番外編『七』 新木章吾と最強の敵
それなりに長いです。コメディでは、ありません。
いかなる場合であろうとも、最強の敵というのは能力で決まるのではなくその心で決まります。
では、どうぞ。
友情と悲哀を知った。
正義と強さを知った。
慈愛と勇気を知った。
理想と妥協を知った。
みんな壊れた。
生誕一日目。彼はゆっくりと欠伸をして体を起こした。
周囲を見回すと、そこは真っ白な空間。ただ、広くて無機質な部屋というわけではなく、ふわふわとした綿毛の中にいるような感触。……繭に包まれたさなぎがこんな感じだろうかと彼は思う。
欠伸をしてから、自分の存在を確認。それが不自然で仕方がなかったので、彼は首をかしげる。
自分に与えられたのは、普通の成人男性が持ち得る体と、記憶というよりも『記録』。無数の未来から取捨選択するであろう知識だけだった。
その知識ですら、恐らく『自分』という人間が持ち得るであろう知識であり、自分がどういう存在であり、なぜここにいるのかまでは分からない。
つまるところ、詳しいことはなにも分からないのであった。
「目覚めたか。……ふむ、どうやら調子の方は悪くないようで結構じゃの」
「……誰だ、アンタ?」
彼の側に立っていたのは、挑発的な表情を浮かべる少女だった。
年の頃は中学校に入るか入らないかくらい。艶やかな黒髪にほっそりとした顔立ち。顔立ちの子供っぽさと比較して所作は大人というよりも貴婦人のようで、瞳の色は彼の知識の中には存在しない色合い。
その瞳とあと一つだけ人間の常識から外れているところがあったが、それは無視しておいた。
角度によって七色に色を変える瞳を持つ少女は、少しばかり得意げに言った。
「我は、アル'キルケブレスと呼ばれている。この世界で一番強い『竜種』と呼ばれる存在だ」
「ふーん」
「………………」
「………………」
「……いや、ちょっと待て。なんじゃその薄い反応は?」
「いや、トカゲの王さまに用はないもんでな」
「ほほう? お主、生まれたばかりで消されたいと申すか?」
少女の頬が怒りに引きつる。
ベクトルは逆方向だが、どこかで似たようなヤツを見たなぁと思いながら、彼は欠伸をした。
「……なぁ、アル」
「勝手に人の名前を略すではない」
「じゃあ、お母様でいいのか?」
「……アルでよい。そもそも、我は『お母様』などと呼ばれる年齢ではないわ」
「へぇ、いくつ?」
「……人の常識では女性に年齢を問うのはやってはならんことではないのか?」
「人ならな。アルはどう見ても人じゃねーだろ。見た目通りなのか若作りなのかちゃんと判断しておかねぇと、後々の対応に困るだろ」
「対応?」
「手ェ出すかとか、出さないとか、そういう対応だけど」
「っ!?」
アルは髪の毛を逆立てて、彼から距離を取った。
「い、いきなりナニを言うかばかものっ! 破廉恥なっ!!」
「破廉恥でもねーだろ。男はそういう感情を抱いて当然。……少なくとも、知ったかぶりして結婚適齢期を逃すよりずっとましだと思うがな」
「し、失礼なっ! いくら我とてせいぜい一万二千年しか生きておらんわっ!」
「寿命はどれくらい?」
「長い者で十万年を越えるくらいだの」
「……なんだ。見た目通りに、まだガキじゃねーか。なんとなく予想はしてたけど」
「我は子供ではないっ!」
「人間の世界の常識なんだが、そういうセリフはガキしか言わねーぞ?」
「……………ぐっ」
悔しそうに歯噛みする少女を見つめて、彼はなんとなく苦笑した。
それから、不意に真剣な表情を浮かべる。
「で……なんで俺はここにいる?」
「我の誇りを奪おうとしている人間がいる。お主にはその人間を殺してもらう。期限は三日だ」
「そりゃ面倒なことで」
「正確には、お前の体は三日しかもたぬ。その代わり貴様の記憶の中に残っていて、貴様が必要だと思ったものは全て自分で用意できるように能力を見繕った。……あとはお前次第というわけだ」
「……ま、そんなこったろーと思ってたよ」
彼は口元を緩めてにやりと笑う。
いつもそうであるかのように、彼はふてぶてしく猫のように笑う。
「ガキの遊びに付き合わされるとは……やれやれだ。俺も相当焼きが回ってると見える」
「遊びではない。誇りの問題じゃ。あと、ガキではない」
「ガキさ」
彼はそう言って、細い目をさらに細めた。
「だから、後先のことも考えない」
バァンッ!!
不意に響いた破裂音に、アルは自分の目を疑った。
彼の手にはちっぽけな鉄の塊が握られている。それは彼女も知っている拳銃という武器だった。
もちろん、本来ならばそのようなもので彼女を傷つけるのは不可能だ。
しかし……現実には、アルの肩には小さな穴が開いていて、そこから血が吹き出していた。
「……………な」
「最強だなんだと思ってるヤツはな、大抵の場合油断してる」
彼は酷薄に口元を歪めると、何の躊躇もなく、無造作に彼女に近づいて肩を掴んだ。
いや、正確には……その開いた穴に指を突っ込んだ。
「づぐっっがッ!?」
叫ぼうとする少女の首に拳を打ち込んで悲鳴を押し潰し、彼は目を細めた。
「どこから引っ張り出してきたのかまでは知らないが、俺を生み出したのは良くなかったな」
「……おま、え」
「今後はこういうことも視野に入れろ。『創ったものに裏切られる』ってのは人間の間じゃ当然の認識だ。あと、お前はお前の能力を過信するな。ハートのエースだってジョーカーには勝てん」
彼はそう言って、アルの肩から手を離した。
そして、つまらなそうに顔をしかめてから頭を掻いて、銃を地面に落として両手を上げた。
「まぁ、反逆しようとは思わないさ。生まれたからには存在意義くらいは果たしてやるよ。俺はお前のために人を殺そう」
「………………」
「こらこら、そんな不審そうな目で見るな。高々肩を打ちぬかれて血がちょっとドバッといい具合に吹き出したくらいじゃねーか。お前ならすぐに治るだろ? それに、今から俺が殺しに行こうって相手はお前の何十倍かくらいは強いんだから、これくらいできるってことを証明したってことで……」
「肩を貫かれた程度は、気にしておらぬ。……反逆も、まぁ慣れている」
「ん?」
彼がアルを見ると、彼女はなんだか難しそうな表情を浮かべていた。
そして、創造主らしかぬ疑問を口にした。
「……お主、一体何者なんじゃ?」
根本的なことを聞かれて、彼は腕組をして少し考えてから、嫌そうな表情を浮かべた。
「んー……俺としてはそういう根本的なことを思い出そうとすると発狂しそうになるからものすごく勘弁して欲しいんだが、そもそもアルが俺の創造主だろ? なんでも知ってるんじゃねーのか?」
「お主のレベルに合わせて言葉を選ぶが、私がお前を創ったわけではない。能力は付随させたが、原型は『世界全ての知識の源泉』より引き出しただけだ。分かりにくければアカシックレコードやらアヴェスターでも構わない。……そのカタチも、お前の『敵』がお前を殺しにくいように選んだだけに過ぎぬ」
つまり、この体も記憶も、どこかのHDからダウンロードされて改良を加えられたプログラムのようなものだ。
あるいは、作り終わったプラモデルを改造するようなものだろう。
(……やれやれ、だ)
壊れたモノにいくら手を加えようが、壊れていることには変わらないだろうに。
彼は心の中でそんなコトを呟いて、ゆっくりと溜息を吐いた。
「ま、どーでもいいだろ、そんなコト。問題なのは俺が相手を殺れるか殺れないかだけだし」
「……それは、そうなのだが」
「気にすんなよ。どうせ俺の命は三日間。使い捨ての駒みてーなもんだ。そんなモノの原型を疑うのは心に良くないぞ?」
「………………」
少女は口元を引き締めて、彼を見つめた。
「お前は、変なヤツじゃ」
「ああ、よく言われる。どうやら俺の原型は相当壊れたヤツだったらしい」
よっこらしょと、彼は腰を持ち上げる。
それからちらりとアルを見て、ゆっくりと溜息を吐いた。
「アル、一応人間としてアドバイスしてやるが、もうちょっと人間の風習とかそういうのを学んだ方がいいと俺は思うぞ?」
「む? そうか? 我はお前と話しやすいようにちゃんと人間に偽装したはずだぞ?」
「間接的に言っても伝わらないなら直接言うぞ。服を着ろ」
「必要性を感じないな。ごわごわするし」
「ほほう?」
彼は思い切り顔をしかめて、ゆっくりと溜息を吐く。
それから頭の中のスイッチを入れ替えて『付随』された能力を発動。自分が思い描ける限り最高の素材を使って衣服をイメージ。とりあえずおまけとして煙草とシルバーアクセサリ各種も用意しておく。
目を開けると、イメージ通りの衣服が自分の体を包んでいた。先ほど地面に落とした銃を拾い上げ、ホルスターの中に収めながら、彼は口元を緩める。
「……なるほど、さっき『鉄』を創った時にも思ったが、こりゃ便利だな」
「あまり無茶なものは創るでないぞ? お主に付随させた力は我の能力の一部ではあるが、お主の原型はただの人間じゃからな。負担の一部は受け持ってやれるが、無茶をすれば自分に反動が来る」
「はいはい、分かってるよ」
「うむ、素直で結構。……ところで、さっきからなぜ我のことをずっと見ているのだ?」
「いや、あと五千年かとか色々と惜しいなぁとか思ってるだけだ」
「………………む?」
「俺が特殊な趣味の持ち主だったら押し倒してた。良かったな、貧相な体で」
「っ!? ぶ、無礼者っ! お主はそういうコトしか考えられぬのかっ!?」
「そういうコトを考えて欲しくなかったら、服を着ろ。裸の男と女がすることなんざ、生殖行動くらいなもんだぞ? あとは一緒に風呂に入るとか。……まぁ、どっちにしろやることは一緒か」
つまらなそうに言い放ち、彼はゆっくりと伸びをする。
そして、顔を赤らめた少女を見つめて少しだけ微笑み、ゆっくりと歩き出す。
「じゃあ、ちょいと行って来る。土産はまぁ……五分五分くらいで期待しないで待ってろ」
「……ちょっと待て。お主、自分が誰を殺すのか分かっているのか?」
「分かってる。そいつのことはこれ以上ないってくらいに知ってるからな」
適当に手を振りながら彼は歩き出した。
標的の名前は知っている。どこに向かっているかも知っている。
知っているのなら後は簡単だ。待ち伏せして迎え撃てばいい。いつもそうやってきたのだから今回もそうすればいいだけの話。自分の姿を見れば彼は己の最高の武器を使えないだろうし、あとは自分の立ち回り次第で勝率を五割程度まで引き上げられるだろう。
「さて……それじゃあ人形らしく三日間、テキトーに楽々と生きますか」
ポケットから煙草を取り出して火を点ける。
煙を吸い込んで、彼はイメージした通りの味に少しだけ頬を緩めた。
アルと呼ばれた竜の少女は、顔を赤らめながら彼が出て行った後を見つめていた。
それから、自分の体を見下ろして少しだけ不機嫌そうな顔になる。
「…………ふん」
まるっきり子供扱いだった。
母親が死んで一万年。独りで生きてきた自負があったにも関わらず。
「……人形のくせに、生意気な」
我知らず呟いてから、アルは人間の街でこっそり買った本を取り出す。
そして、その本に出てくる人物の服を具現化して、着替えた。
男物のその服は彼女には微妙に似合っていなかったし、サイズもかなり大きめだったのだが、アルは気にしなかった。
独りでなければそれを指摘してくれる誰かがいただろうことにも、気づけなかった。
新木章吾は執事である。現在は一人の女を救うために異世界を旅している。
同行人というより無理矢理ついてきたのはは褐色の肌を持つ、章吾の世界で例えるなら中学生ほどの女の子であり、引っ込み思案ですぐに顔を赤く染めてしまうような少女である。
それでも、彼女のおかげでこの世界の言葉が多少なりとも理解できるようになったのはありがたいことだったし、彼女が通訳になってくれたおかげで旅はかなり順調に進んでいる。
ただ一つ問題があるとすれば、彼女の体力のなさくらいだろう。
「なぁ、ルゥラ」
「………………なに?」
答えるまでにかなりの間があった。少女は疲労困憊で顔も真っ青だった。
章吾は少しだけ苦笑をして、ルゥラを見つめた。
「いや、少しだけ休もうかと思ってな」
「………………わたしなら、しんぱい、ない」
「私が休みたいんだ」
「……うん」
ルゥラはこくりと頷いてから、ゆっくりと息を吐いて足を止めた。
「……ごめんなさい」
「まぁ、そんなに気にするな。休憩が必要だったのは事実だ。急いではいるが体を壊すほどに急いでは意味がない」
笑いながら彼女の頭をポンポンと叩いて、章吾は街道を外れて腰を下ろす。ルゥラもそれに習って腰を下ろしてから、水筒を取り出して少しずつ口に含むように水を飲んだ。
章吾はなんとなく猫に餌をやっている時を思い出して微笑んだ。
その笑顔は、まぁ控え目に見ても普段からしかめっ面をしている彼にしては珍しくとても優しいもので、水を飲んでいたルゥラは章吾が笑っていることに気がつくと、かなりびっくりして顔を赤らめ、それから恥ずかしさのあまりちょっと倒れそうになった。
「お、おい。大丈夫か? もう少しゆっくり休んだ方がいいんじゃないか?」
「……へーき。だいじょぶ」
パタパタと手で風を送りながら、ルゥラは誤魔化すように残った水を飲み干して、息を吐いた。
「もうすこし、だから」
「もう少しって……ああ、次の中継地点までってことか?」
「そう。つぎの国は安心で安全で……きっとしょーご向きだとおもう」
「私向き? どういうことだ?」
「………………まぁ、見れば分かる、かと」
ルゥラはそれとなく章吾から目を逸らしながら、こっそりと溜息を吐く。
章吾は彼女の行動がよく分からずに、疑問符を浮かべていた。
「ようこそ、人間さん。狼の国『アッシュバレー』にようこそいらっしゃいましたっ! この国では観光客の方々を厚くもてなすために、この国の風習と週間を学んでもらおうと『滞在期間狼キャンペーン』を実施しております。こちらが狼の耳と尻尾になるので、滞在期間中はこちらをご着用ください。あ、外したら強制退去なんで」
と、いうような無茶苦茶なことを言われたらしい。
狼の耳と尻尾の模造品をルゥラに渡されながら、章吾はかなり嫌そうに顔をしかめていた。
ちなみに、ルゥラの方は早々に耳と尻尾を身につけていたりする。
「……そういうわけだから、つけて」
「いや、しかしこれは……」
「しょーごの世界では恥ずかしいことでも、これがこの国のぶんかとふうしゅう」
「………………むぅ」
かなり説得力のある言葉に気圧されて、章吾は仕方なく不承不承、狼の耳と尻尾を身につけた。
あの屋敷の面子に見られたら大爆笑必至だろうなと思いながら、頭の上に乗った耳に触ってから思い切り溜息を吐いた。
「……変だろ、どう見ても」
「にあう。すごくにあう。しょーごのためにつくられたみたい」
「………………」
目をキラキラさせているルゥラに対し怒ることも悲しむこともできず、章吾は苦笑いを浮かべた。
実際のところは心の中であまりの情けなさに号泣していたりするのだが、それを顔に出さないあたりが彼の人柄を物語っていると言えるだろう。
シスターやら美咲がこの姿を見たら、絶対に笑い転げるだろうという確信が彼にはあった。
実際には思い切り顔を赤らめながら二人ともあさっての方向を向くだろうが、章吾はそこまで自分が好かれているとは、まるで思っていなかった。
優秀すぎる弊害か、彼は女心を読み取る能力が普通の男よりも遥かに劣っていた。
「さて、それでこれからどうするんだ?」
「しょーごは宿をとってきて。わたしは王さまに挨拶しなきゃいけないから」
「王様?」
「ろぼ王。おおかみの王さま。わたしは月に属するかみさまのみこだから、おおかみとは仲がいいの」
「……なるほど、な」
月と犬。狼と満月。月の化身。
吸血鬼の天敵と言われ、銀の武装以外には無敵を誇る生物。
章吾の世界では御伽噺でも、こちらの世界には『人狼』という生き物が存在している。
と、言っても人狼が人を無差別に襲うわけではない。章吾も話したことがあるが、彼らの大半はちょっと臆病者だが、いったん打ち解けてしまえば明るく愉快な連中だった。
「わたしは王さまにあってくるから、しょーごは宿を取っておいて。この国はどの宿でもねこみをおそわれることもないから、大丈夫」
「……そうか。それなら、久しぶりにゆっくりできそうだな」
「でも、一つだけ注意」
ルゥラは不意に真剣な表情になって、章吾に言った。
「この国じゃ、たびびとは人を助けちゃいけないの」
「どういうことだ?」
「狼は強いし気さくで仲間いしきが強いの。めったなことじゃ迫害しないしみすてないし最後まで守ろうとするの。それが狼の誇りのようなものだから」
「いいことじゃないか」
「それでも、いつの世界もどこでだって、仲間はずれはいる」
ルゥラの言葉は、とてもとても重いものだった。
「誇りを失った狼は狼じゃないの。少なくとも『この国』じゃそういうふうに思われてる。仲間に頼りすぎて自堕落になって、上を見ることをわすれてじだらくになった狼はどこかで仲間はずれにされて、殺されるの」
「………………」
「だから、この国じゃ人を助けちゃだめ。誰がとがびとか分からないから」
「知らなかった……じゃ、済まされないってことか」
「うん。でも、狼の仲間は仲間が助ける。だから、ここじゃそとの人間が手を出しちゃいけないの」
「……分かった、肝に銘じておく」
「ならいい」
ルゥラはにっこりと笑ってから、章吾に背を向けた。
彼女の背を見送ってから、章吾は周囲を見回して歩き出す。
二人が別れたのは、露店や客引きなどで賑わっている宿の近い商店街だった。
道は整備されており、コンクリートとまではいかないがきちんと石畳が整備されており歩くのに不自由はしない。
「よう、兄ちゃん。旅人かい? この国は始めて?」
「ああ。……だが、この国は活気があっていい国のようだ」
「だろう? なんせここは十数年前に第七騎兵隊で獅子奮迅の活躍をした英雄が治める国だからな。まぁ、まだまだ未熟なところもあるようだが、その辺は長老どもに期待せにゃならんな」
まるで我がことのように王の自慢をする露天商の男は、心の底から誇らしげだった。
(なるほど、確かに仲間意識が強い)
章吾は納得しながら、露天商の男に別れを告げる。
商売をするのに食い下がるわけでもなく、露天商の男は気さくに手を振った。
通りを見ると、誰もがそんな感じである。子供も大人も気さくで、よくしゃべり、よく笑う。笑いが商店街に活気を生み出し、旅人もつられるように物を買う。
どうやら、狼たちはなかなかの商売上手のようだった。
「さて……この様子なら、いちいち疑う必要もないか」
宿探しは適当に人をつかまえて聞けばいいと、章吾にしてはわりと安直な判断を下し、章吾は近くにいた男に声をかける。
「あの、すみません」
「あぁ?」
睨み付けられて、章吾は思わず口元を引きつらせる。
男の頬には殴られたような跡があった。
「……いいえ、なんでもないです。人違いでした」
「なんでぇ、ばぁろう」
男は酒臭い息を吐きながら毒づくと、通りをフラフラと歩いて行った。
章吾はゆっくりと安堵の溜息を吐く。あんな酔っ払いなどその気になればいくらでもどうにかできるが、入国したばかりの国でいきなり騒ぎを起こすのは避けたかった。
「……ったく。この時限爆弾を引き当てるような性質はなんとかならんものかな」
やれやれ、と溜息を吐く。なんとなくいつも運の悪さで色々なものを見逃している気がするのは……まぁ、気のせいではないだろう。
己の宿命に苦笑しながらも、とりあえず章吾はルゥラが好きな柔らかいベッドのある宿を探すことにした。
助けた女は、まぁなんつうかありきたりな夫の暴力に難儀しているようだった。
この国じゃ、仲間が仲間を助けるという風習が普通で、女も男も仲間から恋人に、恋人から夫婦にと自然にシフトした連れ合いだったのだが、夫の方が酒癖の悪さを夫婦になるまで隠していたからたまらない。
日常化する暴力と逃亡。最近じゃ刃物を持ち出すことも少なくないとか。
妻にも当然仲間はいるが、夫という仲間を越えた伴侶をなんとか止めたいと思い、なにより夫を見捨てるのが怖くて、仲間に相談することもできないのだとか。
……まぁ、なんつうか色々あるわな、ということなわけで。
夫の暴力というか暴走で散らかった宿の中を片付けるのを手伝っていると、人狼の人妻(若い)は、不意に頭を下げた。
「先ほどはありがとうございます。……でも、その」
「ああ、分かってる。外の人間がこの国のやつを助けちゃいけないんだろ?」
俺が助けたのは宿屋の女主人で、二人で始めた宿なのにいつの間にか一人で経営することになったとかなんとか。まぁ、100%くらい夫が悪いのは言いっこなしだ。
その夫のおかげで、俺はこうしてタダで宿泊できるわけだし。
「俺がなんとなくぶん殴った男が、アンタの夫だっただけだから気にすんな」
「いえ……あの、それもどうかと思うんですけど」
「それに、女の顔を殴る男は種族関係なくことごとく死んでいい」
そこだけはきっぱりと断言しておく。
活動期間三日間のお人形さんにだって、意地はあるのだったりする。
「まぁ、今日はラッキーだと思っておけ。どうせああいう手合いの男は金に困ったらまたやって来る」
「………………」
事実しか告げていない俺の言葉に、女は顔を伏せた。
「……あんな乱暴をする人じゃ、なかったんです」
「過去なんざ俺は知らないよ。……だが、今は誰がどう見ても暴力亭主だろ。アンタが暴力に屈さずに耐えているのは、まぁ我慢強いと思わなくもないけどな、それに我慢がならないヤツがいるってことも覚えておけよ」
散らかったガラス片を片付けながら、俺は目を細める。
「まぁ、同情はしねぇよ。夫婦の問題なんざ人が口出しすることじゃないし。……ただ、こと力勝負となると女は一方的に不利だから、早々に誰かに相談しろとは言っておく」
「…………はい」
反論の一つも出てこない。女はただ俯いて、涙を拭った。
やれやれと思う。つまらないことだと思う。
どうやら、俺の原型になった人間は相当ぶっ壊れた野郎だったらしい。
ま、いいや。どうせ三日間限定の踊る人形だ。
せいぜい、テメェの意志で踊っていると思い込んでいる舞台で、必死で踊るとしましょうか。
「一つ聞いていいか?」
「……なんですか?」
「アンタ、今でも亭主のことを愛してるか?」
「………………」
女は黙って唇を噛んだ。
人狼特有の尖った耳が震えていて、俺はちょっとだけその頭を撫でたくなったが、シリアスな場面なので堪えておいた。
返事は来ない。来ないってことは明確だ。
とっくの昔に、愛想なんざ尽きてるってことだろう。
もしくは……愛しているが、それ以上に憎しみも強くなっているか。
「助けてやろうか?」
「…………え?」
「だから、助けてやろうか? 俺はどうせ根無し草だし、この国で問題を起こそうがどうってことはない。アンタを助けたところは誰かに見られたかもしれないが、それもアンタが黙っていればオールオッケーだ。……それに、アンタはこのままでいいのか? あの亭主は狼の誇りってやつに泥を塗りたくっているような気がするんだけどよ?」
「…………っ」
それはたぶん、女にとっては重い言葉だっただろう。
人狼は仲間意識が強い。同時に誇りや自尊心も人一倍だ。
己が誰にも恥じることのない真っ当な生き方をしていると思えるなら、それをそのまま貫くべきだというのが、この国で教えられている『誇り』だからだ。
まぁ、正直言うとそんなことは知ったことじゃない。俺にとっちゃ所詮は他人事。決断するもしないもこの女次第だ。
女は顔を上げる。そこには夫の暴力に屈して泣き腫らす女はもういなかった。
「私では、夫には敵いません」
「ああ」
「お願いします。夫を殺してください」
「分かった」
二つ返事でOKを出し、俺はゆっくりと女に歩み寄って頭を撫でる。
犬っぽいふわふわとしたくせっ毛は、手に心地良かった。
「ああ、言い忘れた。報酬の話だが……」
「お金ならいくらでも出します」
「いや、金は要らない」
「え?」
俺はにっこりと笑う。
それはたぶん、嘘偽り誤魔化しで創られた、89年無敗の笑顔。
「報酬は、アンタがいいや」
「………………へ?」
人形の人生にも、ほんのちょっとだけ張り合いが出てきた。
さて、これで抹殺ターゲットは二人。ちょっと難易度が上がってしまったわけで。
とりあえず、手近な野郎から殺しましょう。
執事こと新木章吾は、久しぶりにゆっくりと体を休めていた。
肉中心ではあるがかなり美味い食事を腹一杯食べて、この世界には珍しい風呂にゆっくりと浸かり、柔らかいベッドに横になった。
現在着ているのは、この国でよく着用されている奇妙な文様が刻んである伝統衣装で、軽くて比較的動きやすい普段着のようなものである。いつも着ているなぜか汚れない執事服は念のために宿屋のサービスの一つであるクリーニングに出し、白い手袋も枕の脇に置いていた。
「うん、いい国だ。永住したくなってしまうくらいにいい国だな」
「しょーごにはお似合い」
「はは、そうかもな」
軽く笑いながら、章吾は柔らかい枕に顔を埋めた。
昼に干されたばかりと思われる枕からはほんの少しだけいい匂いがして、章吾は屋敷にいた頃を思い出す。
楽しかったあの頃というわけでもないが、あの連中はうまくやっていけているのか、ほんの少し心配ではあった。
あの少年は、自分とは比べ物にならないくらい人の心を掴むのが上手い。
だが……それ故に、危うい気もする。
「……しょーご、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
ルゥラの心配そうな表情に、章吾は苦笑で応えた。
(心配しても、意味がないことは分かっているんだが……これは性分だな)
ゆっくりと息を吐いて気持ちを切り替える。
今は休もう。そう思って仰向けに寝転がったところで、
どこか遠くで、パン、という音が響いた。
章吾は即座に体を起こす。
それがあまりに唐突だったため、ルゥラは驚いて顔を上げた。
「しょーご?」
「ルゥラ。ここから一歩も動くな」
「急にどうしたの? 今の音は……」
「いいから、絶対に動くな」
なんの説明もないまま言い含めて、章吾は手袋を掴んで外に出る。
屋敷で散々鍛えられた直感と経験則が語っている。
あれは、銃声だ。
この異世界では人間が住む領域以外には存在しないとされる武器。少なくともルゥラのような箱入り娘ではその存在すら知らないだろう。
そして、銃のような危険極まりない武器を前に、『知らない』というのはあまりにも危険過ぎる。
宿から飛び出し、一気に走り出す。音の方向と響き具合から察するに、かなり近い場所で銃は撃たれたはずだと推測し、裏通りを突っ切る。
銃声のした方向に見えたのは、ボロボロになって寂れた洋館だった。
雑草が生い茂る庭。打ち壊された門。ガラスのことごとくが割られ、かつてここに住んでいた人間と誇った栄華はどこにもない。
章吾は足音を殺しながら朽ち果てた扉に近づき、中を覗き込む。
「覗きはいかんぜ、執事さんよ」
そして、背後から固いものを突きつけられて、体を硬直させた。
「迂闊だなぁ。アンタともあろう者が、俺ごときに背後を取られるとはね。俺が成長したのか、あるいはアンタが腑抜けていたか……まぁ、どっちでも同じことだが」
「……お前は」
「おっと、ちょいとばかし気が早いぜ。まずは両手を上げて扉をくぐってホールに入りな。質問タイムは中でしようぜ」
仕方なく章吾は両手を上げて玄関ホールに侵入する。
そして、次の瞬間には血の匂いに顔をしかめることになった。
「……誰を殺した? 死体は?」
「前人妻、現未亡人に頼まれて夫を殺した。死体は適当に処理しておいた」
人を殺したと宣言したにも関わらず、男は飄々とした口調で言う。
「しかし、ここまで来るのにジャスト五分とはな。あと少し死体を始末するのが遅れていたら、かなりみっともない姿を晒すところだった。相変わらずお前は超優秀だよ」
「なにを言っている? 私はお前など……」
言葉が詰まる。章吾は目を見開いて、己の記憶の糸を辿る。
それは、いつも聞いていた声だった。
それは、いつも見ていた姿だった。
それは、いつも自分を見ていた誰かだった。
男は銃を引き、ゆっくりと歩き出す。
章吾の正面に回った男の顔が、月明かりに照らし出された。
細い目つき。鍛え抜かれた細身の体には高級なスーツ、腰に吊るしたホルスターにはリボルバータイプの拳銃が収められている。
「お前は……いや、君はまさか」
「つまらんことで迷うなよ、執事。これは、お前が知っている誰かの人生をベースに構築された……三日間限定の人形さ」
青年はにやりと笑う。彼に似つかわしくない不敵な笑顔。
まるで世界最強のように、笑っていた。
「さて、それじゃあ殺し合おう。俺が俺らしくあるために、な」
不敵な笑顔のまま、無敵な笑顔のまま、彼はそう宣言した。
現在、恐らく世界全部を含めても、新木章吾という男に匹敵できる執事はそういない
頑なで融通が利かなくて不運ではあるが、章吾という男はこれ以上なく有能だ。
あるクソ女が作った武器で絶望を打ち破り、女を助けるためにこの世界までやってくるほどに有能で、経過はどうあれ新木章吾という男の本質はそこにある。
放たれた拳は綺麗に平手で受け流し、ついでに蹴りは受け止めると腕が折れそうだったので後ろに跳んで回避する。
やべぇなぁ……この執事、格闘だけに限定すりゃ母さんに匹敵するかもしれん。
距離を取った俺を、執事は目を細めて睨みつけていた。
「お前は……あいつなのか?」
「厳密には違うな。俺はあくまで存命期間三日のお人形。お前の言う『あいつ』がこのまま行けば辿るかもしれないナレノハテさ」
「それじゃあ、打倒はできそうだな。お前はお前であって、坊ちゃんじゃない」
割り切りの早い野郎である。もうちょっと迷ってもよさそうなもんだが。
仕方なく俺は溜息を吐いて、いつも通りに揺さぶることにした。
「冥さんはある所で修行して、なんか色々と優秀になって僕をサポートしてくれた」
「ん?」
「舞さんはなんだかんだ言って、結局最後まで付き合ってくれた。あの子がいなかったら僕は死んでいたかもしれない。だから僕は最後まであの子の世話を焼いた」
「……なにを、言って」
「京子さんからは色々なことを教わった。僕は、あの人の全部を学んだ」
「………………」
「美里さんはいつも通りに絶対無敵で、僕はあの人には絶対に敵わないと思う」
そう締めくくって、俺は執事を真っ直ぐに見据えた。
いつもそうしていたように、そうすることをやめた時のように、執事を見つめる。
「コッコさんはいなくなった。この世界のどこからも」
執事は目を見開く。それと同時に、手袋から光が失われていった。
「未来は流動で確定してはいない。けど、俺は確定していない未来から『もっとも確率の高い』ものを選んで具現化された。この記憶も思い出も全部が偽物だけれど……それは同時に、『これから本物になるかもしれない』可能性を指している」
「……嘘を、吐くな」
「本当だ。人形の言うことだから信用できないかもしれないけどね」
「なら……山口は、どうなったんだ?」
執事の疑問に、俺は答えない。
意地悪で嫌がらせで途方もないほど卑劣だけど、俺はいつでもこうやってきた。
まぁ、それでも多少のリップサービスは必要だろう。
「俺を殺せたら教えてやるよ、執事。せいぜい殺されないように足掻いてみろ」
「…………やめろ」
「嫌だね」
ホルスターから拳銃を引き抜いて間合いを詰める。
執事は迷いの表情を浮かべたまま、俺を迎え撃つために構えを取る。
俺は、いつも通りに相手の間合いに切り込んだ。
拳は相変わらず速い。半歩ぶん体をずらして拳をかわし、後に続く蹴りは体の全部位の中でもっとも固いとされている肘で受け止めた。
それでも執事が表情を変えなかったのは、驚嘆に値するだろう。
だが、それではこれはかわせない。
キョーコの持つ最強武器。
その正式名称を『零絶破・鉄』という。
射程距離は0センチ。相手に密着しなければ引き金を引けないという限定兵装。
ただし、銃の利点の全てを殺したこの武器は、引き金さえ引ければ相手を確実に射抜くという究極とも呼べる利点を持つ。
俺は躊躇なく執事の胸に銃口を添え、引き金を引いた。
撃鉄は落ちなかった。
「……おいおい」
呆れてものが言えない。知っていても普通は実行に移せない。
いや、そもそもあの瞬間に実行に移せる時間はなかった。
執事は、俺が引き金を引くよりも早く、自身の指で撃鉄を押さえていた。
銃という武器構造の話になるが、主に弾丸の部品は弾頭、発射薬、薬莢、雷管に分類される。撃鉄はこのうちの雷管をぶっ叩く役割を果たし、雷管が爆発し発射薬に点火、弾頭を飛ばして相手に命中するわけだ。薬莢の役割は発射薬のケースのようなもんだと思っていい。弾丸を安全に携帯するのに必要なもので、上手くすれば再利用も可能だ。
つまり、撃鉄を押さえてしまえば、ハンマーが落ちないようにしてしまえば、銃を撃つことは不可能になる。
しかし知ってても普通やらない。ものすげぇ痛いからだ。
ああ、でもやっぱりだ。こいつはどこまでも執事で、誰かを助けるために行動を続ける馬鹿な男なんだ。
だから、こんな手にも引っ掛かる。
「……っ!?」
痛みと迷いで一瞬以上硬直した執事は目を見開く。
「甘いな、執事。迷いが見えるぜ」
最強の武器である鉄から、俺はあっさり手を離す。
執事の左胸に拳を添える。この位置は間違いなく急所だ。的確にアバラを打ち抜けば、そいつが心臓に刺さって致命傷になる。
俺は執事を見据えながら、思い切り拳を打ち出していた。
頚と呼ばれる技術がある。
中国拳法にある技法の一つで、全身の力を一箇所に集中させる極意のようなものだ。
大地を踏みしめる両脚の力、腰の回転、肩の捻り、そういったものを拳面に集中させ、解き放つ。達人になれば密着した状態からでも、恐ろしい威力の拳打を放つことが可能となる。
格闘技を修めた者と一般人の拳打の差というのは、つまるところ体の鍛え方もそうだが『体の運用方法』がそもそも違うからである。腕のみの力で放つ拳と、全身の力を効率良く運用させた上で放つ拳。どちらが強いかなど言うまでもない。
青年が拳を下げる。口元を緩めて、苦笑した。
「……やれやれだ、執事。お前は本当に反則的に強いね」
「運が良かっただけだ……」
腹を押さえて、章吾は挑発には乗らずに立ち上がる。
青年が拳を放った瞬間、章吾もまた青年に拳を放っていた。
速度はほぼ互角だったが、銃を捨てた分だけ、章吾の硬直以上に青年が若干遅れた。
密着した状態から無理矢理放った拳だったため威力はさほどでもないが、相手の体勢を崩すには十分だった。……そして、体勢さえ崩れれば十分な威力は発揮できない。
狙いがそれて腹に命中したのは仕方ないだろう。命を取られたり、骨を折られるよりはましなのだから。
「認めよう。……お前は強い」
「そりゃどーも。こっちの必殺手を軽々返しておいてそりゃねーだろとは思うがな」
青年は呆れたように苦笑して、一歩を踏み出す。
章吾は青年を見つめて、ギリと歯を噛み締める。
「…………なぜだ」
「あ?」
「坊ちゃんは……あいつは、今の君ほど強くはない。己を鍛え上げて、鍛え続けて、それでも坊ちゃんはあれで終わりだ。成長の限界まで……もう達している」
「限界? そんなもんは誰が決めた。行き詰ったのなら工夫すりゃいいんだよ」
それは、紛れもなく。彼の言葉だった。
「限界? 終局? そんなもんに関わっている暇はなかったさ。俺はいつだって家族を守るために生きてきた。家族を守るためだったらなんだってした」
彼はいつも通りに普通で、あまりにも普通だったが故に終わり果てた。
「気づいたのは死ぬ間際さ。89年生きてきて、死ぬ間際にようやく気がついた。……俺は俺がしたいことを何一つしていなかったことを」
苦渋に満ちた表情のまま、彼は血を吐くように言った。
「自分のことを何一つ成し遂げないまま、誤魔化し続けて、嘘を吐き続けた」
それでも嘘を吐いてでも、守りたいものがあった。
死ぬまで嘘を吐き続けた彼には、守りたいものがあった。
「最悪なことに『俺』は嘘で塗り固めて笑ったまま死ねる大馬鹿野郎だった。最初から最後まで家族に清廉潔白を貫いて、海産物一家みてーな一話十分で終わるようなドラマを延々と繰り返し続けて、それを退屈とも思わず、自分に苦痛とも認識させなかった」
「………………やめろ」
「ああ、そうだな。――言ってしまえば、俺は自分で自分に嘘を吐く天才だった」
「………もういい。やめろっ!」
「普通らしく、当たり前に、言い訳を繰り返して嘘で塗り固めた」
彼は『いつも通り』に人懐っこい笑顔を浮かべた。
「それでもな、俺はこの生き方を誇ってやるさ」
彼の手に、再び黒光りする拳銃が握られる。
「一人は見捨てたけど、残りの四人は助けられた。だから今も助けるのさ。長生きで小さくて身の程も知らず、羞恥もよく分からないような家族をな」
踏み出す一歩には迷いはなく、未練もなく、後悔だってきっとない。
故に、彼は英雄だった。
たった四人にとっての英雄でしかなかったけれど、彼は英雄だった。
ただ一つの誇りのみを胸に秘めて死んだ彼は、笑って口を開く。
「だから迷うな、執事」
「…………しかしっ!」
「まだ分からないか。……お前には、助けたい女がいるんだろうがっ!!」
彼は、心の底から叫んだ。
その叫びは、どんなものよりも、どんな言葉よりも重かった。
「甘ったれるなっ! 余裕のあるふりをするなっ! ルゥラを抱え込んだ時点で、お前の背中は積載重量ぎりぎりで、乗せられるものなんざなに一つねぇんだよっ! だったら他は全部見捨てろっ! 同情も全部捨てろっ! ここで俺に同情して、それでお前が助けたいと願うその女たちを悲しませるつもりかっ!?」
「っ!!」
「俺は一人助けられなかった。……だけど、章吾さんは違うだろっ!?」
憧れは憧れのままで。
羨ましくて仕方がなかったけれど、その背中に憧れた少年のまま。
彼はみんなを守って、最後まで生きて、寿命で死んだ。
たった一つの、取り返しのつかない未練を残して、誇りを抱いたまま死んだのだ。
青年はゆっくりと息を吐く。目を細めて章吾を睨みつける。
「行くぜ、執事。お前を殺す」
「………………」
「抵抗しなくても、俺は俺のためにお前を――」
青年の言葉が途切れると同時に、一瞬にして青年の背後の壁が吹き飛ぶ。
この時点で章吾は予測できることを怠っていたことを、後悔した。
「しょーごっ!!」
自分以外のお節介がいたことを、失念していた。
壁を破砕したのは褐色の肌をもつナビゲーターで、章吾の現在の相棒。
あの時と同じように全身に文様を刻んだルゥラは、最速で青年に拳を叩き込む。
「やめろ、ルゥラ!!」
叫ぶが、その時点で既に手遅れなことを章吾は知っている。
青年の武器は鉄でも体術でもない。ただ『普通』であることに尽きる。
壁に罅が入る音が聞こえたから後ろを振り向いて、その時点で危険だと悟ったから身を翻して爆風を逃れる。相手が尋常でない力量だと想定した上で、壁から突入した時、最も自分に効果的に打撃を与えられるかを推測し、ルゥラが拳を放つ直前には、既に対策が出来上がっている。
普通に予測して、普通に対処するのだ。
ただその日常生活における『普通』を、とっさの時にできる人間がいないだけ。
「え?」
拳が逸れる。
章吾を殺そうとした男を倒すはずだった拳は、男を避けるように逸れていた。
男の手には、光り輝くハタキが握られていた。
彼は口元をつり上げて、ルゥラの肩に無造作に鉄を押し当てて引き金を引いた。
いや、正確には彼の推測どおり、引き金を引くことはできなかった。
腕が吹き飛んで地面に落ちる。
白き槍が、剣が、その他諸々の白き武器の数々が青年を貫き、吹き飛ばす。
次の瞬間には、青年は壁に縫い付けられていた。
「………………やれやれ、だ」
青年は少年のように笑って、血を吐いた。
機能が断絶する感覚と鮮烈な痛みに顔をしかめて、彼は顔を上げる。
彼の目の前には、今にも泣きそうな顔の執事が立っていた。
「…………ばか。なんて顔してんだよ、執事」
「……すまん」
「謝るな。謝るくらいだったら最初から誰かを助けようなんて思うな」
「それでも……すまん」
「……ったく」
口を尖らせて、ついでのように血を吐いて、青年は笑う。
「月ノ葉光琥、だ」
「え?」
「あのクソ女の本名だよ。錬鉄忠誠一族『月ノ葉』。まぁ、もっともそんな一族はとっくの昔に滅んでなくなってるが……あの女と、あと二人くらいが生き残りだ。首輪をつけておかないと、勝手に暴走してなにもかも叩き潰しちまうのが共通点さ」
口元だけで笑って、それでも彼は笑いながら、煙草をくわえて火を点ける。
「忠告だ、執事。あの女にはなにもさせるな。特に……庭師の真似事とかな」
ゆっくりと紫煙を吐き出して、彼は目を閉じる。
「おい、ちょっと待てっ! 勝手に言い捨てて勝手に死ぬなっ!」
「いや、そこは死なせとけよ。いくら作られたお人形だって耐久限度ってもんがあるからな? っていうか揺さぶるな痛いすげぇ痛い。前に死んだ時もこんなに痛くなかったっていうか分かったから離してくれっつうのっ!」
ほぼ死に体でありながら最後に叫ぶことができたのは、もしかしたら奇跡かなんかだったのかもしれない。
青年は溜息と一緒に血も吐いて、顔をしかめて言った。
「無茶苦茶しやがるな、テメェ。せっかくいい気分で死ねそうだったのに」
「……いや、すまん。正直気が動転して」
「ま、いいけどさ。……あー、そうだなァ。あとは……」
「あとは?」
「俺は基本的に女たらしだ」
「……ああ、全然知りたくもなんともない情報だが」
「ついでに言うと、卑怯で卑劣なコトを、これも長所だと受け入れている」
「……ああ、まぁそれは見てれば分かる」
「さらに付け加えると、和服よりメイド服の方が好きなんだ」
「……ああ、そんな己の嗜好をここでぶっちゃけられても困るだけなんだが」
苦笑を浮かべた少年は、己の生で最後の言葉を紡いだ。
「とりあえず、あの女がいないと俺はこんな風になる」
「………………」
その言葉が耳に届いた瞬間、章吾は彼を引き止めたことを後悔した。
彼は苦笑しながら手を振って、諦めたように、ポツリと言った。
「まぁ、なんだ……反面教師も教師のうちってこった、な」
そして、まるで眠るように。
生きて死んだ時と同じように、彼は緩やかなまどろみの中に落ちていった。
ルゥラ=ラウラは、守られながら育った少女である。
部族にいた頃は当たり前のように守られていたし、今だって章吾が守ってくれていた。彼女自身は章吾の相棒のような気持ちで、実際に役に立っている自覚もあった。
ただ、彼女は『どうしようもないほどお人よし』な人間を知らなかった。
何か一つを守りたいと思っている人は見たことがあったが、色々とたくさんのものを守りたいと思っている人間を……彼女は見たことがなかった。
「……ねぇ、しょーご」
「ん?」
「なんか……いたたまれないよーな、そうでもないよーな、微妙なかおだね」
「……まぁな」
章吾は光の粒子になって消えた彼のことを思い出し、ゆっくりと息を吐く。
締まりのない最後だったような気がするが、こんなものかもしれないと章吾は思う。
結局のところ、彼はそういう風に生きて、そういう風に死ぬのだろう。
「……説教されてしまったらしいな、どうやら」
「うん。みたいだね」
「ルゥラ」
「なに?」
「今の話を、この前ルゥラが戦った魔法使いに伝えてくれ」
「……え?」
ルゥラは目をしばたかせる。
背筋を嫌な予感が駆け上がる。
さりげなく、別れを言い渡されたような気がした。
「それじゃあ、頼んだぞ」
章吾は懐から灰色の短剣を取り出し、地面に突き刺した。
その瞬間に、ルゥラを包んでいた世界の全てが歪む。
「…………あれ?」
目を開けると、そこは別世界だった。
to be next ……『空倉陸の混乱』
おまけ。
アル'キルケブレスは世界最強の竜である。
そんな彼女はぶかぶかの服を着たまま、仏頂面で宿屋の屋根に降り立った。
「……ふむ、どうやらこの辺のようじゃの」
そんなことを呟きながら姿を消して、地面に降り立った。
もっとも、彼女は堪え性のない女である。姿を消していたのは地面に降り立つまでで、すぐに術を解除して姿を現した。
「きゃっ!?」
「ぬ?」
もっとも、そんなことをすればどうなるかなど明白で。
アルは、宿屋から出てきた女主人らしき人狼に『姿を現すところ』をもろに見られていた。
(……殺すか?)
などと、一瞬物騒なことを考えた少女竜だったが、すぐに気を取り直した。
姿を見られては仕方がない。聞けることだけ聞いて記憶を消そうと思い立つ。
「そこな人狼の女。キツネのように細い目をした、極めて変な男を見なかったか?」
「………………えっと」
顔を赤らめて視線を逸らす人狼の女。
アルは一瞬で不機嫌になった。
「隠すとためにならんぞ? こう見えても我は世界最強の……」
「居場所までは知りません」
「……ぬ?」
「でも、お世話にはなりました。……ちょっと、高い報酬でしたけど」
顔を赤らめながら、やはり目を逸らす人狼の女。
アルは一瞬なにがあったのか深く尋ねたい衝動に駆られたが、なにやら本能的に色々とまずいものを感じて、口をつぐんだ。
「そ、そうか……まぁ、知らないならいいんだ」
「貴女、彼の妹さん?」
「いいや、違う」
「じゃあ、奥さん?」
アルは思い切りその場にすっ転んだ。
「な、ちょ、ちょっと待てっ! どこからそういう発想が出てくるのだっ!?」
「あら、人狼は貴女くらいの年齢で結婚している子も多いけど」
「っ!?」
自称最強の少女竜は、この時初めてカルチャーショックというものを経験した。
この竜、肉体的にはともかく精神的にはかなりのダメダメさんだったのである。
「ちゃんと掴んでおかないと、ああいう凧みたいな人はすぐに逃げちゃうわよ?」
「だ、だから我とあいつはそのような関係ではないっ!」
「それじゃあ、新婚旅行にはこの宿をご利用ください」
「違うと言うにっ! おい、聞いておるのか人狼っ!?」
宿屋の女主人は朗らかに笑いながら宿屋に引っ込み、後にはアルが一人残される。
荒い息を吐きながら、少女は一人決意を固めた。
「あの馬鹿、絶対に殴ってくれるわ」
ふん、と鼻息荒く、少女は歩き出した。
その後、半泣きになりながら全力疾走する男と、ぶかぶかの服で転びながらも滅茶苦茶な速度でその男を追いかける半泣きの少女を宿屋の女主人は目撃し、思わずあらあらと頬を緩ませながら二人の仲裁に向かったりしているのだが。
まぁ、それは別の話。
『新木章吾と最強の敵』……END
……解き明かせ、解き明かせ、解き明かせ。
最終命題2の最終問題までの道のりが開きました。
と、いうわけで次回は文化祭編。
逆転喫茶、始動。