第九.五話 祭りの後と世界で一番不幸な彼氏
得とか損とか、そんなものは関係ない。
困っている人があそこにいる。それ以上の理由が必要か?
そんなことを平気で口に出来る青年というかほぼオッサンである彼はつまるところ、世界で一番目くらいについていない人間なのだった。
しかしそれを彼に言ったところで、彼は苦笑しながら「それがどうした?」と言い放っただろう。自分がついていないことなど、生まれた時から分かり切っている。他人より苦労して生きなければいけないのが己の運命ならば、自分が苦労した分だけ、自分が大切に思っている誰かを助けることができる。それはそれでまぁいいじゃないかと彼は思っている。
大人になりきれないお人好し、もしくは根っからの善人なのだった。
そんな彼は、今追われていた。
別に悪い事をしたわけではない。それでも全力で彼は逃げていた。
何故逃げるのか? それは大抵の場合、追って来る誰かがいるからである。
「まちなさーい、こらーっ!」
下着姿の少女が追ってくるが、彼は止まる気など毛頭ない。
というか、いくらなんでも犯罪はごめんだった。少女の年齢は結婚可能年齢ぎりぎり、彼の年齢はもうそろそろぎりぎりおっさんに片足突っ込んでるくらいである。それはいくらなんでもやばい。道徳とか常識とか倫理とかが、寸分違わぬ動作で親指を下に向けるくらいまずい。いくら相手が美少女でもそれはよくない。
「可憐な乙女が抱けって言ってるのに無視とはどういうことだーっ!」
可憐な乙女は抱けとは言わんだろうと突っ込みたかったが、突っ込む前に足が動いた。Bダッシュである。髭面の配管工(注1)のように走れ、飛べ、1UPなのである。
ゲームのボタンが十字キー含めてたった五つしかない時代。自分が若いけれどなにも知らずに、ただ輝いていた頃。
あの髭面のように強くなれたらと章吾はいつも思っていた。
大した武器も鎧もなく、必殺技すら持たず、ただ跳躍と知恵と度胸だけで冒険を乗り切る。そんな『漢』になれたらと、思っていたのだ。
自分はなれなかった。けれど、そんな『漢』は確かに存在していた。
「ま、まてー。まってー。まってよー、こらァー」
背後の声にかなり切なさが混じり始める。というか、疲労のあまりかなり切羽詰っているような感じ。頃合を見計らって、彼は足を止めた。
溜息に苦笑。何回重ねてきたか分からないその行為をさらに重ねて、彼は少女の元に歩み寄っていく。
自分の上着を脱いで、下着姿の彼女に着せてやった。
一瞬だけ喜んだような表情を浮かべるが、少女は頬を膨らませた。
「……優しくするんだったら、結婚くらいしてくれてもいーじゃん」
ばか、と優しく言ってから彼はいつも通りに微笑んで、彼女の頭をぐりぐりと少し乱暴に撫でた。
少女は、頭を撫でられても、ちょっと不機嫌だった。
「そんなにあのあくまがいーのか? 胸か? 腰か? それともドSなとこか?」
冗談じゃないと言おうとして、彼は口をつぐんだ。
少しだけ考えて彼は結局、微妙だな、と女の子が聞いたらぐーぱんちが飛んで来そうな、曖昧かつ最低の答えを返した。
予想通りぐーぱんちが飛んできた。彼はそれを平手で受ける。
実際のところは、ぐーぱんちより、少女の軽蔑に満ちた視線の方が痛かった。
「あのさ、キミが優しいのは分かるけど、相手はあくまなんだからね?」
それはよく分かっていたが、病床にいる悪魔というか鬼畜というか弟子を放置しておくのは師匠としてどうなのか。それ以前にあの弟子はこっちが構ってやらないとものすごい勢いで拗ねて、病気のくせに傷心旅行とかに行ってしまうので、色々と気をつけないといけないのだが。
彼はそう言おうと思ってやめた。少女はそれを察したようだった。
「……ったく、はっきりしないところは天下一品ね」
少女はふん、と鼻を鳴らして早足で歩き出す。
と、唐突に振り向いて、ぼそりと言った。
「誕生日、明日だから。他の日はいいけど、明日は予定空けてなかったらコロス」
再び前を向いて、少女は小走りになって走っていく。
自分の上着に包まれたその背中を見送りながら、彼は深々と溜息を吐いた。
とりあえず、花をプレゼントして星を眺めようと思った。
女性に慣れた主人は、そうした方がいいと言っていた。
翌日、着飾った少女に照れて舞い上がった挙句「君はあの星のように綺麗だな」とくっさいセリフを吐いて爆笑されるのだがそれは別の話。
そして、これもまた別の話。
その日、新木章吾はかなり不機嫌だった。不機嫌な理由はいくつもあって、それは全て身勝手な理由だと分かっていたので、章吾は何も言わなかった。
ただ、彼の前に転がっているワインボトルが増えていくだけである。
ちなみに、屋敷に務めている人間で一番酒が強いのが美里で、二番目が彼だった。
(……やれやれ)
気分がクサクサするのを感じながら、彼はバルコニーを見て、目を逸らす。
そこでは、想い人がとても柔らかい表情で笑っていた。
笑ってくれるのは悪くはないのだが、それが自分に向けられた笑顔でないというのが気に食わない。腹立ち紛れにワインを口に含んで、ゆっくりと溜息を吐いた。
「なんだか、面白くなさそうな顔ですね」
「そうでもない。酒は最上級だし料理も美味い。京子のケーキは格別だしな」
横からの声に、章吾は答える。
視線を向けると、そこには無表情にワインを飲んでいる山口コッコがいた。
無表情なので感情を読み取ることはできなかったが、酒量が普段の二倍になっているところから察するに、やっぱりちょっと不機嫌な気がした。
「山口。お前こそ、こんな所でのんびりしてていいのか?」
「今日はいいんですよ、美里の誕生日ですから」
「……まぁ、お前がいいと言うなら私はなにも言わんがな」
「貴方こそいいんですか? こんな所でのんびりしていて」
「今日はいいんだ。美里さんの誕生日だからな」
心の中では全然そんなことはこれっぽっちも思っていないが、章吾はきっぱりと断言した。それくらいの自制心は、持っているつもりだった。
たぶん、横でワインを飲んでいる女も同じだろう。
「まぁ、本当は今すぐでも坊ちゃんを殴りたい気分でいっぱいなんですが、それはそれとして大人の対応を心掛けてますよ?」
「だったら、私の足を全力で踏みつけるのはやめろ」
完全無欠な八つ当たりに、章吾はかなり顔をしかめる。
「大体だな、お前は坊ちゃんのことをどう思ってるんだ? 傍目にはアレな姉と世話を焼く弟のような関係に、百歩譲って見えなくもないような気がしないでもないが」
「婉曲表現も程々にしておかないと足の骨が折れますよ?」
テーブルの下から、ミシミシという生々しい音が響いてくる。
章吾は痛みで叫びそうになるのを鋼鉄の自制心で排除し、溜息を吐いた。
「質問に答えてないな。お前は坊ちゃんのことをどう思ってるんだ?」
「……答える義理はありませんね」
「なるほど」
章吾は頷いてワインを口に運ぶ。
「根性なしはお互い様ということぐおあああああッ!?」
ハイヒールで骨の隙間の筋肉をぐりぐりやられて、章吾はかなり涙目になる。
ぐりぐりやりながら、コッコは菩薩のように笑った。
「貴方と一緒にしないでください」
もちろん、その目は欠片も笑っていない。
「分かった。すまん。謝るから足をどけてくれっていうかホントすみません」
普段は絶対に口にしない謝罪をする。いくら章吾とて、こんな下らないことで足一本失うのは避けたいところだった。
コッコは思ったより素直に足をどけてくれた。
「やっぱり、貴方とお酒飲んでもちっとも面白くありません。女の子の気持ちなんて全然分かろうともしてないし」
「ひどい言われようだが、それはこっちのセリフだと言っておく。お前が少年の感情を理解しているとは到底思えんがな」
「女の子と付き合ったこともないくせに」
「貴様だって男の子と付き合ったことはないだろう。お互い様だ」
適当に罵り合いながら、似たもの同士はにやりと笑う。
「ふられなさい、ばか男。ついでに意味もなく世界の果てで愛でも叫んできたら?」
「ふられればいい、ばか女。ついでに世界のために修道女にでもなればいい」
ふん、とお互いに鼻を鳴らす。コッコは不機嫌そうに席を立ち、章吾はワインを一口飲んで席は立たなかった。
再び一人になるが、彼にはどうでもよかった。
酒は美味いし料理も美味い。女は話を聞かない連中ばかりだが、そんなことはまぁどうでもいい。本当はどうでもよくなどなかったが、どうでもいいと思い込もうとしていた。
彼自身自覚しているのだが、つまるところ章吾はすねていた。
それは男として彼の主人に完全敗北したからでもあるし、好みの女性がこちらに振り向いてくれないからでもある。不幸なのは、彼は自分の感情を完璧に理解していて、それを完全に封じる鋼鉄の自制心を持っていたからである。
生まれてからこの方、彼には甘えられる人間が側にいなかった。
だからこそ彼は頑なだった。昔好きだった少女が悲惨な死に方をしたというのも根底にある。しかしそれ以上に彼を頑なにしていたのは、彼が心に秘めるたった一つのことを具現化するためである。
章吾は知らないが、その一点だけで章吾の主人は彼に満点評価を下している。世界中の誰よりも他人に厳しい少年が、たった三人にだけつけた満点評価である。
そして、世界には同じようなところに目をつける人間が三人はいるのだ。
「おにーさん、なにやってんの?」
「ん?」
振り向くと、そこには場違いな少女がいた。年齢は小学校高学年くらい。どこかで見た覚えのある綺麗な顔立ちに、普段は着ないだろうフリフリのドレス。
少し考えて、章吾は口許を緩めた。
「ああ、美里さんの娘さんか」
「橘美咲よ。ママのことは自慢に思ってるけど、私はママとは違うもの。ママの付属品みたいに覚えられたら、私の誇りが傷付くわ」
美咲は、そう自信たっぷりに言い切ると、章吾の横に腰かける。
「そういうおにーさんこそ、ママにブローチをプレゼントした人でしょ?」
「ブローチのおまけみたいにされるのは困るな。私の名前は新木章吾だ」
「知ってるわ。ママの話に五番目くらいによく出てくるから」
五番目と聞いて、章吾は真剣にヘコんだ。
小学生らしくない、にやりとした笑顔を浮かべて美咲は付け加える。
「まぁ、今日のプレゼントは上から二番目に喜んでくれたみたいだけど」
「………………」
「どしたの?」
「……なんでもない」
人前では落ち込んだりしたくない章吾だったが、今回ばかりは奈落の底に突き落とされたような気分だった。
なんとなく事情を察して、美咲は同情っぽく肩を叩いた。
「えっと……アレは仕方なかったと思うの。決しておにーさんのせいじゃないわよ」
「分かってる」
数々の苦難と出費を乗り越えて買った天使をかたどった精緻な細工の銀のブローチ。女性と付き合った経験のない章吾だったが、今回ばかりは気合を入れていた。
しかし、章吾の主人は、今回とんでもないものを持ち込んできた。
基本的に主人は無駄な出費を好まない人間である。これまでの誕生日もささやかな額の食事券とか、デパートの商品券とか、図書券三万円ぶんとか、プレゼントとは程遠い、どーしようもないものばかり贈っていた。
が、実際にはそういうものの方が喜ばれていた(注2)ことを章吾は知らない。美里は女である前に一介の主婦である。女手一つで子供を育てていくのも容易じゃなかったりするわけだ。
さて、そんな主人が今回美里に贈ったのは花瓶である。
ただの花瓶ではない。『バカラ』の花瓶である。
バカラとはフランス・ローレヌ地方の寒村バカラ村に1764年以来受け継がれているクリスタル技術の品の総称である。あまりの金額に、一般市民は見ただけで鼻血を吹いてしまうような超高級品である(注3)。
ついでに言えば、美里はクリスタルガラスが大好きだったりする。
「昔から宝石の類が好きだとは思ってたんだケド、ガラスとか工芸品の方が好みだってのは、私もちょっと分からなかったかなー。ビーズ細工はよく見るんだけど」
「………そうか」
マジでへこみながら、章吾はワインをグラスに注ぐ。
一口飲んで、溜息を吐いた。
「まぁ、喜んでもらえたならそれでいい」
「おにーさん……全然『それでいい』って感じには聞こえないんだけど」
「聞こえなくてもそれでいい。喜んでもらえたなら、それ以上は望むまい」
グラスをテーブルの上に置いて、章吾はきっぱりと断言した。
「オレの感情などどうでもいい。喜んでもらえたなら、それで十全だ」
全然そうは思っていないが、章吾は断言する。
昔からそうだった。自分の感情は二の次三の次で後回し。誰かが喜んでくれるならそれ以上に望むことなどないと思ってきた。彼にとってそれは当たり前のことだったから、いつものようにそう言い切った。
しかし章吾は知らない。彼の『当たり前』は他の人間にとっては当然ではない。
彼の言葉は、はっきり言えば『馬鹿の理屈』と言い換えてもいい。
馬鹿とは貶し言葉である。他の時代や他の世界ではどうか知らないが、少なくともこの世界のこの国では極めて一般的な貶し言葉である。実際に百人の馬鹿のうち九十九人までが、人の気持ちと場の空気を考えない、凶悪な馬鹿である。
けれど、たった一人、本物の馬鹿がいる。
自分の利にはならないが、誰かのために御伽噺のドラゴンとだって魔王とだって戦える。そういう類の馬鹿が世界には百人に一人くらいの割合で、いる。世界を叩き潰すデス・トラップを容易く突破し、99%不可能と言われたことを口笛混じりにやってしまう、そういう馬鹿だ。
馬鹿だから利を知らぬ。馬鹿だから道理を知らぬ。
しかし、馬鹿だからこそ正しいことを知っている。
大人気ない大人。大人に成りきれない子供こと新木章吾は自分の想いが届かないことを承知の上でそんなコトを断言している。馬鹿としか言いようがない。
(…………へぇ)
だが、そんな青年に少女は目をつけた。
心の人物評価表にその場で文句なしの満点をつけ、口許を楽しそうにつりあげる。
その微笑は年相応だったが、美咲はその表情を母親と将来パパになるかもしれない男以外に見せたことはなかった。
「うん、決めた」
「ん?」
不思議そうな顔をする章吾に、美咲はとっておきの笑顔を見せた。
「結婚しよう、章吾さん」
「ぶッ!?」
盛大にワインを吹き出す章吾。器官に水が入ってむせまくり、危うく死にかける。
美咲はそれを見てにこにこ笑っていた。
「まぁ、私はまだ十二歳だから結婚するにはあと四年ほど待ってもらわなきゃいけないんだけど……それくらいなら楽勝だよね?」
「ちょ、ちょっと待てっ! キミは一体なにを言っているんだ!」
「愛の告白に決まってるじゃない」
自信たっぷりに言い切られ、章吾は絶句する。
美咲は可愛らしい笑顔を章吾に向けながら、舌を出した。
「最初に言っておくけど、年の差なんて考えてないからね。章吾さんはいい男で、私はそれに釣り合うようないい女になれるようにに努力する。今は子供としか思われてなくても、四年後には女として意識させる。言いたいことはそれで全部」
「いや、だからだな、その……」
「ママなんて及びもつかないくらいに綺麗になってあげるから、楽しみにしててね」
少女は一方的にそう言って、椅子から飛び降りて走り去った。
まるで閃光か嵐に遭遇したかのごとく、章吾はしばらくその場から動けなかった。
顔を赤らめて、ごほんと咳をして、テーブルを拭いてから、ワインを口に含む。
「やれやれ……」
そういえば年下とは相性が悪かったことを思い出す。しかし年上と相性が良かったかというとそんなことはなく、同年代に至ってはからかわれるか蔑まれるかのどちらかしかなかった。
少し昔の事を思い出して、章吾は真剣に落ち込んだ。
彼はその時甘く見ていた。
少女といえど、『女』の情熱を侮ってしまったのである。
章吾がそれを思い知るのは翌日のこと。精一杯のおめかしをした美咲が、屋敷どころか自宅にまで押しかけ、色々と大変なことになる。
この日を境に、章吾に『年下殺し』の称号がつけられたのは言うまでもない。
第九.五話『祭りの後と世界で一番不幸な彼氏』END
第十話『風邪とお粥と小さなわがまま』に続く。
注釈解説ことじゃあゲレゲレでいいわね?(DQ5)
注1:ゲーム界の重鎮でありながら、未だ現役でゲームに出場しつづけている最強の配管工。トレードマークは赤い帽子とお髭。お姫様の救助からテニス、ゴルフ、果てはミニカーのレースまで鼻息混じりでやってのけるナイスガイ。パンチもできないし、キックもできない。時折炎を吐いたり尻尾を振ったり、カエルやタヌキになったりハンマーを投げつけたり、マントをつけたりするがそれくらいである。当然、魔法も使えない。ゲームは数多いけど、本当の意味での『漢』はこの人くらいだろう。
彼のさらなる活躍を見たい人は、『少年のうた』で検索すべし(携帯不可)。
注2:未来ある男子諸君、そして明日に生きるうら若き乙女諸君。大人というものは常に金策に苦労しているものだ。親ってのは子供を育てるために日々必死で働いている。おとーさんきたないとか、クソババアとか、あんまり言ってはいけないよ?
注3:某不思議なダンジョンを作っている会社の取締役社長が、ある漫画家の家に行った時にあげたお土産。その時に、漫画家が振舞ったのは味付け昆布。
その時の様子はエンターブレ〇ン発行のジャング〇少年ジャン番外編、『ドッキンバグバグ〇ニマル』の二巻に描かれているので、是非一読を(笑)
南国少年〇プワ君の作者って言えば、分かる人には大体分かるかもしれない。
と、いうわけでこれにてお祭りは御仕舞い。次回に続きます。
次回は坊ちゃんが風邪を引いて大変なことになるやらならないやらといった感じになります。お楽しみに。