0よりも、もう一つーー完璧を演じた公爵令嬢に、無骨な騎士が灯した光
私、エリス・ラピス・ベルシュタインは、生まれつき他人の頭上に浮かぶ「数字」が見えていた。
街を行き交う群衆は『0』。
屋敷で淡々と仕事をこなす使用人たちも『0』。
けれど、父と母は違った。
ピアノの練習を終えた私が居間に顔を出すと、父の頭上には『45』という数字が輝いていた。満足げに頷く父。
母もまた『48』という数字を浮かべながら、私の頭を優しく撫でてくれた。
社交界デビューの舞踏会で、一度もステップを踏み外さずに踊りきった夜。
父の数字は『80』まで跳ね上がり、母は『85』を示していた。
私は確信した。
(この数字は、私への愛情なんだ)
愛されることが、怖かった。
いや、正確には――愛を失うことが、怖かった。
だから、数字を増やすことだけを、生きる糧にした。
だけどーー
*十歳の冬*
王家主催の夜会で、わずかにステップを乱してしまった。
その場では誰も気づかなかった。父も母も、いつも通り優しく微笑んでいた。
翌朝。
朝食の席で、父の頭上の数字が『80』から『70』へと、音もなく滑り落ちるのを見た。
叱責の言葉はない。
父は本のページをめくり、母は紅茶を注ぐ。
いつもと同じ朝。
けれど、父の瞳から「期待」という熱が、氷が溶けるように引いていくのを感じた。
(ああ、不完全な私への愛情が、落ちたのだわ)
膝が震え、目の前のティーカップが、さざ波を立てている。
父はそれに気づいていないのか、ページをめくる乾いた音だけが、静かな食卓に響いた。
喉の奥が焼けるように渇いた。
指先が冷たい。
その日から、私はより完璧な仮面を被るようになった。
笑顔の角度。
言葉の選び方。
立ち居振る舞いのすべて。
父の数字は再び上昇し、やがて『90』に達した。
けれど、私の胸の奥には、鉛のように重い何かが沈んでいた。
*十六歳の春*
私の前に、二人の男が現れた。
一人は剣士の名門の嫡男、ジーク・フォン・ヘイスティングス。
彼は高慢な貴族社会にあって、庭園の泥に膝をつき、野に咲く小さな花を摘んでは「エリス」と名を呼んで笑いかけるような、不器用で真っ直ぐな男だった。
だが、彼の頭上に浮かぶのは――『0』。
(……この人は、私に興味がないのね)
どれほど優しくされても、どれほど手を差し伸べられても、数字が動かない以上、それは社交辞令に過ぎないのだと思った。
ある日、庭園で。
私が完璧な笑顔を浮かべていると、ジークが不意に言った。
「エリス、その笑い方、疲れないか?」
頬が強張った。
「……失礼ですわ。私はーー」
「いや、責めてるんじゃない」
彼は困ったように首を傾げた。
「ただ、お前が本当に笑う顔、まだ見たことないなって思ってさ」
心臓が、変な音を立てた。
この人は、私を見ている。
私が見る数字の『0』とは裏腹に、この人は私という人間を見ている。
そんな気がした。
けれど、すぐに首を振った。
数字が全て。数字こそが真実。
そう信じなければ、私は壊れてしまう。
それでも、皮肉なことに、ジークと過ごす時間だけが私の心を安らげた。
なぜなら、『0』であれば、これ以上数字が下がる恐怖に怯えなくて済むから。
失望されることさえ、彼が相手なら怖くなかった。
私は次第に、ジークに心を許していった。
*
そしてもう一人。
幼馴染の商人の息子、ヴィンセント・バルドー。
初対面で『10』だった彼の数字は、私が公爵令嬢として完璧に振る舞うほどに跳ね上がっていった。
社交界での立ち振る舞いを見せるたび、『30』、『50』、『70』と数字は輝きを増し、やがて『95』という眩い数値を刻むようになった。
「エリス、君は我が家の至宝になる」
ヴィンセントは私の手を取り、甘く囁いた。
「君となら、さらなる高みへ行ける。バルドー商会は、君という宝石を得て、王国一の名門へと昇る」
高まる数字。
それこそが正解だと、頭では理解していた。
けれど、胸の奥が軋んだ。
*ある夜*
私は意を決して両親の前に立った。
「お父様、お母様」
震える声を、必死に抑えた。
「私は……ジーク様との縁談を、考えたいのです」
その瞬間。
両親の頭上の数字が、激しく点滅した。
まるで機械が故障したかのように、『90』と『88』の数字が明滅し、歪み、今にも崩れ落ちそうになった。
背筋に冷たいものが走った。
「エリス」
母が、静かに言った。
「本当に、そう思っているの?」
「は、はい……」
「そう」
母は数秒、私を見つめた。その視線が、胸を貫く。
「私としては構わないけれど、ヴィンセント様の方が良いと思うわ。彼はあなたを、とても大切にしてくださるもの」
父が、重々しく口を開いた。
「一週間、考える時間をやろう。その間に、本当の気持ちを見極めなさい」
*
翌日から、私はジークと何度も会った。
彼の頭上の数字は、依然として『0』のまま。
数字を疑うくらいに彼は常に紳士的で、優しかった。
扉を開けるときは必ず私を先に通し、雨が降れば自分の外套を差し出し、疲れていないかと何度も気遣ってくれた。
普通の人なら、きっと惚れてしまうだろう。
けれど、私の視界には常に『0』という数字が浮かんでいた。
三日目。
五日目。
六日目。
数字は、決して動かなかった。
そして、一週間が過ぎた。
*
「……母上」
私は震える声で言った。
「バルドー家との縁談を、進めてください」
その瞬間、両親の頭上の数字が『93』、『91』と跳ね上がった。
ああ、これが正解だったのだ。
母は満足げに微笑み、父は安堵の息を吐いた。
胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。
ジークと過ごす時間に感じた、柔らかな温もり。
それを、私は自らの手で握りつぶした。
「愛されている私」を守るために。
*
婚約披露パーティーの夜。
ヴィンセントの頭上を見上げると、そこには『100』という数字が輝いていた。
完璧な数字。
これが、愛の完成形。
私は安堵した。
これで良かったのだ、と。
豪華な衣装に身を包み、貴族たちの祝福を受け、ヴィンセントと踊る。
けれど、パーティーが終わり、一人で屋敷に戻ってベッドに潜り込むと、眠れなかった。
彼は私を愛してくれている。
数字がそれを証明している。
なのに、どうしてだろう。
胸の奥が、冷たく重い。
ヴィンセントと話すとき、いつも少しだけ、言葉が噛み合わない気がした。
彼が求めるのは「完璧な公爵令嬢」で、私が見せるのは「完璧な仮面」。
このまま、上手くやっていけるのだろうか。
不安が、じわじわと胸を締め付けた。
でも、私は目を閉じた。
*結婚式当日・快晴*
式場には、ヴィンセント家が財力を誇示するために用意した、巨大な魔道具の装飾が、聖堂を煌びやかに彩っている。
ヴィンセントの頭上には、昨日と変わらず『100』の数字。
神父が、厳かに問いかけた。
「汝、この者を夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、これを愛し、敬い、慈しみ、命ある限り真実を尽くすことを誓いますか?」
私が口を開きかけた、その瞬間ーー
轟音。
聖堂を飾る魔道具が、突然、紅蓮の炎を噴き上げた。
魔力が暴走し、人々は悲鳴をあげる。
その中には逃げ惑う人も。
そして、崩れ落ちる装飾。
「式を止めるな!」
ヴィンセントの叫びが響いた。
「この契約は――いや、彼女は我が商会の重要な資産だぞ!」
けれど、迫りくる炎を前に、彼が抱えたのは私の手ではなかった。
重要な契約書が詰まった鞄。
彼は振り返ることなく、己の身と財産を守るために走り去った。
「待って、ヴィンセント様……!」
その時、天井から崩れ落ちた柱が、私の足を押し潰した。
「足が……っ」
動けない。
視界の端で、両親もまた避難していく姿が見えた。
娘を救うことより、自分たちの命を守ることを優先して。
そして、見た。
ヴィンセントの頭上の数字が、『100』から『80』、『50』、『20』と、恐ろしい速さで崩れ落ちていくのを。
やがて、『0』へ。
(……ああ)
私は、ようやく理解した。
(逃げ出せない私には、もう価値がないから)
私を彼は愛さない?
けれど、なぜ?
昨日まで『100』だったのに。
あんなに愛してくれていたはずなのに。
煙が肺を焼き、熱が肌を焦がす。
瞳を閉じかけたその時――
炎の壁を裂いて、銀色の影が飛び込んできた。
煤に汚れ、礼装を焼き焦がしながら、剣で瓦礫を切り払う男。
ジーク。
「エリス! しっかりしろ!」
彼は招待すらされていなかった。
それでも、街で異変を察知し、警備の制止を振り切り、愛馬を駆ってここへ来たのだ。
焦げ付くような熱気の中、重い柱が力任せに持ち上げられる。
「なぜ……あなたは……」
「黙ってろ! 今は助かることだけ考えろ!」
ジークは私を抱き上げ、炎の中を駆け抜けた。
背後を、一度も振り返らずに。
そこで、私の意識は途切れた。
*
目を覚ますと、静かな寝室だった。
見覚えのない天井。
窓の外から、小鳥の声が聞こえる。
傍らで、ジークが私の手を握っていた。
傷だらけの手、包帯を巻いた腕。
彼は、祈るように私を見つめていた。
「……なぜ」
掠れた声が、喉から漏れた。
「なぜ、数字が『0』のあなたが、命を懸けてまで私を助けてくれるの?」
「ん……?」
ジークは首を傾げた。
「ゼロって何のことだ? 俺の名前はジークだぞ、エリス」
彼は大きく無骨な手で、私の細い手を包み込んだ。
「何か怖い夢でも見たのか。……俺に、話してくれないか」
「なんで」
涙が溢れた。
「なんで、あなたなんかに……。私のことなんか、どうでもいいでしょう」
「どうでもいいわけないだろう」
ジークは静かに言った。
「俺は、君をただの公爵令嬢だとは思っていない」
彼の声は、優しかった。
「少し泣き虫で、誰より努力家の女の子だと思っている。俺にとって、君は愛しのエリスなんだ」
その言葉が、凍りついた世界を溶かした。
私は、すべてを話した。
生まれつき見えていた数字のこと。
それを愛情だと信じてきたこと。
数字を増やすために、自分を偽り続けてきたこと。
ジークは最後まで、黙って聞いていた。
そして、ぽつりと言った。
「エリス。その数字、間違ってるよ」
「え……?」
私は、ようやく気づいた。
数字が高かった人々の共通点。
父と母は、私を「家を繁栄させる道具」として見ていた。
ヴィンセントは、私を「商会のブランドを高める資産」として見ていた。
私の価値が上がるほど、彼らの「利用したい欲」が数字となって現れていたのだ。
街の人々や使用人たちの『0』は、私を道具として見ていない証。
平穏な無関心、あるいは純粋な敬意。
そして、ジークの『0』は――
彼が私を、一度も「物」として扱わなかった証。
最も無垢な、愛の形。
「……ごめんなさい」
声が震えた。
「私、あなたをずっと傷つけて……」
「いいんだ」
ジークは私を抱きしめた。
「これからは、俺と一緒に生きてくれないか。君という人間を、そのまま愛させてほしい」
私は、彼の胸の中で泣いた。
ジークは、私を強く抱き寄せた。
ふと、見上げるとーー
そこにあったのは『0』ではなく、小さな『1』だった。
だけど、その数字に恐怖はない。
ジークが愛していることはもう知っている。
「エリス、泣くな!笑った方がエリスらしいぞ」
私は、初めて心から笑った。
数字に縛られない、本当の笑顔で。
ー完ー
*この話が気に入っていただけた方へ*
実は、同じく「数字」をテーマにした物語を、もうひとつ書いています。
もし今回のお話が心に残ったなら、そちらも覗いてもらえたら嬉しいです。
「世界の終わりは、私の終わり――公爵令嬢は愛する人のために嘘をつく」
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