第二十七話 彼が執事になった理由
リミッターカット中。携帯の人はよほどの覚悟が必要です。
いついかなる時も、服装を正しなさい。
誰かの話をしよう。
あるところに一人の女の子がいた。彼女は暖かい家庭に生まれ、健康でよく笑う女の子だった。
けれど、彼女の幸福は唐突に終わりを告げた。家族はみんないなくなり、彼女も重傷を負った。
もう二度と人並みのようには生きていけない体になってしまった。足は思ったように動かず、体は自由にはならず、自分への優しさをどこかに置き忘れた彼女は、だからこそ人に優しくなった。
自分の生きる意味を探すように、彼女は死と戦いながら生き続けた。
いつか朽ち果てる体と、いつか終わる命を抱えて、そんなものは誰だって一緒だと思っていた。
彼女はいつだってそうやって意地を張って生きてきた。どんなことがあろうと屈さず、ただ己が生き続けるために意地を張り通した。前を見据え、無理矢理に笑いながら、彼女は歩き続けてきた。
それでも彼女は死ぬ。ご都合主義などこの世界には存在しない。
実力差はどうしようもない。相手が何倍も強ければ勝つことはできない。
結果は覆らない。もう終わったことはなにをしてもひっくり返ることはない。
一発逆転なんてない。そんなものは最初から存在していない。
奇跡は起こらない。最初からそんなものがあるのなら人はもっと幸せだ。
結局のところ、この世界というものはそういうもので構成されている。いくら一発逆転の活劇が好きだろうがなんだろうが、そんなモノは絶対に起こらない。奇跡的な結末など存在しないし死ぬ時は絶対に死ぬ。
ご都合主義の奇跡的展開。そんなモノは、虚構の中でしか起こらない。
それを、納得できない誰かがいた。
それは奇跡じゃないし一発逆転でもない。
それは一発逆転や奇跡に最も近いモノだ。
人が最も忌み嫌う血と汗と泥の果てにそれは存在する。ご都合主義などではなく、奇跡なんかでももちろんない。
それはそんなに輝かしいものではない。
伝説などという人が憧れるものでもない。
神話などという過ぎ去ったものでもない。
最終防衛機構などという最後の最後の大逆転でもない。
ただ苦しみを乗り越えた時、それは結果として現れるだけのことだ。
其の名を、努力という。
誰かの話をしよう。
それは人が全てを踏み越えるために備えた唯一。一つの目的のために己を鍛え上げた存在。
完璧な紅茶を煎れ、
完璧な仕事をこなし、
完璧に主を補佐する、
それはただそれだけの努力を積み重ねてきた誰かである。
その誰かを、人は『執事』と呼んだ。
誰も入ることのない少年の部屋に、今日は不法侵入者が三人いた。
柔らかなベッドに転がされているのは、なぜか手足を拘束されている京子と美里で、苦笑しながら見張りをしているのは灰色の髪の少年のように見える彼だった。
見えるというのは言うまでもない。彼は子持ちの妻帯者で、ついでにサラリーマンでもある。
「まぁ、僕としても不条理なことこの上ないよ? 今回の『絶望』ってのは僕と似たような人で、色々と苦労を積み重ねてきたみたいだからねぇ。でも今回は仕方がない。こういう力技は本当は得意じゃないだけど、僕としては二人に登場してもらうわけにはいかなかった。……ま、事情は色々あるからここじゃ説明はしないけど」
「うるせぇ馬鹿。死ね。死にまくれ。もう二度とあたしの前に現れるな。死ね」
「手首が痛いんですけど。あと、娘が心配なんでそろそろ帰ります。ついでに死んでください」
「死ねと言われて死ぬ人はそういないとは思うけど……やっぱり嫌われてるねぇ」
男は苦笑しながら眠そうに欠伸をする。
「しかしなんていうか……いい眺めだねぇ。うん、やっぱりメイドさんはベッドに寝かされてこそだ」
「死ね。メイドマニア。アイツに報告してやるからな」
「とりあえずメールは出してておきました。あと十分くらいで来るはずです」
「あっはっは……十六年前くらいから分かってたけど、女の子って本当に容赦ねぇなぁ」
男は砂漠のごとき乾ききった笑顔を浮かべる。
「けど、男としてはそういうのは見逃せないな。今生まれつつあるものが、いくら君たちの世界を壊しかけた存在の一部だとしても……強すぎる君たちに勝手な真似をさせるわけにはいかないね」
「……お前が言うのかよ、それを! あたしたちの世界をあんなにしておいてっ!」
京子は男を睨みつける。その視線は敵意と殺気に満ち溢れていた。
男は軽く笑って、それを受け流す。
「当然だ。そんなコトは言うまでもない。僕が『元絶望』だろうがなんだろうが、それとこれとは別の問題さ。僕は僕のやりたいようにやる。最強とか伝説とかそんなモノは関係ない。僕は僕のために嘘を吐く。僕に関係のない人間なら何億人だって『自分のために』犠牲にしてやるさ。奥さんのためなら世界の一つや二つは食い潰し、息子のためなら伝説だって利用する。もしも娘がいるんだったら世界中を叩き潰してでも娘に奉仕させよう。……利用されたくなかったら賢く強くなればいい。それだけのことができないのなら死ねばいい」
「…………テメェ」
「目くじら立てるなよ、『伝説』。相手はたかが『絶望』だ。そんなモノはどこにでもあるし、どこにでも存在する。そんなチンケなものに負けるほど人間は弱くない。……そう、世界で一番おっかないものは絶望なんていう曖昧なものじゃなくて、全てを包み込む奥さんの愛だったり、思秋期の息子だったりするわけだね」
いつも通りと言わんばかりに男は肩をすくめて、傍らに置いてあった小さなハンドバッグを持って立ち上がる。
「さて、それじゃあ僕はそろそろ次の場所に行くよ。息子が帰ってくれば紳士的に拘束を解いてくれると思うから、それまでは辛抱して欲しい」
「………ちょい待てコラ」
「なに?」
「………その間にトイレに行きたくなったらどーすりゃいいんだよ?」
切実かつ切羽詰った疑問に、男は初めて考える素振りを見せた。
腕を組んで中空を見上げ、ぽつりと呟く。
「……ま、それはそれで」
「ちょ、馬鹿かお前っ! いくら馬鹿でも程度ってもんがあるぞコラァ!」
「じゃ、そーゆーことで。ばいびー♪」
「ばいびーじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
わりと切羽詰った京子の叫び声は、少年の部屋にいつまでも響いていた。
携帯電話が鳴ったのは、美咲ちゃんの機嫌を取るためにみつやのケーキバイキング三人分を頼んだ時だった。
一瞬切ってやろうかとも思ったけど、携帯から響いてきた悪趣味な音楽には心当たりがある。ちょっと昔のレトロなゲームの中ボス的存在が出てくるときに流れていた曲。
どうやら、これから嫌なことが起こるらしい。
二人に「ごめん、ちょっと席を外すね」と言って席を立ち、僕は拳銃の抜き打ちのような速度で携帯電話を取った。
「もしもし?」
『やぁ、少年。久しぶり』
首筋を舐めるような女性の声に、背中が総毛立つ。
や、別にそんなに警戒しなくてもいいはずなんだけど、いつまで経っても慣れない。
僕はゆっくりと息を吐いて、電話の相手に問いかける。
「久しぶりですね、あくむさん。いつもはメールで済ます貴女が電話とは珍しいですね?」
あくむ。物騒なことこの上ないが、僕は彼女のことをそう呼んでいる。
知り合いの知り合いというか知り合いにーちゃんの『彼女さん』というか、そんな感じなのだけれど、その知り合いのにーちゃんもなかなか変なヤツで、彼がいない間は僕が彼女の世話を焼いている。
当然世話を焼いているぶんの報酬はもらっている。ギブ&テイクってやつだ。
報酬と言ってもお金とかそういう『物』じゃない。僕がもらっているのは『情報』という、目には見えないけれどこの上なく恐ろしいものだ。僕が株で勝ったりできるのも、ひとえに彼女の情報があるからに他ならない。
そんな彼女は裏の世界では物騒なあだ名がついていたりするけれど、そのへんは僕の知ったことじゃない。
僕が知っているのは、彼女が超一流をはるかにぶっち切った『ハッカー』という事実だけ。クラッカーと言い換えてもいいけれど、一般人にとってはどっちも同じようなもんだ。
「で、何の用ですか? 今日の僕はちょっぴり忙しかったりするんですが」
『ボクだって暇じゃないが、緊急の用件だからね。ついでに彼の頼みだから仕方のないことでもある』
「……んー。ってことは、相変わらずってことですか?」
『仕方ない。彼は忙しいしボクも忙しい。ただ、その程度でボクの想いは揺るがないってだけのことさ』
電話越しに聞こえる声には、隠し切れない怒りがこもっていたりする。
やれやれ……なんで僕が『男と女のラヴげぇむ』を円滑にせにゃならんのだろうか? 今だに色々と謎が残るところではあるけれど、彼女が提供してくれる情報はこの上なく有益なので、それはそれで仕方ない。
「……今度『彼女が寂しがってました』ってオブラートにくるんで伝えておきますね」
『……ん、アイツは君の言うことならそこそこ聞くからね。必要はないと思うけど頼む。アイツはボクがいないとグダグダになるくせに、いっつもボクを放置するんだ。鬼とか妹とか従妹とか幼馴染とかが大事なのは理解できるけど、少しはボクのこともかまうべきだと思う。ボクはたとえるなら、核兵器を所有してるうさぎさんなんだから。寂しいとスイッチを押しちゃうぞ?』
「うさぎはそんな凶暴なことはしません。愚痴ならなんぼでも聞きますんでそれだけはまじでやめてください。あと、今度掃除に行きますんで、なるべくなら身の回りを整頓しておいてもらえると助かります。この前みたいに『女性向け同人誌百冊がベッドの下に』とかやられると、いくら温厚な僕でも100%のフルパワーでブチ切れるんで」
『……君って意外と潔癖症だからねェ』
「普通の反応です」
憮然としながら言い放ち、僕はゆっくりと溜息を吐いた。
「それで、用事ってのはなんですか?」
『ああ、君の屋敷の執事クンが今日デートしてた女の子のことなんだけどね』
「要さんがなにか?」
『飲まれた』
その言葉だけで、なにがあったのか理解した。
目を閉じる。ゆっくりと息を吐く。そして、三秒で決意を固めた。
「……彼は来れないんですか?」
『無理』
「なにか手立ては?」
『ないね。こっちも手を回したけど、なんだか人為的な妨害をされているらしい』
「……分かりました。なら、こっちで対処します」
『ああ、急げばまだ間に合うはずだ。健闘を祈っておくよ』
「祈るだけですか?」
『みつやから歩いて三分の公園にある入り口から三番目にあるトイレの壁を思い切り殴りつけると、なぜかキーボードが現れる。そこにパスワードを打ち込むと近未来的にギュイッと壁が反転して、中から《切り札》が現れる。もちろんのことながら切り札だから扱いは滅茶苦茶難しい。説明書は添付しておいた、上手く使ってくれ。ちなみにパスワードは『いわみへちおふちつんほをてろ』だ』
「……あくむさん」
『なんだい?』
「今度、なんか奢ります」
『それじゃあ熱々のピッツァを手作りで』
「得意料理です。ナポリピッツァとかになると専用の釜と職人がいないと作れないんですけどね」
『そりゃすごい。……なら、ボクもちょいと全力を出しちゃおうかな』
「……絶望ごときに負ける気はさらさらありませんがね」
『その通り。本当に怖いのは絶望なんかじゃない。本当に怖いのは』
「人間、ですよね?」
『ご名答。それじゃあ名残惜しいがそろそろ電話を切ろう。……死ぬなよ、少年』
「ええ」
プツ、という音を残して電話は切れた。
ゆっくりと溜息を吐く。やれやれだ。本当にやれやれだ。……本当に、怖いのは絶望なんかじゃない。
「………………くそったれ」
携帯電話をポケットに放り込みトイレに直行。トイレの窓を開けて外を見る。
三メートルを飛んでビル伝いに歩けば、二分で公園に着く。落ちれば骨折間違いなし。
一秒で決断した。
僕は窓枠に手をかけて、一気に跳躍した。
夕日が空に沈む頃、猫がにゃーんと鳴いていた
まるで猛獣のように、橙色に染まる空に向かってにゃーんと鳴いていた。
人には届かぬ声で鳴いていた。まるで戦争前の雄叫びのように鳴いていた。
いついかなる時もそれはあった。人が忘れてしまっただけのことを、猫たちは知っていた。
鳴いている猫たちは一人の男にあることを訴えていたのだが、その男は今日に限って呑気に歩いている。
「……今日は猫の集会でもあるのか?」
その男。新木章吾は帰り道をいつにも増してゆっくりと歩いていた。手にはコンビニのビニール袋と肉まん。なんとなく、ふとそういうものが食べたくなったのである。
高校の頃はよく食べ歩きをしたもんだと思って、ついつい悲しいことまで思い出す。
自分には関係のないことだと最強の彼女は言った。確かにそれはその通りだ。知らないことをどうにかすることなど誰にもできない。知らないのだからどうしようもないのだ。
だが心は訴える。それがどうしたと。そんなものが関係あるのかと。
いつだって友達感覚でまとわりついてきて、しょーちゃんしょーちゃんと言いながら輝くような笑顔で笑って、いつしかそれは自分に心配をかけないようにするための演技になって、最後は死に顔すら見せずに彼女は死んだ。
最後の言葉は「じゃあね、ばいばい」で、それすらもありきたりで当たり前な別れの言葉の一つでしかなかった。
彼女は最後まで嘘を突き通した。違和感一つなく章吾と友達でいた彼女は、彼に違和感一つ抱かせることなくこの世から去った。
そのなによりも悲壮な覚悟を、章吾は見抜くことができなかった。
「………………」
肉まんを食べ終わり、ビニール袋の中に紙くずを放り込んで、章吾は頭を振って気分を切り替える。
いっそのこと酒でも買っていこうかと思わなくもない。そうすれば多少は気分も紛れるだろう。
「ジャンクフードはともかく、酒はよくねぇな」
不意に響いてきた声に章吾は振り向く。
そこにいたのは白髪とピアスの、背中にリュックを背負った超絶美形の男で、章吾は彼の顔に見覚えがあった。
「よう、執事さん。初めましてと言った方がいいか?」
「いや、貴方のことは坊ちゃんから聞いてる。……まぁ、最低から一歩手前くらいの評価だから口には出さないが」
「口に出してくれてもいいぜ。アイツが言うことは大体事実だからな。否定はしねぇよ」
有樹の軽口に、章吾はなぜか渋面になって、あからさまに目を逸らした。
「…………それで、君は私になんの用なんだ?」
「ちょい待て。なんだ今の間は。アイツ普段どんなこと言ってんだ? めちゃめちゃ気になるんだが」
「基本的に老若男女おかまいなし、ってところか」
友樹は思い切り顔をしかめた。
「……すまん。否定させてくれ。オレは男は絶対に嫌だし、若い女が好きだ」
「……そうか。いや、疑ってすまない。坊ちゃんの言うことは時々異様なまでに信憑性が高いからな。嘘か本当か分かり辛いんだ」
「あっはっは……あの野郎、後で殺す」
友樹は物騒なことを呟きながら、とりあえず心の中で親友を八つ裂きにしておいた。
(ったくよぅ、なんでオレがこんな嫌な役目を。……こーゆーのこそアイツの役目だろうが)
心の中で愚痴を言いながら、それでも絶対に口には出さず、友樹はふところからあるものを取り出した。
それはA4サイズの紙がきっちり収まるクリアファイルだった。
友樹はそのファイルを、章吾に差し出した。
「ほらよ」
「……なんだこれは?」
「読めば分かる。そこに書かれているのは最悪極まりない現実だがな」
「………………」
章吾は躊躇しなかった。友樹からファイルをひったくるように受け取って、職業柄の癖なのか中の書類を傷つけないように丁寧にめくりながら読み進めていく。
表情は変えなかった。
最後の一ページを人差し指で弾き、章吾は友樹を睨みつけた。
「で、これがどうした?」
「……それはこっちのセリフだぜ。なぁ執事さん。アンタはこれを見てなんとも思わないのか?」
「思うさ。しかしそれがなんだ?」
章吾はファイルを友樹に返しながら、きっぱりと言った。
「なんとか止めてやりたいと思う俺の感情などに意味はない。彼女は意地を張った。意地を張り通した。歩くのも困難になりつつある足で、動くのも難儀になりつつある体で、それでも俺と共に出かけることを選んだのだ。……それを、なぜ止められる?」
「………………」
口を閉ざす友樹に対し、章吾は忌々しげに顔をしかめていた。
「そんな『診断書』なぞ読まなくても、彼女の調子が悪いのは知っていたさ。だがな小僧、意地っ張りというものは張り通すべき『意地』があるからこそ『意地っ張り』なんだよ。張るべき意地をなくすのが、死ぬより辛い人間だっている。……彼女は間違いなく死ぬよりも張るべき意地を守り通す人間だろう」
「……本当にそう思うのか?」
「いいや、全然」
あっさりと前言を撤回した章吾に、友樹は思い切り肩をコケさせた。
「……どっちだよ?」
「正解はどっちでもあるしどっちでもない。……単純なことさ。人は誰かがいないと意地を張ることもできない」
「………………」
「そういうことだ。人は独りでも生きられる。しかし『独り』の人間は弱い。どんなに強くなろうが、独りでは己の運命一つ変えられない。強く振舞うことすらできない。……さて、小僧。俺は一体どうするべきだったんだろうな? 無理矢理にでも彼女を帰すべきだったのか、それとも今の選択が正しかったのか……俺には、分からないんだ」
章吾は目を細めてそんなことを言った。
その言葉は章吾にしては珍しく茫洋としたものだった。
「……やれやれ」
友樹はゆっくりと溜息を吐いた。彼にしては珍しく、感心しているような響きの溜息。
「なんでアイツはこう、人を見る目だけは肥えてるのかねぇ……」
「なにか言ったか?」
「いや、別に。……あんたは合格だって言いたかっただけさ」
友樹は苦笑を浮かべながら、章吾にリュックを手渡した。
「なんだこれは?」
「餞別だ。くれてやるからさっさと行け」
「意味が分からんが?」
「要の所に行ってやれと言ったんだ。執事、お前は死の淵にいる女のところに行くことすらできないか?」
「………………」
章吾は一瞬で無表情になると、己を見据える白い髪の少年を睨みつけて、胸倉を掴み上げた。
「馬鹿かお前は。つまらん御託を並べるな。……そういうことは一番最初に言え。誰が躊躇なぞするか」
言葉はそれだけで十分だった。
章吾は友樹から手を離すと、リュックを背負ってものすごい速度で走り出す。友樹のことなど最初から眼中になかったかのように、脇目も振らずに走って、あっという間に見えなくなった。
その背中を見送って、友樹は目を細めて溜息を吐いた。
「……おい、あれでいいのかよ?」
「じゅーぶん。猫の代役ごくろーさん」
幼さを残した舌足らずな声が響く。
物陰から現れたのは、端正な顔立ちだが頬に傷のある少女。サングラスに茶髪、皮のジャケットにデニムのジーンズという服装の彼女は、右手だけに黒皮の手袋を身に着けている。
友樹は気配も悟らせなかった彼女を見つめて、ポツリと呟いた。
「……いいのかよ? 会わなくて」
「いーのさ。しょーちゃんにはしょーちゃんの道がある。それは私とは合わなかっただけのことやね」
「好きなのにか?」
「好きだからずっと一緒にいられるなんつー発想は子供しかしないよ。セツナちんだって、鞠ちゃんだって、私だって好きで君と一緒にいるケド、それは永遠に続くものだとは思わないほうがいいね。あ、ちなみにセツナちんについては第十四.五話参照っつーことで」
「……なにわけのわかんねーこと言ってんだ?」
「気にしない気にしない。ちっさくて可愛くて嘘吐きな恩人かつ語り部になり損ねた師匠の受け売りってやつさね。なんせ私は『傍観者』だからね。みーてーるーだーけー、故になにもかもを識りそれでも口は出さない、みたいな?」
サングラスの彼女は友樹にそう言い放ってから、口元だけでにっこりと笑った。
「ところでゆーちゃん、さっきびびってたっしょ?」
「……そーだな。胸倉掴まれた時はあまりに怖くて小便ちびるかと思ったよ」
「しょーちゃんは話が長いのが嫌いだからねェ。『要点だけを簡潔に言え』が小学校の頃の口癖だったし」
「嫌な小学生だな。……絶対に友達になりたくねぇ」
「君の言う『あいつ』っていうのも、私としては絶対に友達になりたくないけどね」
あまりに正直かつ反論できない真っ直ぐな言葉に、友樹はなにも言えなかった。
仕方なく溜息だけ吐く。
「仕方ねーだろ。なっちまったんだから」
「そういうもんだね。業や縁ってのはなかなか自分じゃ思い通りにならないもんだし。……そういう意味では、しょーちゃんの言うことはズバリど真ん中のストレートだよ。運命は自分じゃどうにも動かせない。独りじゃ強く振舞うこともできない。……けれど、『他人』が干渉してくれれば運命を変えることはできる。強くもなれる」
サングラスを指で押し上げながら、傍観者のようなそうでもないような、曖昧な立ち位置の彼女は笑った。
「しょーちゃんならバッドエンドだってなんとかするさ。なんせ、私が惚れた男だかんね♪」
「はいはい……ま、あの男なら大抵のことはなんとかしそうだけどよ」
「さてさて、そういうわけだから必要のない登場人物はそろそろ退場しましょーか。そろそろ場面チェンジだから」
「だから、なんの話だよ? 時々お前が言うことはわけわかんねーよ」
「傍観者はなんでも識ってるのさ」
「……15×3は?」
「72くらい」
「……寿司でも食うか。マグロの頭とかアラ汁にしてる店ってどこか知らねぇか?」
「街中にあったと思うけど……なんでまぐろの頭?」
「ドコサヘキサエン酸こと通称DHAは頭にいいらしいから」
「あんただかどこさえん酸? なにそれ?」
「……や、なんかもういーや」
がっくりと脱力しながら、友樹は半眼になって歩き出す。
友樹が半眼になっている時は大抵不機嫌な時だった。学校から戻ってきた時は彼曰くの『あいつ』と話せて大抵ご機嫌だったりするのだが、付き合っている誰かに口喧嘩で負けたりすると途端に不機嫌になるのだった。
どうやら、自分がどう足掻いてもどうにもならないことに理不尽とかそういうものを感じているらしい。
今の場合は、章吾に圧倒されたことだとか。
彼女はそれを知っていた。そしてそういう友樹を馬鹿だと思うと同時に好ましくも思っていたから、にやりと悪魔的に笑って、友樹の背中に思い切り抱きついた。
友樹の顔色が真っ赤になった。
茜色に染まる空の下で、それなりに楽しい痴話喧嘩が始まった。
面倒くせぇなぁと思いながら、死神礼二はいつも通り戦場に立っていた。
硝煙や血の匂いはしない。死人も出ていないし、現状では『排除認定』の敵が二人いるだけである。
今回の相手は一つの世界を丸呑みにするという『絶望』という話だったが、敵の正体を聞いた時点で死神は凶悪なまでにやる気を無くしていた。元々、自分の仕事を『仕事』と割り切っている男である。基本的に自分の『本業』があまり好きではないのだった。
それでも、家族を養うためには自分が働くしかないのであるが。
「もしもーし、タイチョー。聞こえてるかー?」
『聞こえています。目標地点に到達しましたか?』
「ああ、まーな。とはいえ、まだ若干の距離はあるけどよ」
ちらりと見た先にはそこそこ立派な教会が建っている。礼二にとっては思い入れは全くない場所なので特に感慨は湧かなかった。ただ『もったいねぇなぁ』と思っただけである。
『とりあえず、死神さんには切り込み隊長をお願いします。私たちは後詰めということで』
「突っ込んで好きに暴れろってことか?」
『そういうことになります。貴方の人格や性格はまるで信用していませんが、戦闘能力だけは絶大な信頼を置いていますから』
「へいへい。そりゃありがてぇこった」
『……大体、貴方は毎回毎回任務の度にめんどいとかやる気出ねぇとか文句が多すぎるのです。その言葉を強制的に聞かざるを得ない私たちの気分などおかまいなしで』
「仕方ねーだろ。元々やる気なんてねーんだから。大体俺は好きで死神になったわけじゃねーし。ただ兄妹で一番年齢が適正で、一番人やら化け物やらを潰すのに長けてただけのこった。若い頃はそれでも自分は無敵なんだみたいに調子こいて『異形狩り』に精を出したこともあったがな、今じゃ面倒なだけさ。……ま、仕事は仕事だから、文句言いながらでもやるがね」
『……その文句が不謹慎だと言っているのです』
「オーケー。それじゃあ今度からは20%減くらいにしておく。その代わり仕事が終わったら愚痴に付き合え」
『…………分かりました。それくらいは付き合いましょう』
「よし」
ちょっと満足そうに頷いて、死神は手に持った大鎌を握り締める。
「……じゃ、そろそろ行くわ」
『はい。御武運を』
「ああ」
前置きは長く、別れの言葉は短く、死神は携帯の電源を切った。
「で、お別れは済んだ?」
響いてきた声は、教会の門を守るように立っている女の声。
先ほどまではそこにはいなかった女。礼二は教会をずっと見張っていたつもりだったが、その女はいつの間にかそこに『出現』していた。
しかし、礼二は特に驚くこともなく、携帯をポケットにしまって退屈そうに欠伸をした。
「……あー、アンタがアレか、『絶望の使徒』ってヤツか?」
「残念ながらそうね。……しかしなんつーか、刺客にしては緊張感がないわね。威圧感たっぷりの変なコスプレしてるくせに」
「仮面と武器については『若気の至り』としか言いようがねぇから放っておいてくれ。……緊張感がないのは単に場慣れしてるだけさ。……ま、つまりアンタの言う『刺客』っていう奴なのさ、俺っちは」
肩をすくめて、礼二は大鎌を構えた。
「せっかく出迎えてもらったところで悪いんだが、さっさと殺させてもらうぜ。俺っちが今電話してた隊長は、作戦立案みたいな几帳面な『隊長職』はやたら向いてるんだが、血が苦手なくせに前線に出たがるのが欠点でな、俺としてはそういう女の心に傷を残すのは非常によろしくない」
「……ふーん。好きなの?」
「嫌ってはいねぇな。少なくとも」
「あっそ」
絶望の女は不意になにもかも興味を無くしたように目を細めて、踵を鳴らした。
「じゃ、死ねば?」
次の瞬間に彼女の目に映ったのは、無防備な死神の背中。
女は躊躇なく礼二の背中に手刀を放った。
己が人外であることを悟ったことによって、彼女の身体能力は既に人を越えている。人に紛れて暮らすために無意識のうちにリミッターをかけていた少女は、今まさに絶望として人を殺そうとしていた。
絶対不可避のタイミング。受け止めることもできない一撃。それらは絶対の死となって礼二に襲いかかった。
ドッ!
鈍い音が響く。景色がぐらりと揺れる。
「……………え?」
絶望と化した少女は、目の前が真っ赤になったことに違和感を覚えた。
景色が揺れる。吐き気が込み上げる。目の前にいるのは死神の面をつけた青年で、彼は振り向いてすらいない。
よく見ると、自分の手は彼に突き刺さってすらいなかった。
「流儀じゃねーが、一つだけ武術の常識的なことを教えておいてやるよ、素人。長柄の武器の本当の凶器は相手に止めを刺すための『刃』じゃねぇ。『鉄の棒』というどう考えても『凶器』以外の何者でもない『柄』だ」
死神の青年は右手に握った鎌を、少し振っただけだった。
彼女は背後に出現して手刀を放った瞬間に、『柄』の直撃を首筋に受けた。彼女はいくら『絶望』であったとしても、ベースとなった肉体は『人』のそれであるが故に、首というどうしようもない『急所』を持っていた。
しかし少女は最初から人ではない。絶望の種子が己の身を守るために全ての力を使って作り出した『使徒』である。その程度の傷は三十秒とかからずに修復する。
相手が、その時間を許してくれれば、だが。
「もう一つ教えてやるよ。お前らみたいな人外が使う『空間転移』つまり『テレポート』のことだが、こいつには色々と制約があってな、どこでもドアみてーにあからさまじゃねーが、物質が出現する時には必ず『波紋』が流れる。どういう理屈なんだか俺には分からないが、一瞬だけ現れる『波紋』と『敵意』にさえ注意しておけば位置は分かる。……まぁ、てめぇみてぇなド素人なら、当然背後を狙ってくると思ったがな」
絶望の使徒たる少女は、髑髏の仮面をつけた少年の目を見て、息を呑んだ。
仮面越しに見える目は空虚で。どこまでもどこまでも果てしない虚空。
「……は、人間として生きてきたプライドだかなんだか知らんが、『人型』のまま俺に挑んだのは失策だぜ。いくら『絶望』が作り出そうがベースが『人間』なら、いくらでも『急所』をぶち抜ける。……言っておくが、今更異形になったり肌を硬化できると思うんじゃねえぞ。死神はそんなに甘くねぇ」
先ほど「面倒くせぇなぁ」と言っていた彼と、その場にいた『死神』はまるで違うものだった。
「全同情廃滅。これより敵の殲滅を開始する」
彼のなにかが切り替わる。面倒そうな青年のそれから、『死神』というありきたりでどこまでもありがちなネーミングを名乗るのに相応しいモノに彼は変化する。
喉を押さえて苦しんでいる少女の顔面に、容赦なく掌底を叩き込んだ。
鼻の軟骨が折れる音が響く。絶叫が喉から漏れるか否かの刹那に、死神は抜き手を少女の肋骨に差し込んで肺を強打。酸素が強制的に吐き出され、少女は悲鳴を上げることすら許されない。
「…………ぐっがっ」
苦悶の呻きと共に、少女はぎりぎりで意識を保ち踵を踏み鳴らす。
距離を離す。苦痛は当然のことながら、戦闘という特殊な環境化に慣れていない少女はそれしか考えることができなかった。もっとも、それは当然のことで、彼女は『絶望の使徒』ではあるが『絶望』そのものではない。人ではないとはいえ、『絶望』という『主』が存在するとはいえ、彼女には彼女自身の意志がある。
そして、つい最近まで彼女は暖かな日常の中で生きてきた。
当たり前のことだ。いくら強かろうが、どんな力を得ようが、彼女はつい最近までただの人だった。
差はたったそれだけ。もしも彼女が己の苦痛に怯まずに死神を殺しにかかっていたなら死神は死んでいただろうし、彼女がもっと力を扱うことに長けていたなら、もっと違った結果になっていただろう。
距離を離して、少女は地面に着地する。一刻も早く傷を修復して、敵を倒せる形を取らなくては殺される。
人の形を保っていては、殺される。
「悪いな、俺と張り合うにはちと遅かったみてーだ」
「……………え?」
背中から、思い切り突き飛ばされた。
そんな感覚があった。人を驚かす時のように、思い切り背中を叩くような感覚。
が、同時に違和感もあった。
「……………あ?」
違和感のある胸元を見下ろして、少女はようやく違和感の正体を理解した。
胸から血に濡れた刃が、生えていた。
後ろを振り向くと、背中を刃が貫いている。大鎌であっても絶対に届かない距離を転移したはずだったのに、鎌の刃は少女を貫いていた。
鎌は投げ放たれたわけではない。死神はちゃんと鎌の柄を手にしている。
そう……鎌のリーチが、常識外れに伸びたりしなければ、こんな結果にはならなかった。
「由来は知らない。めんどいし知りたいとも思わない。……だが、名だけは知っている。この鎌の銘は『無間蟷螂』という。規格外れの馬鹿が作った、規格外れの『鎖鎌』さ」
柄が五つに枝分かれし、それらを鎖で繋いでいる鎌は、十メートル先にいようが相手の首を斬り落とす。
長柄の得物などという生易しいものじゃない。それは変幻自在であり人間すらも容易く殺す『蟷螂の斧』だった。
「もっとも、あまりにも扱いが難しい上に、奇襲の一撃を凌がれたらそれで終わりっつーギャンブルみてーな武器でもある。……ま、それ以外の奥の手もいくつか持っているが、今それを見せるのもなんだしな」
「……………ぐっ」
「さて、当然のことながら致命傷じゃねーだろうから、きっちりと止めは刺させてもらう。絶望とゴキブリってのは他のどんな存在よりもしぶといってことで有名だからな」
既に役目を終えた鎌の柄を投げ捨てて、死神は無造作に少女に歩み寄る。
倒れた相手を殺すのは死神にとっては赤子を泣き止ませるより百倍は楽だ。頭を踏み潰せばそれで事足りる。足りないのなら奥の手を使って殺し尽くすまで。
が、予想していた抵抗もなく、死神は少女のところに辿り着いた。
「……一応聞いておいてやる。遺言はあるかい?」
少女は顔を上げる。血の気の失せた顔に現れていたのは、今にも泣きそうな顔だった。
血が流れる口元を拭って、蚊が鳴くような声でポツリと言った。
「可愛い後輩を殺した女に、そんなものがあると思う?」
「………………そうだな」
死神はゆっくりと溜息を吐いた。まるで己を嘲るような、そんな溜息。
そして、躊躇なく拳を振り下ろした。
鈍い音が響いた。いつも通りの殺害。世間にばれることはなく、ただ単純に仕事としての殺し。
支障はない。いつも通りに殺しただけのこと。もうとっくに慣れていて、心には波紋すら起きない。
血の匂いも、殺した手応えも、なにもかもが知っていることだったから、どうでも良かった。
「…………くそったれ」
だから、この怒りは全然別のものだ。
死神は虚無を内包したまま、ゆっくりと背後に視線を向けた。
「……おい、テメェ。いつもいつも俺っちの敵に回る坊主。なんでなにもしなかった?」
そこには、小洒落た服を着たつり目の少年が立っている。
全てに挑みかかるような目が特徴的で、それ以外には特徴がない少年。
「必要ないから」
彼はいつも通りにふてぶてしく笑って、肩をすくめた。
どうやら、僕はちょっとした誤解をしていたらしい。職業の差別というものを無意識にやっていた。
というか、この場合は初対面からしてまずかったというべきか。二回ほど殺されかけているし、悪い印象しか持たなくて当然と言えば当然かもしれないが、ここに来て僕はかなり彼のことを見直していた。
死神さんはいい人だ。下手をすれば上に『超』がつくくらいの、いい人だ。
彼は怒っている。『女の子が殺されるのを黙って見ていた』僕に対して、ものすごい勢いで怒っている。
死神さんが人を殺すのは当然。なぜならそれは『仕事』だからだ。手っ取り早くお金が稼げて、かつ家族を養える最速最良の手段だからに他ならない。感情と仕事を完璧に割り切っている死神さんは、確かに『殺し』のプロフェッショナルなんだろう。出会った時にも言っていたが、彼は間違いなく『殺戮屋』だ。
頼まれれば誰でも殺す。対価に見合えばなんでも殺す。軍隊だろうが概念だろうが有象無象の区別なく。
言うまでもなく、『殺人』は悪いことだ。世界中どこに行っても誰に聞いてもきっと悪いことだと言ってくれるだろうってくらいに悪いことだ。
そう、誰に聞いてもそれは悪いことだ。なぜなら『殺戮屋』であっても悪いことだと思っているからだ。
死神さんにとって『殺害』は紛れもない『悪』だ。そうでなければ『仕事だから』と自分を偽る必要もない。
「……ま、つまり今回の僕は白旗全開で『もうお手上げ』状態なわけですよ。大鎌を振り回すのだけが能の人だと思ったら、実際は全然違いましたなんて洒落にもならない。今回は降参です。準備もしてないし」
「……つまり、お前は今回は手は出さないと、そういうことか?」
「そういうコトです」
僕が笑いながら言うと、死神さんはめちゃくちゃ不機嫌そうな顔をした。今にも僕を殺したそうな顔だ。
うーん……なんだか非常に嫌な感じだ。
「……僕だって、なにも感じてないわけじゃないですよ」
「んだと?」
「本当は彼女を助けられたらとも思います。けれど、彼女はもう『絶望』みたいなもんですからね。彼女を救う術も方法も時間も僕には持ち合わせがない。……ついでに言えば、戦闘中に散々自分の手口を明かしまくって『お前はすっこんでろ』と警告してくれた、死神さんの顔を立てたというのもあります」
「………………」
うわ、怒ってる。ものすげぇ怒ってる。殺意がぴりぴり来るぞ。
まぁ、そりゃそうだろう。正論ってなんかむかつくし。ついでに言えば思考を見透かされるのもむかつくだろう。
それでも死神さんは大人だった。自分の感情を殺すように、ゆっくりと息を吐く。
そして、かなり意外なことを言った。
「……やっぱ化け物か、お前」
「は?」
「は? じゃねぇよ。ったく……これだから自覚のねぇヤツは」
死神さんは呆れたように肩をすくめると、不機嫌ながらも意地悪っぽく笑った。
「なぁ、小僧。……お前はもしかして、この女をなんとかする術を知っているんじゃねぇか?」
「なんのことですか?」
「とぼけんなよ。お前みたいな小悪党が目の前で女殺されて黙ってられるわけないだろ。それはつまり『この女をどうにかする』手段を、少なからずお前は知ってるってことだ。違うか?」
「違いますね。最初に言ったでしょ? 僕には彼女はどうにもできないって」
「ってことは『お前以外にどうにかできる人間を知ってる』ってことだよな? そりゃそうだ、考えてみれば当然のこと。なんの能力もないお前にこの女はどうにもできない。……だが、お前はこの女をどうにかできる存在を知っているんじゃねぇか?」
「……さぁ、どうでしょう? 考えすぎじゃないですか?」
「普通ならそんなことは考えねぇけどな、どうにもお前は胡散臭すぎる。そういうヤツは言動と行動の全てを疑って裏をひっくり返さないと本当のことは分からないようなことをやる。……今だってそうだろうが?」
「……否定はしません。けれど、死んじゃってたらどうにもなりませんよ?」
「心配すんな小僧。あの娘は痛みが許容量を越えて気絶してるだけだ。傷も直に治る。あの娘は気づいてなかったが、絶望なんてものはこの世界のどこにでも溢れてる。それを力の源泉にしている以上、絶望を生み出す人の心を根城としている以上、あの娘はこの世界じゃほとんど不死身なんだよ。……まぁ、とはいえ俺も死神だ。そういう存在を殺す手段はいくつか持ってるケドな」
死神さんはそう言って、目を細めて僕を見つめる。
なんつーか……ホント、死神さんはいい人だ。下手をすると章吾さんに匹敵するんじゃあるまいか。
どうやら今回ばかりは僕の負けらしい。
僕は苦笑を浮かべる。そして、死神さんに言った。
「今回の件、ハッピーエンドにできると言ったら、どうします?」
「どうするもへったくれもあるか。そんな面白いこと、なんで最初に言わねぇんだよ」
死神さんはそう言って、楽しそうに笑った。仮面越しでは表情は見えなかったけれど、少なくとも声は弾んでいたような気がする。
僕は彼に笑顔を返し、彼に手紙を渡した。中には電話番号が書かれた手紙が入っている。
「至急この電話番号に連絡を入れて、電話の相手を迎えに行ってください。途中で色々と言われるかもしれませんが、基本的には全部無視の方向で。……多分、言葉にする以上にきつい仕事だと思います。頼めますか?」
「分かった。任せとけ」
死神さんは深くは尋ねずに、僕から連絡先を受け取って、僕に背を向けた。
その行動に躊躇はない。死神さんは即座に電話をかけて二、三言話した後、後ろも見ずに走り出した。
行動の着手の早さ。迷いのない言動。行動の意味も分からないのに、死神さんは何一つ言わなかった。
心の中だけで、僕は彼を絶賛しておく。総評は90点。マイナス10点は就いてる職業がやばいからで、それを除くとほぼ100点と言い換えてもいいかもしれない。
ま、それはともかく。
僕はゆっくりと息を吐く。覚悟を固めて彼を待つ。
伝えてはいない。携帯の電源はとっくに切ってある。それでも彼は来るのだろう。
「そろそろ……頃合なのかな」
どんな形になろうとも誰かの悲鳴を聞き届け、あの人はいつも通りに走ってくるのだ。
だからちょっとだけ寂しいのかもしれない。この後に辿ることになる彼の道を、僕は追うことすらできない。
なんでも器用にできたけど、誰にでも厳しかった彼は、そういう風に生きたからこそどうしようもない弱点を背負うことになった。克服すらできず、生物としては致命的な欠点。人間としても最悪に属する欠陥を彼は持った。
その在り方が厳しすぎたから、誰にも理解されなくなった。
当たり前といえば当たり前。まるで機械のように冷酷で厳しくて優しさがないように見える人間に、誰も寄り付きはしないだろう。変人ぞろいと言ってもいいかもしれない屋敷の中でも彼は浮いていた。
それでも良かった。目的は他にあって、その目的のためなら彼は全部望んで捨てた。
誰かへの想いも、自分への優しさも、甘えと呼ばれるもの全てを、彼は望んで捨てていった。
こうして、誰も見捨てることができない彼は、誰かを助けるために騎士でも正義の味方でもない存在になった。
それを恥とすら思わず、誇りのままに彼は生きている。今も、そしてこれからも。
「……坊ちゃん?」
死神さんが去ってから、ぴったり三分後、僕を呼ぶ声が聞こえた。
さてと、それじゃあそろそろ始めよう。
「仕事だ、執事。彼女を助けろ」
僕はいつも通りに容赦のない言葉でそう言い放った。
「了解した。我が主」
彼はいつも通りに厳然たる態度でそれを受け止めた。
第二十七話『彼が執事になった理由』END
第二十八話『貴方の人生の物語』に続く
ちょっとした解説。
・あくむという名の少女
情報屋兼クラッシュワールド未満。片付けられない技術屋。対人恐怖症。好きなモノは異形。誰かに依存しないと生きられない強い存在。甘え上手の猫みたいな感じ。好物はきんぴらごぼう。苦手なものはめかぶとろろ。四六時中パソコンの前にいるくせに眼鏡をつけていない。異形殺しの対極。概念殺しの対岸。決して相容れぬもののくせになぜか仲良し。好きなものは犬。猫は嫌い。もっと好きなのはヘタレでどうしようもない彼。
・傍観者な彼女
見てるだけの彼女。語り部失格の弟子。本当に見てるだけ。見てるだけでなにもしない。たまにきわどいことを言う。なにもかも知っているブレイカー。けれどなにも言わない。なにもかも知っているけどなにも言わない。たまにものすげぇきわどいことを言う。表現がわりと幼稚。昔も今も執事の彼は大好き。白髪の彼はつい最近好きになった。恋多き彼女。けれど、独りで生きていける弱い存在。
・ナポリピッツァ
めちゃくちゃ美味いらしい。参考文献は『王●の仕立て屋』より。
守れないものがあった。
守りたいものがあった。
だから守るために執事になった。
彼はいつだってそうやってきた。
今も昔もこれからも、努力を続けてきた。
今も昔もこれからも、責任を取り続けてきた。
だからこれはきっと、それだけの物語。
次回、『貴方の人生の物語』。
そして、執事は白き剣を取る。