん坊なのが彼女の本質ではあるが、『そんな本質など知ったことか』と、自分自身の甘えや優しさを全てぶっ飛ばすような、まるで正義の味方のごとき《応用的》な努力を彼女は始めている。
双刀剣を構えながら、冥はゆっくりと息を吐いた。
絶対的とも言える、圧倒的不利な状況。力量は歴然。一対一で絶対に邪魔が入ることはないという事実は……つまり、救援が絶対に来ないことを指している。
それでも、怯むことなどない。
勝ち目など絶無であっても、やらなくてはならないことがある。
負け戦であろうとも、なんとしでも足掻いて進まなくてはならないことがある。
彼はそれを教えてくれた。
その態度で、その背中で、その歩みの中で。
だから冥は迷わない。かくあるべきと定めし道を、彼女はとうに見つけている。
「……解せんな、小娘。お主……どうして盲目的にあの小僧を信じられる?」
「信頼に足る人だからです。それ以上でもそれ以下でもない」
刀を逆手に握り替え、冥はきっぱりと断言する。
「それ以上あの人を侮辱してみなさい。私はどんな手段を用いてもあなたを殺す」
「やれやれ……」
老紳士は溜息を吐きながら、腰に差した日本刀の鞘に片手を添える。
「私も歳かな。……恋が盲目であることをすっかり忘れているとは」
「歳でしょうね。長く生きているからといって、たかが『経験』を積んでいるからといって、自分を意識無意識関わらず《えらい》と思い込んでいるような老人には、若者の恋心など淡くて遠い思い出でしょうに」
「…………お主、さりげなく毒舌だな」
「女性の99%は、口に出せない毒を抱えて生きているものですよ」
そう言いながら冥はさりげなく一歩を踏み出す。
スミスはさりげなく一歩下がった。
「……言っておくが、それ以上踏み込んだら斬るぞ」
「ええ、そうでしょうね」
「死ぬのが怖くないとでも言うつもりか?」
「いいえ。死ぬのは怖い。……でも、あの人が泣きそうな顔をしているのを見るのは、もっともっと辛い。だから戦う。それだけのことよ」
「…………分かった」
老紳士はゆっくりと息を吐き、冥を睨みつけた。
「三条院家執事、スミス=ロードバトラー……参る!」
冥は目を細め、口を開く。
名乗りを受けたら名乗りを返す。それこそが、全てに通じる礼儀と知っていたから。
「我が名は黒霧冥。……彼が為の侍従にして、心に御旗を立てる者っ!」
そして少女は名を名乗る。
高らかに、堂々と、世界に自分自身を宣言した。
山口コッコという偽名を投げ捨てた月ノ葉光琥は、内心で歯噛みしていた。
秘儀は既に起動している。もう時間転移は確実に実行されることは決定済みだ。今から庭を壊そうが、なにをしようが光琥が時間を越えることを止めることはできない。
しかし、たった一つだけ光琥を止める方法があるというのなら、それは――――。
「…………っ」
指を浅く切って、光琥は舌打ちをした。
周囲には目に映らないほどの細いワイヤーが張り巡らされている。
以前と違いその量が尋常ではなく、下手に動いたりしようものなら確実に腕か指くらいは落とすことになるだろう。
だが、縦横無尽に張り巡らされた糸の中で、舞は自由に動き回っている。
空間包囲・死線錯綜。
その技法には、そんな名前がついている。
舞にとっては、むしろ『技』と呼ぶことすらおこがましい児戯にも等しい技術ではあるが、それでも足止めと体力を削るのには十分に役立つ。
(……少なく見積もって、あと5分くらいかな)
手持ちの糸を全て使って、舞は本気で光琥を殺すつもりだった。
彼女自身、なぜ自分がそこまで必死になるのかよく分かっていないが、胸の奥から湧き上がる苛立ちと焦燥は、既に抑え切れないくらいになっている。
(今回ばっかりは、絶対に許してなんてやらない)
あのぼんぼん……いや、彼のことを舞は思い出す。
坊ちゃんと呼ばれていたくせに、本質はぼんぼんでも坊ちゃんでもなかった彼は、ようやく重い腰を上げて、みんなのためじゃなく少しだけでも自分のために生きようとしていた。
みんなにとっての『主』ではなく、一人の人間として歩こうとしていた。
舞にとって……正直それは嬉しいことだった。
これでようやく、負い目も無く敬語を使うこともなく、普通に話したり笑ったりできるとそんな風に思っていた。思っていたが……舞は気恥ずかしさからそれを絶対に口に出すようなことはしなかった。
彼のことを好きか嫌いかと言われたら絶対に嫌いだと答えるだろうし、どこが嫌いかと言われれば嫌いなところを十箇所以上挙げることもできる。
それでも……舞は気づいていない。
それを本人に気軽に言えてしまうことの、意味を。
冗談交じりに、嫌いに決まってるじゃないと誰かに言えてしまうことの意味。
笑いながら、からかったりからかわれたりを繰り返していた意味。
本当は意味なんてないのかもしれないが……ただ一つだけ断言できることがあるとすれば、それは心の底から楽しかったということだけだ。
その日々が壊れるのは仕方がないと割り切っていた。彼と同じように、舞もいつもと同じく楽しい日常が長く続くとは思っていない。
だから、本当は苦しかったけれど、笑顔で耐えることができた。
最後まで笑顔でいたいと思っていた。
(……ま、いつかはこういう日が来るとは思ってたケド、ね)
3分が経過。そろそろ相手が痺れを切らす頃だと思い、舞は神経を集中させる。
と、同時だった。
「……来なさい、『飛燕』」
細い声が響くと同時に、舞と光琥を包んでいる糸の一部が断線する。
張り巡らせた糸じゃ防御は無理だと踏んで、舞は横に跳躍。それと同時に空気を切るような音が響いて、今まで舞がいた場所をなにかがとてつもない勢いで通り過ぎた。
そのなにかは勢いを保ったまま光琥を取り囲んでいた糸を切り裂き、彼女の手に収まった。
普段彼女が持っている鋏ではない。無骨で長大な、人の首程度だったら簡単に刈り取れそうな大鋏。長さは二メートル。その内の1メートル70センチまでが刀身で、材質は舞にもよく分からない。
錬金術を極めたとされる月ノ葉一族は、決して壊れない鉄を用いるからだ。
明らかに、現代の技術を越えている。
が、そんなものに頓着する舞ではない。にやりと不敵に笑いながら彼女は敵を見据える。
「……なるほど、山口さんって磁石だったんですねェ? それなら、鉄みたいなかた〜い人たちを惹きつけちゃうのも納得っていうかなんていうか。まぁ、具体的には坊ちゃんとか冥ちゃんですが」
「この状況で軽口が叩けるのは感心しますが、これで貴女を守るものはなにもない」
「確かに、近接戦闘じゃ山口さんに分がありますからねぇ」
あっさりと認めながら、舞は光琥を見つめる。
「でも、そんなことは今の状況下じゃ関係ないんですけどね」
そして、舞は光琥に向かって走り出す。
「っ!?」
意外な舞の行動に一瞬面食らって、光琥の反応が遅れる。
その間に、舞は光琥の間合いの中へと侵入する。手には手袋を嵌めているだけで、なにも持っていない。
素手と武器を持っている光琥の、どちらが有利かは言うまでもない。
光琥は己の手にある飛燕を振り上げようと手首を捻り、そこでようやく悟る。
「はい、そういうことです。『死線錯綜』は元々余技みたいなものでしてね、相手の動作を極端に制限するための……そういう技術なんですよ」
いくら一部を切り裂いたとはいえ、全てではない。
二メートルもある大鋏だ。振り回せば、残った糸に引っ掛かるのは道理。
そして、己が張った結界の全てを理解することなど舞にとっては造作もないことだ。
「付け加えるなら、私が糸を持っていなくても、今の状況なら、糸なんてそのへんにいくらでもありますし……ね!」
舞は張り巡らしておいた糸の一部を走りながら回収し、光琥の間合いに入りこんだ。
近接戦闘の間合い。互いに拳が届く距離。
光琥はあっさりと大鋏を捨て、ホルスターからいつもの鋏を引き抜いた。
「せああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
鋏を舞に向かって放つ。古木の太い枝程度なら楽に切断できるほどの鋭さを誇る一撃は当たればほぼ致命的であるが、舞は避けようともしない。
代わりに、右手に握りこんだ糸を解き放つ。
「っ!!」
光琥は慌てて腕を引き、それから一足飛びに後ろに下がる。
下がる時に糸に引っ掛かり、浅く足を切ったが気にしなかった。
「……なるほど、坊ちゃんが貴女を高く買っていた理由が分かったような気がします」
血の流れる腕を押さえながら光琥は口元を引き締める。深手ではないが、放っておいていいものでもない。
あの一瞬、鋏をくり出した一瞬を突いて、舞は光琥の腕に糸を巻きつけた。
「貴女は本当になんでもできる。……背筋が少し寒くなるくらいに」
「つまんない感想ですね♪ 人柄が知れるっていうか、人間の器が知れるっていうか、そんなつまんないことにこだわってるからなにもかも見逃すんですよ♪」
完全に馬鹿にしきった口調で、舞は光琥を嘲笑う。
「なんでもできる? それがなんなんですか? そんなの山口さんだって同じじゃないですか。仕事やらせればなんでもできるくせに」
「……そんなもの、大した自慢にもなりません」
「………………」
舞は、ここで取り繕うのをやめた。
馬鹿にした笑いを浮かべるのをやめた。道化をやめた。
ふざけるのをやめた。
大きく息を吸って、彼女は彼女らしく怒りと共に咆哮を上げた。
「そんなことだからふられるんですよ、このばか女っ!!!」
烈火のごとく彼女は叫んだ。なにもかもを吹き飛ばすような怒声が響き渡る。
「なんでもできるくせになんにもやらないから、周囲を呆れさせてたことにどうして気がつかないんですかっ!! そのくせ、あいつには我がまま放題し放題で甘えっぱなしで気を許し放題で……アンタ、本当の馬鹿女じゃないですかっ!?」
「……なっ!?」
「それでふられたから自棄になって、拒絶されたからって全部なにもかも壊そうだなんて、ワールドチャンピオン級の馬鹿じゃないんですかっ!? そんなことをする前に、社会人としてやることがあるでしょうがっ!!」
戦いが強くても、なんの意味もない。
素晴らしい技術を持っていても、発揮しなければ意味がない。
誰かのために尽くそうとも、独りよがりでは意味なんて生まれない。
舞にはそれが痛いほどよく分かっていた。冥が来るまでずっと独りきりだったからこそ、ずっと孤独だったからこそ、そのことをよく分かっていた。
「誰かに甘えて生きるのもたいがいにしなさいよ、この馬鹿女! そんなことだからあいつにもふられるんです!」
「…………私は、ふられてなんて」
「ふられたじゃないですか。それともなに? まだ『私は彼のことを男として見てません』とか寝言ほざくつもりですか? まぁ、人と触れ合う努力もしないような山口さんに、あいつが振り向いてくれるわけないんですけどね」
「………………っ」
込み上げるものがあった。
心の底から、仄暗いものが込み上げてくる。
それは誰もが持っているもの。心の底に巣食う者。当たり前のように存在する感情。
人の敵。それは、全ての人間が等しく戦っていかねばならない相手である。
ギチリ、と心が軋みを上げる。
分かっていたことが一つだけある。
分かりきっていたことが一つだけある。
(結局のところ……私は、自分勝手な人間だから)
自分だけを見て欲しい。
他の誰かと話して欲しくない。
そんな当たり前な『嫉妬』に……光琥は耐え切れなかった。
だから人と触れ合わなくなった。自分が身勝手だから、身を引いた。
諦めた。
「……私は」
血がにじむほどに拳を握り締める。
光琥は今にも泣き出しそうに顔を歪め、舞を睨みつけた。
「舞さん。……貴女は強いから、坊ちゃんみたいに強いから……そんなことが言えるんです。自分自身のエゴに耐え切れない人間だって、たくさんいるんですっ!! みんながみんな貴方たちみたいに強くなんてないっ!!」
その心からの叫びを、舞は鼻で笑う。
嘲笑した。
「強い? 私とあいつが? ……ハ、勘違いもいい加減にしてくださいよ」
似た者同士かもしれない彼女は、まるで本気の彼のように笑った。
ふてぶてしく、不敵に、まるで世界最強のように、笑った。
「私たちはただ、泣きたい時に泣かない努力をしてきただけだ」
辛くても笑った。
泣きそうになっても泣かなかった。
彼の笑顔も、彼女の笑顔も、人に向けるためのもので、自分の笑顔じゃなかった。
長年そんなことばっかり続けてきたから、それがまるで習慣のようになってしまって、いつだって笑うようになった。
それでも……たとえ嘘の笑顔であっても。
あの屋敷での日々は、きっと心の底から笑えるくらいに楽しかった。
「下らない自分だけれど、醜い自分だけれど、それでも私はここにいる」
「………………」
「山口さんに、あいつを否定する権利なんてない。今のあいつは、あいつ自身が選んで創り上げてきた『自分自身』だから。それを否定することは、冥ちゃんや京子さん、チーフや他のみんなも否定することになるから」
「………………」
「私は……あいつがくれたこの日々を、一生忘れない」
決意を秘めたまま、黒霧舞は右腕を振るう。
たったそれだけで、飛燕に切り裂かれたはずの糸が一瞬で周囲に展開された。
「行きますよ、山口さん。……私は、私のために、あの日々を忘れたくないから貴女を殺します」
「…………そう」
光琥はゆっくりと顔を上げる。
疲れ切った表情を浮かべて、光琥は溜息を吐いた。
「……舞さん」
「なんですか?」
「さよなら」
苦笑を浮かべながら、光琥は鋏をホルスターにしまう。
「飛翔しろ……『飛燕・鶴翼』」
そして、ただの我がままを押し通すために、全力を振るうことにした。
どんな裏技を隠し持っていようが、剣の道は甘いものではない。
たかが棒切れ一本。しかし、有史より現在までそのたかが棒切れが戦況を決めてきたことなど腐るほどある。
ただの棒切れに宿った覚悟が、数段上の相手を倒すのをスミスは見たことがある。
だからこそ、油断も手加減もしない。同格の相手として、冥を扱った。
距離は3メートル。お互いの間合いの外。
しかし、執事は躊躇無く、そこから必殺の一撃を放った。
飛刀・一閃。
居合いの鞘走りの速度を保ったまま、刀を相手に投げつけるという、技と呼ぶことすら躊躇われる外法の業。
かつての弟子であった鞠にすら見せたことがない、奥の手の一つである。
だが、冥は迫り来る刀を避けようともしない。
右手に握った剣を正眼に構え、目を細めるだけだった。
「はっ!」
そして、迫り来る刀に合わせ、剣を一閃させる。
流れる水のごとき一閃が、刀の向かう方向をずらした。方向を逸らされた刀は、冥の脇を通り過ぎ、近くの木に突き立った。
二刀流の使い方は大きく分けて二つ。一つは、『二刀』という利点を持って相手に反撃を許さずに斬り捨てる『先の先』タイプ、そしてもう一つが一刀を盾として用い、相手の攻撃を防いだところでもう一刀で斬り捨てる『後の先』タイプ。
言うまでもなく系統立てて説明すればさらに細分化されるが、冥の二刀流はどちらかと言えば後者に分類される。
前双剣『夜白』。盾としての役割を担う護剣。
飛刀を切り払った冥は一気に攻勢をかけるために走り出す。
相手の手に武器は無い。ここで倒さなければ勝機は去って行くだろう。
相手の手に、武器がなければ。
「…………っ!?」
「甘いな、小娘。その甘さこそ、剣を『剣』としか見ていない証」
スミスの手には、刀を納めていた鞘が握られている。
白木拵えの鞘ではあるが、言うまでもなく剣の熟練者が振るえば十分に人を殺傷せしめるだけの威力を持つ。
だが、冥は足を止めなかった。
「せやああああああああああああああああああああっ!!」
「むんっ!!」
スミスは剣の一撃をかわし、白木の鞘を冥の脇腹に叩きつける。
冥は避けなかった。あえてその一撃を受ける。
「…………っ」
ゴキリという肋骨が折れる音が響いた。
しかし、この程度はやってみせなくては不意は打てない。
そして……ここが勝機だった。
「ふっ!」
呼気を放ち、逆手に持ち替えた後双刀でスミスの首筋を狙う。
狙いは完璧。相手は攻撃をした直後であり、冥の一撃は止まった相手を仕損じるほどやわではない。
「……だから、甘いと言うんだ小娘」
寒気と共に声が聞こえた。聞こえないはずの声が、響いた。
必殺のはずの一撃が止まる。止めたのは執事で、彼は口元を歪めたまま、冥の手首を握っていた。
「武器に頼りすぎなんだ、貴様は。……そんなことで主を守れると思うたかっ!!」
鈍い音が響いて、ただの握力だけで手首が折れる。
折れた腕を捻り上げられ、地面に組み伏せられると同時に左腕が折れた。
が、冥は組み伏せられた状態から思い切り体を跳ね上げ、スミスの頭部に思い切り頭突きを入れる。鼻が砕ける音が響いたが、冥は気に留める余裕もない。
地面を転がってようやく脱出し、冥は荒い息を吐いて立ち上がる。
スミスは折れた鼻を元に戻しながら、にやりと笑っていた。
「さて、どうする小娘。お前は負けたぞ」
「………………」
「これ以上戦ってもお前は私には勝てない。武器に頼りきり、武器での攻撃を前提として戦うお前は私には勝てない。……その違いが分かるか? 小娘」
「………………」
冥は考えた。ほんの少しだけ考えて、簡単に結論を出した。
「主に従う者は、我らは己こそを刃とし、主の行く道を切り開かねばならないから」
それが、彼女の結論だった。
守りたいものがあるのなら、自分を捨てろ。
姉は自分のためになにもかも捨てた。立場もなにもかも捨てて、かろうじて自分だけは残したがそれはおまけみたいなものだ。
彼は自分を守るために自分すら捨てていた。いや、正確には自分を含めた『みんな』を守るために、自分を考慮に入れるのをやめていた。
そんな人間を守ろうというのだ。並大抵では済まされない。
報われるなどと思い上がるな。侍従にとって、幸福とは勝ち取るものではない。
本当の侍従は……そんなものでは、ない。
スミスは笑っていた。冥の答えを聞いて、満足そうに笑っていた。
「ならば、今のお前がやることは明白だろう、侍従」
「そうですね」
短く答えて、冥は折れた左腕を抱えて背中を向ける。
「……次は、負けません。誰にも」
「ああ、今は負けておけ」
「…………感謝します。ロードバトラー」
そして、そのまま一気に走り出してあっという間に見えなくなった。
冥が逃げ去るのを見送ってから、スミスはゆっくりと溜息を吐いた。
「やれやれ、あの小娘。躊躇無く逃げおった。……まったく、素晴らしい逸材だな」
完全なる解答。完璧なる逃走。『仕合』には負けたが、彼女は『勝負』に勝った。
スミスを、ここに足止めすることに成功した。
京子と美里を同時に止めるはずだったのに、スミスはここで足止めされ、京子と美里は見事に彼の救援に向かうことに成功した。
はっきり言ってしまえば、完全なる敗北である。
「さてと……この戦、どうやら我が主の敗北のようだが……」
首筋につけられた傷を撫でながら、スミスは満足そうに笑う。
その傷は冥が後双刀でつけた傷であり、もしもあと一寸深ければ、ここに倒れているのはスミスだっただろう。
「最近の若者は……本当に簡単に先人を抜いて行きよるわ」
多少愚痴が混じりながらも、スミスは満足そうに、楽しそうに笑っていた。
折れた左腕を力づくで元に戻し、添え木をして布を巻く。
応急処置は完了したが、骨が折れた箇所が激痛を放ち、熱を持つ。
荒い息を吐きながら、冥は右拳を握り締めた。
「届かない。足りない。私は弱い」
目を固く閉じる。息を吐いて、冥はポツリと呟いた。
「……もう絶対に負けない。主の道を開く淑女に、本当の侍従になってやる」
理想の姿は遠く。
それでも……冥の眼には見えている。
かくあるべきと定めた姿。それが、冥にははっきりと見えている。
冥はゆっくりと目を閉じる。
どうするべきかは決まったので、とりあえず今は眠ることにした。
第一戦:執事スミスVS黒霧冥。
戦闘結果:敗北・生存。
死神礼二は口元を引きつらせながら戦っていた。
(なんつーか……いくらなんでもこりゃねぇだろっ!!)
勝負が着かない。
というか、サレナを最大活用した美里が無敵すぎる。
地面に両足をつけている限り、彼女にはあらゆる攻撃が通用しない。一撃で頭を吹き飛ばしたりできればいくらなんでも死ぬだろうが、格闘術に関して言えば美里は死神よりも上だ。近づくことすらできない。
アウトレンジから無間蟷螂による一撃で美里を倒すこともできるかもしれないが、無間蟷螂を外したらそこで敗北が確定する。それはあまりにもリスクが高すぎる。
完全なこう着状態。おまけに、向こうはまだ奥の手を隠し持っている。
おまけに、目が笑っていないニコニコ笑顔が最悪に怖すぎる。
(……あの坊主、なんでこんなおっかない女どもと付き合っていけるんだ?)
斬られようが怯まず、さらに一歩踏み込んで死神を殴りつけようとする女を、礼二は身内以外には知らない。
3回ほど無意味な斬撃を繰り出したところで、礼二は舌打ちして距離を取った。
「……ったく、洒落になんねぇよアンタら」
「ええ。こちらも洒落で済ますつもりは毛頭ありませんからね」
「………………やれやれだ」
美里を見据えながら、礼二はゆっくりとデスサイズを振りかぶる。
(しゃあない。こうなったら手傷の一つや二つは覚悟で一点突破しかねぇか……)
隊長こと山田恵子は京子とやり合っている。サポートは期待できない。
いや……元より、サポートなどという言葉は死神とは無縁のはずだった。
(……ったく、甘いったらありゃしねぇ。まともに殺せなくなりつつありやがる)
息を吸う。覚悟を決める。覚悟を決めなくてはいけない時点で、既に死神としては失格なのだが礼二はそれでも敵を見据える。
やらなくてはならないのだから、やるしかない。
なにより……これは、己の存在を賭けた戦いでもある。
死神は無言で、一歩を踏み出した。
「ああ、そうそう。……そういえば、もしかしたら知っているかもしれませんが」
美里は笑顔をやめて真っ直ぐに死神を見つめる。
そして……。
「愉快仮面さんの側にいた女の子、そろそろ耐久限度ですね?」
そんなコトを、言い放った。
(………………な)
認識が追いつかない。死神で在ろうとした男は、その一瞬だけなにもかも忘れた。
なにを言われたのか分からない。
耐久限度。……つまり、寿命のことだ。
「……ああ、やっぱり知りませんでしたか」
気がついた時には、美里は必殺の間合いに入っていた。
死神の胸に拳を押し当て、全身の力を利用して拳を打ち出す。
拳はあくまで弾。腕の力で拳を打つのではなく、全身のばねを利用し、さらに回転をかけて威力を倍加させる。……それは、ただの人間が鍛え上げた技法だった。
パァンッとなにかが破裂したような音が響く。それは、美里の足が地面を叩いた音であり、その音に相当する衝撃が死神を吹き飛ばす。
3メートルほど飛ばされて、死神は地面に転がった。
それでも、まだ戦えたはずだった。怪我の程度は肋骨に罅が入ったくらい。無理をすればまだまだ十分に戦える。
……なのに、体よりも先に心が折れた。
「どういう……ことだ?」
「簡単なことです。……彼女は、私たちの世界では『使い捨て兵』だった」
使い捨て。
そんなありきたりな言葉が、胸を抉った。
「信じる信じないは貴方の判断に委ねますが、彼女は消耗品の一つでした。知識だけを与えられて、戦うことが自分の全てだと教えられて誰かのために戦って戦って最低限度だけ与えられた命だけを戦い尽くして……死んでいく」
「………………」
「このまま消耗し続ければ三ヶ月、大事に命を使ってあと四年もつかどうか」
「……なんで、そんなことが分かる?」
「私たちの部隊にも一人いたからです」
「…………そいつは、どうなったんだ?」
「………………」
美里は目を細めて、ゆっくりと溜息を吐いた。
「……残念ながら」
「………………そうかよ」
礼二はゆっくりと立ち上がる。
折れた肋骨が痛んだが、心の空虚に比べればどうってことはない。
デスサイズも仮面も置き去りに、ゆっくりと歩き出す。
「どこに行くんですか?」
「決まってる。こんな馬鹿げた茶番は終わりだ。……もういい。俺は降りる」
「降りてどうするんですか?」
「あいつと一緒に逃げて、四年後くらいに結婚するさ」
なんとなく、分かっていた。
これまで守ろうとしてきたもの。捨てることなど出来ない大切なもの。
けれど……それは全部、自分の手に余るものだった。
借金を返すために今まで人を殺してきて、家族を養うために何人も殺してきて、それに麻痺するかと思ったが全然麻痺なんてしてくれずに、慣れることすらできずに、そのくせいつだって罪悪感は襲ってくる。
壊れてしまえば、いっそ楽になれたのに。
兄を殺したあの女のようになってしまえば楽だったのに。
……なのに、繋がれた手を離せない自分がいる。
自分の手には余るのに、どうしても手を離したくない自分がいるのだ。
心が叫んで絶叫する。
それだけは……手を離したら全部が終わると叫んでいる。
なぜならば、自分はあの子を愛しているから。
「あいつが死んじまうなら、俺が人を殺す意味もない。家族には悪いが……俺はあいつのことが好きなんだよ」
「…………えっと」
「じゃあな、災厄潰し。あの小僧と仲良くやれ」
おざなりに手を振って、死神だった彼はなにもかも捨てて歩き出す。
美里はちょっと困ったように苦笑して、あさっての方向に目を逸らした。
「あの……なにか勘違いなさってませんか?」
「は?」
「いえ、だから……彼女の体は薬を飲めば治る程度のものなんですけど」
「………………は?」
空気が一瞬にして白けたような感じになる。
美里はさすがに気後れしながら、頬を掻いてポツリと言った。
「えっと、ですから……確かに初期タイプはそんな感じでしたけど、後期タイプは色々な面が改善されて、免疫不全を解消できる薬を服用していれば人並みには長生きできるようになったんです。ほら、そもそもせっかく戦場に慣れた頃合で死なれたんじゃたまったものじゃないでしょう?」
「………………」
「大体、それなら京子ちゃんだって今頃死んじゃってますしね♪」
「………………」
礼二は目を見開いて、頭を抱えて口元を引きつらせた。
「テメェ……なんつーことしてくれやがったんだっ! ウチの妹(下)も悪ふざけにはかなりの定評があるが、物には限度ってもんがあるぞっ!?」
「失礼な、ちょっとしたお茶目じゃないですか。あ、ちなみに残念なのは本当ですよ? 京子ちゃんがいなかったら今頃彼は私の愛の奴隷に……」
「あの野郎が気の毒過ぎて涙が出てくるぞっ!? なんかさっきから腹やら足やら後からジリジリ効いてくる所ばっかり狙ってきやがるし、アンタどんだけSなら気が済むんだよっ!?」
「限界の向こうは無限大なのですよ?」
「最悪だあああああああああああああああああああああああああっ!!」
隠れツッコミキャラ、死神礼二は今度こそ泣きそうになった。
「やっちまった。……くそ、こんな女の口車に乗ったせいでえらいことに」
「あら、免疫抑制剤ならちゃんと作り方を教えますよ? 教えるから手を引けって交渉を持ちかけたかっただけなんですけど……」
「……もう遅い」
「え?」
「やれやれ、だ。……やっぱり人殺しとかやってると、ロクなことにならねぇが……まぁ、どっちにしろ時間の問題だったかな?」
死神ではなくなった彼は、美里の方に振り向いて苦笑いを浮かべた。
「あいつには、俺は尻尾を巻いて逃げたって伝えてくれ。ここは、俺が止める」
「……どういうことですか?」
「簡単なコトさ」
礼二はゆっくりと息を吐く。
いや……死神じゃなくなった彼は既に礼二ですらない。
「礼司お兄ちゃん」
気がつけば、そこに新しい死神が立っている。
礼司と呼ばれた彼が放り出したデスサイズを手に、仮面を身につけ、彼女はそこに当たり前のように立っていた。
女性にはあまりいない長身に長い手足。まるで無駄の無い体つきをしている彼女は、美里が見慣れたメイド服を着用していた。
そう……屋敷のメイド服を、彼女は着ていた。
「お兄ちゃん。死神を渡してくれてありがとう。今から殺してくるね」
「……やめろ」
「嫌だよ。……だって、理由ができちゃったもん」
その声は、美里にとっても聞き覚えのある声だった。
しかし、その声は背筋を震わせるような寒さを持ってはいない。いつだって明るく、元気で、多少どころか凶悪なドジをやらかすが、それでもその声は……今美里が感じているような恐怖を感じさせたりはしない。
「……虎子、ちゃん?」
「………………チーフ」
仮面を外して、彼女は笑った。
それはいつも彼女が見せていたような笑顔ではなく――。
「陸くんに伝えてください。……陸くんに会えて、本当に良かった」
泣きたくても泣けなくて、それでも歯を食いしばっている。そんな笑顔だった。
痛々しい笑顔に一瞬だけ見入った。
たったそれだけ……その一瞬で、なにもかもが終わってしまった。
礼司が倒れる。
美里も、訳が分からないまま気を失った。
第三戦:死神礼二&山田恵子VS橘美里&梨本京子。
戦力比:23対21。
戦闘結果:引き分け。全員戦線離脱。
特記事項:死神零子参戦(今回戦闘時戦力比:65553)。
死神礼二は、厳密には死神ではなかった。
彼は《死神》という血統の中では最弱の部類に入り、兄が死んでしまったからやむなく死神を受け継ぎ、借金苦に喘ぐ家族のために人殺しを始めたに過ぎない。
そこには厳然たる意志がない。『仕事』だからという、ただそれだけに過ぎない。
死神とは、歴然たる意志を持って人の命を刈り取る者である。
己の意志で持って、人を殺す存在である。
そう……彼女のように、己の意志で殺戮を行おうとする者に《死神》は覚醒する。
一族筆頭・死神零子。
目的を持った彼女は、ゆっくりと歩みを進めていく。
右手にはデスサイズ。その顔を覆うのは髑髏の面。
心には一つの目的があり、それが彼女の全てを支えていた。
その目的が終わった時、彼女も終わり果てることを、彼女は知っていた。
知っていたけれど、止めるわけにはいかなかった。
なぜならば――――。
最終話前編『足掻きと叫び』END
番外編終章『空倉陸の告白』に続く
なにもかも聞かされた。
狐目の彼は、ゆっくりと溜息を吐いて、それでも僕は彼女が好きなんだよときっぱりと断言する。
君はどうなんだい? と彼は言った。
答えなんてとっくのとうに決まっていた。
あの笑顔が何回自分を幸せにしてくれたのか分からないくらいに幸せになれたから、彼は彼の目を真っ直ぐに見据えて断言した。
そんなもん、口に出すまでもない。
当たり前の想いと、暖かい手を握り締め。
今少年はひた走る。
次回、番外編終章『空倉陸の告白』
それでも、この手だけは離さない。