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0よりも、もう一つーー完璧を演じた公爵令嬢に、無骨な騎士が灯した光

作者: 天音 楓
掲載日:2026/01/29

 私、エリス・ラピス・ベルシュタインは、生まれつき他人の頭上に浮かぶ「数字」が見えていた。


 街を行き交う群衆は『0』。

 屋敷で淡々と仕事をこなす使用人たちも『0』。


 けれど、父と母は違った。


 ピアノの練習を終えた私が居間に顔を出すと、父の頭上には『45』という数字が輝いていた。満足げに頷く父。

 母もまた『48』という数字を浮かべながら、私の頭を優しく撫でてくれた。


 社交界デビューの舞踏会で、一度もステップを踏み外さずに踊りきった夜。

 父の数字は『80』まで跳ね上がり、母は『85』を示していた。


 私は確信した。


(この数字は、私への愛情なんだ)


 愛されることが、怖かった。


 いや、正確には――愛を失うことが、怖かった。


 だから、数字を増やすことだけを、生きる糧にした。


 だけどーー


*十歳の冬*


 王家主催の夜会で、わずかにステップを乱してしまった。


 その場では誰も気づかなかった。父も母も、いつも通り優しく微笑んでいた。


 翌朝。


 朝食の席で、父の頭上の数字が『80』から『70』へと、音もなく滑り落ちるのを見た。


 叱責の言葉はない。


 父は本のページをめくり、母は紅茶を注ぐ。


 いつもと同じ朝。


 けれど、父の瞳から「期待」という熱が、氷が溶けるように引いていくのを感じた。


(ああ、不完全な私への愛情が、落ちたのだわ)


 膝が震え、目の前のティーカップが、さざ波を立てている。


 父はそれに気づいていないのか、ページをめくる乾いた音だけが、静かな食卓に響いた。


 喉の奥が焼けるように渇いた。

 指先が冷たい。


 その日から、私はより完璧な仮面を被るようになった。


 笑顔の角度。

 言葉の選び方。

 立ち居振る舞いのすべて。


 父の数字は再び上昇し、やがて『90』に達した。


 けれど、私の胸の奥には、鉛のように重い何かが沈んでいた。


*十六歳の春*


 私の前に、二人の男が現れた。


 一人は剣士の名門の嫡男、ジーク・フォン・ヘイスティングス。


 彼は高慢な貴族社会にあって、庭園の泥に膝をつき、野に咲く小さな花を摘んでは「エリス」と名を呼んで笑いかけるような、不器用で真っ直ぐな男だった。


 だが、彼の頭上に浮かぶのは――『0』。


(……この人は、私に興味がないのね)


 どれほど優しくされても、どれほど手を差し伸べられても、数字が動かない以上、それは社交辞令に過ぎないのだと思った。


 ある日、庭園で。


 私が完璧な笑顔を浮かべていると、ジークが不意に言った。


「エリス、その笑い方、疲れないか?」


 頬が強張った。


「……失礼ですわ。私はーー」


「いや、責めてるんじゃない」


 彼は困ったように首を傾げた。


「ただ、お前が本当に笑う顔、まだ見たことないなって思ってさ」


 心臓が、変な音を立てた。

 この人は、私を見ている。


 私が見る数字の『0』とは裏腹に、この人は私という人間を見ている。


 そんな気がした。


 けれど、すぐに首を振った。


 数字が全て。数字こそが真実。

 そう信じなければ、私は壊れてしまう。


 それでも、皮肉なことに、ジークと過ごす時間だけが私の心を安らげた。


 なぜなら、『0』であれば、これ以上数字が下がる恐怖に怯えなくて済むから。


 失望されることさえ、彼が相手なら怖くなかった。


 私は次第に、ジークに心を許していった。



 そしてもう一人。


 幼馴染の商人の息子、ヴィンセント・バルドー。


 初対面で『10』だった彼の数字は、私が公爵令嬢として完璧に振る舞うほどに跳ね上がっていった。


 社交界での立ち振る舞いを見せるたび、『30』、『50』、『70』と数字は輝きを増し、やがて『95』という眩い数値を刻むようになった。


「エリス、君は我が家の至宝になる」


 ヴィンセントは私の手を取り、甘く囁いた。


「君となら、さらなる高みへ行ける。バルドー商会は、君という宝石を得て、王国一の名門へと昇る」


 高まる数字。

 それこそが正解だと、頭では理解していた。


 けれど、胸の奥が軋んだ。


*ある夜*


 私は意を決して両親の前に立った。


「お父様、お母様」


 震える声を、必死に抑えた。


「私は……ジーク様との縁談を、考えたいのです」


 その瞬間。


 両親の頭上の数字が、激しく点滅した。


 まるで機械が故障したかのように、『90』と『88』の数字が明滅し、歪み、今にも崩れ落ちそうになった。


 背筋に冷たいものが走った。


「エリス」


 母が、静かに言った。


「本当に、そう思っているの?」


「は、はい……」


「そう」


 母は数秒、私を見つめた。その視線が、胸を貫く。


「私としては構わないけれど、ヴィンセント様の方が良いと思うわ。彼はあなたを、とても大切にしてくださるもの」


 父が、重々しく口を開いた。


「一週間、考える時間をやろう。その間に、本当の気持ちを見極めなさい」



 翌日から、私はジークと何度も会った。


 彼の頭上の数字は、依然として『0』のまま。


 数字を疑うくらいに彼は常に紳士的で、優しかった。


 扉を開けるときは必ず私を先に通し、雨が降れば自分の外套を差し出し、疲れていないかと何度も気遣ってくれた。


 普通の人なら、きっと惚れてしまうだろう。


 けれど、私の視界には常に『0』という数字が浮かんでいた。


 三日目。


 五日目。


 六日目。


 数字は、決して動かなかった。


 そして、一週間が過ぎた。



「……母上」


 私は震える声で言った。


「バルドー家との縁談を、進めてください」


 その瞬間、両親の頭上の数字が『93』、『91』と跳ね上がった。


 ああ、これが正解だったのだ。


 母は満足げに微笑み、父は安堵の息を吐いた。


 胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。


 ジークと過ごす時間に感じた、柔らかな温もり。


 それを、私は自らの手で握りつぶした。


「愛されている私」を守るために。



 婚約披露パーティーの夜。


 ヴィンセントの頭上を見上げると、そこには『100』という数字が輝いていた。


 完璧な数字。


 これが、愛の完成形。


 私は安堵した。

 これで良かったのだ、と。


 豪華な衣装に身を包み、貴族たちの祝福を受け、ヴィンセントと踊る。


 けれど、パーティーが終わり、一人で屋敷に戻ってベッドに潜り込むと、眠れなかった。


 彼は私を愛してくれている。


 数字がそれを証明している。


 なのに、どうしてだろう。


 胸の奥が、冷たく重い。


 ヴィンセントと話すとき、いつも少しだけ、言葉が噛み合わない気がした。


 彼が求めるのは「完璧な公爵令嬢」で、私が見せるのは「完璧な仮面」。


 このまま、上手くやっていけるのだろうか。


 不安が、じわじわと胸を締め付けた。


 でも、私は目を閉じた。


*結婚式当日・快晴*


 式場には、ヴィンセント家が財力を誇示するために用意した、巨大な魔道具の装飾が、聖堂を煌びやかに彩っている。


 ヴィンセントの頭上には、昨日と変わらず『100』の数字。


 神父が、厳かに問いかけた。


「汝、この者を夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、これを愛し、敬い、慈しみ、命ある限り真実を尽くすことを誓いますか?」


 私が口を開きかけた、その瞬間ーー


 轟音。


 聖堂を飾る魔道具が、突然、紅蓮の炎を噴き上げた。


 魔力が暴走し、人々は悲鳴をあげる。

 

 その中には逃げ惑う人も。


 そして、崩れ落ちる装飾。


「式を止めるな!」


 ヴィンセントの叫びが響いた。


「この契約は――いや、彼女は我が商会の重要な資産だぞ!」


 けれど、迫りくる炎を前に、彼が抱えたのは私の手ではなかった。


 重要な契約書が詰まった鞄。


 彼は振り返ることなく、己の身と財産を守るために走り去った。


「待って、ヴィンセント様……!」


 その時、天井から崩れ落ちた柱が、私の足を押し潰した。


「足が……っ」


 動けない。


 視界の端で、両親もまた避難していく姿が見えた。


 娘を救うことより、自分たちの命を守ることを優先して。


 そして、見た。


 ヴィンセントの頭上の数字が、『100』から『80』、『50』、『20』と、恐ろしい速さで崩れ落ちていくのを。


 やがて、『0』へ。


(……ああ)


 私は、ようやく理解した。


(逃げ出せない私には、もう価値がないから)


 私を彼は愛さない?


 けれど、なぜ?


 昨日まで『100』だったのに。


 あんなに愛してくれていたはずなのに。


 煙が肺を焼き、熱が肌を焦がす。


 瞳を閉じかけたその時――


 炎の壁を裂いて、銀色の影が飛び込んできた。


 煤に汚れ、礼装を焼き焦がしながら、剣で瓦礫を切り払う男。


 ジーク。


「エリス! しっかりしろ!」


 彼は招待すらされていなかった。


 それでも、街で異変を察知し、警備の制止を振り切り、愛馬を駆ってここへ来たのだ。


 焦げ付くような熱気の中、重い柱が力任せに持ち上げられる。


「なぜ……あなたは……」


「黙ってろ! 今は助かることだけ考えろ!」


 ジークは私を抱き上げ、炎の中を駆け抜けた。


 背後を、一度も振り返らずに。


 そこで、私の意識は途切れた。



 目を覚ますと、静かな寝室だった。


 見覚えのない天井。


 窓の外から、小鳥の声が聞こえる。


 傍らで、ジークが私の手を握っていた。

 傷だらけの手、包帯を巻いた腕。


 彼は、祈るように私を見つめていた。


「……なぜ」


 掠れた声が、喉から漏れた。


「なぜ、数字が『0』のあなたが、命を懸けてまで私を助けてくれるの?」


「ん……?」


 ジークは首を傾げた。


「ゼロって何のことだ? 俺の名前はジークだぞ、エリス」


 彼は大きく無骨な手で、私の細い手を包み込んだ。


「何か怖い夢でも見たのか。……俺に、話してくれないか」


「なんで」


 涙が溢れた。


「なんで、あなたなんかに……。私のことなんか、どうでもいいでしょう」


「どうでもいいわけないだろう」


 ジークは静かに言った。


「俺は、君をただの公爵令嬢だとは思っていない」


 彼の声は、優しかった。


「少し泣き虫で、誰より努力家の女の子だと思っている。俺にとって、君は愛しのエリスなんだ」


 その言葉が、凍りついた世界を溶かした。


 私は、すべてを話した。


 生まれつき見えていた数字のこと。

 それを愛情だと信じてきたこと。

 数字を増やすために、自分を偽り続けてきたこと。


 ジークは最後まで、黙って聞いていた。


 そして、ぽつりと言った。


「エリス。その数字、間違ってるよ」


「え……?」


 私は、ようやく気づいた。


 数字が高かった人々の共通点。


 父と母は、私を「家を繁栄させる道具」として見ていた。

 ヴィンセントは、私を「商会のブランドを高める資産」として見ていた。


 私の価値が上がるほど、彼らの「利用したい欲」が数字となって現れていたのだ。


 街の人々や使用人たちの『0』は、私を道具として見ていない証。


 平穏な無関心、あるいは純粋な敬意。


 そして、ジークの『0』は――


 彼が私を、一度も「物」として扱わなかった証。


 最も無垢な、愛の形。


「……ごめんなさい」


 声が震えた。


「私、あなたをずっと傷つけて……」


「いいんだ」


 ジークは私を抱きしめた。


「これからは、俺と一緒に生きてくれないか。君という人間を、そのまま愛させてほしい」


 私は、彼の胸の中で泣いた。


 ジークは、私を強く抱き寄せた。


 ふと、見上げるとーー


 そこにあったのは『0』ではなく、小さな『1』だった。


 だけど、その数字に恐怖はない。


 ジークが愛していることはもう知っている。


「エリス、泣くな!笑った方がエリスらしいぞ」


 私は、初めて心から笑った。


 数字に縛られない、本当の笑顔で。





ー完ー





*この話が気に入っていただけた方へ*


実は、同じく「数字」をテーマにした物語を、もうひとつ書いています。

もし今回のお話が心に残ったなら、そちらも覗いてもらえたら嬉しいです。


「世界の終わりは、私の終わり――公爵令嬢は愛する人のために嘘をつく」


≫https://ncode.syosetu.com/n1631ls/

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