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第二十六話 彼と彼女の初デート

この話と次の話に限り、現時点を持って一時的に自己の最大文字数制限を解除します。

……携帯の方は、ご覚悟を。

 いつだって間違えていた。

 


 それは、章吾が屋敷に来て数日後の出来事である。

 即日強制採用のおまけに研修期間と称して、彼はその屋敷の『奥方』に色々と教わることになった。

 自分が生涯でただ一人の師と思い込んでいる女は、兼業主婦でわりと家庭的で、ついでに超絶的な天才で手加減は知っているが暴力を辞さない人間だった。

「んー……なんつーか、逸材だねアンタ。あたしとここまで闘り合えるのは二人くらいなもんなのにねぇ」

 多少格闘術の心得があると言ったら、「じゃ、組み手やろうぜ」と誘われて、ボコボコにされた。

 ついでにこっちは空手の胴着をちゃんと着ているのに、向こうは普段着にヒヨコのアップリケのついたエプロンというテキトーぶり。そんな服装でこちらの動きをあっさりとぶっち切ってくるのだからたまったものではない。

 自信などとっくの昔に喪失していた章吾だったが、『腕っ節』という男としては最後の砦っぽい自信すらも完膚なきまでに粉砕された。

「相手をどついたりどつかれたりする方面に進めばそこそこ有名になれたんじゃねーか? はっきり言ってそのへんのボクサーなんかよりもよっぽど強い。まぁ、戦闘能力なんざ日常生活には無駄極まりないもんだけどな」

「……やかましい」

「おろ? さすがに悔しそうだね」

 男のプライドをあっさりと粉砕しておきながら、その主婦はいつものようにケラケラと笑うのだ。

「ま、あんまり悔しそうな顔すんなよ。アンタが相手にしたのは『世界最強』だ。あらゆる世界、あらゆる時代において究極まで鍛え上げられた最初にして最後の存在。そんなヤツといいところまで張り合えるなら、そりゃ自分を誇っていいさ。アンタは強い。その力も、心もね」

「……いまいち、褒められている気がしない」

「褒めてねーもん。強いってコトは、つまり弱いってコトだからね」

「意味が分からん」

「そうか。じゃあ分からせてやろうか」

 にやにやと意地悪っぽく笑いながら、兼業主婦は後に執事となる青年に問いかける。

「ねぇ、章吾。あんたってさ、女を抱いたことってある?」

「………………」

 章吾は引いた。かなり嫌そうに顔をしかめて、思い切り後ずさった。

「……言っておくが、俺はあんたに欠片も興味はないんだが」

「安心しな。誘惑とかそういうのじゃないから」

「……頼むから唐突にそういう話を振るな。アンタの言うことは時々嘘か本当か分からなくなる」

「残念だけど、あたしが愛してるのは息子と旦那だけだからね」

「……嘘を吐け」

「ホントさ。例外的に、可愛い女の子と男の子が好きってだけ」

 その可愛い女の子とやらは、エプロンドレスを身にまといごっつい鋏を振り回すよーな女のことだろうかと章吾は思ったが、あえて聞かなくてもいいことをわざわざ聞く必要はないだろうと思って結局口には出さなかった。

 最強たる彼女は本当のことしか言わない。

「つまり、人間って生き物は強くなればなるほど、どこかに決定的な弱点を作っちまうのさ。章吾みたいにね」

 嘘を吐かず真っ直ぐで明け透けで……故に敵を作り全てを叩き潰す。

 なんでもできる彼女は、なんでも敵に回して、なんでも叩き潰した。

 今も、また。

「章吾。正直に言うとね、……アンタの弱点ってやつはかなり歪んでるよ」

「……正直すぎるだろそれは」

「そこでいきなり怒ったりしないあたりはアンタの度量の広さだと認めるよ。……でも、残念ながらアンタはその心の広さや己に対する厳格さや他人に対する優しさとは裏腹に、たった『一点』だけ弱点を持つ」

 世界最強はいつでも真っ直ぐに、人の心の傷を蹂躙する。


「章吾。アンタは『守れなかったもの』に対して強迫観念のような負い目を感じている」


 章吾は目を細めた。言葉を心の中で反芻して、じっくりと噛み締めて、口を開いた。

「……あんたには関係ないことだろう」

「確かに関係はないね。ただ……アンタが守れなかったものは、アンタに関係のない場所で勝手に薬使って、勝手に死んだだけのこと。それにアンタが負い目を感じる必要はない。……章吾、はっきりと言ってしまうとね。私はもちろんのこと、アンタ自身さえもその子を守れなかったことに関しては『関係ない』のさ」

「………………」

 最強の言うことはいつだって真っ直ぐで正直で明け透けで、だからこそ人を傷つける。

 確かに関係ないのだ。彼女は自分の目の届かないところで勝手に死への道を歩んだだけなのだから。

 けれど……それがなんだというのだろうか?

 章吾の渋面を見て、最強の主婦はほんの少しだけ感心したように笑った。

「……ま、そんなコトにこそ負い目を感じるからこそ、あたしは章吾を採用したんだがね」

「は?」

「アンタにはこれから息子の世話をしてもらわにゃならん。自覚できる弱点は克服してもらわないと困る」

「巨大なお世話だ。……それに、あいつの世話ならあの女だけで十分だろう? 俺の人生の中でベスト1に輝くほどの気に食わなさだが、あいつはそれなりによくやっていると思う。教育係はこれ以上必要ないだろ?」

「残念ながら、必要なんだよ。なぜなら息子はこのままだと軽くあたしを追い抜くからね。なんかこう……もーちょっと誰かに見張っててもらわないと色々と困るんだ」

「は?」

 本気になれば竜を片手で圧倒し、巨人を口笛交じりにぶっ倒し、戦艦を踵落としで両断するだろう『世界最強』は、

 まるで当たり前のように、そんなコトを言った。

「いや、ちょっと待て。いくらなんでもそれはないだろう? あいつにはそういう才能は」

「章吾。あたしはちゃんと言ったぜ? 『戦闘能力なんざ日常生活には無駄極まりない』ってな」

 女は目をナイフのように細めて、口元を緩めて言った。

「なんつーか、正直これはあたしのミスだ。あいつには早くから挫折を味合わせ過ぎた。膝を折るのが当然のように躾けてきた。それもこれも全部あたしみたいに、旦那みたいになってほしくないからなんだが……それにしてもとんでもねぇ逸材を育てちまったもんだと反省中だよ。……ったく、諦めが悪いっつーかなんつーか」

「……意味が分からん」

「戦況をひっくり返すのは『英雄』やら『決戦存在』って呼ばれる連中かもしれねーが、そいつらの背中を見て育った連中や、そいつらの後始末をした連中ってのはどこまでも平凡で平坦でな『ただの人間』でしかないってコトだよ。……選ばれた人間なんてのはね、そういう奴らに比べればクソみたいなもんだ」

 結局よく分からないことを言いながら、世界最強はゆっくりと溜息を吐いた。

「まー、それはどーでもいいんだけどな」

「……どうでもいいのかよ」

「それよりアレだ。久しぶりに帰ってきたら息子の態度が若干冷たくておかーさんはとても寂しい。旦那はあんまり家に帰って来ないし、あまりにも寂しくて死にそう」

「…………や、あんたの愛情表現はちょっと度が過ぎてるような気もするが」

「いーじゃん。ひっついたり抱き合ったりしようぜ。そんで『愛がいっぱい』とか平気で言える家族とかが理想っ!」

「……無茶言うな」

 退屈になるとさらに訳の分からないことを言い出すのが、この兼業主婦だった。

 こういう時の対応は、主婦の息子が一番上手いのだが、こういう時に限って帰りがちょっと遅かったりする。

 ……と、噂をすればなんとやら。

「まったく、なんで毎日毎日喧嘩をするんですか坊ちゃんは。学習能力がないんですか? アホですか?」

「ごめんなさい。謝るから降ろしてください。あと、なんで縦抱っこなんですか? 絶対に明日噂になってます。もう僕は学校に行けません。いじめられます。確実にいじめられます。絶対にいじめられます」

「坊ちゃんはいじめを行った子の机に『爆竹つきガソリンパック』を仕込んだりするような強い子ですから、絶対に大丈夫です。信じてます」

「……そこまで過剰な報復は泥沼の争いになりそーな気がする」

 なにやら諦めの混じった声が響いてくる。章吾がこの屋敷に来てからいつも聞いていた声だ。

 その声を聞いた瞬間に、兼業主婦は嬉しそうな笑顔を浮かべて、あっという間に外に走って行った。

「よう、息子。よく帰ったっ!」

「あ、母さん。ただいぶぐっ!?」

 まだ成長期を迎えていない少年をメイドから奪い取って、主婦は少年に口づけした。

 五分経過。

 呼吸困難で死にかけた少年はようやく解放されて、荒い息を吐きながら言った。

「……母さん。毎回毎回言ってるケド、ここは日本です。慎みの国です。こういう行為はまじでやめてください」

「いーじゃん別に。減るもんじゃないし。外国じゃこれがフツーだし」

「ここは和を大事にする火の国です。あと、色々と減りますから。主に男の尊厳とかそういうものが」

「いーじゃん別に。減ってもどーでもいいもんだし」

「………………」

 少年はいつも通りに、どこか諦めたような溜息を吐く。

 それから、ほんの少しだけ口元を緩めて、優しく言った。

「お帰りなさい、母さん」

「ん、ただいま」

「今日のメニューはいかがいたしましょう?」

「熱々出来立ての本格ピッツァ」

「じゃ、待ってて。すぐに作るから」

 主婦からエプロンを受け取って、少年はそれを身に着けて歩き出す。

 主婦は少年の横に並んで、頭をぐしゃぐしゃに撫でながら、楽しそうに笑っている。

「おう、息子」

「なんですか? 母さん」

「今度、お前にこの屋敷の管理をしてもらうことになったから、頼むわ」

「……またいきなりそーゆーとんでもないことをさらっと言うし。少しは僕に相談とかしてよ」

「サプライズって大好き♪」

「語尾に『♪』とか付けてもちっとも可愛くないから。そういうことやって可愛い年齢でもないでしょ?」

「なんだよー。いいじゃんかよー。息子はあたしのことを愛してないのかー?」

「愛してるけど」

「……………………えっと」

「昔は「愛してるぜ息子」くらいは父さんと一緒に言ってたじゃんか。家族ってそーゆーもんじゃないの?」

「……………ああ、うん。まぁそうだね。家族だしね」

 思わぬ切り返しに顔を赤らめて、主婦は顔を逸らした。

 メイドもちょっと顔を赤くして、それでも微笑ましそうに二人を見送っていた。

(……やれやれ)

 章吾はほんの少しだけ溜息を吐きながら、胴着を着替えることにした。

 とりあえず、汚れてもいい普段着にエプロン姿でいいだろう。

 ピザの生地をこねるのは結構力の要る仕事だろうから。



 そんな、他愛もない夢を見た。



 ゆっくりと目を開ける。かなりの眠気を感じて、章吾は頭を振った。

「……やれやれ。本当に進歩がないな、俺は」

 寝つきは良い方だと思ってはいたが、今日ばかりはそうもいかなかったらしい。

 寝不足に顔をしかめながら、章吾は体を起こす。章吾のベッドで眠っていた猫が三匹ほど「にゃー」と迷惑そうに鳴いたが、いつものことなので気にしなかった。

 部屋を見回すと、テーブルやら冷蔵庫の上やらタンスの上やら、所狭しと猫が丸まって眠っている。章吾がここに住み始めてから、なぜかたくさんの猫が住み着くようになった。窓や扉に鍵をかけても知らないうちに猫たちは侵入し、にゃーんと鳴きながら章吾の部屋に寝泊りしている。

 気まぐれに猫缶を振舞っても見向きもしない猫たちだったが、章吾はさして気にもしていなかった。

 別に粗相をするわけでもなく、人が来ればどこかに行き、戯れに子供を見せに来る。ぬいぐるみで爪を研いだりはするが、章吾の部屋で寝泊りしている猫たちは、大体そんな感じだった。

 が、猫たちを避けてラッピングも解いていないくまのぬいぐるみを持ち上げると、なぜか傷一つついていない。

(……こいつら、もしかして俺の心とか読んでるんじゃないか?)

 そんなことも思うが、章吾はいつも通りにその想像を振り切った。

 歯を磨き、顔を洗い、前日からにらめっこしてようやく決めた服を着て鏡の前で確認。

「……こんなもんか」

 最終確認を終えて、待ち合わせの二時間前に部屋を出た。

 部屋のドアを開けて外に出ると、そこには一匹のぶち猫が背筋を伸ばして章吾を見上げていた。

「にゃーん」

 普通に可愛らしい声を上げて、猫は章吾を見上げる。

 餌をねだっているわけではない。甘えているわけでもない。それはただの『泣き声』だった。

 章吾は口元を引き締める。いつもは触れることすら許さない猫の頭を撫でて、言った。

「奇縁だが、子供たちは我が主人の元にいる。人と馴れ合うのは好まないかもしれんが、元気にしている」

 もちろん章吾には猫の言葉など分からない。

 ただ、猫には猫のルールがあって、人間とは違う価値観を持っていることは知っていた。それは灰色の髪を持つ先生が教えてくれたことで、章吾はそれを本気で信じていた。

 そして、人に飼われているそのぶち猫の子供が、最近捨てられたことも知っていた。

「百億回謝られても我が子を奪われた憤りは晴れないだろう。しかし……本当にすまない」

「………………」

 猫はきびすを返して歩き出す。

 その背中が少しだけ寂しそうに見えたのは、章吾の気のせいだっただろうか。

 不意に、猫はほんの少しだけ振り返って、口を開く。

「なに、案ずるな。そなたのせいではない。子供は十年後に引き取ろう。それまでは預ける」

 不意に聞こえてきた声に、章吾は思わず耳を疑った。

 目を細めてぶち猫を見つめるが、ぶち猫はいつものように「にゃーん」と鳴いて歩いて行った。

「……いかんな。寝不足か」

 なんだか聞いてはいけない幻聴のようなものを聞いたような気がする。

 近所のコンビニで栄養ドリンクでも買って行こうと思いながら、章吾は歩き出した。



 ちょっとだけ恥ずかしい話をしよう。

 僕にとって新木章吾という人は、『なんか肝心な所で頼りにならないにーちゃん』以外の何者でもなかったりする。

 仕事の上ではこれ以上に頼りになる人はいないけど、プライベートになるとこれ以上に頼りにならない人もいない。昔色々あったらしく女の人が苦手で、特に同世代のコッコさんとは異様に相性が悪い。

 相性が悪いのは趣味と仕事の違いがあるとはいえ、あの人たちが完璧主義者だからだろう。……コッコさんの庭仕事ができない雨の日とかに屋敷の仕事をやってもらったらカーテンの色で延々三時間ほど言い争いをしてたし。

 ……ある意味、同属嫌悪かもしれない。

 まぁ、それはともかくとして、お屋敷で働いている人の中でも章吾さんはコッコさんに次いで古株だったりするので、僕ともそれなりに長い付き合いだ。

「……だから、その。アレだ。そんな章吾さんがせっかくデートとかしようとか思い立ったんだから邪魔しちゃ悪いなと思うのは僕の気のせいなんだろうかと思うんだけど、どう?」

「パパは黙ってて」

「………………はい」

 双眼鏡を手に章吾さんを追跡する美咲ちゃんに一蹴されて、僕は黙り込んだ。

 ちらりと隣を歩く陸くんを見ると、彼は疲れたように溜息を吐いていた。

「……にーちゃん」

「なんだい?」

「巻き込んで本当に悪かった。今は反省してる」

「仕方ないよ。恋する乙女って猪突猛進か策略家かのどちらかだし。……どっちにしてもブレーキは必要だけど」

「……そーだな」

 陸くんは美咲ちゃんを見つめて、再び深々と溜息を吐いた。

 なんだかとても落ち込んでいるらしい。

 陸くんから相談があったのが一週間とちょっと前のこと。シスター要さんの告白。ぶん殴られた章吾さんのヘタレっぷり。美咲ちゃんが「絶対に邪魔してやるんだから!」とめちゃめちゃ気合を入れて意気込んでいたこと。

 そこまで聞けば、黙ってはいられない。黙っていると血を見そうだからだ。

「まぁ、要さんってけっこー章吾さんのタイプかもしれないからね。あの人何気に面食いだから。ついでに優しい女性って大好きだから。好きな女性が美里さんって時点で、母性が溢れる女性が好きってのが丸分かりだから」

「……あのシスターが優しいとはとても思えないんだがよ」

「要さんは優しいよ。ちょくちょく孤児院とか老人ホームとかで手伝いしてるし。奉仕とか慈愛の心がないとそーゆーことはできないでしょ。利益とか出ないんだから」

「にーちゃんの言うことはさりげなくドライだよな。なんつーか……守銭奴っていうか」

「守銭奴じゃなくて経営者って呼んで欲しい。お金がなきゃ人間は生きていけないんだよ。残念ながらね」

「なにせこいこと言ってるのよ、二人とも」

 僕としては至極真面目なことなのだけれど、夢いっぱいの小学生はあっさりと真正面から『せこい』とばっさり切り捨ててくれた。なんかちょっと意味もなく泣きそうだ。

 双眼鏡を首に下げながら、美咲ちゃんは頬を膨らませていた。

「もう、こんなまだるっこしいことしないで直接邪魔した方が早いのにっ」

「そう言われても、残念ながらこの距離が限界だよ。……これ以上近づくと章吾さんは確実に気づく。そうなったら撒かれて終わり」

 現在章吾さんとの距離はおおよそ十五メートル。今は気を張り詰めていないからなんとか僕らでも尾行できているけれど、章吾さんが本気になれば僕らのことなど二百メートル離れても一瞬で気づいてしまうだろう。

 なんでも、狙撃に対抗するために身につけた気配察知能力だとかなんだとか。本当ならそんな化け物みたいな能力は眉唾ものなんだけど、仕込んだのが何を隠そう僕の『母さん』という時点でかなり信憑性は高い。100%と断言してもいいだろう。

 ……でも、この『気配察知』というスキル。日常生活じゃまず使わないスキルだったりする。

「ま、そういうわけだから、なるべく章吾さんを凝視したりしないよーに。視線で感づかれたりすることも考えられるし。あと、僕が指定した距離からは絶対にはみ出さないように。100%気づかれちゃうからね」

「……なぁ、にーちゃん。執事長って本当に何者なんだ?」

「章吾さんは章吾さんさ。ちょっと優秀が行き過ぎて女の子に嫌われちゃうのが唯一の欠点の、屋敷の執事長」

 きっぱりと断言しながら、僕は歩き出す。

 二百メートルほど離れているので章吾さんの後姿は点のようにしか見えない。

 もっとも、これ以上近づいても気づかれるし、もしかしたらもう気づかれている可能性だってある。

 あの人は僕と違って超天才なのだ。なにをやらせても上手にこなすし、そつがない。

(けどまぁ……つけ入る隙がないかって言われれば、そうでもないけど)

 どんな人間にも弱点はある。強くなればなるほど弱点を作るのも人間ってものだ。

 それを克服することだって、きっとできるだろうけど。

「さて……と」

 僕は目を細めて、心の中でポツリと呟く。

 あの人は、どうやって自分の弱点と向き合うんだろうか?

 


 待ち合わせ場所に一時間前には来ていた青年は、二時間ほど待ちぼうけを食らっていた。

 かといってイライラすることもなく、噴水の前でベンチに座りながら時折欠伸をしながら空を見上げたりしている。

 近くを通り過ぎた猫を呼び止めて、ポケットから煮干を取り出してあげたりしていた。

 ……まぁ、ポケットに煮干を常備しているのなんて、当然のことだからあえて言う必要もないのだけど。

「平和だねぇ……。ついでに、来ないねぇ」

「……そーだな。来ないな」

 章吾さんの様子を横目に見ながら、僕らは噴水の近くの喫茶店で少し遅めの朝食を食べていた。

 美咲ちゃんだけが章吾さんの笑顔の可愛らしさ(らしきもの。男には理解不能)に大騒ぎしていたけれど、それは僕と陸くんにはあまり関係のないことだった。

 朝食のハムエッグを齧りながら牛乳を飲む。陸くんが麻衣さんに教えてもらったというこの喫茶店はあまり利用したことがなかったけど、今度からは利用しようと思う。料理も結構美味しいし、リラックスできる雰囲気だし、なにより面白いものが見られる。

「委員長。フルーツパフェ追加」

「………………店の中じゃそのあだ名で呼ばないで」

 トレイで顔を隠しながら、喫茶店のウエイトレスさんこと我がクラスで一、二を争う可愛らしさを誇る委員長こと山田恵子だった。制服姿も似合うけど、今のウエイトレスもなかなか可愛らしい。

 眼鏡とおでこが目立っているのは相変わらずだけど。

「じゃー校則違反でバイトをしちゃってる委員長さん。フルーツパフェお願いします」

「……くっ、こっちも好きでやってるんじゃないわよっ!」

 そう言いながらも伝票にきっちりとフルーツパフェの追加を書き込み厨房に引っ込む委員長。

 こっちからは見えないが、なにやら騒がしい声が響いてきた。

「だから違うってば。ほら、もうちょっとフルーツをドバッっと乗せてだな」

「チーフっ、それじゃあレシピと違うものになっちゃいますよっ!?」

「いいんだよ。顔見知りなんだからサービスくらいしとけ。ウチはチェーン店じゃねーんだからテキトーでいいんだよテキトーで。あ、生クリーム足りねぇや。仕方ないから手作りで誤魔化そう。山田、卵白と砂糖持って来い。あと桜桃と白桃追加。甘味ってのがどれほどのものか目にモノ見せてくれるぜ」

「えぇっ!?」

 ……どうやら、ここの『チーフ』というのは今時見ない豪快で放埓(ほうらつ)な人らしい。

 規則に忠実で応用の利かない委員長にとって、彼の相手をするのはなかなか大変だろう。

 ちょっと楽しそうで微笑ましくはあったけど。

 僕が厨房の方を見つめながらちょっとだけ口元をつり上げていると、不意に陸くんが言った。

「なぁ、にーちゃん」

「なに?」

「……にーちゃんの周りって変わり者ばっかりか?」

「普通の人もいるよ。君とか、舞さんとか、虎子ちゃんとか」

「……オレはともかく、舞ねーちゃんと虎子姉ちゃんは絶対に納得できないんだけど」

「………………んー」

 色々と言いたいことはあったけど、ちょっと気になったので聞いてみる。

「ねぇ、陸くんは冥さんの弟なんだっけ?」

「正確には冥姉さんだけじゃなくて舞ねーちゃんとも姉弟だけどな。空倉の家は当主が重婚してるのが基本だったし。……まぁ、舞ねーちゃんと冥姉さんの扱いはちょっと特別で、オレみたいな下っ端は主に情報収集とかやってたけど」

「ふんふん。ところで話は変わるけど、屋敷の方は慣れた?」

「……一応な。なんか最近虎子姉ちゃんと一緒の場所に配置されて色々苦労してるけど」

「なるほどなるほど」

 うん、よく分かった。意識的か無意識なのかまでは分からないけど、よーく分かったぞ。

「ねェ、陸くん」

「ん?」

「君、ちょっと前まで虎子ちゃんのこと『トラさん』とか呼んでなかったっけ?」

「………………う」

 気づかれたくなかったところなのか、陸くんはちょっと嫌そうな顔をした。

「……いや、それはその……なんか姉貴扱いしないと不機嫌になるから」

「虎子ちゃんをお姉さんみたいに思うのは間違ってないよ。実際に年上だし、何気に兄弟妹もいるし、虎子ちゃんも陸くんのことを弟みたいに思ってるんじゃないかな」

「………………弟かよ」

 んー、なんかものすごく不満そう。

 これはもしかすると……もしかするんだろうか?

 まぁ、もしかするのなら陸くんにはそりゃもう見る人全てが震え上がるような『死んだ方がまし』レベルの努力をしてもらうことになるだろうけど。

 虎子ちゃんの『もの』になろうってんだから、それくらいはしてもらわないと。

 などと思いながらフルーツパフェを完食。ちらりと時計を見て腰を上げた。

「……っと。そろそろかな?」

「へ?」

「要さんは優しいけど性格が悪いんだよ。だから、あえて時間通りには来ない」

 にやりと口元を緩めて、僕はきっぱりと断言した。

「たぶん今頃は、自分が認めたものが本当に確かなものかどうか確認してるんじゃないかな?」



 野良犬にビーフジャーキーをやってよしよしと頭を撫でている章吾を見た時点で、清村要はあまりの可愛らしさにかなり限界に来ていた。

 一向にいらつく様子も緊張する様子もなし。それどころか今はベンチにもたれながら舟を漕いでいたりする。

 こっくりこっくりと首をふらつかせて、今にも眠りに落ちてしまいそうな感じだ。

(………………)

 ちったぁ緊張くらいしなさいよと思わなくもない。

 ついでに言えば、ちったぁ怒りなさいよと思わなくもなかった。

 要は几帳面な人間である。約束の時間よりも二時間前(つまり章吾が起きた時間)には待ち合わせ場所に来ていた。ちなみに服装はいつもの修道服ではなく、可愛らしい上着とロングスカートの私服である。

 あまりの緊張で昨夜は寝られず、服を選ぶのに五時間もかかり、待ち合わせ場所に早く来すぎて緊張のあまり吐きそうになった。

(……我ながら、情けないわね)

 木陰で休みながらそんな風に思っていると、待ち合わせの場所に章吾が来た。

 そこでむくむくとわきあがる悪戯心。あの執事長は待ちぼうけを食らったらどんな反応をするだろうか?

 結果がこれだった。時折猫や犬や鳥に餌をやって、ランニングをする老人やらモデルガンで遊ぶ子供に挨拶をし、章吾はゆったりと流れる時間を過ごしていた。

 まるで、デートの約束などしていないかのようで、要はほんの少し頭に来ていた。

 ついでに言えば、動物に向ける時の笑顔だけが可愛いのも反則だと思った。

 いい加減に二時間が経過しようとしている。要はさすがにこれ以上はまずいだろうと思い、ようやく覚悟を決めて章吾に声をかけた。

「ごきげんよう、章吾さん」

「……ん? ああ、おはよう」

 声をかけると章吾は深くは寝入っていなかったらしく、あっさりと目を開けた。

「ずいぶんと遅かったがどうした? なにかあったのか?」

「物陰から貴方の様子を伺っていました。あまりに退屈でしたので出てきました」

「……嘘を言わないのは好感が持てるが、あまりに正直だといつかひどい目にあうぞ?」

「……私が物陰から見ていたの、知ってたんですか?」

 章吾は確かに『嘘を言わないのは』と、そう言った。

 章吾は苦笑しながら立ち上がり、背伸びをして、ついでに欠伸をしながら言った。

「知ってたさ。そういう訓練は強制的にではあるがさせられた。なにか知られたくないことでもあるんだろうと思って、あえて声はかけなかったが」

「……性格悪いですよ、そういうの」

「見て見ぬふりは得意なんだ。ウチの屋敷にも特大の見栄っ張りが一人いるんでな」

「………………」

 その『特大の見栄っ張り』というのは間違いなく彼なんだろうなと要は思う。要にはそうは思えないが、章吾には彼の色々なところが見えているんだろう。

 それが男同士の共感か、あるいは章吾が持つ独特なものかまでは分からなかったが。

「さて、それじゃあ行こうか。そろそろ昼だし、なにか食べてから映画でも見に行こう」

「映画よりも買い物の方がいいです」

「君が遅れなかったら映画も見にいけたんだがなぁ」

「……悪かったですよ」

「ま、どちらにしろ飯は食べよう。なにがいい?」

「……お蕎麦がいいです」

「よし」

 章吾は柔らかく微笑んで、歩き出す。

 要もそれに続いたが、ふとなんだかありえない違和感に気づいた。

「章吾さん」

「ん?」

「右手と右足が一緒に出てますけど」

「………………」

 章吾はばつの悪そうな顔をして立ち止まり、それから頬を掻いて言った。

「あー……なんというか、かなり言いにくいんだが、俺も経験が豊富ってわけじゃないからかなり緊張している。……その、気配りが足りないところもあるかもしれないが、そういう時は言って欲しい」

「……でも、さっきは」

「大人になるとな、緊張感を誤魔化すのが上手くなる。ただ……緊張がなくなるわけじゃないけど」

「………………」

 なんとなく、要は安心していた。

 やっぱりこの人はこうじゃないと、と思っていた。


 

 その後は、まぁ簡単に言ってしまえば普通のデートだった。

 章吾さんが十割蕎麦(とわりそば)というちょっとお高い蕎麦を奢らされて辛そうな顔をしていたものの、かなり美味しかったらしく食べ終わったらあっさりと機嫌を直していたり、服を買おうとしたら要さんに「貴方に執事服以外のものが似合うとは到底思えないのですが」らしきことを言われて真剣にへこんだり、下着売り場に連れ込まれて「男性の下着は一山いくらのくせに女性用下着はこんな値段ですよ? ひどいと思いません?」とか言われてかなり返事に困ったり、やっぱり映画を見に行こうという話になって章吾さんが見たかった映画を『陳腐』の一言で片付けられて要さんの見たかった映画を見る羽目になり、しかもそれがかなり面白かったのかものすごく微妙な表情を浮かべていたのがまた印象的だった。

 要さんはというと緊張しているのかいつもの毒舌にキレがなく、電車の移動の時にうっかり寝入ってしまった章吾さんの頭が肩に乗った時に、顔が爆発するんじゃないかってくらいに真っ赤に染めていたり、デパートの中で行われていたわんにゃんパークのようなところで章吾さんに群がってくる子猫やら子犬にときめいたり、ついでに「今日はお客が多くて大変そうだな」と言って微笑む章吾さんにさらにときめいて倒れそうになったりしていた。

 ちなみにそんな二人を、僕らはクレープ片手に追跡したりしている。

「うーん……実に面白くて楽しい普通のデートじゃないか」

「にーちゃん。他人が見て面白くて楽しいデートは普通じゃねぇと思う」

「人には色々とスタイルがあるもんだよ。他人からみて許容できなくても、本人たちが納得してるんだったらそれは愛に違いないと僕は思う。そう、つまり章吾さんはからかわれまくり、要さんはそれを楽しみながら時折見せる章吾さんの笑顔にときめきまくるというのが二人のスタイルでいいんじゃないかと僕は思う」

「……にーちゃん、顔が笑ってんぞ」

「おっと」

 思わずにやけていた口元を元に戻して、僕はクレープを齧る。

 それから、我知れず、ぽつりと呟いていた。

「……そろそろ、帰ろうか」

「へ?」

「うん、なんかちょっといい雰囲気になってきたしね。これ以上は無粋かなぁって思って」

「……アイツが納得するか?」

 今にも泣きそうな顔になっている美咲ちゃんを指差して、陸くんは少しばかり顔をしかめていた。

 きっと、女の子が泣いたりするのはあんまり好きじゃないんだろう。

 僕は肩をすくめて、それでもきっぱりと言った。

「納得できないことなんてね、腐るほどある。これがその一つだったとしても大した差はない」

「そりゃそーかもしれねーけどさ……」

 陸くんは憮然とした表情を浮かべて、ゆっくりと溜息を吐いた。

 そして、真っ直ぐに僕を見つめる。

「会った時から思ってたんだけどよ、アンタって妙に淡白な所があるよな」

「それは仕方ない。性格だしね。それを言うなら陸くんって妙に熱血だよね」

「放っておいてくれ」

 ちょっと不機嫌そうに言って、陸くんは目を細める。

 そして、ちょっと答えづらい話題を振ってきた。


「なぁ、にーちゃん。……アンタってさ、女の子を好きになったこととかあるか?」


 僕は少しだけきょとんとして、口元を緩めて笑う。

 なにを言うべきかは簡単だったし、なにを言っておくべきかも明確だった。

 ただ、言いづらいことだった。

「そりゃあるよ。……告白なんてしたこともされたこともないけど、陸くんが思っているよりはたくさんね」

「……それって、あの庭の鬼神か?」

 庭の鬼神というのは間違いなくコッコさんだろう。

 鬼神ってのはなんぼなんでも非道い表現だったので訂正しようかとも思ったけど、よく考えるとこの前は素で殺されかけたので鬼神と言えば鬼神だよなぁと思い直して、結局訂正するのはやめにした。

 代わりに、事実だけを言う。

「コッコさんのことは普通に好きだよ。みんなのこともね」

「……節操ねーな」

「節操がないってのは違うよ。僕がコッコさんやみんなに抱いているのは『恋愛感情』じゃないから」

「……は? いや、おい、ちょっと待て。アンタわりとみんなと楽しそうにしてるじゃねーか。それで好きな女の一人もいないなんて、オレは納得しねーぞ?」

「うーん、そうだねぇ」

 陸くんの言うことはとっても正論で、ものすごくありきたりで、ついでに言えば当たり前のことだった。

 その『当然』に反逆するのはすごく面倒で辛くてやってられないのだけれど、それでも僕は言った。

「そーゆーのはね、よくないんだ」

「なんでだよ?」

「男に守れるのは一つか二つくらいで、僕はもう『屋敷』を守ることを選んじゃってるからねぇ。この上さらに女の子を好きになって付き合おうとしたら、屋敷の方を守れなくなってみんなを路頭に迷わせることになる。自分で言うのもなんだけど、僕って結構一途だから、女の子と両想いになろうもんなら彼女しか見えなくなるよ。片思いならまだ冷静さは保てるけどね。……さて、ここでちょっと聞いてみよう。陸くんは屋敷がなくなった方がいい?」

「……いや、ごめん」

 陸くんはわりと素直に謝って、ゆっくりと溜息を吐いて苦笑した。

「……にーちゃんも苦労してんだな」

「どうかな。……章吾さんに比べるとまだまだって気はするケド」

「そーだな。執事長殿と比べると、オレたちなんざまだまだひよっ子もいい所だよなぁ」

 陸くんは少しだけ溜息を吐いて、クレープを齧る。おそらく僕も似たような表情でクレープを食べた。

 二人とも同時に完食。同じように溜息を吐いてクレープを包んでいた紙をゴミ箱に捨てた。

「帰ろうか」

「そだな」

 陸くんの同意を得たところで、僕は頭を捻って考える。

 さてさて、それじゃあ美咲ちゃんをどうやって説得したもんだろうか、と。



 なかなか密度の濃い時間だったと章吾は思う。これなら仕事の方がいくらか楽かもしれない。

 足の悪い要に合わせて歩くのは苦痛でもなんでもなかったが、常に気を張っていてともすれば「私は疲れてなどいません」などと意地を張り通しかねない彼女の様子を逐一ちゃんと見ておかなければいけなかったので、章吾は普段の倍疲れていた。

 結局デパートを出た所で要がかなり疲れていたようなので章吾の方から休憩を提案した。「意外と軟弱ですね」と言った要が、少しだけほっとしていたのは見逃しておくことにした。そういうのも男の度量である。

 時刻は午後の五時半。もうそろそろ日没で、公園のベンチに腰掛けても見える夕日が綺麗だった。

「……ありがとうございます」

「ん?」

 不意に響いてきた聞き慣れない言葉に、章吾は口元を緩めて笑った。

「なんだ、急に礼なんてらしくないな?」

「……ちょっと素直にしようと思ったのにその言い草はひどいと思います」

 少し不機嫌そうになる要の横顔を見ながら、章吾は楽しそうに目を細めた。

「礼を言いたいのはこっちだ。今日は久しぶりに楽しかった」

「そ、そうですか? ……それなら、まぁ、誘った私としても嬉しいし……私も、楽しかったですけど」

 顔を赤らめて照れる要は、上目遣いに章吾を見つめる。

「あの……本当に楽しかったですか?」

「嘘を言っても得はないな。世辞を言っても意味はない。だとすれば普通に本音を言うのが人ってもんだろう」

「……ふと思ったのですが、『彼』の回りくどい言い回しは貴方からの影響なのでは?」

「いいや、むしろ俺が影響を受けたんだな。アイツが回りくどいのは出会った頃から変わっていない」

「……出会った頃?」

「大学を辞めた頃にあいつに拾われて、俺はあの屋敷で働くことになった」

 章吾は苦笑して、嫌なこともついでに思い出すようにほんの少しだけ顔を歪めて語った。

「色々あって、拾われて、色々あってあの屋敷で働くことになって……さらに色々あって今に至っているな」

「……曖昧な表現が多すぎてよく分からないのですが」

「仕方ないだろう。本当に『色々』とあって、思い出したくないようなことも多々あるからな」

「たとえば?」

「師匠にボコられたこととか、先生にあることないこと吹き込まれて騙されたこととか、中学生の坊ちゃんに色々と経営学とかそういうものを教わったりとか、他にも屋敷の女どもに地獄クッキーを食わされたりとか」

「……本当に、なんていうか言葉が見つかりません」

「師匠曰く、運命ってのは生まれ持っためぐり合わせだそうだ。運命を変えることはできるらしいが、自分で変えるのはほとんど不可能らしい。……俺の運命ってのは多かれ少なかれそういうもんなんだろうさ」

「………………」

 胡散臭いことだとは言わなかった。陳腐な表現だとも言えなかった。

 章吾は自覚していないようだったが、章吾はそれを受け止めていたからだ。

 運命を自分で変えるのが不可能ならば、章吾が抱えている不運も、章吾自身の手で変えるのは不可能だ。

 努力しているのに、人並み外れて努力を続けているのに、どうしても届かないことがある。

「ねぇ、章吾さん」

「なんだ?」

「……貴方は、生きることを辛いと思ったことはないんですか?」

 そんなことを思ってしまったからだろうか。要は普段ならば絶対に聞かないようなことを聞いていた。

 章吾は口元を緩めて笑う。それは、ただ青年が見せる微笑み。


「辛いよ。でも、それだけじゃないから」


 微笑みながら、青年は言葉を続ける。

「俺が昔好きだった女は生きることを楽しいと言っていた。俺はその子が羨ましくて、どうしてそんなに楽しそうに笑っていられるのかずっと疑問だった。世界はこんなに苦しいのに、辛くて無残で残酷なのに、それでも笑っていられるのはなんでだろうと思い続けていた。……今も答えなんて見つからない。生きることは辛い」

 その瞳には決然たる意思。愚かかもしれないけど真っ直ぐで、どこまでも真摯に生きようとする一つの決意。

「それでも、屋敷で働いて分かった。生きることは辛い。呼吸をするのは激痛で、歩く一歩はガラスを踏みしめるようなもので、目に映る全てが醜悪、触れて感じる全てが異形で、死が絶対だとしても……生きるのは辛いだけじゃない」

「……本当に、そうなんでしょうか?」

「ああ。君だってもうとっくにそんなことは知っているだろう?」

「え?」


「さっき自分で『私も楽しかった』って言ってただろう?」


 誰よりも不幸な青年は、柔らかく笑いながら、そんな当たり前のことを言った。

 たったそれだけ。ささやかな一言。楽しいという言葉を章吾は聞き逃していなかった。

「……そうかもしれませんね)

 微笑んで、目を閉じて、確信する。

 それは小さくて確かな想い。あまりにささやかで他人にとっては至極どうでもいい、そんなものだ。

 要はゆっくりと息を吸う。最後の覚悟を決めて、口を開いた。

「……章吾さん。そろそろ、帰りましょう」

「ん……ああ、そうだな。もうそろそろ日も暮れる」

「繰り返しになりますが、今日は楽しかったです」

「俺も楽しかった。また暇になったら誘ってくれ」

「ええ、それは是非」

 要はそう言ってにっこりと笑った。

 それは誰が見ても歳相応な、あどけなく綺麗で自然な笑顔だった。

 章吾は笑顔に笑顔を返して、右手を差し出した。

「じゃ、行こうか?」

 章吾は笑いながら差し出した鍛えられてあちこちが硬くなった右手を見て、要はきょとんとした。

「あの、どういう意味でしょうか?」

「今日は君を無理させないようにするにはどうすればいいのかとずっと考えていた。……名案のようなものは浮かばなかったんだが、とりあえず、手を繋いでおけば歩行ペースが掴めるかと思ってな」

「……べ、別にいいですよ、そんなの」

「そうか? わりといい案だと思ったんだが」

 章吾は首を捻りながらさっきまでと同じペースで歩き出す。

 要にとってはほんの少しだけ早い速度なのだが、要はそれを言い出せずに顔を赤らめて俯いていた。

(さすがに……女性に慣れてないだけあって、ちょっと無防備なところがありますね、この人)

 次からはその無防備さもなんとかさせなきゃいけないなぁと思いながら、要は章吾の後を追いかけた。


 



 そんな、他愛のないユメを、見ました。





 主よ、貴方は私にはなにも与えてくれませんでした。

 それでも、私は幸せでした。

 人並みの幸福も、健康な体も、温かな家庭も、なにもかもを奪われた私はそれでも幸せでした。

 厳しいけど優しい先生。優しいけど辛い先輩。親友と呼べる彼女たち。そして私が好きになったあの人。

 私は幸せです。暖かな人たちに囲まれていたから幸せでした。ずっとずっとそう思ってきました。


 それなのに、なぜ貴方はいつも最悪のタイミングで私の横っ面を思い切り殴りつけてくれるのでしょうか?


 デートを終えて、朝の掃除をさぼったぶんを解消するために礼拝堂に戻ってきた私を待っていたのは、小さくて音のない衝撃でした。

 こふっと咳き込んで口の中に鉄の味が広がりました。私は目を開けると、血に濡れた地面に私は倒れていました。

 その血が私のものだと悟るのには時間はかかりませんでした。

 叫びたくても声は出ない。口を開いても空気は入ってきません。血は流れて、どんどん流れていきます。


 胸元を見ると、ナイフが深々と突き刺さっていました。


 ああ、単純なことだったのです。

 私は死にかけていて、それでもう生きるという機能が失われているから声を出すこともできないのです。

 それは当然のこと。死の間際にいる人間ができるのは、せいぜい残りの余力を振り絞ってなにかをするか、誰かの話を聞くくらいしかないのです。

 私が看取った斉藤おじいさんも、渡部さんも、そういう風に亡くなったのですから。

「んー、そうだね。そういうもんだろうね。人間ってそういう風に生きて、そういう風に死ぬもんだしね」

 声が聞こえる。私を刺した人。私を殺した人。私が尊敬していた人。

 綾名優子という彼女。私の先輩。マザーと一緒に、私に色々と教えてくれた先輩。現代っ子な先輩で、修道女としては最悪な彼女だったけれど、私は綾名先輩のことを信頼していました。

 後輩思いで優しい、ありきたりな彼女を、私はいつだって好ましいと思っていたのに。

「……ホント、私だってずっとそういう『先輩』でいたかったんだけどね。なんで私が可愛がっていた後輩を刺さなきゃいけないのかって……今はそれだけを思うよ」

「……せん、ぱい?」

「なにも言わなくてもいいよ、要。……アンタは、私の話だけ聞いてくれりゃいいから」

 先輩はそう言ってタバコを取り出して火を点けました。

 先輩は煙草を吸う。けれど礼拝堂では絶対に吸ったことがないのに。

 空ろな瞳で中空を見つめながら、先輩はポツリと言いました。


「なんかね、私ってば絶望の使徒みたい」


 自分でも全然信じていないような響きの声。

 それでもそれが事実であることを裏付ける『諦め』がそこにはありました。

「この世界に散った絶望の種子は二つ。一つは誰かの中で結局発芽できずに終わって、もう一つは要の中にある。で、その種子は自分を守らせるために、自分の余力を全部振り絞って一人の存在を作り出した。人間じゃなくて人間に似た異形。普段は『普通』を偽装して、いざという時のために自分を守らせるために」

 ゆっくりと煙を吐き出して、先輩は今にも泣きそうな表情を浮かべました。

「それが、私なんだってさ」

 いつも強そうに笑っている人が、涙を浮かべて苦々しく笑っていました。

「笑っちゃうよね。なにこの急展開ってヤツだよ。陳腐な映画でもここまでの急展開はないわ。アンタの恋路になんの関係もない私が、アンタが主役の漫画でも『先輩っぽい背景の人』みたいな私が、要の中に巣食ってる『絶望』を守るために生まれてきたんだってさ。……ホント、悪質な冗談としか思えないわ」

 先輩はゆっくりと溜息を吐いて、私を見つめました。

「だから……ごめん。そんな言葉じゃきっと済まされないだろうけど、それでもごめんね」

「………………あ」

 先輩が近づいてきます。最初は私に止めを刺すためだろうと思ったけれど、それだとなんだか話が食い違います。

 先輩は私に巣食っているモノを守ると言いました。

 なら、私を刺したこの行為は、その『絶望』っていうものを殺すことになるのに。

「……そうだね、要。アンタはいつだって聡い子だったよ」

 先輩は倒れている私に近寄って、身を屈めて私の耳元に口を寄せ、ポツリと囁きました。


「………ばいばい。カナメ」


 全部、吹き飛びました。

 たったそれだけの言葉。たったそれだけのありきたりな言葉。

 それで私の全てが全部吹き飛んでしまったのです。

「……………うぐ」

 いやだ。そんなのいやだ。こんな簡単にこんなあっさり。

 たった一人きりで、なにも成し得ることなく、死んでしまうなんて。

 まだやらなきゃいけないことがある。私は病弱できっと長生きはできないだろうって言われてて、私も諦めてきたけれど最近ようやくやらなきゃいけないことができたのに。絶対にやらなきゃならないことが、人生の目標のようなものができたっていうのに。

 あのひとをしあわせにしなきゃ、いけないのに。

 だから死ねない。こんなところで死にたくない。

 あのひとは人生が辛いことばかりじゃないって言ってくれた。私の人生もクソみたいなものだったけれど、あのひとの人生に比べたらまだ運が良い方だって断言できるから、あのひとがそう言うのなら私の人生だってそう悲観したものじゃないと思える。あのひとが言うのなら……きっと世界は辛いことばかりじゃない。

 今日みたいな楽しい日もあるはずだから。

「……………げほっ」

 最近、足の調子が悪くなっていました。古傷がない方の足も調子が悪くなっていました。

 病院に行ったら背中の古傷が原因で脊椎が機能しなくなり、このままじゃ下半身不随になると言われました。

 めのまえがまっくらになりました。

「……………いや」

 でも、それでも私はあの人が好きだったから、最後に歩ける足でデートをしようと思いました。

 それが私の足が成し得る最後の仕事なら、少しだけ納得できると思ったのです。

「………………ない」

 動かなくなりつつある足で動くのは辛くて。

「…………くない」

 脊髄がもう駄目になりつつあるのを知っていたのに笑顔でいるのは辛くて。

「…………たくない」

 それをあのひとに言えないのがもっと辛かったけど、あのひとは知ればきっと辛い思いをするから我慢しました。

 次に会った時はきっと私は車椅子で、そうなったら思い切り甘えて困らせてやろうと思っていたのです。

 決めた覚悟はたったそれだけ。車椅子に乗って、それでも不敵に笑ってやって、つまらない同情とかはおよしなさいとか無茶を言って、それで色々と世話を焼かせてやろうと思いました。あの人はなんでもできるくせに『人の世話を焼きたがり病』にかかっているふしがあるから、きっとなにかと文句を言いつつも絶対に私の世話を焼いてくれるだろう。でもそれじゃあ色々とこっちが不利なので、なにかあの人が嬉しいと思ってくれるようなことをしなきゃいけない。

 我ながら無茶苦茶だと思います。……でも、そうでも思わないと、耐えられませんでした。

「………わたし」

 全部我慢したはずなのに。

 もしも万が一のことになっても、なにも言わずにおこうと思ったのに。

 そんな覚悟を決めていたにも関わらず、

 私は……いつも諦めていたことを、思ってしまいました。


「………しにたく、ない」

 

 生きようと足掻こうと腕を動しました。

 無駄だと分かっていたけれど、なにかをせずにはいられずに、腕を動かして足掻きました。

 不意に柔らかい感触。あの人が帰り際にくれたくまのぬいぐるみ。

 血で濡れたそれを必死でそれを抱き寄せました。

 私の背中で這い回るなにかを感じながら、絶望の中で必死でぬいぐるみを抱き締めました。

 そして必死で願いました。自分のことを絶対に祈ることはなかった私は、最後の最後で全てを裏切りました。

 自分自身すら裏切って、意識が途切れる最後の瞬間まで、自分勝手なコトを願っていました。

 願いは叶わない。分かっていたのに、願わずにはいられませんでした。



 おねがいです。

 だれか、たすけてください。 



 第二十六話『彼と彼女の初デート』END

 第二十七話『彼が執事になった理由』に続く。

彼はなんでもできた。だから厳格で強かった。

そんな彼がなにもかも無くして、最初に出会ったのはなんにもできなさそうな普通の少年。いつも顔をしかめて、不機嫌そうな顔のまま生きる男の子。

偶然でつまらなくて普通でありきたりな出会い。

されど誰が知ろう。

青年は少年と出会ったことにより在り方を得た。

少年は青年と出会ったことにより理想を得た。

それはただ、それだけの物語。


次回、第二十七話『彼が執事になった理由』

前を向け。胸を張れ。最後まで誰かを守り抜け。

それこそが執事というものだ。

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