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雑草令嬢は野獣令息の腕のなか

作者: gen.
掲載日:2026/05/03




 ピンチです。いえ、チャンスです。千載一遇の好機(ピンチ)が回ってまいりました。

 私ロサ・シルベストレ男爵令嬢、ついさきほど王立アカデミーの寮から夏季休暇でタウンハウスに帰省したのですが。


『お義姉様のお部屋はこれから私が使いますから、新しいお部屋にどうぞ?』

『ああ、そうそう。防犯用にしっかり鍵もかかる部屋よ、あなたにピッタリのね』


 継母アデラと義妹アデリナに家を乗っ取られてました。ついでに部屋も。

 そんな私はどこに追いやられたかといえば、納屋。

 納屋です。母屋ですらありません。不幸中の幸いはその納屋が私の錬金系実験室として使われていたことでしょうか。なので最低限の寝起きして勉強するための環境は整ってました。いいか悪いかは別として。

 鍵というのは納屋の扉につけた錠前のことで、当然ながら私が内側から開けることは出来ません。

 ようするに、閉じ込められました。


 問題はそれだけではありません。我が男爵家は数年前まで跡取りとなる直系の男子がいなかったため、親族会議でもっとも私と年の近い又従兄弟のベニート子爵家次男、カミロが私の婚約者となり家を継ぐ、と決まっていたのですが、そのカミロがあっさり私からアデリナに鞍替えしやがりました。アデリナははっきり言って愛想のよい美少女です。生母アデラが美人なうえ、摩訶不思議なことにお父様にもよく似ているのです。血筋もどうせ問題ないんでしょうね。十三年前にお母様が亡くなられたのに十五歳のお父様似の義妹だなんてうふふファッキソとはこういうときに使うのでしょうか。


 まあそれはそれとして、私のあだ名は『雑草令嬢』。お判りでしょうが容姿については義妹、ええいまどろっこしい異母妹の足元にも及びませんし及ぶつもりもございません。

 日に焼けて白茶けた癖の強い榛色のおさげ髪に、そばかすだらけの肌。ちんちくりんの体に素材採取のフィールドワークで負った手傷は数知れず。そんな私なりにもカミロとは幼なじみとして静かに親愛を育んでいたつもりでしたが、つもりだったのは私だけだったようでございます。アデリナに腕を取られてたわわな脂肪を押し付けられヤニ下がった面の幼なじみなどいまや錬成釜に頭からぶち込んでやりたいばかりです。


 こうなると私の嫁ぎ先はどこになるのかという話になってまいりますが、成績不振で容姿も並以下、ろくなところには嫁がせられまいと察した私の行動は早かったのですが、敵もさることながら父ほどに年の離れた五度目の結婚をする資産家の伯爵家という逆によく見つけてきたなという物件もとい釣書を私の納屋のベッドの上に放ってきたのでございます。


『卒業パーティーにはご一緒していただけるそうよ、良かったわね』


 何一つよくありませんがとりあえず釣書は煮炊きにでも使わせてもらうことにして、高笑いと一緒に出ていったアデラの背中に心で中指を立てておきました。ファッキソ。

 卒業パーティーという単語でお察しの方もおられるかもしれませんが私今年が最終学年でございます。つまりこのガッデム婚姻達成まで待ったなしの状態です。

 ですが私もやられっぱなしではありません。そもそも今年五歳になる異母弟ルシオがいるのでカミロはアデラにとって保険のようなものでしょう。そんなルシオも出産するまでアデラと父は結婚していなかったので、本当に父の子か疑いの目がかけられているというのが現状です。


 すこしだけややこしいのですが、我がシルベストレ男爵家は私の生みのお母様であるリリアナ・シルベストレが病床に伏したときその筆頭侍女としてつきっきりで献身的に看護していたのが現継母のアデラです。つきっきりだった結果がアレでアレなのですが。

 そして私のお母様が亡くなられた後も我が家に残り、ルシオを授かったので結婚してくれと父へ言い出したのを、私は条件付きで親族会議の際、賛成してさしあげたのです。結果がアレでソレでしたが。

 そうまでして迎えたアデラと父の蜜月は大した長さもなく、父もまた病に伏せるようになり、私はアカデミーで家の内情を知らされることもなく、今に至るという感じです。


 まあそんなことを思い出しつつ、私はさらさらとペンを滑らせます。便せんの数が足りなくなるかと思ったけれどノートを破けば大した問題ではありませんでした。

 本当によかった。帰省鞄一式ごと放り込まれたおかげで教本も材料も錬金器具も全部あります。

 私は『成績不振の落第生』ということで通っておりますが、そんな落第生に何ができるかこれからご覧にいれましょう。

 便せんは丁寧に折って封筒に入れる分とそうでない分とわけて鞄の中へ。

 次に取り出したりますはサラマンダーの鱗の粉末に燐光蛾の鱗粉、これを不思議な黒い粉、くさい黄色い粉、キラキラ光る白い粉と一緒に乳鉢にいれ、乳棒で丁寧に混ぜ混ぜいたします。決して蝋燭の火は近づけないように気を付けて、ぱちぱちと小さな音が聞こえるようになったら頃合いです。

 さて、納屋の窓から見える母屋の明かりが消えました。乳鉢の中身を納屋の一部を除いた壁面沿いにさらさらと撒いていきます。残りはどばっと私のベッドだったものに。あ、釣書そのままでした。まあいいです。


 お次はさきほど薬を撒いた時に見つけた壁のひび割れに蝋燭の火をかざして、壁と挟む形で私の手のひらをその明かりに添えます。そして小声で呪文を唱えれば、あーら不思議。

 勢いを増した蝋燭の火、いえ炎がぐるりと円を描く手の動きに追従して、ひび割れから薄板の壁を燃やし尽くしていくではありませんか。ぱちりと指を鳴らせばはい完成。綺麗に抜けた薄板を踏み倒して、私は裏庭へと脱出です。んーシャバの空気は最高です。

 とも言っていられません。次なる関門は邸の塀です。これは引っ張り出した鞄を縦にして、足場にし、塀の上に乗ったところで縄をかけた鞄を引っ張り上げ、再び塀の向こうへ鞄をポイ、で完了です。

 いくらちんちくりんでも、体力増強の魔法を真面目に勉強していればこれぐらいはできます。ふふん。


 さて、もうこの家に未練など芥子粒ほどもございません。最後に盛大に爆破して自爆に見せかけてあげましょう。実に面白そうです。ガッデム婚約を苦にして自爆。中々スパイシーな退場劇。それにこの納屋木造なんです。年季も入っててよく乾燥してて、今はまだ雨季の前。つまりうっきうきの乾燥日和。消火に気を取られているすきに華麗にお暇です。

 母屋にあるお母様の宝飾品やらなにやらは、唯一学内でもこっそり身に着けていたエメラルドのブローチ以外全部置いていきます。せいぜい紛失物の確認有無にも時間を使ってもらいましょう。


「さて、おさらばです」


 ぴ、と立てた指先には小さな火の玉。火炎魔法の初級も初級、火球(ファイヤーボール)


「さようなら、くそったれな皆さま」


 ぴしりと指先で弾いた先には不思議の粉たっぷりの納屋の穴。寸分たがわず飛んでいくのを見送るでもなく、私はひょいと鞄の上に降りてそこからさらに地面に。

 数秒後、大爆音と共に通りがとっても明るくなって歩きやすいことこの上ありませんでした。うふふ。


 それでも馬車を使わず徒歩で歩くとなると、体力増強魔法がなかったら私には少々こたえました。特に今から向かうところはこんな入り組んだ下町通りじゃあありませんし。

 ガタゴトと音をたてる車輪付き鞄を引っ張りながらあちこち歩き通すこと二時間ほどでしょうか。

 石畳が滑らかになって、塀から塀への間隔も長くなって。坂を上って上って上って。やっとのことでたどり着いたお屋敷の前。当然、門は閉ざされてます。

 そこからさらに塀を巡って巡って……このあたりかしら。鞄を足場に鉄格子を掴んできょろきょろやっていたら――――いました。いえ、ありました。かなり遠いけれど、お目当ての明かりが点いた窓が。

 鞄から取り出したノートを破って、ペンでさらさらと短いお手紙を認めて、鳩の形に折りまして、と。


「さ、おいきなさい」


 ふう、と息を吹きかければ飛び立った紙の鳩が鉄格子をすり抜けて、この時間でも明かりが点いている母屋、ではなく離れ屋敷の窓の方へ。無事着いたかは小さくなりすぎて判らなかったけど、しばらくしたら明かりが揺れて窓が開くのが解りました。

 そこからぬ、と出てきた手が紙片を開くのが見えて――――あら、まあ。

 窓が大きく開いたかと思うと、三階――三階ですよね?――からひょいと飛び出してきた巨躯が音も微かに着地して……あー消音魔法も使いましたね。アレ。それからまっすぐ私の方までズンズン歩いてきて。


「こんばんは、よい夜ですね。イシドロ」

「なにをやってる、ロサ……!」

「書いたとおり、家出です」


 いえ、実家の方では死んだと思われてるでしょうけれど。

 アカデミーでの数少ない友人の一人、侯爵令息イシドロ・バルラガンが信じられないものを見る目で私を見下ろしておりました。彼ったらわたくしの頭三つ分は背が高いものだから、小声でおしゃべりするのも一苦労です。

 でもこの程度の苦労大したことありません。これからするお願い事に比べれば。


「とりあえず、泊めて下さる?」

「できるわけが」

「では野宿ですね」

「宿は」

「足がつきますもの」


 数度のやり取りで深いため息が聞こえたかと思うと、徐に飛び上がった彼が鉄格子の塀をあっさり乗り越えてきましたわ。毎度のことながらどういう身体能力なのかしら。強化魔法も大して使ってないというし。


「荷物は。その鞄だけか」

「ええ」

「抱えてろ」


 ここは大人しく言われた通りにいたします。すると私のことを鞄ごとひょいと抱き上げたイシドロが、また地を蹴ってあっさり塀を飛び越えてしまいました。この塀、意味あるのかしら。イシドロが規格外なだけなのはわかってますけどね。

 そのまま着地したイシドロは、私を下ろさないままスタスタと離れ屋敷の方へと歩いていきます。


「歩けますけど」

「知ってる」


 でも下ろしたらどこに行くか知れたもんじゃないからな、ですって。失礼だこと。ちょっとお庭を拝見するぐらいいいじゃありませんか。ねえ?



「――――三十歳差の結婚……!?」

「あのまま家にいたら、そうなりましたね」

「カミロは」

アデリナ(義妹)で骨抜きになってました」


 イシドロはわけがあって、タウンハウスの離れで独り暮らししています。おかげでこうして夜中に押しかけて長話しても、気兼ねしなくて済むから助かります。

 もっとも、年頃の未婚の令嬢が同じ立場の令息に夜間押しかけるなんてことは、知れたらお互い社会的におしまいですが。

 私たちはそういうことに疎いというか、あまり気にしない同士なんですよね。


「……お前は」


 ピシリ、と小さな音。

 私はイシドロの手元を見ながら、彼の淹れてくれた紅茶を呑んでました。

 彼のカップがいつ割れてもソーサーで受け止められるように、準備しながら。


「それでいいのか」

「まったくよくありません」


 イシドロのカップは、割れてしまう前にソーサーの上に戻されました。

 彼の鬱蒼と伸ばされた、黒く艶やかな髪の奥からぎらついた金色の目がこちらを見つめていました。私の大好きな、綺麗な満月色の瞳。カミロがいなければ、きっと思ったままに口にしていたでしょうね。

 ああ、もういいのかしら。口にしてしまっても。


「ですから、あなたのところに来たんじゃありませんか」

「……俺に何をさせたい」

「とりあえずは、死人をかくまってほしいです」

「それぐらい容易い。それで、お前は俺に何を出す?」

「毎晩の朗読手(リーダー)というのはいかが?」


 私はにこりと微笑んでカップをソーサーに戻しました。

 長椅子一つを丸々使い切って座るイシドロに対して、私は対面の長椅子の真ん中にちょこんと腰を下ろしているだけ。はた目から見たらライオンにネズミが話しかけてるような有様だったんじゃないかしら。


「……悪くないな」


 イシドロが唇の端で笑いました。ええ、私、見た目はともかく声は悪くないと自負しております。イシドロが私の声を気に入っているのも、もちろん知っています。


「次は?」

「それは明日にしましょう、寝不足が顔に出てますよ」

「ベッドはお前が使え」

「却下します。あなた長椅子じゃ脚が余るでしょう」

「だが」

「あれだけ広いベッドなんですから、もう一人ぐらい使っても問題ないでしょう」

「……お前はずるい女だな」


 あら、なんのことかしら。


「明日は侍女をつける……とりあえずその見た目を、どうにかするぞ」

「あなたも相変わらず失礼ですね」


 のっそりと立ち上がったイシドロが、サイドテーブルのランプが点いたままのベッドに寝転がったので、私は鞄の中から教本の一冊を取り出しました。それを片手にベッドサイドの椅子を引っ張ってきて、建国史の詩の朗読を始めました。

 私の方を見つつ、その声に耳を傾けていたイシドロがうつらうつらと舟を漕ぎ始めて、やがて深い眠りに落ちるまで。


「おやすみなさい、イシドロ」







 私がイシドロと友人になったのは、その怪力と巨躯で知られる彼とのペアを組んだ課外授業が切っ掛けでした。

 ええ、何せ私成績は底辺も底辺、落第生と呼んで差し支えなかったものですから、成績()申し分ないイシドロとバランスを取るために組まされた、ということで、つまり彼にとってはいい迷惑だったのです。

 けれどその課外授業の課題がイシドロが苦手な繊細な生物採取だったのもあって、私が少し役に立ちました。

 それと彼自身の怪力を怖がらなかったのも、珍しかったのでしょうね。

 採取した生物のレポートが出来上がるころには、彼の方から話しかけてくるようになっていました。


『どうして、成績が悪いふりをする?』

『あなたはどうして、恐ろしいふりをなさるの?』


 質問に質問を返されるとは思ってなかったんでしょうね。あのときのイシドロの顔といったら。


『教えてくれたら、私も教えて差し上げますわ』


 交換条件というやつですね。採取した希少種のキノコが入ったテラリウムを挟んで、レポートを突き合わせているときに、そんなことを話しました。


『……俺は実際、恐ろしいだろう』

『どこがですの?』

『密猟者どもを……』

『あれはどう考えても十割向こうが悪いじゃありませんの、恐ろしいどころか頼もしかったですわ』


 生物採取の時に現れた密猟者どもに、イシドロが倒木をぶん投げてなぎ倒した時の爽快感といったら堪りませんでした。でもそんなことをいう令嬢も珍しかったのか、イシドロがまた言葉を詰まらせました。

 少し長い沈黙が落ちました。


『夜……』

『夜?』

『眠れない』

『……不眠症でしたの?』

『……わからない。それで日中に苛立つことが、多い。俺が苛立つと、怪我をする奴も増える』


 つまり、イシドロの人を寄せ付けない恐ろし気なふるまいは、人を余計に傷つけないための彼なりの処世術だったというわけですね。彼の前髪は長くて鬱蒼としていて、その目元をほとんど隠していましたから、今のように濃い隈があることも当時の私は知りませんでした。


『……言ったぞ』

『!……ああ、私のは……』

『ロサ!』


 けれど、私にはろくな説明も必要ありませんでした。理由が向こうから顔を出してきましたから。

 イシドロが一緒だと気づくと、思わず怯んだようですけれど、それも一瞬のことでした。


『レポートはできたか?』

『あと少しですわ』

『まだできてないのか!?急いでくれよ、写す時間だってかかるんだぞ』

『ごめんなさい。今日中に持っていきますから』

『とにかく早くしてくれよ、遅れて困るのはお前もなんだからな』


 言いたいだけ言って、あとはイシドロの視線に逃げるように立ち去っていった背中を、あの頃の私はただ見送っていました。


『いまのは』

『カミロ・ベニート。同じクラスでしてよ?』

『お前のなんなんだ』

『婚約者ですわ。彼が子爵でうちは男爵、父がなんとしてもこの縁談を成功させたがってますの』

『……だからレポートをくれてやってたと?』

『そうなりますわね』


 つまらない舞台裏でしたでしょう?それでもまだその頃の私は、カミロのことを未来の夫として憎からず想ってました。今となっては信じられないことですけれど。

 こうして私たちはお互いの秘密を共有することになりました。だからといってすぐに何かが起きたわけでもありません。ただ、授業でペアを組ませられることが増えた、といった変化はありましたけれど。

 それというのも、イシドロが自分のレポートを早く仕上げて私の分も作れるように計らってくれたおかげで、私の成績が少しだけ向上した、ということがありました。

 それを教師陣は評価したようでしたね。危険物と厄介物を一緒にしておけばいい、というような空気も感じましたけれど。


 そうこうしているうちに、私とイシドロは自然と一緒にいることが増えました。今思うとカミロを追い払ってたのかもしれない――おかげでアデリナの付け入る隙を与えたのかもしれない――ですけど。ともかく彼はごく自然に、私の隣にいるようになりました。

 そうして、何度目かのペアでの課題。詩の朗読の課題の時に、私は私の朗読でイシドロが寝入ってしまっていることに気づきました。最初は詩がつまらなすぎたのかと思ったのですけれど、あまりに気持ちよさそうに眠っているから起こしそびれてしまって。

 鐘の音で目覚めたイシドロ自身が、誰よりも驚いてました。


『……眠っていたのか?俺は』

『ええ、それはもう、すやすやと。首、痛めてませんか?』

『……痛くは、ない』

『それはよかったですね』


 その頃には私も侯爵令息様に向かって、随分気やすい口を聞くようになっていました。

 ちなみにイシドロの朗読はもともと声も通りも好いから、少し指導したらすぐよくなりました。

 けれど相変わらず私の朗読の時には舟を漕ぐものだから、私の朗読はそんなにつまらないかと心配になって聞いてみたんです。

 そうしたら、あのイシドロが。普段はむすっとしてぶっきらぼうなあのイシドロが頬を少し赤らめて!


『ちがう……心地よくて、眠くなる』


 なんて、言うものですから!私、とても驚いてしまって。

 でもその時のイシドロの照れくさそうな、それを隠そうとする表情がなんだかとても大切なものに思えて、静かに胸の内にしまっておきました。

 きっと誰にも見せたことがない表情だろうと思うと、尚更。

 けれど。

 けれど、私にはカミロがいたから。

 それを口に出してはいけないことだとは解っていました。







 ……夢見が最悪です。よりによってカミロに操立てしてた時の記憶だなんて錬成釜へあらゆる毒物と一緒にぶち込んでやりたい記憶ですのに。

 いえ、この憎しみを大事にせよという天啓かも知れません。そういうことにしておきましょう。いまはそれよりも。


「イシドロ、起きてくださいな」


 あのあと随分苦労して上掛けをかけてあげて、ついでに私も潜り込ませてもらったのですけれど、いつのまにやら私の腰の上には太くて重たい丸太、もといイシドロの腕が乗っかっておりました。端っこを選んで潜り込んだのに、いつのまに捕まえられていたのやら。

 ともかくこれは契約内容に入っておりません。


「抱き枕役は未契約ですよ、イシドロ?」


 長くて鬱陶しい前髪を分けてあげたら、とろりと眠気を残した金色の目がこちらを見上げておりました。長い睫毛も伴って普段は鋭い目元が、眠気であどけなく蕩けています。ぐっと甘やかしたくなるずるい顔ですが、契約は契約。


「さあ起きて。ここは寮じゃないんですよ」


 ぽんぽん、と私の腰を捉えているガウンごしの腕を叩いてあげたら、不満げなのっそりとした動きでイシドロが動き出しました。寝乱れたガウンからみえる上半身の逞しいことといったら、アカデミー内の美術ホールに飾られている石膏像のよう。

 あんまり見るのも失礼ですから、私もこのすきにシーツの海から脱出しましょう。髪を梳くぐらいはしておかないと。


「ロサ」

「はい?」

「洗顔のピッチャーはお前が使え」

「でもそれはイシドロの……」

「俺はシャワールームを使う」


 シャワールーム。なるほど侯爵家のお屋敷ともなるとそんな最先端の設備まで整ってるんですね。鞄を開ける私に背を向けて、イシドロはすたすたとシャワールームの方へ行ってしまいました。確か屋根の上にタンクがついていて、蛇口をひねると雨のような水が降り注ぐとか。でもいくら夏とはいえ朝から冷水を浴びて平気なのかしら。

 ……平気なんでしょうね。イシドロですもの。

 私はシャワールームの方から聞こえてくる水音に耳を傾けながら、繊細な彩色が施されたピッチャーから洗面器に水を注いで顔を洗い、髪をブラシで梳ります。癖だらけの髪をおさげにして、あとは昨日寝る前に脱ぎ捨てたワンピースを着ればおしまい。我ながら簡素な身支度ですが、こんなものです。

 それより今日は忙しいのです。私は鞄から取り出した封筒を昨晩お話ししたときのテーブルの上に並べました。


「これは?」

「今日お願いしたいことです。これを速達で出して、それと朝刊と夕刊を読ませてください。ゴシップ誌もあればなおいいわ」


 シャワールームからすっきりした顔で出てきたイシドロの髪を拭いてあげながら、私はのんびりと答えます。長椅子に背中を預けたイシドロの頭が傾いたかと思うと、大きく仰け反ってきました。面白そうな表情を隠しもせずに。


「――――報酬は?」

「……私の右手に好きに触れる権利、でどうです?」


 くつくつと、イシドロが喉で笑いました。


「悪くない」


 そんなイシドロに、私も笑いました。そう、物事には順序というものがありますから。


 ところでろくに従者もつけず、イシドロが離れでどうやって生活しているのかと思っていましたら、寝室の扉がコンコンとノックされました。でも声かけなんかはありません。

 イシドロが立ち上がって寝室の扉を開くと、そこには銀のボウルが被さったワゴンたちが。なるほど、こうやって食事は運ばせているんですね。

 イシドロがワゴンを引き入れている間に、私は寝室のカーテンを開いて回りました。

 メインのカーテン自体も見事だけれど、随分変えていないのか少し日焼けがみられます。一方でレースのカーテンの繊細なことといったら、さすが侯爵家。

 外の様子はほとんど見られませんがこの模様の繊細さだけで十分な華があります。


「ロサ、朝食はどれぐらいがいい」

「え?ああ、私は…………」


 これは……朝食という概念に挑戦しているかのようなメニューです。

 振り返った先では、窓際のテーブルにつけられたワゴンの上、銀のカバーを外されたそこには山盛りになった分厚いステーキ肉の重なり。ゆで卵のスタンドが三つあるのは目の錯覚ではないですよね。なみなみのポタージュと、添えられているのは焼きたてのパン。豆のペーストに酢漬けの野菜(ピクルス)たちとサラダ。

 うーんイシドロの体がどうやって作られたのか何となくお察しできるような。


「卵とパンを一つずつとサラダとペーストを少しいただきます……」

「肉は」

「……じゃあ、その小さいものの半分だけ」


 それだけでいいのかという顔をされましても。


「カトラリーのスペアはないでしょう?」


 もっともらしい理屈で納得していただきました。お肉?パンに挟んでいただきます。

 パンも卵もちょっとお行儀が悪いですがかぶり付きで。ああ、ジューシィな肉汁と蕩ける脂、新鮮な野菜のハーモニーがたまりません。黄身もとろりと濃厚で、朝採れの卵の新鮮さがわかります。

 思えばアカデミーでの食堂でも、私は大抵一人でした。いくら仲良くなったからといって四六時中一緒ではイシドロの外聞にも悪かったですし、雑草令嬢と席を並べたい奇特な人もいませんでしたから。カミロ?たまには一緒にいてくれましたね。本当、たまには。

 それがいまや、こうして穏やかな日差しのなか、朝食を分け合って食べているなんて。


「――――この後、執事を呼んでお前のことを説明することにする。食事や衣類、部屋の準備などがあるからな」


 あっとうまに食事が終わって、ティーコゼーを外されたポットから注がれた紅茶を楽しんでる間にイシドロが切り出しました。ティーカップはイシドロがいくつ割ってもいいようにスペアがある、というのが何とも言い難いですが幸いでしたね。


「ええ、かまいません。ただ、私のことは街で拾ったものとでもしてください」

「……ロサ・シルベストレ男爵令嬢は行方不明か」


 にこりと微笑んだ私に対し、イシドロも唇の片端を上げました。


「なんと呼ばせる?」

朗読手(リーダー)でよいでしょう。だって、あなたの専属ですもの」


 犬に犬、と名付けるようなものですが、名前なんてこの場では必要ありません。

 私がロサだと知っているのは、イシドロだけで充分なのです。


「その場合、離れ(ここ)からは出さないが?」

「十分です」


 カップを置いた私の右手を、イシドロが掬い取りました。


「あら、まだ手紙は出せていませんよ。イシドロ?」

「前払い分だ。いいだろう?」


 イシドロの太くて長い指が、私の小さな手指を恭しく絡めとって自身の左頬へと導きます。私はそこを指の背でゆっくりと撫ぜながら、思わず小さな笑みをこぼしていました。


「しようのない人」



 

 楽しい朝食が終わって、あれやこれやと打ち合わせをしていたらあっというまにお昼の時間。イシドロが呼び出し用の紐を引きました。どういう仕組みかは知りませんが、澄んだ鐘の音が窓の外から聞こえてきます。ワゴンを運んだりする使用人以上の従僕を呼び出すときには、この鐘を使うのだそうです。さて、私は物を知らなそうな顔で詩集を開きながら、イシドロの膝の上に座っています。それらしいほうがいい、という彼の提案です。本当にしようのない人です。そんなところも可愛らしいと思う私も相当どうしようもない人間ですが、今更です。

 そうこうしているうちに遠慮がちなノックの音が転がりました。


「失礼いたします坊ちゃま、アルフレドが参りました」

「入れ」

「失礼いたしま……!」


 坊ちゃま。当然と言えば当然なのですが新鮮な響きです。彼がバルラガン家執事のアルフレド。当然ながら初対面です。モノクルをつけた老齢の執事と彼の連れてきた従僕たちは、イシドロが膝にのせている私を見て目を見開き、顎が外れそうなほどわかりやすい驚きっぷりを披露してくれました。私はといえば、詩集をめくりながら初めて見る人間たちをちらりと一瞥して、それきり興味を無くしたように詩集へと視線を戻しました。

 イシドロはそんな私の頭をよくできましたというかのように撫でています。


「ぼ、坊ちゃま、そちらのレディは……」

「これか。朝の散歩中に見つけた。声が気に入ったので朗読手(リーダー)として召し抱えることにした」

「リ、朗読手(リーダー)でございますか」

「そうだ、お前たちもそう呼べ。それとこれの風呂と身支度用にメイドと仕立て屋を呼べ。部屋はこの部屋の隣を準備させろ。いいな」

「ぼ、坊ちゃまの寝室の、お隣に…………」

「文句でもあるのか」

「ッめ、滅相もございません!」


 ぎらりと髪の奥からイシドロの鋭い眼光が飛ばされます。他人事ながらアルフレドさんたちが少々お気の毒です。

 イシドロはその野生の獣並みの神経過敏さで、昂った神経を自分で落ち着かせることが上手くできなかったこと、それと生まれ持った超人的な身体能力――特に怪力――とでバルラガン家の中では持て余されてきました。小熊のぬいぐるみ、おもちゃの兵隊、金色のたてがみの木馬。……話し相手にと、連れてこられた子供。どれも彼の本意ではなく壊し、傷つけてしまったのだと語ってくれました。それから人も物も寄せ付けなくなったと。

 だからこそ、そんな彼が年頃の娘を傍に置く、というのは色々複雑な意味と問題が絡み合ってまいります。けれど私はそんなことを知らず、ただ道端で拾われた娘然として詩集をめくるのです。


「恐れながら坊ちゃま、旦那様へのご報告は……」

「必要あるか?これは俺のものだ。離れから出す気はない」


 つまり、私は家具と同じ扱いだということです。家具の一つが増えたところで一々家主に報告する必要はない、というのがイシドロの言い分。一貫した「これ」呼ばわりも実に不良貴族らしい傲岸さ。はまり役過ぎて思わず口元が緩みそうになるのを戒めます。


「質問はそれだけか?なら、そこのテーブルに置いてある封筒を全部今日中に出しておけ。速達でな。それと今朝の朝刊と、今日の夕刊も数紙持ってこい。昼食と夕食の時でいい……ああ、ゴシップ誌もあれば持ってこい。これの暇つぶしになる。食事はこれも一緒に摂るから、そのつもりで用意しろ」

「は、はい。畏まりました……」


 従僕の一人が持っていた銀のお盆へ、急いで手紙を回収していきます。私はといえば暇そうなあくびを一つして、イシドロの胸板にぽすんとこめかみを預けました。いかにも年頃の男女の距離感というものをわかっていない振る舞いです。

 イシドロはそんな私の頭を撫でてきます。ペットにするみたいに。


「わかったなら早くしろ。あまり俺を待たせるな」

「ははッし、失礼いたします……!」


 喉奥から響く、低い唸り声のような低音に追い立てられるようにアルフレドさんたちが退出していきます。

 扉の向こうの足音が遠ざかって聞こえなくなると、途端に私たちはくすくすと顔を見合わせて笑い合いました。もちろん、イシドロの膝からはすぐに下りましたとも。


「怖がらせすぎじゃなくて?」

「あの程度でちょうどいい。それで、あの手紙は何なんだ?」


 イシドロは相変わらず、私の右手を引いて、手指を弄んでいます。

 仕方がないので下りたばかりのその隣に腰を下ろしながら、私はその長い人差し指の指先を、私の人差し指で押しました。


「まずは身動きを取れないよう、脚をもぎます」

「ほう?」

「次は正しい判断が出来ないよう触角を」

「それで」

「次に嘘を吐けないよう、甘い汁を啜れないように口吻をもいで」

「最後は?」

「どこにも行けないよう翅をもぎます」


 そう、順番に、ゆっくりと。物事には順序があるのですから。


「怖い女だな、お前は」


 そう言って指を重ね合わせたイシドロの声は、とびきり楽しそうでした。




 イシドロの手配してくれたメイドたちに手伝われて、私は生まれて初めて香油と花びらをふんだんに使ったお湯に浸かりました。こんな贅沢が出来るなら家具扱いも悪くないと一瞬思ってしまったほどです。肌はぴかぴかに磨き上げられて、癖だらけの乾いた髪は香油でしっとりと落ち着かされて、分け目も変えてハーフアップスタイルに。

 お化粧まではしなくていいと思ったのですが、ロサ・シルベストレの特徴的なそばかす肌は隠したほうがいいとイシドロからも言われていたので、おとなしく白粉をはたかれました。紅まで差した顔をあらためて鏡で見ると。


「……別人みたいです」

「ええ、とってもお綺麗ですわ。ええと……」

朗読手(リーダー)です」

「は、はい。朗読手(リーダー)様」


 本来なら随伴婦(コンパニオン)といって同性につく役職名をそのまま名前にする異常さと、それを何とも思ってなさそうな足りてなさ。メイドたちから侮りを受けてもおかしくないところですが、そこは()()イシドロのお気に入りというところが効いているのか問題なさそうです。

 次はドレスの採寸。折しも夏は社交のシーズン。新調やら手直しやらで仕立て屋、それも侯爵家に出入りするような立場の人たちは引っ張りだこでしょうが、そこもバルラガンの名前のおかげかすぐに来てもらえました。


「お嬢様はとてもお綺麗な淡い色の髪に深い緑の瞳をしていらっしゃいますから、やはり爽やかな青草色の布地が映えるかと存じます」

「じゃあ、それで。それと、黄色……明るい黄色か、白に金色のビーズ刺繍をしたドレスはできますか?」

「!もちろんでございます。どちらもご用意可能です」

「じゃあそれも。緑のドレスにも金色の刺繍をしてください。イシドロ様の瞳の色だから」

「か、畏まりました!」


 採寸が終わってカタログを一緒に眺めていたイシドロが、よく言った、というかのように上機嫌に私の頭を撫でました。まあこれぐらいのサービスは許容範囲内でしょう。専属朗読手としてのドレスですし。

 とはいえドレスが仕立て上がるころには夏季休暇もほとんど終わってるでしょうけどね。

 ちょうど、計画も最終段階に入っている頃だろうから、何回袖を通す機会があることやら。


 さて、お昼をほとんどいただく間もなくスケジュールをこなしていたら、あっという間に夕方になってしまいました。でも、ここからが待ちに待った夕刊のお時間です。

 イシドロの寝室とは別の私室で、夏季休暇の課題を一緒にしていた時でした。コンコンとノックの音がして、立ち上がったイシドロが夕食を載せたワゴンを引き入れてきました。私としては先に夕刊を見たかったのですけれど、食事の後にしろとイシドロに言われてしまったので大人しくイシドロの五分の一ぐらいの量のステーキがメインの夕食をいただくことに。……五分の一とはいえスープもサラダもパンもありますから、相当な量には違いなかったんですけれど。


「ごちそうさまでした――――さあ、なんて書かれてるかしら?」

「夕刊がそんなに待ち遠しかったのか?」

「もちろん。だって、下級貴族街(メリルポーン通り)のタウンハウスで爆発事故が起こったんですよ?」

「……なるほどな」


 朝刊には "メリルポーン通りで爆発か!?" "高級タウンハウスで火災発生" 程度にしか書かれていなかったけれど、夕刊になるころにはある程度情報が集まって、さらには昨晩しておいた私の()()も効いているはず。鞄を引き回して下町を歩き回ったのはこのためですもの。


「 "シルベストレ男爵家の納屋で爆発炎上" "令嬢一人が生死不明の行方不明" "問われる元侍女の男爵夫人の管理能力" "メリルポーン通りの火災にちらつく男爵家の闇" ……まあまあですね」


 貴族の既婚女性(マトロン)にとって家庭内や邸宅の安全管理は基本中の基本。アデラが私を納屋に閉じ込めてくれたおかげで、その管理能力はないに等しいと証明させることができました。私が爆発させたのだと言ってしまえば、じゃあなぜ嫡出子が納屋なんかにいたのかという話になりますし、ね。

 大衆紙の夕刊を畳んで、ゴシップ誌のほうに手を伸ばせば、もっとスキャンダラスな見出しがあちこちに。


「あらあら、こっちは随分気が早いこと。 "ロサ・シルベストレ男爵令嬢、火災に巻き込まれ亡くなる" ですって。 "なぜ令嬢だけが?アデラ・シルベストレ男爵夫人の意味深な沈黙" ……いい調子ですね」

「いいのか?お前が死んだことになれば相続手続きが……」

「――――なれば、ね」

「……ああ、そのための手紙(あれ)か」

「さすがイシドロ。私のこと、よくわかってますね」


 こうなったアデラは記者や警察や野次馬に囲まれて夜会に出るどころじゃないだろうけれど、この流れを利用して必ず私を死んだものとするはず。いいえ、死んでくれていなきゃ困るとさえ思っているでしょうね。

 でも、そう上手くいくかしら?


「ねえイシドロ、お願いがあるんですけれど」

「言ってみろ」


 ゴシップ誌や夕刊をローテーブルに乗せて、私は空いた右手をすかさず取ってきたイシドロに微笑みかけます。イシドロの笑みもランプに照らされて、獰猛な獣が舌なめずりするような凄みがありました。背筋がぞくりと粟立つような、恐ろしさを秘めた笑み。けれど私はその感覚が好きなのです。とても。


「アデラとカミロに監視の目を」

「報酬は」

「私の左手、に、自由に触れる権利でどうでしょう」

「前払いか?」

「……仕方ありませんね」


 くすくすと二人分の笑みがこぼれます。両手を伸ばして、私はイシドロの長い黒髪を掻き上げるように手を滑らせました。そのままこつりと、額を合わせました。互いの吐息も触れ合う距離です。不意に、イシドロの顔が傾いたので、私はすこし顎を引きました。


「だめですよ、イシドロ」

「……」


 たしなめる声にも、イシドロがふ、と笑うのが解ります。


「物事には順番があるんですから……」

「ああ、……楽しみだな」


 その言葉の先はいまは聞かなくても解りますから、私も何も言いませんでした。

 さあ、次の手を打ちましょう。







「どういうことですの!?」


 早朝のシルベストレ男爵家の応接間には、その時刻には似つかわしくない金切り声が響いていた。声の主であるアデラは真っ黒なドレスに身を包んでいる一方で、彼女の対面している男爵家縁戚のベニート子爵は、一般的な夏の装いで帽子も脱がずにコツリとステッキを床に突いた。二人の間には一人の弁護士が、自身の帽子を手におろおろと左右へ視線をさ迷わせている。そして部屋の応接セットである一人掛けの椅子には、榛色の髪をもつ少年が無表情のまま座っていた。

 ベニート子爵は元侍女であるアデラと現男爵の結婚を最も強硬に反対していた、一族の中でも保守派の筆頭である。当然というべきか、アデラとの仲は現在に至っても険悪の一言だった。


「申しあげたとおりだ。貴女が喪服を着る必要はない――資格はない、と言い換えても構わんがね」

「あの火災で嫡出子たるロサが亡くなりましたのよ!?それを――――」

「安心したまえ、アデラ」


 男爵夫人、とは呼ばない。ベニート子爵は懐から取り出した一枚の便せんを広げて見せた。


「この通り、ロサは生きている。 "生命の危険を感じたため、信頼できる人物の下へ身を寄せている" とあるがね」

「な――――」

「摩訶不思議な話だとは思わんかね。あの燃えた納屋には新しい鍵をつけたばかりだったそうじゃないか。そんな納屋が炎上して、母屋が多少あぶられたとはいえ、納屋とはずいぶん離れた部屋のロサが行方不明。しかも生命の危機を感じてとは」

「そ、それは……あの子の被害妄想ですわ!か、勝手に出ていったと思えばそんな手紙を出すなんて非常識な……!」

「遺骨の一つも見つかってない状況で、嫡出子の死亡を既成事実化させようとしたというのも十分に非常識だと思われるがね」


 ベニート子爵の冷たい目が、先ほどから視線を右往左往していた弁護士に注がれる。途端に弁護士はびくりと身を竦ませて、忙しなく帽子を持ち直し始めた。


「君が一体何を根拠に、あの火災でロサが死んだと思っていたのか――――は、もうこの際どうでもいいことだ。ロサは生きている。生命の危機を感じながらね。我々親族一同としては、彼女が安心してこの家に戻るためにも、いくつかの曖昧になっていた事柄をこの際整理すべきだということで意見が一致した」

「は……」

「ルシオの血統についてだ」


 ここでベニート子爵の視線は一人掛けに座った少年、ことルシオに向けられたが、ルシオは大人たちの騒ぎのすべてに無関心だというように無表情のまま、窓の外を見ていた。

 邸の外には、いまもゴシップ誌の記者たちが詰めかけている。この応接間から見えるのは、庭だけだったが。


「!?なにを、あの子は旦那様との子だとわたくしたちの結婚時にはっきりと」

「はっきりとは、していなかったはずだ。ただ君たちの主張を我々が受け入れた、というだけでね」


 ロサからの手紙の便せんを懐に仕舞ったベニート子爵は青ざめた顔のアデラを一瞥すると、再度ステッキをカツリと鳴らした。


「とはいえ、いまの社交シーズンで我々も暇ではない。この件はあらためて時と場を設けることにしよう。それまでに必要な()()を調えておくことだな」


 そう言い捨てて帽子を深くかぶり直したベニート子爵は、さっさと踵を返すと上の階で寝たきりになっている現男爵に挨拶をすることもせず、男爵邸を後にした。

 応接間に残された弁護士は、こぶしを握り締めてわなわなと震えているアデラに言葉を選びながらもロサが生きていると判明した以上これ以上の手続きは難しい、とだけ伝えて逃げるようにそそくさと退出していった。

 そうして、アデラとルシオだけが応接間に残された。ルシオの前のテーブルには、今や意味を無くした書類たちが並べられている。


「子爵たちは帰られたのね。お母様」

「アデリナ……!」

「だから無理だと言ったじゃないの。死体も見つかってない人間の死亡届けだなんて」

「なにを悠長なことを言っているの!あの小娘が生きてる限り男爵家の嫡出子は――――」


 そこから先の言葉を、応接間に入ってきたアデリナはもう何度も聞かされていた。それこそ、うんざりするほどに。男爵家の嫡出子はロサ。でも、だからなんだというのだろう。

 アデリナは母と同じ艶やかな栗色の髪を指に巻きながら、事も無げに言い放った。


「落ち着いてよお母様。だって、カミロは私に夢中じゃない。子爵の目を盗んで会いに来るほどなのよ?」


 そう、シルベストレ男爵家を継ぐのはカミロなのだ。そう決まっているからこそ、アデリナはカミロを誘惑した。あんな色気のいの字もない義姉から、奪い取るのはたやすいことだった。嫡出子がなんだというのか。結局爵位を継げるのは男だけだ。その男を押さえてしまったのだから、ロサにできることなどない。

 だから、アデリナは実弟であるはずのルシオに向ける目も感情の薄いものだった。男爵家を手に入れるのは自分なのだ。ルシオなど、いなくてもいい。

 それをさすがに、アデラの前で口にすることはなかったが。


「その子爵が問題なんじゃないの……!いくらカミロがあなたとの結婚に乗り気でも――――ああルシオ、あなたは間違いなく旦那様の子なのになんて扱いなの」


 また始まった。アデラはよろめくようにルシオの方へ向かうと、その小さな榛色の頭を抱きしめる。そうされている弟は無表情のままだ。まるで母からの溺愛などどうでもいいというかのように。

 アデリナは知っていた。ルシオが自分たちより、アカデミーから帰ってくる義姉との再会を心待ちにしていたということを。アデリナは通わせてもらえなかったアカデミーでの実験の話や草花の話を、母の選ぶ絵本などよりよほど目を輝かせて聞いていたことを。

 裏切者。その小さな裏切者に傾倒する母も愚か者だ。


「待っていなさいルシオ、お母様が絶対にあなたを旦那様との子だと証明してあげるから……!」


 アデリナは二人に背を向けた。今夜のカミロと向かう夜会で着るドレスを選ぶためだ。

 二人がアデリナに関心を向けないように、もうアデリナも二人に関心を向けることはなかった。







「――――動いたぞ」

「まあ、早いこと」


 私はピペットから試薬を試験管に移し替えつつ、試験管とピペットをケースへと戻しました。手袋を外して、イシドロが差し出した封筒を受け取ると中の報告書を取り出します。


「カミロとアデリナは夜会三昧ですか。暢気なものですね。このままラブレターの一通でも手に入ればいいのだけれど」

「あるぞ」

「私を喜ばせるのが上手になってきてません?」

「どうだかな」


 笑みを浮かべたイシドロがあらためて差し出してきた厚みのある封筒を受け取ると、たしかに "カミロ・ベニートから親愛なるアデリナ・シルベストレ嬢へ" と署名があります。中身はお察しでしょうから検めるのはあとでいいでしょう。

 それより報告書の続きを――――


「ロサ?」


 自分でも、笑みが消えたのが解りました。ふつふつと胸の奥から湧き上がってくるこの感情は、随分と久しぶりのものです。まだ、こんな風に私の中に残っていたんですね。ファッキソでもガッデムでもまだ足りない、憤怒というものが。


「イシドロ、お願いがあります」

「なんだ?」

「アデラが質屋に売ったこのネックレス。早急に買い戻してください」


 ダイヤモンドと真珠のネックレス。それは亡きお母様の遺品の一つ。

 何事もなければ私が相続するはずの、(エステート)に結びついた財産目録にも記録されている一品です。

 とうとう触れてはならないところに手を出しましたね、アデラ。触角をもがれた蝶々さん。正しい判断ができなくなるとは思ってましたがこれほどとは。

 私の後ろに立ったイシドロの大きな両手が、報告書に皺を寄せていた私の両手を優しく包み込みました。


「もちろんお前の望み通りにする。だから、そう強く掴みすぎるな。お前の指が傷つく」

「そんなにやわな指ではありませんけれど……」


 報告書の続きでは、換金を終えたアデラが向かった先はメリダ教会の記録保管庫(ヴェストリー)。洗礼記録などの出生に関わる公文書が保管されている場所です。

 何を目的に向かったかなどは想像に難くありません。いつの時代もお金というものはいろんな場所を開くマスターキーですから。


「イシドロ、もう一つお願いが」

「言ってみろ」

「耳を貸してください」


 流れ落ちてきた黒髪が私の頬をくすぐります。私はそんな彼の耳元で、とある計画を耳打ちしました。

 少し遅れて、くつくつとイシドロの笑い声が聞こえてきました。あまりに近いので、少しくすぐったいです。


「いいだろう。それで、報酬は?」

「私の両脚……いいえ首から下へ、自由に触れる権利でいかがです?」

「ああ、いいだろう……あと少しだな」

「ええ、あと少し」


 私が差し出せるものも、この計画も終わりも、あと少し。

 イシドロが毎日香油と一緒に梳られて、すっかりさらさらになった私の髪に口づけるのが解りました。


「……楽しみだ」

 

 その声の艶やかな低さが、私の背筋をまたぞくりと震わせました。けれど、決して嫌な感覚ではありませんでした。髪はまだ契約のうちに入っていませんでしたが、今回ばかりは見逃してあげましょう。


「さあ、実験の続きをさせてくださいな」


 先ほどまでは夏季休暇の課題のための実験でしたけれど、今度は計画に合わせて、調合の配分を変えなくては。




「似合うな」

「そうかしら。欲目というものじゃありません?」

「否定はしない。が、真珠の白はお前の緑の瞳を際立たせる」


 その晩、イシドロが早速買い戻してくれたネックレスとシュミーズだけを身に着けて、私はイシドロのベッドの上に座っていました。私の膝の上に頭を載せたイシドロは上機嫌そのものです。


「それで、今夜はどの詩集にしましょうか。坊ちゃま」

「眠るのが惜しい」

「またそんなことを仰って」


 私はイシドロの長い前髪をそっと指先で払い除けました。目元の隈は完全にではないけれど、ずいぶん薄くなっています。いい傾向です。

 正直なところ、この長い髪で隠してしまうのが惜しいほど、イシドロの容姿は優れていると思います。万人受けする王子様、とまでは言いませんが、しなやかな猛獣のような、秘めた獰猛さが感じられる鋭い目元を縁どる長い睫毛に、通った鼻梁、意志の強そうなくっきりした眉に、厚みのある赤い唇まで。

 いつかこの素敵さを彼自身にも、そして周囲にも理解してほしいと思うのは、私のもつ欲目というものでしょうか。

 まあ、後者については遠からずやって来る予定ですが。

 私が首をかしげると、大粒小粒の真珠を連ねたネックレスがちゃり、と小さな音をたてます。


「本当にありがとうございます。イシドロ」

「……突然どうした」

「ここまでこれたのは、全部あなたのおかげですもの」

「……お前は独りでもやり遂げていただろう。俺がしたのは、それを少し早めることだけだ」

「それでも、こんなに円滑に進めたのはあなたの厚意のおかげです」

「ロサ、俺は――――」


 ひたりと、私の指先がイシドロの唇に重なりました。

 私たちは "友人" なのです。だから、その先を聞くことはできません。

 いまは、まだ。


「あせらないで、イシドロ」

「……計画が終われば、契約も終わる。そうすればお前は俺のもとを離れていくんだろう」

「そんなことを心配していたの?……かわいい人」


 ちゃり、と音が先行して、私は露になっているイシドロの額に唇を落としました。

 祝福のキスは "友人" でも許されるでしょう?


()()手に入れたものをそうたやすく手放す人間じゃありませんよ」

「……ロサ・カニー(野いばら)ナに巻かれてたのは俺の方か?」


 弾力のある、形の良い唇を親指で辿ると、戯れのように白い歯が私の指先を甘く噛みました。それを好きにさせながら、私は笑みを深めます。


「どうかしら。いまはただ、心配しなくても大丈夫、とだけ言っておきましょう――――さあ、今夜の詩集を選んで」







 その夜会は社交シーズンも、そしてアカデミーの夏季休暇も終わりを迎えつつある頃に催された。一見するとごく普通の立食形式の食事と演奏とダンス、歓談を楽しむ夜会。

 しかしその主催者がシルベストレ男爵家先妻方の中でも最も権威のある先妻リリアナの従兄アランサバル伯爵であり、招待客もほぼシルベストレ男爵家の縁戚となれば、それが実質的な親族会議(ファミリー・コンシル)であるのは明白だった。

 そのためだろうか。招待客たちは和やかに歓談をしながらもどこか空気はひりつき、特に会場の一部には不自然な空白が出来ていた。ほかならぬシルベストレ男爵家現夫人のアデラと、その娘アデリナの周囲である。カミロも当然参加していたが、父ベニート子爵が目を光らせている以上アデリナの元へ近づく勇気はないようだった。

 そんな中、ほとんどの招待客が集まりいよいよ本格的に夜会が始まろうとしたとき、伯爵邸の前に一際豪奢な馬車がつけられた。

 従僕が緊張した面持ちで、馬車から降りてきた人物から招待状を受け取る。そして読み上げられた入場者の名前に、エントランスの小さなささめきがざわめきとなり、ホール内へ広がっていった。


「バルラガン侯爵令息、イシドロ氏。シルベストレ男爵令嬢、レディ・ロサ。御入場です」

「ごきげんよう、おじ様、おば様方も」

「ロサ!」


 アランサバル伯爵が歓談を急ぎ切り上げ、早足で二人の下へとやって来る。

 アデラとアデリナ、それにカミロもまたそれぞれに表情を強張らせていたが、彼らは一歩も動くことができなかった。


「紹介いたしますわおじ様。私を保護してくださってたアカデミーの学友、イシドロ・バルラガン侯爵令息です。イシドロ、こちらは私のお母さまの従兄にあたるアランサバル伯爵」

「君が……!亡きリリアナ、ロサの母に代わって礼を言わせてほしい。心から感謝している。ありがとう……!」

「いえ、親交厚い学友の窮状へ、手を差し伸べるのは当然のことです」


 アランサバル伯爵の感激に震える声に対して、イシドロと呼ばれた青年は淡々とした態度で応じた。艶やかな黒髪を大きく右側へ流し、後ろ髪を一つに束ねたイシドロは在学中の学生ということが信じられないほどに、服の上からでもその逞しさが見て取れた。

 また彼の腕に寄り添っているロサも、伯爵の記憶の中のお転婆さが前面に出たおさげ髪の少女ではなく、その艶やかな髪は豪奢に巻かれ、瞳と同じ青草色のドレスに白のグローブ、真珠のイヤリング、それに伯爵も見覚えのあるネックレスをしていた。


「ロサ、そのネックレスは……」

「覚えておいででしたのねおじ様。ええ、お母様のネックレスですわ。私もこのネックレスが似合う年頃になったと思われません?」

「ああ、とても、とてもよく似合っているよ」

「でも不思議なんですおじ様。このネックレス、シルベストレ男爵家のジュエリーボックスからではなく……()()()()()()()で見つかりましたのよ」

「何……!?」


 ロサの一言に、会場中の視線が一点に集中する。

 そこにはロサの首元を見て顔面を蒼白にしたアデラと、信じられないものを見る目で母を見つめるアデリナがいた。


「ねえお義母様。まさか嫡出子が行方不明になっている間、管財人はその財を一銅貨も動かしてはいけない、という法律をご存じなかったなんておっしゃいませんよね?」

「そ、れは、もちろんよ――でもロサ、あなたが自分で質屋に売り払ったわけではないと、どうしていえるのかしら?今の今までどうしていたか知れないけれど、あなたが勝手に持ち出して」

「いやですわ、お義母様」


 扇を広げながら、にこりと微笑んだロサの目が細められる。


「私が寮から帰省したその日に、私を納屋へ閉じ込めて鍵までかけさせたのは、お義母様ではありませんの」


 会場が波打つようにどよめいた。


『なんですって……!?』

『ロサを納屋に!?』

『納屋って、あの炎上したっていう……』


 アランサバル伯爵もまた、今回ロサから "アデラを追い出す準備が整ったため、イシドロ宛に招待状を送ってほしい" という旨以外は手紙には書かれていなかった新事実に、目を見開いている。


「納屋のひび割れた壁から何とか脱出したものの、生命の危機を覚えた私が咄嗟に頼れたのは、私の境遇に同情してくれる親愛なる学友だけでしたわ。だって、シルベストレ家のつながりではどなたにお義母様の息がかかっているかわかりませんでしたもの」


 ゆっくりと扇を揺らしながら、傍らのイシドロと目を合わせたロサが微笑み合う。

 そしてその瞳だけがゆるりと動き、震えるアデラを捉えた。


「さぁお義母様、教えてくださいな。このネックレスを売り払って手に入れたお金を何にお使いになったの?もちろん、帳簿にすべて記していらっしゃるのでしょう?」

「それ、は――――あ、ああ、思い出したわ。新しい納屋を設えるための資金が入用で、それで……」

「ああ、そうだったのですか」

「ロサ、そんなあっさりと……!」


 アランサバル伯爵の非難を帯びた声へ、ロサは静かに扇を傾けた。まるで落ち着くように、と言い聞かせるかのような堂々たる態度に伯爵も思わず口を閉じる。


「ネックレス一つの行方については、後日改めて帳簿を拝見すれば済む話ですわ。それよりも今夜は、我が家のもっと大事なことについてお話になると伺っていたのですけれど?」

「あ、ああそうだ。ルシオの準正の正当性について――――」


 ロサの一言で、我に返ったようなベニート子爵が声を上げる。

 準正とは、婚前に母が設けた子供が、子供の父親である貴族との結婚後、その家の嫡出子として認められることを指す。ただしこれはあくまで、父親も母親も独身の状態でその子が生まれた場合に限り、不倫によって生まれた子は両親が結婚しようと庶子のままだった。

 ルシオが生まれたのは五年前。そして先妻リリアナが没したのは十三年前である。つまり現男爵もアデラも独身の状態でルシオは生まれた。だからこそアデラは、ルシオの準正を主張できたのである。


「まだそんなことを仰っているのね、ベニート子爵……!」


 しかしここでアデラの顔色が血色を取り戻した。その笑みは引きつっていたが、振り上げた扇に応じて壁際から一人の老執事が進み出てきた。シルベストレ男爵家の執事、セバスティアンである。彼は懐から一通の折り畳まれた紙を、扇の代わりにアデラの手に乗せた。


「さぁよくご覧になって皆さま。あなた方が散々に仰ったルシオの洗礼記録の写しでしてよ!父親の欄に誰の名前が記されているか、よくよくご覧になることね!」

「なんだと……ッ?」

「どういうことだロサ、あそこは確か……」


 先ほどまでの震えが嘘のように、つかつかと歩み寄ってきたアデラがベニート子爵やアランサバル伯爵へと確かに司祭の署名、捺印が施された洗礼記録の写しを突き付ける。そこの "父親" の欄にははっきりと、現シルベストレ男爵の名前が記されていた。

 最も動揺したのはベニート子爵で、彼は写しとロサを交互に見遣る。一方ロサはというと、その写しが出てきたときから笑みを消し、たった今、ぱちりと扇を閉じた。


「ええ、おかしいですわね。私、お父様と五年前にお約束しましたの……親族会議でお二人の結婚に賛成する代わりに、入籍は出産後にする……つまり、お義母様はあくまで独身でルシオを生んだこととし、 "父親" の欄を空欄にしておく、と」

「あらそうだったの?残念ね。あなたとの約束より、ルシオへの愛情の方が勝っていたということだわ!」


 歪んだ笑みを深めたアデラが、勝利宣言の代わりのようにロサの眼前へと写しを突き付ける。まだインクの香りも残っているそれに、ロサは表情を動かすことなく、傍らへ扇を差し出した。大きな手が、その繊細な細工の扇を受け取る。


「そうでしょうか?」

「……なんですって?」


 ロサの下げていた小さなパーティバッグの金具が外される音が、場違いに大きく響く。


「お義母様、これがなにかお分かりになって?」


 そう言って彼女が取り出したのは、ごく小さな試験管のような小瓶だった。中には小さな紙片と、薄くピンクに色づいた液体が入っている。紙片には何かの綴りが書かれていたが、輪郭が曖昧ではっきり読み取ることはできなかった。


「な、なんなの、それは……」

「洗礼記録の原本から抽出した、インクの酸化反応を示した溶液ですわ」

「!?」

「皆さまもご存じの通り、今流通しているインクは書きたての時は青みがかった黒ですが、時間と共に純粋な黒または深い茶褐色へと変化いたします。これはインク内の成分が酸化するために起こる現象です」


 先ほどまでアデラの金切り声が響き渡っていたホールに、ロサの朗々たる声が響く。


「私はシルベストレ男爵家の洗礼記録が保管されているメリダ教会の記録保管庫に代理人を派遣し、洗礼記録の原本の "父親" 欄から吸い取り紙を使ってインクの成分を取り出しました。そして専用の試薬に浸して、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を確認したのです」

「ロ、ロサ、その結果は……」


 ベニート子爵に振り返ったロサは、にこりと微笑んだ。


「洗礼記録から吸い取ったインクからは真新しいもの特有の、激しい酸化反応が見られましたわ。五年前に取ったノートとは、まったくの別物――――」

「う、嘘よ!!」


 甲高い声と共に空を切る音が続いた。が、アデラの振り上げた手は小瓶を掲げたロサの手元に当たる寸前で、イシドロの手によって拘束されていた。

 咄嗟に振り払おうとしたアデラだったが、自身の手首を掴む手は力強く、まるで鉄製の手枷でも嵌められたかのようにびくともしなかった。


「放しなさい!私を誰だとッ」

「イシドロ、放して差し上げて」


 かと思うと、ロサの一言であっさりと解放された手首をかばいながら、アデラは恐れをなしたように二人から一歩遠ざかる。


「ぎ、偽証だわ!そんなッそんな小瓶いくらでも用意できるじゃないの!」

「でしたらお義母様、今度はお義母様と司祭様も同席の上で、原本に直接試薬を垂らしてみましょう。大丈夫です。酸化が終わっている五年前のインクであれば、透明な液体が垂れるだけですから、すぐ拭きとればいいのですわ」

「ッ……!……!!……ぁ、ああ……!」

「!奥様!」


 穏やかに微笑むロサから数歩後退り、そこで力尽きたかのようにとうとうアデラはその場に座り込んでしまった。その手から抜け落ちた洗礼記録の写しが、床を滑り、アランサバル伯爵のつま先へこつりと当たった。

 彼は冷厳とした目で座り込むアデラを見つめながら従僕たちに命じる。


「……写しを回収し、男爵夫人を拘束しろ」

『はっ』

「!お母様!待ってください、なにも拘束なんて……!」

「証拠隠滅の恐れがある。帳簿の確認などが終わるまでは、我が家の一室に軟禁させてもらう」

「そんな……!」


 思わず声を上げたアデリナは助けを求めるようにカミロの方を見遣ったが、カミロは反射的に彼女の視線から目をそらしていた。

 そして父の陰から抜け出すとロサの元へと駆け寄ろうとし――――イシドロの鋭利な一瞥で、その場に立ちすくんだ。それでもなんとか声を絞り出すと、本当に今更ながらの一言をロサへ向けた。


「ろ、ロサ!無事でよかった!」

「あらカミロ、あなた心配してくださってたの?」

「な、なにを当然のことを……僕たちは婚約者じゃないか。それなのに君は――」


 まるで "そこにいたのか" と言わんばかりのロサの冷めた一瞥を浴びながらも、カミロは言葉を振り絞って、非難するようにロサの傍らに立つイシドロを見遣った。


「ああ。その婚約ですけれど、破棄させていただきますわ」

「へ?」

「何……!?」

「フィッツランド男爵の夜会、オペラ、チャベス子爵の演奏会、ほかにも色々と……私を心配してくださってる傍らで、随分アデリナと親しくなられていたようですから。親切な方々が、私に教えてくださったのよ」

「き、君はそんな、そんな奴らの言葉を信じて」


 見る見るうちに青ざめていくカミロに構わず、小瓶をバッグへしまったロサが次に取り出したのは、一通の封筒だった。


「言葉は信じ切れませんけれど、物証は信じられますわね」


  "カミロ・ベニートから親愛なるアデリナ・シルベストレ嬢へ" と署名が入った封筒を扇のようにひらりと閃かせたロサに、カミロは今度こそ絶句し、目を見開いていたベニート子爵はその顔を真っ赤に染め上げた。


「カミロッ!貴様、何という……!!」

「ち、父上ッこれは、これは違うんです!」


 婚約破棄は婚約解消とは訳が違う。前者は法的に訴え慰謝料も請求されるケースがままあるのに対して、後者は互いに贈り合ったものを相手に返却し円満に終了するというものだ。

 当然、破棄の場合は理由が必要になって来るが、男性側の不貞は十分にその理由になり得た。まして、ロサとカミロの婚約は親族会議で決定し履行されていたものである。婚約者であったという時間を無駄にされたロサ側の損失は明らかだった。


「安心なさって?シルベストレ男爵家にはアデリナという()()()()()()跡取り娘がおりますもの。あなたが結婚した相手が、ちゃんと男爵位をもってきてくれますわ。あなたの成績を、私が運んできていたように、ね」

「っ!!ろ、ロサッ君は」

「貴様、まさか――カミロ!!」


 ますます激昂するベニート子爵がとうとうステッキを振り上げたのを見て、慌てて周りの男性陣が止めにかかる。ベニート子爵は何よりも貴族の格というものを重視する人間だ。だからこそアデラを嫌い、その血が入っているルシオを攻撃した。結局、シルベストレ男爵家を心配していたというよりも、自分の縁戚に平民の血が混じることを厭っていたにすぎない。

 そんな人間に対して、ロサもまた配慮をする気は起きなかった。

 手紙をバッグに仕舞ったロサは、あらためて目の前の騒ぎを呆然と見ているアデリナへと視線を向けた。傍らから差し出された扇を受け取りながら。


「おめでとうアデリナ。憧れの男爵夫人の座はあなたのものよ。ただし、シルベストレ家の金銭、家財、その他財産の一切は私が相続させていただくことになりますから、明日にでも管財人を派遣して『安全な場所』へ運び出しをさせていただきますけど」

「な、なんですって!?」


 そこでようやく、アデリナが我に返ったように声を上げる。父親似の青い瞳を大きく見開いて、肩を震わせる彼女の周りには今や誰もいなかった。男爵家の執事であるセバスティアンすら、ただ棒立ちになったまま事の成り行きを見ているだけだ。


「何も不思議ではないでしょう?爵位は男子に、財産は嫡出子に、法に則った正当な相続ですわ。ああ……あなたの母親の横領金については、もちろん賠償していただきますし、横領金の使い道についても追及させていただきますけれど」

「な、な、こ――――この魔女ッ!!」

「まあ、心外だわ」


 ぱん、と空気を張る音がした。びくりと肩を竦めたアデリナに、広げた扇で目元以外を隠したロサが、静かに小首を傾げて見せた。


ロサ(いばら)を握り締めて血が出ないとでも思っていたの?」


 絶句したアデリナから、もう見る価値もないとばかりに視線を外したロサは、傍にいる苦渋の顔をしたアランサバル伯爵へと顔を向けた。


「おじ様、私喋り過ぎて喉が渇きましたわ。別室ですこしお休みされませんこと?」

「ああ……今宵の夜会はここまでとしよう」


 こうして、大混乱と騒動を引き起こした夜会はお開きになったのだった。







「そうして、皆さま欲しいものを手に入れてめでたしめでたし、というわけですわ――――お父様」

「……そうか」


 まあ、それ以外の言葉なんて出ないでしょうね。

 私が座っている椅子の後ろには、まるで騎士のようにイシドロが立っている。そして私の目の前には、現シルベストレ男爵、ブラウリオ・シルベストレが枕に埋まるようにしてベッドの天蓋を仰ぎ見ており、こちらへは一瞥もくれやしません。

 もっとも、今まさに管財人たちを邸に入れて財産の一切合切を持ち出そうとしている娘にかける言葉なんて、大したものも浮かばないでしょうけれど。


「ああそれと……お父様のご体調、これから回復に向かうと思われましてよ」

「……なに?」

「献身的なあなたの愛妻の部屋から、とある薬品が見つかりましたの。少量ではただの薬ですけれど、常用すると身体を蝕む類のものですわ」

「ッ――――まさか……」

「本人は黙秘を貫いておりますけれど、まあ、そのうち答えも出るでしょう。ついでに新しい医者をお探しすることをおすすめしますわ」


 立ち上がる私を、初めて愕然とした表情で見上げるお父様。優れた容姿は見る影もなく、二人の妻には置いて行かれ、残るのは何の権利もない庶子の娘と名ばかりの爵位、やって来るのは間抜けな婿。

 ああ、なんて――――胸のすく光景でしょう。


「ねえお父様、こういう時、人は "ざまぁみろ" と言うのでしょうね」


 だから私は、お母様によく似ていると言われた顔にとびっきりの笑顔を浮かべて見せてさしあげたのです。


「お前……だから、五年前に……」

「あら、今更お気づきになったの?」


 私は五年前、アデラとの結婚で協力を求めたお父様に約束をさせました。一つは、アデラを独身として出産させること。そしてもう一つが、「遺言状に爵位を除く一切の財産をロサへ相続させる」と明文化すること。それは私が男爵夫人として納まっていたなら、なんの問題もないはずの文言でした。

 ええ、その時から、いいえもっと前から始まっていました。

 お母様を裏切った愚か者たちに対する、私の復讐は。


「精々惨めたらしく長生きしてくださいまし。間違っても、お母様と同じ場所に行けるなんて勘違いを起こさないほど、長く」

「ロサ……!」

 

 私はドレスの裾を持ち上げて、緩やかに一礼を。

 そして呼ぶ声に振り返ることもなく、父と呼んだ男の寝室を後にしたのです。




 階下に下りると、小さな鞄を抱きしめた榛色の小さな頭が座っているのが見えました。


「荷物はそれだけなの?ルシオ」

「はい、ねえさま」

「そう、じゃあ」


 そう遠くない部屋からは、アデリナとカミロの口論の声が聞こえてきます。カミロは勘当同然でベニート子爵家を追い出されて、もう男爵家(ここ)以外に行き場所がないそうです。あとはアデリナと結婚するしか道がないというのに、あんな調子で大丈夫なのかしら。

 まあ、もう関係のない話ですけれど。


「いきましょう、ルシオ、イシドロ」

「はい、ねえさま」

「ああ」


 私の差し出した手を迷いもなく握る小さな手。私だけをまっすぐ見つめる青い瞳。これからこの手と目はたくさんのことを勉強して、アカデミーの特待生枠に入って、そうして一生私に感謝しながら生きていくのです。

 両親のことも姉のことも、家のことなんて思い出さないほど、私で染め上げて。

 それが私の、最後の復讐。そして――――

 

「さあ、これから侯爵様にご挨拶にいくのよ。いいこで座ってられるわね?」

「はい、ねえさま」


 馬車に乗り込んだ私の対面にはイシドロ、隣にはルシオ。

 側戸が閉じられ、ガタゴトと馬車が動き出します。私は窓の外に夢中になっている微笑ましいルシオの背中を見て、対面のイシドロへと視線を戻しました。


「――――これからも、見届けてくれますね?」

「……ああ」


 私の最後の願いは、この復讐劇を見届けてもらうこと。

 その報酬は――――私の首から上へ、自由に触れられる権利。

 伸ばされた手に、私はようやく頬を預けます。イシドロの指先が、私の髪をそっと除けていきます。

 そして、私たちは、互いに長く待ちわびた口づけを交わしたのでした。





ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

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【追記】誤字脱字報告ありがとうございます!大変助かります……!

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