第三十話 偽った彼と嘘吐きな彼女
三十話到達です、おめでとう♪
一人で祝ってみました。……ちょっと物悲しいです。番外編含めるととっくに三十話突破してますし。むしろ四十近いし(苦笑)
そういうわけで、今回もちょっと長いですが、応援宜しくおねがいします。
嘘を吐いた。嘘を吐いた。嘘を吐いた。
誰も信じてくれなくなって、自分すらも騙した。
本当は、嘘なんて吐きたくなかったのに。
訓練というか一方的に打ちのめされたというか、とにかく今の僕はまるでボロ雑巾のようだった。
急所を狙ってくる一撃を防ぐのがやっとで、ガードの上からでも打ち込んでくる攻撃に腕も足も痛み切っている。京子さんであってもここまで容赦なくはやってこねーよと内心で思った瞬間に、首を刈り取るような上段蹴りが決まってKO。二十分ほど気絶していた。
「おーい坊ちゃん。生きてるかー? なんつーかこれ以上ないくらいコテンパンにやられてたみたいだけど」
「生きてますよ……ぎりぎり」
声に反応して目を覚ます。まだ周囲の風景がチカチカしている。
頭を振って体を起こす。ゆっくりと深呼吸をして、僕は生きている実感を噛み締めた。
「……死ぬかとは、思いましたけど」
「まぁ、あんだけやられりゃ下手すりゃ死ぬね。むしろ死ななかった方が驚きだよ」
京子さんは溜息を吐いて、僕を叩きのめした相手を少しだけ睨みつけた。
「そーゆーこった、美咲。この坊ちゃんは奇襲やら不意打ちの類には死ぬほど強いが、真正面からやられると意外と弱いっていう特性を持ってる。やるときはちゃんと手加減してやるよーに」
「……それって、総合すると『弱い』ってことじゃない?」
ざくっと、小学生らしい容赦のなさというか相手への気配りのなさに僕の心はあっさりと傷つけられた。
「まぁ、強いか弱いかって言われると……弱いけど」
ぐさっと、京子さんの容赦ない言葉が胸に突き刺さる。
京子さんはそんな僕を見つめ、なるべく言葉を選んでいるかのように言った。
「でもまぁ、得手不得手ってもんが人にはある。美咲は格闘技全般はこれ以上なく向いてるけど、坊ちゃんはある特定の戦い方なら異様に向いてる。そういうコトだね」
「パパに向いてる戦い方って、なんだろ?」
「相手に手を出させてから対応する『後の先』の戦いなら一流だね。防衛戦でもかなりいい線までやれる」
「……それってつまり自分からは攻められないってことじゃ」
「そういうもんさ。そもそも坊ちゃんはぶちキレでもしない限り攻撃的になる人間じゃないし、絶対的な有利を確信しない限り攻撃しないからね。たとえるなら……闇金融の社長とかそのあたりかな。部下を動かすのはまぁまぁ得意みたいだし。あ、意外と女の子にはけっこー優しいからジゴロとかホステスには向いてるかも」
「でも、女の子の好みとかかなりフツーじゃないみたいだよ? 京子姉とか、双子さんとかママとか虎おねーちゃんとか、あとは……庭師のおねーさんかな」
「あっはっは、美咲。それってつまりあたしが変な女ってことかい? 少なくとも山口や美里よりはフツーの人間である自覚があるぞ、あたしは」
「年上童顔低身長スタイル抜群ってのは人としての領域を越えていると思うの」
「……真顔で言うな、真顔で。なんか妙にへこむわ」
かなり嫌そうな顔をする京子さんは、どうやら低身長で童顔であることにかなりのコンプレックスを持っているらしい。
まぁ、『向いている職業』に闇金融とかジゴロとかホステスとか言われる僕よりはましだと断言させてもらうけど。
……つーかさっきから言い過ぎだよテメェら。いい加減にしないと泣くぞ。
と、僕が本当に泣きそうになっていると、京子さんはちらりと時計を見て美咲ちゃんに言った。
「さてと……今日はこんなもんだね」
「え〜? 私はまだやれるよ」
「あんたが元気一杯でも、あたしらには美咲に付き合ってやれる時間があんまりないんだよ。それにね、美咲が今やることはこんなところでどつきあいをすることじゃない。家に帰って予習復習をやることさ。勉学は力なり、ペンは剣より強しってね」
「……ママと同じこと言うんだから」
「大人はみんなそう言うのさ。『ああ、もっと勉強しておけば良かった』ってみんな思ってるからね。そういう大人になりたくなかったら、体を鍛えて頭も鍛えるんだよ。どつき合いはそのついでくらいでいい。……もちろん、ママには内緒でな。ばれるとあたしらが殺される」
「……りょーかいしました、師匠」
怖いことを思い出したのか、美咲ちゃんはちょっと青ざめながら神妙に返事をした。
なにを想像したのかは大体見当がつく。美里さんはわりとどころではなく『容赦がない』人だからなぁ。
躾という名の鉄拳制裁。僕も身に覚えがあるからよーく分かる。
そうと決まれば美咲ちゃんの行動は早く、あっという間に更衣室で着替えを済ませると、ランドセルを背負って帰る準備を整えた。
「じゃあ、師匠。また明日来ます。パパ……えっと、お大事に」
「ん、じゃね」
僕が手を振ると、美咲ちゃんはなんだかばつの悪そうな表情を浮かべて道場を後にした。
ちらりと近くのガラスで顔を見ると、頬を思い切り蹴られた跡が痣になっている。まぁ、湿布を張れば誤魔化せる程度の打撲傷だ。大したことはない。
「手酷くやられたな、坊ちゃん」
「ええ、手酷くやられましたね。小学生ってのは手加減がなくていい」
「で……どのくらい手加減した?」
「いつもを10とすると、今日は5ってところですかね」
常備していた救急箱から湿布を取り出して頬に貼り付ける。冷たい感触が心地良かった。
ついでに擦り傷やら切り傷に絆創膏を貼り付けながら、僕は口元を緩めた。
「……どのあたりから気づいてましたか? 僕が手加減してたってことに」
「坊ちゃんと美咲が立ち会った瞬間から。力も抜いてたし、間合いの取り方も甘い、おまけに自分のスタイルで戦ってなかった。……美咲はそんなに甘い相手じゃないんだけどね」
「弱いと分かっていれば、次回からは手を抜いて戦おうとするでしょう?」
人間ってのは意識してようが無意識だろうが、相手に合わせて必要なだけの力を入れようとする。
子猫を撫でるときに全力を出す人間がいないように、空手の師範が子供相手に全力を出さないように、『弱い』と分かっていれば必ずどこかで力を抜く。一度圧勝した相手にならなおさらのことだ。
僕にとっては、そこが狙いどころってわけだ。
「三年後は間違いなく追い抜かれてるでしょうけど、今の僕と美咲ちゃんなら、たぶん僕が勝ちます。技の鋭さは美咲ちゃんの方が上という確信がありますけど、高校生と小学生じゃ基礎体力が違いすぎますからね」
「……鬼か、あんたは。そこまで分かってるのに手抜きかよ」
「そういうやり口もあるってことを分かってもらいたいんですよ。……勘違いしている人が多いですけど、『現実』ってのはトーナメント戦でもリーグ戦でもない。たとえるならゲリラ戦。負けても多少はやり直しがきくのが救いですけど……どんな卑怯に徹しても負けられない戦いもありますからね」
だから、美咲ちゃんにやり直しがきく今ここで、叩き込む。
油断こそ大敵。どんな相手でも踏み潰し、自分が好きな誰かを守るための心構えを。
「……なるほど、ね」
京子さんは気のない相槌を打って、胴着の懐から煙草を取り出した。
……って、をい。
「京子さん、道場は禁煙です」
「固いこと言うなよ。章吾が辞めてからは、食堂で吸ってる暇もないんだから」
「……分かりましたよ。その代わり……」
憮然としながら、京子さんの隣に座り込み、ひょいとその小さな手から煙草を奪い取る。
「一本、もらいます」
「をいをい少年。高校生は煙草吸っちゃいけないんだぜ?」
「法律なんて『みんながこう生きられたらいいなぁ』っていう目安みたいなもんですよ。実際にはバイト始めた頃から酒も飲むし煙草も吸います。……僕は両方とも苦手なんですけどね。酔うし、煙いし。酔っ払いとかむかつくし」
「……今吸ってるじゃねーのさ」
「吸いたい気分なんですよ」
「………………もしかして、章吾がいなくなってきつくなった?」
その言葉は、今の僕にとってはちょっとだけ、重かった。
それでも、歯を食いしばって、無理矢理頬をつり上げた。
「章吾さんが辞めてから数週間。仕事の引継ぎだけで章吾さんがどれだけ有能かっていうのはよーく分かりました。本当に……アホなんじゃないかってくらい有能でしたよ、あの人は」
「……そっか」
「それでも、やりますよ。全責任は僕にありますからね」
章吾さんが急に辞職するのを認めたのは、僕だ。
あの人が意地を通すことを容認したのは、他の誰でもない僕だ。
だから僕が責任を取る。それだけのことだ。
「舞さんはともかく、陸くんには色々と教えなきゃならないことが多すぎてちょっと困りますね。……まぁ経験不足だから仕方ないですけど、陸くんは章吾さんが直々に鍛え上げた男の子です。経験さえ積めばなんとかなるでしょう。それまでは僕がなんとかしなきゃいけないと思ってます。……美里さんのフォローにも限界がありますしね」
「あたしがなんとかしようか?」
「食堂が閉まると、みんなのやる気が20%ほどダウンするんで京子さんの手を借りるわけにはいきません」
「……きついね」
「今だけですよ。陸くんが経験を積めば解消できる程度のものです」
「本音は?」
「今だけですよ。陸くんが経験を積めば解消できる程度のものです」
「……ったく。意地っ張りが」
京子さんは不機嫌そうに頭をガシガシと掻いて、僕を見つめた。
「なァ、坊ちゃん」
「なんですか?」
「……これはなんつーか、その……ちょっとした頼みなんだけどさ」
「?」
なんだか京子さんにしては歯切れが悪い。いつもは多少言いにくいこともガンガン言ってくるのに。
……ってことは、多少じゃなく言いにくいことなんだろうか?
京子さんは、少しどころかかなり迷うような素振りを見せながら、それでも口を開いた。
「……舞のことなんだけどさ」
「舞さんがどうかしましたか?」
「あんまり、無茶しないように見張っててやってくれないか?」
「………………」
さてと、ちょっとだけ考えてみよう。
いつもの僕ならここは『舞さんなら大丈夫ですよ、あの子はああ見えて僕よりも余程人間ができてますから』とか言う場面だろう。舞さんなら体調管理くらいはしっかりやっているのではないだろうか。
……でも、京子さんがあえてそういうことを言うってことは、なにかしらの意味があると思って間違いない。
「舞さんになにかあるんですか? 持病とか、実は病気がちとか」
「いや、舞は基本的には健康だと思う。持病とか病気がちとかでもないし。つーか、健康診断書くらいは見てるだろ?」
「……見てマセン。見ていたとしても、僕の記憶の奥深くに封印されていることでしょう」
「ちっこいもんな。舞」
「該当のデータは僕の記憶メモリの中には存在しません」
「まぁ、背丈の話だけどね。……ん? 坊ちゃんはなにを想像したのかな?」
「………………」
騙された。騙された上にはめられた。ものすごく邪悪そうな笑顔が、僕の心を容赦なくえぐっていく。
このままだとさらに苛烈な攻めが待っていそうなので、僕は早々に話題を変えることにした。
「じゃあ、働き過ぎて無茶をするってことですか? 確かに今はちょっときついですけど……」
「……うーん」
京子さんは、やっぱり苦い表情を浮かべていた。
「なんつーかさ、多分、坊ちゃんは女ってものをイマイチ理解していないんだと思うわけよ」
「……時折早朝四時くらいに意味もなく起こされたり、地下室に監禁して殺されかけたり、ちょっと行儀が悪かったからって頭から地面に叩きつけられたり、なんか意味もなく味噌汁を頭にぶちまけたりする生物のことを理解しろってのは、僕が世界を支配するよりも在り得ませんよ?」
「……まぁ、アレだ。女ってのはね、理屈よりも感情の生き物だから」
「京子さん。お願いですから話をするときは目を合わせましょう。あと、なんでちょっと涙ぐんでるんですか?」
まるで接合部が緩んで使い物にならなくなったハサミみたいな歯切れの悪さ。どう考えても普段の京子さんからはありえないほどである。
そこまで言われると、気にするなと言われても気になってしまうのが人情というもので。
「あの……結局、一体どういうコトなんでしょうか?」
「気にしつつも、気にすんなってコトさ」
京子さんはワケの分からないちょっと矛盾したことを言うと、煙草を携帯灰皿に放り込んだ。
「ほら、休憩も済んだことだし、今日は柔軟やって終わりにするぞ」
「なんか話の切り上げ方が無理矢理な気もするんですが……」
「気にすんなって言ったろ? あんまり気にすると柔軟の最中にセクハラすんぞ」
「……それはどちらかというと、こっちのセリフのよーな気も」
僕がそう言うと、京子さんはにっこりと笑って、ぶち殺すぞといわんばかりに中指を立てた。
「いいから黙らっしゃい、『お坊ちゃん』」
「………………」
うーん、手厳しい。『お坊ちゃん』のあたりを強調しているあたりが手厳しさ倍増という感じだ。
というか……なんか、若干怒っているような気がするのは僕の気のせいだろうか? もしかして在りえないとは思うけど嫉妬とかそういう感じの、言葉では言い表せない感情?
まぁ……可愛らしい顔立ちのせいで迫力はないけど。むしろ可愛いけど。
「なんか思ったか?」
「いいえ、別に。……じゃあ、適当に済ませて夕飯にしましょうか」
「ざる蕎麦」
「はいはい」
煙草を京子さんの携帯灰皿に突っ込んで、僕は立ち上がった。
なんか尻に敷かれてるような発言があったような気がしたが、今更なので気にしなかった。
京子さんが仕入れた自慢の醤油にカツオとコンブの一番出汁を加えて、煮込まないようにコトコトと火にかける。いい具合に仕上がったところで冷蔵庫の中に投入。冷えるまでしばし放置。
その間に薬味を刻む。葱、山葵、茗荷、生姜。蕎麦は葱に限るという通な方々にとっては邪道に映るだろうが、食べ物なんてものは美味しく食べられればなんだって構わないのである。
汁が冷えたあたりで蕎麦を熱湯に投入。蕎麦の色はなんだか奇妙に白かった。もしかしてこれがかの有名な更科蕎麦というやつだろうかなどと思ったりもしたが、気にしないことにする。美味けりゃなんでもいいのだ。
いい具合に茹で上がったところでサッと水を切り、ざるに盛り付ける。つけ汁と薬味を用意して完成。
「はい、ざる蕎麦お待ち。冷たいうちに召し上がれ」
「ん、ご苦労さん」
なんだかちょっとご機嫌になった京子さんは、蕎麦を慣れた手つきでツルツルと食べる。
「……なんつーか、悔しいけど美味い」
「まぁ、料理は昔からかなり作らされてますからね、慣れてるんですよ。材料もいいですし」
「じゃあ、坊ちゃん。私は親子丼で」
「……サバ味噌定食」
「ん〜、ちょっと迷っちゃうけど今日はミネストローネとミートソーススパゲティの気分っ」
背後からひょこっと聞こえる三重奏。我が屋敷のトラブルメーカー三人組。
コッコさんと、冥さんと、舞さんだった。三人ともちゃっかり席について、ふてぶてしく注文を入れている。
なんだか楽しそうに笑っている三人の笑顔を見つめて、僕はちょっとだけ溜息を吐いた。
「……他にご注文は? お嬢様方」
「んー、それじゃあカフェオレとデザートに杏仁豆腐をお願いします、坊ちゃん」
「オレンジジュース」
「旬の野菜のシャキシャキサラダと、あ、焼きプリンをお願いしますね〜」
「了解しました」
恭しく礼を返し、僕は厨房に取って返す。
ジュース類は簡単だ。デザート類は冷蔵庫に買い置きがあるはず。
あとは通常メニューだけど……僕は基本的にマンツーマンで料理を作ってきた男なので、京子さんのように多人数に美味しい料理を振舞う自信はない。普通に作れば三十分以上は軽くかかるだろうし。
……仕方ない、ここは一つ奥の手と行こうじゃないか。
チン♪
『待てコラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!』
殺意100%の罵声と視線が三つ、僕に突き刺さった。
「坊ちゃん。なにかしら差別のようなものを感じるのは、私たちの気のせいでしょうか!?」
「お腹空いている時のレトルトはちょっと!!」
「これから残業の人間に対して、舐めた真似しくさってくれますね♪」
ををぅ……なんだかいつにも増して三人の怒りゲージが最大限にまで高まっている。特に、章吾さんがやっていた業務を押し付けた形になった舞さんは怒り心頭だ。今にも僕を殺さんばかりのオーラを放っている。
なんだか誤解があるようなので、僕は仕方なく説明することにした。
「あの……電子レンジを使ったからといって、レトルト食品を調理しているとは限りませんよ? 伊東さんの家の食卓では電子レンジを使った裏技がたくさんあるじゃないですか。僕がやったのはそういう裏技を使って『加熱』という一工程を省く作業であって、決して手抜きをしたつもりはありません。鶏肉も野菜もちゃんと切りましたし、鯖も捌きました。味付けも完璧とは言いませんがまずまずです。みんながお腹を空かせてるだろうと思って、僕なりに配慮したつもりなんですよ?」
「……ふむ、なるほど。確かにそれなら私たちの勘違いですね」
「すみません、坊ちゃん。早とちりをしてしまいました」
コッコさんと冥さんは素直に謝って、舞さんはなんだか憮然とした表情を浮かべていた。
僕はそんな彼女たちに、注文された料理を渡していく。我ながらそこそこ美味しそうにできたそれらの品は、芳醇かつ空腹の人間にはたまらない、食欲をそそる香りをただよわせていた。
「それじゃあ坊ちゃん、ありがたくいただきます」
「いただきますです」
「………………」
三人はそれぞれに食器を取り、ぱくりと一口。
「……なるほど、これはなかなか。昔より腕を上げてますね」
「美味しいですよ、坊ちゃん」
「ありがとうございます」
コッコさんと冥さんに礼を言いながらも、僕は内心で冷や汗をかいていた。
心の動揺は一切外には出さない。それに関して僕より徹底している人間はそういないと自負している。それでもまぁばれるときはばれるし、ばれたらただでは済まないような気がするのは……気のせいじゃないだろう。
「……坊ちゃん」
背筋が凍りつくような声が響く。まるで背中に死神のデスサイズを突きつけられているような気分。
恐怖心すら全て殺し切り、僕はにっこりと微笑んだ。
「なんでしょう、舞さん」
「ミネストローネの材料をこの場で言ってみてください」
「ミネストローネの材料は『ミネストローネ』ですが、それがなにか?」
「……ぶち殺しましょうか?」
僕の言葉に、舞さんはマジで怒ったらしい。ギチリと空間が軋むような怒気が僕の背筋を撫でていく。
いや、なんつーかその……悪気はなかったんですよ? 僕が作れるレシピの中にミネストローネが存在しなかったというか、京子さんが作り置いてあった冷凍のものがあったからこれでいいやと思っただけのことで。
同じものなら、初心者がレシピ片手に作ったものより、熟練者が作った美味しいものの方がいいなと思っただけで。
「山口さんと冥ちゃんには多少手抜きでも手作りで、私だけこーゆー扱いなんですね? ふーん……そっか、坊ちゃんってそーゆー人だったんですね?」
「そういうわけじゃありませんってば。単に洋食のレパートリーが少ないだけで」
「どーだか。男の人って、好みじゃない女の子に対しては、大抵ぞんざいですからねェ」
むぅ、そこまで言われては引き下がれない。
「じゃあ、洋食以外でなんか食べたいものありますか? ピザとかパスタならけっこー自信ありますけど」
「別にいいですよ。坊ちゃんの料理なんてたかが知れてますし」
嫌味抜群な言葉に、一瞬無表情で舞さんの顔に拳を叩き込みたくなる幻想を見た。
いやいやいやいや、待て。なんつー外道なことを考えるんだ僕は。アホか僕は。まがりなりにも女の子の顔面に拳をたたきつけようだなんて、そんなもん極刑に値するっての。
と、僕が必死で自制していると、舞さんは口元を最大限に歪めて、きついことを言った。
「まぁ、カブトムシの幼虫が主食だから、仕方ありませんよね?」
なんかもう、男とか女とか、そんなモノがどうでもよくなった。
彼女だけは、今この場で拳以外のものを使って叩き潰さなければならないと、僕の本能が告げていた。
僕はにっこりと笑う。僕の顔を見た京子さんと冥さんがドン引きしていたが、僕は気にしなかった。
「ふーん? そこまで言うなら、舞さんは料理とかできるの?」
「坊ちゃんと違って、料理くらいできますよ」
「ああ、そうだね。できないって言うのは語弊があったね。食べてくれる人がいないだけだもんね?」
ギチリと空気が歪む。ついでに空間もちょっと歪む。
舞さんはにっこりと笑った。それはきっと僕と似たり寄ったりの笑顔だっただろう。
「女たらし」
「超絶シスコン」
「ギャルゲー主人公気取り」
「激痛コスプレ女」
「素人童貞」
「偽装ブラ」
「………………」
「………………」
互いに沈黙。僕と舞さんの視線が空気中で火花を散らす。
そして、二人同時に悪魔的な笑いを浮かべた。
「……どうやら、今日こそ決着をつけなきゃならないようですねぇ」
「……くっくっく、それはこっちのセリフだよ」
ギチギチに険悪な空気の中、僕と舞さんはこれ以上ない笑顔を浮かべて笑い合っていた。
かくて、僕らは引き返せないところまでやってきた。
女の子と拳で勝負するのは男としてアレなので、正々堂々料理で勝負することになった。
料理勝負。それは、味という好みの分かれるものを料理のエキスパートたちが己の味覚と好みを頼りに審議し、どちらが美味いかなどという、味に差がなければ分からないようなものを競う勝負のことである。
空気が読めない人は、この味勝負を常在戦場で行っており、時には旅館の女将を呼びつけたり、このアライを作ったのは誰だと厨房に殴りこまんばかりの態度で乗り込んでくるらしい。
……まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど。
くまさんエプロンと三角巾をまるで鎧のように身にまとい、僕は中華包丁の切っ先を舞さんに向けた。。
「くっくっく……京子さんのミネストローネを馬鹿にしてくれた報いをここで晴らしてやるぜ!」
「ふっふっふ、さりげなーく濡れ衣を着せようとしているあたり、なんていうか下劣極まりないですね。死ねばいいのに」
「あっはっは、塩と砂糖を間違えろ。味見で自分の料理のまずさに悶絶しろ。糖尿になれ」
「くっふっふ、世間を知らないお坊ちゃんに、料理はまず腕ありきだということを教えてあげますよ」
最高に険悪な空気の中で、僕と舞さんはお互いに殺意丸出しな引きつった笑みを浮かべていた。
ちなみに、僕ら以外の人たちは既にドン引きで、食堂のテレビなんぞを見ながら現実逃避していたりする。
「いえ、ですから、この時間はバラエティを見て寝ると私は決めてるんですよ、京子さん」
「いやいや山口。やっぱりここは週に一度の癒し、京都連続殺人事件、女将が見た湯煙に消えた(以下略)事件だろう?」
「……くふっ、ふふふっ」
……訂正。コッコさんと京子さんはテレビのチャンネル争いに没頭していたし、冥さんはそんなものはどうでもいいやとばかりに漫画本に見入っていた。ちなみにその漫画本は御前試合残酷絵巻のよーなつまり死狂いで、笑うところなどある意味どこにも存在しないのだけれど……一体どこが笑いのポイントなんだろう?
「ま、いいか」
やる気が50%ほどダウンしたけれど、僕はとりあえず舞さんに勝てるメニューを模索する。
まず、材料を使いすぎるものは却下。京子さんにめっちゃ怒られる。
「それじゃあ、私はこれでいきます」
そんな僕の考えとは裏腹に、豚肉の塊をごっそり取り出す舞さん。
……なんていうか、この子は時々ものすごい勢いで空気を読まない。っていうか、どう考えてもそれを使った料理は豚肉の煮物(豚の角煮とか)以外には在り得ないんですが、メニューを予測されて勝負に勝てるとでも思ってるんだろーか?
いや、それともそれは作戦で、なにか他に思惑があるというんだろうか?
「……いや、なんかもう別にいいか」
やる気がなくなっていた僕は悩むのも面倒になったので、さっさと調理に取りかかることにした。
メニューはイワシのつみれ汁。冷蔵庫からイワシを取り出し、テレビに夢中になっている京子さんに一言断りを入れてから、イワシをさくさくと三枚に下ろす。頭や骨はダシを取るのに使う。ちょっと手間をかければ小骨程度ならつみれに混ぜ込んでも違和感がないくらいにはできるだろうけど、まぁそのへんは面倒なので割愛させてもらおう。
下ろした身の部分を包丁で丹念に叩いた上で魚の臭みを消す生姜やその他調味料などを少々。先ほど作った昆布とカツオのだし汁ににつみれを投入。あとはつみれからいい出汁が出るので、余計な味付けは必要ない。
最後に塩を少々加えて、かんせ……。
バァンッ。
小さな破裂音。それは、破滅の音だった。
塩の入ったビニール袋が突如破裂し、大量の塩が鍋にぶちまけられた。
「………………」
「あらあら、いきなりお塩の袋が破裂するなんて、ついてませんね♪」
舞さんのなんだか最高に楽しそうな声が響く。
が、楽しそうな舞さんとは裏腹に、僕は唖然としていた。
たかが料理勝負でここまでするか?
タコ糸を極細のワイヤーのように使い、速度と細さでビニール袋を刹那の間に切断しやがった。あまりに速いもんだから、ビニール袋が破裂したようにしか見えなかった。
……いやいや、やってくれるじゃないか、舞さん。どうやら君は心底僕にだけは負けたくないらしい。正々堂々っていう概念が君の中にあるのかどうかは分からないが、料理勝負なのに料理を台無しにすることに焦点を絞ってくるとはね。
君がその気なら、僕も容赦なくやってやろうじゃないか。
もう、女の子とかそういう加減はなしだ。一人の人間として、僕は君を打倒しようじゃないか。
僕の全力を持って、完全完璧最高最悪な敗北ってヤツを刻み付けてやる。
僕はまるで悪夢のように笑って、舞さんに向かって言った。
「ねぇ、舞さん」
「なんですか?」
「この勝負、負けた相手がなんでも言うこと聞くって条件でどうでしょうか?」
「あら、料理がそんなになっちゃって、私に勝てるとでも思ってるんですか?」
「勝ちますよ。当然でしょう? 舞さんのような小物に負ける道理がない」
「言いましたね?」
「ええ、言いました。僕は舞さんに正々堂々正面から立ち向かって勝ってみせましょう」
「……ふん」
舞さんは不機嫌そうに鼻を鳴らして、再び調理に戻った。
さてさて、お膳立ては整えた。……それじゃあ、僕もそろそろ本気でやってやろうか。
君が望む通り……正々堂々真正面から不意打ってやろうじゃないか。
結果発表。
僕の圧勝だった。3対0。一票の誤魔化しもなく、完全無欠に僕の勝ちだった。
がっくりとうなだれる舞さんを横目に見ながら、僕はようやく機嫌を直してにっこりと微笑む。
「いやいや、勝てるとは思いませんでした。実にラッキーでしたよ。まさか、みんなが夕食を食べた後に豚の角煮なんつーゴッテゴテしたものを用意してくるとは。まぁ、舞さんのことだから自分が食べたかっただけかもしれませんけど、あんまり食べると太りますよ? ただでさえ胸の許容量が少ないんだから」
「………がふっ」
敗者である彼女は最悪の言葉に言い返すこともできない。最後の抵抗とばかりに僕を睨みつけるのが関の山だった。。
ハ、しかし甘い。今の僕に、視線ごとき物理的攻撃力のないものが通用するとでも思っているのか?
僕は完全に舞さんを嘲笑いながら、くつくつと笑った。
「でも、よく考えれば分かる話ですよね? デザートの後に角煮とか食べる気しませんもん。まぁ、これはコンビニで買ってきたプリンに舞さんの作った料理が負けているわけじゃないっていうフォローですから、あんまり気に病んじゃ駄目ですよ? ……どう足掻いても負けは負けですけどね」
「………うう」
地面にうなだれながら半泣きになる舞さんの目に、力はなかった。
ちなみに僕が作ったのはコンビニで買ってきた各種デザートにほんの少しだけ手を加えたもの。杏仁豆腐に糖蜜とか、プリンに生クリームとか、ババロアにイチゴソースとかそんな感じ。
三人には『夕食の後のデザート』を味わってもらったというわけだ。
もちろん、言うまでもなくデザートの後に再び食事を食べる気など起きるはずもない。
「さーて、久しぶりに楽しくなってきちゃったなぁ〜。どんな下劣な罰ゲームにしようかな♪」
「………………う」
「とりあえず、僕が納得するまでエロトークとか、意味もなくSMの衣装を着せて仕事させてみるとか、『わたしはいやらしい女の子なので現在おしおきを受けています』みたいなプラカードを首から下げて一緒に買い物とかも楽しそうだよね。いやいや……どんなコトをさせてくれようかなぁ?」
「…………うっく」
……あれ?
おかしいな。いつもならこのへんで『そんなことできるわけないでしょっ!!』って感じの軽快なツッコミが入るはずなんだけど。
ちらりと舞さんの顔を見ると、なんだかちょっと泣いているようだった。
「あの……舞さん? 嘘泣きってのはちょっとこの場面では卑怯じゃないかっておもぐばっ!」
殴られた。ただ、容赦なくぶん殴られたけれどさほど痛くはなかった。
一瞬バトル開始かと思ったけれど、舞さんは涙目で僕を睨みつけて、思い切り叫んだ。
「ばかぁっ!! 坊ちゃんなんて死んじゃえっ!!」
舞さんはそんなコトを叫んで、涙目のまま食堂から走り去って行った。
殴られた僕は当然のこととして、他のみんなも呼び止めることすらできなかった。それくらいの剣幕だった。
沈黙に包まれる食堂内。なんだか最高に気まずい空気。
むぅ……これは嫌な感じだ。女の子を泣かせるのは最高の極刑だけど、今回に限っては僕は悪くないような気がする。いやいや、でも結果的に泣かせちゃったのは僕のせいなわけだし……えっと、つまり。
とりあえず、場の空気を誤魔化すために、僕は最善の手段を尽くすことにした。
「てへっ、怒られちゃった♪」
「馬鹿ですか貴方は」
コッコさんにものすごい勢いで一本背負いを決められた。
ぐるりと景色が反転。やばいと思ってガードを固めた瞬間に、稲妻のような蹴りが炸裂する。
そして、何の抵抗もできぬままに僕は地面に叩きつけられた。
「げふっ!?」
地面に思い切り背中から叩きつけられて、僕は少しだけ咳き込みながらも、己の幸運に感謝した。
……危なかった。今回ばかりは死んだかと思った。
相手を投げて逆さまになったと同時に頭を蹴るなんて、どこの人間が繰り出す技ですか?
もしもガードが遅れてたら首くらいは折れてたかもしれない。
うーん……最近のコッコさんはちょっと過激だなぁ。僕の体はそろそろ限界ですよ?
「本当に坊ちゃんは……あれほど女の子を泣かせるなと言っているのに、ちっとも理解してくれないみたいですね?」
「いや……今回に限っては否定の言葉もありませんが、とりあえず叩くにしても殴るにしても投げるにしても、なんというかこう……手心というか」
「当然の報いです。少しは反省しなさい」
「……うーん」
僕は苦笑いを浮かべながら考える。
確かに売り言葉に買い言葉になったのは事実だ。女の子を泣かせたことも極刑に値する。
謝らなきゃいけないなぁとは思う。……思うんだケド、なんだか気持ちがもやもやしている。
謝りたくないわけじゃなくて、意地を張っているわけでもなくて、それでも……なんだか妙な気分。
「やれやれ……」
思考を遮って、京子さんの声が耳に届く。
顔を上げると、京子さんは今まさに椅子から立ち上がろうとしているところだった。
なんだかその姿は、衣装こそ違うものの、いつかどこかで見たような。
「山口」
「なんですか? 京子さん」
「アンタさ、なんか色々と勘違いしてない?」
やばい。
心のどこかで警報が鳴り響く。京子さんにこれ以上喋らせてはいけないと本能が告げる。
しかし、どこか空虚な表情のまま、京子さんは口元だけをつり上げて言った。
「女の子を泣かせちゃいけない。そりゃ確かに男としては確実に守らなきゃならないルールだよな、うん、そりゃ分かる。よーく分かるよ。……でもね、今の場合は舞が全面的に悪い。坊ちゃんが謝らなきゃならない道理なんてどこにもないね」
「……だからと言って、女の子を泣かせるのは」
「泣かせた? 違うね、舞が勝手に泣いただけのことさ」
「………………っ」
「ああ、今回ばかりはあたしは坊ちゃんの味方につくよ。『仕事が辛いから』なんてつまんねー理由で、坊ちゃんに八つ当たりして勝負して完膚なきまでに負けた舞には同情もしてやらない。そんなもん、全部自業自得だろうが。……だから、坊ちゃんは謝る必要もない。全部舞が悪いことで、坊ちゃんにはなんら非はない。……山口、アンタその程度のことも分からないの? 誰が悪くて誰が悪いのか、その程度の判断もできないのかい?」
「だからと言って、坊ちゃんがやったことが正しいわけではありませんっ!」
「下らないね」
京子さんは容赦なかった。いつもの人懐っこさや姉御肌の全てをぶち壊して、一言でコッコさんの言葉を切って捨てた。
「……ああ、そうだね。この際はっきり言っておこう。坊ちゃんが悪かったとか正しいとかそんなコトはどうでもいい。そんなつまんないことはどうでもいい。あたしは舞に対して怒ってる。……理由はつまらないが、怒ってるんだよ」
にやりと凶悪に口元を歪めながら、京子さんはコッコさんを睨みつけていた。
今日の京子さんは、めちゃくちゃ怒っていた。普段からは考えられないくらいに。
思い返してみても、舞さんが京子さんを怒らせる原因が思い当たらない。ちゃんと肉も切り分けて残りは冷蔵庫にちゃんと戻していたし、僕への妨害もあれ一回こっきりで、後は料理に専念していた。
……なにが京子さんをここまで怒らせてしまったんだろうか?
僕がそんなふうに疑問に思っていると、京子さんは溜息を吐いて、それでもきっぱりと言い放った。
「あたしはね、調味料を無駄にするヤツが嫌いなんだ」
………………どうやら、あれ一回こっきりの妨害で舞さんは京子さんを敵に回したらしい。
っていうか、完全に自分勝手かつよく分からない理由じゃねーか、それ。
コッコさんも同じ気持ちだったのか、ちょっとだけ口元を引きつらせていた。
「京子さん。……もしかして、それが言いたかったんですか?」
「ああ、そうだよ。食材も同様だが調味料を無駄にするヤツはことごとく死んでいい。だから坊ちゃんを謝りになんて行かせてやらない。せいぜい放っておいて……自分から謝ることしかないことに気づかせるさ。もしも謝れないのなら、その時はその時。そんな人間に、働く資格なんてものは最初からなかったってことさね」
「滅茶苦茶です」
「んー、そうだね。でも、そういうもんだし、山口だって『理由』だけなら、あたしと似たようなもんだろ?」
「……どういう意味です?」
「そういう意味さ。自分でも分かってるんじゃ……」
「ストップ。そこまでです、京子さん」
女の子の口喧嘩に無理矢理割り込むのはとんでもない覚悟が必要だったけれど、僕は口を挟んだ。
二人を交互に見つめながら、口を開く。
「あの、京子さん。……なんかもう色々と分かったんで、汚れ役を買って出なくてもいいですから」
「分かったってなにが?」
「今までの会話って、全部時間稼ぎでしょう?」
「………………さて、なんのことやら」
京子さんはいきなり歯切れが悪くなり、僕からあからさまに目を逸らしていた。
時間稼ぎ。目的は時間を稼ぐこと。
それは反省する時間だったり、独りになりたい時間だったり、謝るための覚悟を決める時間だったりするわけだ。
……ホント、なんつーか、厳しく見せてるくせに肝心なところじゃ甘いんだから、この人は。
「そりゃそうですよねぇ。自分が一方的に悪いことをしちゃったら、独りで反省する時間くらいは欲しいですよね。しかも、自分が悪いって分かってるのに、相手に謝られたら罪悪感も増すばかりでみじめな気持ちにもなりますしね。……それを分かっていたから、京子さんはすぐにでも謝りに行ってしまいそうな僕を止めるために、あんなコトを言ったんですよね?」
「……坊ちゃん」
「なんですひゅるんっ!?」
京子さんの小さいけれど重い拳が、僕の頬を打ち抜いた。コッコさんに比べれば大したことはなかったけれど、それは道場で訓練していた時よりも、痛かった。どうやら本気で殴られたらしい。
僕を殴りつけた姿勢のまま、京子さんは顔を真っ赤にしながら叫ぶように言った。
「恥ずかしいから、そーゆーことを冷静に分析するのはよくないと思うなっ!!」
「恥ずかしいからって人を殴るのはどうかと思うんですが。あと、恥ずかしがりすぎてキャラが変わってます」
「山口よりはマシだねっ! あいつのはおしおきっていうより人殺しの業だからねっ! おまけに容赦ないからねっ!」
「なっ……そ、それは言いがかりです! 手加減くらいはしてますよっ! 坊ちゃんが軟弱なだけですっ!」
「軟弱なのかなぁ……」
なんだか普通にへこむ言葉だった。今も昔も、体はそれなりに鍛えているというのに。
と、僕がこっそりへこんでいると、京子さんに肩を叩かれた。
「スーパーロボットを基準にしたらいかんよ、坊ちゃん。大丈夫、細身だけどあたしがちょっとグラッとくるくらいにはけっこーいい筋肉のつき方してるから!」
「誰がスーパーロボットですかっ!! あと、そういうのは不謹慎ですっ!」
「不謹慎か? 女の子がエロトークしてるのは全然全くこれっぽっちも不自然じゃないだろ。むしろこんなのは序の口も序の口、まだ会話にすらなってねーってばさ。しっかしアレだね、成長期の男の子を見てるのがこんなに楽しいとは正直思わなかったね。なんつーかこう……『自分好みに作り変える』みたいな感じでさ」
「だーかーらーっ! 不謹慎ですってばーっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶコッコさん。なんだか、コッコさんの新たな一面を発見したような気がする。
うーん……なんとなーく前々からちょっと思ってはいたけれど、コッコさんってかなり恋愛ごととか男女関係とかに弱いらしい。逆に京子さんは強いんだか弱いんだかよく分からない。無理をしているよーな所も……あるような気がする。
……うん、そうだな。それに関しては、今度友樹あたりにでも聞いてみるか。
まぁ、それはともかく。
「じゃあ、僕はそろそろ部屋に戻るんで、なにかあったら連絡をお願いします」
「分かった。……で、山口。お前は男のどんなところに性的魅力を感じたりするんだ? ん? ほら、おねーさんにそっと教えてみなさいよ。誰にも言わないから」
「おねーさんって、私の方が年上じゃ……や、だから……その、そういうことは不謹慎で……えっと」
ひたすらうろたえまくるコッコさんに詰め寄る京子さん。その笑顔はなんだか悪魔っぽい。
……仲が良いんだか悪いんだか、いまいちよく分からない二人だった。
食堂を出て部屋に向かう。とりあえず……寝る前くらいまでにはやらなきゃならないこともあるわけで。
ホント……我ながら、馬鹿なコトをしてしまったものだと思う。
「坊ちゃん」
と、声をかけられた。
振り向くと、今しがた出てきたばかりの食堂の前に、冥さんが立っている。手には江戸時代残酷絵巻な漫画本。メイド服とそれはまるで合っていなかったが、まぁそれは別にどうでもいいことだろう。
「なに? 冥さん」
「……舞ちゃんのことなんですけど、ちゃんと怒ってあげてくださいね」
「………………」
や、それは、普通『あんまり怒らないであげてくださいね』っていうのが普通なんじゃないだろうか?
僕の表情から言いたいことを察したのか、冥さんはほんの少しだけ苦笑した。
「舞ちゃんは……姉さんは、空倉の家じゃちょっと特別でした。本当の天才だったんです」
「ん……まぁそれは知ってるけど。陸くんからも色々聞いてるし」
「あんまり失敗したことがなかったんです。頭が良くて、なんでも器用にできたから。……だから、姉さんは坊ちゃんに負けるのが悔しかったんだと思います。……失敗もたくさんして、頭も良くなくて、なんにも器用にこなすことはできないけれど、それでも……姉さんは、坊ちゃんにだけは、負けていましたから」
「………………」
「まぁ……姉さんってわりと真っ直ぐで純情ですから。坊ちゃんのような卑劣漢の相手は向いてないんでしょうね」
……オチが思ったよりも強烈だった。
この子、当たり前のように人を卑劣漢呼ばわりしたよ。今までの僕のやり方を思い出すと否定はできないけれど、人として肯定もしたくねぇ。
ほんの少しだけ目を逸らして、僕は苦笑した。
「卑劣漢……か。僕にはお似合いの言葉だけど、たまには……真っ当に勝負して、真っ直ぐに勝ちたいかな」
「坊ちゃんは、それでいいんだと思います」
「え?」
「スタイルは人それぞれですよ。真っ当に勝てなきゃ裏を突く。至極当然のことです。むしろそれこそが……坊ちゃんが確立した強さというものだと私は思っています。卑下することはありません。胸を張っていいことです」
そう言って、冥さんはにっこりと笑った。嬉しそうに笑っていた。
そして、不意に一歩分だけ後ろに下がり、スカートの裾を摘んで綺麗なお辞儀をした。
「それではご主人様、姉さんのことをお願いします。……それと、お休みなさい。良い夢を」
それだけを言うと、冥さんはくるりと僕に背を向けて、いつも通りに歩いて行った。もちろん僕の方を振り返ることなどなく、その背中は堂々としたものだった。
後姿をなんとなく見送って、僕はゆっくりと息を吐いた。
「……いかんな」
なんと言えばいいのか……ちょっとだけ、ゾクッときた。
友樹が泣いて喜びそうなメイドに育ちつつあるのかもしれない。あいつの妄言だとこの世界に本物のメイドは鞠さんも含めてたった二人だけらしいけど。……まぁ、そんなコトは心底どーでもいい。どーせその本物ってやつも例外なく拳を振り上げる存在だろうし、和服美女には敵わないのだから。
頼まれちゃったなぁ。……やれやれ、頼まれたらNOとは言えない。
NOではないのなら、YESにしてやろう。他ならぬ冥さんの頼みだ。きっちり向かい合ってやろう。
今度は卑怯や卑劣は一切なし。
真正面から、向かい合ってやろうじゃないか。
絶叫マシーンに乗りに行こうと、彼は言った。
「………………え?」
「うん、罰ゲームはそれで行こうと思う。舞さんはちゃんと謝ってくれたけど、まぁそれはそれとして、けじめとして罰ゲームはちゃんとしないとね。勝負に勝ったのは僕なんだし」
彼の執務室を訪れて、覚悟を決めて謝った舞を待っていたのは、そんな言葉だった。
「ほら、いつだったか……っていうか先々週くらいに、映画に連れて行くみたいに約束したし、いっそのことそれなら遊園地でも構わないかなと思って」
「構わないかなって……こっちにも一応都合ってものがあるんですけど」
「仕方ないよ、罰ゲームだもん」
聞く耳持たずというか、取り付く島もないというか……なぜか今日の彼は妙に押しが強かった。
舞は少しだけ目を細めて、彼を睨みつけた。
「……みんなになんか吹き込まれましたか?」
「色々言われたのは確かだけどね、吹き込まれたわけじゃない。遊園地ってのは僕が決めたことだよ」
「……めんどいんですけど」
「行きたくないの?」
「……うーん」
「奢るよ?」
「行きます」
「………………」
彼はなんだか呆れたような視線を向けてきたが、舞は一切気にしなかった。
タダより怖いものはないが、タダより嬉しいものもないのである。舞の金欠病は最近解消されつつあるが、それでも奢ってくれると言うのならば、遊びに付き合ってやるくらいは、まぁいいかと思っていた。
……ついでに、彼に聞いておきたいこともあったことだし、いい機会だろう。
「じゃあ、駅前に集合ってことでいいですね? 言っておきますけど、変なことしたら大声出しますから」
「………………ハッ、小娘が」
「は、鼻で失笑しやがったっ!? しかも小娘呼ばわりっ!?」
「そういうつまんないことはいいですから、さっさと仕事終わらせてくださいね」
「ふぐぅっ!? ひ、人があんまり思い出したくないことをあっさりと言いやがりましたよ、この坊ちゃん!!」
「あんまりきついようでしたら、早めに言ってください。なんらかの手は打ちますから」
「……大丈夫ですよ。さっきのは、ちょっと気が立ってただけですから」
ばつが悪そうに目を逸らす舞に対し、彼はほんの少し口元を緩めるだけだった。
「まぁ、僕に怒るぶんには一向に構わないんですけどね、京子さんには謝っておいた方がいいですよ。……なんでも、調味料を無駄遣いするヤツが嫌いらしいんで」
「………………あう」
「じゃ、伝えることは伝えたんで、僕はそろそろ寝ます」
彼は欠伸をしながら自室の扉に手をかける。それから、少しだけ振り向いて、ポツリと言った。
「お休みなさい。……いい夢を」
その横顔が、一瞬、いつもの彼ではないように見えた。
少しだけびっくりして彼を見つめるが、彼は振り向くことなく自室の扉を開け、中に入っていった。
呼び止めることなどできはしない。舞は唖然としながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか」
自分がなにに苛立っていたのかを自覚する。
それはとても下らないことかもしれなかったが、どうしても分からないことだった。
理解できなかったから、苛立った。
今、ようやく分かった。
自分は嘘を吐いたが、彼は偽った。ただそれだけのことだった。
舞は親の仇を見るように、彼が入っていった部屋の扉を睨みつける。
そして、一つの決意を胸に、きびすを返して歩き出した。
第三十話『偽った彼と嘘吐きな彼女』END
第三十一話『欠けた心と壊れた涙』に続く
あるところに、普通の男の子がいました。
彼には守りたい人がいました。他のどんなものを犠牲にしてでも、守りたいと思う女の人がいました。
けれど、彼にはなにもありませんでした。特別に賢い頭も、強い力も、なにも持ってはいませんでした。
でも、どうしても、なにをしてでも、守りたかったのです。
だから彼は、
自分であることを、やめました。
次回、第三十一話『欠けた心と壊れた涙』。
貴方には、好きな人がいますか?