第五話 坊ちゃんとある日の休日風景
大事な人を大切にしろ。
思いやりを持ち敬意を忘れるな。
己を鍛え初心を持ち続けよ。
弱さを受け止めるだけの強さを持て。
そうすれば、お前はきっといい男の子になる。
いい匂いがする。
朝の空気の匂いだろうか。でも、この匂いは朝の空気というには清浄ではなく、なんかこう甘ったるいけど、いつまでもこの芳香の中にいたいと思わせるような……そんな表現しがたい、いい匂い。
僕はゆっくりと目を開けて、
「……っ!!?」
声を出さずに驚愕した。
待て……落ち着け。とりあえず状況を把握しろ。
まず、僕はいつも通りに起床した。時間は午前の七時。いたって普通の僕が起きる時間だ。よし、そこまではいい。とりあえずオッケーだ。冷静になれ。絶対にパニクるな。いいか、焦りと混乱は最悪の事態を招くだけだ。焦る前に落ち着け。落ち着いたらえーと、そう、取説だ。取り扱い説明書を読めばなんとかなる。それから消費者サービスセンターに電話を……いや、ちょっと待て。もしかしてこの展開は……そうだ、新手のスタンド攻撃か!(注1) って違うっ!
「ん………」
甘ったるく、それでいて理性を崩壊させそうな色っぽい声が響く。
そこで、僕の意識はようやく現実に復帰した。
恐る恐る、隣を見る。
肩で切りそろえられた流れるような黒の髪。エプロンドレスを完璧に着こなした彼女は、見た目はまさに完璧なメイド。黒の瞳は今は閉じられていて、寝顔は思ったよりも無防備。あどけないその寝顔は、なんというかものすごく可愛らしい……ってそんな悠長に観察している場合でもない。
殺される。
絶対に殺される。
今、僕を支配しているのは純然たる恐怖だった。
というか、なぜ彼女がここで眠っているのだろうか?
彼女…僕の家のメイドさん。山口コッコという年上のお姉さん。
僕の家族。
「それはともかく……っ」
いきなりの大ピンチである。彼女が目を覚ました瞬間に、僕は一瞬で真っ二つに割られてこの世界からgood byeって感じになるだろう。ああ、それは嫌だ。まだまだやりたいことも腐るほどあるっていうのに、もしもこんなところでそんな阿呆な死にかたをしてしまったら、死ぬに死に切れない。
……と。そこまで考えて、ようやく頭が冷えてきた。
「まぁ、慌てなきゃいいだけの話なんだよね」
よく考えると、昨日はコッコさんと一緒に(半ば強制的に)ゲームをやっていた。卓上遊戯がべらぼうに弱い我が家のメイドさんは、格闘ゲームで僕に負けまくった挙句の果てに『もう、坊ちゃんは次は小パンチだけですっ! そうしなきゃ嫌ですっ!』などと言い放つ始末。もちろん僕は小パンチだけで勝ったけど、そうしたら横っ面を本気のぐーぱんちで殴られた。
世の中って理不尽だなぁって本気で思ったりした。
で……時計を見たらいつの間にか夜の二時になってたってわけだ。
コッコさんはその時にはもうフラフラで、僕が部屋まで送って行ったんだっけ。
「ってことは……もしかして朝に僕を起こしに来て、そのまま寝ちゃったのか?」
あり得る。っていうかそれしかねぇ。
そもそも、夜九時に寝て朝の六時ごろ起床する小学生並の生活を送っている人が、いきなり夜の二時まで起きてたら……こうなることは自明の理なわけで。
とりあえず眼鏡をかけて、音を立てないようにベッドを降りることにする。要は、『一緒に寝てました』という既成事実がなければなんとでも言い訳できる。
そう……言い訳できるはずだったのだ。
「………ふえ?」
ベッドを降りようとした瞬間に、メイドさんは目を覚ました。
背中から冷汗がものすごい勢いで流れていく。
とりあえず、僕は死を覚悟した。
コッコさんは目の焦点の合わないまま、僕を見つめた。
「んー……坊ちゃん? なんでここに?」
「えーとね……」
言い訳を一瞬のうちに五十八個ほど考えついたけど、あまりに稚拙かつどうしようもない言い訳ばかりだったので、瞬間的に全部破棄する。
そして、その中で一番マシな言い訳を、思わず口走っていた。
「コッコさん。これは夢なんだよ、夢。オーケー?」
「……おーけー?」
コッコさんは相変わらず呆けた表情をしている。
これはもしかして……いけるか!?
「そう、これはコッコさんの夢の中なんだよ」
「…ゆめですかー?」
「うん、そうなんだ。君はまだ自分のベッドで眠っているんだ。さぁ、まだ夜は明けていないからゆっくりお眠り? つーか、寝ろ」
「なんで私の夢の中にまともな坊ちゃんが出てくるんですか?」
……ちょっと待て。ってことはなにか。コッコさんの夢の中だと、僕はまともじゃないってことなのか? 僕のイメージってそんな感じなの?
いや、待て。ショックを受けるのは後でもできる。今はとりあえず、この急場を乗り切るためになんとかして……。
と、僕が思考を巡らせていると、
「……ぼっちゃん、今日は低空飛行はしないんですかー?」
「いや、いつもしてませんけど」
「えー? それじゃあ、黄金のディスクを抱えてナイアガラの滝を……」
………考えるまでもなかった。
とりあえず、僕は彼女を放置しておくことにした。
なにやらぶつぶつ言っているが、全部取り留めのない寝言である。どうやら完全に意識はないらしい。『このスキに色々やっちゃえYO』という本能の囁きは全力で無視して、僕はコッコさんに毛布をかぶせた。
「やれやれ……」
とりあえず、コッコさんが急に抱きついてくるみたいなベタでかつどうしようもない展開を避けられたことだけは、神様あたりに感謝してもいいかもしれない。
さてと、せっかくの休日だ。今日は平和に過ごそう。
とりあえず、服を着替えて朝食を摂ることにする。『屋敷』での朝食というと大抵クソでかい部屋にクソ長いテーブルがあって、そこに給仕さんたちが食事を運んでくるというイメージがあるのだが、僕に限ってはそんな面倒なことはやらない。
このお屋敷には一応、食堂というものが存在する。別館にあるその食堂の主な使用用途としては執事さんや侍従の方々の食事。このお屋敷に住み込みで働いている人もそれなりにいるため、こういう設備は欠かせないのだ。ちなみに別館の設備としては、各種最新式の業務用電化製品、露天風呂、各種生活必需品の販売所、マッサージチェア、卓球台にビリーヤード台、果てはゲーム機なんかも置いてあったりする。
……当然、電化製品と露天風呂以外は有料となっております。
せせこましいと言うなかれ。この時代、人件費もばかにならないのだ。
「さてさて、今日はなにを食べよう………か、な?」
食堂に到着した僕は、そこでとんでもないものを見た。
ガラン、とした食堂。隅のテーブルに、少女が二人身を寄せ合うようにして座っていた。その背中からはどうしようもない哀愁が漂っている。
「ひもじいねー」
「お金がないねー」
食堂は、双子に占領されていた。
僕が食堂に足を踏み入れると、二人はちらりと顔を上げて「はぁ」と同時に溜息をついた。なにやらものすごくむかつく仕草だったが、気にしないことにする。
と、そこで厨房の主がカウンターから声をかけてきた。
「おはよ、坊ちゃん」
「あ、おはようございます。京子さん」
梨本京子、採用する時に渡された資料を信じるなら、年齢はコッコさんより二つ年下の二十歳。身長は百四十センチ、体重、スリーサイズは当然明記されていなかった。いかにも少女らしい可愛らしい顔立ちに、大きな瞳、小さい手足はなんだか『コロッポックル』を思わせる。
しかし、彼女は『コンパクト&パワフル』を地で行く人である。小さい体にはどんな密度の筋肉がつまっているのか、僕が片手で振れないような鍋を軽々と振るう。おそらく、身体能力で言えばコッコさんにすら匹敵するだろう。
一応『メイド』という名目で雇っているし、彼女が普段着ている服もエプロンドレスなのだが、厨房に入る時だけはコックになるというわけの分からない人だ。
ちなみに、料理の腕は超一流。
そんな彼女は、不機嫌そうに僕を睨みつけた。
「なぁ、坊ちゃん。あの辛気臭いのなんとかなんねーか? 正直、あの二人のせいで客足が落ちてるんだけどよー」
不機嫌そうに睨みつけられても、全く不快にならない。むしろその不機嫌そうな具合が可愛らしさを引き立てていることに、本人だけが気づいていない。
とりあえず、僕は頬をかきながら返答する。
「うーん……ご飯を奢ってあげたりすれば、住処に帰ると思いますよ?」
「やだ」
「あはは、そうでしょうね」
僕が奢ってやれば済む話かもしれないが、残念ながら昨日のことがあって、僕のふところは永久凍土と化している。従業員の食堂は、京子さんのやりくりによってかなり割安で食事ができるのだが、それでも『零』からはなにも生まれないのだ。
まぁ、僕はタダで食事できるんだけどね。
「じゃあ、とりあえずAランチお願いします」
「ん、分かった。付け合せはなんにする?」
「卵焼きと、半熟卵の目玉焼きで。あとは御新香(おしんこ。つまり、漬物)はちょっと多めに」
「あいよ」
京子さんは可愛らしく手を振って、厨房に引っ込んだ。
僕は適当な席に座って料理が完成するのを待つ。A定食は和食で、ご飯と味噌汁、それから魚がつく。調理方法はお客さんが混んでいる時は焼き魚、空いている時は煮魚になるらしく、なんでも調理時間の違いとかなんとか。ちなみに、追加料金を払えば色々な付け合せが可能となる。言えばなんでも出してくれるので、和食好きの章吾さんあたりは、とても嬉しそうにしていた。かく言う僕もその一人である。
などと、ちょっとまったりとしていると、朝食が完成したらしい。
「ほいよ、A定食お待ち」
ホカホカのご飯に、大根の味噌汁、今日はなぜかちょっと豪勢にギンダラの煮魚。舌がとろけそうな卵焼きと、完璧な半熟加減の目玉焼き、そして御新香は京子さんお手製のぬかづけだった。
「やっぱりこういう時ですよね、京子さんを雇って本当に良かったってしみじみ感じるのは」
「……あー、うん。ありがと」
うーん……京子さんは照れてるところも可愛いなぁ。
マスコット的な可愛さであることは言わない方がいいだろう。
さてと、それじゃあ手を合わせていただきま、
「美味しそうだねー」
「お腹減ったねー」
………いつの間にか、双子が近寄ってきていた。じーっと覗き込んでいるのは当然僕が注文したA定食なわけで。
なるほど、こりゃ食べづらい。
しかし、食べづらい程度で僕の食事を妨害できる、ましてや『おこぼれ』をもらえるなどと思うのは浅はかというものだ。こう見えてもお金持ちになる前は親父の給金も少なくて、パンの耳で生活したこともある人間だ。舐めてもらっては困る。
「いただきまーす」
パクパクパクモグ。じーっ(期待に満ちた眼差し)。
ズズー。ハフハフ。じーっ(放って置けない眼差し)。
コリコリパリポリ。じーっ(思わず抱き締めたくなる眼差し)。
カチャカチャパリ。じーっ(ちょっと待ってと言いたそうな眼差し)。
モクモク、カチャン。じーっ(今にも泣き出しそうな眼差し)。
「ごちそうさまー。京子さん、ホットミルクありますか?」
「まぁ、一応あるけどさ………」
京子さんは、なにやら言いたそうにしている。
ふと横を見ると、双子はものすごい形相でこちらを睨んでいた。
「坊ちゃんのひとでなしー」
「坊ちゃんのめがねはげー」
「坊ちゃんのあほー」
「坊ちゃんのどうていー」
うーん、なんだか悪い事をしたみたいな気分になってきたけど、そこまで言われる筋合いはないような気がする。
僕はにっこりと笑って、双子の片割れの頬を思い切りつねりあげた。
「あうううううううううっ! なんで私だけなんですかー!?」
「舞さんの方が何気に酷いこと言ってるよね? 正直、けっこー傷ついたよ?」
「ひ弱ですよー」
「うすらやかましいです。金欠姉妹」
「あははー、お金がないのは舞ちゃんだけですよー。私は貯めてるだけですもん」
「冥ちゃんっ!?」
裏切り発覚。冥さんは悪辣ににやりと笑っていた。
どうやら、冥さんの方は本気でひもじい舞さんを一番近くで嘲笑っていただけらしい。ちらりと京子さんの方を見ると『冥の方は朝早く来て、さっさと食事を済ませたよ』とアイ・コンタクトで教えてくれた。
うーむ……。双子といえど、キャラは同じじゃないんだなぁ。
っていうか、えげつねぇ。
舞さんは拳をわなわなと震わせて、涙目で叫んだ。
「め、冥ちゃんの裏切りものーっ! お金貸してよーっ!」
「え〜、やだぁ。舞ちゃんってばここのゲームセンターで滅茶苦茶使うんだもん。ものすごく下手なくせに。部屋の中はゲームでいっぱいだし。今をときめくHIKIKOMORIになっても知らないからねー?」
「そうなったら、坊ちゃんの愛人になって優雅に暮らすもんっ!」
……どんな退廃的な人生プランなんだ、それは。
「ふふん、甘いよ。坊ちゃんの愛人の座は私のものっ!」
……双子揃って楽することしか考えてねぇし。
庭木の請求書、ちょっと水増ししておけばよかったかなぁ、と後悔する。
ちらり、と京子さんの方を見ると、なんだか達観したような目を僕に向けてくれた。多分、『人生色々あるけど頑張れよ』みたいなことが言いたいのだろう。
巨大なお世話でございます。
とりあえず、僕は席を立つ。もう食事も済んだし、これ以上ここにいることもないだろう。
「じゃ、京子さん。ごちそうさまでした」
「ん、こんなんで良かったらまた食べてくれ」
「食べたいですー」
「あんたは金を払え。坊ちゃんは雇用主だからタダなんだよ」
「ううー、貧富の差がこんな所にもー」
しくしくと泣いている舞さん。同情の余地は一切ないのだが、なんとなく罪悪感らしきものがちょこっとだけ胸をかすめた。
「ねぇ、舞さん。そんなにお腹空いたの?」
「……はい。昨日の昼からなんにも食べてないんですよー。それもこれも、ゲームセンターに新しい筐体が入ったせいなんですけどねー」
つーか、明らかに君のせいだろ。
……まぁ、いいや。
僕は、にっこりと笑って、京子さんにあるものを注文する。
「それじゃあ、京子さん。Dランチお願いします」
「奢ってくれるんですかっ!!?」
その時の彼女の笑顔を、僕は一生忘れないだろう。それほどまでに輝かしく、期待に満ちた笑顔だった。
僕は、にっこりと笑って舞さんの肩にぽん、と手を置いた。
「ははは、僕は一応雇い主だからね。従業員は大切にしなきゃ」
「わーい、ありがとう、坊ちゃんっ! だいすきっ!」
「………………」
きらきらくるくると嬉しそうにはしゃぐ舞さんを、可哀相なものを見る目で見ている京子さん。彼女は口許を引きつらせながら、厨房へと引っ込んでいった。
舞さんは目をきらきらさせて、料理の到着を待っている。
「ねぇねぇ、Dランチってどんなの? Aが和食で、Bが洋食、Cが中華だからイタリア料理かなんか? それともタイ料理? 冥ちゃんは知ってる?」
「んーん。知らない」
さらっと首を振ったが、この小娘絶対に知っている。
「そっかー。なんだろーなぁ」
舞さんは、何も知らずににこにこと嬉しそうに笑っていた。
ああ、はしゃいでいる舞さんを見ると、胸が痛むなぁ。とても胸が痛い。でもね、僕は人が驚く顔を見るのがとっても好きだったりするんだヨ。サプライズパーティーとか大好きだ。
そして……1時間後。
「はいよ、D定食お待ち」
それは、湯気を立ててやってきた。
どんぶりに山のように盛られたご飯。戦時中なら見つかっただけで射殺されかねないくらいの米の量は、家庭用の電子ジャーの許容限度まで炊いて、『一杯』ぶんだと思っていい。新潟県で育てられた米は、ごま塩オンリーでもいけるほどに甘く、水は井戸水をわざわざ取り寄せて炊く徹底ぶり。やっぱりお米は水が命だ。そのお米を炒飯に仕上げる。パラリと口の中でほぐれるその味わいは、一流の料理人でなくては出せない。具にはオーソドックスなものを使用し、完成された味となっている。
どんぶりよりもふたまわりほど大きい、かなり巨大なすり鉢のような器の中に入っているのは、バベルの塔のごとき大量の野菜炒め。かと思わせておいて、それはただの氷山の一角に過ぎない。その料理の本来の姿は、京子さんが独自に開発した秘伝の味噌を使った『味噌ラーメン』である。しこしこの太麺と、濃厚な味噌スープ、厚さ5センチはあろうかというまるでステーキのようなチャーシューは事前に温められており、食べる時に冷たさを感じさせない。そして、その味噌ラーメンに盛られた山盛りの野菜炒めは、味噌独特の臭みを消しながら野菜の甘味でフォローしてくれる。まさに完全一体。これこそが究極の味噌ラーメンと言えるだろう。
その味噌ラーメンの付け合せは、当然の如く餃子であろう。典型的な中華大皿に、重力に逆らうかのごとく山と盛られた餃子の中身は、これまた京子さんオリジナルの具が詰まっている。豚肉と牛肉の合挽きと玉葱とニラ、そしてほんの少々のニンニク。そこまでは普通だが京子さんの場合はこれに『鶏肉から抽出したにこごりに京子さん特製の味付け』をすることによって、一口噛んだ瞬間にじゅわっと肉汁が溢れてくるような工夫が凝らされている。一口食べた瞬間に病みつきになる熱さと旨味。餃子の美味さはそこに凝縮されると言っても過言ではないだろう。
以上三品がDランチ……通称DEATHランチ(注2)の全てである。屈強な軍人ですら白旗を揚げる、この屋敷で最強かつ最狂の、究極のメニューだった。
言葉はない。むしろ、言葉は要らない。
京子さんはちょっとばつが悪そうに頬をかき、冥さんは爆笑を堪えていた。
僕は満面の笑顔を浮かべ、舞さんだけが唯一蒼白になっていた。
上から下まで、Dランチを眺め、舞さんはようやく口を開いた。
「え……? ギャグ?」
「ギャグじゃないんだよ、舞さん」
僕は、慈愛に満ちた笑顔を浮かべて、ポンと肩を叩いた。
「これは現実なんだ。残すことは許されず、今までにクリアーした人はたった一人しかいない究極のメニュー。君は今、運命に選ばれたんだヨ?」
「ぶっ」
吹き出したのは冥さんだ。お腹を抱えて今にも笑い出しそうなのを堪えている。
舞さんは、かなり泣きそうな顔をしていた。
「あの……これが食べられないと、どうなっちゃうんでしょうか?」
「……どうなっちゃうんだろうね?」
笑顔のまま告げられた暗黙の死刑宣告に、舞さんはもう泣く寸前だった。ちなみに冥さんはもはや言葉を発するのも馬鹿馬鹿しいとばかりに、笑いながら転げまわっており、端で見ている京子さんは、呆れを通り越して溜息をついていた。
僕はにこやかな笑顔のまま、続ける。
「さぁ、どうぞ。遠慮なく食べていいんだよ? 大丈夫、味は保障する」
「あの……だって、私、こんなに食べたことありませんー」
「大丈夫、君ならできる」
「……えぐっ、うー、無理ですよぅ。なんでこんなひどいことするんですかー」
ありゃ、予想外。本気で泣き出してしまった。
やれやれ、仕方ないとばかりに僕は彼女の背後に回りこんで、耳元に口を寄せる。
「はうっ!? ぼ、坊ちゃんっ!?」
「大丈夫舞さん。君にならできる。今までゲーセンで雨の日も風の日もジョイスティックを回しボタンを連打してきたのはこの日のためなんだよ?」
「こ……この日のため?」
ぼそぼそと囁きながら、さりげなく「ふぅ」と耳に息を吹きかけたりする。
「ひうっ!?」
「そう、君にならできる。あらゆるゲームを完璧に掌握し『マスター』とまで呼ばれた君がこんな料理程度攻略できないわけがないじゃないか。右手の中指に血豆を、ボタンの叩きすぎでタコを作って泣いたあの時のことを思い出すんだ。その苦しみに比べたらこんなものは……〇神の城2(注3)全キャラノーコンティニュークリアよりはるかに楽じゃないか?」
「……ラクです、か?」
舞さんはなにかに陶酔しているような、そんな瞳を僕に向ける。
そっと肩に両手を添えて、僕は耳元に囁き続ける。
「そうだよ? 君は最高だ。なにもできないことなんてない。あの程度の料理、いつも吸っている空気の体積に比べれば、全然大したことはないよ。大丈夫、僕が保障する。可愛い君にできないことなんてなにもない」
「かわいいわたしに……できないことはない」
にやりと笑いながら、僕は最後の後押しをしてやった。
「さぁ、箸を取るんだ。もしも全部食べれたら、ご褒美をあげよう」
「ご、ほーび?」
「そう、君がとっても嬉しくなってしまうような、そんなご褒美だよ……」
「は……い。ごしゅじん、さま」
舞さんは頬を紅潮させ、僕の言葉に素直に頷いた。。
僕の手から箸を取って舞さんはゆっくりと息を吸う。
そして、次の瞬間、彼女は食の戦神と化した。
「味噌ラーメン定食がなんぼのもんじゃーっ!! いただきますっ!!」
ガツガツと、ものすごい勢いで定食を食べ始めた。
僕はそっと舞さんの邪魔をしないように離れて……満足した。
「いやー、いい仕事をしたなぁ」
「坊ちゃんって思ったよりスケコマシ属性ー?」
「はっはっは、冥さん。それはちょっと誤解だよ。僕が今やったのは、親父がいつも機嫌が悪い時の母さんにやってたのを、そのまま真似ただけ。そんな、鬼畜野郎を見るような目で見られるのはとっても心外だな」
「っていうか、今のはどう考えても催眠術ちっくでしたけどー?」
「気のせいだよ」
「そーですね。そういうことにしておきましょうかー」
あっはっはっは、と僕らは二人で朗らかに笑う。
そんな僕たちを見て、京子さんは心底呆れていた。
「あんたらね……こんな阿呆なことを労力を使わせないでよ」
「京子さんにもご褒美あげましょうか?」
「いっ!? いや、そういうことじゃなくてっ! えっと……その……」
なぜか慌てまくる京子さん。
はて……彼女は『ご褒美』という言葉になにを思い描いたんだろうか?
僕的には、新品の調理器具かなんかがいいかなーと思ってたんだけど。
他になんかあったっけか?
と、京子さんはこほんと咳払いをした。
「と、とにかく、食べ終わったんだったら、こんなところで暇潰すな。坊ちゃんはともかく、冥には仕事が残ってるだろうが」
「はい。そろそろ行かなきゃいけませんので、舞ちゃんのことよろしくお願いしますねー」
「……やっぱ残ってろ」
「お仕事を放棄するのは性に合いませんので、これで失礼しますー」
きゃらきゃらと笑いながら、冥さんは食堂を去っていった。
うーん……悪女だ。
それじゃあ、僕もそろそろ退散するとしよう。
「じゃ、京子さん。僕も部屋に戻りますね」
「あ、ちょ……」
呼び止められる前に、僕はさっさと食堂から逃げ出した。
三十六計逃げるにしかず。怒った京子さんはこの屋敷で三番目くらいに怖い存在なのだ。ちなみに、一番目は美里さんで二番目はコッコさん。コッコさん曰く、「怒った坊ちゃんが一番怖いです」ということらしいのだが、そんなことはない。
僕は基本的にも応用的にも、女性には優しい野郎ですので。
さてと、それでは部屋に戻るとしましょうか。
私は、ただ一つきりの剣だった。
私が従うのは、自らに課した生きるための制約と主の命令のみ。
主人のために在り、主人のために死ぬ。ただそれだけの道具だった。
瑣末なことなど打ち捨てて、些細なことなど気にも留めず、
ただ主のために仕える。そういう存在だった。
そう、その在り方に疑問の余地なんてない。私はそういうふうに創作されて、そういう風に生きる事を義務付けられて、それを疑問に思ったことなんてない。
三つ子の魂百までというつもりはないけれど、私はこの在り方を誇りに思う。
誇りに思っていたから、逆らえなかった。
一番大切なものを、壊してしまった。
だから私は名前を捨てた。
呼ぶことも呼ばれることも誇りに思っていた名前を捨てた。
制約も家族も、なにもかもをかなぐり捨てて、私は逃げ出した。
逃げて、逃げて、逃げ続けて……、お金がなくなってどうしようもなくて。
助けてくれたのは、一組の夫婦だった。
救ってくれたのは、たった一人の少年だった。
許されないなら許してやると。
罪深いなら償えと。
生きてどこまでも傷を負って、死ぬまで贖い続けろと。
残酷な言葉と、優しい言葉で。
分不相応にも、救われて、生き長らえてしまった。
だから……私は彼を主人に決めた。
なのに自分は、いつまでも中途半端でなんのお返しもできなくて……。
時間は昼を過ぎて、午後の二時半。
僕は自室のソファでゆっくりと読書を楽しんでいた。まぁ、読書と言えば聞こえはいいけどぶっちゃけて言えば漫画を読んでいた。うん、やっぱり『ブ〇ーチ(注4)』と『コーセルテル〇竜術士物語(注5)』は最高の一言に尽きる。っていうか、ボクシングとか、不良が生々しく殴りあったりする漫画は苦手だ。それというのも僕が武術を習ってる師範のせいである。『人間は世界最強にはなれない』というのがモットーの師範は、真剣を持って斬りかかってくるヤクザを全員『再起不能』にした兵だ。あれを見た後では、とてもではないが素手での殴り合いなどできはしない。
まぁ……師範の言うことはぶっちゃけ正しいとは思う。
自分一人で守れるのは、自分の周囲三メートルくらいまで。
それ以上を望むのならば、えらくなるしかない。
世界を動かすくらいに強くなるしかない。
単純なことだ。殴りあったってなんにも解決しない。殺しあったところで、得るものなど自分と他数人の命に過ぎない。数万人も助けたかったら、他の力を使うしかない。
世界最強の力。それは『政治』なのだ。
つまらないことを積み上げて、下らない事を累積させて、それで僕らの世界は成り立っている。『少しでも人のためになること』を積み上げるのが『政治』だ。
まぁ、世界最強と言っても色々とジャンルがあるので一概には言えないかもしれないけれど、間違いなくある一面においては『政治』は世界最強の力の一つであることは疑いようもないだろう。あとは……『歌』、『定理』、それから『努力』ってところだろうか。
まぁ、とりあえず……益体もない思考はここまでにしておこう。
「ん……」
色っぽい声と共に、僕の家族は目を覚ます。
彼女はぼーっとした顔でゆっくりと部屋を見回して……。
「やぁ、おはよう。コッコさん」
「っ!!?」
とても、びっくりしたらしい。
コッコさんは僕が座っていたソファまで座った姿勢のままで跳躍する(注6)と、僕の体を無理矢理地面に押し倒して、ホルスターからハサミを引き抜いた。
「坊ちゃん、動かないで下さい。……これは間違いなく、新手のスタンド攻撃を受けている可能性があります」
「あの……コッコさん。頼むから腕を極めるのをやめてくれませんか?」
「動かないでください。新手のスタンドですよ? 最大警戒に値します」
「や、だから、その……」
胸が腕に当たって、なんというか、その……ものすごく落ち着かない。
内心の動揺をイオ〇ズン(注7)で爆殺しながら、僕はゆっくりと口を開く。
「あの、コッコさん。昨日のことは覚えてますか?」
「……覚えてません」
「へ?」
「覚えてないので、私は負けてません。坊ちゃんも覚えてませんよねー?」
「負けていないと言ってる時点で覚えているような気がしますけど……」
ジャキッ!
「やだなぁ、覚えてるわけないじゃないですか。僕が小パンチだけでコッコさんに楽勝したなんて、そんなのは僕の夢の中での出来事だったわけですね?」
「そうそう。その通りです。昨晩は、私は早目に就寝したんですから」
うんうんと満足そうに頷くコッコさんを見ていると、ちょっとした悪戯心が沸き起こる。
口許を緩めて、僕は言った。
「じゃあ、なんでコッコさんは僕のベッドで寝てるんですか?」
「え?」
そこでコッコさんは、ようやく状況を把握したらしい。
ゆっくりと僕を、それから後ろを振り向いて自分が寝ていたベッドを見て。
ガチャン、とハサミが絨毯の上に落ちた。
コッコさんの顔が、真っ赤に染まっていた。
「………………あの、坊ちゃん」
「なんでしょう?」
「………………その、ふつつかものですが」
「ちょっと待って下さい。激しく誤解です」
これ以上コッコさんの想像に任せると、とんでもない既成事実を作りかねないので、とりあえずコッコさんをソファに座らせ、こうなった状況をとっくりと説明した。
「……というわけなんです。分かってくれましたか?」
「………はい。とんだ醜態を晒してしまい、申し訳ありませんでした」
説明を終えても、コッコさんは顔を真っ赤にしたままだった。
どうやら、恥かしがってるらしい。
うーん……ちょっとした悪戯がとんでもないことになってしまった。下手をしていたら死んでいたかもしれない。
……よかった。頭が胴体とさようならしなくて。
本当によかったっ!
などと僕が心の中で歓声を上げていると、コッコさんは顔を紅潮させたまま、素早く立ち上がった。
「本当にすみません。私は業務に戻るので、これで失礼します」
「コッコさん、今日は確か休みの日ですよね?」
「………………あ」
コッコさんは、基本的に真面目な人である。
そんな彼女が、仕事がある日の前日にゲームで遊びまくったりはしないのだった。
僕は、にっこり笑って本題を切り出した。
「コッコさん、今日はなにか予定とかありますか?」
「特にありません」
「それじゃあ、ちょっと買い物に付き合ってください。買いたい服とか本とか、色々あるんで。もちろん、業務ではないので私服で」
「………えっと、その、私でいいんでしょうか?」
「はい、是非」
「分かりました。では、着替えてくるので玄関で待っていてください」
「りょーかい」
「それから……今日のことは、皆さんには内密に」
「はいはい」
「……それでは、また後で」
コッコさんは、とても嬉しそうな、綺麗な笑顔を浮かべて部屋を出て行った。
思わず、ドキリとしてしまうような、そんな笑顔。
……相変わらずものすごい威力だ。多分、僕限定だけど。
「さてと……」
にやりと邪悪に笑いながら、僕はゆっくりと立ち上がる。
それじゃあ、作戦を開始しましょうか。
第五話『坊ちゃんとある日の休日風景』END。
第六話『コッコさんと綺麗な洋装』に続く。
おまけ。執事長さんの苦労日記。
今日は、新木章吾にとっては久しぶりの休日であった。
ゆっくりと眠り、起きたのは昼頃。欠伸を噛み殺しながらてきぱきと着替える。
「……む、いい太陽だ。休みというのはこうでなくてはいかん」
などとじじむさいことを言いながら、章吾はいつも通りに食堂に向かった。
「……ぬ?」
しかし、食堂には『立ち入り禁止』の札が出されている。キッチンでも爆発したのだろうかと考えたが、キッチンを司っているのはあの梨本京子である。それだけはありえないだろう。
「しかし……段々手のつけられない連中が増えていくな」
山口コッコ、黒霧冥と黒霧舞の双子、そして梨本京子。全員に共通していることは『仕事は超がつくほど優秀なのだが、とんでもなく扱いが難しい』ということである。彼女らを採用した主人の眼力を少しだけ疑ってはいるが、そこはそれ。メイド長である美里が上手くやっているらしい。
世の中上手く出来ているものだな、と奇妙な納得をしながら、章吾は仕方なく売店に向かうことにした。昼時を少し過ぎてはいるが、惣菜パンの一つや二つは余っているだろう。
しかし、売店に行っても食料品の類は全て売り切れていた。
「ごめんなさいね。なんか食堂が使いづらいってことで、みんな今日はパンで済ましたらしいのよ。普段あんまり仕入れてないもんだから…売り切れちゃって」
売店の淑女の言い訳を聞き、売店を立ち去った章吾は、仕方なく外で食べようと思い立った。
「……まぁ、たまには外食も悪くはないだろう」
そう言って自分を納得させながら、車のキーと財布を持って外に向かう。車で五分も走れば街に出られる。空腹を埋めるのなら、行き着けの喫茶店か昔馴染みがいる定職屋か、どちらにしようか迷いながら自慢の愛車に乗り込んだ。
エンジンを始動。ギアをローに入れて発進。即座にセカンドに。
「そうだな、美里さんのプレゼントを今のうちに買っておくのもいいかもしれん」
主人のアドバイスによると、どうやら可愛いぬいぐるみなどがいいらしい。
完璧に車を運転し、章吾は街へと向かって行った。
当然のことながら、この後に起こる惨劇など思いもよらなかった。
続く。
注訳解説。っていうか作者が説明したいだけ。
注1:意味合い的には『第一種戦闘配備っ!』と似たようなもの。新たな脅威が現れた時に使用すると確実に意味が通じる。同類項としては『お父さん、ものすごい妖気ですっ!』がある。
注2:ほぼ実話。友人が大盛りで有名な定職屋の挑戦メニューにチャレンジしたところ、作中の描写が控え目なほどの山盛りが出てきた。一時間で完食できたら無料だったのだが、普通の人間にそんなものを食べきれるわけもない。『食えねぇよぅ、こんなもん食えるはずがないじゃんかよぅ……』と半泣きになりながらうめいていたのが印象的だった。……この時の彼の顔はそれはそれはとても面白く後で爆笑したのだが、そもそも一銭も持たずに定職屋に入るのはいかんと思う。
注3:青の会社が製作したシューティングゲーム。作者的には目の細い双剣使いの導士だとか、探偵の狼さんとかがかなりツボに入る。地味系の脇役万歳。ちなみに作者自身は格闘ゲームはちょっとやりますが、基本的にシューティングはやらないのでキャラや設定は把握していてもゲームの内容はほぼ知らないという適当ぶり。
注4:前の注訳でも書いたが、週刊少年〇ャンプで連載中の『漢字の使い方が究極に格好いい』漫画の一つ。英語を使うのも格好いいけど、やっぱり日本人は漢字を格好よく使わないとあかんでしょうと確信させる作品。これ以上に楽しい漢字の使い方をしている作品があったら誰か教えてください。是非、切実に。
注5:色々と問題の起こった雑誌『ゼロサ〇』で連載中の『ほのぼのドラゴンファンタジー』。ちなみにこの作品は休刊になった他の雑誌からやってきたもので、元の名前は『コーセルテル〇竜術士』。真剣な斬り合いやら殴り合いやら無闇に心を痛める心理描写やら、小動物が出てきたりするのに飽き飽きしているような荒んでいる人には是非おすすめです。
注6:注1とかぶることになるが、あの作品を読んだ人でこれを知らない人はもうモグリと言っても過言ではない。なんかもう、説明するのも面倒なので第一部から第五部、SBRまで全部読破してください。読むのが面倒な人はせめて第一部だけでもいいんで読んでください。第六部は別にいいや(酷)。
注7:説明は是非に及ばず。かの有名なRPGの最強呪文(デイン系を除く)である。使い勝手、消費MP共に使いやすいが、所詮は呪文。ドラ〇エは総合的に考えると最強攻撃法が『たたかう』、もしくは『マダン〇』になってしまうという悲しい仕様になっている。友人(男)曰く『ドラク〇はベ〇マさえありゃパーティが一人でもクリアできる』らしいが、そういう気持ちの悪いプレイをする人間は手前だけじゃよ。
というわけで、ドレス選別の後編に続きます。そして、久しぶりに幸せな二人の裏で理不尽な状況に立ち向かう執事長の運命やいかにっ!?