第3話:「怪物の涙と、聖女の誤算」
部屋に静寂が戻った。
だが、それは先ほどまでの気まずい沈黙とは違う。
もっと冷たく、張り詰めた、深淵のような静けさだった。
私はその場にしゃがみ込んだ。
指先が震えている。
怒りではない。ただ、壊れたものが悲しくて。
私は折れた「月の涙」の花弁を拾い上げた。
ピンク色の花びらが、私の体温で少しだけ温まる。
花弁の縁が茶色く変色し始めているのを見て、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「……あぁ……ごめんね……。痛かったね……」
私の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
その涙が花弁に落ちると、折れた茎が光り輝き、魔法のように再生していく。
花は蘇った。
だが、私の心に刻まれた「不快な記憶」は消えない。
INFPは、嫌な記憶を反芻し、いつまでも引きずる生き物なのだ。
背後で、セレスティアが震える声で呟いた。
「……貴方、今、何をしたの……?」
彼女は見ていた。
私が虫を払うような手つきで、人間の命を「処理」した瞬間を。
慈悲も、躊躇も、殺意さえもなく。
ただ事務的に、冷徹に、存在ごと消し去ったその所業を。
セレスティアは顔面蒼白で、唇をわななかせていた。
持っていたティーカップの中身が波打ち、ソーサーにこぼれている。
「……貴方……貴方は、自分が何をしたか分かっているの?」
「え? ……あ、はい。お掃除しました」
「お掃除……ッ!?」
セレスティアがヒッと息を呑んだ。
彼女は後ずさり、長椅子の背もたれにぶつかった。
「あれだけの熟練の暗殺者を……魔法の詠唱もなく、指先一つで……『虚無』へ送ったのよ!? しかも、殺すよりも残酷な、永遠の孤独の中へ!」
「えーっと……殺すのは嫌だったので……」
「そうね! 貴方は殺さなかった! 血も流さなかった! でも、それは慈悲じゃない!」
セレスティアが叫んだ。その瞳には、明確な「畏怖」があった。
「貴方は、自分にとって不快なものを、世界から『無かったこと』にしただけよ! 命の重さなんて関係なく、ただ自分の庭の雑草を抜くように!」
彼女の言葉に、私は首を傾げた。
何が悪いんだろう。
私の部屋だよ? 私の時間だよ?
それを邪魔する権利なんて、誰にもないはずなのに。
「……だって、お花を踏んだんですよ?」
私は鉢植えを指差して言った。純粋な疑問として。
「命あるお花を踏んで、謝りもしないなんて……酷いじゃないですか。だから、いなくなってもらったんです。それだけです」
私のその言葉を聞いた瞬間、セレスティアの表情が凍りついた。
彼女は理解したのだ。
私の価値基準が、人間的な倫理観とは決定的にズレていることを。
私にとっては、「名もなき人間の命」よりも「手塩にかけた一輪の花」の方が、遥かに重いのだということを。
悪意などない。
ただ、私の内なる世界の純潔を守るためなら、私は外の世界を全て消し去ることさえ厭わない。
これこそが、私の抱える無自覚な傲慢さだ。
「……怪物……」
セレスティアが掠れた声で呟いた。
「貴方は……勇者が倒すべき『悪』なんかじゃないわ。もっと異質で……危険な『災害』よ」
彼女は杖を握りしめた。だが、構えることはできない。
先ほどの魔法を見せつけられた今、戦っても勝てないと本能が悟っているからだ。
「……決めたわ」
セレスティアは、震える足を叱咤して立ち上がった。
ESTJとしての責任感が、恐怖を上回ったのだ。
彼女は決意に満ちた瞳で私を見下ろした。
「私は貴方の側を離れない。絶対に」
「えっ? いや、帰ってくださいよ」
「だめよ! 貴方のような危険極まりない存在を、野放しになんてできない! 誰かが首輪をつけて、コントロールしないと……世界が、貴方の『お掃除』で空っぽにされてしまう!」
彼女は私の目の前に座り直し、私の両手をガシッと掴んだ。
冷たい手だった。
「魔王ヴォルクス。覚悟しなさい。貴方が人間の心……『他者への共感』を学ぶまで、私は貴方の影のように張り付いて、説教し続けるから!」
「ひぃぃ……」
私は泣きそうになった。
違う。そうじゃない。
私はただ、一人になりたいだけなのに。
その時、ドアの外からドタドタという足音が聞こえてきた。
遅れてやってきたリリスと警備兵たちだ。
「魔王様! ご無事ですか!」
「不届き者はどこへ……あれ?」
リリスたちが部屋に入ってくる。
そこには、花に囲まれて手を握り合う、私と聖女の姿があった。
暗殺者の痕跡は微塵もない。
「……おやおや」
リリスが口元を吊り上げた。
「侵入者がいたと思いましたが……どうやら、聖女様との『愛の語らい』を邪魔してしまったようですね? 敵の気配が消えたのは、魔王様の愛の力で浄化されたからでしょうか?」
「違う! 誤解だ!」
「愛じゃないわ! 管理よ!」
私とセレスティアの声が重なる。
しかし、リリスたちは「ヒューヒュー」という顔で生温かい視線を送ってくるだけだった。




