第三十二話 お母さんと一緒
明けましておめでとうございます。2007年一発目の更新でございます。
今回は完全コメディ。ちょっとページ数少なめな仕様となっております。
いつだって、流されるままに流されて、それでも少しでも流れに抗うために。
暖かくて柔らかくて安心できて、僕はそういう場所にいた。
けれど、その場所は暖かいけれど悲しい場所で、僕は意味もなく胸を痛めた。締め付けられて、痛かった。
頬に落ちるのは水滴で、僕はなんだか無性に泣きたくなった。
命を狙われることよりも、誘拐されて殴られるよりも、もっともっと辛かった。
泣かないでと僕は言った。
彼女は泣き止まなかった。理由は分からないけれど、彼女は泣き続けた。
抱き返すことも思いつかず、彼女に抱きしめられたまま、僕は泣きそうになりながら泣けなかった。
胸が、ざわめいた。
母親は絶対に泣かない女だった。僕は彼女がにやりと笑うところしか思い出せない。
父親はもっと泣かない人だった。僕は彼が寂しそうに微笑むところしか思い出せない。
親友の白いヤツはよく泣いていた。殴られたり寂しかったり家の事情とか色々とあるらしい。僕はその度に冗談を言ったり、本気で怒らせたりして無理矢理紛らわせた。……なんというか、そうしなければいけないような気がしたから。
でも……これはなんだろう?
泣いているのは彼女なのに、どうして僕が痛いんだろう?
痛くて苦しくて辛くて、なのに自分ではどうにもできない。
だから、僕は最後の最後まで、死ぬまで取っておくつもりの言葉を、口にした。
夢を見た。最悪な夢だった。思い出さなくても思い出せる、そういう類の夢だった。
いつかどこか、ほんの少し昔に見た事実。
でも……夢にまで出てこなくてもいいだろうと思う。
「……ったく、我ながら女々しいったら」
ゆっくりと目を開けて、背伸びをしながら体を起こす。目覚めは悪いが、体の調子はそこそこで、朝日を見た瞬間に気分もそう悪いものじゃなくなった。
と、不意になんだか背中に柔らかい感触。
「お目覚めですか? ご主人様」
「………………」
訂正。気分は最悪になった。
恐る恐る振り向くと、そこには高校生の息子を持っているとは思えない超絶美女が、僕に抱きついていた。
「んっふっふ、おはよう息子。なんだかずいぶんと楽しそうじゃねーか? んん?」
「……なにやってんの? 母さん」
「メイドごっこ」
高校生の息子を持っているとは思えない母親は、恐ろしいことになんら悪びれることなくメイドごっこと言い放った。
よく見ると、母さんが着ているのは屋敷で支給してるメイド服だった。どこから調達してきたのかなどとは考えるのも馬鹿らしい。
なぜなら……この屋敷の制服のデザインを決めたのは、この人に他ならないからだ。
「まぁ……母さんのコスプレ好きは今に始まったことじゃないし、似合ってるから許せないこともない範囲だけどさ、問題なのは、鍵のかかってる僕の部屋にどうやって侵入してきたのかってことでね?」
「あぁ、電子ロックとか小賢しいことしてるみたいだったから、扉ごと蹴り壊したけど」
……ミもフタもあったもんじゃなかった。
そうだ、すっかり忘れてたけど僕の母さんはこういう人だった。
目的のためなら手段など辞さない。かなり自分の欲求に素直な人だった。
「と、いうわけでおはようのちゅー」
「っだああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
全力で回避。ベッドから転がり落ちて反転。立ち上がると同時に背を向けて逃げ出そうとするが、そこで襟首を掴まれた。
「どこに行くのかな、息子。あたしはおはようのちゅーと言ったはずだぞ?」
「どこの世界に高校生男子におはようのちゅーをかます母親がいるんだよっ!? 言っておくが外国とか『ここに』とかそういうのは一切なしだからなっ!!」
「いーじゃん別に。減るもんじゃないし。口にちゅーっとやるだけじゃん」
「だからなんで口なんだよっ!? しかもちょっとじゃないしっ! 小学校の頃は人がなにも知らないと思って五分ぐらい平気でやってたろっ! おかげで学校でかなりヘビィ級な恥をかいたよっ!」
「まぁいいじゃん」
「なんでそうミもフタもない返答ができるのかなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
僕の母さんはツッコミどころ満載でありながら、いつもいつもツッコミを綺麗に殺してくれる。
ホント……なんで僕はぐれなかったんだろう?
まぁ、ぐれる暇なんてなかったからだけど。
「しっかしなんつーか、少し見ない間にすっかりツッコミが上手くなったよな、息子。昔の章吾そっくりに育ちつつあってあたしは嬉しいよ。で、そういえば章吾は? なんか昨日から姿が見えないけど」
「や……つい先日屋敷を辞めたけど」
「あぁ、なんだ。女か」
嫌な納得のされ方だった。章吾さんが普段どう思われていたのか、すごくよく分かる一言でもある。
「なんだー、やめちゃったのか。今度キャバクラ遊びでも教えてやろうと思ったのに。残念残念」
「うわぁ……最高に迷惑だ」
「というわけで、フェイントのちゅー」
「ぬあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
本当にギリギリで避ける。慌てて間合いを取りながら、僕はちょっと泣きそうになった。
「母さん……僕は高校生なんだよ? プライドとか羞恥心とかもあるんだよっ!?」
「あっはっは、ばっかだなぁ息子。……だからいいんじゃん。その羞恥に悶える様子がたまらないっ!!」
「がああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
なんだろうこの状況。なんで僕は朝っぱらから母親に襲われたり軽快に突っ込んだりしなきゃいけないんだろう。
なんかもうこれはアレか、宿命かなんかか。
それとも、もう大人しくちゅーされてしまった方がいいというのかいや絶対断じて嫌だけどっ!
と、僕はどうやってここから逃げようか思考を巡らせていた、その時。
「坊ちゃん? もうお目覚めなんですか?」
最悪のタイミングで、最近は毎朝僕を起こしに来てくれる彼女が、ひょこっと顔を出した。
母さんと冥さんの目が合う。母さんはちょっとポカンとしながら冥さんを見つめ、冥さんは小首をかしげて少しだけ考えた後、母さんが誰かようやく思い出したのか、ポンと手を打っておじぎをした。
「お帰りなさい、奥様」
「………………」
母さんは少しだけ目を細めて、腕組をした。
「……ねぇ、息子」
「なんすか、母さん」
「アレもお前の好みだろう? なんかすげぇ妹属性だし、守ってオーラ放ちまくり、みたいな?」
ものすげぇ真面目な顔で、とんでもねぇことを言い出した。
「いいなー、双子メイド。あたしも欲しいなー、姉とか妹とかそういうメイド。朝はあたしより早く起きて、あたしより料理が上手くて、あたしより遅く寝て膝枕とかもしてくれる、そーゆーメイド。巨乳なら完璧。つまりあの子は完璧」
「いねぇよ、そんな人類。つーか母さん、あんた女でしょうが。女の子に膝枕とかされて楽しいの?」
「可愛かったら楽しいに決まってるじゃん」
断言された。自分の母親ながら、情けなくも恐ろしい言葉だった。
僕は深々と溜息を吐きながら、なんとかこの場を打開する方法を模索する。
「大体ね、冥さんは善意で僕を起こしに来てくれてるんだよ? そんな無礼なことを言うのは良くないってば」
「じゃー、あたしも冥ちゃんに善意でちゅーとかしていいわけだな?」
「駄目に決まってんだろうがっ!」
「お前のものは、あたしのもん!」
「僕のじゃねぇし、なによりこれだけは言わせてもらうが、あんたにだけは絶対に渡さねぇよっ!!」
「えー、それってもしかして独占欲? あ、そっか。小さい頃は『妹が欲しい』ってあんだけせがんでたしね」
「覚えてねぇよっ!」
「だからあたしはパパと色々頑張ったのにー」
「聞きたくねぇよっ!」
「はい、そういうわけであたしとアイツの愛の結晶の写真。まだ小学生だけどね」
まっしろに、なった。
「なっ……だっば……はあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!?」
慌てて写真を奪い取る。
そこには、赤い髪を腰まで伸ばした幼さ全開の少女が、朗らかに笑っていた。
どこかの病院で撮影したのか服は典型的な入院着、肌は透けるように真っ白で、瞳まで赤い。ただ、明らかに母さんの血統だということが分かる超絶美少女。丸くて鋭い猫の目も特徴的だった。
「ちょっと病弱だからね、世界で一番腕のいい医者に預けてあるんだ。あたしに似て可愛いでしょ? 実の妹に禁断的に惚れるなよ、おにーちゃん?」
「……母さん」
「なに?」
「なんっっっっでそういう大事なことを黙っておくんだアンタわああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「てへっ、言うの忘れてた♪」
「っだああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
ツッコミキラー高倉織。我が母親ながら、僕をここまで追い詰めてくれたのは彼女が初めてだった。
いや、待て。……そうか、分かったぞっ!
「そうか……そういうことだったのか。どうやら甘かったようだね、母さん。妹とか言われて危うく信じるところだったけど、よく考えると父さんは白に近い銀髪で母さんは黒髪。こんなアニメキャラみたいな赤髪が存在するわけないっ! 母さんによく似た人を連れてくるとは、なかなか考えたね!」
「あ、その髪あたしが染めたんだ。赤が好きだって言ってたし、瞳も赤だからそれに合わせようと思って」
「娘の髪を気分で染色してんじゃねーよっ!」
「気分じゃないって。ホラ、あたしにしちゃ、めちゃめちゃ気ぃ使って染めてるし」
「染めるのが悪いって言ってんだよっ!」
「やっぱり一生に関わることだからね。こーゆーのは」
「しかも永久染色かよっ!? どんだけ人の人生狂わせれば気が済むんだよアンタはっ!?」
最悪極まりない母親だった。
どうも、ウチの母さんは最強なせいで力加減というか、小さな親切大きなお世話というか、他人との距離というヤツがイマイチ分かっていない。いや……正確には、一般人の心というのが分からないのだ。
優秀すぎるが故の欠陥というべきものなのだけれど、それでも力技である程度なんとかしてしまえる力量が母さんにはある。地上最強と言うだけあって、全部優秀なのだから仕方ない。
……唯一の弱点は、父さんくらいか。僕じゃ歯止めにもなりゃしねぇ。
「で、一応確認しておくけど、これは本物の妹なの?」
「うん。まじまじ。完璧に血の繋がった、まごうことなきアンタの妹。名前は高倉望。本当は高倉天使って名前にしたかったんだケド、またしてもパパに邪魔されてしまったというわけだよ、ワトソン君」
「……なるほどねぇ、ホームズ。今の今まで黙ってたってことは、体が弱くて回復の見込みがあまりなかったからあえて僕には言わずにおいたけれど、長い闘病生活の末に病気も良くなって学校に通えるようになったからってコトでいいのかな?」
「………………えっとね」
いきなり歯切れが悪くなる。どうやら図星だったらしい。
肌の白さと瞳の赤。ついでに言えば母さんが染めたと言っている髪も、恐らく元の色は白のはずだ。
赤も似たようなもんだけど、白い髪じゃ目立ちすぎる。赤い瞳に黒い髪では不自然だから、瞳の色と合わせただけだろう。
僕はそうでもなかったけれど、父さんはとにかく体が弱い。あの人の血を受け継いでいるのなら……そういうことになってもおかしくない。
僕は目を細めて、母さんを真っ直ぐに見据えた。
「母さん。気持ちは分からないでもないけど、僕にも関係あることなんだから」
「や……まぁ、そりゃそうなんだけど」
「なんだけど、なに?」
「息子にとっちゃ、妹なんて言われても、見も知らない他人みたいなもんだろ? いきなりこの子が家族で妹ですとか言われても実感湧かないだろうしさ。だったら……まぁ、双方の心の準備が整うまでちょっと待ってみようかってことになったってわけ。で、報告もかねてちょっと小粋なジョークを交えながら伝えようかなーって……思っちゃたりしたわけでね?」
「………………」
つくづく、他人の心が分からない母親だと思う。
そんなもん、どんな手段で伝えようがパニックになるに決まってる。
色々と割り切れないことはあったし、ちょっとまだパニック気味だが、僕は溜息を吐いて言った。
「……まぁ、妹がいるならいるで別にいいよ。母さんの口ぶりだと、まだ入院が必要みたいだし」
「まぁな。大きなところは越えたらしいけど、まだまだ検査とかそういうので長引きそうだわ。ま……元気、だけどね」
「そっか」
母さんがどんな苦労を隠していたのか、それはちょっと表情からは読み取れなかった。
でも、元気ならそれでいい。
妹とかそういう血の繋がりはまず置いておくけど……可愛い女の子が元気なら、男としてはそれでいい。
母さんや僕と血が繋がっているのは、心の底から同情するけど。
「じゃ、そういうことで伝えたから。あたしは飯でも食ってくるわ」
「あ、ちょっと母さんっ!? まだ聞きたいことが……」
「じゃ、またあとでー♪」
そう言い残しながら、母さんはあっという間に僕の部屋を出て行った。目にも止まらぬスピードだった。
部屋の中には、僕と冥さんだけが残された。壊された扉を見つめてちょっと溜息を吐きながら、僕は外を見た。
外は抜けるような青い空で、いい天気だった。
「……冥さん」
「なんですか?」
「今のことは、なるべく他言無用にお願いします」
「分かりました。……でも、坊ちゃんも大変ですね。舞ちゃんが二人いたらと思うと……ぞっとしません」
「や、別に舞さんが二人って考えなくても」
笑って答えようとして、そこでふと気がつく。
んー……なんというか、つまりこれは遠まわしに慰められてるんだろうか?
冥さんの顔を見ても感情までは分からない。いつも通りの、微笑ましい笑顔だった。
……ま、いいか。
気分を切り替えて、僕は思いついたことをそのまま口にした
「そういえば冥さん、髪伸びた?」
「伸ばしてるんです。舞ちゃんと一緒っていうのがなんとなく嫌なので」
……反抗期というやつだろうか。なんだか舞さんの扱いがものすごくぞんざいになりつつあるような気がする。
普段の行動が行動なんで、自業自得とは思うけど……かわいそうな気もする。
「坊ちゃんは髪が長いのはお嫌いでしたか?」
「いや、嫌いでもないし、伸ばしちゃ悪いって規定もないしね」
髪が長いのはむしろ大好きだし。
「でもさ、髪が長いと仕事の時に邪魔にならない? くくったりしないの?」
「……髪の縛り方、よく知らないんです。舞ちゃんは服の選び方くらいしか教えてくれませんし」
どうやら、基本的な知識がぽっかり抜け落ちているらしい。
つーか、舞さんってどうしてこう肝心なところで抜けてるんだろう。イマイチどころかイマサンくらいで、妹の感情を理解できていない。溺愛しすぎて目が曇ってるんだろうか?
僕のことなんざ構ってる暇なんて、ないだろうに。
「知らないなら仕方ないね。それじゃあここは一つ、僕がなんとかしてみよう」
「坊ちゃん、女の子の髪のくくり方とか分かるんですか?」
「まぁ、母さんの髪とかくくったこともあるしね。髪留めもあるし、記憶が確かならなんとかなるよ」
ならなかったら友樹に聞くなり、ネットで調べるなり色々と手はある。
いざとなったら、後ろ髪をポニーテールにくくって無理矢理誤魔化そう。
「そうですか。……じゃあ、お願いします」
「任されました」
さてさて、ちょっと緊張してきたけど、まずは髪を綺麗に整えよう。
そう決意して、僕は最近買ったばかりの櫛を取り出した。
食堂にやってきた僕と冥さんを待ち受けていたのは、想像を絶する光景だった。
母さんの前には五つのどんぶりが積み上げられている。凄まじいのはそれだけの量を平らげてなおラーメンとカツ丼を頬張っている母さんだろう。おまけにまだ追加注文しているのか、食堂にいる京子さんは朝も早いというのにかなりのハイペースで料理を作り続けていた。
「いやー、相変わらずすげぇな京子は。料理もできるしロリ巨乳だし、なんかもう、ある意味パーフェクト?」
「誰がロリ巨乳だコラ! テメェいい加減にしないと頭カチ割るぞ!」
「ロリ巨乳じゃん。童顔低身長スタイル抜群ってのは人類としてはありえんスペックだろ」
「………ぐっ」
最近聞いたことのある屈辱的な言葉に、京子さんはかなり嫌そうに顔をしかめた。
嫌そうな京子さんを見つめながら、母さんはニヤリと笑う。
「ねー、京子。おねーさんからちっとお願いがあるんだけど」
「あんだよ?」
「ウチの息子、もらってくんない?」
ガシャーンという派手な音を立てて、京子さんはすっ転んだ。
「なっ……ば、ばっかじゃないかお前っ!! なんでいきなりそんな話になるんだよっ!」
顔を真っ赤に染めて、京子さんは落とした調理用具を拾い集めながら叫んだ。
そんな京子さんを見つめて、母さんの頬が緩みまくる。
「いやいや、京子と息子だったら、こりゃもうお似合いのカップルになるかと思ってね。ホラ、京子が誘惑すれば一瞬で落ちると思うんだよね、息子も男だし」
「べ…………別にあたしは、そんなつもりは」
「あんまウダウダやってると、前みたいに他の女に持っていかれるぜ?」
「っ!?」
京子さんの表情が変わる。思い切り目を細めて、母さんを睨みつけた。
僕ならばその場で土下座してしまいそうな殺意を向けられても、母さんはどこ吹く風だった。ニヤニヤと悪魔的に笑いながら、言い含めるように、言った。
「誰に咎められるわけでもないっしょ? 略奪しようが襲っちゃおうが、双方納得できればオールOKじゃん」
「そりゃそうかもしれないけど……でも、あたしはそういうのは嫌だ」
「真面目だね。………………くくく、なんて息子好みそうな女だろう。これならすぐにでも孫の顔が見れそうだ」
「なんか言った?」
「別に。それより早く親子丼作ってくれ。あたしはお腹が空きました」
「はいはい」
京子さんは落とした調理器具をまとめて皿洗い機に放り込み、再び料理を始めた。
うーん……仲がいいんだか悪いんだか。京子さんと美里さんは母さんの紹介で屋敷にやって来た人たちなのだけれど、どうもかなり微妙な関係らしい。愛憎入り混じりというか……なんと言えばいいのかは、よく分からないけれど。
たぶん、僕が安易に触れていい部分じゃないんだろうなと思う。
あと、母さんの一言はあえてスルーさせてもらう。あんなもん、いくら僕でも突っ込みきれるわけねぇし。
まぁ、それはともかく。
「母さん、まさかとは思うけど顔見知り全員にそーゆーことを吹聴してるんじゃないだろうね?」
「大丈夫。ミャクのなさそうな女の子には言ってないから」
「さも当たり前のような顔してんじゃねぇよっ!」
ウチの母さんは世界最強と呼ばれている。
その世界最強は、基本的にきまぐれでわがままで周囲に迷惑をかけまくる、本格的な駄目人間だった。
「そういうわけでさ、冥ちゃん。ウチの息子もらってくんない?」
「え? や……その」
「だからやめろって言ってんだろうがっ! いい加減にしないと泣くぞっ!」
と、僕がいい感じに血管切れそうなくらいに怒鳴っていると、不意に、母さんの目が輝いた。
「……よ」
「よ?」
「よくやった、息子っ!」
口元を嬉しそうにつり上げる母さんの視線を追うと、そこには朝食を食べに来た中学生。
陸くんが、欠伸をしながらやってくるところだった。
叫ぶより早く体が動く。母さんが椅子から消失すると同時に、僕も走り出している。
「どっせええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇいっ!!」
「ごはぁっ!?」
そして、問答無用で陸くんを蹴り飛ばした。
陸くんの服を一瞬だけ指が掠めるのが僕には見えた。
僕が蹴り飛ばさなければ、間違いなく母さんは陸くんを捕まえていたことだろう。
「……母さん。一応聞いておくけど、なんのつもりですか?」
「そっちこそなんのつもりだよ? あたしは単に美少年にキスしようとしてただけだぞ」
「盛りのついた猫かなんかかアンタはっ!! 小学校の時も友樹に似たようなことやって泣かせてただろうがっ! 頼むからこれ以上少年の純情を踏みにじるのはやめてくれっ!」
「あたしみてーな美人にキスされんなら、男冥利に尽きるってもんじゃね?」
「……馬鹿ですか、貴女は」
「ハ、当然だろう息子。世界最強が賢いわけねーだろ。……最強ってのはな、馬鹿だからこそ成り立つんだよ」
「格好いいセリフでセクハラを誤魔化してんじゃねぇ」
「……本当にツッコミが上手くなったね、息子。父さんの領域にまで届いているかもしれん。でも、まぁ……」
母さんの姿が、消えた。
「本気になったあたしを止められるとでも、思った?」
声は背後から響いた。それからなんだか『ちゅっ』という軽い音が響く。
慌てて後ろを振り向くと、唖然とした陸くんと、顔を少し赤らめた母さんがいた。
「レモン味、GETだぜ!」
「………………」
陸くんの表情がゆっくりと真っ青になっていく。
ちらりと僕を見て、それから母さんを見て、ゆっくりと口を開いた。
「……にーちゃん。この方はどちら様ですか?」
「………………認めたくないけど、僕の母さん」
「今、にーちゃんの母さんに……その、キスをされていたよーな気がするんだけど、幻覚だよな?」
……気まずい。
……気まずすぎる。
それを僕に聞いてくる時点で、キスをされたのは確定事項だってことに、本人だけが気づいていない。
というか、気づきたくないんだろう。
「陸くん」
「うん」
「そんなわけないだろう? ホラ、キミは中学生なんだからそういう幻想も見るって」
「そ、そうだよなっ! そんなわけないよなっ! 朝からちょっと馬鹿みたいな夢を見ただけだよなっ!」
「あっはっは、そりゃそうだよ。中学二年生男子っていうのは、世界一馬鹿で自意識過剰な生物なんだから、それくらいの幻覚は見るってば♪」
誤魔化せ。世界中の中学生に失礼だとしても、ここは誤魔化し切るんだ!
少年の純情だけは、なんとしてでも守らなくてはならない。彼を僕や友樹のようにしてはいけないんだっ!
とりあえず、今は嘘を突き通すっ! 幻覚とか夢とかそういうものだと思い込ませ……。
と、そこで不意に、冷たいものを感じた。
「陸くん?」
絶対零度の声が響く。陸くんは髪の毛を逆立てて、ゆっくりと後ろを振り返る。
食堂の入り口には、なんだか不気味なオーラを放つ、虎子ちゃんがいた。
「そんな破廉恥なコト、駄目でスよぅ? 織奥様は既婚者なんでスから」
「や、それは……違う」
「違うもへったくれもないんでスよ? 事実というものは、目で見たものが全てだったりするんでスから」
「あ……あう」
完全に尻込みする陸くん。そして、なんだか妙に厳しい虎子ちゃん。
もしかして……怒っていたりするんだろうか? 人には優しく、自分に厳しい虎子ちゃんが。
……うーむ。陸くんの一方通行かと思ってたけど……もしかして、ミャクありなのか!?
と、さすがにかわいそうだと思ったのか、母さんが頬を掻きながら口を挟む。
「えーと、虎子ちゃん。いや、そういうわけじゃなくて、今のは挨拶みてーなもんでね?」
「……織奥様」
「だから、別にこの美少年は悪くもなんともないんだわ」
「……話は分かりました。しかし、いくらなんでも出会った事のない少年に出会いがしらに接吻をするというのはいかがなものでしょうか? 奥様も家庭を持つ身、あらぬ誤解を受けるのは本位ではないでしょう? 旦那様とて、顔にこそ出しませんが貴女の奔放さにはあきれ返っている面もありますよ。そもそも、お屋敷に戻って来てからの奥様の行動は目に余る上に常識的ではありません。……キツネさんに会えて嬉しいのは分かりますが、自重してください」
「……えっと、ごめんなさい」
すげぇ、虎子ちゃん。
母さんが謝ったよ、おい。しかも普段の快活さからは考えられないくらいの物静かで事務的な正論で相手を真正面から叩きのめすという徹底ぶり。はっきり言っておっかねぇ。
……まぁ、そのおっかなさも、またいいというかなんというか。
「お分かりいただけたのなら光栄です。それじゃあ、私たちは業務に戻りますんで。……行きますよ、陸くん」
「………あ、うん。今行く」
まるでもらわれて行くわんこのように不安げな目でこちらを振り返りながら、それでも陸くんは躊躇せずに虎子ちゃんについていった。
うわぁ……気まずそう。僕なら絶対に泣いてたぞ、あれ。
「なぁ、息子」
「なんですか、母さん」
「もしかして、あたしはめっちゃ悪いことをしたんだろーか?」
「悪いかどうかは母さんの良心が判断することでしょうね」
「悪いことしたなぁ……」
母さんは頬を掻きながら、ゆっくりと溜息を吐いた。
「まさか、あんな修羅場に突入するとは思わなかったよ。うん……最近の中学生は進んでるねぇ。目の付け所もいい」
「そう思うんだったら、虎子ちゃんが言うように今後は自重して……」
「あ、山口発見っ!」
「人の話を聞けェェェェェェェェェェェェェェェッ!!」
そう叫んだ時には時既に遅く、母さんは食堂に顔を出したコッコさんに抱きついていた。
「きゃーっ!! いやっ、ちょっ、ひあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「あっはっは、可愛いなぁ可愛いなぁ山口はっ! うりうり頬ずりしちゃうぞ、ふにふにむにむにしちゃうぞ、ぱんつも見ちゃうかもしれないぞー? にゃはははははははははっ!!」
「だーかーら……」
僕の中のなにかが、ぷちんと音を立てて切れた。
「セクハラはやめろっつっとるんんじゃアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァッ!!」
家庭内暴力実行。
漫画なら一ページまるまる使用する派手なアッパーで、母さんを吹っ飛ばした。
世界最強、高倉織。
伊達でも酔狂でもなく、その二つ名で呼ばれている彼女。兼業主婦の漫画家。恐れるものは編集者の電話と夫の小言と息子の軽蔑の視線と梅干しである。
生まれたのは三十七年前。父親と母親はごく普通の人間で、ただちょっとばかり大らかなだけだった。
五歳の頃に人型ロボットを撃破。両親を大いに驚かせる。
世界審判がこっそりやっている種族別世界ランキング第一位に食い込む実力がありながら、審判員を尖った拳で脅しつけて自分をランキングから排除させたのが、十歳の頃。ちなみにこの時点で独り立ちを決意。両親の涙に見送られつつ、少女は世間の荒波に真正面から飛び込むことになった。
十一歳の時にキラー衛星を撃墜。
十二歳の時に世界制圧同盟『れ番』と戦闘。軍団を撃破。
十四歳の時に自分と似た名前の少女と親友になる。
十六歳の時に現在の夫と出会う。
十七歳の時に自分と似た名前の少女と現在の夫を取り合う。
十八歳の時に上記が原因で世界を巻き込んだ戦争直前まで行きそうになる。
十九歳の時に夫が絶望に侵食される。それを追って世界を越えた。
二十歳の時に夫の絶望を排除。胸倉を掴み上げて式場に連行。そのまま結婚。
二十歳の時に長男を出産。計算が合わないので、おそらくできちゃった結婚。
以降……まぁ、わりと普通の人生を送っている。
「……ねぇ、スミス」
資料を読み終えた柔らかな髪の少女は、己の執事に問いかける。
「言うまでもないことだけれど、ここまで情報が揃っていながら彼女を仕留められないというのは、つまり彼女が最強に無敵で究極で、人質でも取ろうものならこっちが再起不能になるくらいにやばいってことね?」
「その通りでございます、お嬢様」
単眼鏡を身につけた老紳士は、恭しく己の主人に頭を下げる。
「世界最強というものは、概念でもなんでもなく彼女なのです。情報は全て出揃っている。彼女の情報は全て知られている。不明や不明瞭など一切なく、全てが明瞭でございます。しかし……しかし、彼女は圧倒的すぎる。かの有名な黒の魔法使いと同じように、己の『能力』だけで全てを超越する。黒の魔法使いならば戦闘能力に特化している上に、絶望のみを己の敵としているだけなのでさほどの脅威にはなりませんが、彼女は全てにおいてパーフェクトです。……敵とするにはリスクがあまりにも高すぎる」
「理不尽だわ」
「左様ですとも。私も一度仕合ったことがありますが、とてもとても彼女には」
「そうではないのよ、スミス」
柔らかな髪の乙女は、資料を片手で握りつぶしながら、口元を歪めた。
「彼女だけが『彼』で遊ぶだなんて、そんな理不尽を認めるわけにはいかないでしょう?」
その言葉に、老紳士は戦慄を覚えた。
主にとっては世界など遊び道具でしかなく、自分の命すらもいざとなれば賭札とするだろう。
傲慢で欲深い凡人な彼女は、生まれ持ったカリスマ性故にここまでのし上がった。
元々……このような怜悧な目をする少女ではなかったはずなのに。
「執事、なにか余計なことを考えているわね?」
「はい、主。私は貴女様の幼少の頃を考えて陰鬱な気持ちになっていました。昔は可愛かったのに、なんでこんな生意気なクソガキに育ってしまったのかと、己の不徳を責める次第でございます」
「………嘘を吐かないのは貴方の美徳だけど、そういうのはもーちょっと、オブラートにくるんだ方が人間関係とかが円滑になると思うのだけれど?」
「無意味なことはしない主義です。有意義なことはしますが。……そういうわけで部屋を片付けなさい、主。部屋の散らかっている女子など、どこの殿方がもらってくれるというのですか? 家事万能な男などそうはいないのですよ?」
「う〜……」
ものを片付けることが苦手な彼女は、頬を膨らませながら自分の執事を睨みつけた。
「やっぱり、貴方を戻すのではなかったわ。なんか生意気だもの」
「そんなことを言われては心外ですなぁ。ちょっと傷つきましたので、お嬢様が小学五年生の時におねしょをして私に泣きついてきた時の映像をインターネット経由で全世界に流してしまいそうですぞ?」
「破棄なさいっ! 今すぐっ!」
「その程度の冗談を笑って流すくらいの度量は身につけなさいと仰っているのですが、お分かりですかな?」
「………………」
執事の冗談に顔をしかめて、少女はゆっくりと溜息を吐いた。
「……まったく、相変わらず口の減らない」
「口の減っている執事などに意味はないのですよ、主。執事とは主人を諌めるものですからな」
「それで……これからどうするつもり? 策があるというから、今回は貴方に任せたのよ?」
「決まっているでしょう、そんなことは」
老紳士はいつも通りに口元を緩めると、恭しく主に礼をした。
「教育してやるのですよ。身の程を知り尽くした小僧に、己の価値というものをね」
「素晴らしいわ、執事」
その言葉は平坦かつ平常どおりで、主である少女は満足そうに口元を緩めるのだった。
第三十二話『お母さんと一緒』END
第三十三話『お母さんと一緒EX』に続く
はい、そういうわけでお母様登場の回でした。次回も似たようなノリになると思います。
そういうわけで、前回で出題した問題はここで〆切とさせてもらいます。(2)の正解者はいませんでしたが、あんまり心配しないでください。今回の失敗にペナルティはありません。
と、いうわけで今回の問題。
・伝説たるキョーコが極限まで鍛え上げた、ただ一つのスキルとはなにか?(難易度・デス)
ヒント:経験値により誰もが習得し得る技術であり、キョーコが唯一保有する技術ではない。凶悪なまでに地味ではあるが、歩兵が持つものとしては最高峰に位置するスキル。
複数回答可。〆切は第三十四話公表までとします。
と、いうわけでクイズスタート。焦らなくても、時間はありますのでゆっくり行きましょう♪