~1話
鯉が泳いでいた。池の中でも川の中でもなく、社会の、そこかしこに。
「吉峰さん」
今が五月の頭であることから、それを鯉のぼりであると認識することも、どうにか可能そうであった。しかしながら、せせらぐような水の音、鯉が跳ねる音までついて回ったので、それは不可能となった。
「吉峰 灯さん」
受付の声に灯は顔を上げた。水色のソファが並ぶ待合室。時計は午前十時十分。今日は半年通っているこの秋野心療内科に、新たな症状を告げなければならなかった。
「保険証、ありますか?」
「あ、はい……」
水の音は止まない。しかし、この待合室ではそれが幾分か小さい。鯉は一匹であった。灯は、俯きながら保険証を渡し、代わりに問診票を受け取った。バインダーを見つめる。文字が上手く読めない。灯は、幻覚と幻聴の項目にチェックをつけ、それ以外は特に何も書かず受付へ返した。
(──どうせ、他の薬が追加されるだけだ)
適応障害による鬱状態は、日に日に深刻になっていく。休職直後の解放感はとうに失われていて、仕事だけでなく、趣味にも、生活タスクにも腰が上がらず、また、ここに来ることもやっとの思いであった。新しい薬を貰って、視覚と聴覚に染み込む『鯉』がいなくなってくれることを、灯はただ祈るしかできなかった。
「吉峰さん。お入りください」
看護師の案内。灯は届かない程度の返事をしてから、診察室に入った。
白髪のオールバック。鋭い目つきの医師。その佇まいほど厳格な人でないことを、灯は既に知っていた。しかし、カウンセリングをサボった二か月ぶりの来院。肩をすくめながら、医師の前の椅子に座る。
「幻覚ねぇ。いつから?」
医師は、問診票の内容をカルテに反映させながら問う。キーボードの操作音が、灯の耳に刺さる。
「えっと、休職した頃にも少しあったんですけど、最近だいぶ酷くなって。気のせいに、思えなくなって……」
「どんな幻覚?」
「……鯉が、泳いでいるんです」
灯は包み隠さず告げた。
「鯉。大きい? 小さい?」
「まちまちです」
「……一匹じゃないってこと?」
医師の質問は、灯の想定よりも具体的であった。
「今は……一匹です。でも、買い物に行ったり、今日みたいに電車に乗ってくると、たくさんいることもあります」
「ふむ。今も見えていると」
「そうです」
信じてもらえるかどうかは、すでに灯の思考になかった。ただ、打ち明けるだけで幻覚がおさまるような気がしていた。しかし、まだ鯉は泳ぐ。
医師は、いつからか持っていたボールペンを顎にあてて、カルテを眺める。しばしの沈黙が流れる。
(──早く帰りたい)
重い、場の沈黙。大きくなった心拍に、灯の胸中が圧されていく。医師はカルテを閉じ、その口を開いた。
「うん。これについてだけどね、専門家がいる」
灯は一瞬、言葉の意味を取り損ねた。
「専門家……ですか」
「そう。いつもの薬は出しておくけど、紹介状を書こう」
「……」
──これはもしかしたら、インターネットで見たことがある『患者のたらいまわし』なのではないか。
灯は勘繰る。彼女からすれば、当然、目の前の医師こそが専門家である。それ以外の認識がない。次の病院にかかるとなると、その想像だけでまた腰が重くなる。
「信頼できる筋だよ。安心して欲しい。私の知る限り、その分野では一番の人だ」
「わかりました」
「向こうには連絡しておくからね」
信じるしかなかった。灯にとって、頼みの綱は目の前の医師だけ。少し先の『良い未来』を祈りながら、診察室を出る。溜息が漏れる。そして受付で紹介状を受け取り、クリニックを後にした。
◇
灯は、受付できちんと確認しなかったことを悔いていた。家に帰る途中で紹介先の住所を調べたところ、そこには病院ではなく、石材店が示されていたのだ。電車のガタンゴトンという音と揺れが、不安を煽る。
しかし、その『湾洞石材店』の斜向かいには『畑野内科』という病院がある。おそらくその間違いだろうと、頭の中でそう整理するしかなかった。日を空ければ、動くのが億劫になる。それを自身の症状から学んでいた灯は、クリニックに行った足で、そのまま紹介先へ向かっていた。
目的地は、東京都調布市。乗り換えは一回。この電車は、クリニックのあった東京の中心よりも、南のほうに向かっている。あまり混雑はしていない。
住所が示す最寄り駅で降りる。線路が二線しかない、こじんまりとした駅だった。学生が自転車を漕いで、お年寄りが談笑している。そこはいわゆる『東京の静かな部分』であった。
(──鯉が、少なくなった?)
灯はなんとなく、そう感じながら、地図アプリを開いて住所を入力した。青いピンが立つ。その程よい栄え具合の駅を背にし、スマホを見つめながら黙々と足を進めていく。
(──ここだ)
駅から歩いて七分ほど。畑野内科はそこにあった。閉まっている。色褪せて読めなくなっている看板の文字に、汚れたガラス。休診というより、もうすでに閉院しているとしか思えない外観。灯は、その場で茫然と立ち尽くしてしまった。
「紺色のワンピース」
背後から、低い、男の声。
こんなときにナンパだろうか、そう考えた瞬間だった。
「鯉の見える女。紹介状」
灯はすぐに振り返った。背の高い黒髪、短髪。黒スーツの男が立っている。三十代後半ほどだろうか。ネクタイはしておらず、左手にはスーパーの袋。そこから水菜の先端が飛び出していた。
今しがたの言葉で、尋ね先が彼であることがわかる。灯はまだ少し疑いながら、口を開く。
「あ、あの、秋野心療内科から紹介状を……」
「知っている。ついて来い」
男は短く、それだけ言うと、アスファルトを黒い革靴でコツコツと鳴らしながら、斜向かいの石材店へ入っていった。灯は紹介状に間違いがなかったことを理解したが、反面、当然に、不安を膨ませる。
(専門家。医師ではなく、石……)
久々の移動に疲れる灯は、思考の速度と余白が足りなかった。考えても何もわからず、仕方なく男の背を追う。
上がりきっていないシャッターの中は、作業場のようであった。見たこともない工具や、加工中の石、墓石らしきものが無造作に並んでいる。石の乾いた匂いに混じって、どこか煙草か、あるいは線香のような匂いがした。
男は、奥にあったドアの鍵を開ける。
「入れ。土足で構わない」
「あ、はい」
灯は言われるがまま、そのドアをくぐる。リビングにしては機材や備品が多く、事務所にしては生活臭がある。そんな部屋だった。目の前のテーブルには、石で出来た黒い招き猫が置いてある。
「そこにかけてくれ」
男は、テーブルの上の競馬新聞や、煙草の箱などをざっくりと退かして、部屋の佇まいにしては少し高級そうな椅子を指してそう言った。
──来客用だろうか。灯は身を小さくして座った。男は、引き出しから名刺入れを手に取り、一枚を抜いて、テーブルの上に差し出す。灯はそれを手に取って『湾洞 静悟郎』と、まず黙読した。
「──さて。俺は石屋だが、お前の見ている幻覚の専門家だ」
灯は眉をひそめる。
「あの、お前ではなく、吉峰 灯と申します」
「そうか」
「えっと、幻覚の専門家って、どういうことですか」
「説明するより見せたほうが早い。俺の背後に注目してみろ」
灯は、静悟郎のペースにすっかり飲まれながら、言葉の通りに視線を移した。視界には、いつものように一匹の鯉がすいすいと泳ぐ。
しかしゆっくりと、彼の背後が徐々に暗くなっていくのがわかった。何かが出てきている。それは灯が街中で、あるいは電車の中で、何度も見たはずのものであった。
「──!」
止まった呼吸が、驚く言葉を奪う。
ズズズ、という重い音。静悟郎の背後から、大きなドス黒い鯉がゆっくりと姿を現している。まだその全身は見えていないが、灯が普段見る鯉より三倍、いや、十倍ほど大きい。街で泳ぎ回るものと比べても、ずっと大きい。そしてそれが、彼の意思でここに『呼び出されている』ということが、場の重い空気だけで確かに彼女に伝わっていた。
「見えるな?」
静悟郎は確認するが、灯は頷くこともできない。
「これは、医療の範疇ではない。幻覚でもない。理由は知らないが、とにかくお前は、こちら側に来た」
──説明するより見せたほうが早い。灯は、静悟郎のその言葉だけを理解し、目の前の光景には、まだ置いていかれたままだった。




