勉強しなさい!!
高校に入学してもう半年、読書と食欲と芸術の花を咲かせる季節になった。一年生のアキと紘は、放課後に委員会の教室へ向かうのがすでに日課となっている。何の委員会かというと、学校の内外関係なく、魔物討伐をしたり魔法に関する講演会へ公欠を利用して参加したりという、部活のようなものだった。
アキと紘の通う私立デーヴィス学園高校は、千歳皇国の一般的な高等学校とは少し違う。何が違うといえば、それは学習内容に「魔術」という分野が国語や数学などの教科と共に組み込まれていることである。今の時代、魔術という学問は世界でも普及している。しかし、千歳皇国は先進国であり独自の呪術の伝統を持ちながら、魔術学という分野に関してあまりに疎いという珍しい国だった。それを「勿体ない!!」と嘆いた学園長が、こうして魔術を若者に学ばせるべくこの学校を設立したというわけである。
委員会に与えられた教室は、部室ともいえる部屋で、私立だからか、妙に広くて便利だった。テレビがあるし、冷暖房は完備されているし、冷蔵庫もあるしで、居心地がよい。
教室には、すでに二年の先輩四人が集まっていた。三年生もいるのだが、この時期は受験で忙しくなるため、最近はほとんど委員会の教室で会うことがなくなった。
「遅くなりましたあ」
アキは言う。
「こんにちは、平沢さん。今、ちょうどお茶が入ったところです」
反応したのは、二年の黒河ナナだった。長い黒髪が美しいのに、それがつんつんしているのがもったいない。物腰柔らかな態度で、しかも気配り名人と来ており、学校内ではそれなりに人気がある少女である。
「わ、ありがとうございます。ナナ先輩のお茶大好きですから」
「それはそれは。あ、星野君もどうぞ」
「あ、ども。いつもすんませんねえ」
「いえいえ。好きでやっていることですから」
教室の円卓テーブルには、湯気の立った緑茶に、人数分に均等に切り分けられたカステラが並んでいた。
「今日はカステラです」
「わーい、いただきます」
アキは自分の椅子に座ってさっそく茶をすする。
「ねえ、黒河」
黒河に話しかけたのは、二年の生徒で斎賀有也という。テーブルに行儀悪く頬杖をついて、フォークでカステラをつんつんとつつく。
「どうしました、斎賀君? お茶のおかわりですか?」
「あ、くれる? ……いや、それはそれで、このカステラってさ、クーガーせんせの手作り?」
「そうですよ。私のクラスは、最後の授業が保健でしたので、その時にいただきました」
やっぱり、と斎賀だけでなくその場にいた委員会メンバーは納得した。クーガーというのは、この千歳皇国に赴任してきた教師である。国籍はニーベルング人、無駄に美しい顔と美しい声が特徴的な男、黙っていればいい男。彼は、料理や洗濯に掃除まで、家事全般が得意であり、こうして委員会に差し入れするのも数えきれなかった。
「やっぱり。ねえ、浩輔、いつも思うんだけどさ」
斎賀は、隣に座っているクラスメート兼相棒の東理浩輔に話を振る。
「せんせって教師よりお菓子の店でも開いたほうがいいんじゃないの?」
「あー、俺もいっつもそう思ってる」
「お菓子に限りませんよ、クーガー先生の作るお料理はとてもおいしいです。見習うべきものがあります」
料理上手の黒河にまで絶賛されるクーガーの料理レベルの高さは、計り知れない。
「しかも面倒見もいいしさ。幼稚園の先生なんかも向いてると思わないか?」
「そういえば、先生って動物や子供に好かれますよね」
「うむ。実にパーフェクトに近いな」
「伝助うっさい」
斎賀がうんざりして向かいの生徒に突っ込んだ。そこにいる生徒も二年生で、浜田伝助という。顔も成績もよく運動もできるある意味完璧な男なのだが、バスケに異常な情熱を注ぎ、常にバスケットボールを持っていて、しかも何かにつけてパーフェクトだなんだというため、学内ではアホ扱いされている。性格ですべてを台無しにするよき例である。
「はーい、こんにちはー」
噂をすれば、そのクーガー・ジジタンゴ教諭が教室に入ってきた。
「あ、せんせ、カステラごちそうさま。今ね、せんせのこと話してたんだよ」
「あら、何よ何よ。みんなで俺様のハードボイルドを熱く語ってたってわけ?」
クーガーは美形の部類に入るが、決して彼のいうような類の人間ではない。
「クーガーのどこにハードボイルドがあるってんだよ」
東理は緑茶を飲んだ。
「失礼ね! 俺様のどこにハードボイルドじゃないところがあるってのよ!」
クーガーはむきになって言い返す。
「じゃあ、先生がハードボイルドだと思うところをあげてみてください」
アキが提案した。それにクーガーはすぐ反応し、自信満々の笑みでこたえた。
「ふっ、いいだろう。まず、このくしゃくしゃのワイシャツとか……」
「…………きっちりアイロンかかってますね」
「この、よれよれのネクタイとか……」
「…………すげーきれいに結ばれてんぞ」
「この、何日も剃ってない髭とか……」
「…………わあー、すべすべです。なでたら指の指紋がみえなくなりました」
「この、ヤニ臭い息とか……」
「…………あ、今日はレモンの香りっすね」
「ちくしょおおおおぉぉぉ!! ちーくしょおおぉぉぉぉ!!」
クーガーは腹の底から声を出し、自分の気持ちをあらん限りの声で出した。この先生も、浜田同様性格で見た目を壊すよき例である。やたらとハードボイルドを気取るがそんなイメージはかけらもなく、マジメでたまに律儀な好青年という表現の方が、彼にはお似合いだった。
「ま、せんせはほっといて、学生の僕らは学生らしい悩みをぶちまけようか」
斎賀はクーガーを切って捨てる。東理も紘もそれに同意し、話題をクーガーのハードボイルドのなさから試験のことに転換させる。
「でさあ、中間テストまでもう二週間なんだよね」
「なんだあ? ユウ、いやに弱気だな。赤点とっちまうかもって心配してんのか?」
斎賀がため息混じりに言うのを、東理が茶化す。
「そうじゃないよ。僕が心配してんのは、僕じゃなくて、黒河」
名を呼ばれたナナは、はて、と首を傾げつつ斎賀に注目した。
「なぜですか斎賀君」
「だって、黒河の頭って勉強するための機能がまるっきりないんだもん」
「失礼ですね。私だってやればそれなりにできるんですよ!」
「ほー。じゃ、俺がひとつ簡単な問題を出してやろう」
東理はおもしろがって便乗した。
「黒河、これ、なんて読むんだ?」
東理の出したノートに、「疾病」と書かれていた。ナナはそれを一瞥すると、ふんと鼻を鳴らして答えを言う。
「バカにしないで下さい。それくらい読めます。『はやて』です!!」
ぼいんぼいんの胸を張り、どうだすごいだろうというように手を腰に当て、またふんと鼻を鳴らした。
斎賀はナナの頭をべしっと叩いた。ナナは突然の奇襲にうずくまる。
「な、何をするんですか!」
「アホか。わかってたけど。『しつびょう』の方がまだかわいげあったよ。なんだよ『はやて』って。問題間違いなんて余計にタチが悪い!!」
「な、なんですかひどい! 私、真面目に解答したんですよ!」
「なおのことタチが悪い!!」
二年生の漫才を少し離れて見守っていたアキが、おずおずと手を挙げた。
「あの、ナナ先輩……答えは『しっぺい』です……」
「な、なんと……! 平沢さん、あなたはひょっとして賢者ですか!」
「いや、平沢は一般レベル。黒河はそれ以下。というかそれよりもっとひどい」
斎賀の悩みの種は、この黒河ナナだった。別に同級の学力のなさなど自分最優先の彼にしてみれば何とも感じないのだが、同じ委員会に所属している手前、ナナの馬鹿さが自分にも飛び火するのがどうしても嫌だった。学力が小学生どころか下手な幼稚園児よりも下かも知れないこの女生徒が、偏差値はそれほど低くない結構な高等学校にどうして入学できたのか、不思議で不思議でしょうがない日があった。後にナナ本人に聞いたところ、スポーツ推薦で合格したらしい。
「はーい、みんないるね? 集まって-!」
部室に入ってきたのは、顧問の速水リサだった。まだ年若く、この学校に赴任して三年と経験は浅いが、教員としては優秀な女史である。委員会メンバー達は、速水に注目する。
「さて、そろそろ中間テストが近づいてきてるんだけど……みんな大丈夫?」
ナナだけが、露骨に反応した。
「言っておくけど、委員会が特別組織だからって、勉強を手抜きしていいってわけじゃないんだからね。学生の本分は勉強なんだから、しっかりそれなりの点をとってちょうだい。委員会は、学校内からも外からもかなり注目されてるんだから、ヘマは許されないよ!」
ここにいる委員会メンバーの成績を簡単にまとめると、こうなる。
まず一年であるが、アキは成績上位を常に維持している優等生、紘は可もなく不可もなく。二年は、浜田が学年トップレベル、斎賀はそれには劣るがそれなりの成績を収めている。東理は中の下。問題にされまくっているナナは下から数えたらトップという不名誉極まりない成績だった。
「もう二週間前だから、委員会の仕事は試験終了日まではお休みにするよ。この二週間、少なくとも放課後は時間に空きがあるんだから、きちんと勉強しなさい!! いいね!?」
速水の演説には、有無を言わせぬ迫力が含まれていた。「はいっ」とマジメに返事をよこしたのは、アキだけだった。
「じゃ、私はこれで退室するけど、授業とかで分からないことがあったらいつでも聞きに来てね。それでは解散!」
委員会の当分の問題は、黒河ナナだった。あのあと、クーガーも、問題の作成のために部室から席を外した。部室には、委員会メンバーが残る。
「ええと、じゃあ、勉強、しましょうか……?」
アキは遠慮がちに提案する。
「そうだね。分からないところがあったら、メンバーの誰かに聞くか、それで分かんなかったら各担当教科の先生に聞いてくる。ってことでどう?」
「それがいいですね、先輩」
「はいはい!! 提案があります!!」
ナナが勢いよく挙手した。面倒そうに、東理は「どーぞ」と指名する。
「よろしければ、私の家で勉強しませんか?」
「ナナ先輩の家っすか?」
「はい。結構広いですし、周りは静かですから、放課後賑やかになる学校よりは、集中して勉強できると思うんです」
ナナの提案に、メンバーは賛成した。
放課後、一度それぞれが教科書やノートを取りに戻り、学校の正門前で再び集合した。
ナナの実家は神社で、敷地が広い。祀られている神様は、ナナ曰く「ヒーローの神様です」だそう。深紅の鳥居をくぐった先には、立派な本殿と人間の家がある。学校からの距離は、徒歩で三十分ほど。電車通学で通っているアキと紘は通学時間の短さをうらやましく思った。
通された客室は、二十人くらい人が入ってもまだ余裕があるくらいの広さを誇っていた。家は和式住宅で、畳に愛着を持つ紘が、「ロマンあふれるなあ」と感激していた。
「えーと、それじゃ始めましょうか」
アキは言うなり鞄から大量の教科書と問題集を取り出した。紘に言われるまで置き勉を知らなかった彼女は、今でも教科書類をわざわざ持ち帰り自宅で勉強しているとか。
「よし。わかんないとこあったら、平沢か伝助に聞けば万事解決だからね。それ以外はなるべく自分で考えること」
「はい」
勢いよく返事したナナは早速アキの隣にちょこんと座った。
「……えーと、ナナ先輩? どこがわからないんですか?」
「全部です」
「せめて教科を絞ってください……」
「では国語からお願いします」
ナナはさっと教科書をアキに見せた。彼女の付近には試験科目全教科の教科書がきちんと積み上げられている。テスト範囲は限られているとはいえ、すべてを教えるのに二週間という時間はあまりに短い。
それ以前に、アキは教える前提として必要最低限のことを見逃していた。
「はっ! ナナ先輩大変です!」
「どうしました!?」
「わたしは一年生で、ナナ先輩は二年生です」
「はい」
「一年のわたしは、先輩に勉強を教えることができません!」
「なんと! 失念していました!!」
「いや、最初に気づかない、普通?」
斎賀のもっともな発言に、ナナは「いえ、平沢さんならできると思って」と答えた。どういう根拠があって後輩に教えを乞うことが得策だと考えたんだろうと十秒ほど頭を働かせたが、やめた。この成績逆トップの同級生は、物事を深く考えない人間だ。今回もどうせ直感で成績優秀なアキを選んだのだろう、と斎賀はあきれた。
「そもそもさあ、そういうのは伝助に教えてもらうって考えるのが普通じゃない? ……って、あれ。伝助は?」
東理が無言で庭を指さす。斎賀が縁側に出て庭を眺めると、「パ――フェクトッ!!!」とわけのわからぬ奇声を発しながらドリブルシュートを連発する浜田伝助が確認できた。
「伝助ってなんでアレで学年トップの成績なの」
「俺が知るか」
「見てくれも成績もいいのにねえ。なんで女子に人気がないのか、なんて議論するまでもないよね」
「……そうだな。あいつ、頭で損してるもんな」
「性格で損するクーガーせんせと同じだね」
「まったくだな」
会話を続けながら、斎賀は真面目に数学の問題を解き、東理は畳の上に寝っ転がって歴史の教科書をぱらぱら読んでいる。一年には気の毒だが、ナナの相手をしていてもらうことにする。自分だって、悪い成績は残したくない。斎賀は、机の上の勉強くらいちゃんとしておきたいと真面目に感じている。隣で教科書を適当に読み流している幼馴染は、赤点を取らない程度で妥協している。……もう飽きて寝ていた。
本当の優等生というのは、教わったことを自分で理解できるだけでなく、人に理解させる能力をも持っているらしい。一年生ではまだ習わない単元を教科書と資料集などで即座に理解し、運動神経と頭の悪さだけはトップであるナナに、アキが一生懸命教えている。さらに、紘の質問にもきちんと答えて理解させている。二人の生徒(うち一人はどこに言っても文句なしの馬鹿)を持ちながら自分の勉強も忘れない。見ていて危なっかしいイメージのある少女だったが、平沢アキは意外と教師に向いているかもしれないと斎賀は分析した。分析するだけで、アキを助けるつもりは毛頭ない。自分一番なので。
「と、つまり、この歌は、掛詞を使って自分の気持ちを表してるわけです。解りますか?」
「うーむ……」
ナナは何とか頭を働かせて理解しようと努力する。
「じゃあ、こう考えてみるんです。ヒーローを愛する女性が、そのヒーローに対する気持ちを、ぎゅっと詰め込んでるって」
「なるほど!」
ナナには、「ヒーロー」と名のつくものでたとえをすれば理解するのではないか。斎賀の考えはアキにも思いついたらしく、ナナへの指導はヒーローを用いた形に変わった。アキは、少なくともこれをあと二週間行わねばならない。自分最優先の斎賀も、さすがに少しアキに同情した。
二週間経ち、試験もすべて終了し、成績が提示されることになった。テスト返却はそれぞれの授業の際に行われた。総合成績は、個人成績表のほかに、廊下に成績順位を貼り出されるという妙に古風なやり方で知らされた。プライバシーがどうのという苦情も多々あったが、学園長はこのやり方をやめるつもりはなく、今でもこうしてずっと続いている。
アキと紘は、教室塔二階の掲示板を見上げていた。紘はのんびり眺めているが、身長が少し低いアキは、人だかりの中結果を確認しようと必死にぴょんぴょん跳ねていた。
「おー、やっぱアキはすごいなー」
「え? 何番?」
「五位。すげ。ひとケタ」
「うーん、上には上がいるんだねえ。今回は結構自信あったんだけどなあ」
「目標高いなあ」
「紘君は?」
「俺? うーん、……五十だった。あ、少し上がってる」
「すごいすごい! あ、先輩たちはどうなったかな。見て来ようよ」
「そーするか。……ナナ先輩が心配だからな」
「……そうだね」
アキの指導のおかげで、せめて赤点回避くらいはしているだろうと自信のない予想をしながら、一年二人は三階への階段を上った。
二年の学年トップは、やはり浜田だった。この二週間、浜田は委員会メンバーでの勉強会でも個々の勉強の時でもバスケしかしていなかった。珍しく机に座ったかと思ったら、スポーツ用品のカタログを読んでいたという笑えない話もある。
「……あれでどうしてトップを維持できるんだろ」
「知るか」
斎賀は学年十位、東理は二ケタぎりぎりだった。
「ね、浩輔。ちょっと賭けてみようか。黒河が成績逆トップ脱却できたかどうか」
「よし。俺はビリで」
「じゃボクはビリ脱却なるも全教科赤点よって補習で」
当人のナナは、人だかりをかき分けて順位表をじっと見つめる。一位の浜田からどんどん下へと視線を下ろし、自分の名前があるかどうかを丁寧に確認していく。
最後の順位に、自分の名がない。見落としたのだろうか。少なくとも、最下位の名前は、黒河ナナではなかった。
「ということは……最下位脱却ですか!?」
どの順位になっているのかまだ確認できていないが、少なくとも最下位ではないことが分かっている。今までビリだった自分が、ついに学年逆トップの汚名を返上できたのだ。
「あ、ナナ先輩。どうでした?」
ナナはもう少なくなった人だかりから抜け出してきた。
「やりましたよ平沢さん! 最下位に私の名前がありませんでした!」
「ほんとですか!? ついにですか!?」
「すごいです。平沢さんのおかげです!」
「いや、わたしは教えただけで、ナナ先輩が頑張ったからですよ」
感極まって、ナナはぎゅうっとアキを抱きしめた。その豊満な胸にアキの顔はうずめられ、呼吸が苦しい。
「ナナ先輩、ギブですギブギブ~」
紘は「……ちょっとうらやましー」とつぶやいた。
「黒河」
「あ、斎賀君、東理君。やりましたよ。私、ついに名誉を返上いたしました!」
「名誉は挽回しなね。それより、水を差すようで悪いんだけど」
「どっちかっつーと、ビリのほうがまだ可愛かったかもな」
「へ?」
斎賀はちょんちょんと掲示板を指さす。
その先には、二年生の成績順位と、その隣に、赤点により補習の義務を課せられた生徒の名前――「黒河ナナ」一人だけだった――がきっちりと掲示されていた。
「あれ?」
賭けは、斎賀の勝ちだった。
学生なら必ず通過しなければならないイベントですね。今の学校って、廊下に順位を掲示する方法はとってないんでしょうか。私の高校時代は個別に個人成績表なるものを手渡され、順位の低さといいのか悪いのか分からなさに頭を悩ませていました。