第二十二話 甦る悪夢と修学旅行(略奪編・後)
バトルはありませんが、シリアスです。
コメディ成分の埋め合わせは同日掲載の後日談で(笑)
足掻いてもがいて踏みとどまれ。
其の意地を貫くために。
最初にそれを見た時に思ったのは、『ああ、こいつ才能ねぇわ』ということだった。
小学校には悪夢みたいな行事が一つ存在する。それは通称『マラソン大会』と呼ばれ、大人たちが子供の苦しむ姿を拝むために開催されるクソ行事だ。ビリになった人間には暖かい拍手というこれ以上なく冷酷な『祝福』が与えられ、ただでさえ体育が苦手な子供をさらにインドア派にするという、どう考えても存在しない方がみんなの健康にいい行事だ。
マラソンなんぞより、バスケットやらサッカーをやった方がいいに決まっている。ホント、マラソン大会なんていう腐れ行事を考えたヤツは、頭がおかしいとしか言いようがない。そんなに走りたけりゃ、自分で走ればいいのだ。
だからオレはサボる気満々だったし、オレとつるんでいた他の連中もそうだった。
けれど、そいつだけはなんだかちょっと違っていた。
そいつは目つきが悪く、いつも不機嫌そうにしているヤツだった。そのくせ教師に言われたことはきっちりこなし、なんでもそつなくこなす。それだけ聞けば優等生のように聞こえなくもなかったが、そいつの目つきの悪さは優等生のそれではなかったし、はっきり言えば授業態度も優等生のものではなかった。
算数の授業中に国語の教科書を開いている。道徳の時間は大抵寝ている。体育もキツいのは大抵サボっていたし、つまらないことははっきりとつまらないとほざき、教師をかなりの割合で困らせていた。そのくせ図工、音楽、家庭などといった『お受験』に関連のなさそうな授業だけはしっかりと出席し、かなりの高得点を収めていたりする。
はっきり言えば、そいつはオレよりもはるかに変人なのだった。
そんな経緯もあって、そいつがマラソン大会のトレーニングを始めた時は『とうとうおかしくなったか』と信じて疑わなかった。我ながら失礼だとは思わなくもないが、不良がいきなりなんの前触れもなく教師を崇拝し始めたら誰だって薬物の使用を疑うだろう。それと似たようなもんである。
あいつのマラソンのトレーニングってやつはそりゃひでぇもんだった。堅実に走って、走り続けてそれで終わり。スタートダッシュもなく、なんの派手さもなく、地味に走って百人中五十位を狙うような走り方。それを放課後何回も続ける。地味で堅実で淡々と作業のように走り、走り続け、夕日が沈んでからも走っていた。しまいにゃOLみたいに格好いいスーツを着込んだ絶世の美女が、そいつの頭をはたきつけて襟首引っつかんで無理矢理連れ帰るまで走っていた。
後で分かったことだが、そのOLはそいつの母親だった。職業は漫画家。世も末だと本気で思った。
マラソン大会が始まる一ヶ月間、そいつはそれを続けた。そのトレーニングはもうクラス全員に知れ渡っていたので、あいつがマラソン大会でなにかしでかすんじゃないかと噂になったくらいだった。
そして、当日。何事もなくマラソン大会は終了した。そいつは五十位だった。
練習通りの順位に、そいつは笑っていたが、オレとしてはなんとなく不満足だった。
そもそも、一ヶ月も訓練を積んだヤツが、五十位で満足していいわけがねぇのである。
そう、オレの見立てではオレに及ばないまでも三十位くらいには食い込めると踏んでいた。あいつのトレーニング量はそれこそ『異常』と呼べるものだったし、それだけのトレーニングを積んでいたのならもっと上位に食い込んでいてもおかしくない。
五十位という順位は努力に見合っていない。見合っていなければそれはおかしいのだ。
だから放課後、屋上に呼び出して聞いてみた。お前、もっと早く走れたんじゃないかと、問い詰めてみた。
そいつは不機嫌そうに顔を歪めて言った。
「無理だね。今の僕じゃどう足掻いても五十位以上には行けない。そもそも才能がない。マラソン大嫌いだから」
「そんなもん、オレだって一緒だっつうの。あと五十位以上は無理ってのは嘘だろ。お前、放課後ずっとトレーニングしてたじゃねぇか。あんな滅茶苦茶やっておいて、なんでそんなコト言えるんだよ? 悔しくないのか?」
「悔しくはないね。それに、今回のことでよく分かった。……まともにやれば、僕はこんなもんだ」
「……………は?」
「お前みたいになんでも上手くはできないってコトだよ。残念なことに『ウサギとカメ』のような童話のように、才能があるやつがああやってサボってくれるわけじゃない。『努力』も才能のうちだ。努力することを苦と思わず、努力を放棄することが苦しいと思えるような人間が、世界では本当に強い。勉強や運動に限らずなんでもそうだ。努力をやめた人間から死んでいく」
オレは思う。そいつを見た時に、初めて思った。
神様ってヤツが存在するのなら、どうしてこいつをもっと子供らしく、馬鹿にしてくれなかったのだろう?
無邪気で馬鹿で純粋で……そんな子供でも良かったのに。
そいつは、ただ理解だけしていた。子供のくせに理解力だけがあった。
「残念といえば残念だけど、僕には才能がない。努力すりゃ平均値ちょい上くらいまでは行けるけど、それ以上は無理だね」
どんなに努力を重ねようとも、自分には届かない領域がある。そんなコトを理解しきっていた。
自分が一番でいたいはずの子供にあるまじき……それは『諦め』にも似た敗北だった。
いつかどこかで味わう挫折。こいつは小学生なのに、子供なのに、とっくの昔に膝をついていた。
「……いいのかよ、それで」
「いいんだよ、それで。当たり前だろ? 人はなんでもできるわけじゃない。正義の味方にはなれない」
正義の味方を信じなきゃいけない子供が平気でそんなコトを口にする。
いつものように不機嫌そうな顔で、つり目をナイフのようにつり上げて、口元を歪めて笑う。
「それにな、友樹。僕から見ればお前こそ腹が立つ。お前は他の人間よりもこっそり優れているくせに、それをサボって使おうともしない。そーゆーのは見てて腹が立つ。天賦の才は天に返せ。つまらんことで才能の出し惜しみをするな」
「お、お前に言われたくねぇよっ!!」
「じゃあ、これから全力を出してやろう。受けて立つか三十位」
「面白いやってやろうじゃねぇか。お前の足でオレに勝てると思うなよっ!」
オレは威勢よく言い放って、勝負を受けた。
そして、
「いや、あそこまでコテンパンにやられたのは初めての経験だったな。オレがフラフラになりながらグラウンドに辿り着いた時には、もうあいつはグラウンドにいたんだ。そりゃ滅茶苦茶なスタートダッシュでリードを許したのは事実だったが、まさか逃げ切られるとは思わなかった。……まぁ、後で分かったんだが、結局はイカサマで、単純にコースをショートカットしただけだったんだけどな」
「………………うわ、先輩ってえぐい」
「まぁ、胸がときめくような下劣さですね。もう一度鞍替えしたくなるくらいです」
友樹の語った物語ともいえない昔話に、麻衣は思わずドン引きし、要は頬を綻ばせた。
式場到着後、友樹は彼が送ってくれた顔見知りの『援軍』二人と合流し、最後の打ち合わせをした。
打ち合わせの間、二人とも全体的には笑顔だったが明らかに怒っているのが丸分かりで、友樹は背筋に冷や汗を流しながら計画の内容を話すことになった。
そして、ほんのちょっとだけ時間が余ったので、なんとなく昔話をしてしまったというわけだ。
友樹は苦笑をしながら時計を見る。そろそろ、計画開始の時刻だ。
「さてと……二人とも、そろそろ時間だけど準備はいいか?」
「あはは〜、あたしはいつでも準備OKですよぅ。ここまで来るのに覚悟も完了してます」
「私はまぁどちらでも。私たちの身の保障は先輩方がしてくれるようなので」
麻衣はいつも通りのにこにこ笑顔で対応し、シスターはいつも通りの不遜な笑顔を浮かべていた。
(ホント、こいつら……心臓に毛でも生えてるんじゃねーか?)
あまりのふてぶてしさについついそんなことを思ってしまう友樹だった。
「まぁ、頼りにしてる。正直君らがミスると、オレもあいつも破滅の一本道だ。頑張って四季を説得してくれ」
「ふっふっふ……残念ですが、説得なんて必要ないですよ」
「そうですね、説得など不要です」
「え?」
友樹が呆けた顔をすると、二人の少女はにやりと、まるで問題ないと言わんとするかのような不敵な笑みを浮かべた。
『私たちは、あの子の決意を踏み潰すためにここまで来たんだから』
まるで一心同体。二人で一つの意志であるように、二人は断言した。
その言葉に嘘はなく、あるのはどこまでも強烈な意志のみ。
(……親友。お前ってやつはどこまで厳しいんだよ……)
あまりの迫力に気圧されて、ちょっと泣きそうになりながら友樹は心の中で呟く。
同じように不敵な表情を浮かべる二人は、この場にいない彼などよりもはるかに騒乱を巻き起こす存在だった。
不満は腐るほどあった。なんで自分はあの領域に届かないんだろうといつも思っていた。
正義の味方にはなれないとかほざきながら、実際にはそういう生き方に憧れていたのには間違いない。
結局は、僕も子供だった。子供だったけれど、絶対に勝てないものがあることを知っていた。
努力だけではどうにもならないことがあることを、身を持って知っていた。
「………………っ」
背を向けて逃げながら、僕はそんなコトを思い出す。なるべくなら思い出したくないことで、きっとそれは辛いこと。
いつも諦めていた。最初から勝てないのなら……努力する意味もない。
敵わないのならなにもしなければいい。それは嫌で嫌でたまらなかったけれど、そうするしかなかったから、そうした。
それすらも言い訳だった。
「逃げるだけでは、勝てませんよ?」
「っ!?」
背後から爆発的に膨れ上がる殺気に、僕は思わず身震いする。。
咄嗟に身を捻ると、脇の下を漆黒の刀身が通り過ぎる。あまりにも無理な姿勢でかわしたせいでバランスを崩したが、地面を転がって反動をつけて起き上がった。
擦り傷切り傷は当然。今は脇腹、さっきは危うく右腕を持っていかれそうになった。その一撃ははぎりぎりでなんとかかわせたおかげで軽傷だったけど、放っておいていい怪我でもない。
強さの差は歴然。今ここで僕が生きていられるのは、逃げに徹したから以上に、相手の手加減が大きい。
「ふむふむ、なるほど。逃げ足は大したもんです。間合いの取り方も、反射神経も並よりちょい上くらいなのに」
黒塗りの真剣を無造作に構えながら、完璧なメイドさんこと芳邦鞠さんは口元だけをつり上げる。
「速度は私の方が明らかに上。なのに攻撃が当たらないというのは……つまり、その『前』を見ているということですかね?」
「………………」
うーん、やりにくい。超一流って肩書きのつく人は、どうしてここまで凡人の努力を嘲笑ってくれるんだろうか。
せっかく章吾さんや京子さんに習ったことが、ものの数分で見抜かれていく。
メッキが剥がされていくと言い換えてもいいかもしれない。
「だとしたら、大したもんだと思いますよ。手首の返し、目の動き、足運び、間の取り方、そして呼吸。それらを先読みした上で、私が動き出すコンマ一秒前に全力を持って『回避』する。……見る力というか観察力というか、貴方はそういった『予測』する力がずば抜けていますね。……もっとも、予測が一回でも外れれば死にますけど」
その通り。今ので通算四回かわすことができたけど、それは単純に運が良かったからに他ならない。
運が悪かったら、最初の一撃で僕は一刀両断にされていただろう。
「しかし……分かりませんね。なぜ貴方は私の剣をかわすことができるんですか?」
「週刊少年ジャ●プを毎週欠かさず読んでるからですね」
「あら、私はどちらかというと別マ●派なのですけれど」
うーむ、そのあたりは読んだことがない。や、単純に『ロマンス的な恋愛』ってヤツが苦手なだけなのだけれど。
さてさて……それはともかく、今この場をどうやって切り抜けたらいいものか。
僕がそんなコトを考えていると、鞠さんはにっこりと笑った。
「さて、それはともかく……どうやったら貴方は本気で私を斃そうとしてくれるんでしょうかね?」
「なんのことでしょうか? 斃すもくそも、僕はもうとっくに全力だったりするのですが」
「友樹様が仰ってましたよ。『貴方は手段さえ問わなければ、どんなモノにだって勝てるだろう』って」
「100%混じりっ気なしの買い被りですよ。あいつの目は節穴ですから」
「それは否定しませんけど、これは私が貴方を見ての判断でもあります」
「勘違いですよ。まぁ、百回に一回くらいは誰でもやるだろうって程度の、ですが」
「………………ほう、あくまでとぼけますか。仕方ないですね、これは最後の手段だったんですけど」
鞠さんは意地悪っぽく笑う。小悪魔のような、どこか遊び心を含んだ、ある意味では残酷な笑い。
そして、彼女は口を開いて、言ってはならないことを言った。
「貴方は●●姉さんをいつまで『飼って』おくつもりなんですか?」
凍りつく。背筋を震えが走り、僕は目を見開いて彼女を凝視する。
鞠さんの言ったことが一瞬理解できず、一瞬で理解して、僕は目をナイフのように細めた。
「……ハ、なるほどな。そういうコトかよ、クソったれ」
毒づいて、嘲笑し、僕はゆっくりと残酷な覚悟を決める。それは単純に、『元に戻る』覚悟。
「あーぁ、面倒くせぇにも程度ってもんがあるのによ。いつもいつもこんな役回りだよ。ったく……」
ポケットから煙草を取り出し、口に咥えてジッポライターで火を点ける。
点火は一瞬。燃え尽きるまでは三分程度。人生も似たり寄ったり。
もう笑顔はない。もう僕は笑っていない。いつも通りに不機嫌そうに、いつも通りに世界を恨む。
もうあのクソみじめで情けないガキはどこにもいないけれど、あの時の気持ちを忘れたわけじゃない。僕はいつだって世界を恨んでいたし、なにもかもを憎んでいたようなものだった。つまらないから、面白くないから、全部恨んでいた。
届かなくて、悔しくて、それでも諦めるしかなくて、当たり前で普通でみんなが通る挫折を、認めたくなかったから。
「なぁ、鞠。アンタは挫折とかしたことあるか?」
「はい。大きいのは三つほど、小さいのはそりゃもう数え切れないくらいに」
「……そりゃすごいな。俺は一度しかないぞ」
「え?」
鞠さんは呆気に取られた顔をしていた。意味が分からないと言いたげな表情。
そんなことはお構いなしに、言い放つ。
「シンプルに言ってやろう。『俺』は、挫折をしたことは一度しかない。とびきりでかくて最悪なヤツだ」
「……でかくて最悪、ですか」
「最初から膝を屈していれば、『挫折』はできないさ。もう膝を折っているんだから、これ以上は膝を折ることはできないだろ。単純で簡単でシンプルかつ簡潔で、クソ面白くもないへ理屈だよ。つまんねーなら忘れろ」
草原に煙草をポイ捨てして、足で踏み潰して火を消す。念入りに踏み消して、僕は口を開く。
「そもそも、膝を屈している暇なんざ俺にはない。人間には時間が限られてる。その中でつまんねー知識と経験を必死こいて詰め込んで、それで生きていくのが人間だ。なら、生きていくのに暇なんざねーのさ。常在戦場、人生は戦いで、敵は自分以外の大体全部だ。自分だってアテになるものか怪しいし、それ以前に世界には不平等がいっぱいだ。生まれた時点から差がついているなんざ、サギとしか思えんね」
「……なにを言っているのですか、貴方は?」
「当たり前のコトを言っているのですよ、俺は」
揚げ足を取るように鞠の口調を真似て、俺は皮肉げな嘲笑を浮かべる。
「俺はそこそこ普通なつもりだった。勉強そこそこ、運動そこそこ、そこそこ人間関係もうまくやって、そこそこ頼られる。そーゆー普通で当たり前なつもりだった。まぁ、事実その通りだった。俺は普通で、普通ぐらいで、努力すれば平均以上くらいにはなれるが決して超一流にはなれない。そーゆーもんだったのさ。……他の全ての誰かと同じように、普通だった」
そう、それが当たり前。
けれど、当たり前になんて意味はなかった。
「特別になりたいわけじゃない。……が、俺の家にはあまりにも『特別』な馬鹿が二人いてね、しかもそいつらが僕の両親だったからたまったもんじゃない。そいつらはヘビー級ボクサーが全力でへこました鏡に映した自分くらいに真逆どころか共通部分なんて何一つない馬鹿だった。父親は虚弱体質で常軌を逸した優しい嘘吐きで、母親は誰もが憧れるような完璧だった。……そんな両親に、僕はちょっとだけ憧れた」
届くわけがない。その二人はジャンルこそ違えど、余人が届かない領域にまで至った人間なのだから。
あまりにも遠く、届かない彼岸。星空よりもなお遠く、月よりも遥かに高い朧な夢の向こう側。
そこに立っている二人を羨ましいと思った。
けれど、二人は自分の長所をさっぱり生かそうとせず、父親は虚弱なくせにサラリーマンやってたし、母親は完璧になんでもできるくせに漫画家をやっていた。
自分ならもっと上手くやれると思った。自分に両親のような能力があれば、もっとちゃんとやれると思った。
けれど、自分はどこまでも普通で、普通であることを感謝すらできず、お門違いに世界を恨んだ。
「結局のところ、俺はないものねだりをするガキ以下だった。それに気づいてすらいなかった。ないものは『ない』、そんなコトすら認められない最悪の子供だった。聞き分けのないガキほど手に負えないものもねーわな」
「……つまり、なにが言いたいのですか?」
「……つまり、今はそれを理解しているというコトなのですよ」
俺は笑う。皮肉げに、口元を緩めて、憎憎しげに、浅ましく、まるで悪党のように。
「足りない分は知恵で補う。届かない分は道具で補う。自分にないなら誰かを頼る」
特別になんざならなくてもいい。普通なら普通なりに、当たり前のように、普通らしくやるだけのこと。
「そして、最後に自分を支えるのが努力と根性だ。それ以外に人が生きる道などない」
それを教えてくれたのは、僕を助けてくれた、涙もろいメイドのお姉さん。
だからいつも笑うことにした。努力と根性をすることにした。
あの人を泣かせたくないから、あの人の心が少しでも癒されるように、笑って努力することにした。
似合わないけど、そーゆーことだ。俺はつまらなくて卑怯で普通かもしれないが、それだけは譲らない。
譲れないものがあるから、俺は戦う。自分は特別なんかじゃないと悟った今でも世界を恨み続ける。
「芳邦鞠。有坂家メイド。俺はアンタを打倒する。平凡で平坦な手口、その身に刻んで絶望しろ」
「………ふふ」
鞠はまるで普通の女性のように柔らかく笑って、スカートの裾を持ち上げて頭を下げた。
「ならば、全力でお相手いたします。それから、今までの非礼にお詫びを。……私は、貴方様を見くびっていました」
「ハ、ようやく気づいたか。斃されたくなかったら全力で来い」
「はい」
鞠は無造作に黒剣を構え、一歩を踏み出す。
「では……参りますっ!!」
「はい、残念賞」
参りますと鞠さんが言い終わったタイミングで、俺は大きく息を吸ってワイヤーを十本まとめて引っ張った。
周囲全てが紫色の煙に包まれた。
自分を利用した『本家』の連中に祝福されて、ウエディングドレスを纏いバージンロードを歩きながら、桂木唯は無理矢理自然な笑顔になるように口元を緩めていた。
結婚が決まったのは三ヶ月前のことだった。
唯に拒否権などなく、当たり前のようにことが進み、いつの間にか挙式の日。
当たり前のように恋をして、当たり前のように結婚して、当たり前のように子供を産んで死んでいく。
そんな自由が存在しないことは知っていた。絵を描くことをやめた時から覚悟はしていた。
才能がないことは分かっていたけれど、剣を振るうのが楽しかった。
有坂の家に『一流』は必要ない。求められるのは『超』がつくほどの技能を持った人間だけ。しかも利益に繋がらなければどんな技術であろうと『ゴミ』同然として扱われる。……そして、実力がない人間は、道具として扱われた。
有坂の家は、そうやって『経済』という名の戦争の中を生き残ってきた。
(……だから、これは仕方がない)
そう割り切ろうとしていた。自分が決めたことだと、そう思おうとしていた。
だから誰にも相談しなかった。全部一人で決めて、一人で納得した。有坂の家の長子である兄に頼めばなんとでもなることかもしれなかったが、唯はそれすら拒絶した。自分が我侭を言えば、兄の立場が悪くなると思っていた。
友達である麻衣や要に相談すらしなかった。連絡手段は取り上げられていたけれど、そんなものはなんとかしようと思えば何とかなった。ただ……なにもかも吐き出せば楽になるだろうけど、事態の解決にはならない。
あの人に頼むこともできた。けれど、それだけは絶対にできないと分かっていた。
心の中で苦笑しながら、唯は真っ赤な道の上を歩いていく。外から見れば幸せそうに。
けれど、その心には苦しみしかない。
(先輩……。全部、貴方の言うとおりでした。私は結局甘ったれでした。なんにも知らずに剣を振り回して、困っている人を見つけてはお節介を焼くただの馬鹿でした)
心の中の懺悔を届かせるつもりもなく、唯は顔だけで笑顔を作る。
本当は、最初から分かっていた。自分は誰の特別にもなれないことを。
本当は、最初から理解していた。自分は正義になどなれないことを。
本当は、最初から知っていた。自分の生き方がどこまでも無様な欺瞞であることを。
だから、これは、このことは、拒絶しなかったことも含めて、全部。
(全部……私のせいだ。私の責任だ)
ゆっくりと息を吐く。目を閉じて、ゆっくりと開く。
唯は覚悟を決めた。今後一生続くであろう後悔を全て叩き潰す覚悟を完了した。
自分を全て押し殺し、後悔をやめ、諦めることもやめ、あらゆることをやめる覚悟を、決めた。
神父の声が響く。病める時も健やかなる時もという定例句。腕を組んでいる男が「はい」と答えて、次は唯の番だ。
「貴女は病める時も健やかなる時も、この男を伴侶とし、一生添い遂げることを誓いますか?」
「……はい」
唯は答えた。覚悟と共に、自分の決意と共に、決定的な言葉を口にした。
神父はにっこりと笑う。
そして、迷わず唯の頬を張り飛ばした。
式場が沈黙に包まれる。なにが起こったのか全員が理解できず、ただ唖然とするだけだった。
神父は笑いながら、まるである怪盗のように顔の特殊メイクをはがし、つけ髭とつけ眉毛をはがす。
そして、かつらを外して地面に放り投げた。
「ああ、主よ。あなたはなにもかもをお許しになられるのでしょう。心の広いあなたは毎日の献身的な祈りを欠かさなければ、きっとなにもかもをお許しになられるでしょう。その御心のままに、誰も彼もお許しになられるあなたを私は愛しています。それでも、私はあなたのような広い心を持たないのです。なぜなら、私は醜く陰惨で残酷な人間なのです。それでも、多少の度量はあるつもりです。我慢もできます。……けれど、我慢できないことが世界には存在するのです」
唯はそこで、この場で一番見たくない友達を見た。
清村要。通称、デビルシスター。神を献身的に信仰する悪魔が、傲然たる態度でそこに立っていた。
「な……なんで、要が、ここに?」
「愚問ですわね、我が親友。そんなもの当然のごとく当然、当たり前すぎて説明するのも億劫です」
そしてシスターはにっこりと笑うと、右手で拳を作り、親指を立てて、下に向けた。
「やりなさい、麻衣。叩き潰して粉微塵になさい」
「は〜い」
間抜けな声が天井から響くと同時だった。
ステンドグラスが、爆音と共にあっさりと砕け散った。
ドン! バン! という破裂音が響き、ステンドグラスのみならず椅子、壁、祭壇が吹き飛ばされる。結婚式に訪れた有坂の家の人間や、新郎の親戚などはあっという間にパニックに陥り雪崩のように出口に殺到する。
パニックの後に訪れたのは静寂。沈痛な沈黙が式場の中を支配する。腰を抜かした新郎、唖然とした唯、そして不敵に笑う要、三人だけが式場に取り残される。
ほんの三分。たったそれだけの時間で結婚式は台無しになった。
シュタッと軽い音と共に、麻衣が教会の天井から飛び降りてきた。その横顔にはいつも通りの笑顔。
「と、いうわけで大成功です。人を巻き込まないように爆破するのは骨が折れましたよー。教会を台無しにするのは、ちょーっと気が引けますけど」
「大丈夫です。こんなクソみたいな結婚式を叩き潰すためなら、主はなんでも許してくれます」
「……いや、絶対に許してくれんと思うが」
唖然としながらツッコミを入れる唯に、要はにっこりと笑って答えた。
「どっちでも構いません。教会は直せばいい。喧嘩したって謝ればいい。……けれど、離婚は簡単にはできない」
「……私が決めたことだ。お前たちには」
「関係ないと陳腐なことを言うつもりならば、生き方そのものを改めるべきでしょう」
笑顔を消して、要は毅然と言い放った。
「貴女が勝手に決めて、勝手に結婚しようとしたことに関してはどうでもいいです。それは紛れもなく唯が決めたことなのだから、他の人がどうこう言う権利はない。……けど、それでも、『関係ない』などということはない」
「………………」
「関係ないと言い張りたいのなら、どんなことにも関与されない鉄壁な己の意志で決定し、その上で言いなさい。そんな不自然極まりない笑顔のままでは心配されて当然よ。……あの人も、そう思っているはずです」
あの人。要は名前こそ出さなかったが、唯にはそれが誰か簡単に分かった。
「……先輩がここに来てるのか?」
「ええ」
「……あの人らしいな」
唯はほんの少しだけ頬を緩めて、要の手を握った。
「なぁ、要」
「なんですか?」
「……迷惑ついでに、付き合って欲しい。けじめをつけたい」
決然たる瞳。何の迷いもないそれを真っ直ぐに見つめ返し、要はこくりと頷いた。
そんな二人を見つめながら、麻衣はにっこりと嬉しそうに笑った。
「さてさて、話もまとまったところで、二人はちゃっちゃと先輩のところに行っちゃってくださいね〜」
「麻衣?」
「あたしは、ここで足止めをします」
麻衣がそう言ったと同時に、滅茶苦茶になった式場に黒服の男たちが駆けつける。
この式場を守っていたガードマンたちだろう。麻衣は総勢十五人を越える黒服を見つめて、口元を緩めた。
「と、いうわけです。あたしと姉御がいればガードマン程度ものの数じゃありませんけどね、ここは男の子らしく、格好をつけて女の子を守るとしますよ。……友樹さんがこっちに来るのにも、少しばかり時間がかかりますし」
「……いや、しかしあの数を相手に」
「先輩なら、間違いなく問題にもせず倒すでしょうね。いつも通りに当たり前って感じに」
顔を引き締めて、麻衣は壁に開いた穴を指差す。
「行って下さい、姉御。けじめってやつをつけたら、またみんなでどっか出かけましょうよ」
「……ああ、そうだな。じゃあ、ここは任せたぞ、麻衣」
「はい、任されました。行ってらっしゃい、姉御」
軽やかに返事をしながら、麻衣は壁の穴から脱出する二人の背中に小さく手を振る。
そして、口元を緩めたまま、ゆっくりと振り返った。
「……ああ、今日はいい日ですねぇ。本当にいい日です。生まれたことを感謝したくなるくらいに」
「お、お前らっ! さっさとこいつを始末しろっ! ボクに恥をかかせてただで済むとゴゥッ!?」
腰を抜かしながらも助けがきたおかげで元気を取り戻した新郎の脇腹に、麻衣は熱烈な蹴りを叩き込んだ。
ゴキリという肋骨が砕ける音が響いたが、全く意に介さず麻衣は笑う。
「黙っておいた方がいいですよ? ガードマンさんには手加減してあげますけど、貴方のようなヘタレには手加減できる自信がありませんからねぇ。……その程度で姉御と結婚しようなんて、五百三十億年早いってのに」
クスクスと愉快そうに笑いながら、麻衣は目を細める。
「本当はここにいる全員を皆殺しにしてやることもできたんですけどね、それはやめておきます。姉御を不幸にしようとするヤツは、あたしの『友達』を不幸にする人間は全員ことごとく殺してやろうかとも思うんですけどやめておきます。邪魔をする人間もせいぜい四分の一殺しくらいで済ませてあげますよ。……今のあたしは近年稀に見るくらいに機嫌がいい。せいぜい、『女の涙』を見るのが死ぬほど嫌いな男の子二人に感謝することです」
麻衣は一歩を踏み出す。
「全くもう、あの人もこの人もいつもそう。ただ己の身勝手で、ただ己の我がままで、自分を悪党だと断言し女の子を助ける。ただ涙が見たくないだけのくせに、ただ誰かを助けたいだけのくせにね。……ホント、笑っちゃいますよ」
小柄な女の子にしか見えない男は、心の底から久しぶりに笑った。
「……ねぇ、そうでしょ? 本物の『悪党』は今まさに『ここ』にいるんだから」
それこそが、悪夢のような笑顔こそが、まるで自分の本当の顔だとでも宣言するかのように、笑っていた。
草原に腰掛けて、まずいタバコを吸いながら、俺は空を見上げていた。
すっかり寝入ってしまったメイドさんは、俺の腿を枕にしてスヤスヤと眠っている。
逃げ回って転げまわって、草原に仕込んだ罠のいくつかを確保し、相手が息を吐いたところで発動させる。
人間、息を止めることはできるかもしれない。けれどそれは『息を吸った後』に限られる。息を吐いた後に息を止めようとも、それはもう破滅が約束された無茶に他ならない。
……こうでもしなきゃ、俺は彼女に勝つことはできなかった。
「あー……しんど」
なんとなくそんなことを呟いてみる。
真剣勝負で勝てればそれが一番良かった。真正面から迎え撃って、勝利できればそれが一番格好いい。
けれど、俺には絶対にできないだろう。真正面から迎え撃てば確実に死ぬ。
勝てないなら、戦うことに意味はない。
昔、俺がまだ小学生だった頃、サドな大人どもが子供の苦しむ姿を見て楽しむ『マラソン大会』なる行事があった。
母親は冗談で『一位になったら欲しいものをなんでも買ってやろう』と言い出した。
俺は本気にした。
だから最初から最後まで勝つためになんでもやるつもりだった。教師に絶対にばれないショートカットコースの作成、事前準備に根回し、素で俺に勝てそうな人間にはマラソン大会直前に下剤でも盛ってやるつもりだった。
そこまでして欲しいものは、母親が持っていた銀の万年筆だった。
今思えば下らないけれど、子供ってのはそういうもんだ。……もっとも、本当に欲しいものは今も昔もあまり変わってないかもしれないけれど。
「お疲れ様ですの、Bさん」
と、不意に日傘を差したアンナさんが俺の横に腰掛けた。
タバコの煙を吐き出しながら、俺は苦笑する。
「……なぁ、アンナさん。君はなんで途中で止めなかった? 普通に殺されかけてたんだが」
「殿方の戦いを止めるほど、私は無粋なつもりはありませんの。……肝は冷えましたけど」
「ははは」
そりゃ失礼なことをした。俺の危なっかしい戦いぶりは、見ててさぞかしハラハラしただろう。
……ホント、美里さんの時といい、彼女には世話になりっぱなしだ。
俺が苦笑をしていると、不意にアンナさんは柔らかく微笑んだ。
「ねぇ、Bさん。ほんの少し、変わったことを聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「今の貴方は本当の貴方ですの? それとも偽りの貴方ですの?」
「どんな自分だって自分だろう。『俺』だって『僕』だってそう変わりゃしない。タバコを吸おうが、屋敷で引きこもってゲームやってようがそんなことは関係ない。口調と態度を変えようが、自分は『自分』。他の誰にもなれやしない」
「それじゃあ、貴方は、この世界のなにを恨んでいますの?」
「……まぁ、色々だな。昔は自分が特別じゃないことに怒っていたが、今はそこんとこはどーでもいい。なんとかしようと思えばなんとかなる。……今一番むかつくのは『女が泣く』ことだ。それ以外は大体妥協できることだな」
「じゃあ最後の質問。貴方は何故、桂木唯さんの結婚を邪魔しようとしましたの? ……もしかしたら幸せになれてしまうかもしれないじゃないですか」
「さっきも言ったが、いい女が泣くのは、俺の精神の安定上非常に良くない。理由なんざそんなもんだろ」
「よく分かりましたの」
義侠でもなんでもない。唯さんを助けようとした理由なんて、その一言で事足りる。逆に言えば、その一言で女の子を助けようとする理由になる。……そーゆーのが男ってもんだろうが。
タバコを携帯灰皿に押し込んで、きっちりと火を消して、歪めていた口元を元の位置に戻す。
さてと……それじゃあ、そろそろ世界を恨むのはやめましょう。
あの子の性格だ。間違いなく『けじめ』をつけにここまで来るだろうから。
「絶対に殴られるだろうケド……ま、仕方ないか」
鞠さんの頭を腿からどけて、ハンカチを敷いてその上に鞠さんの頭を優しく置く。ちょっと寝苦しいのは勘弁してもらおう。
重い腰を持ち上げて、背伸びをして息を吐いて、眼鏡をかけた。
それだけで覚悟はできた。
「じゃあ………そろそろ『僕』は行きます。ちょっとやらなきゃならないことがあるんで」
「ロマンチックな略奪婚ですの?」
「残念ながら、その斜め下くらいですね」
僕は笑った。ちょっと苦笑を混じらせて、それでも笑った。
それがどう伝わったのかは分からない。そんなことはお構いなしだったのかもしれない。
アンナさんは、にっこりと嬉しそうに笑った。
「Bさん」
「なんですか?」
「Bさんは、ほんの少々お節介焼きで人が良すぎますの。そんなことばっかりやってると、いつか不幸になりますよ?」
「そうならないように、努力はするつもりですよ。いつだって僕にはそれしかない」
「ご武運を」
「はい」
僕は身を翻し、固めた覚悟と共に歩き出す。
さて、それじゃあ……いっちょ、ふられに行くとしましょうか。
第二十二話『甦る悪夢と修学旅行(略奪編・後)』END
第二十三話『甦る悪夢と修学旅行(後日談)』に続く
と、いうわけで修学旅行編終了と相成りました。いやー、けっこー長くかかっちゃった上になんか最後の方はドシリアスになっちゃいました。コメディを期待してた方、すみません。後日談で埋め合わせます。
ちなみに、唯さんの『けじめ』については、そのうち書かれる『アナザー編』に収録しようかな? どうしようかな? って感じですんで、期待せずにお待ちください。