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第十九.五話 彼と彼女の事情

いつも通りの文字数ですが、今回はちょいとシリアス気味かもしれません。

まぁ、外伝みたいなもんなんで、たまにはこーゆーのも一興かと(笑)

 しあわせは、ほかのひとにあげてください。



 昔、一つの事件があった。

 それはとてもとても小さな事件で、新聞の片隅にちょっと載って終わった。

 それでも要は知っている。まだ自分がシスターでなかった頃、今はもうおぼろげな記憶の向こう側で、思い出したくないことが起こった。

 新聞の片隅に載って消えていった事件。

 その事件があってから、清村要はシスターになった。



 シスターになってからは色々あった。

 色々あった内の一つが、毎朝の日課が増えたことだと要は思う。

「天にましますわれらの父よ、願わくは、御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。われらの日用の糧を、今日かれらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。願わくばわたし以外のかれらに穏やかな幸福と健やかな時間を与え給え。アーメン」

 朝はいつも礼拝から始まる。いつも通りの穏やかな日差しに要は目を細めた。

 礼拝堂は、人が集まれば荘厳とした雰囲気を出す。しかし、今は礼拝堂には誰もいない。いるのは一心に祈りを捧げている自分だけ。ステンドグラスからは光が差し込み、今だけは主の祈りにアレンジを加えようとも聞き咎める者はいない。

 沈黙は静謐で清浄だった。

 時刻は午前の五時。太陽が昇ってからまだ三時間も経過していない朝方に、要は礼拝を終わらせて、水の入った木製のバケツに雑巾を浸す。

 朝食までは礼拝堂の掃除をするのが、要の日課だった。

 床を箒で掃き、雑巾がけをする。たったそれだけなのにそこそこ広い礼拝堂の掃除を一人で終わらせるのには三時間ほどかかる。

 この礼拝堂は要が通っている学校の設備の一つである。そして、本来なら新入生が礼拝堂の掃除を担当するのだが、要は自ら率先してこの掃除を自主的にやっていた。

「お、やってるね、要。毎朝ご苦労様」

「おはようございます、綾名先輩。今日は礼拝ですか?」

「いや、ちょっと時間潰し。あと、『先輩』とかそんな畏まらなくてもいいよ。アンタとあたしは同じ人間だ。先に生まれたとかそーゆーのはなしにしよう」

 ケラケラと笑いながら、清村要の先輩こと綾名(あやな) 優子(ゆうこ)は拭いたばかりの長椅子に腰かける。もちろん掃除を手伝ったりはしない。

 シスターのくせに謙虚でも敬虔でも慈愛に溢れていたりもしない、髪を茶髪に染めた『今時』の彼女は、要がこの掃除の時間をわりと楽しんでやっていることを知っている。知っているからこそ邪魔はしたくないと思っていた。

 けれど、ただ見ているだけは退屈だったので、声をかけてみた。

「ねぇ、要」

「なんですか?」

「アンタさ、好きな男でもできた?」


 要は滑って転んでひっくり返って、バケツを蹴り飛ばして水をぶちまけた。


 気まずい沈黙が礼拝堂を支配する。優子は顔を逸らしてなにも見なかったふりをして、要はなにごともなかったかのように撒き散らした水を綺麗に拭いた。

 それから、憮然として目を細めた。

「どういう意味ですか? 先輩」

「どうもこうもそういう意味だけど」

 優子にきっぱりと言い放たれて、要は顔を真っ赤に染めた。

「そ、そんなことはありません。私の純潔は主に捧げたんです」

「我らの神は純潔なんてもらっても、嬉しくもなんともないだろうけどね」

「神を侮辱するんですか?」

「一生意地を張って貞操を守るより、好きな相手の子供を産んだ方が生産的ってことよ。神様だって命の営みが失われるのは、きっと悲しいはずだから」

 さりげなく説得力のあることを言いながら、優子は不意に真剣な顔になる。

「要。これは一人の人間としてのアドバイスだけど、身構えずにもうちょっと肩の力抜いたら?」

「……どういうことですか?」

「そういうことよ。自分でも心当たりくらいはあるんじゃない?」

 言われて、要はひどく動揺していた。

(……なんで?)

 動揺した理由は分かり切っていた。

 けれど、動揺が想像以上のものだったから困惑した。

 優子はゆっくりと溜息を吐いて、口許を緩めて立ち上がる。

「じゃ、あたしはこれで。今日は彼氏とラブラブ・デートだから」

「寮母さんに怒られますよ?」

「そのへんは上手く説明しといて。じゃ、そーゆーことで。ばいびー♪」

 ヒラヒラと軽薄そうに手を振りながら、優子は礼拝堂から去って行った。

 その背中を苦笑しながら見送ってから、要は不意に目を細め、口許を歪めた。

「……まったく先輩は相変わらずなんだから」

 我知らず呟いて、要は掃除を続けるためにバケツを持ち上げる。

 とりあえず、心の中で『ふられろ』とだけは祈っておいた。



 ガクランに身を包んでいる空倉陸は、毎日がおおむね不機嫌だ。

 今年で十四歳、中学二年生の彼は雇い主である主人に『義務教育も終わらせていない人間に存在価値はないんだよ?』と脅され、色々あった挙句に学校に通うことになった。

(ま、学校に通うのは別に悪くねぇけどよ)

 勉強は面倒だし人間関係とかはもっと面倒だったけれど、陸にとっては学校という場所は桃源郷、もしくは聖域、あるいはヴァルハラだった。

 変態屋敷で働いているよりは、ずっとましだと思っていた。

 なぜか女物の制服(ブレザータイプ)を着ているこいつさえいなければ。

「ねぇねぇ、陸くん。今日もあのメイド屋敷でメイドさんたちにぐりぐりされたりするんですか? 麻衣ちゃん先輩ちょー羨ましいなー。一人欲しいなー、メイド」

 帰り道を嫌々ながら歩く陸の隣で、にやにや笑いながらペラペラしゃべりまくる少女に見える少年こと獅子馬麻衣は、少年だが姦しい少女のようだった。

「うるせぇ。つーか黙れ。くそやかましいわ」

「ほほう?」

 陸の暴言に麻衣はにやりと笑いながら、彼の頬を軽く引っ張った。

「そーゆーこと言うと、先輩に言いつけますよ?」

「……や、それはちょっと」

「立場が弱いっていうのはお互いに辛いですねー」

 中学三年生の獅子馬麻衣は、それでも楽しそうににやりと笑った。

 それを見て陸は思い切り溜息を吐く。

 世の中に慣れていない陸のことを心配して屋敷の主人が紹介してくれたのが、少女のような彼だった。明らかに人選を間違えているとしか思えない。

(……まぁ、あのにーちゃんのやることだから、なんか考えがあるんだろうけどよ)

 やること成すことが本気なのか冗談なのかいまいち分からない彼の姿を思い出しながら、陸は中学生らしい苦悩を深めていく。

 そんな陸のことなどお構いなしに、麻衣は今日もフルパワーだった。

「あ、陸くん。あれが最近出来たばっかりにも関わらず、この辺の中高校生のハートを鷲掴みにしたファンシーショップです。これはもう早速突撃でしょう!」

「……なんで普通にファンシーショップに行けるのかな、この先輩」

「なんか言いましたか?」

「んにゃ、なんも言ってません」

 呆れながらも、陸は麻衣についていく。

 なんだかんだ言ってはいるが実際の所、陸は麻衣が嫌いではなかった。理由まではよく分からないが、嫌いじゃないならそれでいいやと陸は思っている。

 深いことを考えるのは苦手なのだった。

 ファンシーショップの扉が開く。中学生の男子二人で入るのには、ちょっと勇気の要る『ふわふわもこもこキラキラキュピーン』といった感じの店である。

 そこで、陸は会ってはいけない人物に出会ってしまった。


『あ』


 ラッピングされた大きなくまのぬいぐるみを抱えて店から出てきたのは、屋敷の執事長こと章吾だった。

 静かな、というよりも明らかに痛い沈黙が落ちる。夫の浮気相手は二次元世界に生きるアニメ少女だったくらいの激痛である。

 それでも、先に口を開いたのは章吾だった。

「……や、やぁ、陸。こんな所でなにをしているんだ?」

 陸は全力で『そりゃこっちのセリフだ!』と言いたかったが、あえて堪えた。

 男には、時として言ってはならないことが存在する。

「執事長さんこそ、こんなところでなにやってるんですか?」

 が、悪戯心で言ってはならないことを平気で口に出来る人間も存在する。

 完璧な麻衣の嫌がらせに、章吾はかなりの渋面になる。

「いや、その……なんだ。ちょっと、プレゼントを買いに」

「プレゼント?」

「だから……その、デートというのはそういうものじゃないのか? ……まぁ、正直財布が苦しいのは否定しないが、デートなら仕方ない」

 章吾の困惑の表情に、麻衣は己の失策を悟る。

(陸くん……この人、まさか)

(言うまでもねぇことだが……その通りだ)

 アイ・コンタクトでお互いの意志を確認。麻衣はかなり口許を引きつらせ、陸は深々と溜息を吐いて覚悟を決めた。

「あのさ、執事長」

「なんだ?」

「その熊のぬいぐるみ、デートの間中ずっと持ってるつもりなのか?」

「……………あ」

「………………」

「………………」

 気まずいどころじゃない、とてもとても重い沈黙が、三人を包み込んだ。



 慎ましやかで、穏やかな雰囲気のある喫茶店。麻衣の行きつけの店だというそこは、そんな雰囲気を持っていた。

 木造の机とテーブル、日の光が差し込む店内、人の心を潤す観葉植物。

「なにより、店員のにーちゃんが男前なのが人気の秘訣です」

「さよか」

 かなりテキトーに返事をしながら、陸は正面に座る男を見つめる。

 新木章吾。屋敷の執事長。執事なのに陸が手も足も出ない体術を有し、仕事もそつがなく完璧。外見もしっかりと整えられている。

 この一見パーフェクトそうに見える男の欠点が、あらゆる意味で不運であることと、女性にモテないところだった。

 不運なのは仕方がないとしても、女性にモテない原因を陸は知っている。

 男女隔てなく、誰に対しても厳しいのだ。

 だからこそ、屋敷の中では梨本京子や橘美里などのおおらかな女性には嫌われていないが、それ以外のごくごく普通に働いている女性のほぼ全員が彼を嫌っている。『融通が利かない』とか、『偏屈』とか、『とにかく真面目すぎてつまんない』とか、『説教が長い』とか、『見ててかわいそうっていうか幸薄そう』とか、そういう辛辣な評価ばっかり下されていた。

 優秀すぎる学級委員長が、そのまま大人になったようなもんだと陸は思っている。

「む、これはなかなか……美味いな」

「でしょ? ここのキリマンジャロはあたしのオススメなんですよー」

 そんな陸の思いも知らず、中学生と無邪気にコーヒーを飲む章吾。

 陸は口許を思い切り引きつらせながら、ポツリと言った。

「なァ、執事長」

「なんだ? 陸」

「アンタ、女と付き合ったことねぇだろ?」

「ないな。別に付き合わなくても生きてはいける。わりと寂しいのは否定せんが」

 わりとどころではなく、かなり寂しいことを言いながら章吾はコーヒーを飲む。

 その横顔は美味いコーヒーのおかげかわりと幸せそうなのだが、陸はなんとなく理不尽なものを感じてしまう。

 むくむくと、陸の中に存在する美点の一つが鎌首をもたげてきた。それは一般的には『お節介』と呼ばれるもので、彼はこの美点のせいで一生苦労して過ごすことになる。

 そして、今回も彼は無意識のうちにお節介な行動を始めた。

「なァ、執事長」

「ん?」

「アンタ、ずっとあの屋敷で執事やってる気かよ?」

「さてな。将来のことはどうなるかは分からんが、今はあの屋敷を辞める気はない」

「アンタ、嫌われてるぜ。特に女連中から」

 陸はひどいことをきっぱりと言った。

「それがなんだ?」

 章吾は当たり前のように切り返した。

「私の役目はあの屋敷が存在できるように全力を尽くすことだ。他の連中に嫌われていようとも、それは関係ない。人に好かれたい、人に嫌われたくないと思うのは人として当然のことだが、その感情が『仕事』に差し障りがあるのだったら、切り捨てるさ。その程度は当然のことだ」

「けどよ……」

 言葉に詰まって、陸は不愉快になる。

 陸が抱いている感情は、彼の主人であるキツネ目の少年が常々章吾に対して抱いている感情とほぼ同じものであったが、陸はそれを上手く言葉にできない。

 そんな陸を見て、章吾は苦笑した。

「まぁ、女が苦手だというのは否定しないさ。どうも俺は……女と相性が悪い」

「そんなの、言い訳になるかよ」

「ならないな。それはそれで仕方がない。自分のことは自分でなんとかするさ」

 諦観とも楽観とも取れる曖昧な微笑を浮かべて、章吾はコーヒーを飲む。

 きっぱりとした言葉。完全な自覚。苦手なものは苦手で嫌いなものは嫌い。それらを完璧に受け止めて……どうにもならないことがあることを悟っている。

 陸にはそれが気に食わない。

 他の人間が諦めるのはいい。曖昧に誤魔化すのも構わない。

 けれど、

「なぁ、執事長」

「なんだ、さっきから」

「率直に言わせてもらう。オレはアンタの『厳しさ』ってやつは嫌いじゃない」

 章吾の手が止まる。かなり驚いた表情を浮かべて、陸を見つめた。

 陸は真っ直ぐにその目を見返していた。

「だから、アンタがそうやってどうにもならないことを諦めたり、曖昧に誤魔化したりするのが気に食わないんだと思う。自分にも他人にも誰にだって厳しいアンタが、ウチの職場で誰よりも勇猛果敢に働いている『執事長』が、そうやって男女関係になると妙に気弱になるのが……なんか、むかつく」

「いや……そう言われても」

「アンタ、最初に言ったじゃねぇか。『典雅に優雅にエレガントに。どんな時でも前を向け。執事というものはそういうものだ』って」

 陸の真っ直ぐな言葉に、章吾は二の句が告げなかった。

 どう返答していいのか分からず、頬を掻いてコーヒーを飲んだ。

 結局、なんと言っていいのか思いつかなかった。

「貴方の負けですよ、新木さん」

 ブルーマウンテンを飲んでいた麻衣は、にっこり笑う。

 そして、ゆっくりと立ち上がる。

「それじゃあ、行きましょうか」

「行きましょうって……どこに?」

「服飾店です」

 にっこりとした微笑ましい笑みを、にやりとした不敵な笑みに切り替えて、少年はいつも通りに、絶望的に楽しい悪戯を開始した。

「格好良く着飾ってあげますよ。なに、遠慮は不要。今回はあたしのおごりです」



 望みません。願いません。乞いません。逆らいません。

 私は祈ります。一心に、一心不乱に、ただ一つだけを祈ります。

 私以外の誰かが幸福でありますように。



 心がざわざわと揺れている。理由は分かりきっているので、要は内心で呆れながらパックのトマトジュースを飲んだ。

 喉が潤って安心したのか、少しだけ心が緩んだ。

「……どうしたものかしらね」

 外出日でもないのに学校を抜け出して、修道服のままトマトジュースを買って、地獄の坂道を越えて変な庭を持つお屋敷の前に立っている自分に、要は呆れ果てた。

 なにがしたいのかは分かっている。

 しかし、自分の気持ちが全然理解できない。

 分かり切っているから納得ができない。

「……恋愛の初期症状その1というやつですね」

 溜息を吐きながら、要は仏頂面のままトマトジュースを飲む。

 清村要。花も恥らう十六歳。高校一年生の彼女は、一般的に『普通』とされる少女ではない。しかし、体が貧弱なことも、古傷のせいで足が動かないことも、嘘はあまり吐かないが毒を吐く性格も、『普通』じゃないとされるようなことではない。

 それは心である。誰かに対する祈りである。最もきよらなる願いである。


 清村要は、シスターになってからただ一度とて、己の幸福を祈ったことがない。


 今はもう思い出せないが、清村要は酷い目にあった。

 それならそれでいいと割り切って、過去は変えられないから未来に生きようと誓って、要は自分を救ってくれた人を見習ってシスターになった。

 他人の幸福を祈り始めたのはそれからだ。自分はもう死んだようなものだから、病弱で長くは生きられない体だから、せめて誰かのために役に立とうと思った。

 だからこそ、自分の心にはものすごく敏感になった。自分の状態を把握できていなければ、『他人の心を救う』ことを願う己の心を真っ直ぐに保つことができなければ、人を救うことなどできるはずもないからだ。

 自己の完全把握と誰よりも深い献身。この二つにおいて、彼女に比肩するものはどこを探しても存在しない。

「まったく、恋愛なんて分不相応だというのに」

 溜息を吐きながら、要は肩をすくめる。

 そして心の中で決める。今日で想いを断ち切ろう、適当に告白して、ふられて、吹っ切って、ほんの少し泣いてからまた以前のように暮らそう。

 どうやら章吾には好いてくれる娘さんがいるようだから、彼女と幸せになってくれることを祈っておこう。

 他人の幸せしか祈ることしかできない自分。自分の幸福を祈れない自分。

 そんな人間に、他の人を幸せになどできるはずがないのだから。

 トマトジュースを飲み干して、清村要は門の前で一大決心を固めた。

 決して揺るがぬように目を閉じて、大きく息を吸って覚悟完了。

「おねーさん……なにしてんの?」

 声が聞こえてきたのはその時だった。

 振り向くと、そこには要のことを怪しいものを見るような目で見つめる美少女が立っていた。

 綺麗で利発そうな顔立ちに、意志の強そうな丸くて大きい猫目。二つに分けた三つ編みに、背中には赤いランドセル。服装は子供らしく慎ましやかで地味なものだったが、おそらく同世代の子供の中にあっても彼女は一際目を引くだろう。

 子供というものを長く見てきた要は、彼女が『特別』であることをを一発で見抜いた。

「おねーさん、もしかして宗教の勧誘とかそういうの? やめておいたほうがいいよ、対応してくれるのが山口のおねーちゃんとか、冥おねえちゃんとかならまだしも、ママや舞おねーちゃんだとお尻の毛まで抜かれて追い出されちゃうよ?」

 訂正。顔立ちは綺麗だが、どうやら気品はないらしい。育ちは悪そうだ。

 心の中の評価欄にひどいことを書き加えながら、要はにっこりと笑った。

「私は怪しい者じゃありませんよ。宗教の勧誘でもありません。ここのお屋敷の主人である、ある男の人と知り合いで、彼に会いに来ただけです」

「ふーん……それにしちゃ、大分長い間屋敷の前でうろついてたみたいだけど?」

 訂正。育ちは悪いが頭は切れる。敵に回すと面倒なタイプ。

 心の評価欄に『要・警戒』と書き加えて、要は営業用のスマイルを浮かべた。

「悩み多き年頃なもので」

「ふんふん、ってことはお姉さんの言葉をそのまま受け取るなら、その『恋愛の初期症状』っていうのは章吾に向いてるわけじゃないんだね?」

 

 その言葉は、要にとって十分すぎる破壊力を秘めていた。


 目を見開く。口許を引きつらせる。なんだかちょっと泣きそうになる自分を鼓舞しながら、要は目の前の少女に問いかけた。

「……今、なんと仰いましたか?」

「あ、意味が分からなくても気にしなくていいよ。おねーさんには関係ないことだし、小学生の恋の話なんて聞いても面白くないでしょ?」

 あくまであっけらかんと、ざっくばらんにその少女は簡単に『恋』と言い切った。

 嫌な予感というか確信が心をざらつかせる。震える声で要は聞いた。

「……失礼ですがお嬢さん、お名前は?」

「橘美咲。言っておくケド、あたしの家にはお金はないから誘拐しても無駄だよ?」

 その少女、『橘美咲』は朗らかに笑って、手をパタパタと振りながら言った。

 美咲。その名前には聞き覚えがある。確か章吾はこんなことを言っていた。


『ああ、坊ちゃんの屋敷に務めている中で一番有能な女性の娘さんだ』


 一番有能な女性の娘さん。

 娘さんは小学生。

 小学生は美咲ちゃん。

 美咲ちゃんは章吾が好き。

 美咲ちゃんは小学生で章吾が好き。

 思考が三回転半ほど逆回転をしながらようやく結論に辿り着いた時、要は絶望のあまり、がっくりとその場に崩れ落ちた。

「ちょっ、おねーさんっ!? いきなりどうしたの!?」

「……………ふ、ふふ。神よ、アンタ本物の鬼か」

 要は答えない。ただ、絶望的な微笑を口許に浮かべるだけだった。

 いきなり虚脱状態に陥った要を見て、美咲は思い切り青くなる。

「も、もしかして持病かなんか? えっと、と、とりあえず救急車を呼んで、その前にしゃべれる? 意識はある? 具合はどんな感じ? お腹とか痛い?」

 心配そうにこちらを覗き込んでくる美咲。

 その猫目を見つめながら、『この子はいい子だ。四年後くらいにはものすごい美人になりそうだ』と感想を抱きながら、要はゆっくりと立ち上がった。

「お、おねーさん?」

「……大丈夫です。あと、優しくしない方がいいですよ」

 要はいつものように聖母のような微笑を浮かべて、美咲の頭を撫でた。


「私は、たぶん貴女の敵です」


 美咲にはなにがなんだかさっぱり分からなかった。

 分かったのは、目の前のシスターがなにやら悲壮な決意を固めたこと。

 そして、こういう最悪なタイミングに限って、あの運の悪い男は現れるという事実だった。

「いや、だから、私にこういうのは似合わんだろ?」

「いえいえ、とっても似合ってますよー」

「諦めろ執事長殿。性格は最悪の部類に入るけど、こういう時にこの女っぽい先輩が言うことは大体正しい」

 坂道を三人の男が登ってくる。その内の一人はいつもの執事服ではなく、いわゆる『今時』の洒落た少年が着るような服装だった。

 歩きやすそうなシューズ、ビンテージもののジーンズ、生地の良さそうなTシャツに黒皮のジャケット、そして各種シルバーアクセサリ。

 いつもの服装のような精悍さはないが、それらは章吾に似合っていたし、美咲も執事服よりいいかもしれないと思った人間の一人だった。

 しかし、そうは思わない女が一人いた。

「ああ、そういえば名乗り忘れましたね」

 シスターは美咲の頭を撫でながらにっこりと笑い、自分の名を名乗った。

「私の名前は清村要。世界中の人間の幸福を祈ることをやめ、一人の男を幸せにする女」

 あまりにも簡潔な自己紹介。それさえ知っていれば所属や年齢や性格や性別など心底どうでもいいと思っているような言葉に、美咲は思わず圧倒された。


 そして、清村要は人生でただ一度の後先考えない行動を開始した。


 坂を登ってくる男たちに向かって、要はゆっくりと歩み寄っていく。

 要に気づいた麻衣が手を振る。章吾はほんの少しだけ顔をしかめて挨拶をする。

 要はそれらを完全無視。慈愛に満ちた微笑を浮かべながら章吾の前に立った。

「ごきげんよう、章吾さん」

「あ、ああ君か。今日は一体どんな用事ぶッ!?」

 行動は一瞬だった。

 要は章吾の胸倉を掴みあげて、思い切りぶん殴った。

 もちろんのことながら威力はない。女子の中でも貧弱で運動オンチの類に入る彼女は人を吹き飛ばすほどの腕力は持ち合わせていない。

 しかし、男を恐れさせ、脅えさせ、怖がらせる女性特有の迫力は最強だった。

「い、いきなりなにを……」

「黙りなさい」

 要は章吾の胸倉を掴みあげたまま、章吾に思い切り顔を寄せた。

「ちょ、ちょっと待て。なんか近い! 顔が異様に近いっ!!」

「近いとか近くないとか、そんなことは今は関係ありません」

 要はうろたえまくる章吾の瞳を真っ直ぐに見据えながら、きっぱりと言った。

「私は貴方のようなクソみたいな人生を歩んでいる男を見たことがありません。常に最大限に尽力しているくせに、『運』というたった一つのつまらない要素のために、女性に恵まれず人に疎まれ、年上には突き上げられ、年下にはからかわれ、同年代には蔑まれる。貴方の不幸ははっきり言って見てて哀れです」

 反論も有無もなにもかもを許さぬ口調。切り裂くような視線に真剣な無表情。

「私は私の周囲にいる人が幸せならそれなりに幸せです。けれど、貴方のせいで私の心はいつも曇りっぱなしっていうか、ぶっちゃけると不愉快です」

 それは紛れもなく『最恐』だった。

「本当に、なんで貴方のような人が存在しているのか理解に苦しみます」

「な、なんで君にいきなりそんなことを言われなきゃならないんだっ!? そんなこと君には全然関係ないだろうっ!?」

「関係はあります」

 ありていに言えば、清村要は怒っていた。

 章吾にではなく、美咲にではなく、彼を不運に仕立て上げたクソみたいな世界と、見る目のない全ての女たちと、彼を助けてやらない神様全員に怒っていた。

 彼女の心の叫びを代弁するのなら、こんな感じになる。


 彼の良さを分かってやれる女が、なんで小学生しかいない?


 厳しいのがどうした。そんなのは人として当たり前だ。生真面目なのがどうした。それは人間としては美徳でしかない。融通が利かないのがどうした。そんなものは口先三寸でどうにでもなる。彼の欠点など、どうにでもなることばっかりだ。

 人間には欠点なんて探せば腐るほどある。それでも、不運であっても、ここまで努力を忘れず、逃げることも甘えることも媚びることも知らず、気高くどこまでも強く優しい男を要は知らない。

 知らないから惚れたのだ。強くて優しくて笑顔がかわいいから好きになったのだ。

 けれど、世界はなにがなんでも彼を幸福にしてやる気はないらしい。

「私は……」

 だから要は諦めることをやめた。祈ることをやめた。願って逆らうことにした。

 いつもいつも心に秘めていたことを全部破る覚悟を決めた。


「私は、貴方を愛していますから」


 沈黙が落ちた。

 章吾は胸倉をつかまれたまま唖然としていたし、陸も呆気に取られてなにも言えなかった。美咲は顔を真っ赤に染めてなにも言えず、麻衣だけは満足そうに楽しそうに笑っていた。

 要はようやく章吾の胸倉から手を離して、きっぱりと言い放った。

「もう逃げない。そして、貴方のことを他の人間には任せておけない。貴方は、私が幸せにしてやります」

 まるで決闘のように決然と言い放ち、要は身を翻した。

 足を引きずっていても威風堂々。現代の聖女は背を向けて歩き出す。

 坂道を降りる前に一度だけ振り向いた。

「デートの約束、忘れないように。それから……私、くまのぬいぐるみとか、可愛いものとか大好きですから」

 顔を赤らめながら、それでもきっぱりと断言して、要は坂を下りていく。

 こうして、他人の幸福を祈るだけだった少女は、

 一人の男を幸せにするために行動を開始した。



 嵐は過ぎ去って、屋敷の門は再び穏やかな静寂に包まれる。

「……うわぁ。じょ……情熱的」

 美咲が顔を真っ赤にして呟く横で、遠い目をした章吾が呟く。

「なぁ、陸」

「なんすか、執事長」

「……プレゼントはこれでいいんだろうか?」

「………………いいんじゃないすかね」

「あとアレだ。とりあえず、謝ってくれ」

「ごめんなさい」

 意味は分からなかったが、同じように遠い目をした陸はそう答える他なかった。



 第十九.五話『彼と彼女の事情』END


 第二十六話『彼氏と彼女のデート』に続く





 注訳解説は今回はなし。ちょっとした補足。


 完全なるインターミッション。箸休めの話。別に読まなくてもなんとかなるけれど、読むとさらに二十三話が盛り上がる仕様。よく考えなくても『告白』なんていうとんでもねぇイベントを『読まなくてもOK』とかほざいている時点でなにかがおかしいが気にしてはいけないのです。

 サブタイトル『決死の告白』。コッコさんつヴぁいで最もいい男こと新木章吾をヘタレにヘタレさせる物語。命がけの告白の前には、男なんざ形無しです。

 と、いうわけでまるっきり関係ないところの解説なんぞを。

・主の祈り

 後半は完全なるアレンジです。普通の礼拝の時はあんなことは言いません。デヴィルシスターカナメ嬢は本当に敬虔なシスターでございます。ただ、優先順位が友人=家族>他人>教義なため、友人や他人の幸福のためなら平気で面白おかしい嘘も吐くし、教義もクソだと言い張ります。

 意味が分からない人はシスターカナメ初登場時、第三話参照のコト。

・ガクランを着た陸

 結局学校に通うことになりました。坊ちゃんの脅迫の中には虎子ちゃんが屋敷に入った経緯だとか、中学校を出なかった人がどんな人生を歩んでいるかなどを映像で見せたりしています。学は力なり。今『なんで勉強しなきゃいけないんだろう?』とか悩んでいる人もいるかもしれませんが、しっかりやっておいた方が後々得です。

 少なくとも、国語は文章力を、地理や歴史は設定を考える時に役に立ちます。

・恋愛の初期症状その1

 胸の痛み、倦怠感、集中力の低下などの諸症状が起こる。どーでもいいが「恋愛の初期症状」などというセリフを吐ける人間を恋愛小説に出してはいけない。というか、『自己』を完璧に理解できる人間を出してはいけない。

 アレですよ、もどかしさがいいらしいですから。恋愛小説ってのは(笑)

・あとアレだ。とりあえず、謝ってくれ

 だから言ったじゃないか。俺は女と相性が悪いって。

 章吾、心の叫び。

と、いうわけで作中にも書きましたが、コッコさんつヴぁいで最もいい男こと章吾をメタメタにする話でした。いやぁ、なんていい女なんだろうシスターカナメさんは(笑)

さて、二十三話にいきなり飛びますが、二十三話は章吾とシスター、そして美咲ちゃんが中心のお話になる予定です。ちょいとシリアスが入ってくると思います。

ので、二十三話まではコメディが満載。お楽しみに(笑)


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