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第四十二話 社員旅行とみんなの気持ち(下)

終わりの始まり。始まりの終わり。

ここまで来れば、彼女がなにをするのか十二分に理解できるはずだ。

さてさて、誰が解き明かすでしょうか?

 回る周る廻る。

 歯車はいつでも回り続ける。

 動作不良を起こすまで。



 昔々、ある所に独りの女の子がいました。

 彼女はいつも独りでした。

 独りのまま独りで生きていける才能がありました。

 そのくせ、変な所で寂しがり屋で、性格は最悪なくせに妙に人気のある妹をひがみながらもそれなりに好いていて、自分を頼りまくってくる可愛い妹をすこぶる可愛がるという、そういう普通の女の子でした。

 彼女はある一点に関しては最高峰に属する天才で、それは極めれば確かにすごい技術でしたが、決して一般的なものではなく、むしろ人前で披露することが困難な技術でしたが、女の子はそんなことはお構いなく、その技術にのめり込んでいきました。

 そして、技術をあっさり極めた彼女は奉公に出ることになったのです。

 彼女の里には妙な風習があり、それは、ある年齢に達した少女はお屋敷を持っている主に仕えるという奇妙極まりないものでした。

 最初は嫌々だった彼女も、そこで一つの恋を見つけて変わりました。

 恋の相手はいつも髑髏の仮面をつけた男と談笑している自分の主。彼に微笑みかけられると、彼女はいつも幸せでした。

 それからは、彼女にとって人生で一番幸せな日々が続きました。

 主は彼女の才能に目をつけてお屋敷周りの庭と工房を与えました。一日中好きなことができるようになった彼女は、毎日自分が作ったものを主に見せに行きます。

 骨董品ともアンティークともつかない品の数々を、主は笑いながら、その品の数々を屋敷の様々な場所に飾りました。

 最初は笑っているだけだった主も、次第に気づいていきました。

 その骨董品についている取っ手は金メッキではなく純金で、少しだけ散りばめられた宝石も本物。

 なにより、その創作物には虫一匹近寄らないのです。

 お屋敷の主は不思議に思いました。彼女には貴金属を買うお金も、宝石をどうにかする甲斐性もないのです。ましてや、虫一匹近寄らないなんて人知を超えています。

 主はある日、彼女に聞きました。


 やぁ、■■さん。なんで君の作ったものはこんなに素晴らしいものなんだい?


 ご主人様、それはただの技術ですよ。私たちにとっては普通のことです。


 彼女はそう言って照れくさそうに笑い、彼もにっこりと笑いました。

 彼女は彼の笑顔を見てとても幸せな気分になりました。


 三日後、彼はいつもの微笑を浮かべながら、彼女の故郷を根こそぎにしました。


 理由は極めて単純で、彼は希少金属(レアメタル)や宝石の類を扱う商売をやっていたからです。

 貴金属というものは数が少ないからこそ貴重です。

 数が出回れば価値が減れば、もう商売にはならないのです。

 だから潰して壊して殺しました。彼女が『私たちにとっては普通のことです』と言い放ったことは、彼にとっては『自分の全て』だったからです。

 それでも、彼は彼女だけは殺せませんでした。いくら自分の全てが普通のことだと言われようとも、彼は既に彼女を愛してしまっていたからです。

 好きだったから、殺すことなんてできなくて。

 それでも自分を守るために、彼は、彼女の大切なものを、壊しました。


 そして、二人はそこで終わりました。


 彼女は怒りと悲しみと絶望に支配されて彼と彼の守り手である死神を殺し、なにもかもを捨てて逃げ出しました。

 偶然にも助かった妹二人も見捨てて、一人で逃げ出しました。

 逃げ出した先に……なにが待っているのかも、知らずに。



 だからこそ、この物語はここで終わる。

 僕にとってはこの物語は彼女を最後の最後まで追い詰めるための物語だ。

 自分のやったことから逃げ出しても……逃げられるわけがないと、思い知らせるために綴られる物語だ。この物語には、その程度の価値しかない。

 はっきり言ってしまえば、息子の出番などまるでなく終わる予定だった。

 最初から最後まで、彼女の独り相撲で終わるはずだった。

 マギちゃんに頼まれなければ息子を巻き込む必然性はなかったし、そもそも息子の役割は冥という少女を助けた時に終わっている。京子ちゃんとのことも、美里ちゃんとのことも、ましてや舞という少女のことも、全部はイレギュラーのようなもので、あくまでおまけ程度のことだった。

 ……はず、だった。

 知っていたはずだったけれど、上手くいくことなんて何一つない。

 きっと、最初から最後まで。始まりから終わりまで。

 上手くいくことなんて何一つないからこそ、意味があるんだろう。

 君のために猶予を残そう。君が君であるために、僕は最後の意味を残そう。

 それを生かせるかどうかは……君と、ここにはいないたくさんの誰かの手にかかっている。



 ……はずなんだけどねぇ。



 二泊三日の無人島旅行。二日目。

 せっかくなので、朝のうちに食料を調達して、昼は海で泳ごうということになった。

 言うまでもなく僕はあまり気が進まなかったのだけれど、それには理由がある。

 海っていうのは、実のところ人の手が入らないとそんなに綺麗なものじゃない。

 海岸清掃という行事があるけれど、あれをやっているから海は綺麗に見える。少なくとも、木片やら岩やら海草とかが打ち上げられていない海岸には、常に人の手が入っていると思ったほうがいい。

 ……とまぁ理屈の上ではそのはずなんだけど、小波の打ち寄せる海岸は、不自然なくらいに綺麗に片付いていた。

「……もう何度でも繰り返すケド、こんなもんサバイバルでもなんでもねぇよな」

「気持ちはお察しいたしますけど、サバイバルになったら一番最初にやられるのは間違いなく坊ちゃんだと思いますが?」

 麦藁帽子にパーカーに赤いビキニという、とりあえず直視してはいけないような気がする冥さんの艶姿からは若干目を逸らしつつ、僕は一応聞いておくことにした。

「ちなみに、やられるの『や』の字はどう書くのかな?」

「妥当なところで『殺』、マニアックなところで『犯』とかはいかがでしょうか?」

「……お下品なのはいけません」

 ぺちっと冥さんのおでこにチョップをすると、なぜか冥さんは嬉しそうに笑った。

「……狙って突っ込まれるのはいい気分ですね」

「いや、そんな嬉しそうに呟かなくても、ツッコミどころがあればいくらでも突っ込んでいくつもり満々だから」

「では、あれに向かって突っ込んでください」

 冥さんが指したのは海にものすごい勢いで突っ込んでいく舞さんで、水着の方はロングパレオ。控え目な胸をカバーするために、パッドが少し多めに入っているような気がしたけど、それは僕の命と舞さんの尊厳のために見ないふりをした。

 それはそれとして、僕は腕組をして適切なツッコミを考える。

「……ダイエット失敗したんだね、とか」

 ポツリと呟いたつもりだった。

 しかし、舞さんはものすごい形相で振り向いて、こちらに向かってものすごい速度で走って来た。

「どらぁああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 そして、そのまま僕に向かって跳躍。

 飛び蹴りと見せかけての膝蹴りが僕の顔面をとらえるかと思いきや、僕は舞さんの膝を片手で受け止めて、そのままの勢いで放り投げた。

「ひあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 バッシャーンと水柱を立てて、舞さんは海中に落下した。

 ちなみに、飛距離はおおよそ五メートルほどだった。

「ふふふ……名づけて、奥義・流水ツッコミ流し。円と流水の動きによって全てのツッコミを無効化するという、ギャグ漫画とかにあるまじき究極の奥義よ」

「やたらむさくるしい漫画にありがちの技の解説はそれなりに面白いからいいんですけど……坊ちゃん、舞ちゃんがカナヅチだって知っててやってますか?」

「……そういうことは早く言おうね」

 ぶくぶくと沈んで浮かんで来ない舞さんを助けるために、僕は海中に身を躍らせる。

 息を止めて周囲に目を凝らしたけど、舞さんらしき人影は見えない。水は澄んでいるしゴーグルもつけているのに、彼女の姿はどこにもない。

(……もしかして、流された?)

 嫌な予感が背筋を駆け抜ける。

 悪ふざけが一転して、命の危機に発展する。海じゃよくあることだけど、まさか自分がそれを体感することになるとは思わなかった。

 僕が気持ちを切り替えて第一種危険指定対応を取ろうとした、その時。

 何者かに足を掴まれた。

 慌てて振り向くと、笑顔を隠しきれていない舞さんが僕の足を掴んでいた。

『くっくっく、甘いですね坊ちゃん。こんなこともあろうかと、私は日々スポーツクラブに通って泳げるようになっておいたのですよ』

 とりあえず、唇の動きからそんな言葉が読み取れた。

 相変わらず見えないところで涙ぐましい努力をする舞さんだったが、どうやら泳げるようになってからそう日にちは経っていないらしい。

 僕は目を細めながら足を引っ込める。言うまでもなく、僕の足首を掴んでいる舞さんも一緒に引き寄せられる。

 そのまま頭を押さえつけた。

「がぶほっ!?」

 溺れた時に一番やってはいけないことは、とにかくパニックに陥ることだ。

 パニックになった瞬間に呼吸は乱れ、体が余計な空気を欲しがり、結果容易く酸欠になってしまうからである。

 おまけに、泳ぎを覚えて間もない人はささいなことでパニックに陥りやすい。なるべくなら慣れるまでは波打ち際で遊んでいるのが一番いいだろう。

「本っ当に坊ちゃんは手加減ってものを知らないんですかっ!?」

 と、いうわけで涙と鼻水を流しながら、思い切り叫ぶ舞さんだった。

 僕としては溺れなかったんだからいーじゃんと思わなくもない。僕が師匠から泳ぎを教わった時なんて、冗談抜きで溺れたからな。

 ……師匠が。

 なんとかうろ覚えの人工呼吸と心臓マッサージで師匠を蘇生させるのには成功したものの、正直言って溺れる人間を助けるのは二度とやりたくない。

 ホント……あの時はよく頑張ったよ、三歳だった僕は。

「まぁまぁ、死ななかったんだからいーじゃん」

「その理屈で言うと、この世界のほとんどのことは受け入れなきゃいけなくなるんですけど、私はそんなに心は広くありませんからねっ!」

「まぁまぁ……面白かったんだから、いーじゃん?」

「ギギギギギギギギコロスコロスコロスコロス」

 舞さんの形相が般若のそれになる。ぶちキレモード一歩手前くらいの状態だ。

 と、そこで割って入る大人の彼女がいた。

「はいはい、とりあえずストップ」

 パンパンと手を叩きながら乱入してきたのは、この無人島生活でリーダー的役割を担っている美里さんだった。

 ちなみに水着はオーソドックスな競泳水着で、どうやら美里さんは使い勝手重視らしいということがよく分かるけれど、スタイルが際立っているのでものすげぇことになっていた。

「舞ちゃん? 怒るのは分かるけど、一応これで最後だからみんな仲良くね?」

「……あんまり最後って気もしませんけど」

「でも、最後なんだから」

「………………分かりましたよぅ」

 むすっとしながらも、美里さんの言葉に頷く舞さん。

 舞さんを黙らせた美里さんは、次に僕のほうに振り向いた。

「で、坊ちゃん」

「はい」

「この後、ちょっとだけ時間をもらえませんか? 話しておきたいことがあります」

「…………はい」

 頷きながらも、心の底では思い切り溜息を吐いておく。

 まぁ……なんというか。

 予想通りでは、あったから。



 美里さんに連れてこられたのは海岸近くにある岩場の影で、もしもこれが観光地とかならふしだらな行為に及んでいる男女を発見できるかもしれない……そんな場所だった。

 パーカーを羽織った美里さんは、にっこりと笑顔のまま話を切り出す。

「もう分かってると思いますけど……この島にいる面子では私だけが、織について行った従業員の全員が、あらかじめ屋敷が解体されることを知っていました」

「……やっぱりですか」

 なんとなく、そんな気はしていた。

 いきなりのことだったのに、みんな全然驚いてないし。

 むしろ社員旅行に行くまでに着々と準備を進めていたし。

「……なんで、教えてくれなかったんですか? 僕が頼りないからですか?」

「いいえ。坊ちゃんは非常に良く頑張っています」

「じゃあ……」

「でもね……坊ちゃんは頑張りすぎるんですよ」

 美里さんは、ほんの少しだけ困ったような顔をしながらも、言うべきことはきっちりときっぱりと断言した。

「みんな、薄々とは感づいていましたよ。……坊ちゃんが限界だってことくらい」

「………………っ」

「章吾君が抜けたのが痛かったですね。いくら舞さんに代行を任せようと、私がいくらフォローしようとも……仕事をしている限り、坊ちゃんの大切な時間を容赦なく削っていくことには、変わりないんですから」

「仕事なんだから……あの屋敷を維持するためなんだから、それは……」

 仕方ないと言おうとして、僕は言えなかった。

 美里さんは微笑みながら、ゆっくりと僕の頭に手を伸ばしてくしゃりと撫でた。

「仕方がないのはみんな分かってます。……でも、私も織やあの人と同じ意見です」

「………………」

「坊ちゃんは、ちゃんと普通の生活を送るべきです。ちゃんと朝早く起きて、ちゃんとだらだらして、友達と一緒に遊んで……そういう、普通の生活を送るべきです」

「……僕は」

「私には、そういう時間は与えられませんでした。でも、貴方は違うでしょ?」

「………………」

 平和で平穏な時間の大切さを知っているからこそ、その言葉は重かった。

 美里さんが心の底から渇望したものを……僕は、ないがしろにしているのだから。

「この際はっきり言ってしまいますけど、坊ちゃんは頑張り屋です。自分が不甲斐ないと理解しているから、どこまでもどこまでも際限なく頑張ってしまうんです」

「…………そんなのは成果を出せなきゃ意味がないです」

「冥ちゃんを助けたのは、貴方です」

 美里さんは、ただ真っ直ぐに僕の瞳を見据えていた。

 どこまでも真っ直ぐに、真剣に、真摯に、僕だけを見据えていた。

「京子ちゃんを助けたのも貴方ですし、舞ちゃんを助けたのも貴方です。私も助けてくれましたし、章吾君を助けたのも貴方です。……言うまでもなく、コッコちゃんも」

「…………でも、それは」

 みんなが強かっただけのことだ。

 僕の力じゃない。僕はちょっとだけ手助けをしただけだ。

「確かに、そうかもしれません。でも……その『ちょっとだけ』の手助けを心の底から渇望している人は、たくさんいるんですよ? 坊ちゃんにしてみればちょっとだけだったかもしれませんけど、たったそれだけで人生を変えてしまうことだってあるんですから」

「………………」

 美里さんらしい、含蓄と説得力のある言葉だった。

 僕がなにも言えずに押し黙っていると、美里さんは不意に口元を緩めた。

「まぁ……それはそれとして」

「いや、それはそれでで済ませちゃいけない大きい話題だと思うんですが」

「京子ちゃんにキスをしたそうで?」

「ぶっ!?」

 急転直下。ちょっと切ない話題から美里さんにだけは知られたくなかった話題に方向転換してしまった。

 ちらりと見ると、美里さんの目はまるで笑っていなかった。

 やばい、僕をKILLする二秒前だっ!

「いえいえ、嫉妬なんてしてませんよ? こう見えても28歳の大人ですもの」

「説得力がまるで感じられないんですが……」

「うふふふふふふふ……だって、人間ですもの」

 怖い怖い怖い怖い。

 全体的に笑顔なのに、目が全然笑ってないのがものすげぇ怖いっ!

 美里さんはにっこりと笑いながら、上目遣いに僕の顔を覗き込んできた。

「でも、まぁおでこってあたりが坊ちゃんのヘタレ具合を示しているというか?」

「放っておいてください。……ヘタレで悪かったですね」

「いえいえ、私としては至って好都合。そもそも、その程度で済ませることができたのも、歯止めが効かなくなるのが少し怖かったりするだけだったりします?」

「……否定はしません」

「坊ちゃんらしいと言えば、らしいですけどね」

 美里さんはにっこりと笑って、僕の手を取った。

「でも、もうお屋敷もなくなっちゃいますし、雇用主と従業員でもなくなっちゃいますし、少しくらいは……素直になってもいいと思いますよ?」

「素直って言われても……」

 僕は少しだけ押し黙る。

 そんなことを言われても、よく分からないっていうのが、本音だ。

 素直になれと言われても……僕には、素直になって良かった経験が何一つないから。

 いつだって、正直になることはできたけれど、素直になったことはなかった。

「坊ちゃんは、自分のことには鈍感ですよね」

「え?」

「やりたいこと、願い事、望んだこと……きっといくつもあるはずなのに、自分が願ってやまないことがたくさんあるはずなのに、貴方は誰かの願い事ばっかり優先してきました。それは多分、誰かの辛そうな顔を見るのが、嫌だったからでしょ?」

「………………」

 美里さんの言うコトは、ことごとく当たっている。

 そう、僕は嫌だった。


 自分の好きな誰かが、辛そうな顔をしているのが心底嫌だった。


 お人好しと言われりゃそれまでだけど、ほとんど条件反射のように、僕は誰かが辛そうにしているのを見るのが嫌だった。

 ああ、そんなことはとっくの昔に分かっている。

 あの時、あの瞬間、コッコさんに助けられた時に、僕は……そういう風にしか生きられないって、死ぬような思いをして悟ったんだから。

 そのことを……悔いることも、ないだろう。

「お人好しですね、坊ちゃんは」

「そうですね。……でも、僕は美里さんやみんなの辛そうな顔を見るくらいだったら、死んだ方がましなんです。もちろん死ぬのは嫌だから、とりあえず辛い原因を取り除くことから始めたんですよ」

 あの屋敷はそのためのものだった。

 根深く這った原因を、根こそぎにするためのものだった。

 みんなが笑顔でいられるなら……なんでも良かった。

「みんなが笑顔に、ですか? でもそれって凶悪に無理な相談ですよねぇ」

「……そうです。分かってます。馬鹿にしたけりゃお好きにどうぞ」

「ばーかばーか♪ 坊ちゃんのすけこましー♪」

「………………」

 へこんだ。

 分かってはいたけれど、ものすげぇダメージだった。

「わぁ、私好みのすごい凹み具合。今回は妙に繊細ですね、坊ちゃん」

「……まぁ、色々ありましてね。とりあえず死んでもいいですかね?」

「ダメです」

 美里さんはにこにことご機嫌そうに笑いながら、ぷにりと僕の頬を引っ張った。

「それにですね、貴方はちょっと視野が狭すぎます」

「……そんなことは」

「人のことを思いやりたいのなら、まずは自分を思い遣るところから始めなさい。……坊ちゃんと同じように、私も、貴方の辛そうな顔を見るのは耐えられないんですよ」

「………………」

 頬を引っ張られながら、美里さんの目をしっかりと見つめる。

 気のせいか……ほんの少しだけ、泣きそうになっているような気がした。

「坊ちゃん。私じゃなくてもいいんです。誰を選ぼうとも貴方の自由です。どんな選択をしようとも、それは坊ちゃんの自由です。……でも、限界を超えてしまったり、知らないうちにどこかに行っちゃうことだけは、絶対に……許しませんから」

「………………」

「返事は?」

「…………はい」

 かろうじて返事を返して、僕は美里さんをじっと見つめる。

 そして、ほんの少しだけ素直になることにした。

 握られていた手を握り返して、僕は美里さんを見つめた。

「美里さん」

「はい」

「約束します。僕はいなくなったりしません。あと、今までありがとうございます。貴女がいたから、僕はここまでやってこれました」

「……それだと、お別れの言葉みたいですよ」

「そして、改めて……これからも、よろしくお願いします」

 屋敷はなくなってしまうかもしれないけれど、縁が切れるわけじゃない。

 だから今までのぶんのありがとうと、これからのよろしくを口に出した。

 美里さんは僕の顔を見つめて、ほんの少しだけ、口元を緩めた。

「それじゃあ……そろそろ『坊ちゃん』はやめにしましょうか」

「はい」

「では……これからもよろしくお願いします、キス魔さん」

「………あれ、今ってそれなりにいいシーンだったはずでは?」

「じゃあ、私にもキスしてください。そうすれば名前で呼んであげます」

「……それは脅迫ですか?」

「いえ、誘惑ですが」

「や、正直今は勘弁して欲しいのですが」

「またヘタレ病ですか?」

「いえ、さっき舞さんに足首を掴まれた拍子に海水と砂が口に入ってしまいまして。今でもまだちょっと口の中でジャリジャリしてるんですよ」

「………………」

 美里さんは少しだけ考える素振りを見せてから、苦笑して言った。

「……じゃあ、また後で」

「賢明な判断です」

 その『後で』をどうやってかわそうか考えながら、僕は口元を緩める。

 屋敷がなくなっても……みんなはきっと変わらない。

 思い出も絆もここにある。いつか忘れるかもしれないけれど、過ぎた時間まで忘れるわけじゃない。

 過去は結実だ。変えられないけれど、きっとそれも乗り越えていかなきゃいけない。

 きっとそうなんだと……思っていた。



 楽しい時間があっという間に過ぎるのはいつものことで。

 風邪を無理矢理一日で治した京子さんが振舞うバーベキューに舌鼓を打って、みんなで超ド球ビーチバレーを楽しんで、なぜか僕一人だけが生傷だらけになったりしたけれど、それはそれで楽しい思い出になった。

 夜は朝方に釣った魚を僕がバター焼きにして、みんなでそれを食べた。

 夕飯が終わって、僕は当たり前のようにみんなのぶんの皿を洗った。

「……今日で終わりか」

 二泊三日だから、まぁこんなもんだろう。

 もちろん、寂しいとか物足りないとかそういう気分なわけで、ありていに言えばセンチメンタル。ちょっとばかりローテンションだったりする。

 ただ……この二日でみんなと話して、分かったことがいくつかある。

「結局は、僕一人が悩みすぎだったってコトか」

 みんなはいつも通りだった。冥さんも、舞さんも、京子さんも、美里さんも、そりゃあ心の底では無理している可能性は捨てきれないけれど、少なくとも顔で笑って心で泣くくらいはできている。

 だったら、僕も見習わなきゃいけない。最後の最後までヘタレだったけれど……最後くらいは笑って終わらそうと、今なら思える。

 そして、もう一つ。

「……負け犬根性も、この辺で終わらせねぇとな」

 僕にとって、無条件で負けを認め続けてきた相手が、三人いる。

 一人は父さん。一人は母さん。そして……もう一人が、コッコさん。

 絶対に敵わないと思い込んできた。なぜならば父さんも母さんもコッコさんも、普通にしか生きられない僕にはあまりにも大きく見えていたから。

 けれど、分かった。生きていくっていうのは、決して勝ち負けで決められるようなことじゃない。


 一生敵わないとしても、立ち向かわなきゃならないことがある。


 僕は今まで立ち向かおうとしてこなかった。

 相手にとって辛い思い出だと分かっていたから、立ち向かうことはしなかった。

 それを優しさだと、履き違えていたんだと思う。

 余計なお節介だということは分かっているし、余計なことを言って嫌われたくはないけれど……これはきっと、僕が言わなきゃいけないことだった。

 だって……きっと言わなかったら、あの人は一歩も前に進もうとしないだろうから。

 水道の水を止めて、僕は皿洗いを終える。

「……さて、と」

 ゆっくりと顔を上げて深呼吸。この無人島ともこれでお別れ。

 そして……この日々にもさようなら。

 僕は、最後に言わなくてはならないことを、言うことにした。



 さてさて、問題なのは無人島が風情に欠ける場所だということだ。

 この島を二日ほどうろつき回って、結局彼女を呼び出すのに一番適した場所は、月の良く見える草原くらいしかなかった。

 適当に転がっていた岩の上に腰掛けて、僕は彼女に声をかける。

「いやいや、こんな所に呼び出して申し訳ないですね」

「…………いえ」

 僕は暖めたコーヒーをコッコさんに手渡しながら笑顔を作る。

 コッコさんは静かにそれを受け取って、口に含んだ。

「……普通ですね」

「そりゃ、こんなところじゃインスタントコーヒーくらいしかないですしね」

「……坊ちゃん」

「はい?」

「私に、何の用ですか?」

 コッコさんは真っ直ぐに僕を見つめてくる。

 それは、どこか空虚な瞳。空ろなる彼方を見つめているかのような目。

 出会った時と同じく、出会った時よりもさらに空っぽな……そんな目だった。

 いつもだったら、目を逸らしていた。

 でも、僕は目を逸らさなかった。目を逸らさないまま、口を開いた。

「いや、なんていうかですね……これからコッコさんはどうするのかって思いまして。どこかいい場所に就職するんですか?」

「……私は、奥様についていくつもりです」

「正気ですかっ!?」

 心底驚いたというより、ぶっちゃけ引いた。

 いや、だって母さんですよ? あのセクハラパワハラ大王の母さんですよ? いやらし〜い感じにあーんなことやこーんなことをされたり、不条理極まりない我がままを言われまくったり、そんなことに僕と望以外の人間が耐えられるとでも?

 この人、自殺願望でもあるのか?

「前にも言ったと思いますけど……私、奥様に借金があるんです」

「ああ、そういえば聞きましたね。あの凶悪刃物四点セット」

 右の鋏『右紋』

 左の鋏『左獄』

 高枝斬鋏『飛燕』

 回転鋸『斬鈴』

 お値段は一つにつき一千万円ほどらしい。

「……母さんに返しちゃえばいいじゃないですか、そんなもの」

「そんなものじゃありません。……私にとっては、大切なものなんです」

 さて、ここが勝負。

 僕は殺される覚悟を決めて、一歩を踏み出した。

「で、どういう風に大切なんですか?」

「……え?」

「その無意味に馬鹿高い刃物の数々は、コッコさんにとってどんな意味を持っているんですか? 大切なものなら……それ相応の意味があるはずでしょ?」

「…………それは」

 コッコさんは、顔を逸らして押し黙る。

 いつもいつもそうしてきたように、コッコさんは僕から目を逸らした。

 ようやく……そこで、僕は完全に確信した。

「コッコさん」

「……なんですか?」

 ゆっくりと息を吸う。ゆっくりと息を吐く。

 そして、真正面から彼女を見据えて、僕はきっぱりと断言した。


「僕は、貴女のことが大好きだけど、嫌いです」


 言わなくてはならないことを、ようやく告げた。

 自分では自覚できなかった気持ち。無意識の中で無理矢理隠そうとしてきた気持ち。

 このことに気づいたのは、自分でもよく分からない。冥さんのおかげかもしれないし、舞さんのおかげかもしれないし、京子さんのおかげかもしれないし、美里さんのおかげかもしれないし……他の誰かのおかげかも、しれない。

 確かに、僕はコッコさんのことが大好きだ。

 でも……同じくらいに、嫌ってもいる。

 なぜならば、

「コッコさんの中じゃ、僕は結局最初から最後まで『坊ちゃん』だったんですよね」

「……坊ちゃん、なにを言って」

「まぁ、ちょっと聞いてくださいよ。心苦しいことかもしれないですけど、僕は最初から今までずっと、貴女に黙っていたことがある」

 コーヒーを一気飲みして、僕は真っ直ぐに彼女を見つめる。

 目を逸らすな。甘えるな。甘やかすな。もう……『ごっこ遊び』はたくさんだ。

 言わなくてはならないことを……言え。

 彼女が自覚していないのならば、誰かがそれを言わなきゃならない。

「コッコさんが教えてくれたことは、僕にとってはとても大切なことです。感謝なんてしてもし切れない。でも……大切なことを教えてくれた貴女は、どうなんですか?」

「………………」

「いつだって思っていました。違和感として、胸の奥に潜んでいたことです。僕がそれを口に出さなかったのは、きっとコッコさんのことが好きだったから。……ちゃんと、お姉さんとしても女性としても好きだったから、言いたくなかった。言えなかった。言って関係を壊したりするのが嫌だったから、ぬるま湯だと分かっていて言いませんでした」

 だけど、僕は口を開いている。

 言いたくなかったことを言っている。

 言わなくてはならないことを、死にたくなりそうな罪悪感の中で、言っている。


「結局、僕はコッコさんを甘やかして、コッコさんは僕に甘えてただけだった」


 家族なんて嘘っぱちだった。

 僕はコッコさんと家族になりたかったけれど、コッコさんにはその気がなかった。

 頑張ればいつか家族になれると思っていた。でも、コッコさんにとっては僕はいつまで経ってもただの『坊ちゃん』だった。

 分かっていて……僕はあえてそれを受け入れた。

 楽しければそれでいいじゃないかと、思っていたから受け入れた。

「今思えば、章吾さんや美里さんにはその辺のことが薄々と分かっていたんだと思います。美里さんは自分が言うべきことじゃなかったから口を閉ざして、章吾さんはなにかと言えばコッコさんに突っかかって、ちゃんと警告を出していた。『ちゃんとしろ』、『真面目に働け』、『手が余っているのなら、人の手伝いもしろ』。……あの人の、定例文句は正しかった。……一人の大人として、正しい言葉だった」

「…………私は」

「屋敷がなくなったのだって……その延長程度のことでしかないんですよ、きっと」

 父さんには、分かっていた。

 僕がコッコさんを甘やかしていること。コッコさんが僕に甘えていること。

 おかしな人間関係。主従と言えば聞こえはいいけど、結局その果てに行き着くのは決定的な破綻しかないと知っていた。

 あの人は……『人の間違い』を感じ取ることだけはズバ抜けている。

 母さんなんて問題じゃないくらいに。

「もちろん、屋敷のことは言うまでもなく、その全部含めてコッコさんのせいじゃありません。全部僕のせいです。……ただ、屋敷の中みたいな生活をしていたら、誰とでも上手くいかないとだけは言っておきます」

「……どうして、そんなことを」

「確かに、いまさらですね。……でも、コッコさんと離れる前に誰かが言わなきゃいけなかったから。……誰も言わないのなら、僕が言うしかないと思いました」

 全部、いまさらのことだけど。

 屋敷もなくなってしまったし、みんな離れ離れになってしまうけど。

 最後まで黙っておくこともできたけど。

 甘えて、甘ったれて、優しさが行き過ぎてダメにするようなことは……したくない。ダメになるくらいなら、たとえ嫌われても構うものか。

 と、不意にコッコさんは目に涙を浮かべながら、僕を真っ直ぐに睨みつけた。

「私は……私は、坊ちゃんになんて甘えてなんていません」

「じゃあ、他の人に甘えていたんでしょうね」

「そんなこと……っ!」

「誰にも、自分のことをなにも話さない。それがもう甘えですよ」

 僕は言い放った。

 真っ直ぐに目を見返して、きっぱりと。

「僕はコッコさんのことをなんにも知りません。屋敷での貴女以外は、なにひとつ」

「なんでもかんでも話してもらおうだなんて、子供言うことです」

「なんでもかんでも話したくないだなんて、子供の言うことじゃないんですか?」

「貴方に……坊ちゃんに、私のなにが分かるんですかっ!?」

「分かりませんよ」

「だったら、知ったようなこと言わないでくださいっ!」

 コッコさんは叫んだ。目に涙を浮かべて、最後の足掻きのように。

 少し前なら分からなかった。……でも、今なら分かる。

 コッコさんのこの態度も、結局は甘えてるだけだってことを。

 自分の負った責任から、逃げているだけだということを。

 だから僕は――――きっぱりと、最後に、言わなくてはいけないことを、言った。


「ええ、分かりませんよ。自分の『主人』を殺した気持ちなんて、コッコさんの口から聞かない限り分かるわけない」


 それで、僕と彼女のごっこ遊びは終わりを告げた。

 僕が主で彼女が侍従で……そういう、遊びを終わりにした。



 終わりの言葉を、聞いてしまった。

 私はゆっくりと膝をつく。

 薄々と分かっていたことではあった。坊ちゃんには、私にも明かさない奇妙な情報ルートがある。……そのルートから私の情報を探すことができるくらいの、そういう情報を彼は握っている。

 知ってて、なにも言わなかった。

 知ってて、あえて言わなかった。

 なぜなら――――。

 彼は、私を、甘やかしていたから。

「気持ちは分かりますよ。僕だって家族を殺されれば、殺し返すくらいはしますから」

 彼は語る。私がやった罪悪を……私が犯した罪業を、肯定するように。

 肯定されたくはないことを、彼は肯定する。

 私の罪を受け止める。

 私が出会った時になにもかもを諦めていた彼は、どこか不機嫌そうでいつもいつも私を困らせてくれた男の子だった。

 でも、ある時を境に彼は豹変した。不機嫌そうな顔をやめて、みんなが安心するような笑顔で歩き始めた。自分に才能がないことを気づいていたくせに、諦めることをやめて、彼は自信満々に歩き始めた。

 きっかけはいつだっただろう? 私にはそれが思い出せない。

 ずっと一緒にいたのに。ずっと彼と共に同じ時を過ごして来たはずなのに。

 ずっと彼を見てきたはずなのに。

 彼が変わってしまった出来事が……どうしても、思い出せない。

「でも、そんなのは僕の主観じゃないですか。コッコさんが話してくれない限り、コッコさんのことを理解なんてできるわけがない」

「……理解してもらおうだなんて、思ってません」

「ええ、そうでしょうね。そんな話を嬉々とする方がおかしい。……それでも、貴女は誰にもそのことを打ち明けず、話さず、一生抱えて生きていくつもりですか?」

「……そうです」

「なら、コッコさんはずっと独りですね」

 まるで刃のような彼の言葉が、私の心に穴を開ける。

 怜悧で厳然とした彼そのものの言葉で、私に事実を突きつける。

「コッコさんが誰かに心を開かない限り、コッコさんはずっと独りです」

「………………私は、人殺しです」

「ええ、そうですね」

 彼はあっさりと私の罪を認める。

 そして、目を細めて口を開き、


「だから、なんですか?」


 私の罪を、全部丸ごと根こそぎにした。

「…………え?」

 一瞬なにを言われたのか分からず、私は目を丸くした。

 目を細めて溜息を吐きながら、彼はきっぱりと断言する。

「人を殺してしまったから、大切な誰かを殺してしまったから、後はどうでもいい?」

「………………」

「確かに、コッコさんが誰かを殺してしまった事実は変わりません。でも……どんなことをしたって過去が覆らない。いつだってどんな時だって、生きていかなきゃいけないでしょうが、僕らは」

 彼はきっぱりと言い放つ。

 私に向かって、事実だけをきっぱりと言い放った。


「独りでいいなんて、そんなのは甘えだ。誰かを殺したんなら、誰かを殺したぶんの痛みと重みと責任を、全部丸ごと背負って生きていかなきゃいけないだろうが」


 胸が苦しくなる。痛くなる。重くなって張り裂けそう。

 おかしい。

 この子は……おかしい。

 そんな考え方は、そんな思考は、そんな強さは人間じゃない。

 人間はそんなに強くないはずなのに、この人はあらゆる意味で強すぎる。

 全部受け止めて。全部許容して。全部肯定する。

 なんで……そんなことが、できるの?

 私は、人殺しなんですよ?

 大切な人をこの手で殺した……最悪の人間なのにっ!

「コッコさん。貴女が教えてくれたことです」

「……………え?」

「自分がやったことの責任を負いなさいと、貴女が言ったんです」

 ぞくりと、背筋を這い上がるなにかがある。

 寒気が体を支配する。怖気が体中を駆け巡り、今すぐにでも叫びだしたい。

 嫌な確信が私を責め上げる。狂いそうな思いの中で、私は答えに辿り着いた。



 ほんの少し考えれば、分かること。


 彼は―――本当に心の底から強くて、


 だからこそ、私の言ったことを全部真に受けて、


 私が言い続けてきた『理想』を実現しようとした。



 子供への、お説教のつもりでした。

 こうしなきゃダメ、ああしなきゃダメと、言い続けてきました。

 彼は愚直にそれを守りました。たった一つ『女の子に優しくしなさい』を除いて、この子は私が言ったことを全部呑み込んで、納得できないことも全部受け止めて実践しようとしました。

 ある日を境に、彼はそれを実践し始めました。

 もっと明るく笑った方がいいと言ったら、明るく笑うようになりました。

 自分の責任を自覚しなさいと言ったら、行動が慎重になりました。

 女の子を殴るとは何事ですかと言ったら、もう二度と殴らなくなりました。

 勉強もちゃんとしなさいと言ったら、予習復習まで全部やるようになりました。

 体も鍛えた方がいいですねと言ったら、武術を再開しました。

 もちろん、全部じゃありません。彼は人の言うことをそのまま実践するんじゃなくて、考えた結果自分に有益であると判断したものだけをやってのけました。

 自分でできる範囲で、私の言ったことを、実践したのです。


 だからこそ――彼は彼自身の『普通』を見失いました。


 努力するのがあまりにも当たり前になりすぎたせいで、普通で当然が見えなくなってしまったのです。

 死神に化物と言われてしまうくらいに、彼は自分を見失いました。

 自分が本当になにをしたいのか、自分がやりたいことはなんなのか。

 数多の努力の中で、彼はそれを見失ってしまったのです。

 自分の好きな誰かのために死力を尽くせるようになった代償として、

 彼は、自分のために生きることを、忘れてしまいました。

 思えば――彼を取り巻く女の子になにもしないのも、彼が私の言った『女の子に優しく』という言葉を愚直に守り続けているからかもしれません。



 私は、彼に普通で当たり前なことを教えてこなかった。

 私は、彼にお説教しかしてこなかった。

 私は、彼をいつも子供扱いしていた。

 私は、彼に理想しか教えてこなかった。

 私は、彼が知らない昔に人殺しをした。

 私は、彼にそれを言うのが怖かった。

 私は、彼に嫌われたくなかった。

 私は、彼を愚かで普通な少年だと、子供だと、思い込みたかっただけだった。

 そんなことはなかったのに。

 彼も成長して、私を見下ろせるくらいに背も高くなったのに。

 ああ……もう、嫌だ。もうたくさんだ。

 私はどうして……こうなのだろうか?


 私が、彼を、狂わせた。


 あの人を手にかけてしまった時も、私はこうだった。

 お祖父様を助けられなかった時も、私はこうだった。

 そして今も……私が、坊ちゃんのなにもかもを狂わせてしまっている。


『君を拾ったのは、反面教師でいてもらうためだ』

『君は君の罪悪を理解しろ。君は人殺しでそれ以上でも以下でもない』

『それでも……その事実を受け止めてくれる人間がいることを理解しろ』

『その人間は根っからの善人で、悪人で、どこまで行ってもお人好しだ』

『君は、そういう人間にもたれかかってばかりいたんだよ』

『理解しろよ、月ノ葉光琥』

『そんな人を狂わせる君に、生きる権利なんて最初から存在していなかった』


 あの嘘吐きの言う通り。

 私は――私の存在が、坊ちゃんを狂わせている。

「コッコさん? あの、どうしたんですか? なんか、顔色が……」

「………………」

 ああ、どうしてだろう。

 それでも……狂わせる私を、この人は気遣ってくれる。

 離れたくなかった。

 ああ……今なら、はっきりと自覚できる。

 私は、お人好しな彼のことが好きだった。

「えっと……まぁ、重い話はここまでにしておきましょう! とりあえず、飲みたいものとかあります? 食べたいものは? 僕になんかして欲しいこと……はないかもしれないけど、とりあえず気分が悪いんだったら美里さんを呼んできますから!」

 本質的に人に容赦がないくせに、ここぞという時に限ってへたれちゃう所も。

 今回の話だって、最初から最後まで私を思い遣ってのことだった。

 私には気軽に話せる相手がいないから自分で話すしかないと……そう思ってのことだったに違いない。

 ホント……お人好しだ、この人は。

 私は慌てまくる彼を見つめて、覚悟を決めて、ゆっくりと口を開く。

「……坊ちゃん」

「え?」

「貴方は、貴方の好きな人を幸せにしてあげてくださいね?」

 もう終わってしまった私じゃなくて。

 貴方が好きな誰かを。貴方が愛する誰かを……幸せに。

「……コッコさん?」

 不思議そうに私を見つめる彼の首筋に、容赦なく拳を叩き込んだ。

 反応すらできず、彼は地面に倒れこむ。……これなら、夜明けまでは目が覚めない。

「これは、お返ししますね」

 彼に貰ったイルカのブローチを置いていく。

 悔いはここに置いていく。未練がましいかもしれないけれど、彼が目を覚ました頃には、そのブローチの意味も思い出せないだろうから。

 本当は彼のプレゼントになる予定の小箱を取り出して、私は笑った。

 もう、後悔はない。

 彼の笑顔を見て、私は私の生で最後にやるべきことが分かってしまった。

 私は彼にとっては邪魔な存在でしかない。彼も私も自覚はしていなかったけれど、私は彼を狂わせて、彼は私を甘やかした。

 だったら、彼が道を踏み違えないようにする方法は、極めて単純だ。

「……さよなら、ご主人様。私は、悪い侍従でした」

 急速に反転する世界の中で、私はゆっくりと目を閉じる。

 そして私は、私の世界と私の時間を、終わらせることにした。



 全てがまとめて動き出す。

 狙って図って企んで、なにもかもが彼女を殺すために動き出す。

 そんな中……刻灯由宇理はゆっくりと溜息を吐いて、ある所に電話をかけた。

『……もしもし?』

 不機嫌そうな声に、由宇理は頬を緩める。

 電話の相手は、世界でも百人に満たない、柔らかい髪の悪人だった。

「あ、もしもし? あたしッスけど、今いいッスか?」

『あんまり良くはないわね。……これから、彼を救出してあの女を殺しに向かう。当然言われるまでもなく、貴女も付き合うんでしょ?』

「それなんスけどね……」

 頬を掻いて、由宇理は極めて申し訳なさそうに言った。


「ごめん、あたしはここで裏切らせてもらうッス」


 きっぱりと断言して、由宇理は電話を切った。

 リダイヤルはないことは知っている。相手は高慢で傲慢な金持ちの淑女だ。リダイヤルなんて面倒で自分の誇りを汚すようなことはしないだろう。

 あの女ならば、自分を直接殴りに来るに決まってる。

「殴られる前に……アイツが来る前に、なんとかしたいところッスけどねェ」

 屋敷を遠くに見つめながら、滅の魔法使いは口元を緩めた。


「でも……まぁ、いいか」


 ここにはいない友達の顔を思い出しながら、

 魔法使いは背伸びと深呼吸をして、ゆっくりと歩き出す。

「あたしの名前は黒等友狸(こくとうゆうり)。滅不滅の魔法使いにして友情の徒」

 友達だと言ってくれた誰かのために。

 友を愛する狸は、真の名前を世界に明かして歩き出した。



 第四十二話『社員旅行とみんなの気持ち(下)』END

 第四十二話『Good by My World(上)』に続く。



 次回戦闘カード。


 世界制圧兵団 VS 芳邦鞠(H・H・D)&死之守あくむ。

 精鋭兵団 VS 橘美咲&高倉望。

 月ノ葉香澄 VS 月ノ葉鞠柄(H・H・D)。

 死神礼二&隊長 VS ミサト(B・S)&キョーコ。

 執事スミス VS 黒霧冥。

 月ノ葉光琥 VS 黒霧舞。


 保留カード。


 黒等友狸(魔法使い)。

 ??零?(■■)。

 高倉織(世界最強)。

 存在抹消(嘘吐き)。

 ■■■■(彼)

彼はキレた。

久しぶりどころじゃなく最近キレ気味の彼は、一から十まで本当の意味でキレることになった。


一番親しい女の子が、一番の悪に手を染める。

そんなふざけたことを許せるわけがないからこそ。


この気持ちがどこから溢れるのか、彼にも分からない。いつもだったら適当に笑って、冷静に対処して、それで終わるはずだったのに。

だが、彼はキレた。

生まれて初めて、本気で怒った。

そして彼は猛然と悪に立ち向かう決意をする。相手が彼の親しい人だろうがそんなことは関係ない。

正当なる怒りと想いに動かされ、彼は走った。


次回、第四十三話『Good by My World(上)』


終わりになんて、してやらない。

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