第1章:聖女の監視と、静寂なる断罪
その空間には、音という音が死滅したかのような、重苦しい沈黙が横たわっていた。
魔王城の最上階にある私の私室。
普段であれば、ここは私にとって唯一の聖域であり、外界の喧騒から切り離された安息の地であるはずだった。
しかし今、この部屋の空気密度は通常の三倍にも感じられ、呼吸をするたびに肺が軋むような錯覚を覚える。
原因は、部屋全体を埋め尽くす極彩色の植物群――先ほど私がパニックのあまり暴発させてしまった魔法『フラワー・ガーデン』の残骸――と、その植物の海に浮かぶ長椅子に腰を下ろしている、一人の少女の存在だ。
聖女セレスティア。
人類の希望。神の愛し子。そして、私の天敵。
純白の法衣に身を包んだ彼女は、私の真正面、距離にしてわずか四十センチメートルの場所に座っていた。
近すぎる。
INFP(仲介者型)である私が推奨する対人距離は、親しい友人であっても半径一・五メートル。敵対関係にある人間に至っては、視界に入らない距離が望ましい。それが今、互いの膝が触れ合いそうな距離で対峙している。
私は膝の上で固く組み合わせた両手を、じっと見つめていた。
指の関節が白くなっている。手汗が滲み、皮膚の表面が不快に湿っているのを感じる。
視線を上げる勇気がない。
もし顔を上げれば、そこには私を「邪悪な魔王」として断罪しようとする、聖なる瞳があるはずだからだ。
コポォ……。
静寂を破ったのは、ティーカップから立ち上る湯気の音だった。
いや、湯気に音などない。だが、今の私には、その微細な水蒸気の粒子が空気に触れて拡散していく音さえも聞こえてくるような気がした。
ベルガモットの香り。
アールグレイ特有の柑橘系の芳香が、部屋に充満した花の甘ったるい匂いと混ざり合い、奇妙な不協和音を鼻腔の奥に届けてくる。
カチャリ。
硬質な音がした。
セレスティアが、ティーカップをソーサーに戻した音だ。
陶器と陶器が触れ合う、わずか〇・一秒の接触音。それが、静まり返った部屋では銃声のように響いた。
私の肩が、意思とは無関係にビクリと跳ねる。心臓がキュッ、と収縮し、血液の循環が一瞬だけ滞るのを感じた。
「……冷めてしまったわね」
セレスティアの声は、驚くほど透明で、そして容赦がなかった。
私は恐る恐る、睫毛の隙間から彼女を盗み見た。
彼女はカップの中の琥珀色の液体を見つめている。液面には、天井から垂れ下がる藤の花の影が映り込み、わずかな振動で揺れていた。
「……あ、あの……淹れ直しましょうか……?」
私が喉の奥から絞り出した声は、まるで錆びついた扉が開くような、情けない響きを含んでいた。
声帯が緊張で強張っている。舌が上顎に張り付いて、滑舌が悪い。
「いいえ、結構よ」
セレスティアは私を見ずに答えた。
彼女の視線は、部屋の隅々へと巡らされていく。
壁を這う蔦の生命力。
床を覆う苔の柔らかさ。
そして、私の背後にある本棚に並べられた、背表紙の擦り切れた大衆小説たち。
「貴方……本当に魔王なの?」
その問いかけには、純粋な困惑が含まれていた。
彼女の碧眼が、ようやく私を捉える。
その瞳に映っているのは、モコモコの部屋着(羊毛のガウン)に身を包み、髪をボサボサにして縮こまっている、ただの小市民的な青年の姿だ。
「……一応、そう呼ばれてますけど……」
「信じられない」
彼女は深いため息をついた。その呼気が、私の頬に微かに当たる。
「魔王といえば、血の池で水浴びをして、骨の玉座でふんぞり返り、生き血を啜っているものだと思っていたのに」
彼女は指先を伸ばし、私のガウンの袖口をつまんだ。
親指と人差指で、生地の質感を確かめるように擦る。
「こんなフワフワしたものを着て、お花に囲まれて、恋愛小説を読んで、冷めた紅茶を飲んで……。まるで深窓の令嬢じゃない。それも、少し神経質な」
悪意はなかった。
だが、その言葉は私の心の柔らかい部分を、紙やすりで撫でるように刺激した。
好きでこうしているわけではない。
ただ、この世界は刺激が強すぎるのだ。
石の床は冷たすぎるし、鎧の金属音は耳障りすぎるし、血の匂いは吐き気を催す。
だから私は、自分の周りを心地よいもの、柔らかいもの、美しいもので固めておかないと、精神が摩耗して消えてしまいそうになる。これは「弱さ」ではなく「生存戦略」なのだ。
私は口を尖らせ、視線を再び膝元へ落とした。
「……放っておいてください。私は、誰にも迷惑をかけてません……」
「迷惑ならかけてるわよ」
セレスティアの声が、一段低くなった。
「貴方の部下が、世界中で『絶望のティーパーティー』の準備と称して暴れ回っているわ。私の修道院の茶葉倉庫も襲撃されたの。シスターたちが泣きながら茶葉を差し出した時の顔、想像できる?」
「……うッ」
返す言葉がない。
想像できてしまった。私の妄想力は無駄に高い。
泣き叫ぶシスター。奪われる茶葉。そして「魔王様の命令だ!」と高笑いするオークたち。
その映像が脳内で鮮明に再生され、胃酸が逆流してくるような罪悪感に襲われる。
「……ごめんなさい……」
「謝って済むなら聖女はいらないわ」
彼女は冷たく切り捨てた。
そして、居住まいを正し、私を真っ直ぐに見据えた。
「だから、私はここでお茶を飲んでいるの。貴方を倒すのではなく……貴方がこれ以上、その歪んだ感受性で世界を混乱させないように『管理』するためにね」
管理。
最も私が苦手とする単語だ。自由を愛し、束縛を嫌うINFPにとって、それは死刑宣告にも等しい。
しかし、反論する気力もなかった。
私はただ、早くこの時間が過ぎ去ってくれないかと、現実逃避を始めるしかなかった。
その時だった。
部屋の空気が、不自然に揺らいだ。
私の鋭敏すぎる感覚(HSP気質)が、微細な「ノイズ」を拾ったのだ。
花の甘い香りに混じって、異質な臭いが漂ってきた。
それは、古い鉄が錆びたような臭いであり、同時に、焦げた油のような臭いでもある。
殺意の臭いだ。
(……誰かいる)
背筋に冷たいものが走る。
風の音ではない。もっと重く、粘着質な何かが、窓の外の闇からこちらを覗き込んでいる気配。
セレスティアも気づいたようだ。彼女の手が止まり、カップを持つ指に力が込められる。
だが、事態は私たちが反応するよりも早く動いた。
パリンッ……!!
鋭く、乾いた音が部屋に響き渡った。
私が大切に育てていた、窓辺の鉢植え――ピンク色の可憐な花を咲かせる「月の涙」の鉢が、何者かの足によって無残に踏み砕かれた音だった。
陶器の破片が飛散し、黒い土がカーペットにぶち撒けられる。
そして、くしゃり、という湿った音がした。
花が、靴底で捻り潰された音だ。
その瞬間。
私の中で、何かがプツンと切れる音が、明確に聞こえた。




