番外編『参』 桂木香純と灰色の剣
番外と銘打ちながらも、実は執事見習いと執事の話。
ついでに言えば、サムライ少女の後日談でもあります。
ちょっと長めなので、いつも通りご注意を。
心を剣に。体を剣に。魂を剣に。
空倉陸の最近の悩みは、なんだかアルバイト先のお屋敷が急に忙しくなってきたということだった。
それもこれも全て有能すぎる執事長が屋敷を急に辞めたせいでもあるのだが、陸はそのへんのことはあまり考えていない。
「にーちゃんのフォローが下手ってわけでもねーし、美里チーフが風邪でダウンしたからってわけでもない。冥姉さんはこれ以上ないってくらいによく頑張ってるし、舞ねーちゃんなんて栄養ドリンク片手に滅茶苦茶な勢いで仕事やってるもんな。虎子姉ちゃんだって足手まといなりに人の倍以上動いて頑張ってるし、他の連中だってみんながあくせく働いてるわけで……まぁ、あの庭の大魔神はよく分かんねーケド」
昼休み。雲ひとつない空を見上げながら、陸はゆっくりと息を吐いた。
疲れているとはっきり自覚する。毎日の勉強と学校生活はまだいい。屋敷に帰ってからの方が正直きついのだ。
怒鳴られたり怒られたり殴られたりこめかみをぐりぐりされたりするのはいい。分かりやすいからだ。
ネチネチと嫌味を言われたり、ちくちくと視線でいじめられたりする方が陸には辛かった。
今思えば、あの執事長はそういったことまで考慮して、陸にとって分かりやすくしてくれたのだと思う。
「殴られりゃ多少は痛かったケド……教え方は上手かったよな、あの人」
なんでいなくなったんだろうとか、そういうことは思わないが、屋敷に戻って欲しいとは思う。
あまり好きじゃなかったかもしれないけれど、あの執事長と一緒にいる時はそれなりに楽しかった。
だからというわけでもないが……今は、正直キツかった。
「分かっちゃいるんだけどよ……」
学校に行かせてもらえた時点で、ものすごく運がいいことは確かだ。冥と舞は学校に通ったことすらないのだから。
こうやって昼休みに屋上でのんびりしていられることが、とても幸せなことだということも、分かる。
けれど、心のどこかではあの屋敷に戻りたくない自分がいる。
理由は簡単。キツいからだ。
言いたいことがあれば言えばいいのに、ネチネチと文句を言われたり、あからさまに溜息を吐いたり、冷たい視線を送ってきたり、もういいよとか言われたりするからだ。
アンタは仕事ができないんだから、なんにもしなくてもいいと言われているようで、辛かったからだ。
「……あーあ」
ゴロリと寝返りを打ち、陸は空を見上げるのをやめた。
このまま授業サボっちゃおうかなと、ちょっと思った。学校生活なんてどうせ義務教育で、放棄しようと思えばいつでも放棄できる。だったらどうでもいいじゃないかと、心のどこかで弱気になる自分が囁いた。
「それでも、きっとキミは家に帰るんじゃないかな?」
不意に、そんな声が聞こえた。
再び空を見ると、そこに空はなかった。なんだかちょっと暗くて思わず目を細める。
見えたのはスパッツだった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」
あまりの事態に慌てふためき、普段は封印している瞬発力を発揮し、即座に跳ね起きて間合いを取った。
距離にしておおよそ五メートル。咄嗟に発揮した脚力は、明らかに一般的な中学生を越えていた。
が、そんなことを相手は気にしていなかったらしい。にっこりと笑って、彼女は陸に向かって挨拶した。
「やっほ、空倉くん。元気だったかな?」
「………………誰?」
本気で見覚えがなかった。
ショートカットの灰色の髪に大きな灰色の瞳。それに反比例するかのような真っ白でありながら健康的な肢体に艶やかで大きな瞳。美少年だか美少女だかよく分からない中性的な顔立ち。中学生なのに、男だろうが女だろうが容赦なく誘惑してしまいそうな、どこか危うくあどけない妖艶さを秘めた存在。制服が女物だから、かろうじて女と分かるが、もしも男物の制服を着ていたら男だと思っていたことだろう。
少なくとも、陸の記憶の中にはこんな美人というか美少女は存在しない。
……それ以外の変人なら、わりとたくさんいるのだが。
「……いや、ちょっと待て。本気で誰だ? どっかで会ったっけ?」
「んーん、会ってないよ。あたしは今月からこの学校に転入してきた通称転入生なのだ」
「なのだって……いや、口調はともかく自己紹介をする時は通称じゃなくてフツーは自分の名前を名乗るもんじゃねぇか?」
「ん、そっか。じゃあ改めて自己紹介。あたしの名前は桂木香純。愛に生きる女子中学生よ」
ツッコミどころ満載だった。特に最後のあたり。
それでも陸は堪えた。変人にはこれ以上関わりたくなかった。
「あ、ああ。俺は空倉陸。B組に所属してる」
「うん、知ってる。今年度『無理矢理手篭めにしたい』ランキングぶっちぎり一位の男の子だよね?」
「なんじゃそのいかがわしいランキングはああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
無理だった。少年の忍耐力にも限度というものが存在した。
香純と名乗った少女は可愛らしく首をかしげた。
「あれ? 今年度『調教したい』ランキングだっけ?」
「だっけじゃねぇっ!! そんな怖いランキングが存在したらオレはここから飛び降りるっ!」
「駄目だよ、飛び降り自殺は。死ぬのは別にいいけど、キミの遺体を見る人が不幸になるでしょ?」
「……ツッコミどころ満載でどこから突っ込んでいいのか分からねーんだけど」
「そうだね。五階くらいじゃ死のうにも死ねないしね。せめて三十階くらいの高さがないと」
「五階でも十分死ねるわっ!!」
一応突っ込んでおいたが、陸は五階から飛び降りても死なない自信がある。そのまま垂直落下したら間違いなく死ぬだろうが、家や学校にはフェンスや窓枠といったとっかかりがたくさんある。そういうものにつかまったり、わざと体をぶつけたりして落下の衝撃を和らげたりして、あとは急所さえ守ればそう死ぬこともない。
……もっとも、三十階の高さから落ちればいくらなんでも死ぬが。
「うんうん、やっぱりツッコミの子は普段から突っ込んでないと、寂しくて死んじゃうんだね」
「人をウサギみてーに言うな。……つーか、お前一体なんなんだよ? 言っておくけど愛に生きる女子中学生とか転校生とかそういう肩書きのようなものが聞きたいんじゃねーからな」
「じゃ、ただのお節介かな」
香純と名乗った彼女は、そう言って人懐っこい笑顔を浮かべた。
「……なんていうかね、中学生らしい青臭い悩みを抱えてるみたいだったから、声をかけてみたってわけだね」
「青臭くて悪かったな」
「そのくせ、ちょっと達観もしてる。それとも諦観かな? 狭い世界でいきがってた男の子が、世の中の厳しさに打ちのめされて、ちょっと黄昏てたみたいな感じだね」
「うるせーよ」
「否定しないんだ?」
「事実だからな。否定はしねーよ。疲れてるし、口論もめんどい」
数ヶ月前の自分なら確かに食って掛かっていただろうが、今はそんな気分ではない。
事実を指摘されても怒ることができないくらいに……打ちのめされていたのは、事実だった。
「だからまぁ……ちょっと放っておいてくれ。そうすれば、次に会った時はもーちょい愛想良くなるから」
「面白いね、鳥ガラくんは」
「………え? なにそれ? あだ名という名の陰湿ないじめ?」
「そういうわけじゃないよ。ちょっと名前を噛んじゃっただけ」
「ありえねぇだろその噛み方はっ!?」
思わず怒鳴り散らしてから、陸は深々と、本当に深々と溜息を吐いた。
「……なァ、アンタ一体なんなんだよ? 俺の唯一の休息を邪魔しに来たのか?」
「うーん、邪魔っていうよりは、ちょっと口に出しにくい用件かな」
「断る」
「友達になってくんない? 陸って端で見ててめちゃくちゃ面白いから、前々からぜひ友達になりたいと思って」
拒絶を完全完璧に無視された上に、恥ずかしいことを言われた。おまけにもう呼び捨てだった。
陸は気恥ずかしさを感じて、思い切り顔をしかめた。
「いや……脈絡が分からねーよ。大体俺は面白くなんてねーよ。バイト先のにーちゃんの方が百倍面白い」
「ほぅほぅ。……ってことは、あの背が高くて笑顔が素敵なおねーさんは、そのおにーさんのお気に入りってところかな?」
「っ!?」
「んっふっふ、驚いてるねぇ。その顔が見たかったんだな、これが」
にやにやと、香純は悪魔的な表情を浮かべる。
「実はね、あたしはそのおにーさんに助けられたクチなんだね」
「おう、じゃ、そういうことでまた明日」
「待ちなさい。人の話は最後まで聞けこら」
「絶対に嫌だ! あのにーちゃんの関係者なんて大なり小なり俺も含めてロクな人間いねぇし! アンタだって愛に生きる女子中学生とか変なこと言ってたし、絶対にまともじゃないっ! まともなもんかっ!!」
「ほほう? なかなか言うね、陸君。それじゃあキミにとって『まともな人』ってのはどういう人かな?」
「俺のことを殴らない人間だけどそれがなにか!?」
「じゃあ大丈夫だよ。あたしってば殴るとかそういう中途半端なことはしないから。やる時はやるよ」
「その『やる』ってのは絶対に『殺る』って書くんだろうがっ!!」
「どっちかっていうと……『犯る』の方かな?」
「最悪だあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
陸は思い切り叫んだ。それは心の底からの、本当に悲痛な叫び声だった。
しかしいくら泣こうが叫ぼうが足掻こうが、香純が握った手は外れる様子すらない。
(……っておい、ちょっと待て)
それほど強く握られているわけでもないのに、香純の手は離れない。合気の技術を使って香純の手を振りほどこうとしたが全く無駄だった。香純は陸の動きに振り回されることなく、ごく自然に陸の手を握っていた。
ゾクリ、と背筋を寒気が這い上がる。
目の前の少女は、明らかに『達人』を軽く凌駕する実力を持ちながら、それを隠す術を知っている人間だった。
香純は陸の目を見て全てを悟り、不意に真顔になった。
「気づいたみたいだね。……今のうちにはっきり言っておくけど、あたしは単純な『戦闘』ならキミの三百倍以上は強い」
「だから、なんだよ? 言っておくが俺を殺したりしてもアンタに利益なんてねーぞ」
「大切な人を守るためには、力が要る」
香純は陸の手を離して、真っ直ぐに彼を見つめた。
「けどね、一口に力といっても、それには様々な種類が存在する。主だったところでは『戦闘能力』が有名で分かりやすくて簡単に憧れの対象になるものだけれど、基本的にも応用的にもこれにはあまり出番がない。なぜならあたしたちは常に『殺し合い』をしているわけにはいかないからだ。常に銃を手に隣人が殺しに来ないかと心配をし続ける生活はあまりに辛くて救いがないから、あたしたちは社会というものを作った。……だからね、あたしたちの本当の敵は『日々の生活』というわりと切実かつ身近なものなんだよ。そして、それを打破するために必要なのが『経済力』という力だ」
「………………」
「心という肝心な部分を省けば、人間が幸せに暮らしていくぶんにはそれで十分なんだ。……けれど、それじゃあ遠い。それじゃあ及第点はあげられない。………そう、陸くん。キミの『主』はそのようには望んでいないんだ」
香純は苦笑した。まるで、自分自身を嘲笑うかのように。
「だから、キミには、自分自身を諦めてもらう」
殺されたと思った。首を切られて手足を両断されて、一瞬でバラバラにされたと思った。
しかしそれは彼女が放った殺意が生み出した、ただの幻覚のようなものだった。
(……いや、違う。幻覚じゃねぇ。これは、警告だ)
その気になれば、いつでも。
キミなんか、まるで塵のようにバラバラに。
なんの感情もなく、廃棄処理のように。
無価値にできる。
「分かるかな? あたしはキミを殺せる。今から殺そうと思う。全力で逃げてみな。ただ、逃げ切ったら殺す」
「意味が分からねぇよ! 大体、逃げ切った人間をどうやって殺すんだよっ!? 明日殺すのか!?」
「悠長だねェ……キミは」
そして香純は、無表情に、なった。
「竜胆虎子を殺す、と言えば分かりやすいかな?」
その言葉が耳に届いた瞬間、陸は無表情になって、いきなり香純の頬を殴りつけた。
衝撃でのけぞる香純に追撃はかけず、間合いを取りながら陸は目を細めて深々と溜息を吐いた。
「……つーかよ、オレは別に虎子姉ちゃんのことはなんとも思ってねぇんだけどさ」
「説得力なーい」
「知り合いを殺されるとか言われりゃ誰だってむかつくだろ、普通は」
「それにしちゃ過剰反応過ぎるんじゃない?」
「オレの周囲で唯一まともな女の人だし」
「わりとまともじゃない裏設定があるかもよ? あたしみたいに」
「や、そのへんは比較的どーでもいい。あのにーちゃんなら、『そんなものは付け合せのパセリみたいなもんだろう』くらいは言うだろうな。裏設定なんざその程度のもんだ。……ただな、虎子姉ちゃんを傷つけるなら、オレはお前を殺すぞ」
「……ほぼ告白じゃない? それって」
「断じて違う。告白ってのは『好き』に連なる系譜の言葉を一対一で伝えるものだ……と執事長が言っていた」
「途中で恥ずかしくなるあたりが中学生らしいというかなんというか」
「うるせぇ。つーか殺す。なんか特に理由はないけど、逃げながら殺してやる」
「はいはい、できるもんならやってみな」
香純はなんとなく口元を緩めながら、素直じゃない少年を見据えた。
(……うん、なんていうか、昔飼ってたわんこに似てるね)
にっこり笑って、そんなことを思いながら、
香純は久しぶりに全力を出すことにした。
桂木香純は人造人間である。ただし、サイボーグやアンドロイドの類ではない。
彼女はある鍛造士が創作した『真隷十二形』の一つ、世界で十二体しか現存しない、本当に『人間』を模した人形である。
寿命もあるし腹も減る。走れば疲れるし喜怒哀楽も、もちろん存在する。
ただ一つ、定期的に人の血を少量摂取しなくては活動不能になり、一体に一つだけ人が持ちえぬ特殊な力を有するというだけで、あとは普通の人間と大差ない。
大差ないとはいえ、やはり人形ということで性別はない。男にもなれるし、女にもなれる。元々香純は『人の心の隙間を埋める』という目的のために創造された人形だ。……性別はないが、性格を使い分けることなら容易い。
人に依存しないと生きていけないコウモリ野郎と、香純は言った。
「正直に言えばさ……生きてるのか死んでるのか、よく分からないんだよね、あたしは。男なのか女なのかもよく分からない。あんまりニュートラルすぎてさ……どっちつかずっていうのかな」
「ふーん」
そこは洞窟の中だった。誰も足を踏み入れない禁域だった。
その場所に土足で侵入してきた眼鏡の少年(目つき悪い)は、なんだかどうでもよさそうに相槌を打った。
寿命があるとはいえ、血液を摂取できなくては生体活動ができなくなり、人形は休眠状態に入る。香純もそうやって機能停止状態に陥っていたのだが、少年に起こされてしまったのだった。
迷惑な話だった。
「まぁ、あたしの話なんて聞いてて面白いもんじゃないよ。あたしはある一族に仕える人形でさ、その一族も色々あって滅んじゃったし、辛いことの方が多いし、思い出したくないことだってあるし。……楽しかったことなんて、ほんの少しだけだったし、それだけで生きていけるほどあたしは人間ができてない。……あれ? この場合は人形かな?」
「人間でしょ。誰がなんと言おうと、香純さんは生きてるだろ」
「でもあたし、人形だよ?」
「誰がなんと言おうとって言ったはずだよ?」
「……うーん」
頬をかこうとして、自分自身を鎖で縛り付けていることに気づいて、結局香純は苦笑するだけだった。
「なんていうか、キミは相当いい性格してるよね。あたしが対応に悩むなんて久しぶりだよ」
「よく言われる。ついでに言うのなら、不幸自慢で人を遠ざけるのはそろそろやめにして、本題に入ろうか?」
「………あはは」
やりづらい。心底そう思った。
仕方なく、顔をしかめたまま、香純は言った。
「……ねぇ、キミはあたしになにをやらせたいの?」
「人助け。不器用で背が高くて可愛い年下の後輩を助けて欲しい」
「キミがやればいいじゃん」
「……僕には無理だから、こうやって起きたくもない人を無理矢理引っ張り出そうとしてるんだよ。ちょうどいいことに、香純さんの顔は、彼女にとってはクリティカル(もろこのみ)だ」
「うわ、性格とか一切無視で顔重視ですか。サイテーじゃん、それって」
「否定はしないさ。そういうものだと割り切ってる。最初は顔、最後は性格。人間は大体そんなもんだ。香純さんだって格好いいおねーさんはかなり好きだって言ってたろ?」
「そりゃ否定はしませんけどね? あたしはかなーり面食いですよ? しかも、超マニアックですよ?」
「自分で自分を超マニアックって言い切るあたりはすごいと思うけど。……まぁ、たぶん気に入るから安心して」
「だといいけど」
さして期待もせずに、鎖に縛られた香純は気長にその『格好いい』と言われた少女を待つことにした。
やがて、香純が思っていたほどの時間はかからずに、少女は洞窟にやって来た。
クリティカル(もろこのみ)だった。
「起きたくなんてなかった。だって世界は無残で残酷で、どこまで行っても人は生まれて死んで殺して生きてる。だから動きたくなんてなかった。世界が辛いから見ていたくもなかった。辛いこともたくさんあったけれど、楽しいことがあるって知ってたから、失うことの怖さも十分に分かってた。……あたしが最後に覚えてる記憶は、姉さんだと思えた二人の女性が殺し合っている姿。あたしはなんとか二人を止めることに成功したけれど、一人は破滅して一人は逃げ出した。……それをあたしが全部やった。全責任はあたしにある。だから……なにかと理由をつけて、人と触れ合うことすら拒絶しようとした」
「………………で?」
月明かりの下。散々逃げ回って、疲れ果てて指一本動かせなくなった陸は、倒れたままかろうじてそれだけを聞き返した。
満月を背に、少女は柔らかくて暖かな微笑を浮かべた。
「うん、やっぱり逃げ続けるのは無理だったよ。だから戦うことにしたんだ。今度は、ちゃんとね」
「………さよか」
「うん」
「………………」
陸は、ゆっくりと体を起こした。数時間逃げっぱなしで疲れ切った体にはそれで限界だった。
けれど、そんなガタガタな体を支えて、陸は真正面から香純を見つめた。
「……なぁ、香純」
「なに?」
「お前には好きな人がいるんだよな?」
「いるよ。これがもーめっちゃ可愛いサムライでね、背が高くて和服でポニーテールなんだ。時々割烹着にもなったりするし、絵を描く時は白衣を着たりする、ぶっきらぼうだけど誰よりも情に厚い、あたしの愛するおねーさん」
「……にーちゃんと気が合いそうだな」
マニアックにも程度ってもんがあるだろうと陸は思ったが、疲れ切っていたのでなにも言えなかった。
代わりに、ポツリと言った。
「……どうすりゃいいのか、分かんねーんだ」
「え?」
「オレのバイト先にいる連中はさ、全員が全員どこかに傷を持ってるような変な連中ばっかりでさ、すぐに人のこと殴るし、容赦なんて欠片もないし、優しくないし、厳しいし、おっかねぇし、とてもじゃないけど付き合いきれない」
「………………」
「……なのにオレは、あの屋敷から離れようなんて、思ってねーんだ」
辛いしきついし付き合いきれない。それは紛れもなく本音だ。陸の、本当に心の底からの本心だ。
それでも……どんなに辛くても、あの屋敷から離れる気はまるでなかった。
自分でも、その気持ちがどこから来ているのか……分からない。
「さっさと逃げ出したいのに、逃げる気なんてまるでねーんだ。逃げたいといつも思ってるのに、屋敷の外に出られればどれだけ楽になるだろうって思うのに……思うだけなんだ。逃げたいけど、逃げたくないんだ」
「……陸は」
「え?」
「陸はきっと、お人よしなんだよ。だから逃げられない」
「………………」
それは、腹の立つ言葉だったが、どこか確信を突いているような気がして、陸はなにも言えなかった。
香純は苦笑したまま、それでも嬉しそうに言った。
「失敗ばかりで上手くいくことなんて何一つなかったとしても、それでも誰かを放っておけない。陸は、きっとそんな人だよ」
「……最悪じゃねーか」
「そう? あたしは、あたしの友達がそういう人間だとしたらとても嬉しいと思うけど」
「会ったばかりのヤツを友達にはできねーよ」
「自己紹介で満足できないんだったら、家にでも招待するよ。そこで好きな人でも語り合おうじゃないか」
「………………ったく」
陸は呆れたように苦笑して、ボロボロの体を無理矢理支えながら、それでも立ち上がった。
「……分かったよ。友達にでもなんでも、なってやるさ」
「おろ? なんかいきなり素直になったね」
「あのにーちゃんが本気なのはよーく分かった。だったら、やれるだけやって、利用できるだけ利用してやるさ。強くなれるんだったらそれに越したことはない。……どんなに辛かろうが、執事長殿に比べれば今のオレなんざどうってことはない」
ふらふらになりながらも、陸は真っ直ぐに香純を見つめた。
「でも、強くなってやるさ。……執事長よりも、強く、優しくなってやる」
どこかで聞いたような陳腐なセリフ。
それでも、そんなセリフを臆面もなくきっぱりと断言できる人間がここにいる。
だったら、そんな男の子の心を守ってみるのも、悪くはない。
香純は笑った。今までで一番自然だと思えるような、それは穏やかな微笑みだった。
……Call Sword Call Sword Call Sword Call Sword Call Sword
私の名前はMAGIUS。三千世界でただ一つ。心を成し得たシステム。
準備はできましたか? 今から世界を越えます。制限時間は三分二十四秒ぴったり。
任務目標は新木章吾の救出です。難易度は不明。考え得る限り最悪の状況だと想定してください。
なにか質問は?
状況はどうなってる? 敵戦力は?
彼は戦の女神に祝福された蛮族に幽閉されています。蛮族の戦闘能力は一人5万で数はおおよそ三百人程度です。
単純な彼我の戦力差は、おおよそ五百倍程度です。
蛮族は中規模の集落を作って生活しています。家畜も飼ってはいますが、賞金稼ぎなどで糧を得る方が多いようです。
家の数はおおよそ50ほど。彼はその中のどれかに幽閉されています。
一番豪華な家は? 村長とか族長とか、そういう感じの。
集落の一番奥にありますが……なぜそんなことを?
九割は直感だね。
話に聞くと、どうやらその章吾さんとやらは簡単に捕まったりする男じゃなさそうだし。
私の直感が確かなら、五百倍じゃなくて二百倍程度の戦力差に立ち向かうだけで済むと思う。
……それにね、古今東西豪傑が敗れるシチュエーションっていうのは、大体決まってるもんだから。
了解しました。では、これから世界を越えます。なにか言い残したい言葉は?
帰ってきたら、お手製クッキーのレシピ教えて。
はい。それでは、行ってらっしゃい。
行ってきます。
新木章吾はその時、最大級のピンチに陥っていた。これと比較すれば異世界に来る羽目になったあの事件のことなど、かすんでしまうくらいに大ピンチである。
異世界を旅していた章吾は、最初に出会った案内人に騙されて、売られて見世物小屋に入れられた。
ただ、労働は別に苦にはならなかったし、三食きちんと食べることができたので文句はなかった。どうやらその見世物小屋の店主は『見世物』になる存在が大好きらしく、だからこその厚遇らしいと食事を持ってきてくれた少年は語った。
そんなこんなで幸運に恵まれつつも一週間。事件は起こった。
見世物小屋は蛮族に襲われた。どうやら、奴隷商人に珍しいと言われて店主が購入した褐色の肌の少女が、蛮族たちにとって『御子』と言えるような、とてもとても大切な少女だったらしい。
章吾は仕方なく自分と少女の解放と引き換えに、見世物小屋の店主一同を逃がすことにした。見世物小屋という商売は褒められたものではなかったが、七宿七飯の恩を返すために、なにより悪い人間ではない人たちを守るために、章吾は彼らを逃がして蛮族に立ち向かった。
五十人を叩きのめした頃、さすがの章吾も力尽きて気絶した。
「……っ」
目を覚ます。意識の覚醒を確認したと同時に、体の損傷を確認。
骨、筋に異常はなし。頭部にちょっとした痛みが走る。おそるおそる触れてみるとたんこぶになっていた。
「異常はないよ。ウチの連中五十人をぶっ飛ばしておいて、信じられない話だがね」
「む?」
天幕が開き、顔を出したのは褐色の肌を黒い布で包んだ女だった。
もう絶対にほどけないのではないのかというくらいにきっちり編み込まれた髪の毛に、その部族特有のものなのか奇妙な文様を顔半分に刻み込んでいる。しかし、なによりも目を引くのはこの世界では最高級嗜好品に属するはずの『眼鏡』だった。
そして、なにより彼女は『異世界の言葉』を平気な顔で話していた。
「貴方は?」
「私はアウラ=ラウラ。一応族長みたいなことをやってる。言葉は友達から教わった」
「……なぜ、オレは生きている?」
「私たち戦女神の一族は強いヤツが大好きだ。だから、強くて女に優しい男は盛大にもてなす仕組になってる」
「それは簡単でいいな」
「簡単なのはそこまでさ。一族の人間は大抵強い。……けど時々、弱いヤツが生まれてくる」
女は章吾に濡れた布を渡しながら、口元を軽く緩めた。
「弱いヤツは珍しい。だから私たちはその子を『御使い』として崇め、仕えるのさ」
「……部族特有の風習というやつか?」
「まぁ、それはそうだが理由はちゃんとある。我らが崇める戦女神は、それはそれはひ弱な少女だったらしい。立ち上がれば転び、走れば豪快に転び、なにかを持たせればひっくり返し、時々力の加減を間違えて槍を折ったりした。……それを放っておけない男の人がいた。彼は彼女を守るために一生を捧げた。私たちの先祖は、そういう男と少女だったのさ。だから、私たちの間じゃ弱い存在は貴重なんだ……それこそ、一生を捧げるに相応しい女神様の象徴ってことね」
「……異世界に来てアイドルという言葉を聞くとは思わなかったな」
「まぁ、そのアイドルの夫はアンタなんだけどね」
「意味が分からんがっ!?」
「説明してないからね」
アウラはにやにやと笑いながら、天幕をそっと開けた。
そこには、どこかで見たことのある褐色の肌を持つ、十三歳ほどの少女が立っていた。
煌びやかな薄い衣に、髪を飾るヴェール、唇に塗られたルージュ。そんな衣装に身を包んだ少女は天幕の影からこちらの様子をちらちらとうかがっていた。なんだか、飼い始めた猫のようによそよそしい。
「……しょーご」
「紹介するよ。こいつはルゥラ=ラウラ。私の姪っ子。御使いでアンタが守った女の子。で、アンタの嫁」
「…………ちょっと待て」
「惚れちゃったんだって。仕方ないよ。恥かかせちゃ駄目だよ?」
「…………待ってくれ」
「じゃ、あとは若い二人でごゆっくり」
「待てえええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
章吾が思い切り叫ぶと、ルゥラと呼ばれた少女は、悲しい顔をして涙ぐんだ。
「……わたし、だめ、ですか?」
「ぐっ………」
「……若いねぇ」
アウラはにやにやと笑いながら、部屋から出て行った。
こうして、章吾は異世界に来て初めてかつ最大の窮地に立たされることになった。
私の名前はカスミ。汚れた剣。灰色の剣。この体はそういうふうに創られた。
あたしには、ただひとつだけ、許された力がある。
それはきっと特別なもので、きっと誰かが私のために遺してくれた力。あたしの唯一。世界と渡り合う力。
……でも、そんなモノはまるで役に立たなかった。
あたしが欲しかったのは、人と戦う力じゃない。愛する人を守る力。経済力でも優しさでもなんでもいい。陸くんのように、ほんの少しひん曲がってても誰かのことを守って戦える人に……そういうふうに、なりたかった。
なってやるとあの子は言った。どこかの誰か、自分が憧れる人の背に、いつかなってやると彼は言った。
あたしもなってみたかった。日々の暮らしの中で、優しく強く生き抜ける人間に。
好きな人がいます。その人は素直じゃないけど素直で、曲がってるけど真っ直ぐな人です。
あたしを人形と知っても表情一つ変えずに、笑ってくれた人です。
あたしは弱い人形です。自分の都合でしか戦えない、そういう弱い人形です。
好きな人が傷つくから、そのために戦おう。
友達が悲しむから、そのために戦おう。
あたしは正義なんかじゃありません。自分勝手で身勝手なだけです。
……それでも、あたしは、貴方たちの心を守りたい。そう願うことが身勝手でも、守りたい。
私の名前はカスミ。汚れた剣。灰色の剣。
愛のために戦う女子中学生。
この体は、全ての剣の創意により建造された。
最高に気まずい空気の中で、章吾は己の人生の中で最大のピンチを迎えていることを感じていた。
木造の暖かな家。集落の中でも並外れて豪華な部屋に通された章吾は、その部屋に入った瞬間に寒気を感じた。
愛の巣。そんな言葉がぴったりな、二人きりの空間であった。もちろんベッドのサイズは二人が寝転がって楽々眠れてしまうような、章吾の世界でいうキングサイズのベッドである。
予想もしていなかった豪華な部屋に章吾が面食らっていると、ルゥラは不意に頭を下げた。
「……ごめんな、さい」
「え?」
「ああ言わないと……しょーご、ころされて、かもしれなかった」
「………………」
少女は少女なりに必死だったのか、涙ぐみながらそんなことを言った。
ゆっくりと章吾は溜息を吐いた。それは安堵の溜息でもあったし、気構えていた自分に対する溜息でもあった。
「……まぁ、なんだ。俺も警戒しすぎていたということなんだろうな」
「しょーご?」
「いや、すまない。命を助けられた。ありがとう」
「?」
「ああ、そうか言葉はあまり分からないんだったな……えっと」
食事を出してくれた少年の言葉を思い出す。
「確かありがとうは……ら・れぷてゅりあ・れり・あらぁいすた……だったかな?」
「っ!?」
章吾がそう告げると、ルゥラは顔を一瞬で真っ赤に染めた。
「……しょーご」
「あ、いや、違ったか? えっと……じゃあ他の言葉は……」
「……うれしい」
「へ?」
「わたしも、しょーごなら、いい」
「………は?」
「よわいはなよめですけど……すえながく、おねがします」
ルゥラははにかみながら、ぺこりと頭を下げた。
ルゥラとは反対に、章吾はなんだか泣きたくなった。
(……どうしてオレはこう……いつもいつも地雷を踏むんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?)
人と関わって生きるなという神のお告げだろうか。やること成すこと裏目裏目に出てばかり。そもそも、意気揚々と異世界に来ていきなり見世物小屋に売られるというあたりで、かなり幸先が悪すぎる。
生活も世界も守らなきゃならない全部を捨ててここまで来て、一週間以上も経過しているのに、未だ『街』と呼ばれる場所にすら着いていない。RPGの勇者ならもうそろそろはがねのつるぎくらいは買っていてもおかしくはないだろう。
(……最初からこんな調子なら、あと何年かかるんだ? そもそも俺は元の世界に帰れるのか?)
先のことを考えて、章吾は真剣にヘコんだ。絶望にすら負けなかった心が、簡単に折れかけた。
それは、もうどうしようもないくらい漠然としてかつ人を軽々と侵食する概念。人間ならば誰しもが抱え、一生付き合っていかなければならない、ある意味では最悪の敵である。
人はそれを、『将来の不安』と呼んでいた。
「しょーご?」
「……あ、ああ、なんでもない。ちょっと死にたくなっただけだ」
「しんじゃうの、だめ。かなしい。わたし、しょーご、すきだから」
「………………」
不安そうに章吾の顔を覗き込む少女の頭を、執事は優しく撫でた。
悪くはないのかもしれないと、心のどこかで自分が囁く。
ここで彼女と結婚して、色々なことを学びながら、波乱万丈ではない人生を送る。穏やかで特別なことなんてなにもないかもしれないけれど、そこにはきっと小さくて暖かい幸せがあるだろう。
あの屋敷にいた頃と同じように、心穏やかに過ごせるだろう。
「……ああ、そうかもしれない。でも……俺には、やらなきゃならないことがあるから」
章吾はそう言って微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。
「すまん。言葉は分からないかもしれないが……それでも、すまない」
「………………」
「俺は、君を幸せにはできない」
それだけを言い放って背を向ける。
今なら、自分が仕えていた主人の気持ちが分かるような気がした。背負うものが多すぎて、これ以上背負うことができなくなった、あの……愚かだったけれど誰よりも厳しい少年の気持ちが、分かったような気がした。
(……確かに、これはきついな、元主)
心の中でそんなコトを呟いて、章吾は天幕を押して外に出た。
今からどんな修羅場になるのかは分からない。もしかしたら殺されるのかもしれない。
それでも章吾は臆するところ一つなく、正面から堂々と出てやろうと考えた。御使いと呼ばれた少女の求婚を拒絶したのだから、それに値する理由があることを示してやろう。
「イセプテュリア・インストール」
そして、章吾が家を出た直後に、その家が吹き飛んだ。
爆風に吹き飛ばされながらも、章吾は空中で受身を取り着地する。破片がいくつか背中に刺さった痛みに顔をしかめながら、その痛みを無視して、彼は家のあった場所を睨みつけた。
砂煙の中から現れたルゥラの全身には、血の色に染まったな文様が刻まれている。それは、アウラと名乗った女の顔に刻まれていた紋様と、同じものにも見えた。
その体からは闘気が立ち上り、覇気に満ちている。先ほどまでのか弱いイメージなど、どこにもない。
泣きそうな目元を拭って、少女は誰よりも真摯な真っ直ぐな瞳で、章吾を見つめた。
「……しょーごが、すきなひとは、だれ?」
「………………」
「歌姫さまが言っていた。『すきなひとをかたるときはしあわせなかおをしなさい』って。……でも、しょーごはちってもしあわせそうじゃない。わたしのことをきらいとも言ってくれない。……つらそうなかおで、わらう、だけ」
「…………それは」
「そんなのはいや。わたしは、そんなのいやだ」
「………………」
誰よりも強い眼差しと、誰よりも強い言葉で、ルゥラはきっぱりと断言した。
「しょーごがつらそうにしているのは、ぜったいにいやだ」
想いを拒絶されたことではなく、好きな人が幸せじゃないことに、少女は怒っていた。
「そんなかおでつらそうにわらうなら、なにもさせない。……しょーごは、わたしがしあわせにするっ!!」
どこまでも理不尽で、どこまでも真剣で、どこまでも真っ直ぐに、ルゥラは拙い言葉で断言した。
とんだ女神様もいたものだ。彼女は弱いから守られていたのではなく、『強すぎるから』守られていた。
「……やれやれ」
章吾はゆっくりと溜息を吐いた。
勝算がまるでないことを認めた。完全に自分の敗北で、誤算だった。
大善牙は使えない。逃げても恐らく簡単に追いつかれる。言葉は通じるかもしれないが、彼女が納得するとは思えない。
力づくならあるいはもしかして万が一にもなんとかなるかもしれないが、仮にも恩人を、しかも女の子を殴る拳を、章吾は持っていない。
そもそも、言葉の意味を間違えてしまった時点で、負けていたのだろう。
「……なぁ、ルゥラ」
「なぁに?」
「ら・れぷてゅりあ・れり・あらぁいすた。とは、どういう意味なんだ? 俺は『ありがとう』だと思っていた」
「………………」
ルゥラはほんの少しだけ頬を染めて、じっと章吾を見つめて、口を開いた。
『貴方のことを、思っています』
声は重なって響いた。一つはルゥラの声。もう一つは、鋭くてどこか寂しそうな、そんな声だった。
声の主は音もなく章吾の脇を通り過ぎた。異世界には不釣合いなセーラー服。腰には汚れてボロボロになった鞘に収められた、一振りの騎士剣。灰色の髪に灰色の瞳。
透明でありながら不透明な少女は、ゆっくりと歩みを進める。
「ややこしい意味ではあるよね。どういう意味で思っているのか、それとも『想っている』なのか、言葉の意味ではよく分からないもん。……でも、言葉の意味なんてどうでもいいのかもね。大切な意味の言葉なら、特に」
「…………君は」
「余計なお節介を焼きに来たよ、執事さん」
彼女はただそれだけを言うと、ゆっくりとした動作で腰の剣を引き抜いた。
鞘と同じようにボロボロで錆びて使い物にならなくなった剣の切っ先を、彼女は躊躇なくルゥラに向けた。
「こんにちは、お姫様。あたしは灰色の剣という名の魔法使い。今回はお姫様に世間を教えに来た」
「……どういう、こと?」
「世界には自分の意思じゃどうにもならないことがある。それは病気だったり境遇だったり生まれた時から宿命付けられたものだったりと様々なんだけどね、この執事さんはそれを曲げようとした愚か者だ。だから今こうして報いを受けている。辛そうなのは当たり前。辛いことをやっているんだから」
灰色の魔法使いは、歳相応ではない皮肉げな笑みを口の端に浮かべた。
「だからね、助けようなんて傲慢な考えはおよしなさい。この人は今ツケを払っている。ただそれだけのことだから」
「……だから、なに? そんなのかんけいない。夫をたすけるのは、妻の役目」
「なるほど、ね。……だったら戦り合うしかないか」
二人の間で殺気が膨れ上がる。女同士という、男では絶対に踏み入ることができない喧嘩領域。性格には香純は男ではないが、『女同士』としての喧嘩ならば姉二人と腐るほどやっている百戦錬磨であり、ルゥラの方も部族の女たちを相手に渡り合ってきた兵である。先に相手を泣かせた方が勝ちと、両者は本能的に知っていた。
激突の直前、灰色の彼女はゆっくりと振り向いた。
「また厄介なのに惚れられたねぇ、執事さん。こういう手合いはふられようが拒絶されようが、執事さんが幸せにならない限り地の果てまで追って来て世話を焼く、自分よりも他人を優先できるタイプの女の子だよ? まぁ、執事さんが幸せになったらきっぱりと手を引くんだろうケド、貴方が幸せになるのはとっても難しいんだよね」
「……待て、なんだか今絶望的なことをあっさりと言わなかったか?」
「だったら努力しなさいな。今みたいな状況にならないように、自分のやっていることに胸を張れる漢になればいい」
「………………分かった」
「あと、今回は執事さんがやれることはなーんにもないから、尻尾巻いてさっさと逃げてね♪」
「………………」
辛辣でありながら反論を許さない言葉だった。そして、それは事実でもある。
章吾はゆっくりと背を向けた。勝負の行方は気になるが、勝負の邪魔をするわけにはいかないし、見届けた結果ルゥラが自分の旅に着いて来るとも言いかねない。……それだけは避けなければならないだろう。
今ここにいる理由は、魔法使いと名乗った彼女が言ったように、ただツケを払っているに過ぎないのだから。
それでも、走り出す直前に、言わなければならないことがあった。
「ルゥラ、それと、見も知らぬ魔法使い。君たちに感謝する」
後ろは振り返らずに走り出す。その走りに躊躇はなく、あっという間に彼はルゥラの視界からいなくなった。
眼前には灰色の髪と瞳を持つ、錆びた剣を振るう少女。
「じゃあ、やろうか戦女神の申し子さん。八つ当たりくらいには付き合ってあげる」
「……だまりさない」
そして、二人は激突する。
灰色の彼女は目的を達成していたし、ルゥラは誰に言われなくても彼を追うつもりだったけれど。
そんなものはおかまいなしに……彼女と彼女はそれこそ八つ当たりな戦いを始めた。
なにもかも終わって、ボロボロになって、消し炭にならなかったことに感謝しながら、香純は家に戻って来た。
というか、正確には家の前で力尽きて倒れていた。コンクリートの冷たさが肌に心地いい。
(あー……まぢで死ぬかと思った。ホント、あの執事さんには女難の相が見えるわ)
消し炭一歩手前くらいで生還できたことに感謝しながら、それでもエネルギー切れですっかり動けなくなっていた。
意識が明滅する。このまま放っておかれれば、また休眠状態になるんだろうなと思った、その時。
「なにをしてるんだ、ばかもの」
暖かい光が差し込んで、ほんの少しだけ体が動かせるようになった。
目を開ける。見知った彼女の顔を見れたのが嬉しくて、香純はぎこちなく微笑んだ。
「……やあ、四季。……今日は、遅かったね」
「仕事がちょっと立て込んでてな」
香純が愛する彼女。有坂四季という名の、ただそれだけの高校生。誰よりも不器用で、誰よりも弱い心の持ち主。
そんなところが、一番好きだった。
「で、お前はなんでこんな所で寝てるんだ?」
「魔力切れっす」
「ほう? 昨日私がちょっと痛いのとアレを我慢して魔力を補充してやったというのに、お前は一日でそれを使い切ったと? 普通に生活してれば一ヶ月はもつのに、それだけの魔力を一日で使い切ったというわけだ?」
「……恥ずかしながら、そのようで」
「ばかもの」
四季は倒れて動けない香純の頭をぺしりと叩いた。それから、彼女の体を軽々と持ち上げる。
お姫さま抱っこだった。
「……あの、四季? いくらあと数歩で家とはいえ、これは恥ずかしいんだけど」
「黙れ。大体だな、お前の魔力補充方法は不適当かつ非効率的でしかもアレなことこの上ない。そんなコトをする私の身にもなって、少しは恥ずかしさを味わうがいい」
「や、さっきから『アレ』で誤魔化してるけど、古来より吸血行為に快楽が付属してるのは当たり前のことですよ?」
「黙れと言ってる」
「……はい」
とても怒っている時の目つきだったので、香純は素直に黙ることにした。
野生の動物をも退かせるような眼光で香純を睨みつけながら、四季はふん、と鼻を鳴らした。
「……なにをしてるのかは知らないが、少しは心配する者の身にもなれ」
「…………うん、ごめん」
「まぁ、いいさ。それよりも言うべきことがあるだろう?」
「……………あ」
そこで思い出す。うっかりと忘れていた二人の約束。忘れそうになっていた、小さな約束。
結局のところ……四季が不機嫌だったのは、ただそれだけのことが原因だったのだろう。
だから香純は、いつも通りに小さく笑った。
「ただいま、四季」
「おかえり、香純」
小さな約束を果たして、ささやかな挨拶をかわして、二人は楽しそうに笑っていた。
番外編4『桂木香純と灰色の剣』END
と、いうわけで執事見習いにふざけた友達ができました(笑)
異世界の執事長は一時的にですがなんとか助かりました。これもみなさんの応援のおかげです、ありがとうございます(礼)
ちなみに今回のカスミさんを見て『無限の剣製』を思い浮かべた方はかなりのニアピンです。能力の骨子は同じですが、運用方法はまるで違います。
次回は本編に戻ります。ほんのちょっとシリアスになるような、ならないような。ノリはいつもと変わりませんが(笑)