第7章:修正者の憂鬱と、堅牢なる精神世界
【教母視点】
世界とは、本来「台本」通りに運行されるべき巨大な時計仕掛けである。
朝が来れば太陽が昇り、夜が来れば星が巡る。
勇者は正義を為し、魔王は悪を演じ、最後には予定調和の結末を迎える。
それが、私が数千年にわたり守り続けてきた「秩序」であり、この世界の安寧を保証する唯一のシステムだ。
しかし、時折「バグ」が発生する。
歯車が噛み合わず、異音を奏で、全体の調和を乱す特異点。
目の前で震えているこの青年――魔王ヴォルクスこそが、その最大のバグだった。
「……おやすみ。……目覚めた時には、お前は『立派な魔王』になっているよ」
私は彼に「精神干渉」の術式を接続した。
私の指先から伸びた黒い触手が、彼の額に吸い込まれていく。
物理的な抵抗はない。彼はあまりにも脆く、無防備だ。
だが、問題はその「中身」にある。
私の周囲では、彼を助けようとする愚か者たちが檻の中で騒いでいた。
筋肉だけで思考する欠陥勇者、アルバン。
私の教えを捨て、感情に流された元・優等生の聖女、セレスティア。
そして、本来ならば恐怖の象徴であるべきなのに、愛玩動物に成り下がった古竜、イグニス。
彼らもまた、ヴォルクスというバグに感染し、機能不全を起こした哀れな犠牲者だ。
「静かにしていなさい。……これは『修理』なのだから」
私は彼らを無視し、意識をヴォルクスの内面へとダイブさせた。
◇
視界が反転する。
無機質な修道院の風景が消え、ヴォルクスの深層心理(精神世界)が展開される。
私は、そこが「荒涼とした闇」か、あるいは「幼稚な欲望の倉庫」であることを予想していた。
魔王としての本能を抑圧し続けてきたのだ。その反動で、内面はドロドロに腐敗しているはずだと。
しかし。
「……なんなのだ、ここは」
私が降り立った場所は、あろうことか「お花畑」だった。
見渡す限りの緑の草原。
色とりどりの花が咲き乱れ、心地よい微風が頬を撫でる。
空は突き抜けるような青空で、白い雲がゆっくりと流れている。
遠くには、こぢんまりとした、しかし温かみのあるレンガ造りの家が見える。煙突からは白い煙がたなびき、甘いお菓子の焼ける匂いが漂っている。
「……不快だ」
私は心底から吐き捨てた。
平和すぎる。穏やかすぎる。
魔王の精神世界がこれでいいはずがない。
ここには「闘争心」も「支配欲」も、そして「向上心」すら存在しない。あるのは、ただひたすらに現状を肯定し、安らぎを貪ろうとする「停滞」のエネルギーだけだ。
私はレンガの家に向かって歩いた。
草花が私の足元に絡みつく。まるで「ようこそ」と歓迎するかのように。
私は杖でそれらを薙ぎ払った。茎が折れ、花びらが散る。
だが、次の瞬間には、折れた場所から新しい芽が出て、また元の姿に戻る。
「……再生能力が高いわけではない。……『世界そのものの設定』が強固なのか」
私は分析した。
INFP(仲介者型)の精神構造。
彼らは現実世界では脆く、傷つきやすい。しかし、ひとたび自分の内なる世界に入れば、そこは彼らが創造主となる絶対領域だ。
ヴォルクスはこの世界を、誰にも邪魔されない聖域として、長い年月をかけて強固に作り上げてきたのだ。
家のドアを開ける。
鍵はかかっていない。ここには外敵が存在しない設定なのだろう。
中は図書館のようだった。
壁一面の本棚には、彼が愛読する恋愛小説や冒険譚が並んでいる。
暖炉の前には、ふかふかの安楽椅子。
テーブルの上には、湯気を立てる紅茶と、焼きたてのクッキー。
そして、その椅子の影に、小さな子供が体育座りをしていた。
幼い頃のヴォルクスの姿をした、彼の「自我」だ。
「……見つけたよ、失敗作」
私が声をかけると、幼いヴォルクスはビクリと肩を震わせ、膝に顔を埋めた。
『……帰ってよ……お婆ちゃん……』
「帰らないよ。お前を治しに来たんだ」
私は部屋の中央に進み出た。
この空間は、彼にとっての「快適」の結晶だ。ならば、これを破壊し、更地にすることで、彼の自我をリセットできるはずだ。
「まずは、この無駄な知識(本)からだ」
私は杖を振るった。
黒い炎が本棚を包み込む。
『公爵令嬢と……』『転生したら……』
彼が現実逃避のために摂取してきた無数の物語が、灰になって崩れ落ちる――はずだった。
ボッ。
炎は一瞬で消えた。
本棚は無傷だ。焦げ跡ひとつついていない。
「……何?」
私は眉をひそめた。
私の干渉力が通じない? いや、違う。
この本棚が、「燃えるはずがない」という強い意志で守られているのだ。
『……燃やさないで』
幼いヴォルクスが顔を上げた。
その瞳は潤んでいるが、私を射抜くような強い光を宿していた。
『それは、僕の大切な友達なんだ。……物語の中の人たちは、僕を否定しない。僕を笑わない。……だから、誰にも消させない』
ゴゴゴゴ……。
部屋が振動し始めた。
私の足元から、無数の蔦が伸びてくる。
攻撃的な茨ではない。しかし、私をこの部屋から「押し出そう」とする、強烈な拒絶の意志を持った植物たちだ。
「……ほう。抵抗するか」
私は蔦を障壁で防ぎながら、冷静に評価を下した。
予想以上に根が深い。
彼はただ弱気なだけではない。「自分の好きなもの」に対してだけは、異常なほどの執着と防御力を発揮する。
これこそが、兄のゼノンですら手を焼き、そして敗北した要因か。
「論理では崩せない壁。……感情による絶対防御」
厄介だ。
システムを書き換えるには、まずこのファイアウォールを突破しなければならない。
だが、力ずくで壊せば、彼の精神そのものが崩壊し、廃人になってしまうリスクがある。
私が欲しいのは「従順な魔王」であって、「壊れた人形」ではない。
「いいだろう。少しやり方を変えようか」
私は杖を下ろした。
蔦の動きが止まる。
「ヴォルクス。お前はなぜ、そこまでして『魔王』であることを拒む?」
『……怖いから』
「何が?」
『痛いのも、誰かを傷つけるのも……責任を負うのも』
彼は素直に答えた。
『僕は、ここで静かに本を読んでいたいだけなんだ。……それがいけないことなの?』
「いけないことさ」
私は断言した。
「お前は力を持って生まれた。Sランクの魔力、不老長寿の肉体。それは『役割』を果たすために与えられたリソースだ。それを使わずに腐らせるのは、宇宙への背信行為だよ」
私は一歩踏み出した。
「お前のその『優しさ』とやらは、ただの怠慢だ。平和を愛しているのではない。争いから逃げて、自分が傷つきたくないだけの保身だ」
私の言葉は、鋭い刃となって彼に突き刺さるはずだ。
図星を突かれた人間は、脆く崩れ去るものだから。
しかし。
幼いヴォルクスは、キョトンとした顔で私を見た。
『……うん。そうだよ?』
「……は?」
『僕は保身のために逃げてるよ。自分が一番可愛いもん。……それの何が悪いの?』
開き直った。
いや、違う。彼は最初から「自分はダメな奴だ」と認めているのだ。
自己肯定感が低いくせに、自己愛は強い。
「ダメな自分」を受け入れ、それを守るために全力を尽くす。
これは……私の想定していた「更生プログラム」のロジックが通用しない相手だ。
私は頭痛を覚えた。
数千年の管理者の歴史の中で、これほど扱いにくい素材は初めてだ。
ゼノンの方がよほど可愛げがあった。あの子は「正論」を言えば理解してくれたから。
「……長引きそうだな」
私は精神世界の空を見上げた。
そこには、どこまでも呑気で、腹が立つほど綺麗な青空が広がっていた。
この空を漆黒に塗りつぶすには、私の予想以上の労力が必要になりそうだ。




