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番外編『六』 バレンタイン・デス(後)

はい、そういうわけで番外編の後編です。最後はちょっとだけしっとりとしておりますが、それ以外は大体コメディになっております。

 ヘル&ヘブン。



 黒霧舞は唖然としていた。唖然どころか引いていた。

 彼女の目の前には空き箱が一つ。それは舞が苦心して作り上げた力作であり、具体的に言えばラードとラー油とカレールゥと小麦粉と重曹をいい具合に混ぜ合わせた後、バターとレーズンと絞ったライムを加え、レンジで加熱処理したものをチョコレートでコーティングしたものである。

 どう考えても、人間の食べ物ではない。

「ん、ご馳走様」

 その食べ物ではないチョコレートらしき生ゴミ以下の物質を、少年はあっさりと完食した。

(あ、ありえない……っ! あまりに怖くて私は味見すらできなかったっていうのにっ!!)

 舞は、ドッキリにかけようとしたらこっちがドッキリにかけられたような気分になった。

「あの……坊ちゃん?」

「なに?」

「美味しかったですか?」

「美味いわけねぇだろ。あんまり無茶ばっかやってると仕舞いにゃしばくぞ」

 ドスの利いた言葉で言い放たれ、舞は思い切り引いた。ある意味大ショックだった。

 簡単に言えば、普段いじめにいじめまくっていたいじめっ子にいきなり反抗されるような感じである。

 不機嫌そうな横顔、鋭い目つき、学校から帰るなり甚平に着替えた彼はいつもとちょっと違っていた。

(ワ、ワイルド坊ちゃん……?)

 心の中で呟いておきながらいやいやそれはねぇだろうと速攻で否定する舞。彼女の中の『坊ちゃん』とは常に微笑みを絶やさない天然のジゴロであり、ついでに言えば優柔不断なくせにやたら卑怯な男である。

 少なくとも、彼がぶっきらぼうにしゃべったりするのを舞は見たことがない。

「あの……坊ちゃん。高校デビューにはちょっと遅いような気がするんですけど」

「…………へぇ」

「ツッコミ不在っ!?」

 気のない返事に、舞は飛び上がるくらいに驚いた。

「ちょ、坊ちゃんっ!? いつもの軽快なツッコミはどこに行ったんですかっ!? 私は坊ちゃんのことはもう心底嫌いですけど、そこだけはちょっと評価してあげなくもないんですからしっかりしてくださいよっ!!」

「そういう気分じゃねぇんだよ。ついでに、僕はちょっと機嫌が悪い」

 細い目をさらに細めて、少年は舞を睨みつけた。

「……まぁ、舞さんのチョコのせいなんだけどね」

「それはそれで私の狙い通りです。私が素直に坊ちゃんにチョコレート上げるなんて思ったら大間違いですよ?」

「や、別にいらねぇし」

 あっさりと言い放たれた一言に、舞はかなり『カチン』ときた。

 彼女の心を代弁するならば『坊ちゃんのくせに生意気』の一言に尽きるのだが、もちろんそれは口には出さない。

 むかついてようが心の中で見下していようが、黒霧舞は恩人にはわりと敬意を払う女なのだった。

「ほほう? つまり坊ちゃんは私からのチョコを拒絶するくらいにはチョコを貰っているわけですね?」

「貰ってるわけじゃねーけど、舞さんのチョコはもう要らない」

「ちょ、いくらなんでもそれはひどいと思いますよ? 大体ネタみたいなチョコを全部平らげたのは坊ちゃんじゃ……ふぐっ」

 舞が叫ぼうとして大口を開けた瞬間に、彼が指で弾いた黒いビターな物質が彼女の口に飛び込んだ。


 目の前が真っ白になったような気がした。


 声にならないこの世のものとは思えないようなひぎゃあという叫び声が、少年の部屋に響き渡った。

 背中に火がついたかのような勢いで半狂乱になりながら部屋の中を転げまわった後、舞はゆっくりと起き上がる。

 そして、目に涙を浮かべながら思い切り叫んだ。

「殺す気ですかっ!?」

「君はそんな物体を僕に食わせたんだよっ!!」

「食べなきゃいいじゃないですかっ!」

「バレンタインにチョコとか渡されれば普通に食うっつうのっ! それとも、舞さんは渡されたプレゼントを目の前で地面に叩きつけて踏みにじれとでも言うのかよっ!?」

「……あの、もしかして嬉しかったんですか?」

「嬉しいに決まってるじゃねぇか」

 舞は思わず顔を赤らめた。普通に考えれば『嬉しい』と平気で口にできる人間はそうはいない。

 臆面もなくそういうことを平気で断言できる少年は、頭をがしがしと掻きながらゆっくり溜息を吐いた。

「ったく、いくらいやがらせでも限度ってもんがあるだろうが」

「いえいえ、坊ちゃんの普段の行動から考えればこの程度はちょろいもんですよー」

「よーし、分かった。この僕にフルパワーを出せって言うんだな? いいだろう、今日こそ決着をつけてやるっ!」

「坊ちゃんのフルパワーなんざたかが知れてますけどいいでしょうっ! この栄えあるバレンタインという日に決着をつけるのはいい機会と思っておきます。……それじゃあ、冥ちゃんからチョコを貰った方が勝利ということでっ!」

「いいだろう、望むところだ。あ、ついでに言っておくけど『もう貰ってるから私の勝ち』とかそういうのはなしね♪ 勝負開始の合図を出してから貰った方が勝利だから」

「ふ、そんな小細工をしても無駄ですよっ! なんせ……冥ちゃんは今日がどんな日だかも分かってませんからねっ!」

「教えてやれよ、馬鹿姉」

「うすらやかましいです、ぼんぼん」

 冷たい言葉と視線をナイフのように鋭く切り返しながら、舞は心の中でにやりと笑う。

(ふっふっふ、我に秘策あり。今日こそは坊ちゃんに身の程を教えてあげないといけないですねぇ。こいつは本当に常に見張っておかないと普通に浮気をするジゴロですからねぇ)

 そんな風に笑いながらも、そのお馬鹿さんに雇われている身分である自分の身の程は棚上げしていたりするあたり、わりと小心者の舞であった。

「そういうわけで、今から勝負開始ってコトでいいですねっ!」

「望むところだ。普段のキミがいかに浅ましく超うぜぇ姉貴であることを思い知らせてやろうっ!」

「うっふっふ、坊ちゃんにだけは絶対に負けませんからねっ!」

 かくて、意味のよく分からない戦いは幕を開けた。



「坊ちゃん、チョコレート下さい」

 そして、意味のよく分からない戦いは少年の部屋を訪れた冥の一言によって、あっさりと幕を閉じた。

 少年は少しだけ首を捻って、舞は目を丸くしていた。

 そんな二人の空気をまるで読まずに、冥は得意げに語る。

「バレンタインという日は、日本ではチョコレートをもらえる日だとネットのブログに書いてありました」

「ちなみにどんな掲示板?」

「ばかしらが観察日記という、洋館で働く女性のブログなのです。とてもためになります」

「んー……」

 少年はほんの少しだけ悩む素振りを見せてから、普段は見せない輝くような笑顔を浮かべた。

「うん、そのブログに書いてあることは紛れもない真実だね♪」

「えぇっ!? ちょ、ぼっちゃぶっ!?」

 少年は『邪魔をするな』とばかりに、突っ込みかけた舞の顔にチョップをかます。

 そして、なんだかちょっとだけ残念そうな顔をした。

「あー、でも実はちょっとうっかりしててね。今日はチョコレートの持ち合わせはないんだ」

「……そうなんですか?」

「うん。でも、その代わりにみつやの高級おはぎがあるんだけど、どうする?」

「緑茶でいいですか?」

「ちょっと濃い目でお願いします」

「はい」

 冥はにっこりと嬉しそうに笑って、少年の部屋を出て行った。

 後に残された少年は、頬を緩ませてご機嫌そうな声で呟く。

「うん、なんていうか、とっても癒されるね。姉とは違って素直で気が利いてるし」

「……ひねくれてて気が利かなくて可愛くなくて悪かったですね」

「や、可愛くないまでは言ってないケド。どっちかっていうと舞さんは可愛いと思うし」

「………………」

 鼻を押さえてやたら不機嫌そうにしている舞は、目をナイフのように細めて口元をひきつらせる。

 そして、不意に少年の頬を思い切りつねり上げた。

「だーかーら……どーしてそういうことを平気な顔で言っちゃうんですかね、アンタはっ!!」

「ほういはへへほ(そう言われても)」

「坊ちゃんはバーゲンセール並の大安売りで『可愛い』とか言っちゃいますけど、女の子は非常に誤解しやすい生き物なんですから褒め言葉なんざ本命以外はテキトーでいいんですよっ! むしろ、私に対しては褒めなくてもいいですからねっ! 褒めるんだったら冥ちゃんを褒めてくださいよっ!!」

「……うは、うへぇ」

「つねられながら人のことを『うわ、うぜぇ』とか言うのもいかがなもんでしょうかねっ!?」

 舞はさらに指に力を込め、少年の頬が限界まで伸ばした。

 少年はかなりの痛みを感じながらも、ゆっくりと溜息をついて舞の指の付け根を指で押さえた。

「え?」

 たったそれだけで、舞はなぜか少年の頬から指を離していた。

「ちょ、あれ? なんで?」

「合気の技術ってヤツだよ。そんなに不思議がることじゃない。……それと、一応言っておくケド、僕はちゃんと褒める女の子と褒めない女の子は選んでます。安売りはしてません」

「……ふーん? じゃあ、誰を褒めるようにしてるんですか?」

「冥さんと京子さんと美里さんと虎子ちゃんと委員長と美咲ちゃん。あとはキミ」

「それだけいれば十分安売りだと思うんですけど。……あれ? そういえば、山口さんの名前が出ませんでしたけど」

「………………」

 無言で目を逸らす少年。目を逸らしたまま頬を掻いて、ベッドの脇に置かれた鞄の中から桐の箱を取り出した。

 そして、少年はいつも通りににっこりと笑った。

「じゃ、おやつにしようか?」

「あの……なんですか今の露骨な話の逸らし方は? なんか突っ込んじゃいけないところだったんですか?」

「いや、別に突っ込んじゃいけないってところでもないよ。……そもそも、別に言う必要もないことだって思うだけで」

 少年は目を細めて、戸棚から小皿を三枚取り出してテーブルに並べる。

 それを眺めながら舞は首をかしげた。

「言う必要がないって……褒める必要がないってコトですか? なんにも言わなくても気持ちが通じ合うなんて、それはいくらなんでも男の幻想だと思うのですが?」

「なんにも言わなくても気持ちが通じあうんだったら、言葉なんて要らないよ」

 少年は小皿におはぎをより分けながら、憂鬱そうに溜息を吐きながら、


「そもそも、コッコさんに褒めるべきところってあると思う?」


 そんなコトを、言った。

 部屋に沈黙が落ちる。舞はびっくりして目を丸くしていた。

「……あの、坊ちゃん」

「なに?」

「坊ちゃんって山口さんのこと好きなんじゃなかったんですか?」

「コッコさんのことは普通に好きだよ。ある意味では尊敬していると言ってもいいかもね。たくさん迷惑をかけたし、たくさん大切なことを教わったって思う。……あの人がいなかったら、僕はここにいない」

 少年は目を細めて舞を見つめる。不機嫌そうな、憂鬱そうな、なんだか気だるそうな表情。

「ただ……なんつーか、あの人の生活態度とかそういうのを見てると、とても褒める気にはなれないんだよね。空気読まないし、庭の世話が出来ない時にしか屋敷の仕事しないし、やたらめったらトラブルを巻き起こすし」

「まぁ、そのへんはとても納得できますけど」

「あと、殴るし」

「……納得はできますけど、それはかなりヘタレな言葉だと思うんですが」

「仕方ないだろ、痛いものは痛いんだから」

「それはそうなんですけど……。なんか、今日の坊ちゃんって妙に素直ですよね。山口さんと喧嘩でもしたんですか?」

「……辞世の句みたいなもんだし、愚痴くらいは別にいいだろ」

「へ?」

 と、舞が少年の言葉の意味を図りかねていると、ノックと共に部屋の扉が開いた。

 冥が戻ってきたのかとも思ったが、そこにいたのは山口コッコその人だった。

 少しだけ頬を赤らめながら、コッコは口を開く。

「坊ちゃん、ちょっとよろしいでしょうか?」

「はい。なんでしょうか?」

 少年はコッコに振り向いた一瞬で、憂鬱そうな表情から晴れやかな笑顔になった。

(うわぁ……なんて変わり身の早さだろう)

 あまりの変わり身の早さに舞は思い切り引いた。ドン引きだった。

 そんな舞を尻目に、コッコは普段は見せない笑顔で微笑んだ。

「坊ちゃん、今日はなんの日だか知っていますか?」

「バレンタインですよね。お菓子メーカーの策略というかなんというか」

「はい、そういうわけで普段のお礼と義理と人情を込めて、今年もチョコレートを作ってみました」

「いやぁ、ありがとうございます。……嬉しいなァ」

 口ではそう言いながらも、顔では笑いながらも、少年の目はとても悲壮なものだった。

 綺麗にラッピングされた包装紙を取って箱を開ける。そこには、なんの変哲もない普通のチョコレートが収められていた。

 だというのに、全身から嫌な汗が噴出した。

 背筋に寒気が走る。口元が引きつる。体が震える。生存本能が全力で警鐘を鳴らしている。

 少年はごくりと喉を鳴らして、チョコレートというか妙なオーラを放つ黒い物体を見つめて、泣きそうになった。

「それじゃあ、いただきます」

「はい、どうぞ」

 促されて少年は指を伸ばす。その指は細かく震えていたのだが、少年は恐怖すらも捻じ伏せた。

 去年のことが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。あまりの悲惨な味に三日ほど部屋から出られず、そのうちの三分の一ほどはトイレで過ごす羽目になった。

 そう、今年こそは他人事で済ませたかった。なるべくなら忘れていたい事実だった。

 あの三日間を毎年のように味わっている彼は、今年もあの地獄を味わわなければならないことに心底絶望した。

 感情を殺し、自分を殺し、少年は黒い物体をつまみあげて口を開く。

 と、その時。


 ヒュパッという鋭い音が響いて、摘んだ黒い物質を粉々に粉砕した。


 続いて少年が持っていた箱も八つ裂きにされる。プレゼントからゴミに成り下がったチョコレートもどきは、本来の役目を果たすことなく地面に落ちた。

 沈黙が落ちる。それと同時に部屋に殺意が満ちていく。

「……舞さん」

 コッコのドス黒い声が部屋に響く。それだけで少年はもう泣きそうだった。

 しかし、舞は目を細めて、溜息混じりに答える。

「なんですか?」

「貴女、いきなり私の最高傑作に向かってなんてコトするんですか?」

「……そんなの、私にもよく分かりませんよ」

 チョコレートをバラバラに粉砕した糸を掌に収めながら、舞は目を細めた。

「ただ……まぁなんというか、この後坊ちゃんに血を吐かれて夢見が悪くなるよりは、ましな選択だと思ったんで」

「なんで坊ちゃんが血を吐くんですか?」

「そんなの、自分で考えてくださいよ」

 不機嫌そうな表情のまま、舞はポケットから皮の手袋を取り出して身につけた。

「そういうわけで、これから私たちはみつやのおはぎを食べながらまったりするんで、どっかに行ってください」

「……ほう」

 コッコもゆっくりと目を細めて、腰のホルスターから鋏を抜き放つ。

「つまり……今回も貴女は私の邪魔をするというわけですね?」

「結果的にそうなるだけですけどね」

 空間が凍結するような殺意が部屋に満ちる。コッコは鋏をまるでナイフのように逆手に持ち、舞はいつでも糸を解き放てるように独特の構えを取る。

 言うまでもなく少年にそれを止めることはできず、ただうろたえるばかりだった。

「うう……助かったのは嬉しいけど、なんでこんなコトに……」

「コッコちゃんは坊ちゃんにチョコレートを食べて欲しくて、舞ちゃんは坊ちゃんの苦しむ姿をあまり見たくなかった。意地と意地のぶつかり合いですもの。そう簡単には収まりませんよ」

「え?」

「ついでに言うのならば……これもまた、意地の戦いになるでしょうね」

 耳元には甘い囁き。背中から誰かに抱きつかれた少年は、目を丸くして唖然としていた。

「み……美里さん?」

「はい、橘美里。ただ今参上です」

 少年が顔を上げると、そこには見慣れたメイド長の顔が間近にある。

 メイド長こと橘美里はにっこりと笑いながら、ひょいっと軽く少年の体を横抱きに持ち上げた。

「ちょ、え? 美里さんっ!?」

「さぁ、行きましょう坊ちゃん。二人っきりのパラダイスへっ!」

「美里っ!? 坊ちゃんに一体なにをしてるんですかっ!?」

「セクハラですが、なにか?」

「セクハラって……え? あの、美里? そのギャグはあんまり面白くありませんよ?」

「山口さん、なにをとぼけたこと言ってるんですかっ! チーフはまぢですっ! 目がそう物語っていますっ!!」

「舞さんまでなにを言ってるんですか? そんな、坊ちゃんみたいな子に美里が惚れてしまうわけが……」

「ないわけがないわけで」

「え?」

 否定の上にさらに否定を重ねて、美里は唖然としているコッコに向かって言った。

 

「コッコちゃん。実は私、年下の男の子(世の中知ったかぶり系)が大好きなんです」


 最高に痛い沈黙が、全員を包み込んだ。

 その痛々しい沈黙の中で美里はにっこりと笑って、少年を抱きかかえたまま手を振った。

「じゃ、そういうことで♪」

 そして、身を翻して開いている窓からあっという間に逃げ去って行った。

 美里のカミングアウトの破壊力に打ちのめされていた二人は、ショックのあまりそれを見送ることしかできなかった。

「……えっと、舞さん」

「……なんでしょうか?」

「とりあえず、一時休戦ということで。このままだともっとまずいことになる気がします」

「ええ、そうですね。私たちでは力不足かもしれませんけど、このままだともっとまずいことになりますね」

 二人は顔を見合わせて、こくりと頷いた。



 さてさて困った。本当に困った。尋常じゃないくらいに困った。

 僕が拉致された先は屋敷の屋根の上で、つまりはどんな場所よりも盲点というそういう場所なのだ。

 人間って生き物は、平面や足元には目が行くけど、上には目が行かないもんだ。天井裏に三ヶ月他人が住んでいてもうっかり気づかないくらいに上というのは盲点になりやすい場所だったりする。

「……で、美里さん。なんであんなことっていうかこんなことしてるんですか?」

「んー……こっちの方が楽しいかと思いまして」

 そう言って、美里さんは輝くように笑った。

 なぜか美里さんが仰向けに倒れた僕に馬乗りになっている。

 別の言い方をすると、バーリトゥードという『なんでもあり』な格闘技において最も有利な形であるマウントポジションだった。

「なんていうか、殴り殺されそうな気がしてきました」

「普段の行いが悪いからそんな風に思ってしまうんですよ」

 それはごもっともな話だった。このまま殴り殺されても文句は言えないくらいに。

 でも、美里さんは拳を振り上げることなく、ただ微笑むだけだった。

「まぁ、こんなことをしたのにはもちろん理由がありまして、少し坊ちゃんと話がしたかったんです」

「話?」

「はい。これからの話の展開如何で坊ちゃんの精神やら肉体が無事で済むかどうかが決まる、そういう重要な話です」

「……あの、美里さん。それはつまり美里さんのお気に召す答えをださないと、とってもやばいってことでは?」

「その通りです。話が早くて助かります」

 ニコニコと笑いながらそんなコトを言われても、僕としては拒否権も黙秘権もあったもんじゃなかったりする。

 さてさて、本当に困った。相手が京子さんや舞さんならまだ舌先三寸でなんとでもなるだろうケド、相手は美里さんだ。誤魔化しなどは一切通用しないだろう。あの嘘吐きの父さんですらも『橘さんは苦手だねぇ』と言っていたほどだ。

 つまり……覚悟を決めろってことなんだろう。

「で、話ってのはなんですか?」

「そんなに固くならなくても、普通の話題ですよ。えっと、そうですね……坊ちゃんの初恋はいつですか?」

 いきなりヘビィ級の話題だった。

「ちなみに、私の初恋は三歳の頃で相手は年上のお兄さんでしたね」

「早熟っすね」

「で、坊ちゃんはいつ頃ですか?」

「えっと……」

 記憶の糸を手繰るまでもなく、簡単に思い出せた。

「小学校の頃でしたね。相手は年上で、告白したけどなんだかよく分からない理由でふられました」

「よく分からない理由?」

「えっと……確か『貴方のことはこれ以上なく好きだけど、貴方と一緒にいたらきっと自制がきかなくなる。だから私は貴方を忘れる。好きだけど忘れる』とかなんとか。まぁ、結局その女の子は親友とくっついて楽しそうにやってるみたいですが」

「それはふられて正解だったんじゃないですか?」

「かもしれませんねェ」

 苦笑いを浮かべながら、僕は思い出を胸の内にしまいこむ。

 あの子は有言実行の子だった。髪が長くて和服で瞳が大きくて人を寄せ付けない変人だったけれど、口に出したことは必ず実行するという、ある意味では誰もが羨むような特徴を持っていた。

 だから、きっと僕のことも年下の男の子かあいつの親友程度にしか思われていないだろう。友達ですらないのだろう。

 忘れると言ったからには、あの子は絶対に忘れるのだ。

 まぁ、小学校の頃だし今となってはいい思い出だ。こっぴどくふられはしたけれど、そういうのも悪くはない。

「では、次の質問。坊ちゃんが昔なりたかったものはなんですか?」

「特にないです。母さんや父さんみたいにはなりたくありませんでしたけど」

「はい、罰ゲーム」

 美里さんはそう言って、僕の頬を優しくつまんだ。ちなみに舞さんにつままれた時と違って全然痛くない。

「あの……この行為には一体どういう意味があるんでしょーか?」

「坊ちゃんは嘘を吐きましたから。ペナルティです。ちなみにこれは私が坊ちゃんにやってみたかったことその1で、その2になると一気にちゅーまで行っちゃいますよ?」

「な、なんですかそれっ!? それで一体僕にどんな損がっ!?」

「その3とかその4になると、十八歳未満は禁止みたいになっちゃいますけど」

「だあああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 この人はまじだ。口元は笑っているけど目がまるで笑っていない。本気の目だ。

 あの頃の貞淑っぽかった美里さんはもうどこにもいない。目の前にいるのはアレだ。ドSの国からやって来たお姫様で、たぶん僕の宿敵以上天敵以下くらいの存在なのだろう。

 これ以上嘘を吐いたら冗談抜きでまずいと悟った僕は、とりあえず見栄を張ることをやめた。

「えっとですね……。昔は、正義の味方か猫になりたかったです」

「なんか、両極端ですね」

「子供らしくヒーロー願望が強くて誰かを助けたりすることに憧れてましたけど、それ以上に日々の生活に疲れてましたからねェ。……今と違って、小学校の頃は母さんが家にいましたから」

「……それは、なんというか辛い日々でしたね」

「本人に悪気はないんですけどね」

 なにやら苦渋に満ちた表情をする美里さんに対し、僕は苦笑するだけだった。

「まぁ、息子ってことで色々と肩身は狭かったですけど、母さんは本当になにやらせても超がつくほどうまくやれる人でしたからね。子供心に憧れてましたよ。正直羨ましかったんだと思います。……母さんみたいには死んでもなりたくないですけど」

「そうですか? 年々似てきてると思うのは、私の気のせいでしょうか?」

「100%気のせいです」

 いくらなんでもそりゃねぇだろと思う。大体、僕が母さんに似るわけがない。

 あんな傍若無人なエロス大魔神になってたまるか。

「うーん……なんというか、坊ちゃんは単に我慢強いだけで根っこの方はあの人と似てる気がするんですけどねぇ」

「絶対に違います。あんな楽天ドエロ魔王と一緒にしないでください」

「はいはい、それじゃあそういうコトにしておきましょうか」

 美里さんはにこにこと楽しそうに笑いながら、ようやく僕からどいてくれた。緊張から解放されて安心する反面、ちょっと残念だと思うのは、まぁ男としては当然のことだろうと思う。

 僕がこっそり溜息を吐いていると、美里さんは不意に真顔になった。

「坊ちゃん。最後に一つだけ聞いていいですか?」

「なんでしょう?」

「私の嫌いなところや苦手なところ、10個言ってください」

「………………え?」

「言えなかったら罰ゲームが最大級になります。制限時間は五分。よーいスタート」

「ちょ……っ!?」

 待てと言う暇もなかった。美里さんは真剣な眼差しで僕のことを見つめている。

 美里さんの考えていることは、僕には分からない。ただ一つ分かるのは彼女が本気だということだけ。


 腹をくくれと、その目が物語っていた。


 だから腹をくくった。

 美里さんが本気ならば、こちらも本気で応えるべきだと、そう思った。

「美咲ちゃんにやたら甘くいところ、すぐ殴るところ、よく拗ねるところ、何気なくニンジンが嫌いでよく残すところ、時々失敗をさりげなく僕のせいにするところ。あとここからは最近のことになるけど、耳に息を吹き込んだり、背中から抱きついてきたり、お酒に付き合わせたり、頭を撫でられたりするのはかなり苦手です」

「……本当に言いましたね」

「言えって言ったじゃないですかっ!? 僕だって言いたくありませんよっ!」

「んー……まぁ、坊ちゃんの本音が聞けただけでもよしとしましょうか」

 美里さんは意味深なことを言いながら、可愛い欠伸をしながら屋根の上に横になった。

 美里さんが横になったのを見て、僕は入れ替わるように体を起こす。さっきから美里さんに乗っかられていたせいで背中やら頭やらがちょっとばかり痛かった。

 顔を上げると空が見える。二月なのに今日は日本晴れで、雲一つない真っ青な青空。

 いつもなら別にどうってことのない景色だったけれど、なんとなく僕は思いついたことを口に出していた。

「……ねぇ、美里さん。一つだけ聞いてもいいですか?」

「なんでしょう?」

「どうして、僕なんですか?」

 前々から聞きたいことではあったので、僕は真剣に聞いてみた。

 が、なぜか美里さんは額に青筋を浮かべる。

「その質問の意図は、つまり私の趣味が悪いと暗に言っておられるのでしょうか?」

「いえ、単純かつ明快な疑問です。少なくとも、僕に男のミリョクってものがあるとは到底思えないだけです」

「なに言ってるんですかっ! 世の中知ったかぶりな少年がいじめられて涙ぐんでる顔とかは私的にはものすごいストライクなんですよっ!? あとはわりといい体格とか鎖骨とかふとももとか眼鏡とかつり目とか女性が苦手なところとかっ!」

「……美里さん。こう言っちゃなんですが、アンタ趣味最悪です」

「いえいえ、ちょっとマニアックなだけですから☆」

「なんで顔赤らめてんだっ!? 一寸も褒めてねぇぞっ!」

「今度白衣とか着てくださいよ♪」

「そんな色っぽく見つめられても絶対に着ねぇよっ! 明らかに弄ぶ気満々じゃねーかっ!」

「じゃあ、バレンタインチョコあげるから白衣か執事服(テールスーツ)を着ればいいじゃないっ!」

「なんで逆ギレっ!?」

 余計なコトを聞かなきゃ良かったと今更ながら後悔する。

 そして、今ここで確信する。僕という野郎は『普通』と称される女性には絶対に好かれない運命にあるらしい。

「くっくっく、坊ちゃん。いいから着るのです。白衣を着て『美里さん、今日はどうしましたか?』もしくは執事服を着て『お嬢様、お茶が入りましたよ』と言うのです。そうすれば新たな世界が開けること間違いなしですよ」

「み、美里サン? 目がめちゃめちゃ怖いんですけど」

「怖くなどないのです。さぁ……白衣か執事服を着るのです」

 僕は思い切り顔を引きつらせて、かなり泣きそうになった。

 怖い。美里さんには色々と殴られたりしたけど、正直言って今までで一番怖い。

 笑顔の似合う女性が血走った目でこちらを見つめて鼻息を荒くしているというのは、もう恐怖以外の何者でもない。

 しかも、いつの間にやら美里さんに詰め寄られ体が密着してしまったせいか、柔らかいやら嬉しいやら怖いやらでもうどこに自分の気持ちを置いたらいいのかよく分からないくらいに大パニック。

 ……助けてええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっ!!

 と、僕が魂の底から助けを呼んだ、その時。

「そこまでです、チーフッ!」

 格好いい声が響く。まるでヒーローのような格好いい声だったけど、それは間違いなく冥さんの声だった。。

 でも、周囲を見回しても誰もいない。ちょっとドキドキしながら上を見上げても当然そこには青空が広がっているだけ。

 もしかしたら空から降ってくるのかなどと期待した僕が阿呆でした。

「ちょっ、舞ちゃんっ! 押さないでっ!」

「仕方ないよ冥ちゃん。こっちもわりといっぱいいっぱいだし。……ところで、冥ちゃんもしかしてちょっと太った?」

 ゴズッ! という鈍い音が響く。鉄の棒を人体に強烈に叩き込んだらこんな音になるだろうって感じの、それはそれは痛々しい音だった。

「姉さん。次にそういうコト言ったらケします。これは太ったのではなく成長したのです。心配になってちゃんとネットで適正体重とかも色々と調べたんですからね」

「冥さん。迫力たっぷりに言うのは別にいいんですけど、聞く人を虫の息にしちゃいけませんよ?」

「前向きに善処します」

 抑揚のない声には感情すらこもらない。姉妹だけにドメスティックバイオレンスにもまるで遠慮がない。

 ……舞さん。生きてるんだろーか。

 ドタンバタンと音を響かせながら、まずは冥さんが屋根によじ登り、続いてコッコさんが登場、最後に白目を剥いた舞さんがコッコさんの手によって屋根の上に引き上げられる。

 エプロンドレスの埃を手で払って、冥さんは美里さんに指を突きつけた。

「チーフ、貴女の好きにはさせませんっ! 坊ちゃんとおはぎを食べながらお茶を飲むのは私の役目なのですっ!」

「ふふふ、この私に逆らおうなんていい度胸ね、冥さん。そんな貴女こそ大正浪漫にして紅茶を注がせてくれるわっ!」

「おはぎには紅茶より緑茶が合いますっ! さらに言えば和菓子も色々と買ってきたのでこの機会にお茶会をしてしまおうという、私の野望を阻むつもりですかっ!? おはぎは六つしかないんですよっ!?」

「そうね、坊ちゃんにはいっそのこと袴に胴着っていうのも悪くはないかもしれないわっ!」

 噛み合ってない。全然噛み合ってない。会話がこれでもかというほど噛み合ってない。

 己の欲望と主義主張するばっかりで相手の話を聞かないという、泥沼の戦争がこんな感じだったような気がする。

 僕としては緑茶も紅茶も大好きだけど、やっぱりメイド服なんていう地獄の使者が着るような衣装よりはやっぱり大正浪漫溢れる服装が好みなので、提案としては美里さんの方を受託してしまいたい気分ではあるけれど。

 ……と、まぁ当然のことながらそんな場合でもないわけで。

 そんな中、わりとまともな神経を保っているコッコさんは、呆れ顔で溜息を吐いていた。

「まったく、なにをやっているんですか美里。坊ちゃんをいじめても得なんて一つもありませんよ?」

「コッコちゃんは黙りなさい。これは最早いじめとかそういう低俗なものではなく、高潔たる魂の問題なのです」

「た、たましい?」

「そう、普段溜まっているストレスを一括で除去し、魂を綺麗にするのです」

 日常生活を送る上で絶対に聞くことはないだろう異次元の言葉に、流石のコッコさんも眉をひそめる。

 美里さんはまるでボスキャラのように、にやりと笑って口元を緩めた。

「その邪魔をするのなら、貴女たちとて容赦はしません」

 その目は、まるで笑っていなかった。

「……ふふふ、さぁ来なさい小娘ども。今日の私はいつもの私ではありません」

 嫣然と微笑みながら美里さんはゆらりと立ち上がる。

 その体からは漆黒のオーラが吹き出しているような気がしたのは……100%気のせいだろうけど、あんまり気のせいだとも思えないのが悲しいところだった。

「言ってきますが、私の戦闘能力(おきゅうりょう)は30万です。貴女たちが敵う道理はありません」

『坊ちゃん?』

 三人の視線が僕を射抜く。

「なんで美里の給料だけそんなに多いんですか?」

「明らかな贔屓を感じます」

「……どーせ坊ちゃんも男ですからね、胸とか腰がぱっつんぱっつんの方が好きなんですよ」

「そう思うんだったら、美里さんくらいに仕事してくださいよ」

『………………』

 冷たい視線を僕に向ける三人。無茶言うなとその視線が雄弁に物語っている。

 や、そんな目をされても有能な人に多めに給料を出すのは当然のことで、章吾さんがいなくなったぶんはかなり美里さんにフォローしてもらってるわけだから、それくらいは妥当なんじゃないかと思うけど。

 かなり困っている僕の顔を見て、美里さんは満足そうに笑った。

「さらに付け加えるのなら、私はあと4回、変身(だいきゅう)を残しています」

「……美里さん。なんかおかしいと思ったら、僕の部屋にあるドラゴ○ボールを勝手に借りて行ったのは貴女ですか」

「ふふ、坊ちゃんってはご冗談を。あれは自由図書でしょ?」

「人が心血注いで集めた単行本を勝手に自由図書にしないでください。今度やったら本気で怒りますよ」

「……ま、まぁそれはそれとしてですね」

 わりと本気で怒っている僕から目を逸らして、美里さんは拳を構えた。

「さぁ、かかってきなさいっ! 勝負に勝った一人だけが、坊ちゃんで遊ぶ権利が与えられるのですからっ!!」

「望むところです、チーフ。返り討ちにしてやりますっ!」

「美里……どうやら言っても無駄みたいですね。ならば私の手で貴女を止めましょうっ!」

 なぜかノリノリでオーラを燃やす三人。いつの間にか、メイド魔王に立ち向かうメイド二人みたいな図式になってしまっている。

 その様子をドン引きしながら見つめる舞さんは、口元を引きつらせながら言った。

「……坊ちゃん。私もこのノリに参加しないと駄目なんですかね?」

「……是非ともやめて欲しい。これ以上場が混乱するのはものすごく面倒なことになりそうだし」

「そうですね。私も別に坊ちゃんは要りませんし」

「僕も舞さんが景品だったら普通に要らないなぁ」

「………………」

「………………」

 お互いに頬が引きつる。

 舞さんは頬を引きつらせたまま、僕の頬をつねり上げる。

 僕は頬をつねられながら、舞さんの耳を引っ張り上げる。

 空気がギチギチと険悪なものになっていく。どちらかが手を離せば確実に手を離さなかった方がさらに力を込めるだろうことは明白で、だからこそ僕らは手を離さない。

 地獄まで続く死のロードレースがこっそりと開幕しようとしていた、その時。


「アンタらねぇ……ちったぁ頭冷やせ馬鹿野郎っ!!」


 怒声と共に放たれたとんでもない量の水が、なにもかもを屋根の上から押し流した。



 その日、有坂友樹はかなりご機嫌であった。

「全く、本当に性格悪いですね貴方の親友は。アレはアレでかなり好きですけど、つまらん思いやりだと思います」

 ぷりぷりと怒りながらもっきゅもっきゅとチョコを食べている鞠は、友樹と一緒に並んで歩いている。

 普段はあまり並んで歩くこともないので、その事実だけで友樹としてはかなりの幸福だったりする。

 思ったよりも安い男であった。

「いやぁ、俺としてはいい友人を持ったなぁと今更ながらに思うんだけどな」

「そうですね。まぁ、肝心の貴方の精神構造がクソったれな上に甘ったれなので、私としてはあの方と早々に縁を切ることをおすすめしますが」

「……本当は再会するつもりもなかったんだけどな」

「冗談を真に受けないでください。真正の馬鹿ですか貴方は」

「………………」

 その一言で友樹はかなり凹んだ。ちょっと泣きたくなるくらいに凹んだ。

 あからさまに気落ちした友樹の横顔を見つめて、鞠は少しだけ満足した後にゆっくりと溜息を吐いた。

「貴方はつまらんことで悩み過ぎです。彼が貴方の悩みごときに頓着するとでも思うのですか?」

「……しないだろうな。あいつはそういうヤツだ」

「ならばそれでいいではないですか。貴方に友達ができるだけでも奇跡なのに、その友達は貴方を思ってくれる。……普段から殺し合い寸前の姉妹とかよりは断然ましな関係だと断言できます。羨ましいです」

「……や、そんな羨ましがられてもかなり対処に困るんだが」

「私は昔引きこもりだったので、あまり友達がいないのです」

「まぁ、ウチも似たようなもんだな」

 友樹は困りながら頬を掻き、ぽつりと呟いた。

「……あいつの家は、結構暖かそうだったケドな」

「当然です」

「当然なのかよ?」

「無論です。言うまでもありません。見た感じ、彼は友樹様の五百倍は努力してますもの」

「いや……五百倍は言い過ぎじゃねーか? ホラ、俺だってわりと努力してるぞ」

「朝七時に起床、七時半には朝食を食べ終わり学校に出発。通学の時間を利用して経済やらなにやらの難しい専門書を読むふけり、学校に到着後も授業の時間を使って勉強。右手でノートを取りながら左手で専門書に目を通し時折あんパンなどを頬張り額に青筋浮かべる教師を完全に無視。昼は大抵貴方と食事。馬鹿話に花を咲かせて心を癒した後、午後の授業に出席。学校が終わった後は近所の本屋で立ち読み。至福の笑顔で漫画を読み終えた後気に入ったものを全て購入。もちろん帰る途中にもなにやら難しい本を読み耽り、屋敷に到着後は自分の部屋に連なる執務室で雑務やらなにやらに追われ、時々メイドなどと遊んでは苦しそうな表情を浮かべ、道場で運動したり訓練したりしています。夕食が済んだ後は適当に一時間だけニュースを流すようにチェック。寝るのは基本的に深夜の三時。一時までは完全に自分以外のことに専念し、二時間だけゲームをして死んだように眠るというのが彼の生活スタイルです」

「……そりゃアレか。ストーキング行為の賜物か?」

「そこで引かないでください。信頼できる探偵に依頼して得た、ただの調査結果です」

 鞠はゆっくりと溜息を吐き、友樹を真っ直ぐに見据えた。

「恐ろしいことに、彼は中学生になってからかれこれ五年。そのような生活を送っています」

「そりゃ、大変なこったな」

「その大変さを毎日のように繰り返しているからこそ、彼は身内を大事にできるのです」

「………………」

 友樹は少しだけ目を細めた。親友のようにナイフのようにとはいかなかったが、目を細めて呟いた。

「……なァ、鞠」

「なんでしょうか?」

「お前の家族ってどんな感じだった?」

「全員が引きこもりのクソったれでした。妹だけは激可愛かったですが、姉は特に大嫌いでした」

「なんで?」

「甘ったれで、自分勝手で、才能だけがあって、自分を鍛えることを忘れた馬鹿だったからです」

 それは、鞠には珍しく感情的な言葉だった。

 友樹が黙っていると、鞠はゆっくりと目を伏せて、苦しそうに言った。

「……すみません、口が過ぎました。忘れてください」

「いや、別にいいんじゃねぇか?」

「え?」

「人間関係なんざ、愛憎入り混じって当然だろ。好きなところもあれば嫌いなところもある。それがフツーだ」

「……友樹様にしては、まともな意見ですね」

「にしてはとか言うふぐっ!?」

 不意に口の中に飛び込んできた黒い物体に、友樹は面食らった。

 甘くて苦いものが口の中に溶けていく。それが鞠が食べていたチョコの最後の一欠片だと気づいたのは、飲み込んでからだった。

 友樹がチョコを食べ終わるのを見届けてから、鞠はにっこりと笑った。

「と、いうわけで、甘いものは飽きたのでラーメンでも食べに行きましょう」

「……有楽のみそラーメンでいいか?」

「できれば醤油の方で」

「はいはい」

 友樹は肩をすくめて歩き出す。鞠も一歩下がってそれに続いた。



 目を開けると、そこには不機嫌そうな京子さんが仁王立ちしていた。

 ゆっくりと体を起こす。屋上から墜落したっていうのによく無傷でいられたもんだと思いながら周囲を見回したけど、水浸しになった僕と京子さん以外には誰もいない。

「あいつらならさっさと逃げた。……いや、逃げたっていうより美里が他の連中を挑発して、三人は挑発に乗って美里を追ったって感じかな。ちなみに放水で流されたのは坊ちゃんだけだから」

「……美里さんが?」

「そーゆーヤツなんだよ、あいつは」

 京子さんはこれ以上なく不機嫌だ。目を細めてこちらを睨みつけている。

 がしがしと頭を掻くと、僕に可愛らしいラッピングの箱を手渡した。

「……なんですか、これ?」

「美里のぶん。『私が彼女たちを引きつけておきますから、あとはご自由に』とかなんとか」

「美里さんが?」

「散々好き勝手しておいて『あとはご自由に』もクソもないと思うけどね」

 言いながらも、京子さんは相変わらず不機嫌そうだった。

 僕は少しだけ考えて、結局考えても京子さんがなんで怒ってるのか分からなかった。

 でも、京子さんが怒っているのを見るのは、あんまり楽しいことじゃない。

「……京子さん」

「ん?」

「もうチョコレートはこりごりなんで、夕飯になんかしょっぱいものでも食べに行きませんか?」

「……寿司か焼肉なら考えてやる」

「じゃあ、そういうことで」

 僕はゆっくりと息を吐いて、空を見上げる。

 いつになく真っ青で雲ひとつない空が、今日はなんだか少しだけ憎らしい。

 騒ぎすぎたせいか、なんだか妙に眠くなる。最後の放水がとどめだったらしい。

「……きょーこさん」

「なんだよ? 言っておくけど、その辺の店じゃあたしは納得……」

「■■■■■」

 言うべき言葉を言ってから、僕はゆっくりと目を閉じる。最後に見たのは唖然とした京子さんだったけれど、あの可愛い顔を頭に焼き付けるのには、ちょっとばかり僕の体力が足りない。

 体から力が抜ける。今言ったことも、たぶん起きた頃には覚えてすらいないだろう。

 ままならない自分と、どうしようもない自分と、自由にならない自分を憎みながら、

 僕は、ほんの少しだけ……全部を忘れて眠ることにした。



 バレンタイン・デス(後)……END

と、いうわけでバレンタイン企画でした。いかがだったでしょうか?

次回は本編のコメディ。わんことにゃんこのカーニバル。そして、登場人物がやたら多いこの物語において最後のキャラクターが登場します。

作業着な彼女。属性は犬。

というわけで、次回をお楽しみに♪


……命題1の前提条件がOPENされました。

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