第2話:「トラウマの再現劇と、異物混入のアラート」
【教母視点】
「対話」による説得は不可能だと判断した。
ヴォルクスという個体は、自己の欠落を「個性」として完全に受容してしまっている。
「ダメな自分で何が悪い」と開き直る人間に、正論は通用しない。それは豆腐に釘を打つようなものだ。
ならば、アプローチを変えるしかない。
自己受容の基盤を崩すのだ。
彼が「ここだけは安全だ」と信じ込んでいるこの精神世界に、過去の「痛み」を強制的にインストールする。
「……見せてあげよう。お前が目を背けてきた現実を」
私は杖を高く掲げた。
先端の水晶が、ドス黒い光を放つ。
**『記憶回廊・強制再生』**。
ゴゴゴゴゴ……。
世界が軋む音がした。
ヴォルクスの作り上げた「お花畑」の空が、ひび割れていく。
青空が剥がれ落ち、その下から現れたのは、冷たく無機質な「教室」の風景だった。
そこは、幼い彼が魔王としての教育を受けていた場所。
窓のない灰色の部屋。
整然と並べられた机。
そして、黒板の前に立つ、かつての私(教育係)の幻影。
『ヴォルクス。また計算を間違えましたね』
『兄のゼノンを見習いなさい。彼は完璧ですよ』
『なぜお前は、そんなに要領が悪いのですか』
幻影の私が、冷淡な声で叱責を繰り返す。
それは暴力ではない。しかし、幼い子供の心を削り取るには十分すぎる「否定」の言葉だ。
『……ごめんなさい……ごめんなさい……』
幼いヴォルクス(エゴ)が、頭を抱えてうずくまる。
彼の周囲から、色とりどりの花が枯れ落ちていく。
レンガの家が、砂のように崩れ始めた。
「そうだ。思い出せ」
私は冷ややかに観察を続けた。
「お前は無能だ。誰の役にも立たない。期待に応えられない。……その罪悪感こそが、お前の本質なのだ」
精神世界の浸食率は四十%を超えた。
このまま彼の「快適な妄想」をすべて「辛い過去」で上書きすれば、彼の自我は崩壊し、再構築が可能になる。
簡単な作業だ。
そう思っていた。
――ガシャァァァン!!
突然、教室の壁が粉砕された。
何事かと思い、私は杖を構える。
崩れた壁の向こうから現れたのは、私の記憶にないデータだった。
「ぬん! 辛気臭い授業だな! 筋肉が萎縮するぞ!」
上半身裸の、筋肉の塊のような男。
勇者アルバンだ。
いや、本物ではない。これはヴォルクスの記憶の中に存在する「アルバンのイメージ」だ。
だが、その存在感は異常なほど濃い。
「な、なんだお前は……!?」
私が問うと、幻影のアルバンはビシッとポーズを決めた。サイドチェスト。
「俺は筋肉だ! ヴォルクスの記憶に刻まれた『圧倒的フィジカル』の概念だ!」
「概念……だと?」
「少年よ! 計算ができなくてもスクワットはできる! 叱られたらプロテインを飲んで寝ろ! 筋肉は裏切らない!」
アルバンが叫ぶと、教室の床から巨大なダンベルが生えてきた。
無機質な空間が、一瞬にしてジムへと変貌する。
叱責の声がかき消され、「マッスル! マッスル!」という掛け声が響き渡る。
「……バカな。外部データの干渉だと?」
私は動揺した。
精神世界とは、その個人の「核」となる記憶で構成される。
通常、他人の記憶はノイズとして処理され、ここまではっきりとした形を保つことはない。
それが、これほど強固に具現化しているということは……。
ヴォルクスにとって、この筋肉男は「自分を構成する重要な要素」として認識されているということか?
あり得ない。魔王と勇者だぞ?
だが、異変はそれだけではなかった。
「ちょっと! 埃っぽいじゃない!」
今度は天井が抜け落ち、純白の法衣を着た少女が降りてきた。
聖女セレスティアの幻影だ。
彼女は片手に箒、片手に紅茶ポットを持っている。
「ヴォルクス! 落ち込んでる暇があったら掃除をしなさい! 鬱々とした気分は、部屋の汚れとリンクしているのよ!」
彼女が箒を一振りすると、教室の淀んだ空気がキラキラと輝く粒子に浄化された。
そして、うずくまるヴォルクスの前にティーカップを置く。
「はい、アールグレイ。……砂糖は多めにしておいたわよ。特別だからね」
ツンデレだ。
完璧なツンデレの挙動だ。
ヴォルクスの脳内で、彼女は「厳しいけど甘やかしてくれるお姉さん」としてカテゴリ分けされているらしい。
『……おいしい……』
ヴォルクスが紅茶を飲み、ほぅ、と息をつく。
その瞬間、崩れかけていたレンガの家が、時間を巻き戻すように修復されていく。
枯れた花が再び咲き誇る。
「修復速度が……上がっている?」
私は戦慄した。
私の「トラウマ攻撃」を、彼が最近獲得した「新しい記憶(ハッピーな思い出)」が相殺しているのだ。
しかも、その質が異様に高い。
彼にとって、この数週間のドタバタ劇は、過去数百年の孤独を埋めるほどの「黄金体験」だったということか。
『ヴォルクス様……。大丈夫ですか?』
さらに、床下から巨大なドラゴンの頭部が生えてきた。イグニスだ。
彼はヴォルクスを背に乗せ、優しく揺らしている。
『辛い時は……お風呂に入りましょう……。肩まで浸かれば……嫌なことも忘れます……』
温泉が湧き出した。
教室が露天風呂になる。
筋肉男がポーズをとり、聖女が説教し、ドラゴンがお湯を沸かす。
カオスだ。
私の構築した「秩序あるトラウマ空間」が、彼らの持ち込んだ「生活感あふれるカオス」によって、見るも無残に浸食されていく。
「……おのれ……!」
私は杖を振り回し、黒い風を巻き起こした。
こんなふざけた世界は認めない。
魔王の精神は、孤独で、冷徹で、孤高でなければならないのだ。
「消えろ! 雑音ども! お前たちはただの記憶の残滓だ!」
私が叫ぶと、幻影たちが一斉に私を見た。
アルバンが、セレスティアが、イグニスが。
そして、背中に乗っているヴォルクスが。
『……残滓じゃないよ』
ヴォルクスが言った。
その声は、子供の声から、大人の声へと変わっていた。
『彼らは、僕の友達だ。……僕の「世界」の一部だ』
彼の背後から、虹色の光が溢れ出す。
それはINFPの真骨頂。
「自分の大切なものを守るためなら、世界の理すら書き換える」という、究極のワガママエネルギー。
パリ……パリーン!!
私の展開していた「教室の幻影」が、ガラス細工のように砕け散った。
視界がホワイトアウトする。
「……強制排除か……!?」
私は悟った。
この精神世界において、私はもはや「管理者」ではない。
彼らの絆という名の「異物」に追い出される、「招かれざる客」に成り下がったのだと。
意識が現実世界へと引き戻される。
私の敗北と共に。




