番外編『八』 空倉陸の混乱
コメディです。見も知らぬ人が嵐のようにやってきて、嵐のように去って行く話です。
まぁ、そういうわけでこの話に出てくる甲殻類とGPは今後の物語には一切関係ありません(笑)
胸に一つの御旗を掲げ、熱き魂拳に込めろ。
夕暮れ時の屋上。彼と彼女にとってそこはいつもの場所だった。
いつも通りに一勝負終えた陸は荒い息を吐いて仰向けに寝転がっていた。
体中には擦り傷と多少の切り傷。いくつかの打撲もあったが、もはやそのあたりの軽傷は気にならなくなっていた。
それでも、いつもならこの倍は傷つけられるはずなのに、今日に限って香純の動きが悪い。香純と陸の力量は天と地ほどあるが、『月とスッポン』ほどには離れていない。
香純の不調が分かるくらいには、陸も強くなったという自覚がある。
ゆっくりと体を起こした陸は、さりげなく聞いてみることにした。
「なぁ、香純。……お前もしかして調子悪くねーか?」
「……なんで?」
「いや、なんか不機嫌そうだし、動きにキレがないし」
「別に。そんなことはないよ」
香純はあからさまに目を逸らしていた。嘘の吐けない彼女にしてみれば、精一杯の嘘を吐いているように陸には見えた。
陸は頬を掻いて、ゆっくりと溜息を吐く。
(……どうすりゃいいのか、さっぱり思いつかねぇな。にーちゃんならもっと上手くやるんだろうケド)
こういう時の適当な言葉は絶対に届かないどころか、むしろ怒鳴られたり殴られることを陸は屋敷の生活から学んでいる。
だが、殴られることよりも耐えられないことがあることは、知っていた。
「別になんでもねぇんだったら、もんじゃでも食いに行こうぜ」
「もんじゃ? あのゲロみたいなの?」
「……や、確かに似てるけどよ。女の子がそーゆーことを言っちゃ駄目だろ」
「そーゆーの、私にはあんま関係ないもん」
ふん、と鼻を鳴らして香純はそっぽを向いた。
陸は苦笑を浮かべながら、体の調子を整えるようにゆっくりと立ち上がった。
「とりあえず、なんか食いに行こうぜ。今日は俺の奢りでいいからさ」
「ずいぶんと羽振りがいいね。……なに? なんかいいことでもあったの?」
「んにゃ。単純に、腹一杯になれば多少は気が紛れるんじゃねーかと余計な気を回しただけだ。……まぁ、バイト代出たし、たまには美味い物でも食いたいと思ったってのもあるけどよ」
「そのセリフは、後半がない方が格好いいと思うけど?」
「うるせ」
顔を赤らめながら、陸はやっぱり気を回すんじゃなかったとちょっと後悔した。
香純は陸を見つめて、ほんの少し頬を緩ませた。
「……ねぇ、陸」
「ん?」
「食べながら相談したいことがあるんだけど、いいかな?」
「……ああ。話が無茶に重くならない程度に頼む」
陸は口元を緩めて、胸を撫で下ろした。
ほんの少しだけ上手くやれた。そんな気がした。
結論から言うと、全然上手くやれていなかった。
「………………で?」
「いや、あの、ホントすんません。なんとお詫びをしたらいいかっつーか、こっちの言い分を聞く前に頭をカチ割ろうとするのは人としてどうかと思うんですけど」
メキメキと頭蓋骨が割れそうな音が響く。
陸の頭を握り締めようとしているのは、ポニーテールと物憂げな雰囲気が特徴的な、白衣にTシャツGパンというラフもいい所な格好のお姉さんで、有坂四季という名前の自称画家だった。
自称というのは他でもない。彼女の絵はまだ世間的には有名ではないからである。
そんな彼女が額に青筋浮かべて陸の頭を握り潰そうとしているのには、もちろん理由があった。
まぁ、原因は顔を真っ赤にして陸の背に顔を埋めている香純だったりするのだが。
「りくー……おしっこ」
「……ほう? なにか、キミは中学生に酒を飲ませた挙句マニアックなぷれいを強要したとそういう解釈でいいんだな?」
「ぐああああああああああああああああああっ!? ちょ、せめて弁解の余地をっ!」
「うん、分かった。介錯してやろう」
「話を聞く気もなしっ!?」
なんだか小さな小川と花畑と船に乗った女の子が手招きをしているような気がしたが、陸はなんとか勇気を奮い立たせて口を開いた。
「ち、違いますよっ! 俺が便所に立ってる間に香純が勝手に酒を頼んで……」
「善良な店員が中学生に酒を出すわけがないだろ」
「そりゃ正論なんですけど……なぜかその店員は酒を出しやがりまして」
「……ふむ。その苦しい言い訳を信じろと?」
「いや、頭から否定されるとかなり困るんですけど……えっと」
香純が話していた内容を思い出して、陸は言葉を選んで口を開いた。
「そもそも……香純がやけ酒なんて飲んでたのは、有坂さんが原因らしいんですけど」
「……………む」
四季は顔をしかめて眉間に皺を寄せると同時に、陸の頭から手を離した。
「……謝罪しよう。どうやらキミは本当に香純の友達らしい」
「や……まぁ、そうなのかな」
「うむ、そもそも空倉陸という名前は、私がふられた彼の口からよく聞く名前だったことを今思い出した。大層愉快な少年だと聞き及んでいる」
「………………」
早く思い出せとか、アンタあのにーちゃんの知り合いかよとか、そもそもあのにーちゃんに告白するってどういう神経だよとか、誰が大層愉快な少年だとか、色々と突っ込みたいところはあったのだが、陸は命惜しさにそれらのツッコミを全放棄した。
「しかしアレだな……お付き合いというものは難しいな」
「……や、それを俺に言われても」
「まさか……二週間ほど口を聞かなかっただけでこんなに拗ねるとは」
「普通は拗ねるだろっ!?」
いくら陸にも、我慢の限界というものがあった。
「どーゆー神経してんだアンタっ! 一緒に暮らしてんのになんで二週間も口聞いてねぇんだよっ!?」
「私はあんまり悪くないぞ。ハンバーグを作ってくれなかった香純が悪い」
「その言い分じゃアンタに非があるようにしか聞こえねぇよっ!」
「前々日くらいからハンバーグがいいなぁと言っていた私に非があるとっ!?」
「ハンバーグくらい自分で作れっ!」
「私はハンバーグだけは人の手作りじゃないと食べないと心に誓っている」
「子供かアンタっ!?」
「失礼な。香純が掃除洗濯炊事まで全部やってくれるもんだから、それに甘えているなんてことは決してないぞ。ましてやそんな風に堕落している自分に危機感を覚えたりもするけど、まぁいいや楽だしなんてことは思ってないし、そもそも私は家事が苦手でね?」
「後半自分に対する言い訳になんてんじゃねーかっ!」
「ちょっと今は仕事が忙しくて……その、ストレスが」
「仕事をしてるのは感心しますが、そーゆーコトを言い訳にすると、俺が働いてるバイト先だと鉄拳が飛んでくるんですがねぇ」
「………………」
四季は頬を赤らめて目を逸らし、ポツリと言った。
「……うん、ごめんなさい」
「俺にじゃなくて、ちゃんと香純に謝ってくれ」
「それはまぁ……明日一日ちゃんと時間を取ったから、そこで謝ろうと思ってる」
「いい心がけじゃねぇか」
「……で、ここで一つ問題があって、明日、友達と先輩の学園祭に行く約束をしていたのだけれどすっかり忘れていて。……まぁ、つまりダブルブッキングというやつでね」
「四季さん」
「…………うん」
「年上の人にこういうコトを言うのは気が引けるんだけど、ルーズなのもいい加減にしといてください」
「………………反省してる」
本格的にヘコんだ四季は、さっきよりも二回りくらい小さく見えた。
真剣に凹んでいる四季を見て、陸は溜息を吐きながらも肩をすくめた。
「……俺の立場からの意見ですけど、なるべく香純の方を優先させてやってください」
「うん、友達には悪いけど……最初からそのつもりだ」
「ならいいです。香純の奴、機嫌が悪くなると外に出さずに溜め込むタイプみたいなんで、なるべくならちゃんと見てやってくれると助かります。……主に俺の寿命とかが」
「………………」
顔を上げた四季は、ばつの悪そうな表情を浮かべて溜息を吐いた。
「……なんか、君の方が香純の彼女みたいだな」
「そこは突っ込んでいい所ですよね? 誰が彼女だコラァ!!」
「つまり……キミは彼氏彼女と言うより、百合の関係だとそう言いたいわけだな?」
「面白いことは一つも言えてないから、その満足げな顔を今すぐやめろっ! どーしてこうどいつもこいつも俺を女扱いするんだよっ!? まともに扱ってくれるのはにーちゃんくらいなもんじゃねぇかっ!」
「顔が可愛いからだろう。長所だ、大事にするといい」
「ぬがあああああああああああああああああああああああああっ!!」
頭を抱えて絶叫する陸に対し、四季はクスクスと愉快そうに笑っていた。
「なるほど、香純が入れ込むのも分かる気がする。君は・すごく・面白い」
「……嬉しくもなんともねぇんだけど。あと、『・』とか入れんな。妙に腹立つ」
「よしよし、それじゃあお姉さんが手作りハンバーグを奢ってやろう」
「いや、別にいい。……っておい、なんで腕を掴んでるんだよ?」
「まぁまぁ、いいじゃないか。頼みたいことがあるし……あ、それと、逃げようとしたら鉛筆をポキッとやるみたいに、折るから」
四季の笑顔の奥には、なんかもうこれ以上にないくらいの嫉妬と憎悪と被虐心しか詰まっていなかった。
陸は抵抗を諦めて引きずられながら夜空を見上げる。
今日は満月が綺麗なはずなのに、なぜか涙でぼやけてよく見えなかった。
四季の話というのは、つまり自分の代わりに友達と一緒に学園祭を回ってくれとのことだった。
陸としては実は最初から学園祭には行くつもりだったので渡りに船の話だったのだが、もしも『友達』が誰なのか知っていたら、絶対に断っていただろう。
「ふっふっふ、久しぶりの出番獲得っ! なんか最近忘れられてんじゃねーかと思っている獅子馬麻衣ちゃん再・登・場っ! みんな、元気にしてたかなっ!?」
「……もしもしおまわりさん?」
「いきなりその反応はどうかと思うよ少年っ!」
目にも留まらぬ速度で陸の携帯電話を奪い取ったのは、スカートにワンピースという服装が異様に似合う、見た目は美少女中身は男な獅子馬麻衣だった。
陸はゆっくりと溜息を吐いて、携帯電話を奪い返した。
「つーか、麻衣さん。アンタが四季さんの友達だったのかよ」
「まぁ、そーゆーコトですね。世間ってのは意外と狭いもんだと相場が決まってるし。それに、コスプレ喫茶なんていうレアな行事を拝めるのはこんな機会じゃないとないですしねぇ」
「逆転みたいだけどな」
「それはそれで好都合。顔の可愛い男の子に女装ってのは意外とオツなもんで」
「獅子馬さん。俺の半径二万キロメートル以内に近寄らないで下さい。気持ち悪いから」
「半径二万キロメートルってどう考えても地球外退去じゃんっ!! そこまで明確な拒絶を私は未だかつて聞いたことがありませんよっ!?」
ちなみに、地球の直径はおおよそ二万四千キロメートル。考えようによっては地球という惑星はわりと小さいのであった。
と、二人が軽快に突っ込んだり突っ込まれたりしていると、不意に陸は背後に妙な気配を感じた。
「………………だれ?」
褐色の肌に漆黒の瞳。複雑に編み込まれた髪は彼女にはとても似合ってはいた。完全確実なる美少女なのだが、ぶかぶかのトレーナーと腰まで届くスカートがなんとなく似合っていない。部族の巫女服なんかがとても似合いそうだと陸は直感的に思った。
「麻衣さん、この子は誰だ?」
「ん、私の親戚で今は私の家で世話してる女の子です。名前はルゥラ=ラウラ。可愛いからって手を出すと、未成年略取でしょっ引かれちゃいますよー♪」
「……未成年略取以前に、そんな盛大な嘘を誰が信じるんだよ? 名前に違和感がありすぎだろうが」
陸はゆっくりと溜息を吐いて、少女をちらりと見つめた。
不機嫌そうな横顔。なにに対して怒っているのかまでは分からなかったが、陸はどこかでそんな顔を見たことがあるような気がする。
「………………なに?」
「いや、なんでもねぇよ」
ぶっきらぼうに言い放って、陸はルゥラと呼ばれた少女から目を逸らした。
ぶっきらぼうではあるが、実のところ陸は腹を立てていたわけではない。ルゥラの態度に怒ったわけでもない。世界やらなにやらが不条理と不合理を押し付けてくるのは分かっていたことだし、他人の事情に口を挟むのはいかんだろうと思ってもいた。
「で、麻衣さんはこれからどこを回るんだよ?」
「ん、漫画研究会からだけどなにか問題でも?」
「………………」
陸は、無言で麻衣の首筋に綺麗な後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
「じゃあ、俺たちはここでなんか食いながら待ってることにするわ。美味そうな出店もあることだし」
「……あの、今の後ろ回し蹴りの意味はなんなんでしょーか?」
「もっと和を大切にしろとか、なんかもう突っ込むのも面倒っつーか、日頃の色々な鬱憤晴らしも99%くらいは混ざってる」
「……陸くん、段々先輩に似てきてるような気がするのは私の気のせいですかー?」
「無礼なことを言うんじゃねぇよ」
陸はヤクザもびっくりするような迫力で麻衣を睨みつける。
以前は、手も足もどころかなにもさせてもらえないうちに香純に瞬殺されていた彼だが、最近ではほんのちょっとだけ渡り合えるようになっている。
たったそれだけのことだが、それこそが今の彼にほんの少しの自信を与えている。
前に見た時よりも遥かにたくましくなっている少年の顔を見つめながら、麻衣はやれやれと肩をすくめて、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ陸くん。後は任せるよ」
「分かったよ。……どうせ、最初からそのつもりだったんだろうが」
「その件に関してはノーコメントを貫かせてもらいます」
ニマニマと悪魔のように笑いながら、麻衣は陸に蹴られる前に歩いて行った。
後に残されたのは陸とルゥラと呼ばれた彼女だけになり、自然と二人の間には気まずい空気が流れる。
(……参ったな)
と、そこで視線に気がつく。
ルゥラは、先ほどからじっと陸を見つめていた。
「…………なまえ」
「え?」
「わたしは、ルゥラ=ラウラ。あなたは?」
「……あ、えっと」
物怖じしてても仕方ないと思い切り、陸は腹をくくった。
「俺は空倉陸。よろしくな」
「…………よろしく」
陸が差し出した手に、ルゥラはそっと触れた。
なんとなく小動物に餌をやっているような気がして、陸は少しだけ口元を緩めた。
それから、当たり障りのないことを聞いていくことにした。
「ルゥラは、あの馬鹿先輩とは友達かなんかなのか?」
「……そうでもあるかもしれないしないかもしれない」
「いや、別に気を使わなくても、ここははっきり言っていいところだぞ」
「知り合い」
思ったよりも辛辣な言葉に、陸は内心で冷や汗をかいた。
「じゃあ、ルゥラってどこの出身なんだ? 実はクォーターとか?」
「スリジャヤワルダナプラコッテ……って、言えって言われた」
「よし、分かった。後であの先輩は本当にしばこう」
頬を思い切り引きつらせながら、とりあえず心の中でボコボコにしておく。
(しゃべらせたくねーなら口止めとかしてんじゃねーよ。やりづらくて仕方ねぇだろ)
口止めをしているということは、話されたくないことがあるということだ。
下手な話題は逆効果どころか、地雷を踏みかねない。地雷を踏んだらどうなるのかまでは分からないが、とりあえずドカンと爆発するのだけは確かだろう。
そんな風に陸が困っていると、ルゥラは自嘲気味に口元を緩めた。
「たぶん、りくはしんじないと思う。……わたしとりくの常識は、離れてるから」
「………………」
陸は目を細める。
怒っているわけではないし、不機嫌になったわけでもない。
先も言ったように、空倉陸という少年は中学生にしては理性的である。
いや、もっと正確に言うのならば、彼はその育ち故に理性的に生きることを強制された。空倉で情報を扱う立場だった少年は、この世界の黒い部分やおぞましいなにかを直視してもそれを無視できるだけの心の強さを持っていた。
それはあるいは強さではなく、弱さだったかもしれないが、少なくともどこか遠くで人が何百人殺されようとも以前の陸ならば眉一つ動かさなかっただろう。
それでも、今の陸は以前とは違った。
諦め続けてきて、どこか達観に行き着いた諦観を持っていた少年は、変な屋敷に住み込んでから少しずつ変わっていった。本人にはまるで自覚がなかったかもしれないが、それは元々彼が持っていた『本質』である。
執事である彼と主である彼に殴られて、彼の本質が引きずり出されつつあった。
陸はゆっくりと溜息を吐くと、ルゥラに歩み寄って、口を開いた。
「最初から諦めてんじゃねーよ、ばかやろう」
「…………え?」
「本当は話したいことをなんにも話さずに『理解してくれるわけがない』とか勝手に決め付けてんじゃねぇよ。初対面だろうが常識が離れてようが、そんなもん関係あるか」
絶対に嫌われるのが分かっているのに言わずにはいられなかった自分が一番腹立たしくて、陸は不機嫌そうに口を尖らせて顔を逸らした。
「そりゃ、自覚してるくらいだから荒唐無稽な話だろう。話しただけで人が離れて行くような、そんな話なんだろうよ。……でもな、それでもちゃんと真剣に話せば、現実を見据えて一から十まできっちりと説明すりゃ、ちゃんと聞いてくれる奴もいるだろうさ」
身勝手に話を歪めることなく、真っ直ぐに前を向いて話をしろ。
陸の師とも言える執事から教わったことを、陸は知らず知らずに実践していた。
しかし……彼には少しばかり足りない所があった。
ルゥラは思い切り目を細めて陸を睨みつけると、不意ににっこりと笑って、陸の足を思い切り踏みつけた。
「ぐがっ!?」
あまりの痛みに、陸は思わず涙目になる。
文句を言おうと顔を上げると、ルゥラの瞳には涙が浮かんでいた。
「……てつのうまに跳ねられそうになったの」
「な、なんだって?」
「あの灰色のひとを探すのに七日くらいかかったし、水が使えるところで眠ってたら青い服のひとに『しょくむしつもん』っていうのをされたし、ようやく腰を落ち着けることができたとおもったら、ししまさんは思ったよりアホだったの」
ルゥラが拳を振り上げる。
陸は自分の言葉が説得力に欠けていることを理解していなかった。
年長者から優しく諭されれば納得してしまう言葉も、同年代の少年からぶっきらぼうに言われれば納得できない言葉になってしまうことを、理解していなかった。
その言葉のせいで、人を怒らせてしまうであろうことも。
「それもこれも、みんな……しょーごがわるいのっ!!」
「ごはっ!」
全てを穿つかのような、右ストレート一閃。
陸は一瞬にして意識を刈り取られ、闇の中に落ちていった。
誰もが忘れているが、人は必ず夢を見る。
一時の泡沫。現実とはかけ離れた世界。朝になれば忘れてしまうものであり、万が一覚えていたとしても大抵の場合は支離滅裂であることが多い。
しかし、支離滅裂だろうと滅茶苦茶であろうとも、そこに見るものは己を投影したものである。自分の不安や心に秘めたことを映し出す鏡である。
今回も、きっとそうだったのだろうと陸は思う。
『貴方はきっと、空倉には向いてない』
今はもういない友人っぽい少女は、そんな風に語った。
『貴方は冷酷にはなれない。お人よしにしかなれない。誰もを見捨てることができるけど、本当に大切なものはなにも見捨てられない。人も殺せない。殺せるのはきっと自分だけなんだろう。……そういうのはとても好ましいけど、悲しいね』
逃げる途中で陸を庇って死んだ少女の名前と顔を、陸は思い出せない。
その時はどっちがお人よしだと思って、泣くこともしなかった。子供らしからぬ言葉で喋り、時には大人も手玉に取った少女だったが、なにも成すことなく死んだ。
陸にとっては二人の姉よりも印象が薄い。顔と名前を覚えていないのもそのためだ。
星のような名前だったような気がするが、それだけはどうしても思い出せない。
たくさんの中の記憶の一つで、陸にとってはどうでもいい誰かのはずだった。
『だから……陸は、普通に生きて、普通に死んでよ』
でも、そんなのは嘘だった。
空倉の人間なら誰もが味わうはずの喪失に、陸は耐え切れなかった。
空気みたいにそこにいるのが当たり前だったから、無くして陸は後悔した。
話したいこともまだまだあって、いつも寂しそうに笑うそいつの頭をどついたりするのがわりと好きだったはずなのに、無くした時に初めて気がついた。
結局、自分はあいつのことがわりと好きだったのだと、その時に初めて気がついた。
気がついたのに、どうにもならなかった。
二人の姉がいなくなった時も、自分は当事者ですらなかった。
執事長が去ったことも、自分には関係のない所で決まってしまったことだった。
だから陸は知っている。この世界にはどうにもならないことがあることを、嫌というほど知っている。当たり前で確かなコト。他のどんなものよりも確実なことだ。
けれど、どんなに確かだろうと、当たり前だろうと、知っていようとも。
それを納得することだけは、絶対にできなかった。
それから何分経ったのか、陸は意識を取り戻した。
やたら的確なストレートに顎の下を打ち抜かれたせいで頭がぐらぐらするが、軽い脳震盪だろうと判断する。どうやら、相手が非力だったのが功を奏したらしい。
ただ、地面で寝転がっているわりに、ゴツゴツした感触はない。
「……ごめんなさい。だいじょうぶ?」
「………………ん、まぁ大丈夫。……か、な?」
頭の中に疑問符が浮かぶ。
地面に寝転がっているのならゴツゴツした感触に顔をしかめているはずなのに、頭の下にあるのはゴツゴツというよりむしろプニプニとした感触だった。
ゆっくりと、恐る恐る目を開けると、視界に飛び込んできたのはルゥラの心配そうな顔だった。
「……ルゥラちゃん。一つ確認しておきたいんだが、なにしてんだ?」
「寝苦しそうだったから、ひざまくら」
「………………」
陸は憮然としながら起き上がり、頬を赤らめて顔を逸らした。
「えっとな……そういうのは好きな男にやってやると喜ばれると思う」
「………………」
どうやら、また地雷を踏んだらしくルゥラは一瞬で不機嫌になった。
陸は内心で溜息を吐いたが、そこでふと思い当たった。
「なぁ……『しょーご』ってのは誰なのか、聞いていいか?」
「どうして?」
「俺の知っている人……いや、師匠みたいなにーちゃんと同じ名前だからな」
「………………そう」
ルゥラは目を閉じて、ゆっくりと口を開いた。
「せかいでいちばんよわいひと。せかいでいちばんかなしいひと。だれかのためにいきるひと。きっと、いじをはったまましんじゃうようなひと。……自分のことは、女を助けるためにここまで来たばかな執事って言ってた」
「………………」
やっぱりそうだと、陸は確信する。
あの男は実家の父親がぎっくり腰になろうが、職務を放棄するような人間じゃない。
彼が職務を放棄するような出来事がきっとあったのだ。
(……ちくしょう)
あまりの遠さに愕然とする。
執事が最後に出会った相手は、美咲を除けば恐らくは『彼』に違いない。
自分が到底敵わないだろうと心底思った執事に、彼は臆することなく真っ向から対峙し、執事の優秀さに怯むことがなかった。
そんな彼だったから、執事も絶大な信頼を置いていたのだろう。
……自分にはそれができないことを、陸はよく知っていた。
執事のように意地を張ることも。
彼のように我慢と修練を重ねることも。
ただ、納得できないことを無理矢理噛み潰して、ずっと生きてきたのだから。
「…………どうしたの? りく」
「ん、ああ……いや、なんでもねぇ」
ルゥラに声をかけられた陸は、悔しさを殺して無理矢理笑った。
が、そこでふとした違和感に気がついた。
「……ちょっと待て」
「え?」
「それはおかしい。ルゥラちゃんについていたのが執事長なら……君を一人にさせるわけがない。あいつは……あの執事は、そういうことは絶対にしないはずだ」
陸は考える。その行動の意味と、その意味の表と裏を。
答えはもうとっくに出ていた。
彼が職務を放棄するような出来事がきっとあったのだ。
じゃあ、執事が職務を放棄するようなこととはなんなのか?
そんなものは決まっている。誰かに危機が迫っているのだ。
「ルゥラちゃん。……君は、なんか執事から重要なことを聞いてないか?」
「重要なコト? ……えっと、けんのひとにはもう伝言は伝えたケド」
彼女が頬に手を当てて、その『伝言』を口にしようとした、その時。
ルゥラは、白と赤色の何者かに、一瞬でさらわれた。
陸はルゥラから目を離していない。そんな状況でさらうなど到底不可能だ。
しかし、陸は確かに見た。ルゥラの着ている服の襟首を掴み、一瞬で彼女の体を抱え上げものすごい速度で走り去った赤と白の何者かを。
いや……正確には、それは走り去ってはいなかった。
「ぷくぷく〜。私の名前は怪人かに娘。世界の全てを両断しちゃうぞ〜」
赤と白の甲殻類で食べると美味い海産物の着ぐるみを着た少女が、まったく光の点らない魚の腐ったような目で陸を見つめていた。
そういえば今は学園祭の真っ最中なんだよなぁと陸はぼんやりと思っていた。
ルゥラをさらったかに娘とやらは、ハサミをシャキンシャキンと鳴らして嬉しそうに笑う。
「パパは人間。ママはイセエビ。カニなのに真っ直ぐ走れるのが特技だよ〜」
「ママがイセエビって時点でもうカニじゃねーだろ。それに、カニは種類によって真っ直ぐ走れるのもいるらしいぞ」
「じゃあ、萌キャラ路線でいいや〜。ほら、私って超可愛いじゃん?」
「……や、そんな魚の腐ったような目の女の子を可愛いとは思えないんだが」
「むぅ、えらい言われようだね〜。ほら、私って超可愛いじゃん?」
「重ね重ね言っておくが、可愛くねぇよ」
「ぬぅ、最近は猫娘ですら可愛いのに、えらい言われようだよ〜。ほら、私って超可愛いじゃん?」
「しつこい。可愛くない。そもそも、萌キャラってなんだ?」
「ふ、それが分からない時点で私と君は分かり合えないみたいだね〜。今だって私は『ほら、私って超可愛いじゃん?』という語尾を駆使して萌を演出していたのに」
「……いや、頭がおかしい領域に突入してる自意識過剰にしか見えねぇ」
「キミってなんかむかつくね♪ きもーい♪」
「唐突に暴言吐きやがったな、この甲殻類っ!」
「そりゃあ、私は怪人かに女だから人の嫌がることを進んでや」
「えいっ!!」
ボグシャアという、わりと冗談抜きで痛そうな音が響く。
怪人かに女は、我に返ったルゥラの本気の拳で顔を殴られていた。
が、殴られた当の本人はにやりと不敵に笑った。
「残念〜。私の体は硬化オリハルコニウムα製だから、そう簡単に傷つかな……」
「イセプテュリア・インストールッ!」
ルゥラが叫ぶと同時に、彼女の全身に文様が広がっていく。
彼女は容赦なく拳を振り上げて、かに女に向かって打ち下ろした。
グジャァッ! という先ほどとは比べ物にならないような鈍い音が響き、それと同時にかに女はひぎゃあと叫びながら地面を転げ回る。
軽やかに着地したルゥラは転げまわっているかに女に近づき、殴って蹴って振り回して叩きつけてひねって投げて沈黙させた。
一仕事終えた後のように汗を拭い、満足そうにルゥラはガッツポーズを決める。
「よし、しんだ」
「殺すなよっ!?」
「だって、なんかきもちわるいひとだったから」
「……あー、まぁ、いいのかな?」
うっかり納得してしまいそうになった陸は、とりあえず地面に突っ伏して動かなくなったかに女に向かって歩み寄り、顔を覗き込む。
死んでたらどうしようかと思ったが、意外なことにかに女は生きていた。
「うう……甲羅を割られた私は、もうかに女ではない。ただの女だったのだ〜」
「いや、かに女よりは普通の女の方が好感が持てると思うけど」
「……なにゆえ? かに女は萌えないのですか?」
「普通に考えて、フェイクでも甲殻類を名乗る人間と恋愛はできないと思うんだが」
「………………ぬぅ。盲点」
本気で悩んだりするかに女もとい、死んだ魚の目を持つ女は目を細める。
「でも、私、略奪愛が好きだから」
「……人の趣味に口出ししたくはねーけど、かなりの悪趣味だと思う」
「と、いうわけで、付き合ってくれないと校舎を両断するよ〜」
「………………は?」
いつの間にか立ち上がっていた女は、満面の笑顔を浮かべた。
「私と付き合ってくれないと、みなごろしですよ〜?」
「……じゃ、俺はそろそろ行くわ。正直付き合ってられねぇ」
「ちょきん♪」
女はにこにこと笑いながら、ハサミを閉じた。
バグン、という音と共に地面が裂けた。
地盤沈下とか地震ではない。女がハサミを閉じたと同時に、なんの脈絡もなく地面に裂け目ができた。
もちろんそれほど大きいものではないが、女を放ってどこかに行こうとする陸の足をひっかけるには十分だった。
「……な、なぁっ!?」
「と、いうわけで今からキミをサドるんで、どうぞよろしくね♪ チョキチョキ♪」
シャキシャキとハサミを鳴らしながら、いつの間にか殻を再生した、女ことかに女は楽しくて仕方がないと言いたそうに顔を赤らめていた。
完全な異常事態に、陸はパニック寸前だった。
と、不意にかに女は、不気味な笑顔のままルゥラの方を振り向いた。
「ああ……そーだ。私の殻を壊したあの子を、とりあえずやっちゃおうかな〜♪」
「っ!!」
にんまりと笑いながら、かに女はハサミをルゥラに向ける。
その瞬間に、陸の意識は完全に飛んでいた。
それは、まさしく事故のようなものだった。
ありていに言えば、陸は今まさにこの世界にはびこる悪の一端と対峙していた。
そもそも、悪というものには『悪い』という概念はない。純粋な悪とは自分のことを悪いものだとは思っていない。自覚できる悪は、あくまで自分勝手という全体にとっての悪であり、本質的な悪とは異なるものだ。
怪人かに女。学園祭に突如現れた彼女は、本質的な悪そのものだった。
自覚もなく、当たり前のように、気に入らないものを潰し、気に食わないものをなぎ倒し、欲しい物は奪い、むかつくものは迫害する。
それを、本人だけが悪いことだと思っていない。
自分の好き勝手に生きることこそが彼女の望みであり、そのために『我慢』してある組織に所属している。……それだけ我慢すれば、好き勝手やってもいいと本気で思っている彼女には、残念ながらそれだけの力があった。
『あいつ、殺せればいいのに』という誰もが持っている空想を、少女は実現できてしまうだけの力を有していた。
そう、腕に一振りだけでルゥラを殺せる力を、彼女は持っている。
ただ、最初に言及した通り、これはあくまで事故である。陸とルゥラは事故のように出会って、事故のように面倒ごとに……いや、『悪』に巻き込まれた。
しかし………………。
それでも、抗おうとする勇気があるのならば、悪の天敵もまた、やって来る。
「勇者よ。私は君に敬意を表する」
ルゥラをかばうために咄嗟にかに女に掴みかかった陸を救ったのは、まさしく正義のヒーローと呼ばれる存在だった。
この物語とはまるで関係がないところで平和を守る。それはただ、誰かの心の中にある幻想を映し出したかのような存在である。
ずんぐりむっくりとした体躯。不敵な笑いを浮かべる口元。そして、赤いマントには仁の一文字が刻まれている。。
白と黒と赤の獣は、仁王立ちのまま陸の眼前に立っていた。
「我が名は、サイ・パンダー。心の御旗に誓い、悪を滅ぼす甘き騎士の一人」
身長は陸よりも低く、しかしどこまでも威厳と自信に満ち溢れた声は、陸の背筋に寒気を走らせるほどの威圧感を感じさせた。
いきなり脈絡なく現れた正義のパンダは、口元だけでにやりと笑う。
「久しぶりだな、かにの乙女よ。また悪さをしようと言うのか?」
「悪さとは失礼なパンダさんだね〜。私は、可愛い男の子をいじめいじめいじめいじめいじめいじめたいだけなのに」
「それだけいじめれば誰だって衰弱死するんじゃないか?」
「うっさいパンダさんだね、もうっ!」
かに女は苛立ちと共にハサミを振り上げる。
が、彼女が行動を始める前に、パンダはかに女の背後に回りこんでいた。
「悪いが、人を待たせているのでな……速攻で決めさせてもらうっ!!」
パンダの体から、白銀の闘志が燃え上がる。
「猫天仁礼拳、奥義っ! 塵来っ!!」
パンダはかに女を抱え上げると同時に垂直に跳躍。そのままきりもみ回転しながら、地面にかに女を叩きつける。
ドゴゴオオオオオオオンッ! という爆音と共に粉塵が吹き上がった。
あまりの砂埃に、陸は思わず目を閉じる。なんとか目を開けてなにが起こったのか理解しようとしたが、一メートル先すら見ることができないという有様だった。
ようやく砂埃が収まった時には、怪人も正義の味方も姿を消しており、あるのは深く穿たれた地面だけだった。
「……なんだったんだ? 今の」
「……さぁ」
あまりの出来事に理解がついていかず、唖然とするルゥラと陸。
と、その時。テレビなどで本人の声などを隠す時に使われる、間の抜けた合成音が響いた。
『ぴんぽんぱんぽーん。はい、そういうわけで演劇部によるスピン企画、超獣偽神舞踏伝『サイ・パンダー』をお送りいたしました〜。エキストラのお二人には感謝感謝です。後でグラウンドを整地しなきゃいけないと思うと部員一同めげそうになりますが、我ら演劇部一同は面白いもののためなら手段は選びません。と、いうわけで次の公演は午後三時よりシェークスピアの『ロミオとジュリエットと田吾作』をお送りいたします。興味のある方は今すぐグラウンドに集合お願いしま〜す♪』
ぴんぽんぱんぽ〜ん、とわざわざ言いながら、奇妙な放送はブツリと切れた。
陸は砂埃を払いながら、ルゥラはものすごく疲れたような表情をしながら、いつの間にか現れた野次馬たちが帰るのをじっと見つめていた。
やがて二人きりになり、陸は溜息交じりに言った。
「なんか、やたら疲れたな」
「……そーだね」
「とりあえず……なんか食いに行くか?」
「さんせい」
陸の言葉に、ルゥラは口元を緩めてこくりと頷いたのだった。
かくて、物語にも関わらない寸劇は終わる。
少年は執事長を知っている少女と少しだけ仲良くなって、執事長が行った世界でなにが起こったのかを知ることになる。
しかし、結局陸は彼にそのことを伝えることができなかった。
物語にとってはイレギュラーとも呼べる彼女が一瞬でも登場したことによって。
「やれやれ……危うく、殺されるところだったねェ」
物陰から陸とルゥラの様子を伺いながら、かに女は口元を緩めた。
「さてさて、世界制圧同盟に対する義理も果たしたわけで、私も甲殻類から可愛い女の子に戻って学園祭をエンジョイしましょうかね〜」
ボロボロになった甲殻ユニットを脱ぎ捨てて、純然たる悪の少女は物語とは関係なくテクテクと歩いて行く。
まるで普通のように、まるで常識のように、
この世の悪は、まるで当たり前のように歩いて行った。
悪は迷惑を撒き散らし、余計な力を呼ぶ。
陸がそれを思い知ることになるのは、この一週間後のことだった。
『空倉陸の混乱』END
『空倉陸の告白』に続く
好きだった。
それだけは嘘偽りなく本当だと思う。
笑顔が綺麗で、頑張ってる姿が格好良くて、さりげなく可愛いところも好きだった。
でも……なんでだろう。
いつも笑っているのに、
いつも泣いているような気がしたんだ。
次回番外編最終話、空倉陸の告白。
ありがとう。
さようなら。