第十話 風邪とお粥と小さなわがまま
世界は綺麗だけど、優しくない。
少女は一人ホテルを出て、近所の公園で拳を握り締めていた。
吐く息は空虚。胸の下あたりから腐り落ちてしまいそうな不快感が増していく。
「………………」
叫びたかったが、叫べなかった。
叫ぶのは悪いことだと教えられていたから。
膝をついて、頭を抱えて、少女は泣きそうになっていた。
意味が分からなかったから泣きそうになっていた。
意味もなくムカムカする。なにもかもが恨めしくなる。今はとても幸せなはずなのに、それなのに辛くて悲しくて痛くて苦しい。
なにが悪いんだろう。なんでこんな目にあうんだろう。
景色が真っ赤になっていく。辛いことや苦しいことがどうでもよくなっていく。不平等なのはいつものこと。教えられた事をいつもやってきた。それでいいじゃないか。それだけでいいじゃないか。昔よりましなんだから、昔より今はずっと幸せなんだから、幸せならもうなにも言うことなんてないじゃないか。
これ以上、なにを望む?
いつだって、そう思い込もうとしてきた。
「その心が本当なら、君は迷う必要はない」
風が吹いた。
顔を上げると、そこには銀髪の少年が立っていた。
身長は低く、百五十センチくらい。見ためひ弱。瞳だけがただ赤い。
彼はにっこりと笑って、少女を見つめた。
「うん、この際だ。周囲の大人が嫉妬するくらいに甘えてしまえばいいさ」
「……なに、それ?」
「子供の鉄則だ。それだけで大体の大人は折れる」
「私は……子供じゃない」
「子供だよ。だから甘えることもできず、わがままも言えず、こんな所ですねている。言っておくが、君がすねていても彼はなにもしない。彼は本当に努力をする人間にしか手を出さない、馬鹿で阿呆で変なヤツだからだ」
「……すねてない」
少女はそれだけ言うと、ぐすっと鼻をすすった。
少年は笑うだけだった。
「彼を、守ってやってくれないか?」
「え?」
「正確には足枷になって欲しい。アレは翼を持った狐だ。狡猾な上に空まで飛べる。そんな馬鹿げた存在が世界にいてはいけない。なにもかも器用にこなし、人間関係すら円滑。全ての人に好かれ、全てが上手くいく。そんなものを許してはいけない。この物語はね、つまるところ彼に苦難と愛を教え込む物語なんだ。天賦の才というものを天に返すための物語なんだ。それ以上でも、それ以下でもない」
訳が分からないことを言いながら少年は少女を見据える。
その瞳は、どこまでも真紅だった。
「たぶんね、想いはキミが一番だと思う。幼いから、一途になれる」
「なにを、言ってるの?」
「分からなければそれでもいい。キミはいつか決断するから」
少年がそう言ってにっこりと笑うと、少し強く風が吹いた。
思わず目を閉じる。
「え?」
再び目を開けたとき、そこには少年の姿はどこにもなかった。
美里さんの誕生日から二日。僕はいつも通りの生活に戻っていた。
まぁ、お祭りの後なんてそんなものだろう。企画、立案、実行委員を全て僕一人で兼任して、後始末まで全て終わらせて、残ったのは充実感とちょっとした退屈。
それはそれでいいんじゃないかと思ったりするわけで。
「……まぁ、余計なのも残っちゃったケド」
性質の悪い風邪を引き、僕はちょっと死にかけていた。
二次会というか花火大会はそこそこ上手くいって、みんなにわりと楽しんでもらえたんだけど、お酒が入って調子に乗った大人ってのは本当に手に負えないってことを痛感させられた。……っていうか、従業員全員で僕を海に放り込んだのは日頃の恨みかなんかを晴らすためだろうか? 恨まれることはやってないよーな気がするんだけど、それともアレか。僕が舐められているのか。
それは由々しき事態かもしれない。早急に対策を講じる必要がある。
「よし、とりあえず一日かけて穴を掘らせて、その穴を一日かけて埋めさせよう」
「どこの刑務所ですか、それは」
熱とだるさでかなりいい感じに壊れている僕にツッコミを入れてくれたのは、美里さんだった。小学生の美咲ちゃんがいるから仕方がないとはいえ、彼女が二次会にいれば暴走を多少は食い止めてくれたかもしれない。
美里さんは僕から体温計を受け取って、少し顔をしかめた。
「四十度五分、ちょっと高いですね」
「いや、四十度はちょっとではないよーな気がするんですが」
「そうですね。男性にとってはちょっと危険な領域かもしれないですね」
あの、男性とか女性とか一切関係なく、普通にやばいんすけど。
ちなみに、たんぱく質は四十度で凝固が始まるので、四十度以上の熱が続くと人間は自分の体を保っていられなくなる、というのがやばさの理由。
男の場合、『たんぱく質の凝固が始まる』ので、『精製量が減少したり、下手をすると使い物にならなくなるといった後遺症が出る』からやばいのだ。
なにが? という疑問は一切受け付けない。男の子は即座に察して、女の子は永遠の謎のまま処理してくれれば双方の平和のためだと思ったり思わなかったり。
ま、どーでもいいことだけど。
「坊ちゃん、なにか必要なものはありませんか?」
「水枕と薬をお願いします。薬の場所は京子さんに聞けば分かりますから。……なんか鼻につく匂いの、ほのかに甘酸っぱい毒みたいな薬ですけどね」
「分かりました。とりあえず安静にしていてくださいね?」
美里さんはそう言うと、足早に部屋を出て行った。相変わらず仕事が早くて感心するのだけれど、この場合は仕事が早いってことが逆に仇となる可能性もある。
さて、美里さんが戻ってくる前に下着を着替えようと、僕は思っていた。
が、
「坊ちゃん、お体の具合は……いか、が?」
ノックもなしにガチャリと音が響いたのは、僕が上着を脱ぎ捨てた時だった。
そこにいたのは、地獄の姉妹の片割れ、ダークネスの黒霧冥さん。
「あ、ごめん。ちょっと汗かいちゃってさ、今着替えるところ」
「………………」
僕が謝っても、冥さんはなぜか無反応。顔だけが赤く染まってる。
おかしいな。いつもなら「坊ちゃんの貧相な体なんて見ても楽しくもなんともありませんよ」くらいは言われるんだけど……。なにかあったんだろうか?
「もしかして、冥さんも風邪?」
「……違います」
やっぱり顔を赤く染めながら、冥さんは俯きながら言った。
あれ? やっぱりちょっとおかしい。普通なら「貧弱な坊ちゃんと一緒にしないでください」くらいは言われるはずなのに……。
いや、もしかしたらコレも陰謀の伏線か?
と、僕がかなり失礼なことを考え始めていた時、
「………ふく」
「え?」
「服、ちゃんと着てください」
顔を逸らしながら、冥さんは僕を指差した。正確には僕の上半身を。
「ああ、ごめんごめん」
適当に謝りながら、洋服ダンスからTシャツを取り出す。とりあえず着替えて、それからゆっくり眠ろう。いいや、もう死んだように眠ろう。汗まみれの寝巻きとシャツは冥さんに頼んで洗濯所に……。
不意に、景色が歪んだ。
「坊ちゃんっ!?」
可愛い声が耳朶を打つ。ぼんやりとした真っ黒な意識。視界が明滅している。
自己診断としてはただの急性貧血。いきなり起き上がったのが悪かったらしい。
実はこの二日食欲がなくてほとんど食べていないし、熱と間接の痛みのせいで寝不足が続いていたりする。医者には二日前に行っているのだけれど「性質の悪い風邪」の一言で済ませられた。あの医者、もしかしたらヤブだったんじゃねぇかと今なら思える。やたら若かったし、よく見なくてもかなりの童顔だったし。
……どーやって叩き潰してくれよう?
「坊ちゃんっ、坊ちゃんっ! どうしたんですかっ!? 坊ちゃん!!」
必死な声が聞こえてくる。朦朧とする意識の中で、僕は声の主の手を掴んだ。
僕と比べると小さな手だった。ひんやりしていて気持ちいい。
「あ………」
戸惑っているような、脅えているような声が響く。
脅える? なにに? まさか男として三流以下の僕に脅えているわけじゃないだろう。そんな女の子は存在しない。僕は美咲ちゃんに初めて会った時『ボンクラ』と呼ばれたほどの逸材だぞ。そんな僕が女の子を脅えさせるなんて、馬鹿なコトを。
怖いね。キミって抜き身の真剣みたい。
……本当に、馬鹿なコトだ。
しかし、あいつ……今どこでなにをやってるんだろう。あいつとのおしゃべりは下らなくて吐き気がするほどつまらなかったけど、そこそこ有意義なものでもあったような気がする。小学校の頃の親友。僕を化物だと言った本当の化物。
もう一人の百点満点。
意識が途切れがちになる。視界がチカチカする。目の前の女の子は誰だっけ?
「……そっか。やっぱりそうなんだ」
手が握り返されて、彼女は笑った。
よく見えなかったけれど、なんだか嫌な笑顔だった。
彼女はゆっくりと顔を近づけてきた。
「でも……絶対に………」
心がざわつくような、悲痛で今にも泣きそうな、そんな笑顔。
僕の一番嫌いな顔だった。
目が覚めたとき、僕はベッドに横になっていた。
「………………?」
はて、僕はなんで自分の部屋に寝ているんだろうか?
いやいやちょっと待て。思い出してきたぞ。確か、僕は性質の悪い風邪を引いてちょっと死にかけていたんだ。美里さんの誕生日の後の二次会というか花火大会はそこそこ上手くいって、みんなにわりと楽しんでもらえたんだけど、お酒が入って調子に乗った大人ってのは本当に手に負えないってことを痛感させられた。……っていうか、従業員全員で僕を海に放り込んだのは日頃の恨みかなんかを晴らすためだろうか? 恨まれることはやってないよーな気がするんだけど、それともアレか。僕が舐められているのか。
よし、とりあえず全員、お星様と握手してもらおう。垂直飛びで。
おや、なんだかとってもデジャヴ? おかしいな……僕はこんなことを言った覚えはまるでないんだけど。
ああ、そうだ。ようやく思い出した。確か寝巻きと下着を着替えようとして、貧血でぶっ倒れたんだ。
「ん?」
となると、僕をベッドまで運んだのは誰だろう? なんだか記憶が曖昧でよく思い出せない。上着をちゃんと着ているから誰かが着替えさせてくれたのは確かなんだけど……。
と、僕が思考に没頭していると、ドアがノックされた。
「坊ちゃん、お体の調子はいかがですか?」
ドアが開くと、そこには水枕と薬を持った美里さん。
ああ、そうだ。思い出した。確か美里さんに水枕と薬を頼んでいたんだった。
「どうも、ご苦労様です。体の調子は……ちょっと悪いですね」
「今日は安静にしていてください。それと、お薬のことですが……」
「あの鼻につく匂いの、ほのかに甘酸っぱい毒みたいな薬がどうかしたんですか?」
「京子ちゃんに聞いてみたんですけど、ちょっと見当たらないそうなので、市販品の風邪薬を持ってきました」
「ああ、なんかもう市販品でいいです。あの薬クソまずいし」
僕はちょっとだけ本音をもらす。正直あの薬を一度飲む度に、なんか体の調子が悪くなっているよーな気がしていたのだ。下痢止めのくせに下痢が止まらないし、解熱剤のくせに解熱しやがらないし。
……ホント、あの医者。冗談抜きで地獄に送ってやろーか。
「坊ちゃん、物騒なこと考えてますね?」
「人間、病気の時って心が弱くなりますよね」
適当な一般論を言いながら、僕は美里さんから水枕を受け取る。ああ……このひんやりとした感触が熱っぽい体にものすごーく効く。
ひんやり……はて? やっぱりなにか忘れているよーな気が。
「坊ちゃーん!」
聞き覚えのある可愛らしい声と共にノックなしでドアが開く。
そこにいたのは地獄の姉妹の片割れ、ショッキングピンクの黒霧舞さんだった。
「あなたの病気も完全滅殺! 黒霧舞、手料理を持参してただいま参上ですっ!」
「京子さんがお粥作ってくれるから、別にいいよ」
「はうあっ!?」
女の子が作ってきてくれた手料理を笑顔で拒絶するという外道なことをやってみた。……まぁ、単純に食欲がないだけなんだけど。
が、そのやりとりを見ていた美里さんは、少しだけ溜息を吐いた。
「駄目ですよ、坊ちゃん。ご飯はちゃんと食べないと」
「そー言われましても、こればっかりは体の調子が良くならないとどうにもならないわけで。それに、料理なら京子さんかコッコさんが作ってくれたものがいいなー……なんて思ったりするのが弱っている人間の心情なわけで」
京子さんは言うに及ばず、コッコさんもやる気出して作ればかなり料理はできる。
ただ、芸術家ちっくな、いわゆる『独創性という名の変態アレンジ』を加えられると美味しい料理が一転、産業廃棄物に変化する。一度バレンタインディにレンガみたいなチョコレート(っていうか黒いレンガ)を渡された時は本気で死を覚悟したもんだった。
まぁ……アレと比べれば、どんな食品だって至上のご馳走になるだろう。
いい匂いが食欲を刺激する。ちらり、と舞さんの持っている土鍋に目を向け、少し考えてみる。確かにお腹は減っている。食欲も、ないってほどじゃない。
脈ありと踏んだのか、舞さんは精一杯の笑顔を浮かべた。
「で、でもせっかく作ってきたんですし、一口くらいは食べてくださいよ」
「んー……じゃ、ここは素直にお言葉に甘えておこうかな」
「はいっ」
舞さんは差し出された土鍋を適当な雑誌の上に置き、蓋を開ける。
中身は予想した通りに白湯スープでご飯を煮込んだ雑炊のようなもの。たぶんダシはトリガラ、中に入っているのは刻んだネギとショウガってところだろうか。油モノは正直胃が受けつけなさそうだけれど、これならなんとかいけるかもしれない。
「ん、美味しそうだね。なんだ、舞さんって料理できたんだ」
「作るのは初めてですけど、教本見ればこれくらい楽勝ですよ」
まぁ、それもそーか。よほどのことじゃなきゃお粥なんて失敗しないし。
舞さんはスプーンでお粥をすくい、お粥が垂れないように左手を添える。
「はい、坊ちゃん。あーん」
「………………」
いや、確かにお約束かもしれませんけどね? 僕はちょっと弱り気味なのでツッコミもままならないよ? それともこれはツッコミ不可ですか?
ちらりと美里さんの方を見ると、「好きなようにさせてあげなさい」と目で語っていた。まぁ、僕も健全な高校生男子。こういうことをされて嬉しくないかっていうとそうでもなかったりする。
嗚呼、男ってなんて悲しいんだろう。
などと思いながら、差し出されたスプーンを口に入れる。
瞬間、意識が漂白された。
甘味と苦味と酸味と、なんかもう形容しがたいえぐい味のオンパレードが口の中に爆裂系呪文のごとく炸裂する。幼児が食べたら間違いなくトラウマになって、お粥の類を絶対に食べられなくなるような超越的な味。僕は頬を引きつらせ、胃が痙攣しそうになるのを必死で堪えて、少しずつ、少しずつ飲み込んでいく。
「ぐぅっ!?」
まずい。風邪のせいで胃が拒絶反応を起こしそうだ。涙まで出てきた。なんだか恐ろしい劇物を食べさせられている気分。ここまでみじめな思いをしたのは……そう、幼稚園以来だ。あの時は計算高い子供だったから口の中身を吐き散らした挙句に大泣きしてみせたりもしたのだけれど、今はもう無理だ。いくらなんでもいい歳こいた高校生男子が口の中のものを吐き散らして泣くわけにはいかない。
くそ、あの匂いでどうしてこんな味が出せるんだ?
「美味しいですか?」
舞さんの無邪気な言葉に、思わずぶちキレて横っ面を張り飛ばしたくなる。
美味いもへったくれもない。『料理はまず腕だ。その後に素材の味と愛情が続く』という名言があるが腕とか以前にこんな《兵器》を作り出すのはどうかしている。腕か頭か、あるいは両方か、それとも次元彎曲くらいの特殊能力でも有しているのか。
と、その間に僕はようやく劇物を飲み下した。凄まじい戦いだった。
「ふっふっふ、実は今回はちょっとばかり自信作です。いかがでしたか?」
「うん、とっっっっっっっても美味しかった。それはそうと、やっぱり僕はちょっと食欲がないから、これは舞さんにあげるね」
「え?」
僕が土鍋を舞さんの方に寄せると、彼女は『予想外』みたいな顔をしていた。
やっぱり確信犯か、このコムスメ。
「ああ、それと美里さん。京子さんからゼリー飲料みたいなものもらってきてもらえませんか? まだ食欲も戻りませんし、とりあえずは栄養補給優先にさせてください。夕食はちゃんと食べますんで」
「はい、分かりました」
美里さんはかなり口許を引きつらせて冷汗を流していたけれど、そつなく返事をかえしてそそくさと僕の部屋を出て行った。
さて……と。
「はい、舞さん。とっても美味しかったから食べてもいいよ」
「えっと……でも、今はお仕事中ですし」
「経営者権限で許します。ささ、どーぞ。冷めないうちに」
「あ、あははははは……」
部屋に響く空笑い。僕は絶対零度の視線を逸らすことなく、舞さんを見つめた。
「言っておくけど、全部食べるまで帰しませんから」
「あうううううう……」
半泣きになりながら、舞さんはスプーンを手に取る。
ぱくぱくはふはふぱくぱくもくもく。
「ご馳走様でした」
「………………え?」
目の前には空になった鍋。一瞬理解が追いつかず、僕は迂闊にも唖然としていた。
「騙している人間は自分が騙されているとは思わないってコトですよ」
舞さんは楽しそうにクスクスと笑った。まるで冥さんのように。
「ついでに言いますと、今坊ちゃんはとても無防備です」
にこやかに笑いながら、舞さんはそっと僕の肩に指を添える。それだけで僕を殺せるかとでも言うように。
顔は笑っているけれど、目はまるで笑っていない。
「身内だからといって安心しないことです。理解したと思って油断しないことです。人間は状況によって対応を変えられる、臨機応変という力を身に付けた化物なんですから」
「………………」
「分かりますか? 表面的な顔なんていくらでも偽れるんです。外見さえも、お金と労力さえいとわなければいくらだって変えられる」
口許には微笑み。いつものような軽やかな笑顔はそこにはなく、冥さんのような薄い微笑を浮かべている。楽しそうでもあり、嬉しそうでもある、そんな笑顔。
いいや、実際は楽しくも嬉しくもないんだろう。
彼女は……舞さんは、怒っている。
「冥ちゃんは、そんなコトも分からないお馬鹿な女の子なんです」
「………………」
「世間知らずで努力家で、純情で謙虚で、本当に馬鹿みたいになんにも言わない。思っていることがあっても口にしない。そういう生き方を強制されました。……けど、私はそんな冥ちゃんが大好きです。私にないものを全部持っている、冥ちゃんが大好きです。自分が不幸になっても、あの子には幸せになって欲しい」
舞さんがなにを言っているのか、僕には分からない。
ただ一つ分かるのは、舞さんは冥さんのことをとても好きだということ。
自分の生き方や性格まで仮面で隠して、それでも冥さんに幸せになって欲しいと心の底から願っているということ。
それは、正しいことだと僕は思う。
「だからお願いです、坊ちゃん。冥ちゃんを助けてあげてください。それから……なるべくでいいから、優しくしてあげてください。お願いします。身勝手でどうしようもないわがままですけど、どうかお願いします」
そう言って、舞さんはぺこりと頭を下げた。
さてと、かなり真面目なお願いだ。根が不真面目な僕としてはどう答えたものか。
なんてね、答えはとっくに決まっていた。
「分かりました」
「……ありがとうございます」
頭を上げて、舞さんはにっこりと笑う。いつものように軽やかに。
「やっぱり、貴方に頼んで良かったです。ちょっと女たらしですけど」
「真剣なお願いに対して真剣に答えただけだよ。それで女たらしって言われるのはかなり心外なんだけど?」
「はいはい。……それじゃ、冥ちゃんのこと頼みますね」
不意に、嫌な予感がした。よく分からない直感が耳元で囁く。
このまま彼女を放っておくな。
なにかを言う前に、舞さんは少し寂しそうに笑って僕の頬に触れる。
「さよなら。このお屋敷で過ごした日々は、悪くなかったですよ」
頭に強いんだか強くないんだかよく分からない衝撃が走る。
まるで漫画みたいに首筋を打たれたと気づいたのは僕が目を覚ましてからだった。
第十話『風邪とお粥と小さなわがまま』END
第十一話『剣と涙と隠した心』に続く。
おまけ、執事長さんの苦労日記・惨。
底の深いカップにコーンフレークを敷き詰め、チョコレートをまぶして、その上に生クリームをぐるぐると巻いていく。巻いていく途中に切ったバナナやマンゴーといった果物を置いていき、さらにそこからぐるぐると生クリームを巻いていく。
最後に酸味の効いた壱檎とオレンジを乗せて、ポッキーを差して完成。
「ほら、できたぞ。食べたらさっさと帰れ」
「わーいっ! いただきまーす!」
スプーンを手に、パフェもどきを食べ始めるのは、なぜか二日前から屋敷に入り浸っている橘美咲である。
パクパクと無節操に食べているように見えて、口許に生クリームをべたつかせるような真似をしないあたりは、やっぱり育ちがいいと見るべきか。
パフェを頬張りながら、美咲は嬉しそうに笑いながら言った。
「章吾ってなんでもできるんだね。感心しちゃった」
「まぁ、ファミレスでバイトしてた頃もあるからな。それと年長者を呼び捨てはよくないぞ。社会に出てから困ることになる」
「じゃ、旦那さんで。もしくはあ・な・た」
「……呼び捨てでいい」
この二日で橘美咲という少女がどんな存在であるか思い知った章吾は、溜息を吐きながら呼び捨てにされることを覚悟した。
「美咲ちゃん、一つだけ言っておくが私だって暇じゃないんだ」
「知ってる。けど、今はそうでもないでしょ?」
「………………」
図星だったので、章吾は思わず口許を引きつらせた。
確かに書類仕事が一息ついたところで、食堂でなにか小腹が埋まるものでも食べようと思っていた。
美咲は大人ならば思わず微笑んでしまいそうな、可愛い笑顔を浮かべた。
「安心して、章吾の仕事の邪魔はしないから。私だって好きな人に嫌われたくはないもの」
「まぁ……そう言ってもらえると助かるんだが」
なんだか、小学生というよりちょっと体格の小さい高校生と話している気分になる章吾。たぶん、美咲の言動がしっかりしているためだろう。
もちろん、そう『見せている』かもしれないのだが。
(しかしまぁ、俺が子供の頃はもうちょっと馬鹿だった気がするな……)
自分でドリップしたコーヒーなどを口に含みながら、章吾は少しだけ昔を思い出す。それは黄金のようで、泥のようでもあり、胸焦がれる淡い思い出でもある。心が安らぐ思い出もあったし、過去の自分を殺したくなる思い出もあった。
過去というのは大体そんなものだ。
誤魔化すようにコーヒーを飲んで、章吾は口許を押さえて欠伸をした。
「ところで美咲ちゃん。学校の方はいいのか? 友達もいるだろうに」
「小学生と遊んでも面白くないし、中学生と遊んでも退屈だし、高校生なんて子供もいいところだもん。やっぱり一緒にいるなら二十歳以上が一番」
「……それが小学生の意見じゃなかったら、少し感心していたんだが」
溜息混じりに言う章吾に対して、美咲は意地悪っぽく笑う。
「まァ、章吾って女性の理想が高そうだから、あんまり恋愛なんてしたことないだろーけど」
「……いや、そんなコトは」
「ママに惚れてるのがその証拠よ。普通の男の人ならママの完璧っぷりを見て尻込みするもの。男の人って、自己イメージがやたら高いからねー、完璧すぎる女の人ってかえって婚期が遅くなるんだって」
「………………」
大人びているとはいえ『小学生』にざっくりと言い負かされてなにも言えなくなってしまい、章吾はかなり泣いた。心の中で。
不機嫌そうな横顔を見て、美咲は満足そうに笑う。
「まぁまぁ、そんなに怒らないで。あと四年も我慢すれば、理想の女の子がお嫁にやってきますよ?」
「悪いが、先物取引はしない主義だ」
「ふーん?」
美咲は挑戦的に笑って、ある種の男子に対して致命的な言葉を言い放った。
「もしかして、章吾ってドーテー?」
真っ白な沈黙。一瞬章吾はなにを言われたか理解できず、一瞬で理解する。
「ごぶッ!?」
盛大にむせる章吾。鼻からコーヒーが出るほどむせまくり、死にかける。
紙ナプキンで無様な部分を即座に拭き取り、思わず叫んだ。
「い、いきなりなんつーことを言うんだ君は!?」
「で、どうなの?」
「……小学生にそーゆー話をするつもりはない」
「そーゆーふうに言うと、肯定してるみたいに聞こえるよ?」
「ノーコメントだ」
あくまで黙秘を貫き通す章吾に対して、美咲は少し不満げに顔をしかめた。
「ふーん、そうか。そんなに乳とか尻がぱっつんぱっつんの方がいいのか」
「いや……えっと、意味が分からんが?」
「章吾を今オトすのは無理かなーって話。ママの血を引いてるから期待はしてるんだけど、さすがにこればっかりは個人の資質によるところが大きいわけ」
犯罪の香りがぷんぷんする発言に、章吾はかなり青くなる。
美里の教育方針が間違っているとは思えないのだが、どうやら美咲はかなり剛胆かつ大胆な性格らしい。欲しいものがあったら我が身を辞さない。そんな感じだ。
(……いかん。このままではかなりいかんぞ)
親や兄貴の気分になりながら、かなり真剣に美咲の将来を心配する章吾。「小学生の恋愛なんてそのうち終わるだろ」などといった楽観視はもちろんしない。美咲はどんな人間が聞いても『マジ』で言っている。恐ろしいことに。
少しどころか、かなり悩んで、章吾は恐る恐る言った。
「なぁ、美咲ちゃん。小学生は確かに子供だが、子供だと敬遠することもないんじゃないかと私は思うんだが」
「……来ちゃ駄目だった? 迷惑?」
反則的にうるるんな目を向けられて、章吾は少しだけ言葉に詰まった。
「……あー、いや、そういう問題じゃなくてだな、同年代の子と遊ぶのもいい経験だってことだ。同じ年頃の子と馬鹿をやった方が楽しい。私も昔はそんなもんだった」
「馬鹿やられた方はたまったもんじゃなかっただろうケドね。学校の先生とか」
ざっくりだった。一刀両断ともいう。
美咲はにっこりと美少女のように笑って、楽しそうに言った。
「心配なくても、学校じゃ楽しくやってるよ。そりゃ、多少は殴ったり蹴ったりはするけれど、それは向こうが悪いから問題なし」
「……女の子が殴ったり蹴ったりするのはどうなんだろうか」
「そうかもね。でも、あたしは『生意気だから』なんて理由でリンチを行う人間を絶対に許さない。殴られたら殴り返すし、恨まれたら恨み返す」
パフェを完食し、美咲はまるで正義の味方のように笑った。
「あたしはそういう人間だから、章吾のことを好きになったんだよ。きっと」
「………そうか」
それがどういう意味かはよく分からなかったが、章吾は心の中でだけ完全敗北を認める。そして、小学生だからと美咲を軽んじた自分を恥じた。
子供は常に成長する。親を超えるために。いつか屍を越えていくために。
章吾は笑う。それは、彼が認めた相手にしか見せない、ただの柔らかな微笑み。
優しく美咲の頭を撫でて、章吾は笑っていた。
「まぁ……頑張れ。将来がどうなるかは分からんが、俺も頑張る」
「あ……う、うん。……が、頑張る」
美咲はなぜか真っ赤になりながら、頭を撫でられていた。
子供扱いは大嫌いだったけど、たまには頭を撫でられるのも悪くないと思った。
厨房からその様子を見ながら、梨本京子はにやりと笑った。
手にはデジタルカメラ。当然、屋敷の中にそれなりに大勢いる章吾ファンにばらまくつもり満々だったりする。
副収入を楽しみにしながら、子供のような執事長と大人のような小学生というほのぼのカップルに差し入れでも持って行ってやることにした。
ちなみにこの映像はメイド長こと美里の目にも触れることになり、しかも「あらあら、新木クン、美咲をよろしくね」の一言で親公認になった。
章吾はその誤解を解くために、己の命を賭けることになるのだが、それは別の話。