第4話:「星空の下のプロテインと、勇者の筋肉哲学」
【勇者アルバン視点】
夜の帳が下りた荒野に、俺たちの荒い呼吸音が響いていた。
いや、荒くはない。これは「筋肉の喜びの歌」だ。
「ふん! ぬん! よし、今日のノルマ達成だ!」
俺は地面に大の字になり、夜空を見上げた。
時速六十キロでの八時間並走。距離にして四百八十キロ。
並の人間なら心肺停止しているだろうが、今の俺たちにとっては心地よいウォーミングアップに過ぎない。
俺の名前はアルバン。
かつては「光の勇者」と呼ばれ、聖剣を掲げて魔王討伐の旅をしていた男だ。
だが、あの運命の日――魔王城の地下牢でガイン将軍による「地獄のブートキャンプ」を受けて以来、俺は生まれ変わった。
悟ったのだ。
聖なる光や魔力など、所詮は借り物の力。
己の肉体こそが、裏切らない唯一の神であると。
「兄貴! プロテインの準備ができました!」
部下の戦士(元・剣聖)が、シェイカーを差し出してきた。
俺は起き上がり、それを一気に飲み干す。
五臓六腑に染み渡るタンパク質。細胞の一つ一つが歓喜の声を上げているのがわかる。
俺は視線を横に向けた。
そこには、俺たちが護衛(並走)してきた奇妙な物体が鎮座している。
『全天候型引きこもり移動ポッド・改』。
巨大なスライムのような半透明ドーム。
その内部では、魔王ヴォルクスと聖女セレスティアが、優雅に夕食を摂っているのが見える。
「……解せんな」
俺は呟いた。
あの魔王。
かつて世界を震え上がらせた恐怖の象徴。
だが、今の奴はどうだ。
フワフワのガウンを着て、スプーンでプリンを掬い、幸せそうな顔で頬張っている。
戦意が皆無だ。筋肉量も絶望的に足りていない。あんな細腕で、どうやって魔界を統べるというのか。
しかし、俺の本能は告げている。
奴は危険だ、と。
あの細い身体の奥底に、底知れない何かが眠っている。
以前、奴が放ったという魔法の噂を聞いた。「気に入らないものを世界から消去した」と。
それは物理破壊ではない。概念的な否定だ。
筋肉で対抗できない唯一の力。それが奴の「拒絶」だ。
『……あの、勇者様……』
不意に、脳内に声が響いた。
見上げると、ポッドの横で休んでいた巨大なドラゴン――イグニスが、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「なんだ、トカゲ。貴様もプロテインが欲しいのか?」
『いえ、結構です……。その、お疲れではないですか? ずっと走っていて……』
イグニスが気遣わしげに俺たちを見ている。
このドラゴンも変だ。
最強種族のくせに、腰が低い。そして、常に魔王の顔色を窺っている。
「疲れ? 笑わせるな。筋肉は使えば使うほど応えてくれる。疲労とは、筋肉が成長するための儀式だ」
『はあ……素晴らしいお考えですね……』
イグニスは感心したように頷いた。
『私は……ただ重いものを運ぶだけで精一杯で……。魔王様を快適にお運びするために、背中の揺れを抑える筋肉だけは鍛えましたが……』
「ほう? 背中の筋肉(広背筋)だと?」
俺は興味を惹かれた。
イグニスの背中を見る。
確かに、ポッドを牽引するためのハーネスがかかっている部分は、異常なほど発達している。
特定の目的のために特化された、機能美あふれる筋肉だ。
「悪くない。貴様、見所があるぞ。魔王のパシリにしておくには惜しい逸材だ」
『えへへ……褒められました……』
イグニスが嬉しそうに鼻息を吹いた。
その時だった。
ヒュンッ!
風を切る音がした。
俺は反射的に首を傾けた。
頬の横を、漆黒のナイフが通り過ぎ、地面に突き刺さる。
「……敵襲か」
俺は立ち上がった。
筋肉が瞬時に戦闘モードへと切り替わる。
闇の中から、無数の気配が滲み出てくる。
黒いローブ。顔のない仮面。
『黒の教団』の追手だ。数は三十……いや、五十か。
「魔王を渡せ。さもなくば死だ」
リーダー格の男が告げる。
俺は鼻で笑った。
「断る。奴は俺の『プロテイン奪還作戦』のスポンサーだ。指一本触れさせん」
「愚かな……。筋肉ごときで魔法に勝てると思うな」
男たちが杖を掲げる。
一斉に放たれる火球、氷柱、雷撃。
夜空を埋め尽くすほどの魔法弾幕が、俺たちに降り注ぐ。
ポッドの中で、魔王が悲鳴を上げているのが見えた。
セレスティアが立ち上がり、杖を構えようとしている。
だが、その必要はない。
「笑止!」
俺は大きく息を吸い込んだ。
大胸筋に力を込める。
腹筋を固める。
全身の筋肉を鋼鉄以上に硬化させる奥義。
**『筋肉要塞』**!
ドォォォォォォン!!
魔法の嵐が、俺の肉体に直撃した。
爆炎が舞い上がる。
しかし、煙が晴れた後、俺は無傷で立っていた。
肌が少し煤けただけだ。
「な、なんだと!? 魔法が効かない!?」
「魔法防御がかかっているのか!?」
「違うな」
俺は煤を払った。
「鍛え上げた筋肉は、魔力すら弾く! 密度だ! 圧倒的な筋肉密度が、魔法の浸透を拒絶したのだ!」
理論など知らん。事実、効いていない。
「さて、こちらの番だな」
俺は地面を蹴った。
一瞬で距離を詰め、魔術師の目の前に立つ。
「魔法使いの弱点は知っている。……詠唱中は無防備、そして近接戦闘に弱い!」
**『ダブル・ラリアット・サイクロン』**!
俺は両腕を広げ、独楽のように回転した。
豪腕が唸りを上げ、周囲の敵を薙ぎ払う。
魔法障壁? 紙切れ同然だ。
ゴブリンも、ゴーレムも、人間も、等しく宙を舞う。
「ひぃぃぃ! 化け物だァ!」
「退却! 退却だ!」
敵は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
俺は回転を止め、ポーズを決めた。フロント・ラット・スプレッド。
「ふん。準備運動にもならん」
ポッドの方を振り返る。
ガラス越しに、魔王ヴォルクスが口をあんぐりと開けてこちらを見ていた。
その顔には、恐怖と、そして少しだけの尊敬(?)が混じっているように見えた。
「見たか魔王! これが肉体の力だ!」
俺は親指を立てた。
奴はビクッとして、コクコクと頷き、そしてそっとカーテンを閉めた。
照れ屋な奴め。
俺は再び地面に寝転がった。
教団の本拠地は近い。
そこで待つ敵がどれほど強大だろうと、俺の筋肉が砕けることはない。
プロテインを取り戻すまで、俺たちの進撃は止まらないのだ。




