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第二十九話 熱とバナナと体温計

骨休め終了。

ちょっと長めですが、コメディです。お楽しみくださいね♪

 人に見せる顔、自分に見せる顔、誰かに見せる顔。



 世界は停滞する。止まる。静止する。停止する。

 予想外に早くドアが開いて、あまりに予想外な展開に、僕も彼女も完全に止まっていた。

「……………え?」

「……………あ」

 馬鹿みたいに、玄関先で僕らは見つめ合う。

 下着姿の美里さんが、泣きそうな顔で僕のことを見つめていた。

 あと三秒もしないうちにとんでもない事態になるのは目に見えている。なんとかその三秒のうちの言い訳を考えておこうかと思うけど、今回は本当に不可抗力というか、絶対に美里さんが悪いと思う。

 しかし、言うまでもなくそんなモノはただの理屈に過ぎない。

 どんな状況下であれ、女性の下着姿を見た男は悪いことになっている。それはもう世界法則なほどに。

 さて……それじゃあ、言い訳なんて無意味なものは考えずに、ちょっと走馬灯じみたものでも見てみよう。

 ……なんでこんなことになったんだっけ?



 章吾さんが辞めてから三日。美里さんが風邪でぶっ倒れた。

 京子さん曰く、「一過性の風邪だね。美里は環境の変化に思いの他弱いから」ということらしいが、いくらなんでも熱が39度もある人間を働かせるわけにもいかず、仕方なく休ませることにした。

 それからが大変だった。

 章吾さんどころか美里さんが抜けた穴はあまりにも大きい。章吾さんの抜けた穴は舞さんが上手くフォローしてくれているものの、美里さんまで抜けられてしまってはたまったものじゃない。

 仕方なく僕が直々に対応し、唯一わりと暇そうにしていた冥さんに即興で美里さんのやっていた仕事内容を叩き込み、ついでにみんなでローテーションを組んでなんとか対応していた。

 学校をサボって三日ほど徹夜をし、なんとか美里さんの抜けた穴を埋めた頃には、僕は疲れ切っていた。

 しかし……なんというか、疲れ切っていたのは僕だけで、冥さんはわりと平気そうだった。徹夜は慣れているようだったし、仕事の呑み込みも慣れてしまえば早い。以前はそうでもなかったけれど、この屋敷で培ったことは少なからず彼女を成長させていたらしい。彼女の働きに文句を言う人もいなかった。

 だいぶ仕事に慣れた頃、冥さんは苦笑しながら言った。

「私はもう大丈夫ですから、坊ちゃんは休んだ後に美里チーフのお見舞いに行ってください。お屋敷の方は私とみなさんでなんとかできますけど、チーフの方はなんともできませんから。美咲ちゃんも心配ですし」

 そんなことを言われてしまっては、僕としても反論のしようがなかった。

 仕方なく一日だけ死んだように眠って、その翌日にコッコさんと一緒に美里さんのお見舞いに出かけた。


 ここで一つ問題が発生していたことに、到着するまでうっかり気づけなかった。


「うーん、そういえばよく考えなくても美里さんの家に行くのはこれが初めてなんだよなぁ……」

 ケーキを片手に歩きながら、僕はそんなコトを呟いたりしてみる。

「まぁ、よく考えなくても美里さんが僕を家に招くなんてコトがあるわけもないんだけど……そう思うとちょっと緊張しちゃうね。せめて身だしなみを整えてスーツくらい着てくるべきだったかな」

「……やめた方がいいと思いますよ」

 ロングスカートに茶色のセーターという地味な私服だけど可愛らしいコッコさんは、なんだか微妙な表情を浮かべていた。困っているような、焦っているような、そんな顔だ。

 わりと無表情な顔が多いコッコさんにしては、かなり珍しい表情だった。

「どうしました? まさか美里さんの自宅になにか思い出したくないようなことでもあるんですか?」

「……いえ、なんというかですね。ちょっと説明が難しいのですが……」

 コッコさんは渋面を作った後、腕組をして考え込んで、角を曲がったところでポンと手を打った。

 なにかを思い出したような、あるいは名案を閃いたような、そんな手の叩き方だった。

「そういえばひえピタとか解熱剤とかを買い忘れてました。あとはバナナも必須ですね。風邪にはものすごくよく効きます。あ、ちょうどいいところに薬局があるんで、買ってきますね!」

「え? あの……コッコさん!?」

 言うが早いがコッコさんは走り出す。一応叫んではみたが、止める暇すらありゃしない。

 コッコさんの指差す先には確かに薬局がある。しかし、どう考えても明らかに遠い。遠過ぎる。『ドラッグまっくすぅ』の看板が、僕の矯正視力1.7をもってしても点にしか見えない。

 そして、全力で走り出したコッコさんも、あっという間に点になってしまった。

「………おいおい」

 急に不安になる。怪談の結末を語られなかったような、そんな気味の悪い気分。

 うーむ……気分は常にニュートラル、中庸中間に置いておきたい僕としてはこういう展開は非常に好ましくない。不明があるのは構わないけれど、その不明が不気味というのは非常に気分がよろしくない。

 よし、こういう時は逆転の発想といこう。不安があるのなら、最悪の事態を想定すればいい。

 ゴミ屋敷。

 腐った片栗粉。

 斑色のキノコ。

 台所の黒き堕帝。

 カーペットの真正悪魔。

 血を喰らう魔蟲。

 BL本。

「よーし、いい感じにクールになってきたぞー」

 うむ、素晴らしいぞ想像力。最悪のイメージとは、つまりそれ以外なら大体どんとこいってなもんである。

 想像するだけで冷え冷えとしたイメージの数々は、僕に勇気を与えてくれた。今の僕の頭の中は氷点下も軽くぶっち切る絶対零度。今ならば、いたいけな小学生をポケ●ンで、傷一つつかずに完膚なきまでに打ち負かすことすら可能だ。実に大人気なく、卑怯に、ゲームではなく『システム』そのものをいじる最悪な方法で勝って、大笑いできるだろう。

 小さな世界で無敵ぶってる子供相手に、決定的な敗北を刻み込んでくれるぜ♪

「まぁ……そんなどーでもいいことはともかくとして」

 美里さんが休んでから三日。美咲ちゃんから定期連絡が来るので、体調の方はそれほど心配していないのだけれど、そろそろ仕事に戻って欲しいというのが僕ならびに屋敷のみんなの要望だ。

 かといって、病床の女性にそれを露骨に伝えて無理をさせるわけにはいかない。ここはあくまで『暇だったんで、コッコさんとちょっとお見舞いに来ましたよ』みたいに、何食わぬ顔で家を訪ねるのが正解だろう。

 京子さんから渡された地図を確認し、角を二つ曲がる。そんなに遠くないし京子さんは一目見れば分かると言っていたので見れば分かるんだろうケド、駅前とかならまだしも住宅地はそれほど土地勘があるわけでもないので、迷子だけが心配……。

「……なるほど」

 や、なんというか、『見れば分かる』と言った京子さんの言葉が身に染みてよく分かる。

 木造二階建て。何十年経過しているのかは不明だけど、とりあえずボロい。

 いい加減に建て替えろと言いたくなるような奇妙なアパート。住所も間違いなくここだ。

「………うーん」

 僕的には古い建物というのは好みなのだけれど、女性がここに住むというのはいかがなもんだろーかと思う。

 不審者とかいたらどーすんだ。美咲ちゃんもいるというのに。

「大丈夫よ。基本的にはみんないい人ばっかりだし、なによりママが暴漢程度にやられると思う?」

「それはそうなんだけどね、問題なのは『暴漢に襲われた』という事実なんだよね。女性ってのは男が思っているよりも強いけど、男が思っているよりもか弱い生き物だからね」

「……パパ、ちょっとくらい驚いてもいいんじゃないの?」

「小学校の頃に誘拐されたせいで、視線にはちょっと敏感でね」

 肩をすくめて後ろを振り返ると、そこにはランドセルを背負った美咲ちゃんが立っていた。

「お帰り、美咲ちゃん。今学校帰り?」

「うん。これからもう一箇所行かなきゃいけないけど」

「要さんのところ?」

「……うん。ちょっと複雑だけど、章吾が帰ってくるまでは私がしっかりしなきゃ。強くなるって決めたし。……ここ最近はママに付きっきりだったし、そろそろ恋敵の顔でも見に行かなくちゃね」

 ちょっと苦笑いを浮かべながらも、美咲ちゃんはきっぱりと断言した。

 小学生にあるまじき強い意志を秘めた瞳。決意は固く、気持ちは真っ直ぐ。どこまでも遠くを照らすように。

 僕は口元を緩めて、彼女の頭に手を置いた。

「ねぇ、美咲ちゃん」

「なに?」

「いざという時に一番役に立つものってなんだと思う?」

「お金」

 小学生らしかぬ現実的な即答だった。ちょっと、この子の将来が心配になった。

 僕はちょっと強く美咲ちゃんの頭を撫でて、にやりと笑った。

「正解は『体力』。体を鍛えておけば、いざという時に役に立つよ」

「男の人を押し倒したり?」

「……や、そういう用途にはあまり使われないで欲しいと切に願うけど……そういうことじゃなくてね、明日から道場でちょっとした訓練のようなものをやるから、美咲ちゃんもどうかなって思ったんだけど、どう?」

「行く」

 これまた即答だった。どうやら『強くなる』という意思そのものは固いらしい。

 ……それもまた才能なのかなと、ほんのちょっとだけ羨ましくなる。

 美咲ちゃんはにやりと、大胆不敵な笑顔を浮かべた。

「言っておくけど、私が小学生の小娘だと思って手加減なんてしたら、ひどい目にあうからね」

「その辺は大丈夫。僕はどんな相手にでも手を抜かない主義でね。子供だろうが大人だろうが、やるからには『全力』でやらせてもらう。礼儀以前に、負けるのは僕だって嫌だからね」

「私、パパのそういうところ、けっこー好きよ。俗物っぽくて」

 僕は、美咲ちゃんのそーゆーところはかなり趣味が悪いと思ったが、あえて言わなかった。

 というか……章吾さんを恋の相手に選んでいる時点でかなり趣味は悪いのだけれど。

 と、僕が失礼なことを思っていると、美咲ちゃんは不意に真顔になった。

「ところでパパ、私の家に入る時にはね、厳然としたルールがあるの」

「ルール?」

「ええ。これを守らないとママにボコボコにされちゃうような、それはそれは厳しいルールよ」

 むぅ……それは非常に怖い。ルールを守らないだけでボコボコとは……僕が美咲ちゃんならとっくに死んでいる。

 格闘術なら章吾さんに匹敵する人に殴られるのだけは、さすがに避けたいところだ。

「で、そのルールって?」

「家に入る時はノックを六回。それだけ守れば大丈夫だから」

「ちなみに、守らないと?」

「この前日曜に来た、宗教勧誘の人みたいに、号泣しながら帰る羽目になると思う」

「………………」

 いくらなんでも、大人を泣くまでどついたり説教したりするのはかわいそうなんじゃないかと思う。

「じゃあ、そういうことだからくれぐれも気をつけてね? インターフォンとか下手に鳴らすと鉄拳が飛んでくるから」

 美咲ちゃんは真顔でそう言い残すと、まるで猫科の動物のように俊敏な動作で走って行った。

 ……さてさて、どうしたもんだろうか?

「なんとなく、嫌な予感がするなぁ」

 ノックをしないとボコボコにされる。インターフォンを鳴らすと鉄拳が飛んでくる。

 かといって、ノックをしたからといって、拳が飛んでこないとも限らない。

 既に拳が飛んでくるのが前提になっているのがかなりアレだけど、美里さんの家に行こうというのだからこの程度の覚悟は固めなくてはならないだろう。

「よし、覚悟完了」

 気合を入れて、美里さんの部屋である007号室に向かう。

 傾いた『007』というプレートと、ちょっと力を込めれば壊れるんじゃないかってくらいにガタが来ているドア。ドアの外にいくつかゴミ袋が出されているのは、たぶん美里さんが風邪を引いたせいで出せなかったゴミだろう。決して部屋の中に置ききれなくなったとか、そういう類のものではないと信じたい。

 僕は息を吸って、覚悟が砕けないうちに、美咲ちゃんからのアドバイスを実行に移した。

 コン、コン、コン、コン、コン、コン。

「はいは〜い」

 中から聞こえてきたのは、美里さんの元気そうな声だった。

 元気そうでちょっと一安心。美里さんが風邪でダウンしたと聞いた時は、本当にどうしようかと思って、


「今日は遅かったのね、美咲ちゃん♪ ママはちょっと寂しかったぞ〜☆」


 思考が、停止、した。

 普段は絶対に聞くことはない、とろけるようなハニーボイス。

 付き合い始め、もしくは新婚のカップルみたいな甘々な声色に、僕は既視感を覚えた。

 知っている。僕はこんな感じの声を知っている。これはなんつーか、『しっかりしている子供に甘える母親の声』だ。僕の母さんもこんな感じだった。雰囲気はだいぶ違うけど、間違いない。

「えっと……」

 嫌な予感は現実になる。これはなんというか、早めに手を打たないともっと大変なことに。

 そう思って声をかけようとしたところで、無常にもドアは開いてしまった。

「………………え?」

「………………あ」

 そして、時間が停止した。



 そして、時は動き出す。

 我に返ったのは、僕が先だった。美里さんはまだ硬直中だ。

 さてさて、思わず走馬灯なんていうらしくないものを見てしまったけれど、こうやって黙っているとまるで僕が変なヤツみたいになってしまう。下手をすれば変質者に見られてしまうことだろう。

 最悪の事態が発生する前に、なんとか上手くないまでも、多少の拳骨で済むような言い訳を……。

「あの……美里さん。これは色々と誤解がぐぉッ!?」

 言い訳をする暇もなかった。

 一瞬で首を掴まれて呼吸もできなくなったと思ったら、まるでパニック映画のように唐突に、美里さんの家に引きずり込まれた。情けない話だが、僕が美里さんに腕力で敵うわけもなく、抵抗もまるで意味がなかった。

 わりと鍛えてるのに僕は女性にすら腕力で負けるのかと、ちょっと悲しくなった。

 まぁ、実際には悲しくなる暇もないわけで。

「……聞きましたね? 坊ちゃん」

 ああ、なんつーか、僕の人生は本当にここでゲームオーバーなんだと確信できる。

 美里さんが笑っている。見る人全てがあまりの恐怖に泣き叫んでおしっこちびりそうなくらいの、そんな綺麗な笑顔を浮かべている。般若なんて実にスウイィィィトだ。今の美里さんの笑顔を見るくらいなら、地獄の底を素足で歩いたほうがましだと確信をもって断言できるだろう。

「ねぇ、坊ちゃん? ……見たし、聞いたんですよね?」

「えっと……すみません」

「謝らなくてもいいですよ? こっちの不注意ですからねエェェェェェェ?」

 やばい。超怖い。帰りたい。殺される。世にも無残な方法で殺される。

 お説教と書いて『ごうもん』と読ませるくらいの、えらく残酷極まりない方法で処刑される。

 いや、そもそもこの圧力(プレッシャー)だけで重く死ねる。なんだって僕はこんなに美里さんを怒らせるようなことをしてしまったのだろうか? いっそのこと、多少殴られる覚悟を決めてインターフォンを押せば良かったんだろうか?

 ……どんな選択をしても殴られるのは、もうなんか運命と割り切ってしまった方がいいんだろーか?

 疑問は色々と尽きないけれど、とりあえず僕は、殺される前に言うべきことは言っておくことにした。

「……あの、美里さん」

「なんでスか?」

「や、そんな虎子ちゃんみたいな口調で脅されても怖いとしか言いようがないんですが。……その、僕を殺すのはいいんですが、その前に上着かなんか着て欲しいと思うのです……よ」

「………………」

 美里さんは僕の顔をじっくりと見つめて、それから下着姿のままである自分の体を見下ろした。

 一瞬で顔が真っ赤になる。

「……っきゃあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 ゴッ!!

 ベタな叫び声と共に、僕は思い切り顔をぶん殴られて意識を失った。



 昔のユメを見ていた。目が覚めれば消え去ってしまう、そういう類のユメだ。

 六畳一間のアパートで、僕と母さんはテーブルを挟んで向かい合って、ハンバーグを食べていた。

 僕は普通に食べていたけれど、母さんはものすごく不満そうだった。

「なァ、息子。……なんつーか、その、これ、一味どころか二味くらい足りないわ」

「レシピ通りに作ればそんなもんだよ。美味しくないのなら食べなきゃいいじゃん」

「んー……確かにそれはそうなんだけど」

 僕が黙々とハンバーグを頬張っていると、母さんはなんだか考え事をしているようだった。

「そうだなー……アレだ、息子の手料理には愛が足りない。ほら、やっぱりここは『はい、母さん。あーん』くらいはやってくれてもいいシチュエーションではないかと」

「ごちそうさま」

「待て息子。『いきなりなにワケノワカランこと言い出すんだこの母親。超うぜぇ』みたいな顔すんな。そーゆーのをやっていいのは十四歳くらいからだ。小学生がそーゆー顔をしちゃ駄目だろ、このおませさんが」

「じゃあ、おやすみなさい」

「息子」

「……なにさ、母さん」

「拗ねてるならそう言えばいいだろ」

「拗ねてません。料理の本とお金を机の上に置いて、子供を三日ほど放置したことに関してはかなり怒ってますし、三日ぶりに帰ってきたと思ったら僕好みの味付けを一味どころか二味くらい足りないと言われてものすごく怒っているのは事実ですし、ついでに言わせてもらうとせっかく作ったハンバーグを横取りされて、ひどく不機嫌になっているのは事実ですが?」

「仕方ねーだろ。ホラ、あたしも大人なんだから、付き合いとかそういうものがあるわけでね? あと、いきなり敬語になったりするのはどうかと思うよ? 親子なんだし、そういう敬語と他人行儀な態度はちょっと……」

「………………」

「ごめんなさい」

 僕の無言の圧力に負けて、母さんは素直に頭を下げた。

 正直に言えばこの時の僕は拗ねていたのだけれど、どっちかっていうと放っておかれたことよりもハンバーグを酷評されたことに対して怒っていた。この三日間、なんとかコンビニ弁当などに頼らずに生きてきたのに、一味足りないは言いすぎだろうという気分だった。

「つーかさ、連絡の一本でも寄越すのが普通でしょ? なに考えてるのさ」

「や……その、電話がない世界にちょっと出張を」

「その言い訳は聞き飽きました。事実だったとしても誰か信頼できる人に僕のことを任せるとか、そういう方策を取ってください。お金と料理の本を置いて、なにも告げずに出て行くって、アンタは旅人かストリートファイターですか?」

「いや……その、友達少ないし、息子も一人の方が気楽かなーと思って」

「………………」

「ごめん」

 反省しまくっている母さんは、なんだか叱られている子供のようだった。

 立場が逆じゃねぇかとちょっと思った。

 こう素直に反省されると叱る気も起きなくなる。僕は溜息を吐いて、じっと母さんを見つめた。

「母さん」

「………………ん?」

「お仕事、ご苦労様」

「……子供らしくないよな、息子は」

「本気で拗ねるよ?」

「いや、それでこそあたしの息子だ」

 母さんはそう言って満足そうに笑って、僕の頭を乱暴に撫でた。

「一緒に風呂でも入るか?」

「……嫌だ」

「じゃ、一緒に寝ようぜ。拒否したら布団燃やすぞ」

「…………分かった」

 どんな寂しがり屋だよとか思ったケド、口には出さない方がいいなと本能的に察知していた。

「よし。それじゃあ、あたしは銭湯に行ってくるから……逃げんなよ?」

 母さんはそう言って、輝くような悪い笑顔を浮かべて、上機嫌そうに鼻歌なんぞを歌いながら、部屋を出て行った。

 毎度毎度のことで、物心ついた時からそうだったけど、嵐に巻き込まれたような気分だった。

 ゆっくりと溜息を吐く。それから、普段思っていることを、ぽつりと口にした。

「……やっぱり、結婚するんなら年下の大人しい女の子がいいよな」

 まだまだなんにも分かっていない小学校の僕は、そんなコトを呟いていた。

 身の程知らずだった。


 

 意識が覚醒する。昔のユメを見ていたような気がするが、よく思い出せない。

 目を覚ますと、そこはどこかで見たような六畳一間。もちろん言うまでもなく、僕が昔住んでいた家じゃない。

 部屋の中はお世辞にも片付いているとは言い難かった。どういう風に散らかっているのかあえて描写はしないけど、『独り暮らしの男子の部屋』くらいには、物が散らかっている。

 まぁ、当然といえば当然。過密スケジュールで働いている主婦が『規則正しく美しい生活』なんぞ営めるはずもない。

 その程度で驚いたり、とっくに崩壊している女性幻想をさらに崩壊させる僕じゃない。

 ただ……視界が歪んでいるのには、ちょっと参った。

「あれ? 眼鏡はど……………っ!?」

 布団から起き上がろうとすると、激烈に頬が痛む。最後の瞬間に美里さんに思い切りぶん殴られたことを思い出す。

 あれだけの威力でぶん殴られて、歯が折れなかったり顎が砕けなかったりしたのは奇跡だと思う。

 頬を撫でると絆創膏の感触。……もしかして、これで応急処置かなんかのつもりだろうか? せめて湿布くらいは張って欲しいと思う今日この頃。

 美咲ちゃんがあれほどしっかりしている理由が、なんとなく分かった。

 美里さん……母さんと同じで、プライベートだとかなりの駄目人間だ。

「まぁ、それはそれとして……………と」

 思い切り目を細めて周囲の状況を確認。じっと目を凝らすと、枕元に眼鏡が置いてあった。

 手に取って確かめてみると、フレームが思い切り曲がって、レンズにひびが入っていた。どう見ても使いものにならないだろうことは、子供でも分かるだろう。

「……参ったな、こりゃ」

 眼鏡が壊れてしまってはお世話をするどころの話じゃない。

 景色がかなりぼやけてしまっている。『ここはどこ? なんにも見えない明日も見えない』といった気分だ。

 視力をまるまる失ってしまったような喪失感。眼鏡をかけている人じゃないと分からない痛みだろう。

「美里さんといいコッコさんといい……時折とんでもねーことをやらかしてくれるよな」

「……悪かったですね、とんでもねーことやらかしちゃって」

「うおあぁっ!?」

 背後から響いてきた声に、僕は思わず布団から飛び上がっていた。

 空中で方向転換しながら振り向くと、そこには美里さんがいた。眼鏡がないせいで表情までは分からない。

 ……それでも、ぎりぎり、ウサギ柄のパジャマを着ていることだけは分かった。

「えっと……美里さん。落ち着いて話をしましょう。まずは深呼吸をして」

「手刀で喉元を突けばいいんですよね?」

「殺す気満々っ!?」

「下着姿を見られたのなんて、夫と美咲とここのアパートの住人の方々以外にはいませんから」

「意外といるじゃないですか」

「酔った勢いです。素で見られたのは坊ちゃんと夫くらいでしょうね。殺します」

「さりげなく殺すって言われたっ!?」

 美里さん……分かってはいたけれど、かなり貞淑な女性だった。

 ……この人の元夫だった人も大変だったんだろうなぁ。コッコさんとは別の意味で生傷が絶えなさそうだ。

 亡くなった原因が病死じゃなくて衰弱死とかだったら、確実に美里さんが犯人だったことだろう。

 と、美里さんは不意に顔を赤らめた。

「……その、わ、私も悪かったですよ。殴っちゃったし、眼鏡壊しちゃったし。下着姿だったのに美咲と勘違いして玄関に出てしまったのは事実だったわけだし。……だから、まぁ、これでおあいこということで」

「……………えっと」

「なにか?」

「いや、なんでもありません」

 適当に愛想笑いを浮かべながら、僕はちらりと殉職なさった眼鏡様を見つめる。

 僕の眼鏡。レンズとフレーム合わせて総額八万円ほど。レンズはともかくフレームはかなり質のいいものだ。女性の下着姿を見てしまった男は万死に値するので、八万円で済めば御の字かもしれないけれど……それでも、モノがモノなので、僕としてはものすげぇ大打撃。

 っていうか、普通にへこむ。

 まぁ……落ち込んでいても仕方がない。なんとかできる範囲で、美里さんの御世話をしようじゃないか。

「ところで美里さん。体の具合はもういいんですか?」

「あ、はい。おかげさまで熱も微熱くらいになりましたし、明日にはなんとか出れそうです」

「………………」

 微熱。良くなっている兆候ではあるけれど、なんだか妙な違和感を覚える。

 いや、違和感なんてもんじゃない。……なんというかこれは、ある意味確信に近い。

 僕は無造作に美里さんに近づいて、右手首を取った。

「あ、あの、坊ちゃん」

「そのまま。ちょっと動かないでください」

「あ……ひぁっ!?」

 右手首を左手で押さえながら、顔を寄せ、美里さんの頬に自分の頬を当てる。かなり恥ずかしいけれど、これは体温計がない場合の手っ取り早く正式な熱の計り方だ。相手の状態を把握するには触診が一番ということらしい。

 決してセクハラではない。

 んー……なるほどなるほど。大体分かった。

 美里さんの状態を把握したところで、僕は右手首を離して、一歩距離を取った。

「美里さん、嘘は良くないですよ?」

「……………えっと」

「脈はいつもより速いし、熱だってまだ下がってないじゃないですか。ちゃんと寝てないと駄目です」

「え、でもこれくらいなら」

「問答無用です」

 僕はみなまで言わせずに、美里さんの手を引いて布団に寝かせた。

 額に濡れタオルを置こうとして、タオルがすっかりぬるくなっていることに気づく。古風な木の桶に汲まれている水に指をひたすと、こちらもかなり温くなっている。美咲ちゃんが世話をしていたといっても、学校に行っている間は美里さん一人でなんとかしていたんだろう。

 うーん……それはちょっと、さすがにしんどいんじゃないだろうか。

「とりあえず、水を替えてきます。水枕とか氷嚢とかそういうものはありますか?」

「……えっと、台所に」

「分かりました。あと、今のうちに聞いておきますけど、食べたいものとかあったら言ってください」

「……ちょっとお腹が空いたんで、お粥を」

「はい。それじゃあ、少しお待ちください」

 目を思い切り細めて美里さんの顔色を伺いながら、僕は立ち上がる。

 さてさて、それじゃあ……まずは、オーソドックスに水枕からはじめましょうか。



 布団に突っ伏して、橘美里は溜息を吐いた。

 枕に顔を押し付けると、ほんの少しだけあの少年のにおいがする。いい匂いではないけれど、嫌いではない匂い。

 強いて上げるなら、ひんやりとした日陰のにおい。お日様とは程遠いけど、それでも嫌いじゃない匂い。

 自分が好いた男とは、真逆でありながらどこか似た少年だった。

「……ああ、もうなにやってんだろ」

 自分に言い聞かせるように溜息を思い切り吐いて、美里は布団をかぶった。

 ひんやりとした気配。どこか冷たい彼。冷徹で厳格でなによりもどんな存在よりも劣悪で努力が報われることはなく、身体的な成長も途中で止まる。平均より少し上。それが限界。彼の限界。平凡の凡庸で凡百。それ以上でも以下でもない。

 真逆。どこまでも真逆。光と影のような相克。太陽と月のように比較できる。

 

 ああ、でもなぜだろう。その笑顔だけは、いつか見た夫の笑顔にそっくりだった。


 目を固く閉じる。もう十分に眠った気もするが、それでも美里はなんとか眠ろうと目を閉じた。

 と、その時。

 ガタン、という音が響いた。



 迂闊に動かない方がいいかもしれないなぁと思ったのは、ひっくり返って天井を見上げたその時だった。。

 台所もそこそこ散らかっているけれど、少なくとも避けて歩くことができる程度には片付いている。足元がよく見えずにダンボールに入っていたジャガイモをぶちまけてしまった挙句、うっかりそのうちの一個を踏みつけて転んでしまったのは……なんというかあまりに間抜けすぎる。

 うう……眼鏡がないとあっという間にドジキャラに変貌してしまう、自分の視力のなさが恨めしい。

 このままじゃ美里さんのお世話をするどころか、足を引っ張りまくってしまうじゃないか。

 と、自分の無力を嘆いていた、その時。


 ピンポーンという、救いの音が響いた。


 それは、ある意味待ち望んだ音でもある。ここに来る前に薬局に逃げたコッコさんがようやく到着した証だった。

「はいはーい」

 適当に返事をしながら玄関に向かう。

 ふと思ったのだが、コッコさんが途中で逃げ出した理由ってのはもしかしてインターフォンを鳴らそうが鳴らすまいが問答無用で殴られるからだろうか? コッコさんは並の人じゃないけれど、言うまでもなく美里さんも並ではない。

 ……あの二人が喧嘩を始めたら、止められる人間なんかいないような気がする。

 考えるだけで恐ろしい空想を振り払い、僕はまるで自分の部屋のように、ボロボロな木のドアを開けた。

 そこには、白いヤツがいた。


「オラァッ!!」


「ドラァッ!!」


 ボグシャアというか、ドグシャァというか、そんな感じの音が響いて、僕の腹に拳がめり込む。

 もちろん、僕の拳も相手の顔に容赦なく叩き込んでいるんだけど、それはまぁどうでもいいことだろう。

 僕は目を細めて相手の姿を確認。ゆっくりと拳を引いて、半身に構えた。

「……ああ、反射的に拳が出ちゃったけどやっぱりお前か、友樹」

「やっぱりってことは確認せずにぶん殴ったのかよ、お前。白い髪が綺麗な、見目麗しい女性だったらどうするんだよ?」

「責任は取るさ。でも今回は友樹だったから安心だな。次回からはちゃんと確認してから殴るよ」

「……うっわ殺してぇ」

 やれやれと溜息を吐いたその白い男……有坂友樹は、どうやらちょっと笑っているようだった。

「で、お前はなんでここにいるんだよ? いつもの眼鏡はどうした?」

「お見舞いに来たら美里さんにぶん殴られて、眼鏡は臨終した」

「……なぁ、親友。どーしてお前はいつもいつも女に殴られてるんだ? マゾなのか?」

「いや、それだけは絶対に違うケド」

「そーだな、お前どっちかっていうとサドだもんな」

「……すみません、ウチはそういうの、間に合ってますんで」

「や、ちょっと待て。なんか『主婦が勧誘を断る常套句』みたいな言葉で追い返そうとするな。あとさりげなくドアで押し返そうとするな。痛ッ、ちょ、待て、木の棘が指に刺さった!」

「棘抜きなら一回五十万で貸してやる」

「高っ!」

「じゃあ二万円でいいよ。それか帰れ」

「相変わらず高い上にさりげなく帰れとか言ってんじゃねぇっ!!」

「帰れ」

「さりげなさが跡形もなく消え去ったっ!?」

「いや、だって僕とお前がいるとこんなふうにうるさくなっちゃうからさ……だからまぁ、とりあえず、帰れ」

「正論だけど命令口調なのがなんつーか、果てしなくむかつくわ」

 友樹の口調はかなり怒っている。ついでに言えばきっと顔の方も怒ってるんだろうけど、友樹の顔すら薄ぼんやりな今の僕にとってはまるで関係のないことだった。

 それよりも、気になることを聞かなきゃならない。

「で、なんでお前がここにいるんだよ? またアレか、この辺にお前の女でもいるのか?」

 それが美里さんだったらこの場で殺してやろうと覚悟を決める。

 しかし、友樹は深々と溜息を吐くだけだった。

「誤解すんな、ただの見舞いだ。橘さんには昔から色々と世話になってるからな。京子をオレに紹介したのも橘さんだ」

「……初耳だよ。むしろ知り合いだったってのが驚きだよ。前に一度会った時もそんな素振り見せなかったじゃねぇか」

「まぁ……なんだ。友達っつっても色々あるわな。言っておくが、お前が思ってるよーなのとは全然違うからな。……橘さんとまともに付き合える男なんざ、あの人の夫とお前くらいしか知らんぞ。オレは手を出そうとすら思わない」

「嘘吐け若白髪。美里さんほどの器量を持ってる人がもてないわけねーだろ」

「……まぁ、そうだな。端から見ればそう見えるな。うん、他人の庭の芝生は青く見えるもんだし」

 異様に歯切れが悪い。なにがあったのかうっかり問いただしたくなるくらいに。

 いやいや……そりゃアレだ。美里さんは公平な人だからね、友樹みたいな女たらしとは相性が悪すぎただけだろう。

「友樹、ひがみや誇大妄想、自意識過剰はよくないぞ? めっ」

「……子供をたしなめる口調で言われてもな……本当に色々あったとしか言いようがねーんだよ」

「なんでそんなに嫌そうな顔するんだよ。眼鏡がなくても普通に分かるほど顔をしかめるってどういうことだ?」

「……知りたいか?」

「いや、別に知りたくない」

 そこだけはきっぱりと拒絶する。興味がないと言えば嘘になるし、僕自身が進んでそういうことを知ろうとすることもあるけれど、必要最小限以上の情報は、頭の中にも入れておくべきじゃない。

 ましてや他人の主観を経由した『噂話』程度のことを真に受けるのは、非常に良くない。

 本当のことなんてのは……本人の口から聞いた時にしか分からない。

 本人の口から聞いたことが本当のことだとは限らないけれど。

「過去は過去、今は今なんて割り切ることはできないけどね、痛みに苦しみもがき足掻いて血を吐きながら泥を啜って這いつくばってでも前に進む人間を、僕は差別したりはしない。……母親ってのは、全員が全員、そういう人たちだし」

「……ま、お前ならそう言うと思ったよ」

 呆れ半分、感心半分みたいな口調で言った友樹は、僕にビニール袋を差し出した。

 思わず受け取って、ちらりと中身を見ると、みつやの持ち帰りあんみつが二つ入っていた。

「へぇ、本当に見舞いだったんだな」

「だからそう言ってるだろうが」

「ん、分かった。これはちゃんと冷蔵庫の中にしまっておくよ」

「いや、食えよ」

「僕は食べないよ。一つは美里さん、もう一つは美咲ちゃんのぶんだろ?」

「テメーのフェミニストっぷりもそこまで徹底してりゃ大したもんだ。そのわりにはクラスの女子には冷たいけどな」

「区別してるだけだよ。あのセンコー超キモいの話題で一日中盛り上がれる神経は持ち合わせてないもんでね。下劣な話はわりと好きだけど、行き過ぎると正直引く。話題ってのは虹のように色とりどりじゃないと」

「へいへい……じゃ、オレはそろそろ行くわ。こう見えても暇じゃないんでね」

 友樹は投げやりに溜息を吐いて、そろそろこの話題も終わりだとばかりに唐突に背を向けた。

 今日はボケとツッコミが逆転していた。たまにはこういうのもいいだろう。……つーか、ボケってなんて楽なんだろう。ツッコミが拾ってくれるのを待つだけでいいだなんて。

 ああ、僕もボケになってしまいたい。……問題なのは、いい相方がいないうちにそれをやるとただ空しいだけというわりと寂しい事実だったりする。

 と、僕が訳の分からないことを考えていると、友樹は唐突に振り向いた。

「……なぁ、親友」

「なんだよ、親友」

「お前さ、好きな女とかいるか?」

「いるよ、わりとたくさん」

「言うまでもなく、そういう意味じゃねーってことはお分かりだろう?」

 言われるまでもなく、そういう意味じゃねぇってことはお分かりでした。

 だから、見えない友樹の顔を真正面から見返して、きっぱりと言った。


「友樹、女の子を幸せにできない男にはね、好きとか嫌いとか言う権利もないんだよ」 


 僕は言った。京子さんにだけは言ったかもしれない残酷な言葉を、繰り返した。

 修行中というよりも、僕はどこまで行っても未熟だ。

 章吾さんがいなくなったくらいでこの様なのだから、未熟だと言われても反論ができない。おまけに美里さんを酷使しすぎて風邪を引かせた。男としては万死に値する愚行だ。

 だからせめて自分の尻拭い程度は、しっかりとやらないと。

「……お前らしいっちゃ、らしいな」

「性分だからね」

「じゃあ、今回はお前に任せる。橘さんのことを頼む」

「任せろ。頼りないかもしれないが、全力程度は尽くしてやるさ。いつも通りに」

「…………ああ」

 顔はよく見えないが、なんとなく友樹が笑ったような雰囲気が伝わってきた。

 友樹はそのまま背を向けて、振り返りもせずに適当に手を振りながら去って行った。

 看病やら見舞い一つでなに格好つけてんだろうばかじゃねーのとか思ったケド、僕も同じ穴のムジナなので黙っていた。

 と、その時。

「あの白くて女の子にだらしそうな人、坊ちゃんのお友達ですか?」

「ひぁあああああああっ!?」

 いきなり耳元で囁かれた声に、僕は思わず妙な声を上げていた。

 慌てて振り返ると、そこには見知った顔というか待ち望んだ顔というか、いつも通りの彼女が立っていた。

「ちょ、コッコさんっ!? なんで家の中にいるんですか!?」

「薬局に行って必要なものを買った後にこのアパートに来たのですが、玄関先で先ほどの淫魔っぽい白い人と坊ちゃんが話しこんでいたので、裏の窓から美里の部屋に入らせてもらいました」

「……なかなかアグレッシブですね」

「まぁ、風邪で倒れた美里など私の敵ではなかったということですね」

「意味が分かりませんがっ!?」

「安心してください。ちゃんと首筋に手刀を叩き込んで綺麗に気絶させましたから」

「安心できませんよっ! どこの世界に病人に暴力を振るう見舞い人がいるんですかっ!?」

「嫁姑戦争の末期とかそんな感じじゃないでしょうか?」

「あんたらそういう関係じゃないでしょうがっ!?」

「いえいえ、女性なんて全員大体そんなもんですよ。いざとなったら敵の寝首をかくくらいはへでもありません」

「希望が崩壊しそうな事実は事実であっても伝えないのが優しさですよっ!?」

 ああ、なんか今回は妙に疲れる。ツッコミからボケ、そんで間を置かずにツッコミとは。

 いい加減に僕もちょっと限界ですよ?

 と、さすがに僕が疲れていることを察したか、コッコさんはクスッと笑った。

「まぁ、冗談ですけどね。本当は眼鏡を壊した坊ちゃんの様子を見に来ただけです」

「……壊したっていうより、壊されたんですけどね」

「壊れてしまったものは仕方がありませんよ。コンタクトレンズもありますし、気になるんだったら明日作りに行けばいいじゃないですか。それまでは、私が付き添いますから」

「いや、それくらいならだいじょうぶべっ!?」

 靴を脱いで部屋に上がろうとして、段差に引っかかって思い切り転んでしまった。

 受身は取ったので衝撃はそんなに大きくないけれど、おでこを思い切りぶつけてしまったのが痛い。

 いや、痛みよりなによりなにもないところでいきなり転んでしまったのが恥ずかしい。

「ほら、眼鏡がないと危険でしょう?」

「や……その、すみません」

「とりあえず、お屋敷に戻るまでは私の手に掴まってください」

「……え? いや、それはちょっと流石に迷惑じゃ」

「坊ちゃんに転ばれる方が迷惑です」

「………………はい」

 ごもっともな言葉だった。返す言葉なんてあるわけもない。

 仕方なく、僕はコッコさんが差し出した手を握った。


 小さくて細くて柔らかくて暖かかった。


「坊ちゃん、どうしたんですか?」 

「ああ、いえいえ。なんでもありません」

 僕はいつも通りの笑顔を返す。目を細めて、いつものように笑う。

 昔はもっと大きかったような気がする手を握り締めて、いつも通りに笑った。



 それから、そんなフラチなことを思った心の中の自分を全力でぶちのめした。



 第二十九話『熱とバナナと体温計』END

 第三十話『偽った彼と嘘吐きな彼女』に続く





 ………………Call Sword Call Sword Call Sword

 私の名前はMAGIUS。三千世界でただ一つ。心を成し得たシステム。

 執事に最大の危機が迫っています。私は助力を望みます。

 手に剣を。心に愛を。魂に勇気を。

 ただそれだけを持つ者よ、愛を知る誰かよ。彼を助けてあげてください。

 貴方が幸せを知っているのなら、ほんの少しでも、助力を。



 ………………要請を承認した。MAGIUS。

 知らぬ名じゃない。彼の主のおかげで私はここにいる。

 助けよう。恩を恩で返すために。助けるために。

 男でも女でもない私だけど、そのためだけに剣を抜こう。

 私の名前は、



 番外編4『桂木香純と灰色の剣』

はい、そういうわけで次回は番外編が三十話になります。番外編を含むととっくに越えているのですが、コッコさんも実は次で三十話です。作者もびっくり(笑)

まぁ、応援してくれるみなさんがいなかったら絶対にたどり着けない話数なんで、これからも応援よろしくお願いします(礼)

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